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  • 隠語(6)

    エンジンをかけようと、ハンドル横に設けられていたエンジン起動用のプッシュブタンを押す。だけど車の前方からキュルキュルという音がするだけでエンジンは掛からなかった。何度か押してみる。やはりエンジンは掛からない。 「くそっ」 田代はプッシュブタンから指を離した。 ルームライトをつけっぱなしで長時間放置したせいで、バッテリーが上がってしまったらしい。こうなってしまうとロードサービスを呼ぶしかなかった。費用は運転手の実費になってしまうので、また給料がその分引かれてしまう。 全てが、あのような女をタクシーに乗せたせいだ。全くついていない。 「くそっ」 今度は、あの女に向かって悪態をついた。 その時、タク…

  • 隠語(5)

    確かに、自分は早とちりをしてしまっていたのかもしれない。 佐々木の先ほどの言葉を思い出して、田代は急に不安になった。タクシーはキーを挿したままだ。誰かに乗り逃げされてしまったら、それこそ目もあてられない。それでタクシーを壊されでもしたら、費用を自分が支払うことを求められるかもしれない。 今、自分はどこにいるのだろう。 改めて周りに視線を巡らせる。だけど、そこには見知らぬ街がどこまでも広がるだけだった。無我夢中で走っている中で方向感覚は完全に失われていて、自分がいまどの辺りにいるのかも分からなかった。自分がどの方角から来たのか、それすらも全く分からなかった。 そうだ。 田代は右手に握ったままのス…

  • 隠語(4)

    田代は、夜の街を走った。 自分がどこに向かって走っているのかも分からなかった。ただ、タクシーから少しでも遠くに離れたかった。そしてあの女から少しでも遠くに離れたかった。あの女から逃げろ。田代の本能がそう命令していた。 バス通りから離れるように住宅街の中に入っていく。田代はひたすら走り続ける。 深夜0時を回ったK町はやけに静かだった。仕事帰りのサラリーマンの背中を見ることもなかった。人が絶えた世界のようだった。離れた間隔に街灯が設けられており、その街灯が街の中に薄明かりの世界と暗闇の世界を交互に作り出している。田代の耳には、夜の街を駆ける自分の足音と、そして口から漏れる荒い息遣いだけが聞こえてい…

  • 隠語(3)

    再びタクシーの中を、沈黙が満たす。 依然として、背後からシューシューというような耳障りで気味悪い呼吸音だけは小さく聞こえ続けていた。 何なんだ。 この女は一体何なんだよ。 ハンドルを握りながら田代は必死になって考えていた。 コートの手前についているあの赤黒い汚れは何なのか。本当に誰かの血なのか。もしそうだとしたら、なぜコートの手前に血がべっとりとついているのか。女の血でないのだとしたら、誰の血なのか。 何よりも田代の脳裏にこびりついて離れないのは、彼女が田代を見た時の、怖いくらいに感情のこもらない目だった。 普通の人間であれば、あのような目で人を見ることなんてないはず。少なくとも、田代はそのよ…

  • 隠語(2)

    女性はそれほど興味があるわけでもないのか、その隠語についてそれ以上訊いてくることはなかった。 田代は気を取り直して前方に集中する。 ちらちらと横目でメーターを確認する。大丈夫だ。法定速度はしっかりと守っている。 一か月前に、昼寝をしようと路肩にタクシーを駐車して、寝ていると、警察に窓をコンコンと叩かれたことがあった。何事かと思って窓を開けると、 「ここは、駐車禁止エリアだから」 その中年の男性警察官は、事務的な口調で田代に告げた。 結局、違反切符を切られてしまい、その時はタクシー会社から1週間の乗務停止ペナルティーを受けてしまった。その分の収入も減らされることになったし、また、その交通違反の罰…

  • 隠語(1)

    田代勇輝は、O街道をタクシーで走っていた。 時刻は午前0時を回っており、流石にO街道を走る車の量は減ってきている。道路の脇の歩道には、人通りは全く無くなっていた。 先ほど長距離の客をM駅で拾って30分くらいの距離にあるW町まで乗せて行き、そしてまたM駅に戻る途中だった。 田代はタクシー運転手になってまだ日が浅い。 もともとはメーカーで営業をやっていたのだが、3か月前にタクシー運転手に転じた。 メーカーに勤めていた時は仕事のノルマは厳しく、業務効率化の名のもとどんどん人は減らされていた。それと反比例するようにして一人当たりの仕事量は雪だるま式に増えていく。そのような日々の中で自分の前に敷かれたレ…

  • 閉じ込められた部屋(完)

    エピローグ 美和は、人通りの絶えた静かな住宅街を、真尋と二人並んで歩いていた。 空は夕陽で茜色に染まり、電信柱がその茜色の空を背景に佇んでいる。夕飯の準備をしているのだろう、近くの家からおいしそうな匂いがする。ある家のリビングからは、子供達が無邪気に笑う声が聞こえた。 世界は美しかった。 少なくとも、美和の目には美しいものとして映った。 真尋が目を覚ました日から三日後に、真尋は病院を退院した。 すでに体の方は問題なかったが、念の為、数日病院で様子を見ていた。二日経った日のの午後、森田医師から、 「明日は退院しても問題ないでしょう」 との言葉をもらった。 その間に美和は、真尋の住むマンションの不…

  • 閉じ込められた部屋(84)

    真尋は目を開けた。 見知らぬ白い天井が自分の上に広がっていた。 「ここは・・・」 ひどく掠れた声だった。 白い天井。 最近、同じような光景を見た気がする。 「真尋・・・」 すぐ横から声が聞こえた。 その白い天井の片隅に、誰かの顔がぼんやりと見えた。その顔になかなか目の焦点が合わなくて、ひどくぼやけている。 「真尋・・・」 真尋の目の焦点は、ゆっくりとその顔に合わされていく。 顔を少しだけ右に向ける。自分の顔のすぐ上には、母である美和の泣きそうな顔があった。 「・・・お母さん?」 声はまだ掠れたままで、自分でもよく聞き取れない。 その美和の後ろで、何かが色鮮やかに輝いているのが見えた。窓からの日…

  • 閉じ込められた部屋(83)

    自分の中で生まれた一つの決意を、真尋はそっと胸に抱いた。 水位は上がり続けていて、もう完全に真尋の足は床に付かなくなっている。何とか、立ち泳ぎをしながら顔を水面の上に出していた。だけど、その状態でどれだけ持ちこたえることができるのか分からなかった。そもそもとして、天井まで完全に水が満たしてしまえば、もうそこに逃げ場は全く無くなってしまう。そうなれば、完全に終わりだった。 水はもう真尋の背の高さを超えている。 それまでかかった時間は40分くらいだろうか。 そうなると、天井の高さにその水位が到達するまで、あと残された時間はもう30分もなかった。 真尋は立ち泳ぎを続けながら、何とか自分の気持ちを落ち…

  • 閉じ込められた部屋(82)

    真尋は、あの夜の自分自身を思い出していた。 そして、あの夜から今の自分につながる14年間という時間を思い出していた。 あの夜の6歳の真尋は、自分の存在を理不尽に踏みにじってくるものに対して必死になって抵抗した。必死になって抗った。 そしてあの夜から今までの14年間は、その6歳の真尋の存在を自分の中から消し去ることで、何とかこの世界を生き延びようとした別の真尋がいた。そうすることで、この世界に自分が生きられる場所を作ろうとした。 どちらも同じ真尋だった。 だけど、決定的な一点で違っていた。 6歳の真尋は、自分の運命に対して戦おうとした。 だけど今の真尋は、自分の運命からただひたすら逃げようとして…

  • 閉じ込められた部屋(81)

    とうとう完全に足が付かなくなった。 必死になって顔を水の上に出し、呼吸をしようとする真尋の口に、水が流れ込む。 真尋はげほげほと咳き込んだ。それでも立ち泳ぎのような形で何とか顔を水面の上に出して、息をする。そして 「苦しいよ・・・。ここから出してよ・・・」 と声を上げた。声はすぐに水の音にかき消されていく。 「お母さん・・・、怖いよ・・・。怖くてたまらないよ・・・」 真尋の眼に再び涙が溢れ出す。 涙が止まらなかった。6歳の少女のように、真尋は泣きじゃくっていた。 「お母さん・・・、助けて・・・」 真尋は必死に母に救いを求めた。もうそこにしか縋れるものはなかった。 そんな真尋の心に、また母の声が…

  • 閉じ込められた部屋(80)

    そうだ。あの日に感じた暖かさに似ている。 真尋は自分の右手を見つめた。 「お母さん・・・」 真尋は呟く。だけど、耳に聞こえるのは“放水口”から流れ落ちる水の音だけだった。その言葉に答えてくれる人は誰もいなかった。 あの日、母は黙って自分の手を握ってくれた。 一緒に歩き続けてくれた。 だけど、黙って歩く母の胸の内にはどんな思いが溢れていたのだろうか。 それまでの真尋は、自分のことしか考えていなかったことに気づいた。 母の思いなんて、想像しようともしていなかった。そしてただ自分が目の前の現実から逃げることしか考えていなかった。 あの日、黙って歩いていた母の胸にうちにあったのは、人生に対する絶望だっ…

  • 閉じ込められた部屋(79)

    その時だった。 右手を誰かに強く握られたような感触を感じた。 そして同時に、その右手を上に引き上げられるような感覚を覚えた。 何? 何が起きたの? 驚いた真尋は力を抜いた足先に再び力を戻す。爪先立ちで水の中に立ち、何とか自分の顔を水面から出した。そして自分の右手を水面の上に出して、その手を見つめた。何の変わりもない、いつもの自分の右手だった。だけど、これまで冷たい水の中に浸かっていたはずなのに、その右手に暖かさを感じた。その暖かさに、なぜか懐かしさを感じた。 これは・・・。 なぜ懐かしさを感じたのだろうか。自分は、これまでの人生の中でこの暖かさを感じたことがあったのだろうか。必死になって思い出…

  • 閉じ込められた部屋(78)

    10 真尋は閉じ込められた部屋の中にいた。 “放水口”からは依然として大量の水がこの部屋の中に流れ込んでいる。この小さな部屋の中に満たされていく水はその水位を上げ続け、すでに真尋の体をすっぽりと覆い尽くしていた。 先ほど何度も開けようと試してみても結局開けることができなかったドア。そのドアに背中をつけて、真尋は一人立ち尽くすしかなかった。 自分の体が沈んでいく。 深くて暗い闇の中に沈んでいく。 だけど自分にはもうどうにもできない。 水位が上がるについて、目の前に迫ってくる“死”という圧倒的な恐怖。その恐怖の前になすすべはなかった。ただ涙をぼろぼろと流しながら、 「ごめんなさい、ごめんなさい」 …

  • 閉じ込められた部屋(77)

    「真尋・・・」 美和は、ベッドの上の真尋に声をかける。 だけど真尋はその声には反応せずに、また、 「・・・なさい」 と呟いた。夢遊病者のように眼は閉じられていて、そして顔には生気がなかった。何かがおかしい。 「・・・なさい」 「どうしたの。真尋。何が言いたいの」 真尋が何かを伝えようとしている。 美和は自分の耳を真尋の口元に寄せて、耳を澄ました。 「・・・ごめんなさい」 真尋は、何かに向かって謝っていた。 「・・・ごめんなさい」 「どうしたの、真尋。どうして謝るの」 「・・・ごめんなさい」 真尋は熱病患者の譫語のように、ごめんなさい、という言葉をただひたすら繰り返している。真尋の閉じられた目に…

  • 閉じ込められた部屋(76)

    その日も美和は真尋の病室にいた。 カバンの中から、先ほどデパートで買ってきたハーバリウムを包んだ袋を取り出す。丁寧にテープを剥がしてその袋に入っている瓶を取り出すと、美和の目に鮮やかな黄色が映し出された。 イエローサルタンという黄色の花が入れられたハーバリウムだった。 デパートに行った際、デパートの若い女性店員から、 「矢車草の仲間で、早春の花なんですよ。気温が上がると生花でのお取り扱いがほぼなくなってしまいますので、ハーバリウムでの季節外のプレゼントにおすすめです」 と勧められた。早春の花らしく、明るい色合いが印象的な花だった。 そして彼女が口にした次の言葉が、美和の心を強く動かした。 「そ…

  • 閉じ込められた部屋(75)

    二日ぶりに入った真尋の病室は、それまでと全く変わらない同じ時間が流れていた。 窓際のベッドに真尋は寝ており、他の三つのベッドは依然として誰もいない。窓は薄手のカーテンが引かれていたのだけど、その隙間から差し込む穏やかな春の午後の日差しが、部屋を照らし出していた。 変わったことと言えば、真尋の人工呼吸器が取り外されていたことだった。真尋の病室に入った美和は、その様子を見て驚いた。慌てて真尋のベッドの脇に歩み寄る。真尋は死人のように青白い顔をして目を閉じていた。 まさか、死んでしまったのではないのか。 だから人工呼吸器が取り外されたのではないのか。 美和は、真尋の口元に耳を近づけた。美和の耳に、真…

  • 閉じ込められた部屋(74)

    佐藤健太郎が映っている写真は、あの夜のあとに全部捨てた。 佐藤健太郎に関わるものを、自分と真尋の周りから全て消し去りたかった。 美和と真尋が映ったこの一枚の写真も、他の写真と一緒に捨てようかと思った。だけど、どうしても捨てることができなかった。 真尋があの夜のことを忘れて生きようとしていたとしても、そして美和もそんな真尋が作り出した世界の中で生きようとしていたとしても、心のどこかでは、 ”私は、あの夜のことを絶対に忘れてはならない” という思いがあったからだった。 この写真は、あの日、美和が真尋のことを見捨ててしまったことを忘れないための十字架だった。それは、美和がこの十四年間背負い続けた十字…

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