5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
ローカル私鉄の旅。その8。「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」+「JR鹿島線」
広がる田園風景。「鹿島旭」。一面、サツマイモ畑が広がる。この付近は、サツマイモの産地。茨城産「芋甘納豆」。別の機会にセットで購入。たいへん美味しい。車外は、暑そう。車内は、部活帰りの高校生でいっぱい。空はますます高く、青く。右側に水面が見えています。一面の田んぼ。「北浦湖畔」。※一駅前の「新鉾田」も大きな駅です。「大洋」。「大洋村」。※息子の高校時代の友人の家族がここに別荘を持っていて、何度か車で出かけたことがあったようです。現在、「大洋村」という地名は無く、大洋村は平成17年(2005)に鉾田町、旭村と合併し、鉾田市となっています。息子が行っていた頃から20年近く経った別荘地は、今。「Wikipedia」によると、バブル期には乱開発により小規模な別荘地が続々と造成され、鉾田市が2018年に行った調査では...ローカル私鉄の旅。その8。「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」+「JR鹿島線」
ローカル私鉄の旅。その6。「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」+「JR鹿島線」
「大洗駅」に到着。この駅。この路線の中では、大きな駅。いろいろな車両が停まっています。水戸から大洗までは、けっこう列車が出ています。海水浴シーズンですが、平日のせいか、降りる人はほとんどいません。広大な砂浜に覆われた遠浅のビーチ。海水浴場はユニバーサルビーチとしても有名。夏の海水浴はもちろん、サーフィンなどのマリンスポーツも楽しめます。(「よかっぺ大洗ー大洗観光協会ー」HPより)※奥に見える船は三井商船「サンフラワー号」。大洗から北海道・苫小牧を結ぶフェリー。また、「アクアワールド大洗水族館」があります。(「」HPより)ここで、30分以上停車。その事情を運転士や駅員さんが何やら説明しますが、ちょっと判読不明。上り列車が到着しないらしい、いや大洗駅構内での点検作業?乗客の皆さんは、悠然としている感じ。運転士...ローカル私鉄の旅。その6。「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」+「JR鹿島線」
ローカル私鉄の旅。その6。「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」。「JR鹿島線」
7月28日(金)快晴。今回は、JR水戸駅から出ている「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」の旅。JR「北千住」から常磐線で「水戸」まで、約2時間。「鹿島神宮駅」からは、JR「鹿島線」(まだ乗ったことがなかった。)で佐原駅まで。そこから成田線で成田まで行き、京成線に乗り換える予定。北千住から水戸・大洗を通って、佐原・成田、京成とぐるっと回ってくる感じ。※JR鹿島線は「鹿島サッカースタジアム」まで乗り入れて、パスモなどICカードが使えます。一方、「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」は、ICカードが使えず、現金で。従って、「鹿島サッカースタジアム」から「鹿島神宮」まではJRの有人駅でカード精算というかたちになります。水戸から鹿島神宮までは、片道1,400円。「鹿島サッカースタジアム」から「鹿島神宮」間はICカードで189円。一両編成...ローカル私鉄の旅。その6。「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」。「JR鹿島線」
遠ざかる「大多喜城」(中央奥)。「国吉駅」に着くと、駅弁などを売るおやじさんたちが入ってきます。・・・急行列車が到着するとホームから「べんとぉ〜べんとぉ〜」の声が。ここではいすみ鉄道応援団の皆さんによる、駅弁の立ち売りが行われているのです。昭和時代の駅では当たり前だった光景。まさにタイムスリップした気分です。「国吉駅」で発売されている駅弁は「いすみのたこめし」。古くから蛸つぼ漁が行われてきたこの辺りでは「たこめし」が漁師のまかない飯だったそう。コリコリ食感のたこの身がたっぷり。たこの味もご飯にしっかり染み込んでいます。おかずには、房総半島の郷土料理「なめろう」を焼いた「さんが焼き」。魚のハンバーグみたいな味と食感ですが、大葉の風味がいい感じに効いています。美味しかった!皆さんもぜひ、駅弁を片手に昭和レトロ...ローカル私鉄の旅。その5。小湊鐵道・いすみ鉄道。
「いすみ鉄道」車内風景。「桃鉄印章が登場」。ワンマンバスと同じで、運転席横に出入口があり、清算します。車外は緑がいっぱい。山深い丘陵地帯が続く。トーベ・ヤンソンが描くムーミン谷は、山や森、川などの自然に囲まれたのどかで平和な場所。いすみ鉄道も、そんなムーミン谷のようなのどかで美しい風景の中を走ります。いすみ鉄道に乗る際はスマホから目を離し、のんびりと窓の外を眺めてみてはいかがでしょう。豊かな自然が心をほっと癒してくれるはずです。(「いすみ鉄道」HPより)※かつて運行していた「ムーミン列車」はなくなりました。山間の風景。「三育学院大学久我原」駅。※「三育学院大学」=看護学部を設置する大学。大多喜町の「久我原キャンパス」と「東京校舎」がある。(「同大学」HPより)いすみ鉄道の駅名には、サブ名が付いています。企...ローカル私鉄の旅。その4。小湊鐵道・いすみ鉄道。
この先も田園風景が広がる。「飯給」。※「飯給」=「いたぶ」と読みます。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の蝦夷を鎮圧するため同地を通ったとき、住民から飯を献上されたところから名付けられたと伝えられています。森の中を進む。揺れが激しく、車内を立ち歩くことが難しいので、駅に停車中か、二両目の後ろの席に座ったままの撮影。「養老渓谷」。何年か前に、この駅で下車して「養老渓谷」の温泉に泊まりに来たことがあります。目的地までけっこう歩きましたが、鄙びた宿でした。次が終点の「上総中野」駅。「上総中野」。ここで左に停車中の「いすみ鐡道」に乗り換えます。「大原」行き。ローカル私鉄の旅。その3。小湊鐵道・いすみ鉄道。
街並みを過ぎると、田園風景が広がります。田んぼの向こうは住宅地。「海士有木(あまありき)駅」。海士(あま)と有木(ありき)が一つになって、この地名がつきました。海士は、その昔漁夫(海人)の集落、有木のほうは附近に有木城(蟻木城とも書く。現在の泰安寺)があったため、その名がついたと云われております。(「小湊鉄道」HPより)駅名で読み方が難しいものが出てきます。「飯給」=いたぶ、「馬立」=うまたて。いすみ鉄道では、「上総東」=かずさあずま、「大多喜」=おおたき、「小谷松」=こやまつ、「総元」=ふさもと。・・・「いすみ」も漢字で書くと、「夷隅」。千葉県には「匝瑳=そうさ」という地名もあります。他にも、・・・。単線。けっこう揺れるので、座席を立って撮影するもの大変。ここは、早場米の産地らしく、すでに稲が黄色くなり...ローカル私鉄の旅。その2。小湊鐵道・いすみ鐵道。
今回から趣向を変え、関東エリアのローカル私鉄に乗る旅を。1.江ノ島電鉄2.小湊鉄道3.いすみ鉄道4.流鉄流山線5.銚子電鉄6.箱根登山鉄道7.上毛電鉄8.わたらせ渓谷鉄道9.真岡鉄道10.ひたちなか臨海鉄道11.関東鉄道12.鹿島りんかい鉄道13.富士山麓電鉄などが現役でがんばっています。※「電鉄」の「鉄」は金を失うから、「鐵」にしている鉄道会社もあります。「江ノ電」や「流鉄流山線」「箱根登山鉄道」「銚子電鉄」は乗ったことがありますので、今回は、省略。はたしていくつ乗れるか?今回。小湊鐵道は「養老渓谷駅」までは乗ったことがありますが、その先、さらに「いすみ鐵道」は乗ったことがありません。というわけで。JR内房線「五井駅」で「小湊鐵道」に乗り換え、出発です。土曜日のため、けっこう大勢の方が乗り換える様子。「...ローカル私鉄の旅。その1。小湊鐵道・いすみ鐵道。
『かつしかまちナビ シニアが創るミニコミ誌 』(第66号)より。SORAーQ。葛飾が誇る刀匠。「かつろうキッチン」。・・・
この雑誌を銭湯で見かけました。「シニアが見た!聞いた!探した!地域のものことひと」というコンセプトで、葛飾区内のこと、モノ、人を取材し、まとめる、という構成。なかなか興味深い内容です。・SORA-Q(変形型月面ロボット・ソラキュー)月へ。※取材・まとめ飛田健一さん(株)タカラトミー(所在地:東京都葛飾区)が、JAXA(宇宙航空開発機構)等と共同開発した超小型の変形月面探査ロボット。JAXAの小型月着陸実証機「SLIM(スリム)」に搭載され、月面でのデータ取得を行う計画。おもちゃのアイディアが盛り込まれ、球体から変形する探査ロボット。質量約250g、直径約80mm(変形前)の超小型の変形型月面ロボット、月面に着陸後、瞬時に球体が左右に拡張変形し、月面を走行する。開発にはタカラトミーの玩具つくりにおいて培われ...『かつしかまちナビシニアが創るミニコミ誌』(第66号)より。SORAーQ。葛飾が誇る刀匠。「かつろうキッチン」。・・・
墨田区鐘ヶ淵散策。その5。向島百花園。くずの棚。葛粉・葛餅。カルガモ。ヤマユリ。・・・
くずの棚。足元には、花びら。※秋の七草の一つ。開花時期は、8/15~9/末頃。まわりの木々をつるでおおってしまう程の生命力。ひと夏で10mぐらい生長する。花は下の方から咲いていく。大和の国(奈良県)の国栖(くず)というところが葛粉の産地であったところからの命名。漢字の「葛」は漢名から。「葛餅」は、葛粉から作られる透明でプルプルとした舌触りのいい餅。しかし、同じ「くず餅」という名前の和菓子でも、関東と関西とではまったく別物。おもに関西地方で作られている「葛餅」は、葛粉に砂糖と水を加え、加熱してできた透明な餅にきな粉と黒蜜をかけた物ですが、関東で作られているくず餅は、小麦粉のでんぷん質を発酵させてできた白っぽい餅にきな粉と黒蜜をかけていただく物をいいます。「関東のくず餅の起源には諸説あります。弊社は、1805...墨田区鐘ヶ淵散策。その5。向島百花園。くずの棚。葛粉・葛餅。カルガモ。ヤマユリ。・・・
墨田区鐘ヶ淵散策。その4。東白鬚公園。纏(まとい)。隅田宿跡。石枕の伝説(一つ家伝説)。
東白鬚公園。「まといのシンボルタワー」公園の中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消し人足組が高く掲げた「まとい」をイメージしたもの。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、町人町に家屋が密集し、ほとんどの建物が木と紙で組み立てられた江戸時代に火災はつきものでした。江戸時代の消防は、延焼防止を目的とする破壊消防を主として、中期以降は、瓦屋根の普及、土壁・土蔵造りなどの防火建築が発達したといわれています。江戸城や大名屋敷の消防隊である「定火消し」の発達に対して、町方の自衛消防隊の組織化はなかなかすすみませんでした。しかし、八代将軍吉宗の政治改革の過程で、町奉行大岡忠相のしどうによって「町火消し」の設置が進められました。町火消しは、地域ごとに火消し組合を組織し、町が火消し人足を定置する消防隊、火事場で...墨田区鐘ヶ淵散策。その4。東白鬚公園。纏(まとい)。隅田宿跡。石枕の伝説(一つ家伝説)。
墨田区鐘ヶ淵散策。その3。墨田川高校堤校舎跡。木母寺境内。梅若権現縁起。三遊塚。梅若の秋月・雪月花 隅田。
墨田区の墨堤通り・隅田川に架かる水神大橋(荒川区に通じる)の手前に、「東京都立墨田川高校堤校舎」と呼ばれる校舎が存在しました。その後、どうなったのか?久々に訪れてみました。生徒急増期。「堤校舎」は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となりました。17年間の校舎でした。全館「プレハブ」。夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校の話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。それから、...墨田区鐘ヶ淵散策。その3。墨田川高校堤校舎跡。木母寺境内。梅若権現縁起。三遊塚。梅若の秋月・雪月花隅田。
墨田区鐘ヶ淵散策。その2。榎本武揚像。梅若公園・梅若塚。鐘ヶ淵陸橋・「鐘ヶ淵」のいわれ。
この地域にあった史蹟や寺社は移転しています。「銅像榎本武揚」像。本像は、榎本武揚没後の大正2年(1923)5月に建立されました。銅製で、標高は約3㍍あり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。・・・榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。・・・「梅若公園」。この付近に移転前の「木母寺」があったようです。正面のガラスに描かれた梅若堂。明治期の木母寺境内。江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令...墨田区鐘ヶ淵散策。その2。榎本武揚像。梅若公園・梅若塚。鐘ヶ淵陸橋・「鐘ヶ淵」のいわれ。
墨田区鐘ヶ淵散策。その1。古代東海道。東白鬚団地。この地域の変遷。鐘淵紡績会社(カネボウ・クラシエ)。
歌舞伎「隅田川」に触発され、久々に鐘ヶ淵地域に出かけました。正面の道が、古代の東海道。真っ直ぐ進み、荒川を越え、葛飾区に入り、ほぼ直線のまま、小岩、江戸川堤に至る道。※かつて歩いたことがあり、ブログでも紹介しました。東武線「鐘ヶ淵駅」踏切をはさんで東西に伸びる。東武線。そのまま西に向かい、「堤通り」に出ます。通りの向こうに高層アパート群が。白鬚東アパート(しらひげひがしアパート)東京都墨田区堤通にある住宅団地。東京都住宅供給公社分譲の1号棟(東白鬚第一マンション)、都営白鬚東アパート(2~11・15~18号棟)と駐車場である12号棟、防災備蓄庫である13・14号棟の計18棟からなる。東白鬚公園と一体で墨田区西部の防災拠点として整備された経緯がある。沿革墨田区北部は、1923年に発生した関東大震災後に木造住...墨田区鐘ヶ淵散策。その1。古代東海道。東白鬚団地。この地域の変遷。鐘淵紡績会社(カネボウ・クラシエ)。
木母寺には、平安時代中期の梅若丸と狂女となった母親の悲しい物語が伝わり、梅若塚と梅若堂が祭られています。梅若丸物語は古来、母子の愛情を示す悲劇として民衆の紅涙をしぼり、語りつがれてきました。この伝承は、むかしの墨田村の口伝えというばかりでなく、種々の芸能・芸術として広く流布し発達してきました。◆能楽◆最初に、この梅若丸物語を芸道として大成させたのは、室町時代中期の能役者観世十郎元雅(1401?~1432)です。「隅田川」は、春の隅田川を舞台に子と母の愛情を描いた能で、狂ものをシテとした狂女物の代表的傑作とされています。この演目が作られ、隅田川芸能がはじまったのです。◆浄瑠璃◆寛文元年(1661)以前の説教浄瑠璃や、宇治加賀掾や山本土佐掾の正本にも「すみだ川」があり、古浄瑠璃として取り入れられています。それ...歌舞伎鑑賞教室。隅田川。坂東玉三郎。木母寺。梅若伝説。
『1010』。久々に近所の銭湯に。小冊子が置いてありました。その記事を(勝手に)紹介します。「湯上がりドリンク、最高の一杯を探せ!」フレッシュジュース、深海ゼリー、クリームソーダなどローカルドリンクが登場しているようです。牛乳、スポーツドリンク、缶ビールなどの定番から、クラフトビールの飲み比べセットなど、お風呂屋さんで、さまざまなビールが流行っているようです。「江戸で最初に銭湯を作った人物とは?」江戸最初の銭湯の記録が文書で残されています。天正19(1591)年、銭瓶橋のほとりに伊勢与市がせんとう風呂を建てたことが三浦浄心の『慶長見聞集』に記されています。「・・・風呂銭は永楽一銭なり。皆、めづらしき物かなと入り給ひぬ。・・・」江戸最初の銭湯は伊勢式の蒸し風呂だった可能性が高いと思われます。・・・慶長見聞集...最近の銭湯事情。『1010』。
江の島めぐり。その5。江の島の浮世絵。夕景。岩場に打ち寄せる波。「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」。
来た道を戻ります。釣り人や岩場を散策する人が。江の島の浮世絵。切り立った崖。左端に富士山。江の島は夕景が素晴らしいらしい。「本日(7月7日)の日没時間、18:50頃」。「稚児が淵」の岩場に下りてみます。「岩屋」への回廊を見上げる。冬の晴れた日の様子の写真を拝借します。岩場に打ち寄せる波。急な石段を登りきると、さっきまでの霧もすっかり晴れてきました。江の島を振り返る。境川の河口。「藤沢市観光センター」にアニメのポスターが。当方、この世界にはまったく門外漢なのですが。劇場アニメ「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」高校二年生の三学期を迎えた梓川咲太。三年生の先輩であり恋人の桜島麻衣と、峰ヶ原高校で一緒に過ごせる学生生活も残り僅かとなった。そんななか、長年おうち大好きだった妹の花楓は、誰にも明かしたこと...江の島めぐり。その5。江の島の浮世絵。夕景。岩場に打ち寄せる波。「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」。
江の島めぐり。その4。江の島第一・第二岩屋。与謝野晶子歌碑。七夕飾り。亀石。龍神。
江の島岩屋。江の島岩屋は波によって削られて形成された洞窟で、弁財天侵攻及び江島神社発祥の地とされています。弘法大師や日蓮聖人、源頼朝など多くの高僧や武将が岩屋を訪れて、祈願のため、岩屋に籠もったといわれています。・・現在の岩屋は奥行き152mの第一岩屋と56mの第二岩屋に分かれており、第一岩屋は富士山の氷穴につながっていると伝わるなど、数々の伝説が存在する洞窟です。ロウソクの炎に照らし出された石像や岩壁が神秘の世界に誘ってくれます。入口でろうそくの火を渡され、片手にろうそくを持って歩いて行きます。ひんやりとしています。途中、頭上が低いところや足もとには水が。光の加減で、うまく写真を撮ることが出来ませんでした。与謝野晶子歌碑。沖つ風吹けばまたたく蝋の灯に志づく散るなり江の島の洞・・・歌集『青海波』(明治45...江の島めぐり。その4。江の島第一・第二岩屋。与謝野晶子歌碑。七夕飾り。亀石。龍神。
目の前が開けてきます。稚児ヶ淵。稚児ヶ淵は海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起したことによって生まれました。その昔、白菊という名前の稚児がここから身を投げたという話が「稚児ヶ淵」の名前の由来となっています。稚児ヶ淵からは、広がる海と空、富士山の向こうに沈む夕日を一望することができ、その絶景から「かながわの景勝50選」にも選ばれています。また、釣りの名所としても知られており、休日は釣り人でにぎわっています。残念ながら、海は霞んでいて対岸も見えません。右手に芭蕉の句碑などいくつか集められています。解説板。芭蕉の句碑(右から2番目)は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな潮の花も浦の春はせを」...江の島めぐり。その3。稚児ヶ淵。芭蕉句碑。
江ノ島めぐり。その2。霞む江ノ島。下道。御岩屋道通り。頼朝寄進の鳥居。
江ノ島は、霞んでいます。「べんてん丸」に乗船して、岩屋まで行こうと思いましたが、「本日休航」。残念!バトルボードの練習中。岩場の突端に釣り人。神社の下にある「下道」を歩きます。なだらかな上り坂。「江の島市民の家」。昭和36年(1961)に廃校となった藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校の施設を利用。眼下に海が見えてきます。片瀬漁港。バトルボードが数隻。西方向。10分ほどで御岩屋道通りへ。木喰上人行場窟。「江の島シーキャンドル」方向。少し早めの昼食。「遊覧亭」から。霞んでいて眺望が開けず。江の島シーキャンドル。御岩屋道通り。頼朝寄進の鳥居。1182年に源頼朝が奉納したと伝わっています。『吾妻鏡』には、源頼朝が当時奥州一帯で非常に大きな力を持っていた藤原秀衡の追討祈願の為、御窟(今の岩屋洞窟)に弁財天を祀り、鳥居を奉...江ノ島めぐり。その2。霞む江ノ島。下道。御岩屋道通り。頼朝寄進の鳥居。
江の島めぐり。その1。湘南モノレール「湘南江の島駅」。江ノ電「江ノ島駅」。江の島弁財天道標。
7月7日。今回は、大船駅から「湘南モノレール」で「湘南江の島駅」まで。初めて乗りました。懸垂式。軌道は旧京浜急行自動車専用道路の上空に沿う形で設置されている。この道路は元々大船と江の島海岸を結ぶ普通鉄道線計画が頓挫したために取得済み用地を日本初の自動車専用道路として整備した私道で、モノレール建設当時は京浜急行電鉄によって所有および運営がなされており、軌道敷設にあたってはこの形態が有利に働いたようである。現在では鎌倉市と藤沢市に売却・譲渡され、一般市道に移行している。この道路には最小曲率半径25m、最急勾配88‰という険しい箇所もある。懸垂式モノレールの性能的には、この道路に完全に沿う形での敷設も可能であったが、車両の馬力、平均速度の観点を加味し最急勾配を74‰、最小曲率半径を本線100m、駅構内50mとし...江の島めぐり。その1。湘南モノレール「湘南江の島駅」。江ノ電「江ノ島駅」。江の島弁財天道標。
歌舞伎鑑賞教室。その6。歌舞伎十八番のうち『暫』。つらね・見栄を切る・六方を踏む。・・・。観客を飽きさせないお芝居。
舞台は鶴岡八幡宮、清原武衡が関白の宣下を受けるところ。天下を手中に収めたかのように思い上がった様子。鯰坊主の震斉、女鯰の照葉、成田五郎ら臣下たちが居並ぶ。そこへ加茂次郎義綱が許婚の桂の前たちを連れ立って登場する。朝廷の繁栄を祈願するため大福帳(商家で使われる帳簿)を掛額に収めて奉納にきた。加茂家をかねてからこころよく思っていない武衡は義綱に難くせをつける。「商人が使う卑しきものを奉納するとは神社を冒涜するのか」と掛額を引きおろし、はては「桂の前を差し出して家臣になれ」などと無理難題を浴びせる。うんと言わぬ「義綱」に腹を立て「ならぬなら首をはねてしまうぞ」と腹出したちに命じて義綱ら一同を斬り殺そうとする。まさに絶体絶命の瞬間、花道の登場口、揚幕(あげまく)の向こうから「しばらく!」と大きな声。ムカデのような...歌舞伎鑑賞教室。その6。歌舞伎十八番のうち『暫』。つらね・見栄を切る・六方を踏む。・・・。観客を飽きさせないお芝居。
歌舞伎鑑賞教室。その5。歌舞伎十八番うち、『外郎売』。市川海老蔵(現:十三代目 市川團十郎 白猿)、勸玄(現:八代目市川新之助)。
歌舞伎十八番とは、歌舞伎界の宗家とも呼ばれる市川團十郎家のお家芸として制定された、以下に示す歌舞伎の18演目のことです。勧進帳(かんじんちょう)助六(すけろく)暫(しばらく)矢の根(やのね)毛抜(けぬき)鳴神(なるかみ)不動(ふどう)外郎売(ういろううり)押戻(おしもどし)景清(かげきよ)解脱(げだつ)不破(ふわ)象引(ぞうひき)七つ面(ななつめん)関羽(かんう)嫐(うわなり)蛇柳(じゃやなぎ)鎌髭(かまひげ)歌舞伎十八番は、7代目市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】によって1832年(天保【てんぽう】3年)に定められました。初代から4代目までの團十郎が、初めて演じてしかも得意にしていた18の作品を集めたものです。その内容は、一番新しい作品でも当時から50年も前に上演されたものでした。そのため、先祖の團十...歌舞伎鑑賞教室。その5。歌舞伎十八番うち、『外郎売』。市川海老蔵(現:十三代目市川團十郎白猿)、勸玄(現:八代目市川新之助)。
歌舞伎鑑賞教室。その4。舞踊。「京鹿子娘道成寺」西川寬。歌舞伎座にて。「
歌舞伎には、「道成寺物(どうじょうじもの)」とよばれる作品群があります。これらの作品は、能の『道成寺』から、鐘供養に訪れた女性が舞を披露し、恨みの表情で鐘に飛び込む、という枠組みを取り入れています。「道成寺物」は、元禄年間(1688年~1704年)から上演されるようになりますが、それらの作品を集大成したのが、1753(宝暦3)年に初代中村富十郎(なかむらとみじゅうろう)が初演した『京鹿子娘道成寺』です。今回は、日本舞踊西川流家元西川寛による「京鹿子娘道成寺」。1時間近くを1人の女方が踊りぬく女方舞踊の大曲。白拍子(しらびょうし=歌舞を生業とする遊女)の花子が道成寺の鐘供養に訪れ、舞を次々に披露するうちに鐘に飛び込み、蛇体となって現れるという設定ですが、内容はいくつかの部分に分けられ、恋にまつわるさまざまな...歌舞伎鑑賞教室。その4。舞踊。「京鹿子娘道成寺」西川寬。歌舞伎座にて。「
向島百花園。カルガモの親子。半夏生(ハンゲショウ)。おいらんそう。のうぜんかずら。とけいそう。・・・七夕飾り。
6月30日(金)昼過ぎ。雨の合間をぬって、向島百花園に。カルガモの親子はどうしているか?池の中央で元気で泳いでいます。親子4羽。以前来たときは、雛がもっといましたが、・・・。元気に泳ぎ回る小ガモ。小ガモは橋の下をくぐり、親は橋の上へ。池の中を行ったり来たり、これほど身近に見られるのも、ここならでは。雨が降り始めた池。園内を回って戻ってみると、小ガモの姿は見えず、親が池の中で毛繕い。いつここから移動するのか、それとも定住するのか?・・・水辺の半夏生が満開。全身真っ赤なとんぼが。普段見かけるアキアカネとは違うような。道端には、蝶の姿も。おいらんそう。鮮やかな朱色。のうぜんかずら。とけいそう。7月7日は七夕。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/83/...向島百花園。カルガモの親子。半夏生(ハンゲショウ)。おいらんそう。のうぜんかずら。とけいそう。・・・七夕飾り。
歌舞伎鑑賞教室。その3。『高尾懺悔』。坂東玉三郎。引退声明の余波。猿之助騒動。
鉦鼓の音も澄みわたり名もなつかしき宮戸川都鳥も声添へて南無阿弥陀仏みだ仏浅茅が原のさうさうと風冷やかに身にぞしむ不思議や紅葉の影添ひて塚のうしろにすごすごと高尾が姿あらはれてもみぢ葉の青葉に茂る夏木立春は昔になりけらし世渡る中の品々に我は親同胞の為に沈みし恋の淵浮びもやらぬ流れのうき身憂いぞつらいぞ勤めの習ひ煙草呑んでも煙管より咽喉が通らぬ薄煙泣いて明かさぬ夜半とてもなし人の眺めとなる身はほんに辛苦万苦の苦の世界四季の紋日は小車や先づ春は花のもと手折りし枝を楽しみて何処に眺むる春の風そよりそよりと花吹き散らすちらりちらりと桜の薫り野山を写す廓景色夏のあけぼの有明のつれなく見えし別れ鳥ほぞんかけたと囀るは死出の田長や冥途の鳥と鳴き明かす籠の鳥かや怨めしや秋の夜長に牡丹花の灯籠踊の一節に残る暑さを凌がんと大門...歌舞伎鑑賞教室。その3。『高尾懺悔』。坂東玉三郎。引退声明の余波。猿之助騒動。
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5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c
<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z
すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
右手は工業団地。「元荒川水管橋」。※元荒川水管橋は城北大橋から500m上流に架けられている。元来は水管橋(元荒川の上を水道水を渡らせるためのもの)だったが、平成14年に改修され、歩行者も渡れるようになった。上流方向。下流方向。土手沿いの道を進みます。「伊豆島の大蛇全3ヶ所の東側」(蓮田市黒浜)。※この付近が、蓮田市とさいたま市岩槻区の境界線になります。民俗行事の一つで、春祈祷(はるきとう)に関連する厄除け行事です。由来は200有余年前に集落内に悪い病が入り「魔除け、災難除け、疫病除け」として『大蛇(だいじゃ)』を作り、集落境界の2ヶ所に立てたと言われています。集落内の1軒に1人が夕方(3時頃)集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作ります。胴体は...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
今回から元荒川の上・中流歩きになります。利用する路線も東武線からJR線になります。「東岩槻駅」。東武線鉄橋の上流へ出ます。「東宮(ひがしみや)歩道橋」から上流を望む。この付近の今昔。(現在)東武鉄橋上流に「東宮歩道橋」。「江川地区調整池」が設置されています。(1970年代)元荒川は大きく西にカーブしていました。その後、流路の変更が行われ、宅地化されました。土手沿いの道(左岸)を歩きます。右手は住宅地。上流に「慈恩寺橋」。河川敷に畑が広がっています。(1880年代)河川敷が広がっています。(現在)かつての河川敷が農地となっています。水道橋が左手奥に。畑の正面に「水道橋」。「城北大橋」。下流の水道橋を望む。この先に人も歩ける「元荒川水管橋」があります。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。下流方向。上流に「新曲輪橋」。「国道16号線」は首都圏の幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。(「」より)春日部方面。「新曲輪(くるわ)橋」。右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。※「本郷追分」で中山道と分かれ、「幸手」で日光街道と合流する。モニュメントの人形。旧岩槻市のマンホール。蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。「岩槻橋」。岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
公園内の釣り堀。賑わっています。森の中の下道。公園内に。森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。案内図。「グリーンアドベンチャー岩槻文化公園コース」。この木の名は?この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。(1880年代)(現在)駐車場の向こうに元荒川の流れ。川沿いの小道。足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。○のところにとまっている。中川歩きの時に見た「ハグロトンボ」。ハグロトンボ(羽黒蜻蛉カワトンボ科のトンボ。別名ホソホソトンボ。東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北・本州・四国・九州に分布する。成虫の体長は57-67mm、後翅長35-44mmほどで、トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
溜井が大きく広がる。桜並木。右手は緑濃き、水田。「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。「夏越の祓」茅の輪がある。先に進みます。まだ「岩槻市」のまま。※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。田んぼが広がります。土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。振り返る。久々な経験。農家の脇に、カボチャ。枝豆。県道に出ます。上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。下流方向。上流方向。橋を渡り、右岸に。振り返る。上水道管。「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。(この項、「」HPより)「永代橋」。モニュメント。この付近の今昔。(現在)中央に堰。川幅が大きく広がっている。(1880年代)現在の堰付近の流れが複雑になっている。上流方向。広がりを見せる。旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。1926(大正15)年の建...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。6日には、窓際に。あんずが窓際に乗ると、ソウタは、あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。7月6日。「小暑」の日の午後。いました!親が。親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?親から離れ、自由気ままに泳いでいます。親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。そして親子一緒に。前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは?気になります。もみじあおい。にっこうきすげ。やまゆり。寺島なす。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/2ff6d8ff92a04e21bf1b674e796011d...あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。
「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。こちら側にも農地が。ここにもネムノキの大木。上流に「大砂橋」が見えてきます。「元荒川緑道(上流部)散策案内」。「大砂橋」を振り返る。けっこう緑が深い。路傍に何体かの古仏。元荒川の流れ。農地が続きます。菊の栽培。左手には畑作地が広がる。イチゴ。サツマイモ。咲き始めている菊。川沿いから離れて進みます。右手灌木の右に、元荒川。一面、青々とした田んぼ。「三野宮橋」。上流方向。橋を渡り、左岸へ。「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。「補修境界←さいたま市北部建設事務所→越谷県土整備事務所」。さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?さいたま市埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多。政令指定都市の一つ。また財政力指数は政...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.元荒川橋から下流を望む。川沿いには歩道がないので、県道を進みます。この標識板には、「↑越谷国道4号線→春日部←上野」とあります。左手に「元荒川」。「〆切橋」(人道橋)。越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代(宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年(大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年(昭和12年)竣工のRC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。元荒川はかつて〆切...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
元荒川歩き、2日目。往復とも東武線内の乗り降りです。北越谷駅西口。「元荒川」土手。前回に続き、左岸を歩くことに。森の脇に進みます。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央に「宮内庁埼玉鴨場」。現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。我が国では、古くから網や鷹を使っ...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
東武線のガードをくぐって先に進みます。越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)東武線鉄橋方向を振り返る。左岸のようす。桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。ところどころ、花壇があり、ベンチなどもあります。前方に「神明橋」。中央の車道部分は古そうなトラス橋振り返る。この橋を渡り、左岸に移ります。桜並木の下。河川敷には耕作地が広がっています。対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。前方には「出津橋」(人道橋)。文教大学越谷キャンパス。出津橋。学生たちが通行中。今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
元荒川歩きを再開します。カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。※伏越(ふせごし)用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)振り返る。右が葛西用水。「新宮前橋」。「宮前橋」。「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。東の方に「久伊豆神社」があります。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
「溜井(逆川・葛西用水)」。花しょうぶが満開。「元荒川」。「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。越谷市中央市民会館。平和橋・新平和橋。いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。日本橋から3番目の宿場・越谷宿。越谷駅。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸の河原。「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。正面は、「しらこばと橋」。解説板。「葛西用水」の成立享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。「葛西用水」流路図。「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。南方に「越谷レイクタウン」があります。「越谷レイクタウン」の今昔。(現在)大規模な商業施設、住宅地となっている。(1970年代)ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域左岸の大きな建物。「越谷東高校」。舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。早く木陰の下に。ほっと一息。「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。「不動橋」が見えはじめる。「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。木陰が涼しい。水分補給などで小休止。「元荒川緑道(下流部)散策案内」。来た道を振り返る。「不動橋」。※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。「しらこばと橋まで1,050m」。「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。流入口。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
雨降りの午後。向島百花園。アジサイには、雨が似合う。降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。ヤマユリ。リンドウ。ハンゲショウ(半夏生)。ネムノキ。カザグルマ。カルガモたちはどうなったか?四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。ヒナは、合計7羽。親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。雨脚が強くなってきました。親子であちこちウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。ヒナたちが叢の中に。そのうち姿が見えなくなりました。さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0f/35390b3509d0b0685431b98cec8dc837.jpg">※オナガ水色の美しい鳥実を...雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・
中川の一つ上流にある「吉川橋」。その先で、元荒川が中川に合流する。左手が「元荒川」、右手が「中川」。付近は、工事中。左手に「中島橋」。越谷市内のマンホール。「越松水消火栓消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。元荒川の最下流に架かる「中島橋」。中川方向を望む。上流に向かって歩き始めます。右岸の「元荒川緑道」を歩きます。「飯島排水機場」からの流れ。その先に「大成スポット公園」。緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。左手に土手状の盛り土が続いています。この付近の今昔。(1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。(現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。対岸のようす。国道4号線・「大成橋」。「水道管橋」その先に、「...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。「元荒川」現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。おおむね南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。かつての元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地の湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。やはり、ビール。サントリーのセット。箱から出した途端、ソウタがすぐ、底の浅い箱に入っています。よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。そのうち箱もつぶれて、そして、昨日。この格好は?頭は?しっぽは?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/45/37d01859d03c8e7e1fc05c60f5915302.jpg">ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。帰ってくると、必ずジジがそばに。家に来たときはこんな小さかったソウタ。ふだんは、一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。家人の姿が...ソウタとあんず。我が家の猫たち。
賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。「鈴木海苔株式会社」。しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。右に行くと「銚子駅」。この先は、前回、行きました。しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。「下総豊里」駅。この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)