すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
「阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬関東工場」。「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。この道をたどってみます。沢井製薬。しばらく直線の道。広い道にぶつかります。この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。ここでおさらい。(「」HPより拝借)三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。1957年(昭和32年)旧海軍茂原...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。12月28日。曇り。北風寒し。茂原駅。高架線の下が遊歩道になっています。ただ、この道が貨物線の廃線跡そのものではなさそうですが。振り返る。↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)※○が本線との合流地点と思われます。「房総東往還」道を渡ります。正面の道が「農総東往還」。「高師」交差点。大きく右にカーブします。右奥に「県立長生高校」。「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。「信号」と刻まれた標石。茂原駅からの高架線が下...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
海岸に向かいます。観光案内図。御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。「御宿町営ウォーターパーク」。「清水川」河口。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられ...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。房総らしい屋根のおうち。この建物は?モルタル2階建て。どんな商いをしていた建物なのか?今は廃業中。「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。「御宿小学校」正門前を左折。この三叉路を右に。「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。※「ロペス通り」の由来は、後で。「ロペス通り」。海岸方面を望む。この細道が旧道にあたる。「御宿駅」方向を望む。「清水川」に突き当たります。旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
しばらく「国道128号」を進みます。振り返ると、「WelcometoISUMI」。この先、御宿町に入ることに。洒落たスープカリーのお店。この先で、国道から右に分かれて進む。国道は一直線で御宿の町へ。来た道を振り返る。外房線の踏切を越えます。「第二房総街道踏切」。しばらく線路沿いに進みます。山道を行く雰囲気。舗装されていますが、車が来たら大変!しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。切通しの道が続く。前方が開け、やっと広い道に。来た道を振り返る。「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。外房線を越える。左手上に「WANぱく館」(廃業)。山道(?)を振り返る。国道128号に合流、御宿町に入ります。「WELCOMETOONJUKU」。街路樹が南国的な雰囲気。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
「ログハウス」など住宅地が奥に広がる。しかし、道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。崩れ落ちた家。どれくらい経過したのか?集落を抜けると、田畑が広がり、住宅も。「浪花駅」方向。標準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。(「Googleマップ」より)外房線「浪花駅」。島式ホーム1面2線を有する地上駅。国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があった。駅舎側に貨物ホームもあり、現在のような単調な配線ではなかった。また、いすみ鉄道が国鉄の木原線時代に機械式気動車だけで運転されていたころは現在の上り線の外側に側線が一本あり(プラットホームの写真の上り線外側にある草むらが側線の跡)、廃車されたレールバス・キハ01がしばらく留置されていた。側線...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
左に折れて、今度は右に折れます。その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。正面上部如意輪観音半跏座像。下部左「四國西國/秩父坂東」下部右「此方、かつうら/ぼう志ふなこ/こみなとみち」(勝浦/房州那古/小湊道)右側面右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)左側面左指差し図、下に「一の宮江戸/きよみづ、道」この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。この先で県道に合流します。さらに「国道128号」に合流。右側に立派なおうち。右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。※「上総広常」平安時代末期の武将、豪族、上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね、上總介廣常とも)の呼称が広く用いられるが、上総介は...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
大原駅で小休止し、南に向かいます。元酒屋さんらしい。道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。現役のおうちが二棟。振り返る。かつての曲尺手の名残でしょうか?県立大原高校付近。この先、旧道が左に。「大原小・わんぱくランド」のところを右折。「忠霊塔」の先で、行き止まり。振り返る。県道に戻ることに。この右手に旧道があるはずですが。この先で外房線の踏切を越えます。「第一房総街道踏切」とあります。「大原」方向。御宿方向。踏切を渡ってすぐ左折します。左手にジグザグに旧道が残っています。この付近の今昔。(1880年代)西に流れる「塩田川」との関連あるか?(現在)二ヶ所の○が旧道。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。右手奥には、「JAいすみグリーンスパいすみ」の建物。房総らしい低い山並みが見える。街道は右に大きくカーブします。右手奥に緑豊かな低山。「宮元橋」で「新田川」を越えます。※新田川-千葉県いすみ市を流れる塩田川水系の二級河川。すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。「房総街道踏切」。※今夏。内房線・五井で乗り換え、小湊鐡道」、「いすみ鉄道」と乗り継いで大原まで列車の旅をしました。いすみ鉄道の終点「大原駅」方向。「大多喜駅」方向。「大原駅」に向かう坂。「塩田川」を渡ります。上流方向。千葉県いすみ市を流れる本流の二級河川。下流方向。いすみ鉄道の鉄橋。「大原はだか祭り」のポスター。9月下旬の2日間にわたって行われる雄壮な祭りです。十数...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
12月9日(土)。晴れ。外房線「三門駅」。旧道に復帰します。街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。外房線の線路沿いに「征清征露碑」。「日在(ひあり)踏切」。右手の土手は、「大山堰」。大山堰の奥には、「老人ホームエスポワール大原」。左手には外房線。右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。(「古城盛衰記」HPより)※山裾沿いに進む「房総東往還」。遠く海方向。住宅地に入っていきます。旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。水準点。奥に田畑が広がる。「三省学校跡」碑...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
この先、静かで落ち着いた住宅地を進みます。房総らしい屋根。空き地や廃屋も目立つ。手入れの行き届いた槙の生垣。大きなお屋敷が連なる。街道らしいカーブが続く。車の行き来はあるが、人通りはなし。「本寿院」入口にある水準点。かつて、この道は、この付近の主要な道として存在していたことが分かります。この付近の今昔。(現在)水準点が表示されている。(1880年代)道沿いに街並みが形成されている。※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。来た道(旧道)を振り返る。旧江場土村。国道128号を斜めに通過します...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。複雑でユニークな屋根。こちらは房総らしい屋根のおうち。「長者」。一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)「飯島喜美」記念碑。匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)・ひろひろと夷隅の川の海に入る岬のかなたに虹立ちて居り・よしきりのここだ来啼ける河口にかか...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
ここにも親子連れが。周囲は、広々と。バス停「小福公民館前」。左手に大きな建物。こちらは小さなぬいぐるみたち?振り向くと、一家勢ぞろい。こうして「スタート」地点に。「いすみ市岬ふれあい会館・文化センター」。歩いた日が、11月30日。翌々日の大会のために準備に慌ただしいようす。当日は、なかなかの盛り上がりを見せていたようです。この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。と、角にあるお店。「池田屋菓舗」。かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。バス停「岬郵便局前」。長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、商店街らしい雰囲気はありません。バス停「千葉銀行長者出張所前」。(「今昔マップ」より)往還道沿いに町場が形成されていたようです。JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
「椎木商店街」もここまで。「福原橋」で夷隅川を渡ります。夷隅川(いすみがわ)千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ。勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である。夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある。夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。江戸中期から明治中...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
都内の商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。車が行き来するも、人通りも少ない。、売り地。細長い土地。「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手になっていました。椎木宿「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
落ち着いて静かな街並み。すっかり色あせた看板。写真屋さん?この先で「いずみ市」に入ります。緩い下り坂。右手のおうち、軒先までサボテンの木。!!鮮やかな紅葉。下ると、家並みが開ける。左右の森も少なくなり、「岬町椎木(しぎ)」。「梨販売所」。季節も終わり、閉店中。千葉県は梨の生産高全国1位ですが、中でも「一宮・岬梨組合」の梨は、大きくて甘い早出し産地として有名です。主な栽培品種は「幸水」「豊水」「新高(にいたか)」で、人気上昇中の新しい品種「あきづき」も年々生産量が増えてきています。梨は水分と食物繊維の含有量が比較的多く、便秘予防、高血圧予防の他、夏バテ解消にも効果があると言われています。せん定、緑枝管理等各種講習会、出荷査定会等をこまめに開催し、甘くてみずみずしい梨を出荷するよう心掛けています。(この項、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
斜め右に進みます。「梨街道・椎木(しぎ)商店街・みさき」。南下する「国道128号」。門扉のみの敷地。右に小さな祠。「出征土偶」とあります。「土偶」について、作られた理由採集生活をしていた縄文人にとって自然の恵みがいかに大切かを考えると、1万年近く日本各地で作られていたことも不思議ではない気がします。縄文時代については謎が多く、土偶が何のために作られたのかについてはいくつかの説があります。ここでは代表的な二つの説を紹介しましょう。①身代わりにするため日本では古代から病や怪我の原因を「ケガレ」のせいと考えてきました。このケガレを身体から移し取り除くために使われたのが身代わり、形代(かたしろ)と呼ばれるものです。同じように縄文人が形代=土偶を使ったとすると、ケガレを移した土偶を破棄する、つまり壊す必要があります...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
11月23日(祝)。晴れ。「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。外房線。旧道。駅方向。旧道に復帰します。上総一宮町のマンホール。・町の木クロマツと太平洋の荒波をデザインした集落排水管。町章は宮の「み」を一宮の「一」で丸く囲んだデザイン。右手に「国道128号(房総横断道路)」が見えてきます。国道に合流し、南に向かいます。けっこう車の量が多い。房総らしい屋根のおうち。右手の家並み。左手、海方向。左手にほんの少し旧道が。右手に見えるのが、国道128号。せがい造りの立派なおうち。右手丁字路のところに「浪切地蔵」。「忠魂碑」等。「一宮町立東浪見小学校」。駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか?・・・「とらみ」と読みます。※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
「大雪(たいせつ)」。二十四節気の21番目12月7日〜12月21日頃。大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。七十二候では、初候 12月7日〜12月10日頃閉塞成冬そらさむくふゆとなる天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。次候 12月11日〜12月15日頃熊蟄穴くまあなにこもる熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。ところが、今年は!クマ被害人数11月までに211人で過去最多冬眠時...「大雪」。12月7日。
JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)
鉄道好きな孫を連れて、外房線から内房線をぐるっと一周の旅に。JR船橋駅で待ち合わせ、蘇我で「特急わかしお3号」に乗り、安房鴨川まで。そこから在来線に乗り換え、館山まで。孫のもう一つの目的は館山に新規開店した「やまと寿司」でマグロを食べたい。と。11月27日(日)「曇り時々雨」というお天気でしたが、朝は母親が、夕方は父親が送りと迎えに。ま、小学生なので、そう心配することもなく、出かけました。房総東往還を電車でいち早く実行してしまったわけです。※房総往還(内房線沿い)は、すでに歩きました。以下は、その時の記録。孫がスマホで撮ったものが多い。「蘇我」9:37発。自由席で。海が見えてきます。サーファーの姿が。勝浦付近。安房鴨川付近。安房鴨川駅10:54着。「普通列車」安房鴨川駅10:59発。遠くに海が。停まって電...JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「一宮館」本館の裏手にあります。芥川荘は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。(「解説板」より)一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
丘の上から海岸を望む。今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。(「TBSテレビ2023年4月3日(月)10:26」より)広場には、「芥川龍之介愛の碑。」芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。当時彼は吉田弥生という女性に初恋し激しい相愛の仲になったものの養家(彼の母の実家)芥川家が士族吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。彼の親友堀内利器...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「農免道路」という標識が。農免農道というのは、その農道を作った事業名に由来し、その事業名とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」と呼ばれている公共事業で農林水産省の補助事業です。どこにも“免”の字はありません、それは、S28年に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」で揮発油税の収入は、国道や県道の道路の整備に使うことが決められたのですが。「農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費として税金を“免除”してほしい」との声が強くなり、その声に答えるように発足したのがこの事業です。個人を特定して税金の免除は、できないから、その替わりに農道の整備を行うと言う主旨で発足した事業です。そこで,免税の“免”の字をとって略称で「農免農道」と呼ばれています。「農林漁業用揮発油税財源身替農道」は名称...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「上総一ノ宮駅」東口。駅を出て、斜めの道を進み、「伊南房州道往還(房総東往還)」旧道へ。「大原」への道筋を確認。駅東口からの海岸への直線道路を進みます。実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。↓。(「今昔マップ」より)■「奇妙な気球が空に消えた」昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
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すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
運動広場が続いています。パークゴルフ?それともグラウンドゴルフ?この先、公園ではどこもゴルフを楽しんでいます。河川敷なので大雨なのでは水没する可能性も。両の島水門。橋が見えてきます。「荒川橋」。JR宇都宮線・鉄橋。白岡駅方向。「椿山住宅地」。川沿いの緑地・公園へ。この公園の土手際には、様々な花が咲き誇っています。知らない名前の花たちが、色鮮やかに。素敵なおうち。「新荒川橋」。少し河川敷から離れて進みます。キウイがたくさん実る棚の下を抜け、河川敷に。この公園でもゴルフを楽しむ人たちの姿。元荒川の流れ。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
「川島久伊豆神社」脇の解説板。「元荒川の水はどこから来るの?」「久伊豆神社めぐり」。「宮前橋」。下流方向。上流方向。左に向かうと、JR宇都宮線「蓮田駅」に出ます。蓮田市のマンホール。蓮田市の木「ハナミズキ」のカラーデザイン。橋のたもとに「元荒川」解説板。元荒川(もとあらかわ)元荒川は、熊谷市から南東に流れ、白岡市で野通(やどおり)川を、蓮田市で星(ほし)川を合わせ、吉川町で古利根(ふるとね)川(中川)に合流する、長さ約六〇キロメートルの一級河川である。現在県中央部を流れる荒川(あらかわ)は古来しばしば流路を変え、県東部地区低地を乱流していた。江戸時代初期の荒川は、現在の元荒川の流路を本流とし、一部は分流として現在の綾瀬(あやせ)川の方にも流れていた。このため沿岸一帯はしばしば大きな水害を受けたので、関東代...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
カルガモ親子は、どうしているか?7月15日。曇り空の下、向島百花園にでかけました。訪問客もチラホラ。静かな園内。さぎそう。花がシラサギの姿によく似ています。※サギソウは、日本各地の日当たりのよい低地の湿地に生える球根性のランです。親株から走出枝(そうしゅつし、ランナー)を伸ばして、その先端に翌年の球根をつくります。3~5枚の細長い葉を根元近くにつけ、中心からまっすぐに茎を伸ばして、先端に1~5輪の花を咲かせます。花は純白で唇弁(しんべん)の先端が3つに割れ、その左右の裂片には多数の深い切れ込みがあって、その形は白鷺を思わせます。冬は球根だけになって冬越しします。おみなえし(女郎花)。ききょう(桔梗)。「秋の七草」(お好きな服は)の二つ。ところで、カルガモは?池の中で泳いでいるのは、親鳥とあと1羽。残りはど...向島百花園。さぎそう・おみなえし・ききょう。・・・カルガモ・オナガ。・・・そして我が家のソウタ。富士山遠景。
草刈りを行った後なので、歩きやすい。次の橋まではけっこう歩きます。右手には一面、田んぼが広がります。川面。この付近の今昔。(現在)。自然堤防が舗装道路に。(1880年代)。幅広い流路。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/c7/4c114c6731f6273b5cc2499ebfd1ef50.jpg">東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
突き当たりで右折し、すぐ左折します。草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。(現在)○が上の写真のところ。破線の緑道がかつての貨物線跡。「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。(「今昔マップ」より)※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。※農業学科と工業学科を併置する専門高等学校。来た道を振り返る。「文教通り」。道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。「萩原東公園」。茂原海軍航空...JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
静かな落ち着いた家並みが続きます。土蔵。来た道を振り返る。右は、宗延寺。「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。竹藪の向こう?付近を歩き回り、見つけることができました。農家の一角に。森の中に隠れるようにあります。住宅の裏手。掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(HardenedAircraftShelter)と呼ばれる。(「Wikipedia」より)・・・掩体壕について太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始...JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
農道の先には、外房線の踏切。振り返る。単調な歩道歩き。ほぼ直線。長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。前方に「腰当」交差点。※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)ここを左折し、外房線をくぐります。来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!歩行者専用道。右手に外房線の鉄橋。「阿久(あく)川」。下流方向。この付近の今昔。(現在)旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。(1880年代)「至本納駅道」とあるのが「房総東往還」。「大多喜天然ガス」マンホール。大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホー...JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。本納(宿)へ向かいます。街道筋らしい町並み。高台をバックに家並みが続きます。先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。振り返る。ここも「曲尺手」になっています。※「曲尺(かねじゃく)」。来た道を振り返る。バス停「本納駅入口」。ここも曲尺手の名残りか?看板建築。看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは...JR外房線「大網」~「茂原」。その3。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
『Googleマップ』で、「伊南房州通往還(※「房総東往還」)」と記されている道を進みます。バス停「永田駅入口」。すばらしい槙の垣根が続きます。垣根を立派にしつらえた、おうちが目立ちます。満開のコスモス。右に旧道が。奥に森が広がります。来た道を振り返る。もとの道に戻ります。里山風景。気が付いたら足元に「茂原市」の標石。茂原市に入りました。豪華な長屋門。刈入れを終えた田んぼが広がります。飛び去るシラサギ(↓)。外房線。鋭角に折れる旧道へ。合流するところに、「妙藏寺」石柱。顕本法華宗に属するお寺。この付近の今昔。(現在)〇が残された旧道。(1880年代)本道として機能している。この後、「本納宿」に入っていきます。JR外房線「大網」~「茂原」。その2。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
外房線「大網駅」。今回は、茂原駅まで歩くことに。川沿いの前回歩いた道(「房総東往還」)。この道を歩くことに。この付近の今昔。(現在)外房線沿いに南下するのが「房総東往還」。(1880年代)太く記された道が「房総東往還」道。この時期は、いったん「大網宿」に入り、東金~大網と続く道に合流し、南下していたようです。短い距離ですが、右に旧道があります。「病院」脇の道。合流。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。左右に田園風景が広がります。外房線が遠くに。「がまの穂」が密生。ガマとはガマ科ガマ属の植物で6月から8月にきりたんぽやソーセージ、フランクフルトに似た茶色の花を咲かせます。これをガマの穂と呼びます。ガマの葉は最大で150cmから200cmにもなるほどの...JR外房線「大網」~「茂原」。その1。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
初冬の園内。11月12日(日)。曇り空。一気に冬の気配。薄着ではかなり肌寒い。そんな中、向島百花園へ。菊花展が開かれています。丹誠込めた菊の盆栽。真ん中の作品は、「村のお祭り」。それぞれ凝った作品がずらり。鉢植えも置かれています。まだ時期が少し早そうですが。職人さん達の丹誠込めた菊がたくさん。地植えの野菊。こんぎく。のこんぎく。・北海道と沖縄を除く全国に分布するキク科の多年草。ヨメナと共に、いわゆる「野菊」と呼ばれるキクの代表。葉はヨメナと同じように食用になり、味もよく似る。別名をコンギク、ナンヨウシュンギクという。・日向を好み、田んぼの畦道、山道あるいは林の縁などの開けた場所に多い。根はいわゆる地下茎であり、横に広がって群生する。・野に咲く紺色の菊という意味合いでノコンギクと命名されたが、花の色は白~薄...向島百花園。菊花展。盆栽造りと野菊と・・・。のこんぎく。りんどう。ぶっそうげ。
大網方向へ。切通しの下り坂。けっこう車の行き来が多く、急なカーブが続く中、スピードも出てるようで、路端を歩くのはちょっと恐い!眼下に民家。眼下の左右が開けてくる。右に下る道が旧道?※「Googleマップ」では「大網街道」と表示されている。房総らしい谷戸、田園風景。振り返る。北方向。南東方向。今度は上り坂。右奥に「圏央道」の橋脚。南方向。「大網白里市」に。千葉市から大網白里市へ。「圏央道(千葉区間)」をくぐる。北方向。この右手に旧道?来た道を振り返る。この付近。「県道20号(現大槻街道)」から分かれた旧道があるはずですが、ちょっと不明。この川沿いに大網駅へ。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。前方に「大網駅」。西側方向。※この川沿いが「房総東往還」道...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その4。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
大網駅まで再開。下り坂。下りきったら、左折して上り坂を。けっこうな坂道。右に曲がると、落ち着いた家並みに。奥に「天満宮」。振り返る。突き当りを右折し、下り坂に。大網街道の右手にあすみが丘池。この付近の今昔。(現在)下りきって「現大網街道」に合流。(1880年代)大網への旧道は曲がりくねっている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)正面に「昭和の森」。千葉市昭和の森千葉県千葉市緑区にある都市公園(総合公園)である。名称に公園はつかない。敷地面積は約100haと千葉市内最大規模の公園であり、広場、遊び場、キャンプ場、野球場、テニスコート、サイクリングコース、ウォーキングコース、展望台、アウトドア施設、宿泊施設等多くの施設がある。園内には遺跡も保存されており、荻生道遺跡は県指定史跡に指定されている。公園は一部...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その3。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その2。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
「誉田駅」。今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。前回歩かなかった旧道を振り返る。それに続く旧道を歩くことに。誉田駅を望む。住宅地を進む。「県道20号(大網街道)」に合流。跨線橋を渡る。外房線に沿って進む。「誉田IC」。千葉県道67号生実本納線(おゆみほんのうせん)千葉市緑区から茂原市に至る、主要地方道である。かつては、一部区間が千葉県道路公社が管理していた有料道路の千葉外房有料道路であったが、2023年(令和5年)2月1日に全線無料開放された。東京・千葉方面と外房方面を連絡する道路のうち、千葉県道20号千葉大網線(大網街道)の慢性的な交通渋滞緩和のために建設された。事業費は、約234億円。(「Wikipedia」より)左右に畑地が広がる。大き...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...z
鎌取駅前の賑やかな通り。「房総東往還」(大網街道)は、駅の反対側を進みますが、当方は、この道を「誉田駅」に向かいます。線路方向を望む。「大木戸」。※「木戸」=人間や物品の出入りを管理するのが目的で、城下や宿場内外の境界に設置された関所。道の反対側に「都川防災調整池」が広がります。直線道路をけっこう歩き、やっとここで「大網街道」に出会います。野田十字路。旧道に復帰。大きなおうちが目立つ。「中宿」バス停。旧道らしい道筋。土蔵。左手に「五日堂」。日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊跡。日浄は折伏布教して家康に弾圧された日経の弟子で、日経亡き後、関東一円の法華経の普及に努めましたが、幕府の弾圧を受けて信徒と共に斬首に処されました。この五輪塔は、高田村の源右衛門が日浄の供養のために造り、当時幕府の目を恐れて土中に埋めてい...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
坂道を振り返る。旧家の雰囲気。一方でモダンなおうちも。落ち着いた家並み。「北生実上宿」信号。この付近は、「北小弓城」下の町ということに。生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城。北生実城・北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩の陣屋(生実陣屋)がおかれた。千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年(永正14年)に足利義明(小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えた...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
歩き始めると、すぐ左手に古い建物。「旧生浜(濱)町役場庁舎」。解説板。旧生浜(おいはま)町は、現在の中央区から緑区にまたがる地域にあった町です。1889(明治22)年に北生実(おゆみ)・南生実・浜野・村田・有吉(ありよし)の5か村が合併して生実浜野村となり、1925(大正14)年に生浜村に改称しました。1928(昭和3)年の町制施行により生浜町が生まれました。生浜町の誕生を機に、1932(昭和7)年に建てられたのがこの旧生浜町役場庁舎です。生浜町は1955(昭和30)年に千葉市へ編入されましたが、この建物は生浜支所・生浜地区市民センターとして1992(平成4)年まで使用され、長く地域の人々に親しまれてきました。木造2階建てフランス瓦葺き、市内に残る昭和初期の洋風建築で、1階は役場、2階は議場になっていまし...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
JR内房線「浜野駅」今回から「房総東往還」を歩くことにします。伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。千葉県の外房の大部分を通っており、現在は県道14号と国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震・関東地震(関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震や慶長地震などの房総沖地震、千葉県東方沖地震などにより隆起・沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立...JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。(「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)・房総東往還」を歩く。)
運転席から。中央道(大月~河口湖~山中湖)。桂川。相模川(さがみがわ)の上流・山梨県内の呼称。富士山の伏流水を水源とする忍野八海、山中湖に源を発する。由来については、かつて都留市東桂から富士吉田市明見、鐘山へと続く流域に桂の大木が茂っていたことに因む説や都留郡のつるが蔓葛(つる)と転記され、蔓葛(かづら)の読みから桂へ転記されたとする説[石割山の石割神社の桂の神木に因む説などがあり、定かではない。リニア実験線。右手後方に「山梨県立リニア見学センター」があります。・・・<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/02/1ec9c8221708c05260e2b8ca23caad46.jpg">JR東海が強引に進める東京・品川―愛知・名古屋間を走らせるリニ...ローカル私鉄の旅。51。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その7。
「都留文科大学前」駅に近づいてきます。大学キャンパスは右手奥に広がります。1953年(昭和28年)に山梨県立臨時教員養成所として発足し、1955年(昭和30年)に都留市立都留短期大学に、さらに1960年(昭和35年)に4年制の都留市立都留文科大学となった。東日本エリアの公立大学で唯一の教員養成系大学であり、卒業生の多くが教職に就いている。とりわけ創設以来、小学校教員養成に力を注いできた。人口約3万人の地方小都市である都留市が大学運営を行っている市立大学である。2009年(平成21年)に公立大学法人へ移行し、2013年(平成25年)に創立60周年を迎えた。都留市の中心部である谷村は、江戸時代に興譲館という郷学が設立されるなど、教育・文化を重視する風土があり、県立臨時教員養成所の誘致や短期大学への移行は市民の...ローカル私鉄の旅。50。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その6。
木造の格子仕立て。遠ざかる富士山。木に隠された!「道志」方向。「月光寺(げっこうじ)」。「下吉田」。ブルートレインなど客車や貨車が陳列。開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受...ローカル私鉄の旅。49。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その5。
「富士山駅」から。晴天の下での富士山。河口湖へ向かう外国人多し。「富士山(ふじやま)ビール」がずらり。駅舎と重なる。構内のお土産屋さんもにぎやか。「大月」まで「富士山ビュー特急」で戻ることに。3号車自由席運賃+400円。※「1号車は料金も設備も別格。元の車両は、JR東海が小田急新宿駅への直通特急「あさぎり」号で使用していた371系。JR東海での運行終了に伴い、富士急行が譲渡を受けて、同社の2000系「フジサン特急」の老朽化引退の後継としてデビューしました。富士急行ではこれ以前に、2014年から小田急の「あさぎり」号で活躍していた20000形ロマンスカーも中古導入しており、かつて「あさぎり」号で活躍した2車種が、再び富士山麓で競演する姿が見られるようになりました。(この項、「」HPより)この電車はスイスの列...ローカル私鉄の旅。48。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その4。