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2022/11/07

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  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    新旧の建物が続く街並み。バス停「鳥居前」。赤茶け、字がかすれた標識。この路線のバス停は、ほとんどこういう状態。バス停名のもとになった「玉前神社」が右手奥にあります。「御菓子司角八本店」。千葉一宮の御菓子司角八本店は江戸寛政年間、玉前神社の門前、一宮城の城下として栄えた上総之国一宮に生まれました。(この項、「同」HPより)参道には、明治時代に建てられた土蔵造りの蔵をリノベーションしたカフェ「赤七屋」さんがあり、旬の食材のシロップをかけたかき氷と、静岡おでんを主に販売しています。玉前神社や一宮城跡を見て回るのが、本来。しかし、海岸の方に向かいますので、ここからいったん上総一ノ宮駅に出て、休憩します。奥にかつての商家が。宿場や城下町特有のウナギの寝床のような細長い敷地。奥に煙突。お味噌屋さん?「一宮酒場がけっぷ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    田畑が広がる。庭先に、「バビアナ」という名前の植物が。南アフリカを中心に60種あまりが分布する球根植物ですがその大半がアフリカの中でもケープ地方に分布しています。葉っぱの形はアヤメやグラジオラスに似て細長い剣状で直立し、縦方向に走る葉脈の部分が盛り上がっており葉の表面の凹凸がはっきりと筋のように見えるのが特徴です(葉っぱに光が当たったとき、影ができるのでさらにはっきり見えます)。球根は繊維状の軟らかい皮にくるまれています。開花期間は主に4月~5月で、花茎を伸ばして穂状に花を咲かせます。花色は青紫、紫、白など中心ですが、そのほかに黄色い花を咲かせる種もあります。品種によっては耐寒性が劣るものもあるので、置き場所の移動ができる鉢やコンテナ植え向きですが、一般に出回っているストリクタとその園芸品種なら簡単な霜よ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    左に入る旧道。住宅が続く。長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀をデザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。(「」より)実にめでたい絵柄です。左に竹藪が。藪の向こうに、病院の看板。「南洲会長生クリニック」。まさか「藪医者」というわけではないでしょうが。駐車場には車がたくさん。※松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が1706年に編んだ『風俗文選』では、汶村による『藪醫者ノ解』において、「養父」(やぶ)が語源とする説が述べられている。それによると、但馬国の養父に住んでいたという評判の名医が語源であり、本来は名医を指す言葉であったという。現在の養父に当たる兵庫県養父市は、その名声を悪用して「養父医者の弟子」を騙る者が現...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • 本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

    11月25日(土)午後。晴れ。それぞれネーミングがすてきです。イチョウもすっかり黄ばみ、足元には落ち葉が。枯れすすき。ということでもう少し冬支度が始まる頃に訪問する予定です。本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    「長生村」に入ります。「房総横断道路」。長生村(ちょうせいむら)長生村は、千葉県の房総半島九十九里浜に面し、東京から約60キロ、千葉市から約30キロの距離にあり、昭和28年11月3日に八積村、高根村、一松村の3カ村が合併して誕生しました。現在の村域は、東西7.4キロ、南北6.0キロで、面積は28.25平方キロ。太平洋の黒潮による影響を受けて、年間を通して温暖な気候です。交通は、西部から南部にかけて国道128号とJR外房線が縦貫しており、村内には八積駅があります。千葉駅までは普通電車で約45分、東京駅までは茂原駅からの特急利用で約1時間と、周辺都市への利便性に恵まれた距離にあります。産業は、温暖な気候と平たんな地形を活用して、稲作や野菜栽培、酪農などのほか、九十九里浜での沿岸漁業を中心に発展してきましたが、...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    茂原駅。右にモニュメント。11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。降りたとたん、強い風が。雲行きも怪しい。果たして「上総一ノ宮駅」まで歩けるか?本来なら前回のところまで戻って歩くのですが、旧市街地歩きをショートカットし、駅正面の広い道を進みます。※茂原という地名は、平安時代に藤原黒麻呂(貴族)によって拓かれた荘園(藻原荘)に由来しているとされ、字の通り湿地が多く「藻原」が、江戸時代に現在の「茂原」という文字に変わったと言われている。北西にある「藻原寺」は、「そうげんじ」と読みます。「房総横断道路」との標示。ここを左折します。「国道128号」となっています。しばらく行くと、「野巻戸」交差点。野馬の放牧場があったのか?正面の大きな建物は、ソニー、東芝、日立が中・小型のLCDの事業を統合したジャパンディスプレイ(...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その7。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

    「茂原高師郵便局」。「高師」付近で茂原街道と出会うはずですが。右からの道を合わせ、「茂原駅」方向へ。しばらく住宅地が続く。茂原市のマンホール。市の木ツツジの花、三輪をデザイン。別のマンホール。茂原市の頭文字「も」を図案化した市章を中央に配した規格型。県立長生高校。長生高校は、茂原市にある公立の高校です。通称は、「長高」。県内ではトップレベルの進学校で、全日制は「普通科」「理数科」、定時制は「普通科」があります。文部科学省よりSSHに指定され、理数科のSSHコースは独自カリキュラムを設けています。約9割が大学進学し、「早稲田大学」「慶應大学」「上智大学」「千葉大学」の実績があり、「東京大学」合格の実績もあります。部活動においては、運動系、文科系ともに熱心に活動しています。文化祭をはじめ生徒の自主性に任せた行...JR外房線「大網」~「茂原」。その7。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

    突き当たりで右折し、すぐ左折します。草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。(現在)○が上の写真のところ。破線の緑道がかつての貨物線跡。「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。(「今昔マップ」より)※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。※農業学科と工業学科を併置する専門高等学校。来た道を振り返る。「文教通り」。道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。「萩原東公園」。茂原海軍航空...JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

    静かな落ち着いた家並みが続きます。土蔵。来た道を振り返る。右は、宗延寺。「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。竹藪の向こう?付近を歩き回り、見つけることができました。農家の一角に。森の中に隠れるようにあります。住宅の裏手。掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(HardenedAircraftShelter)と呼ばれる。(「Wikipedia」より)・・・掩体壕について太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始...JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

    農道の先には、外房線の踏切。振り返る。単調な歩道歩き。ほぼ直線。長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。前方に「腰当」交差点。※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)ここを左折し、外房線をくぐります。来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!歩行者専用道。右手に外房線の鉄橋。「阿久(あく)川」。下流方向。この付近の今昔。(現在)旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。(1880年代)「至本納駅道」とあるのが「房総東往還」。「大多喜天然ガス」マンホール。大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホー...JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その3。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

    「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。本納(宿)へ向かいます。街道筋らしい町並み。高台をバックに家並みが続きます。先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。振り返る。ここも「曲尺手」になっています。※「曲尺(かねじゃく)」。来た道を振り返る。バス停「本納駅入口」。ここも曲尺手の名残りか?看板建築。看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは...JR外房線「大網」~「茂原」。その3。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その2。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

    『Googleマップ』で、「伊南房州通往還(※「房総東往還」)」と記されている道を進みます。バス停「永田駅入口」。すばらしい槙の垣根が続きます。垣根を立派にしつらえた、おうちが目立ちます。満開のコスモス。右に旧道が。奥に森が広がります。来た道を振り返る。もとの道に戻ります。里山風景。気が付いたら足元に「茂原市」の標石。茂原市に入りました。豪華な長屋門。刈入れを終えた田んぼが広がります。飛び去るシラサギ(↓)。外房線。鋭角に折れる旧道へ。合流するところに、「妙藏寺」石柱。顕本法華宗に属するお寺。この付近の今昔。(現在)〇が残された旧道。(1880年代)本道として機能している。この後、「本納宿」に入っていきます。JR外房線「大網」~「茂原」。その2。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その1。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

    外房線「大網駅」。今回は、茂原駅まで歩くことに。川沿いの前回歩いた道(「房総東往還」)。この道を歩くことに。この付近の今昔。(現在)外房線沿いに南下するのが「房総東往還」。(1880年代)太く記された道が「房総東往還」道。この時期は、いったん「大網宿」に入り、東金~大網と続く道に合流し、南下していたようです。短い距離ですが、右に旧道があります。「病院」脇の道。合流。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。左右に田園風景が広がります。外房線が遠くに。「がまの穂」が密生。ガマとはガマ科ガマ属の植物で6月から8月にきりたんぽやソーセージ、フランクフルトに似た茶色の花を咲かせます。これをガマの穂と呼びます。ガマの葉は最大で150cmから200cmにもなるほどの...JR外房線「大網」~「茂原」。その1。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

  • 向島百花園。菊花展。盆栽造りと野菊と・・・。のこんぎく。りんどう。ぶっそうげ。

    初冬の園内。11月12日(日)。曇り空。一気に冬の気配。薄着ではかなり肌寒い。そんな中、向島百花園へ。菊花展が開かれています。丹誠込めた菊の盆栽。真ん中の作品は、「村のお祭り」。それぞれ凝った作品がずらり。鉢植えも置かれています。まだ時期が少し早そうですが。職人さん達の丹誠込めた菊がたくさん。地植えの野菊。こんぎく。のこんぎく。・北海道と沖縄を除く全国に分布するキク科の多年草。ヨメナと共に、いわゆる「野菊」と呼ばれるキクの代表。葉はヨメナと同じように食用になり、味もよく似る。別名をコンギク、ナンヨウシュンギクという。・日向を好み、田んぼの畦道、山道あるいは林の縁などの開けた場所に多い。根はいわゆる地下茎であり、横に広がって群生する。・野に咲く紺色の菊という意味合いでノコンギクと命名されたが、花の色は白~薄...向島百花園。菊花展。盆栽造りと野菊と・・・。のこんぎく。りんどう。ぶっそうげ。

  • JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その4。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

    大網方向へ。切通しの下り坂。けっこう車の行き来が多く、急なカーブが続く中、スピードも出てるようで、路端を歩くのはちょっと恐い!眼下に民家。眼下の左右が開けてくる。右に下る道が旧道?※「Googleマップ」では「大網街道」と表示されている。房総らしい谷戸、田園風景。振り返る。北方向。南東方向。今度は上り坂。右奥に「圏央道」の橋脚。南方向。「大網白里市」に。千葉市から大網白里市へ。「圏央道(千葉区間)」をくぐる。北方向。この右手に旧道?来た道を振り返る。この付近。「県道20号(現大槻街道)」から分かれた旧道があるはずですが、ちょっと不明。この川沿いに大網駅へ。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。前方に「大網駅」。西側方向。※この川沿いが「房総東往還」道...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その4。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

  • JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その3。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

    大網駅まで再開。下り坂。下りきったら、左折して上り坂を。けっこうな坂道。右に曲がると、落ち着いた家並みに。奥に「天満宮」。振り返る。突き当りを右折し、下り坂に。大網街道の右手にあすみが丘池。この付近の今昔。(現在)下りきって「現大網街道」に合流。(1880年代)大網への旧道は曲がりくねっている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)正面に「昭和の森」。千葉市昭和の森千葉県千葉市緑区にある都市公園(総合公園)である。名称に公園はつかない。敷地面積は約100haと千葉市内最大規模の公園であり、広場、遊び場、キャンプ場、野球場、テニスコート、サイクリングコース、ウォーキングコース、展望台、アウトドア施設、宿泊施設等多くの施設がある。園内には遺跡も保存されており、荻生道遺跡は県指定史跡に指定されている。公園は一部...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その3。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

  • JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その2。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

    槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その2。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

  • JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

    「誉田駅」。今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。前回歩かなかった旧道を振り返る。それに続く旧道を歩くことに。誉田駅を望む。住宅地を進む。「県道20号(大網街道)」に合流。跨線橋を渡る。外房線に沿って進む。「誉田IC」。千葉県道67号生実本納線(おゆみほんのうせん)千葉市緑区から茂原市に至る、主要地方道である。かつては、一部区間が千葉県道路公社が管理していた有料道路の千葉外房有料道路であったが、2023年(令和5年)2月1日に全線無料開放された。東京・千葉方面と外房方面を連絡する道路のうち、千葉県道20号千葉大網線(大網街道)の慢性的な交通渋滞緩和のために建設された。事業費は、約234億円。(「Wikipedia」より)左右に畑地が広がる。大き...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

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    槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...z

  • JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)

    鎌取駅前の賑やかな通り。「房総東往還」(大網街道)は、駅の反対側を進みますが、当方は、この道を「誉田駅」に向かいます。線路方向を望む。「大木戸」。※「木戸」=人間や物品の出入りを管理するのが目的で、城下や宿場内外の境界に設置された関所。道の反対側に「都川防災調整池」が広がります。直線道路をけっこう歩き、やっとここで「大網街道」に出会います。野田十字路。旧道に復帰。大きなおうちが目立つ。「中宿」バス停。旧道らしい道筋。土蔵。左手に「五日堂」。日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊跡。日浄は折伏布教して家康に弾圧された日経の弟子で、日経亡き後、関東一円の法華経の普及に努めましたが、幕府の弾圧を受けて信徒と共に斬首に処されました。この五輪塔は、高田村の源右衛門が日浄の供養のために造り、当時幕府の目を恐れて土中に埋めてい...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)

  • JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)

    坂道を振り返る。旧家の雰囲気。一方でモダンなおうちも。落ち着いた家並み。「北生実上宿」信号。この付近は、「北小弓城」下の町ということに。生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城。北生実城・北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩の陣屋(生実陣屋)がおかれた。千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年(永正14年)に足利義明(小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えた...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)

  • JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)

    歩き始めると、すぐ左手に古い建物。「旧生浜(濱)町役場庁舎」。解説板。旧生浜(おいはま)町は、現在の中央区から緑区にまたがる地域にあった町です。1889(明治22)年に北生実(おゆみ)・南生実・浜野・村田・有吉(ありよし)の5か村が合併して生実浜野村となり、1925(大正14)年に生浜村に改称しました。1928(昭和3)年の町制施行により生浜町が生まれました。生浜町の誕生を機に、1932(昭和7)年に建てられたのがこの旧生浜町役場庁舎です。生浜町は1955(昭和30)年に千葉市へ編入されましたが、この建物は生浜支所・生浜地区市民センターとして1992(平成4)年まで使用され、長く地域の人々に親しまれてきました。木造2階建てフランス瓦葺き、市内に残る昭和初期の洋風建築で、1階は役場、2階は議場になっていまし...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)

  • JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。(「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)・房総東往還」を歩く。)

    JR内房線「浜野駅」今回から「房総東往還」を歩くことにします。伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。千葉県の外房の大部分を通っており、現在は県道14号と国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震・関東地震(関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震や慶長地震などの房総沖地震、千葉県東方沖地震などにより隆起・沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立...JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。(「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)・房総東往還」を歩く。)

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