神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
「阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬関東工場」。「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。この道をたどってみます。沢井製薬。しばらく直線の道。広い道にぶつかります。この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。ここでおさらい。(「」HPより拝借)三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。1957年(昭和32年)旧海軍茂原...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。12月28日。曇り。北風寒し。茂原駅。高架線の下が遊歩道になっています。ただ、この道が貨物線の廃線跡そのものではなさそうですが。振り返る。↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)※○が本線との合流地点と思われます。「房総東往還」道を渡ります。正面の道が「農総東往還」。「高師」交差点。大きく右にカーブします。右奥に「県立長生高校」。「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。「信号」と刻まれた標石。茂原駅からの高架線が下...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
海岸に向かいます。観光案内図。御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。「御宿町営ウォーターパーク」。「清水川」河口。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられ...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。房総らしい屋根のおうち。この建物は?モルタル2階建て。どんな商いをしていた建物なのか?今は廃業中。「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。「御宿小学校」正門前を左折。この三叉路を右に。「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。※「ロペス通り」の由来は、後で。「ロペス通り」。海岸方面を望む。この細道が旧道にあたる。「御宿駅」方向を望む。「清水川」に突き当たります。旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
しばらく「国道128号」を進みます。振り返ると、「WelcometoISUMI」。この先、御宿町に入ることに。洒落たスープカリーのお店。この先で、国道から右に分かれて進む。国道は一直線で御宿の町へ。来た道を振り返る。外房線の踏切を越えます。「第二房総街道踏切」。しばらく線路沿いに進みます。山道を行く雰囲気。舗装されていますが、車が来たら大変!しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。切通しの道が続く。前方が開け、やっと広い道に。来た道を振り返る。「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。外房線を越える。左手上に「WANぱく館」(廃業)。山道(?)を振り返る。国道128号に合流、御宿町に入ります。「WELCOMETOONJUKU」。街路樹が南国的な雰囲気。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
「ログハウス」など住宅地が奥に広がる。しかし、道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。崩れ落ちた家。どれくらい経過したのか?集落を抜けると、田畑が広がり、住宅も。「浪花駅」方向。標準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。(「Googleマップ」より)外房線「浪花駅」。島式ホーム1面2線を有する地上駅。国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があった。駅舎側に貨物ホームもあり、現在のような単調な配線ではなかった。また、いすみ鉄道が国鉄の木原線時代に機械式気動車だけで運転されていたころは現在の上り線の外側に側線が一本あり(プラットホームの写真の上り線外側にある草むらが側線の跡)、廃車されたレールバス・キハ01がしばらく留置されていた。側線...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
左に折れて、今度は右に折れます。その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。正面上部如意輪観音半跏座像。下部左「四國西國/秩父坂東」下部右「此方、かつうら/ぼう志ふなこ/こみなとみち」(勝浦/房州那古/小湊道)右側面右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)左側面左指差し図、下に「一の宮江戸/きよみづ、道」この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。この先で県道に合流します。さらに「国道128号」に合流。右側に立派なおうち。右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。※「上総広常」平安時代末期の武将、豪族、上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね、上總介廣常とも)の呼称が広く用いられるが、上総介は...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
大原駅で小休止し、南に向かいます。元酒屋さんらしい。道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。現役のおうちが二棟。振り返る。かつての曲尺手の名残でしょうか?県立大原高校付近。この先、旧道が左に。「大原小・わんぱくランド」のところを右折。「忠霊塔」の先で、行き止まり。振り返る。県道に戻ることに。この右手に旧道があるはずですが。この先で外房線の踏切を越えます。「第一房総街道踏切」とあります。「大原」方向。御宿方向。踏切を渡ってすぐ左折します。左手にジグザグに旧道が残っています。この付近の今昔。(1880年代)西に流れる「塩田川」との関連あるか?(現在)二ヶ所の○が旧道。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。右手奥には、「JAいすみグリーンスパいすみ」の建物。房総らしい低い山並みが見える。街道は右に大きくカーブします。右手奥に緑豊かな低山。「宮元橋」で「新田川」を越えます。※新田川-千葉県いすみ市を流れる塩田川水系の二級河川。すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。「房総街道踏切」。※今夏。内房線・五井で乗り換え、小湊鐡道」、「いすみ鉄道」と乗り継いで大原まで列車の旅をしました。いすみ鉄道の終点「大原駅」方向。「大多喜駅」方向。「大原駅」に向かう坂。「塩田川」を渡ります。上流方向。千葉県いすみ市を流れる本流の二級河川。下流方向。いすみ鉄道の鉄橋。「大原はだか祭り」のポスター。9月下旬の2日間にわたって行われる雄壮な祭りです。十数...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
12月9日(土)。晴れ。外房線「三門駅」。旧道に復帰します。街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。外房線の線路沿いに「征清征露碑」。「日在(ひあり)踏切」。右手の土手は、「大山堰」。大山堰の奥には、「老人ホームエスポワール大原」。左手には外房線。右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。(「古城盛衰記」HPより)※山裾沿いに進む「房総東往還」。遠く海方向。住宅地に入っていきます。旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。水準点。奥に田畑が広がる。「三省学校跡」碑...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
この先、静かで落ち着いた住宅地を進みます。房総らしい屋根。空き地や廃屋も目立つ。手入れの行き届いた槙の生垣。大きなお屋敷が連なる。街道らしいカーブが続く。車の行き来はあるが、人通りはなし。「本寿院」入口にある水準点。かつて、この道は、この付近の主要な道として存在していたことが分かります。この付近の今昔。(現在)水準点が表示されている。(1880年代)道沿いに街並みが形成されている。※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。来た道(旧道)を振り返る。旧江場土村。国道128号を斜めに通過します...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。複雑でユニークな屋根。こちらは房総らしい屋根のおうち。「長者」。一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)「飯島喜美」記念碑。匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)・ひろひろと夷隅の川の海に入る岬のかなたに虹立ちて居り・よしきりのここだ来啼ける河口にかか...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
ここにも親子連れが。周囲は、広々と。バス停「小福公民館前」。左手に大きな建物。こちらは小さなぬいぐるみたち?振り向くと、一家勢ぞろい。こうして「スタート」地点に。「いすみ市岬ふれあい会館・文化センター」。歩いた日が、11月30日。翌々日の大会のために準備に慌ただしいようす。当日は、なかなかの盛り上がりを見せていたようです。この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。と、角にあるお店。「池田屋菓舗」。かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。バス停「岬郵便局前」。長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、商店街らしい雰囲気はありません。バス停「千葉銀行長者出張所前」。(「今昔マップ」より)往還道沿いに町場が形成されていたようです。JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
「椎木商店街」もここまで。「福原橋」で夷隅川を渡ります。夷隅川(いすみがわ)千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ。勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である。夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある。夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。江戸中期から明治中...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
都内の商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。車が行き来するも、人通りも少ない。、売り地。細長い土地。「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手になっていました。椎木宿「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
落ち着いて静かな街並み。すっかり色あせた看板。写真屋さん?この先で「いずみ市」に入ります。緩い下り坂。右手のおうち、軒先までサボテンの木。!!鮮やかな紅葉。下ると、家並みが開ける。左右の森も少なくなり、「岬町椎木(しぎ)」。「梨販売所」。季節も終わり、閉店中。千葉県は梨の生産高全国1位ですが、中でも「一宮・岬梨組合」の梨は、大きくて甘い早出し産地として有名です。主な栽培品種は「幸水」「豊水」「新高(にいたか)」で、人気上昇中の新しい品種「あきづき」も年々生産量が増えてきています。梨は水分と食物繊維の含有量が比較的多く、便秘予防、高血圧予防の他、夏バテ解消にも効果があると言われています。せん定、緑枝管理等各種講習会、出荷査定会等をこまめに開催し、甘くてみずみずしい梨を出荷するよう心掛けています。(この項、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
斜め右に進みます。「梨街道・椎木(しぎ)商店街・みさき」。南下する「国道128号」。門扉のみの敷地。右に小さな祠。「出征土偶」とあります。「土偶」について、作られた理由採集生活をしていた縄文人にとって自然の恵みがいかに大切かを考えると、1万年近く日本各地で作られていたことも不思議ではない気がします。縄文時代については謎が多く、土偶が何のために作られたのかについてはいくつかの説があります。ここでは代表的な二つの説を紹介しましょう。①身代わりにするため日本では古代から病や怪我の原因を「ケガレ」のせいと考えてきました。このケガレを身体から移し取り除くために使われたのが身代わり、形代(かたしろ)と呼ばれるものです。同じように縄文人が形代=土偶を使ったとすると、ケガレを移した土偶を破棄する、つまり壊す必要があります...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
11月23日(祝)。晴れ。「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。外房線。旧道。駅方向。旧道に復帰します。上総一宮町のマンホール。・町の木クロマツと太平洋の荒波をデザインした集落排水管。町章は宮の「み」を一宮の「一」で丸く囲んだデザイン。右手に「国道128号(房総横断道路)」が見えてきます。国道に合流し、南に向かいます。けっこう車の量が多い。房総らしい屋根のおうち。右手の家並み。左手、海方向。左手にほんの少し旧道が。右手に見えるのが、国道128号。せがい造りの立派なおうち。右手丁字路のところに「浪切地蔵」。「忠魂碑」等。「一宮町立東浪見小学校」。駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか?・・・「とらみ」と読みます。※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
「大雪(たいせつ)」。二十四節気の21番目12月7日〜12月21日頃。大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。七十二候では、初候 12月7日〜12月10日頃閉塞成冬そらさむくふゆとなる天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。次候 12月11日〜12月15日頃熊蟄穴くまあなにこもる熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。ところが、今年は!クマ被害人数11月までに211人で過去最多冬眠時...「大雪」。12月7日。
JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)
鉄道好きな孫を連れて、外房線から内房線をぐるっと一周の旅に。JR船橋駅で待ち合わせ、蘇我で「特急わかしお3号」に乗り、安房鴨川まで。そこから在来線に乗り換え、館山まで。孫のもう一つの目的は館山に新規開店した「やまと寿司」でマグロを食べたい。と。11月27日(日)「曇り時々雨」というお天気でしたが、朝は母親が、夕方は父親が送りと迎えに。ま、小学生なので、そう心配することもなく、出かけました。房総東往還を電車でいち早く実行してしまったわけです。※房総往還(内房線沿い)は、すでに歩きました。以下は、その時の記録。孫がスマホで撮ったものが多い。「蘇我」9:37発。自由席で。海が見えてきます。サーファーの姿が。勝浦付近。安房鴨川付近。安房鴨川駅10:54着。「普通列車」安房鴨川駅10:59発。遠くに海が。停まって電...JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「一宮館」本館の裏手にあります。芥川荘は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。(「解説板」より)一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
丘の上から海岸を望む。今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。(「TBSテレビ2023年4月3日(月)10:26」より)広場には、「芥川龍之介愛の碑。」芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。当時彼は吉田弥生という女性に初恋し激しい相愛の仲になったものの養家(彼の母の実家)芥川家が士族吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。彼の親友堀内利器...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「農免道路」という標識が。農免農道というのは、その農道を作った事業名に由来し、その事業名とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」と呼ばれている公共事業で農林水産省の補助事業です。どこにも“免”の字はありません、それは、S28年に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」で揮発油税の収入は、国道や県道の道路の整備に使うことが決められたのですが。「農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費として税金を“免除”してほしい」との声が強くなり、その声に答えるように発足したのがこの事業です。個人を特定して税金の免除は、できないから、その替わりに農道の整備を行うと言う主旨で発足した事業です。そこで,免税の“免”の字をとって略称で「農免農道」と呼ばれています。「農林漁業用揮発油税財源身替農道」は名称...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「上総一ノ宮駅」東口。駅を出て、斜めの道を進み、「伊南房州道往還(房総東往還)」旧道へ。「大原」への道筋を確認。駅東口からの海岸への直線道路を進みます。実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。↓。(「今昔マップ」より)■「奇妙な気球が空に消えた」昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「ブログリーダー」を活用して、おやじのつぼさんをフォローしませんか?
神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c
<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z
すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
運動広場が続いています。パークゴルフ?それともグラウンドゴルフ?この先、公園ではどこもゴルフを楽しんでいます。河川敷なので大雨なのでは水没する可能性も。両の島水門。橋が見えてきます。「荒川橋」。JR宇都宮線・鉄橋。白岡駅方向。「椿山住宅地」。川沿いの緑地・公園へ。この公園の土手際には、様々な花が咲き誇っています。知らない名前の花たちが、色鮮やかに。素敵なおうち。「新荒川橋」。少し河川敷から離れて進みます。キウイがたくさん実る棚の下を抜け、河川敷に。この公園でもゴルフを楽しむ人たちの姿。元荒川の流れ。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
眼下に「飯岡漁港」が広がります。飯岡の町並み。右奥の遊歩道を上がってきました。遠く九十九里浜が連なる。けっこう高台に上がってきます。左手奥が刑部岬の先端。「飯岡刑部岬展望館」が正面に。屏風ヶ浦先端に立つ「刑部灯台」。眼下に広がる大海原。「希望の鐘」。「打ち上げ花火下から見るか横から見るか」ロケ地。「東日本大震災により大きな被害を受けた本作のロケ地と東日本復興への願いをこめて」と、2011年7月22日から8月31日まで岩井俊二の公式サイトにて、無料で動画配信された。※Aパート、Bパートがあるようです。Bパート足をぶつけることなく勝った典道はなずなに「花火大会に二人で行こう」と誘われ、男友達にも「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」と誘われるも、ギリギリまで粘った典道はなずなとの約束を優先し...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その3。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
飯岡漁港付近の今昔。(1880年代)銚子港への道は、飯岡村(飯岡漁港)を抜けて、北東に向かいます。(現在)飯岡漁港付近は港湾施設が整備され、道筋は変化していますが、東側には旧道が残っています。刑部灯台を望む。釣り船が出航。灯台の方へ向かいます。この道はかつての往還道。現在は、遊歩道になっています。山を回り込みながら進む。右に「海津見神社」。通称「永井の妙見様」。急な石段を上っていきます。坂道を振り返る。かつての往還道になっている。50mほどの高さを一気に上がり、灯台に向かう舗装道路に出ます。銚子に向かう旧道はここから台地の縁を東に進みますが、次回に回すことにして、刑部灯台に向かいます。この付近の今昔。(1880年代)(現在)〇が分岐点。灯台への上り坂を行くと、絶景が待っていました。総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その2。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
今回は、もう一つある「銚子往還道(従銚子港至千葉町道)」を歩く、その前に。旧道に連なる「飯岡漁港」から刑部岬・灯台付近を探訪します。4・19(金)。晴れ。「旭駅」から旭市コミュニティバスを利用して、「玉崎神社」下車。(ここまで運賃100円。)※小学生、75歳以上、運転免許返上者は100円。通常は200円。数人乗ってきました。飯岡漁港まで歩きます。道路が整備され、新築のおうちが目立ちます。実は、それには背景があったのですが、後で知ります。さらに、19日に出かけた翌日、整髪に行ったとき。行きつけの床屋さん、飯岡の「三川」出身だということが判明。「昨日、歩きましたよ。旭駅からバスに乗って、飯岡漁港から刑部灯台まで」「高校まで三川に住んでいました」そこから、話が弾んで、玉崎神社までのコミュニティバスの停留所を停留...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その1。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
総武本線・上りの電車。古い石塔。旧道沿いの街並み。「塙廣屋」。屋号?「柴崎町」交差点。国道356号「利根水郷ライン」を横切る。※利根水郷ライン=千葉県銚子市から、我孫子市に至る全線に渡って利根川右岸に沿う。角に大きな記念碑。「銚子市立海上幼稚園」。奥に「海上小学校」。海上=うなかみ。海上村(うなかみむら)は、千葉県海上郡に存在した村。現在の銚子市の、おおむね松岸駅と椎柴駅・猿田駅の間の沿線に位置していた。海上は広域地名であり、1954年から2005年まで存在した海上町(現旭市)は本村と位置も異なる別の自治体である。銚子市立海上小学校などにその名をとどめている。いよいよゴール地点へ。正面は、「藤兵衛支店」。来た道を振り返る。「銚子信用金庫松岸支店」。佐原方面から利根川沿いを進む「銚子街道」と出会う(追分)。...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その6。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
すっかり春めいた今日この頃。小さな花が咲きそろっています。近所のおうちの車庫前の溝にも小さな花が。風で運ばれてきたのか、車で出かけたときにタイヤについてきたのか?土もなさそうなところに、けなげに咲いています。路地裏にも、これは我が家の鉢植え。そういえばサクラソウの咲く時期。毎年、百花園でも地元の方々が丹念に育てた「展示会」が開かれるはず、今年も、と出かけます。ところが、今年は中止。暑さで生育が思うようにいかなかった、とのこと。今年は園内で育てた花のみが。それでも、様々な色合い、姿のサクラソウが咲いています。満開のサツキ。ツツジとサツキは、それぞれ似た特徴をもった植物のようです。では、どうやって見分ければいいのでしょうか。「ツツジとサツキはどちらも花が非常に良く似ていることから、間違えてしまうことも多い植物...久々の「向島百花園」。4・20。ツツジ・サツキ。サクラソウ。タケノコ。タムケヤマ。カルガモの姿が。
収穫済みのキャベツ畑。平地が広がる。「標高8.5m」。約50m下がってきたわけです。前方遠くには「JR線」。東方向。西方向。キャベツ畑。JR総武本線踏切。「柴崎街道踏切」。銚子方向。旭方向。成田線「柴崎踏切」。佐原方向。銚子方向。この際、まとめて路線図。成田線総武本線佐倉駅から北へ分岐し、成田駅を経て、利根川南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である松岸駅へ至る本線と、成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線(我孫子支線)と、成田駅から約2km北の地点で本線と分岐し空港第2ビル駅を経て成田空港駅に向かう支線(空港支線)を持つ路線である。本線の佐倉駅-松岸駅間では総武本線よりも13.4km営業キロが長い。成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、千葉駅を発着する成田線発着・経由列車は、総武本線成東駅方面行きの列車と...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
三叉路に石碑などがいくつか。小さな集落に入ります。右手には畑が広がります。路傍には明るい色のキク科?の花々が。ガーベラ?この花の名は?右手下にも住宅が。剪定された見事な槙。県道に合流します。その手間に作業所。ダイコンを水洗いながら先端を切り落としています。カートに山積みされたダイコン。その作業所の前に、木彫りの熊?振り返る。合流地点に記念碑。この付近、旧道の道筋ははっきりしません。(1880年代)丘陵と丘陵の間を進む。(現在)黄線が県道。白線が旧道。西側には畑が広がる。この道が旧道の一部?東総台地の北端から下り坂にかかります。台地に上った分、下るわけです。坂の途中に古い石碑。右手は谷筋。前方が開けてきます。平地に降り立った印象。来た道を振り返る。<imgsrc="https://blogimg.goo.n...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
銚子市内に入っても、畑地が大きく広がる。収穫時期をずらしてのキャベツ畑。収穫済みとこれからのもの。こちらでは、ダイコンの収穫が盛んにおこなわれています。何を植えるのでしょうか?どういう工場・施設だったのか?廃業になっているようです。ダイコン畑。シートをかけた畝。これから大きくなるキャベツ。奥には、成長したキャベツ。キャベツもダイコンも収穫時期をずらすことで、年間を通しておいしい野菜が収穫できます。また、露地植え、といういところにこの地域の特徴があるようです。遠くの方まで、風力発電所の風車(プロペラ)が。シートを外したダイコン畑。緑濃きキャベツ。キャベツ畑が遠くまで続いています。県道から右にそれて進みます。小さな集落へ。ハウスから軽トラにいくつも苗を載せています。「何の苗ですか?」「メロンの苗でしすよ。」メ...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
大きな風車(プロペラ)の下にも畑。千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。車で成田空港方面から国道296号線を東進し、さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
4月13日(土)。晴れ。今回。総武本線「旭駅」で下車し、総武本線と成田線が合流する「松岸駅」から帰途に、という計画。歩くとかなり時間がかかり、途中、北総台地を越えていくことになります。膝の具合もよくないので、途中までタクシーを利用、台地の南端まで行き、そこから歩くという算段。けっこう安易な歩きになりそうです。この付近の今昔。(現在)道筋はほとんど変わらない。(1880年代)「従銚子港至千葉町道」。塙新町。まとまった集落になります。ここまではカーブが続く、緩い上り坂。振り返る。塙十字路。左の角に「塙十字路祠」。集落から次第に離れていくと、左右が開けてきます。風力発電の大きなプロペラが目に入ってきます。起伏にとんだ丘陵。緩やかな上り坂を進みます。右には谷に降りる細道。谷の向こうに雄姿を見せる巨大なプロペラ。振...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
「安中藩太田陣屋跡」。解説版。明和4年(1767)、上野安中藩の下総領二三ヵ村、およそ1万石の土地を支配する拠点として設けられた陣屋の跡。・・・安中藩はここ太田村に陣屋を置き、代官2名、与力数人を常駐させて、支配地の年貢の収納、治安などを行わせた。周囲に堀をめぐらし、南に長屋門をおき、奥に間口八間・奥行四間の役所があった。堀は排水溝程度のもので粗末なものだった。明治初年、廃藩になるまでのおよそ100年間を支配したが、江戸時代末期にアメリカのペリーが江戸湾に来航し、海防の必要から藩より30数人の武士が派遣増員された。廃藩後、陣屋の施設は撤去されたが、部下たちのなかには安中に帰らずにこの土地に残った者もあり、現在もその子孫が市内で生活している。県道に戻ります。旭市のマンホール。太平洋から昇る朝日と市の木クロマ...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
カフェ&レストラン「グレコ」。開けたところに出ます。角に「セブンイレブン」。旭の市街地に向かいます。すでに水が張られた田んぼ。「沖縄を楽しみましょう三線ライブもやっています」。昼間、お店は閉まっていますが。しばらく進んで旧道へ。旧家の趣。すぐ県道に復帰。来た道を振り返る。路地の奥に趣のあるおうち。「宿天神青年館」との看板が。7月27日、旭市太田の宿(しゅく)天神(てんじん)地区にある八坂神社祇園祭、通称「太田(おおた)祇園(ぎおん)」の夜に演じられるつく舞を、地元では「太田のエンヤーホー」と呼んでいる。つく舞は、長さ9間の柱と、その前に組まれた2間四方、2段の舞台で演じられ、動物の面を付けて舞台上段で無言劇を演じる「地(じ)舞(まい)」部分と、登り獅子がつく柱に登っての曲芸部分から成ります。地舞では赤獅子...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
園芸店[園芸店「川嘉園」。県道は、整備されたようです。カーブごとに注意喚起の表示。用水路と古仏。道路整備に伴って移転?槙の生垣が続く。槙の生垣が連なる様子は、房総半島によく見られる風景。趣ある門のおうち。匝瑳市から旭市に入ります。左の旧道に入ります。県道に、「小久保畳店」。「一針入魂」。国道に合流します。沿道沿いのおうち、鉢植えのチューリップが満開。趣のある門構え。内裏神社。社伝によれば、祭神耳面刀自媛(弘文天皇の妃)は関白太政大臣の藤原鎌足の娘で、白鳳元年に壬申乱が起り、妃は悲運にも弘文天皇と共に近江の露と消えゆる所を、逃れて東国に下りました。途中海難に遭い現在の匝瑳市野手の内裏塚浜に漂流し、不幸にもそこで病歿し、従者などが媛を葬り墳土を築きました。妃の従者の子孫の美敷が天慶3年(940年)に野手の墳土...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
銚子方向。車の通りも少ない旧道を進む。古い石塔。判読不能。バス停「新宿」。1880年代の古地図では民家がなく、「新宿」(しんじゅく・にいじゅく)という地名はありません。八日市場町が発展するにしたがって、「新宿」と名付けたものと思われます。※かつて、この地域には沼地・湿地帯が広がっていました。ここにも同じような古い石塔。「四国八八ヵ所巡礼・・・記念碑」?用水路と田畑が広がる。廃業となったビジネスホテル。ソテツがたくさん。通りの向こうに「水準点」。7.0m。田植えの準備中。この付近の今昔。(現在)(1880年代)↓の部分が直線化されている。左側の歩道が旧道?かなり幅広い。バス停「東谷入口」。家並みが続く地区へ。「匝瑳市立平和小学校」。「庚申塔」「西国参拝記念碑」など、まとまって古仏が置かれています。両側に家並...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
「銚子往還」歩きも5日目になりました。3月30日(土)。晴れ。今回は、総武本線から離れて歩きます。「旭駅」が街道近くにあるので、そこまで歩くことに。駅でいうと、2駅になります。「八日市場駅」。銚子往還(旧道)に「復帰します。看板建築。モルタル仕立て。バス停「法務局前」。「←八日市場青果地方卸売市場」。バス停「篭部田(かごべた)」。水準点。地中に埋めてあるケースもあるようです。9.0m国道126号に合流します。(「篭部田」三差路)左手奥に「市役所」、右に「八日市場ドーム」。この先、斜め右に入っていきます。「大利根用水西幹線用水路」大利根用水(おおとねようすい)千葉県北東部の利根川沿岸地域の排水と、九十九里平野北部の地域への農業用水の供給を目的とした用水路。疏水百選に選定されている。千葉県香取郡東庄町で利根川...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
街道沿いに家並みが続くようになります。バス停「砂原」(八日市場イ)。バス停「仲町」。「裁判所→」。「千葉地方裁判所八日市場支部」。「塚本弓具店」。なかなか素敵な店構え。八日市場の中心街に入ってきます。ところで、「八日市場町」とは?かつて毎月八日に市が開かれ、市場町として発展した。「八日市場」の名はこれにちなむ。似た市名としては、滋賀県の八日市市(ようかいちし、現東近江市)があった。また、匝瑳(そうさ)市に改称後もかつてのイ〜ホの前に「八日市場」の名が付いている。(「Wikipedia」より)匝瑳市は、平成18年1月23日、八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して誕生した市です。市の名称については、八日市場市・野栄町合併協議会において、15歳以上の住民を対象に両市町の名称を除いて行ったアンケート調査で1位であった...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
一昨日からPCの調子が悪く、電源を入れても起動しない。「ようこそ」がかなり長く(何分どころではない)続く。そのまま画面が動かず。再起動して先達の指示などを参考にして、あれこれ(例えばF8キーを押す)試みてもダメ。ますます事態は悪化(したのだろう)。PCにしてみればごちょごちょやりすぎだろ、爺さん!改善されない。HPで問い合わせてもらちが明かない。相手はおそらくAI。やり取りしても、行き違う。結局、PCを初期化することに、意を決して。昨日、5時間くらいかかって初期化。それで済むはずもなく、なんだかんだ我が家のPC様もご機嫌斜め。何とか再起動はしたが、今度は、メールやウィルス対策ソフトが起動しない。ここまでは、昨日夜。これらは、「明日できることは、今日するな」という原則に則って、今日に持ち越し。今朝。メール。...隅田川・お花見客でいっぱい。満開の桜のもと。ユリカモメもたくさん。曇り空の下。
この先、旧道は、いったん消滅します。国道126号に合流します。バス停「」。「飯倉」=「いいぐら」と読む。(→)※国道の東奥に総武本線「飯倉駅」があります。「飯倉」。来た道を振り返る。左手。右手には「九十九里ホーム病院」。残り少なくなったキンカンの実。国道から左手の旧道へ。バス停「米倉三叉路」。すでに匝瑳市内に入っていました。(←)房総でよく見かける屋根の建物。「高橋本店」。商家らしい建物。バス停「米倉分校跡」。来た道を振り返る。用水路と古仏。「御菓子司処鶴屋」。水準点。9.9m。八日市場の町場に入っていきます。JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
集落に入っていきます。左角に記念碑?が。田畑が広がります。山裾沿いに家並みがあり、東側には田んぼが続く。立派な門構え。水準点。かつては重要な道筋だったことが分かります。標高7.1m。山裾では畑作業。直進。けっこう新しいのおうちが目立ちます。農道の向こうに「総武本線」。↓長い路地の先のおうちの佇まい。旧家らしい雰囲気。左手の奥にも。満開の真っ白な花。梅ではなさそう、いったい何という木でしょうか?隣では宅地?の造成中。「子安神社」の常夜燈。田植えに備えて?「お菓子のたいよう本店」。昭和26年創業、千葉県匝瑳市(そうさし)を拠点に近隣市町村に5店舗の直営店を運営している、地元の小さいお菓子屋です。落花生せんべいをはじめ、どら焼き、苺大福、慶弔まんじゅう・赤飯などの和菓子から、バウムクーヘン、マドレーヌ、クッキー...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
旧道らしいカーブが続く。踏切を越えます。「第二千葉銚子街道踏切」。総武本線・銚子方向。西方には田園風景が広がる。国道126号に合流します。この付近、旧道が失われています。「横芝光IC入口」。国道からすぐ旧道に入ります。左に「銚子連絡道路」造成中。歩いた後、「横芝光町芝崎(横芝光IC)~匝瑳市横須賀(県道八日市場野栄線)」が3月31日に開通しました。この向こうに進みます。「銚子連絡道路」。「国道126号」のバイパス的役割。この付近の今昔。(1880年代)大きな沼を巻いて北へ進む旧道。(現在)沼地を埋めて鉄道や国道が建設されている。田んぼが広がります。「成田国際空港」を離陸した飛行機の姿が(↓)。田植えの準備が進む。JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)