全身の細胞は血糖を代謝することでエネルギーを得ている。血糖はそのままでは細胞の中に入って行かず、細胞の壁にはドアがあって、インスリンが細胞壁の鍵穴に入るとドアが開いて細胞の中に血糖が吸収され血液中の血糖値が下がる。砂糖と果糖ブドウ糖液糖と穀粉(こくふん)が
自我は善良であり私の味方であるという誤解がある。それは一見損得を判断して得な選択を可能にするように思える。それは自我の頭の良さによって可能になり、これが自慢としているものですが、実はそれは欺瞞である。失敗は他の誰かのせいにされる。もういい加減気付いてもい
心の中の深いところまで降りてくると、過去に達成できなかった悔しさという闇がある。それを思い出した今その時は赦していない精神状態が再現される。赦しの実践の肝心なところは、腹が立つことを想起したその瞬間は「絶対に許さない思い」がスタートラインになっているとこ
私は過去において達成できなかったことを不運や他人のせいにしている。自分の心の闇を起点にして世界を眺め、そこに不満の原因があるかのように見る。神は私たちに絆を授けた。それは全ての人の内側に実在する光である。相手の中にこの光があることを信じることで、そのよう
私たちは誰かに夢中になったりするが、理解が進んで彼の全体像が明らかになってくると、「彼を一時、理想の人だと思ったが、彼にも欠けたところがある」と気付き、そして彼の欠点を指摘して失望するに至る。『彼が不完全に見えるのは、彼が本当に不完全だからだ』というのが
私がこの閉鎖された世界から抜け出すには、自分とは違う価値観を持った者の助けが必要だ。自我の価値観とは、「より多くでなければならない」というものだ。欲張る。そしてその欲で自滅する。ひとりだとそうなる。助けが必要だ。内なるガイド、導く者が。にほんブログ村
「ひとりであることの限界」私の自我は欠けているところがあり、大切なことが理解できない。自我しか心の起点がないのであれば、打つ手なし、私が不満をもつことは約束されている。しかし、「もうひとつの夜明け」である神が私たちに授けた永遠の絆を心の中の起点として選ぶ
自我を完全にコントロールできるはず、と思っていたが、心の中で自我を選択することで、いつの間にか私が自我に操られている。そしてそれは全て私の罪とされる。私がしくじったのは注意が足りなかったからだと思っていた。しかし真実は、「自我は私の言うことを聞かない」の
ひとりであることの限界。自分ひとりでなんでもできると言うならばそれは妄想である。心の闇 それは「私はひとりだ」という信念。神が私たちに授けた絆を心のよりどころにするのは強さである。利己主義で何かを成し遂げたとしても「自分ひとりの力で達成したとしか思えなかっ
誹謗中傷される理由は中傷と同類のものが自分の心の内で無意識に選択されているからです。私は中傷されたことに対して文句を言うが、その文句を言うこと自体が、中傷と同じものを心の中で肯定しているんです。にほんブログ村
過去は幻覚である。過ぎ去ったものを思い起こして、それについて文句を言う時、私はそれを今、実在のものとしている。それは既にもうどこにもない。私が無理矢理、留めて(とどめて)おこうとしているだけである。にほんブログ村
鏡に映ったラスボスである心の闇「怒りや憎しみで私を倒すことはできぬ!!」もし、あなたが心に赦しの光を持って鏡を見るならば、鏡に映っていた憎悪の顔は消え去る。にほんブログ村
私は私が相手に差し出したものを、相応の気分として受け取ることになる。これは目に見える形態(かたち)としては与えたものと受け取っているものは違うように見えるが、内容(気分)としては同じである。私が憎悪を相手に差し出すなら、相手は表面上礼儀正しいとしても、悪意を
4月は奇跡講座の勉強を少しお休みして、慢性炎症と精神症状、疲れ易さについて改善する食事法の勉強をしていました。一通り読み終わったので、今日から5月ということでまた奇跡講座の勉強に戻ります。奇跡講座は本編の上下巻2冊をメインに読解していきます。今上巻の20周目で
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全身の細胞は血糖を代謝することでエネルギーを得ている。血糖はそのままでは細胞の中に入って行かず、細胞の壁にはドアがあって、インスリンが細胞壁の鍵穴に入るとドアが開いて細胞の中に血糖が吸収され血液中の血糖値が下がる。砂糖と果糖ブドウ糖液糖と穀粉(こくふん)が
特別性の投影(とうえい)によって我々に見えている、数々(かずかず)の諸問題(しょもんだい)は、時間と距離の、他者との「隔たり(へだたり)」の中で起こる。分かり合えない心の、途方(とほう)もない「隔たり」こそが、投影の本質(ほんしつ)である。その問題は遡る(さかのぼる)
神が創造したままの神の子のオリジナルの「たった一つの想念(そうねん)」からの分離(ぶんり)が、この世界と私たちの自我を作った。分離による投影(とうえい)が作り出した時間と空間の中で起こる問題が、それが自分との「宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)137億年」という、いかに
私たちの心の中には2つの視点が存在する。一つは分離の想念である特別性の自我の視点。もうひとつは溶け合う心であり「欲しいものすべて」である「たった一つの想念」の視点。自我の特別性の目的とは、自分だけがより多く独占することである。より多くでなければならない、何
私たちの遥かなる故郷である天国での、神と神の子の本来の関係では決して伴わない感覚は、全て「特別性(とくべつせい)」である。優越感や劣等感や攻撃や被害者意識や損得勘定や復讐心や承認欲求などは、全て「特別性」であり分離の悪夢である。過去のトラウマを思い出して被
私がかつてネット上で実現しようとしていたのは「特別性」というゴールである。それまでの人生で味わった辛酸(しんさん)と苦痛の全てが報われる(むくわれる)瞬間。万来(ばんらい)の拍手と称賛(しょうさん)と栄光の瞬間を欲していた。その「想いは届かない」。なぜならその「
かつて私たちの遥かなる故郷である天国で、神と私たち神の子の間で交わされて(かわされて)いた愛がオリジナルの関係である。だが天国に居た神の子の心に小さな狂った考えが生じた。私は天国で神に、「私が作った私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上である
私には雑念が常にある。その一つにネット上の特定の統合失調症者に対する蔑み(さげすみ)の雑念がある。私は雑念がざわつくと、彼のyoutubeを見て、彼の低能力を確認して、彼の無価値性を見てそこに優越感(ゆうえつかん)を感じている。更に彼に対して「いじわる」をする思考実
嫌なことがあって腹が立った時、二者択一の選択肢が生じる。その被害者意識そのまんまに粗暴な言動や振る舞いをして相手を責める(せめる)か?それとも、赦し(ゆるし)たくないと思っているその瞬間(とき)に、あえて「心を変える決断」をして赦す(ゆるす)か?責めることは、「
私は統合失調症であり「相互主観性(そうごしゅかんせい)」の障害がある。これは無意識に「他者の主観を排除(はいじょ)する」という、コミュニケーションの障害のことです。私は言いたいことがあった時、相手の心の感じ方を無視して一方的に言ったりする。私に「主観を排除さ
私たちは何者なのか?どこから来てどこへ行くのか?私たちの正体は、肉体でも脳でも物質でも従来の意味の心でもない、「たった一つの想念」である。統合失調症患者が好んで使う物差し(ものさし)が、大学受験の偏差値である。高い偏差値のことを「頭のいい」と、接頭語(せっと
過去の嫌な記憶が思い出されて、赦し(ゆるし)たくないと思っている時は、赦す(ゆるす)のは難しい。しかし赦しが最も必要とされるのは、まさにその赦して(ゆるして)いない瞬間(とき)である。したがって最も赦しが必要とされる瞬間(とき)に、その赦しが不可能であるはずがない
私は統合失調症であり「相互主観性(そうごしゅかんせい)の障害」がある。自分とは異なる「他者の主観を排除する」という特性がある。他者の主観を排除してしまったら通信はできても心の通った(かよった)コミュニケーションはできない。私が例えば承認欲求からブログやエック
統合失調症の私には無意識に「他者の主観(しゅかん)を排除(はいじょ)する」相互主観性(そうごしゅかんせい)の障害がある。これは自分の心を守るために「他者の主観を排除している」のだが、これによって「人の話が聴けない状態」になり「赦し(ゆるし)が極めて困難となる」。
過去のトラウマを思い出して苦しくなった時、その過去の出来事について考え続けることは、必ず、「気分を損なう(そこなう)」という「損失(そんしつ)」を伴う(ともなう)。過去は毎回違った形(かたち)で想起(そうき)されるから、思い出される出来事の見かけが違っているのだか
罪悪感とは不快なものである。私が無意識に罪悪感を感じ取ると、不快感、イライラ、不安感、恐れが生じる。その後、私は外の世界を凝視(ぎょうし)して、他人の中に不快感の原因を見ようとする。この「自分が苦しいのを他人のせいにする」罪悪感の投影(とうえい)は「無意識」
心の内側の闇が外の世界に映し出されて問題となって見えている。私たちは問題に直面(ちょくめん)した時、腕力、知力、お金などの「力(ちから)」で問題を解決しようとする傾向にある。お金の力(ちから)で健康になれるかというと、健康に良い食べ物を買うよりも、健康に悪い食
私が他人を批判したり他人の悪口を言う時、本当は私の心の中のやましさを直視したくないのです。私の心の中の見たくない部分、それに触れたり、それについて言及(げんきゅう)してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵(ぜったいふかしん)の心の領域、それがやましさです。
ネット掲示板の私についての誹謗中傷や悪口を見る時、私自身の心の闇が映し出されたものとしてその掲示板は存在している。誹謗中傷や悪口が効いてしまうのは、私自身にやましいところがあるからです。だけどそのやましい心を私は見たくない。それを認めてしまったら私の方が
体内に慢性炎症(まんせいえんしょう)があると炎症を抑える(おさえる)為に、ストレスホルモンである血中コルチゾール濃度が上昇する。この血中コルチゾールレベルが常に高いと脳はストレスを感じる。血中コルチゾールレベルが高くても短期間なら問題ないが、慢性的に血中コル
目の前に世界を知覚(ちかく)する直前に何かが先行していたはずである。その何かとは、「心の闇の投影」である。これが世界の因果律(いんがりつ)の根底にある。心の中の見たくないもの、触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵の
私たちの遥かなる故郷である天国で、かつて神と私たち神の子が至福の時を共有した接し方(せっしかた)が、私たちのオリジナル(本来)の関係です。それは見た目の形式主義のことではなく、喜びがあふれて止まらないPerfect feeling(完璧な感じ)の精神状態を伴う。だが天国で幸せ
ネットの誹謗中傷は心理戦ですが、批判された時に、対抗して自分の中で「I think this way(私はこう思う)」の方を勝ちとしたい場合は、相手と競い(きそい)、そして勝つという自我の誘惑に乗ったことになる。自分の方が頭が良いというプライドを賭けた勝負だが、相手と自分ど
世界を見るとはすなわち解釈(かいしゃく)であり、世界の見え方を伴う。この自我による解釈が私にとっての世界である。私は自分の解釈が間違っていて、それを基(もと)に間違ったことを考えていると、心の中で自分ですぐに気付けるかが問題行動を起こさない為に必要である。ま
自我とは愚かなパロディー(代替え品)である。かつて私たちが天国に居た時、神が創造したままのオリジナルの神の子を、自分だけの知能で超越できると妄想したことにより作り出されたパロディー(代替え品)、それが自我です。いわゆる「自分のことを頭がいいと思ってる」という
心の中で私の自我は過去に対して酷い被害的な解釈(かいしゃく)をする。頭に浮かぶその自我の語る被害的な物語に聴き入っているうちに腹が立ってくるのです。人は事実に対して怒るのではなく、事実についての解釈によって怒るのです。従って怒りの原因は心の中で自我がしてる
自分の自我が心の中で考えていることを客観的に観察すると、一見理屈に正当性はあるものの被害者意識で酷い内容であり、「それを信じるのか?」という問いが生じる。自分が間違ったことを考えているのだと気付けるかが運命の分かれ道。にほんブログ村
私には確かに「心の闇」がある。その心の闇の中心に私の自我がいる。自我は過去を忘れない。自我は酷いストーリーを頭の中で語りだす。その過去のストーリーを聞いている内に腹が立ち、自我の術中に落ちて心が制御不能になる。そもそも「それを信じるのか?」という問いがあ
創世神話(そうせいしんわ)について話そう。かつて私たちは神の子として天国で神と共に幸せに暮らしていた。しかし神の子である私たちの心に小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることをやめて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら
この2年間ほど統合失調症に「考え方を変える」という心理的なアプローチをしましたが、頭の中で堂々巡り(どうどう)に至りました。僕はこの心理的アプローチしか検討していなかったのではなく、サブシステムとして食事と運動による脳のコンディションの改善という「生化学的(
心の闇の中で誰の腕をつかんだのだろうか?それは神が創造したままのオリジナルの神の子。私のオリジナル。私の心の中に居る彼に名前をつけた。彼の名前は『Luke』ルークは光の地から来るもの、すなわち「光をもたらす者」の意味彼の姿を心の中に復元させよう。心の復活だ。
彼に差異(さい)を見て愉悦(ゆえつ)しようとしたり、羨ましさを感じるのではく、神が彼を見ているような目で彼を見るべきだ。その時「キミは”ゾッとするほど美しい彼の心が伝わってくる感覚”を感じ取ることができる」それは彼を見るあなたの目に神性なる愛が宿っているから
私はこの文章を書いている前夜に、他人の不幸を思い浮かべて、それと比較して自分は優位性があると、「他人の不幸は蜜の味」と愉悦(ゆえつ)を感じていたのですが、これは自我が与える快楽なのです。そして今朝、私は牢獄に居るような気分で目覚めた。私たちはひとつなのだか
この物理世界に自由はない。心は自分自身を闇に縛る(しばる)ことができる。これが心に限界をもたらす。精神病のフィーリングとは不自由な心である。頭の中で自分で考えている理屈が間違っており、これによって私は心が不自由になっている。私たちの本来の状態である神が創造
自我の存在は「欠乏(けつぼう)の原理」に基づいて(もとづいて)いる。まず心の中に欠乏の原理によって「恐怖・不安・文句・嫌がってる心」が生じる(しょうじる)。そしてその自我の欠乏感が投影(とうえい)されて、外の世界に映し出された嫌なものを見て「やっぱりそうか」と確
誰もが自分の無罪性を信じているのではなかろうか?だが他人の中には卑小(ひしょう)さや罪を見ることには抵抗が無い。このようにして自分は無罪だが他人は有罪だという状態を理想的だとみなす。この不公平な状態を好むことが私たちをイリュージョン(幻影)の世界に閉じ込める
過去のトラウマを思い出した時、自分を庇う(かばう)為に被害者意識で考えるのですが、この赦せない(ゆるせない)気持ちが自分自身の心にかけた呪いなのです。私は相手を呪ったのかもしれないが、自分のことは庇おう(かばおう)としたのであり、自分を呪う意図はなかったのだと
「キミには聴こえるか? 彼の心の祈りが?彼の願いが?頼む、彼を理解してやってくれ。そして彼の願いを叶えてやってくれ。キミにはそれができる」よく精神病者が「人の役に立てる人間になりたい」と言う。そういう人間になることを、キミが本当に望むのなら、お互いの心が
妄想とは間違った考えに囚われていることです。妄想が真実だから力があるのではない。その間違った考えを真実だと思い込むことで、自分で妄想に自分を支配する力を与えている。自分の考えていることが間違っていると、自分で気付くことによって妄想は止められる。にほんブロ
誰にでも間違いは起こるものだが、間違いは訂正可能である。答えは存在する。被害妄想とは間違った考えを訂正できない精神状態のことです。間違いは誰にでも起こる。「今自分は間違った考えをしている」と自分で気付ければ妄想は訂正可能になります。にほんブログ村