5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
「阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬関東工場」。「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。この道をたどってみます。沢井製薬。しばらく直線の道。広い道にぶつかります。この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。ここでおさらい。(「」HPより拝借)三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。1957年(昭和32年)旧海軍茂原...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。12月28日。曇り。北風寒し。茂原駅。高架線の下が遊歩道になっています。ただ、この道が貨物線の廃線跡そのものではなさそうですが。振り返る。↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)※○が本線との合流地点と思われます。「房総東往還」道を渡ります。正面の道が「農総東往還」。「高師」交差点。大きく右にカーブします。右奥に「県立長生高校」。「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。「信号」と刻まれた標石。茂原駅からの高架線が下...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
海岸に向かいます。観光案内図。御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。「御宿町営ウォーターパーク」。「清水川」河口。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられ...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。房総らしい屋根のおうち。この建物は?モルタル2階建て。どんな商いをしていた建物なのか?今は廃業中。「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。「御宿小学校」正門前を左折。この三叉路を右に。「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。※「ロペス通り」の由来は、後で。「ロペス通り」。海岸方面を望む。この細道が旧道にあたる。「御宿駅」方向を望む。「清水川」に突き当たります。旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
しばらく「国道128号」を進みます。振り返ると、「WelcometoISUMI」。この先、御宿町に入ることに。洒落たスープカリーのお店。この先で、国道から右に分かれて進む。国道は一直線で御宿の町へ。来た道を振り返る。外房線の踏切を越えます。「第二房総街道踏切」。しばらく線路沿いに進みます。山道を行く雰囲気。舗装されていますが、車が来たら大変!しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。切通しの道が続く。前方が開け、やっと広い道に。来た道を振り返る。「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。外房線を越える。左手上に「WANぱく館」(廃業)。山道(?)を振り返る。国道128号に合流、御宿町に入ります。「WELCOMETOONJUKU」。街路樹が南国的な雰囲気。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
「ログハウス」など住宅地が奥に広がる。しかし、道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。崩れ落ちた家。どれくらい経過したのか?集落を抜けると、田畑が広がり、住宅も。「浪花駅」方向。標準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。(「Googleマップ」より)外房線「浪花駅」。島式ホーム1面2線を有する地上駅。国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があった。駅舎側に貨物ホームもあり、現在のような単調な配線ではなかった。また、いすみ鉄道が国鉄の木原線時代に機械式気動車だけで運転されていたころは現在の上り線の外側に側線が一本あり(プラットホームの写真の上り線外側にある草むらが側線の跡)、廃車されたレールバス・キハ01がしばらく留置されていた。側線...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
左に折れて、今度は右に折れます。その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。正面上部如意輪観音半跏座像。下部左「四國西國/秩父坂東」下部右「此方、かつうら/ぼう志ふなこ/こみなとみち」(勝浦/房州那古/小湊道)右側面右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)左側面左指差し図、下に「一の宮江戸/きよみづ、道」この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。この先で県道に合流します。さらに「国道128号」に合流。右側に立派なおうち。右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。※「上総広常」平安時代末期の武将、豪族、上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね、上總介廣常とも)の呼称が広く用いられるが、上総介は...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
大原駅で小休止し、南に向かいます。元酒屋さんらしい。道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。現役のおうちが二棟。振り返る。かつての曲尺手の名残でしょうか?県立大原高校付近。この先、旧道が左に。「大原小・わんぱくランド」のところを右折。「忠霊塔」の先で、行き止まり。振り返る。県道に戻ることに。この右手に旧道があるはずですが。この先で外房線の踏切を越えます。「第一房総街道踏切」とあります。「大原」方向。御宿方向。踏切を渡ってすぐ左折します。左手にジグザグに旧道が残っています。この付近の今昔。(1880年代)西に流れる「塩田川」との関連あるか?(現在)二ヶ所の○が旧道。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。右手奥には、「JAいすみグリーンスパいすみ」の建物。房総らしい低い山並みが見える。街道は右に大きくカーブします。右手奥に緑豊かな低山。「宮元橋」で「新田川」を越えます。※新田川-千葉県いすみ市を流れる塩田川水系の二級河川。すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。「房総街道踏切」。※今夏。内房線・五井で乗り換え、小湊鐡道」、「いすみ鉄道」と乗り継いで大原まで列車の旅をしました。いすみ鉄道の終点「大原駅」方向。「大多喜駅」方向。「大原駅」に向かう坂。「塩田川」を渡ります。上流方向。千葉県いすみ市を流れる本流の二級河川。下流方向。いすみ鉄道の鉄橋。「大原はだか祭り」のポスター。9月下旬の2日間にわたって行われる雄壮な祭りです。十数...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
12月9日(土)。晴れ。外房線「三門駅」。旧道に復帰します。街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。外房線の線路沿いに「征清征露碑」。「日在(ひあり)踏切」。右手の土手は、「大山堰」。大山堰の奥には、「老人ホームエスポワール大原」。左手には外房線。右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。(「古城盛衰記」HPより)※山裾沿いに進む「房総東往還」。遠く海方向。住宅地に入っていきます。旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。水準点。奥に田畑が広がる。「三省学校跡」碑...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
この先、静かで落ち着いた住宅地を進みます。房総らしい屋根。空き地や廃屋も目立つ。手入れの行き届いた槙の生垣。大きなお屋敷が連なる。街道らしいカーブが続く。車の行き来はあるが、人通りはなし。「本寿院」入口にある水準点。かつて、この道は、この付近の主要な道として存在していたことが分かります。この付近の今昔。(現在)水準点が表示されている。(1880年代)道沿いに街並みが形成されている。※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。来た道(旧道)を振り返る。旧江場土村。国道128号を斜めに通過します...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。複雑でユニークな屋根。こちらは房総らしい屋根のおうち。「長者」。一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)「飯島喜美」記念碑。匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)・ひろひろと夷隅の川の海に入る岬のかなたに虹立ちて居り・よしきりのここだ来啼ける河口にかか...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
ここにも親子連れが。周囲は、広々と。バス停「小福公民館前」。左手に大きな建物。こちらは小さなぬいぐるみたち?振り向くと、一家勢ぞろい。こうして「スタート」地点に。「いすみ市岬ふれあい会館・文化センター」。歩いた日が、11月30日。翌々日の大会のために準備に慌ただしいようす。当日は、なかなかの盛り上がりを見せていたようです。この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。と、角にあるお店。「池田屋菓舗」。かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。バス停「岬郵便局前」。長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、商店街らしい雰囲気はありません。バス停「千葉銀行長者出張所前」。(「今昔マップ」より)往還道沿いに町場が形成されていたようです。JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
「椎木商店街」もここまで。「福原橋」で夷隅川を渡ります。夷隅川(いすみがわ)千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ。勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である。夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある。夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。江戸中期から明治中...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
都内の商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。車が行き来するも、人通りも少ない。、売り地。細長い土地。「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手になっていました。椎木宿「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
落ち着いて静かな街並み。すっかり色あせた看板。写真屋さん?この先で「いずみ市」に入ります。緩い下り坂。右手のおうち、軒先までサボテンの木。!!鮮やかな紅葉。下ると、家並みが開ける。左右の森も少なくなり、「岬町椎木(しぎ)」。「梨販売所」。季節も終わり、閉店中。千葉県は梨の生産高全国1位ですが、中でも「一宮・岬梨組合」の梨は、大きくて甘い早出し産地として有名です。主な栽培品種は「幸水」「豊水」「新高(にいたか)」で、人気上昇中の新しい品種「あきづき」も年々生産量が増えてきています。梨は水分と食物繊維の含有量が比較的多く、便秘予防、高血圧予防の他、夏バテ解消にも効果があると言われています。せん定、緑枝管理等各種講習会、出荷査定会等をこまめに開催し、甘くてみずみずしい梨を出荷するよう心掛けています。(この項、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
斜め右に進みます。「梨街道・椎木(しぎ)商店街・みさき」。南下する「国道128号」。門扉のみの敷地。右に小さな祠。「出征土偶」とあります。「土偶」について、作られた理由採集生活をしていた縄文人にとって自然の恵みがいかに大切かを考えると、1万年近く日本各地で作られていたことも不思議ではない気がします。縄文時代については謎が多く、土偶が何のために作られたのかについてはいくつかの説があります。ここでは代表的な二つの説を紹介しましょう。①身代わりにするため日本では古代から病や怪我の原因を「ケガレ」のせいと考えてきました。このケガレを身体から移し取り除くために使われたのが身代わり、形代(かたしろ)と呼ばれるものです。同じように縄文人が形代=土偶を使ったとすると、ケガレを移した土偶を破棄する、つまり壊す必要があります...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
11月23日(祝)。晴れ。「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。外房線。旧道。駅方向。旧道に復帰します。上総一宮町のマンホール。・町の木クロマツと太平洋の荒波をデザインした集落排水管。町章は宮の「み」を一宮の「一」で丸く囲んだデザイン。右手に「国道128号(房総横断道路)」が見えてきます。国道に合流し、南に向かいます。けっこう車の量が多い。房総らしい屋根のおうち。右手の家並み。左手、海方向。左手にほんの少し旧道が。右手に見えるのが、国道128号。せがい造りの立派なおうち。右手丁字路のところに「浪切地蔵」。「忠魂碑」等。「一宮町立東浪見小学校」。駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか?・・・「とらみ」と読みます。※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)
「大雪(たいせつ)」。二十四節気の21番目12月7日〜12月21日頃。大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。七十二候では、初候 12月7日〜12月10日頃閉塞成冬そらさむくふゆとなる天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。次候 12月11日〜12月15日頃熊蟄穴くまあなにこもる熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。ところが、今年は!クマ被害人数11月までに211人で過去最多冬眠時...「大雪」。12月7日。
JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)
鉄道好きな孫を連れて、外房線から内房線をぐるっと一周の旅に。JR船橋駅で待ち合わせ、蘇我で「特急わかしお3号」に乗り、安房鴨川まで。そこから在来線に乗り換え、館山まで。孫のもう一つの目的は館山に新規開店した「やまと寿司」でマグロを食べたい。と。11月27日(日)「曇り時々雨」というお天気でしたが、朝は母親が、夕方は父親が送りと迎えに。ま、小学生なので、そう心配することもなく、出かけました。房総東往還を電車でいち早く実行してしまったわけです。※房総往還(内房線沿い)は、すでに歩きました。以下は、その時の記録。孫がスマホで撮ったものが多い。「蘇我」9:37発。自由席で。海が見えてきます。サーファーの姿が。勝浦付近。安房鴨川付近。安房鴨川駅10:54着。「普通列車」安房鴨川駅10:59発。遠くに海が。停まって電...JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「一宮館」本館の裏手にあります。芥川荘は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。(「解説板」より)一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
丘の上から海岸を望む。今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。(「TBSテレビ2023年4月3日(月)10:26」より)広場には、「芥川龍之介愛の碑。」芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。当時彼は吉田弥生という女性に初恋し激しい相愛の仲になったものの養家(彼の母の実家)芥川家が士族吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。彼の親友堀内利器...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「農免道路」という標識が。農免農道というのは、その農道を作った事業名に由来し、その事業名とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」と呼ばれている公共事業で農林水産省の補助事業です。どこにも“免”の字はありません、それは、S28年に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」で揮発油税の収入は、国道や県道の道路の整備に使うことが決められたのですが。「農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費として税金を“免除”してほしい」との声が強くなり、その声に答えるように発足したのがこの事業です。個人を特定して税金の免除は、できないから、その替わりに農道の整備を行うと言う主旨で発足した事業です。そこで,免税の“免”の字をとって略称で「農免農道」と呼ばれています。「農林漁業用揮発油税財源身替農道」は名称...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
「上総一ノ宮駅」東口。駅を出て、斜めの道を進み、「伊南房州道往還(房総東往還)」旧道へ。「大原」への道筋を確認。駅東口からの海岸への直線道路を進みます。実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。↓。(「今昔マップ」より)■「奇妙な気球が空に消えた」昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)
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5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c
<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z
すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。下流方向。上流に「新曲輪橋」。「国道16号線」は首都圏の幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。(「」より)春日部方面。「新曲輪(くるわ)橋」。右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。※「本郷追分」で中山道と分かれ、「幸手」で日光街道と合流する。モニュメントの人形。旧岩槻市のマンホール。蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。「岩槻橋」。岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
公園内の釣り堀。賑わっています。森の中の下道。公園内に。森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。案内図。「グリーンアドベンチャー岩槻文化公園コース」。この木の名は?この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。(1880年代)(現在)駐車場の向こうに元荒川の流れ。川沿いの小道。足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。○のところにとまっている。中川歩きの時に見た「ハグロトンボ」。ハグロトンボ(羽黒蜻蛉カワトンボ科のトンボ。別名ホソホソトンボ。東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北・本州・四国・九州に分布する。成虫の体長は57-67mm、後翅長35-44mmほどで、トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
溜井が大きく広がる。桜並木。右手は緑濃き、水田。「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。「夏越の祓」茅の輪がある。先に進みます。まだ「岩槻市」のまま。※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。田んぼが広がります。土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。振り返る。久々な経験。農家の脇に、カボチャ。枝豆。県道に出ます。上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。下流方向。上流方向。橋を渡り、右岸に。振り返る。上水道管。「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。(この項、「」HPより)「永代橋」。モニュメント。この付近の今昔。(現在)中央に堰。川幅が大きく広がっている。(1880年代)現在の堰付近の流れが複雑になっている。上流方向。広がりを見せる。旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。1926(大正15)年の建...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。6日には、窓際に。あんずが窓際に乗ると、ソウタは、あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。7月6日。「小暑」の日の午後。いました!親が。親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?親から離れ、自由気ままに泳いでいます。親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。そして親子一緒に。前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは?気になります。もみじあおい。にっこうきすげ。やまゆり。寺島なす。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/2ff6d8ff92a04e21bf1b674e796011d...あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。
「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。こちら側にも農地が。ここにもネムノキの大木。上流に「大砂橋」が見えてきます。「元荒川緑道(上流部)散策案内」。「大砂橋」を振り返る。けっこう緑が深い。路傍に何体かの古仏。元荒川の流れ。農地が続きます。菊の栽培。左手には畑作地が広がる。イチゴ。サツマイモ。咲き始めている菊。川沿いから離れて進みます。右手灌木の右に、元荒川。一面、青々とした田んぼ。「三野宮橋」。上流方向。橋を渡り、左岸へ。「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。「補修境界←さいたま市北部建設事務所→越谷県土整備事務所」。さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?さいたま市埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多。政令指定都市の一つ。また財政力指数は政...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.元荒川橋から下流を望む。川沿いには歩道がないので、県道を進みます。この標識板には、「↑越谷国道4号線→春日部←上野」とあります。左手に「元荒川」。「〆切橋」(人道橋)。越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代(宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年(大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年(昭和12年)竣工のRC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。元荒川はかつて〆切...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
元荒川歩き、2日目。往復とも東武線内の乗り降りです。北越谷駅西口。「元荒川」土手。前回に続き、左岸を歩くことに。森の脇に進みます。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央に「宮内庁埼玉鴨場」。現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。我が国では、古くから網や鷹を使っ...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
東武線のガードをくぐって先に進みます。越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)東武線鉄橋方向を振り返る。左岸のようす。桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。ところどころ、花壇があり、ベンチなどもあります。前方に「神明橋」。中央の車道部分は古そうなトラス橋振り返る。この橋を渡り、左岸に移ります。桜並木の下。河川敷には耕作地が広がっています。対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。前方には「出津橋」(人道橋)。文教大学越谷キャンパス。出津橋。学生たちが通行中。今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
元荒川歩きを再開します。カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。※伏越(ふせごし)用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)振り返る。右が葛西用水。「新宮前橋」。「宮前橋」。「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。東の方に「久伊豆神社」があります。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
「溜井(逆川・葛西用水)」。花しょうぶが満開。「元荒川」。「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。越谷市中央市民会館。平和橋・新平和橋。いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。日本橋から3番目の宿場・越谷宿。越谷駅。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸の河原。「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。正面は、「しらこばと橋」。解説板。「葛西用水」の成立享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。「葛西用水」流路図。「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。南方に「越谷レイクタウン」があります。「越谷レイクタウン」の今昔。(現在)大規模な商業施設、住宅地となっている。(1970年代)ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域左岸の大きな建物。「越谷東高校」。舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。早く木陰の下に。ほっと一息。「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。「不動橋」が見えはじめる。「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。木陰が涼しい。水分補給などで小休止。「元荒川緑道(下流部)散策案内」。来た道を振り返る。「不動橋」。※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。「しらこばと橋まで1,050m」。「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。流入口。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
雨降りの午後。向島百花園。アジサイには、雨が似合う。降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。ヤマユリ。リンドウ。ハンゲショウ(半夏生)。ネムノキ。カザグルマ。カルガモたちはどうなったか?四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。ヒナは、合計7羽。親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。雨脚が強くなってきました。親子であちこちウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。ヒナたちが叢の中に。そのうち姿が見えなくなりました。さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0f/35390b3509d0b0685431b98cec8dc837.jpg">※オナガ水色の美しい鳥実を...雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・
中川の一つ上流にある「吉川橋」。その先で、元荒川が中川に合流する。左手が「元荒川」、右手が「中川」。付近は、工事中。左手に「中島橋」。越谷市内のマンホール。「越松水消火栓消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。元荒川の最下流に架かる「中島橋」。中川方向を望む。上流に向かって歩き始めます。右岸の「元荒川緑道」を歩きます。「飯島排水機場」からの流れ。その先に「大成スポット公園」。緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。左手に土手状の盛り土が続いています。この付近の今昔。(1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。(現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。対岸のようす。国道4号線・「大成橋」。「水道管橋」その先に、「...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。「元荒川」現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。おおむね南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。かつての元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地の湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。やはり、ビール。サントリーのセット。箱から出した途端、ソウタがすぐ、底の浅い箱に入っています。よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。そのうち箱もつぶれて、そして、昨日。この格好は?頭は?しっぽは?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/45/37d01859d03c8e7e1fc05c60f5915302.jpg">ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。帰ってくると、必ずジジがそばに。家に来たときはこんな小さかったソウタ。ふだんは、一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。家人の姿が...ソウタとあんず。我が家の猫たち。
賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。「鈴木海苔株式会社」。しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。右に行くと「銚子駅」。この先は、前回、行きました。しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。「下総豊里」駅。この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)
「松岸」。ここを右に曲がって進むと、「松岸駅」に。「松岸駅」は「総武本線」(千葉~銚子)と「成田線」(成田~松岸)が合流する駅。「金井商店」。街道筋らしいお店。実は、この道は利根川歩きのとき、土手が工事中のため、途中から通った道です。利根川の土手に行ってみましたが、相変わらず工事中(何年越しでしょうか)でした。この先、街道から少し右に入ったところに、石碑「飯沼観世音江一里」。残り4キロ。残りわずかに。石仏などが一か所に集められています。銚子市のマンホール。図柄は「犬吠埼灯台」と「カモメ」と市の魚「イワシ」。利根川沿い・銚子港の一角。街道に戻ると、「木内旅館」。この先、桝形になっています。この付近の今昔。(現在)〇が桝形の部分。赤い線が国道356号線(利根水郷ライン)。(1880年代)街道は利根川・銚子港沿...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)
しばらく進んだ右手に、石碑「飯沼観世音江二里」。あと8キロ。その先、右手に入る道が旧道です。田畑が広がります。遠くには風力発電所。国道356号線に復帰。田んぼが広がる。右に入る道も旧道のようですが、省略し、国道をそのまま進みます。「高田川」。利根川方向。上流方向。バス停「余山(よやま)」。「余山貝塚」は、利根川に注ぐ高田川東岸の標高約7メートルの浜提上の集落によって形成された長軸約140メートル、短軸約70メートルの広がりを持つ貝塚です。貝塚は縄文時代後期から晩期を中心にして形成されていますが、弥生、古墳、奈良・平安時代に至る遺構や遺物も出土しており、原始から古代の長期間にわたって継続した遺跡です。余山貝塚は明治時代中ころから多量の人骨や遺物が出土することで考古学界に知られるようになり、考古学史上著名な貝...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)