5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
新旧の建物が続く街並み。バス停「鳥居前」。赤茶け、字がかすれた標識。この路線のバス停は、ほとんどこういう状態。バス停名のもとになった「玉前神社」が右手奥にあります。「御菓子司角八本店」。千葉一宮の御菓子司角八本店は江戸寛政年間、玉前神社の門前、一宮城の城下として栄えた上総之国一宮に生まれました。(この項、「同」HPより)参道には、明治時代に建てられた土蔵造りの蔵をリノベーションしたカフェ「赤七屋」さんがあり、旬の食材のシロップをかけたかき氷と、静岡おでんを主に販売しています。玉前神社や一宮城跡を見て回るのが、本来。しかし、海岸の方に向かいますので、ここからいったん上総一ノ宮駅に出て、休憩します。奥にかつての商家が。宿場や城下町特有のウナギの寝床のような細長い敷地。奥に煙突。お味噌屋さん?「一宮酒場がけっぷ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
田畑が広がる。庭先に、「バビアナ」という名前の植物が。南アフリカを中心に60種あまりが分布する球根植物ですがその大半がアフリカの中でもケープ地方に分布しています。葉っぱの形はアヤメやグラジオラスに似て細長い剣状で直立し、縦方向に走る葉脈の部分が盛り上がっており葉の表面の凹凸がはっきりと筋のように見えるのが特徴です(葉っぱに光が当たったとき、影ができるのでさらにはっきり見えます)。球根は繊維状の軟らかい皮にくるまれています。開花期間は主に4月~5月で、花茎を伸ばして穂状に花を咲かせます。花色は青紫、紫、白など中心ですが、そのほかに黄色い花を咲かせる種もあります。品種によっては耐寒性が劣るものもあるので、置き場所の移動ができる鉢やコンテナ植え向きですが、一般に出回っているストリクタとその園芸品種なら簡単な霜よ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
左に入る旧道。住宅が続く。長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀をデザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。(「」より)実にめでたい絵柄です。左に竹藪が。藪の向こうに、病院の看板。「南洲会長生クリニック」。まさか「藪医者」というわけではないでしょうが。駐車場には車がたくさん。※松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が1706年に編んだ『風俗文選』では、汶村による『藪醫者ノ解』において、「養父」(やぶ)が語源とする説が述べられている。それによると、但馬国の養父に住んでいたという評判の名医が語源であり、本来は名医を指す言葉であったという。現在の養父に当たる兵庫県養父市は、その名声を悪用して「養父医者の弟子」を騙る者が現...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。
11月25日(土)午後。晴れ。それぞれネーミングがすてきです。イチョウもすっかり黄ばみ、足元には落ち葉が。枯れすすき。ということでもう少し冬支度が始まる頃に訪問する予定です。本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
「長生村」に入ります。「房総横断道路」。長生村(ちょうせいむら)長生村は、千葉県の房総半島九十九里浜に面し、東京から約60キロ、千葉市から約30キロの距離にあり、昭和28年11月3日に八積村、高根村、一松村の3カ村が合併して誕生しました。現在の村域は、東西7.4キロ、南北6.0キロで、面積は28.25平方キロ。太平洋の黒潮による影響を受けて、年間を通して温暖な気候です。交通は、西部から南部にかけて国道128号とJR外房線が縦貫しており、村内には八積駅があります。千葉駅までは普通電車で約45分、東京駅までは茂原駅からの特急利用で約1時間と、周辺都市への利便性に恵まれた距離にあります。産業は、温暖な気候と平たんな地形を活用して、稲作や野菜栽培、酪農などのほか、九十九里浜での沿岸漁業を中心に発展してきましたが、...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
茂原駅。右にモニュメント。11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。降りたとたん、強い風が。雲行きも怪しい。果たして「上総一ノ宮駅」まで歩けるか?本来なら前回のところまで戻って歩くのですが、旧市街地歩きをショートカットし、駅正面の広い道を進みます。※茂原という地名は、平安時代に藤原黒麻呂(貴族)によって拓かれた荘園(藻原荘)に由来しているとされ、字の通り湿地が多く「藻原」が、江戸時代に現在の「茂原」という文字に変わったと言われている。北西にある「藻原寺」は、「そうげんじ」と読みます。「房総横断道路」との標示。ここを左折します。「国道128号」となっています。しばらく行くと、「野巻戸」交差点。野馬の放牧場があったのか?正面の大きな建物は、ソニー、東芝、日立が中・小型のLCDの事業を統合したジャパンディスプレイ(...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その7。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
「茂原高師郵便局」。「高師」付近で茂原街道と出会うはずですが。右からの道を合わせ、「茂原駅」方向へ。しばらく住宅地が続く。茂原市のマンホール。市の木ツツジの花、三輪をデザイン。別のマンホール。茂原市の頭文字「も」を図案化した市章を中央に配した規格型。県立長生高校。長生高校は、茂原市にある公立の高校です。通称は、「長高」。県内ではトップレベルの進学校で、全日制は「普通科」「理数科」、定時制は「普通科」があります。文部科学省よりSSHに指定され、理数科のSSHコースは独自カリキュラムを設けています。約9割が大学進学し、「早稲田大学」「慶應大学」「上智大学」「千葉大学」の実績があり、「東京大学」合格の実績もあります。部活動においては、運動系、文科系ともに熱心に活動しています。文化祭をはじめ生徒の自主性に任せた行...JR外房線「大網」~「茂原」。その7。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
突き当たりで右折し、すぐ左折します。草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。(現在)○が上の写真のところ。破線の緑道がかつての貨物線跡。「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。(「今昔マップ」より)※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。※農業学科と工業学科を併置する専門高等学校。来た道を振り返る。「文教通り」。道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。「萩原東公園」。茂原海軍航空...JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
静かな落ち着いた家並みが続きます。土蔵。来た道を振り返る。右は、宗延寺。「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。竹藪の向こう?付近を歩き回り、見つけることができました。農家の一角に。森の中に隠れるようにあります。住宅の裏手。掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(HardenedAircraftShelter)と呼ばれる。(「Wikipedia」より)・・・掩体壕について太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始...JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
農道の先には、外房線の踏切。振り返る。単調な歩道歩き。ほぼ直線。長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。前方に「腰当」交差点。※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)ここを左折し、外房線をくぐります。来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!歩行者専用道。右手に外房線の鉄橋。「阿久(あく)川」。下流方向。この付近の今昔。(現在)旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。(1880年代)「至本納駅道」とあるのが「房総東往還」。「大多喜天然ガス」マンホール。大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホー...JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その3。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。本納(宿)へ向かいます。街道筋らしい町並み。高台をバックに家並みが続きます。先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。振り返る。ここも「曲尺手」になっています。※「曲尺(かねじゃく)」。来た道を振り返る。バス停「本納駅入口」。ここも曲尺手の名残りか?看板建築。看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは...JR外房線「大網」~「茂原」。その3。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その2。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
『Googleマップ』で、「伊南房州通往還(※「房総東往還」)」と記されている道を進みます。バス停「永田駅入口」。すばらしい槙の垣根が続きます。垣根を立派にしつらえた、おうちが目立ちます。満開のコスモス。右に旧道が。奥に森が広がります。来た道を振り返る。もとの道に戻ります。里山風景。気が付いたら足元に「茂原市」の標石。茂原市に入りました。豪華な長屋門。刈入れを終えた田んぼが広がります。飛び去るシラサギ(↓)。外房線。鋭角に折れる旧道へ。合流するところに、「妙藏寺」石柱。顕本法華宗に属するお寺。この付近の今昔。(現在)〇が残された旧道。(1880年代)本道として機能している。この後、「本納宿」に入っていきます。JR外房線「大網」~「茂原」。その2。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その1。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
外房線「大網駅」。今回は、茂原駅まで歩くことに。川沿いの前回歩いた道(「房総東往還」)。この道を歩くことに。この付近の今昔。(現在)外房線沿いに南下するのが「房総東往還」。(1880年代)太く記された道が「房総東往還」道。この時期は、いったん「大網宿」に入り、東金~大網と続く道に合流し、南下していたようです。短い距離ですが、右に旧道があります。「病院」脇の道。合流。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。左右に田園風景が広がります。外房線が遠くに。「がまの穂」が密生。ガマとはガマ科ガマ属の植物で6月から8月にきりたんぽやソーセージ、フランクフルトに似た茶色の花を咲かせます。これをガマの穂と呼びます。ガマの葉は最大で150cmから200cmにもなるほどの...JR外房線「大網」~「茂原」。その1。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
向島百花園。菊花展。盆栽造りと野菊と・・・。のこんぎく。りんどう。ぶっそうげ。
初冬の園内。11月12日(日)。曇り空。一気に冬の気配。薄着ではかなり肌寒い。そんな中、向島百花園へ。菊花展が開かれています。丹誠込めた菊の盆栽。真ん中の作品は、「村のお祭り」。それぞれ凝った作品がずらり。鉢植えも置かれています。まだ時期が少し早そうですが。職人さん達の丹誠込めた菊がたくさん。地植えの野菊。こんぎく。のこんぎく。・北海道と沖縄を除く全国に分布するキク科の多年草。ヨメナと共に、いわゆる「野菊」と呼ばれるキクの代表。葉はヨメナと同じように食用になり、味もよく似る。別名をコンギク、ナンヨウシュンギクという。・日向を好み、田んぼの畦道、山道あるいは林の縁などの開けた場所に多い。根はいわゆる地下茎であり、横に広がって群生する。・野に咲く紺色の菊という意味合いでノコンギクと命名されたが、花の色は白~薄...向島百花園。菊花展。盆栽造りと野菊と・・・。のこんぎく。りんどう。ぶっそうげ。
JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その4。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
大網方向へ。切通しの下り坂。けっこう車の行き来が多く、急なカーブが続く中、スピードも出てるようで、路端を歩くのはちょっと恐い!眼下に民家。眼下の左右が開けてくる。右に下る道が旧道?※「Googleマップ」では「大網街道」と表示されている。房総らしい谷戸、田園風景。振り返る。北方向。南東方向。今度は上り坂。右奥に「圏央道」の橋脚。南方向。「大網白里市」に。千葉市から大網白里市へ。「圏央道(千葉区間)」をくぐる。北方向。この右手に旧道?来た道を振り返る。この付近。「県道20号(現大槻街道)」から分かれた旧道があるはずですが、ちょっと不明。この川沿いに大網駅へ。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。前方に「大網駅」。西側方向。※この川沿いが「房総東往還」道...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その4。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その3。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
大網駅まで再開。下り坂。下りきったら、左折して上り坂を。けっこうな坂道。右に曲がると、落ち着いた家並みに。奥に「天満宮」。振り返る。突き当りを右折し、下り坂に。大網街道の右手にあすみが丘池。この付近の今昔。(現在)下りきって「現大網街道」に合流。(1880年代)大網への旧道は曲がりくねっている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)正面に「昭和の森」。千葉市昭和の森千葉県千葉市緑区にある都市公園(総合公園)である。名称に公園はつかない。敷地面積は約100haと千葉市内最大規模の公園であり、広場、遊び場、キャンプ場、野球場、テニスコート、サイクリングコース、ウォーキングコース、展望台、アウトドア施設、宿泊施設等多くの施設がある。園内には遺跡も保存されており、荻生道遺跡は県指定史跡に指定されている。公園は一部...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その3。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その2。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その2。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
「誉田駅」。今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。前回歩かなかった旧道を振り返る。それに続く旧道を歩くことに。誉田駅を望む。住宅地を進む。「県道20号(大網街道)」に合流。跨線橋を渡る。外房線に沿って進む。「誉田IC」。千葉県道67号生実本納線(おゆみほんのうせん)千葉市緑区から茂原市に至る、主要地方道である。かつては、一部区間が千葉県道路公社が管理していた有料道路の千葉外房有料道路であったが、2023年(令和5年)2月1日に全線無料開放された。東京・千葉方面と外房方面を連絡する道路のうち、千葉県道20号千葉大網線(大網街道)の慢性的な交通渋滞緩和のために建設された。事業費は、約234億円。(「Wikipedia」より)左右に畑地が広がる。大き...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...z
JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
鎌取駅前の賑やかな通り。「房総東往還」(大網街道)は、駅の反対側を進みますが、当方は、この道を「誉田駅」に向かいます。線路方向を望む。「大木戸」。※「木戸」=人間や物品の出入りを管理するのが目的で、城下や宿場内外の境界に設置された関所。道の反対側に「都川防災調整池」が広がります。直線道路をけっこう歩き、やっとここで「大網街道」に出会います。野田十字路。旧道に復帰。大きなおうちが目立つ。「中宿」バス停。旧道らしい道筋。土蔵。左手に「五日堂」。日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊跡。日浄は折伏布教して家康に弾圧された日経の弟子で、日経亡き後、関東一円の法華経の普及に努めましたが、幕府の弾圧を受けて信徒と共に斬首に処されました。この五輪塔は、高田村の源右衛門が日浄の供養のために造り、当時幕府の目を恐れて土中に埋めてい...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
坂道を振り返る。旧家の雰囲気。一方でモダンなおうちも。落ち着いた家並み。「北生実上宿」信号。この付近は、「北小弓城」下の町ということに。生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城。北生実城・北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩の陣屋(生実陣屋)がおかれた。千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年(永正14年)に足利義明(小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えた...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
歩き始めると、すぐ左手に古い建物。「旧生浜(濱)町役場庁舎」。解説板。旧生浜(おいはま)町は、現在の中央区から緑区にまたがる地域にあった町です。1889(明治22)年に北生実(おゆみ)・南生実・浜野・村田・有吉(ありよし)の5か村が合併して生実浜野村となり、1925(大正14)年に生浜村に改称しました。1928(昭和3)年の町制施行により生浜町が生まれました。生浜町の誕生を機に、1932(昭和7)年に建てられたのがこの旧生浜町役場庁舎です。生浜町は1955(昭和30)年に千葉市へ編入されましたが、この建物は生浜支所・生浜地区市民センターとして1992(平成4)年まで使用され、長く地域の人々に親しまれてきました。木造2階建てフランス瓦葺き、市内に残る昭和初期の洋風建築で、1階は役場、2階は議場になっていまし...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。(「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)・房総東往還」を歩く。)
JR内房線「浜野駅」今回から「房総東往還」を歩くことにします。伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。千葉県の外房の大部分を通っており、現在は県道14号と国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震・関東地震(関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震や慶長地震などの房総沖地震、千葉県東方沖地震などにより隆起・沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立...JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。(「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)・房総東往還」を歩く。)
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5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c
<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z
すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
今回から元荒川の上・中流歩きになります。利用する路線も東武線からJR線になります。「東岩槻駅」。東武線鉄橋の上流へ出ます。「東宮(ひがしみや)歩道橋」から上流を望む。この付近の今昔。(現在)東武鉄橋上流に「東宮歩道橋」。「江川地区調整池」が設置されています。(1970年代)元荒川は大きく西にカーブしていました。その後、流路の変更が行われ、宅地化されました。土手沿いの道(左岸)を歩きます。右手は住宅地。上流に「慈恩寺橋」。河川敷に畑が広がっています。(1880年代)河川敷が広がっています。(現在)かつての河川敷が農地となっています。水道橋が左手奥に。畑の正面に「水道橋」。「城北大橋」。下流の水道橋を望む。この先に人も歩ける「元荒川水管橋」があります。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。下流方向。上流に「新曲輪橋」。「国道16号線」は首都圏の幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。(「」より)春日部方面。「新曲輪(くるわ)橋」。右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。※「本郷追分」で中山道と分かれ、「幸手」で日光街道と合流する。モニュメントの人形。旧岩槻市のマンホール。蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。「岩槻橋」。岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
公園内の釣り堀。賑わっています。森の中の下道。公園内に。森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。案内図。「グリーンアドベンチャー岩槻文化公園コース」。この木の名は?この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。(1880年代)(現在)駐車場の向こうに元荒川の流れ。川沿いの小道。足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。○のところにとまっている。中川歩きの時に見た「ハグロトンボ」。ハグロトンボ(羽黒蜻蛉カワトンボ科のトンボ。別名ホソホソトンボ。東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北・本州・四国・九州に分布する。成虫の体長は57-67mm、後翅長35-44mmほどで、トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
溜井が大きく広がる。桜並木。右手は緑濃き、水田。「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。「夏越の祓」茅の輪がある。先に進みます。まだ「岩槻市」のまま。※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。田んぼが広がります。土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。振り返る。久々な経験。農家の脇に、カボチャ。枝豆。県道に出ます。上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。下流方向。上流方向。橋を渡り、右岸に。振り返る。上水道管。「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。(この項、「」HPより)「永代橋」。モニュメント。この付近の今昔。(現在)中央に堰。川幅が大きく広がっている。(1880年代)現在の堰付近の流れが複雑になっている。上流方向。広がりを見せる。旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。1926(大正15)年の建...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。6日には、窓際に。あんずが窓際に乗ると、ソウタは、あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。7月6日。「小暑」の日の午後。いました!親が。親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?親から離れ、自由気ままに泳いでいます。親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。そして親子一緒に。前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは?気になります。もみじあおい。にっこうきすげ。やまゆり。寺島なす。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/2ff6d8ff92a04e21bf1b674e796011d...あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。
「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。こちら側にも農地が。ここにもネムノキの大木。上流に「大砂橋」が見えてきます。「元荒川緑道(上流部)散策案内」。「大砂橋」を振り返る。けっこう緑が深い。路傍に何体かの古仏。元荒川の流れ。農地が続きます。菊の栽培。左手には畑作地が広がる。イチゴ。サツマイモ。咲き始めている菊。川沿いから離れて進みます。右手灌木の右に、元荒川。一面、青々とした田んぼ。「三野宮橋」。上流方向。橋を渡り、左岸へ。「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。「補修境界←さいたま市北部建設事務所→越谷県土整備事務所」。さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?さいたま市埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多。政令指定都市の一つ。また財政力指数は政...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.元荒川橋から下流を望む。川沿いには歩道がないので、県道を進みます。この標識板には、「↑越谷国道4号線→春日部←上野」とあります。左手に「元荒川」。「〆切橋」(人道橋)。越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代(宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年(大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年(昭和12年)竣工のRC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。元荒川はかつて〆切...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
元荒川歩き、2日目。往復とも東武線内の乗り降りです。北越谷駅西口。「元荒川」土手。前回に続き、左岸を歩くことに。森の脇に進みます。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央に「宮内庁埼玉鴨場」。現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。我が国では、古くから網や鷹を使っ...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
東武線のガードをくぐって先に進みます。越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)東武線鉄橋方向を振り返る。左岸のようす。桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。ところどころ、花壇があり、ベンチなどもあります。前方に「神明橋」。中央の車道部分は古そうなトラス橋振り返る。この橋を渡り、左岸に移ります。桜並木の下。河川敷には耕作地が広がっています。対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。前方には「出津橋」(人道橋)。文教大学越谷キャンパス。出津橋。学生たちが通行中。今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
元荒川歩きを再開します。カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。※伏越(ふせごし)用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)振り返る。右が葛西用水。「新宮前橋」。「宮前橋」。「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。東の方に「久伊豆神社」があります。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
「溜井(逆川・葛西用水)」。花しょうぶが満開。「元荒川」。「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。越谷市中央市民会館。平和橋・新平和橋。いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。日本橋から3番目の宿場・越谷宿。越谷駅。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸の河原。「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。正面は、「しらこばと橋」。解説板。「葛西用水」の成立享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。「葛西用水」流路図。「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。南方に「越谷レイクタウン」があります。「越谷レイクタウン」の今昔。(現在)大規模な商業施設、住宅地となっている。(1970年代)ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域左岸の大きな建物。「越谷東高校」。舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。早く木陰の下に。ほっと一息。「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。「不動橋」が見えはじめる。「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。木陰が涼しい。水分補給などで小休止。「元荒川緑道(下流部)散策案内」。来た道を振り返る。「不動橋」。※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。「しらこばと橋まで1,050m」。「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。流入口。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
雨降りの午後。向島百花園。アジサイには、雨が似合う。降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。ヤマユリ。リンドウ。ハンゲショウ(半夏生)。ネムノキ。カザグルマ。カルガモたちはどうなったか?四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。ヒナは、合計7羽。親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。雨脚が強くなってきました。親子であちこちウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。ヒナたちが叢の中に。そのうち姿が見えなくなりました。さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0f/35390b3509d0b0685431b98cec8dc837.jpg">※オナガ水色の美しい鳥実を...雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・
中川の一つ上流にある「吉川橋」。その先で、元荒川が中川に合流する。左手が「元荒川」、右手が「中川」。付近は、工事中。左手に「中島橋」。越谷市内のマンホール。「越松水消火栓消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。元荒川の最下流に架かる「中島橋」。中川方向を望む。上流に向かって歩き始めます。右岸の「元荒川緑道」を歩きます。「飯島排水機場」からの流れ。その先に「大成スポット公園」。緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。左手に土手状の盛り土が続いています。この付近の今昔。(1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。(現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。対岸のようす。国道4号線・「大成橋」。「水道管橋」その先に、「...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。「元荒川」現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。おおむね南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。かつての元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地の湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。やはり、ビール。サントリーのセット。箱から出した途端、ソウタがすぐ、底の浅い箱に入っています。よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。そのうち箱もつぶれて、そして、昨日。この格好は?頭は?しっぽは?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/45/37d01859d03c8e7e1fc05c60f5915302.jpg">ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。帰ってくると、必ずジジがそばに。家に来たときはこんな小さかったソウタ。ふだんは、一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。家人の姿が...ソウタとあんず。我が家の猫たち。
賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。「鈴木海苔株式会社」。しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。右に行くと「銚子駅」。この先は、前回、行きました。しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。「下総豊里」駅。この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)
「松岸」。ここを右に曲がって進むと、「松岸駅」に。「松岸駅」は「総武本線」(千葉~銚子)と「成田線」(成田~松岸)が合流する駅。「金井商店」。街道筋らしいお店。実は、この道は利根川歩きのとき、土手が工事中のため、途中から通った道です。利根川の土手に行ってみましたが、相変わらず工事中(何年越しでしょうか)でした。この先、街道から少し右に入ったところに、石碑「飯沼観世音江一里」。残り4キロ。残りわずかに。石仏などが一か所に集められています。銚子市のマンホール。図柄は「犬吠埼灯台」と「カモメ」と市の魚「イワシ」。利根川沿い・銚子港の一角。街道に戻ると、「木内旅館」。この先、桝形になっています。この付近の今昔。(現在)〇が桝形の部分。赤い線が国道356号線(利根水郷ライン)。(1880年代)街道は利根川・銚子港沿...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)