5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
国立劇場・歌舞伎鑑賞教室。その2。「藤娘」。藤間紫。華麗なる家系。
令和4年7月舞踊公演「花形・名作舞踊鑑賞会」より『藤娘』舞踊として名高い「藤娘」。真っ暗な中で幕が開くと、「若紫に十返りの、花を現す松の藤浪・・・」と長唄が始まります。一瞬にして舞台に明かりが灯ると、大きな松の木に絡んだ藤の花が一面に咲き誇り、その下には黒塗りの傘を被って藤の枝を持った美しい娘が立っています。実はこの娘は人間ではなく、若い娘に姿を変えた藤の精なのです。傘を被ったまま一時舞い踊った後、松の陰に姿を隠した娘は、今度は傘を手に持って藤の花房をかき分けて姿を表します。そして近江八景の情景を読み込んだ長唄の詩に合わせて、初々しい娘の浮気な男への恋に身を焼く女心を見せる「クドキ」の場面になり、艷麗に舞い踊ります。再び松の陰に隠れた娘は、今度は傘を持たず衣装を変えて登場し、この舞踊の見せ所でもある「藤音...国立劇場・歌舞伎鑑賞教室。その2。「藤娘」。藤間紫。華麗なる家系。
このところ、出歩く機会がなく、ブログも滞りがち。訪問者も激減、ということに。そこで、「YouTube」を視聴。第三回目の「歌舞伎鑑賞教室」さらに「落語鑑賞教室」でも開いてみることに。今回は、去年行われた夏の「歌舞伎鑑賞教室」を。実は、とある関係で、この公演の予約取りに協力したことがありました。紅葉が夕日に照り映える戸隠山。余吾将軍平維茂(よごしょうぐんたいらのこれもち)が従者の右源太、左源太とともに紅葉狩にやって来る。そこには宴を張る先客がいた。聞けば、やんごとない女人が侍女たちとお忍びでお出掛けとのこと。維茂が遠慮しようとすると、その高貴な姫自ら、是非ご一緒したいと誘う。そこまで言われてひいては男がすたる。言われるままに維茂は宴に加わることにする。美女に美酒さっそく酒よ、肴よと下へも置かぬもてなしぶりに...国立劇場。令和4年7月歌舞伎鑑賞教室。紅葉狩り。
鎌倉野草園。ひつじぐさ。やぶかんぞう。半夏生。ぶどう棚。ガマの穂。ききょう。なでしこ。とくさ。・・・
6月25日(日)。晴れ。久々に出かけました。以前に来た時とのすっかり変わって、ずいぶんとこぎれいになっています。案内板。ひつじぐさ。やぶかんぞう。半夏生(はんげしょう)。ぶどう棚があります。公園ではあまり見かけない。ガマの穂。小さな流れを配置し、水辺風に仕立ててあります。池では子供たちが、東側は、公園になっています。付属施設。水槽にはフナやメダカが。桔梗(ききょう)。秋の七草。撫子(なでしこ)。これも秋の七草の一つ。バックは、とくさ?暑いさなか、休日のせいか、親子づれが屋内外で遊んでいました。鎌倉野草園。ひつじぐさ。やぶかんぞう。半夏生。ぶどう棚。ガマの穂。ききょう。なでしこ。とくさ。・・・
小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その4。
振り返ると、江の島上空は晴れてきそうですが、行きのときの記念碑付近は、ビショビショ。そのまま、藤沢駅に戻りました。すっかり晴れてきます。このまま帰るのも、もったいなので、藤沢から江ノ電で鎌倉に行くことに。江ノ電「藤沢駅」。鎌倉から江の島、また途中駅まで何度か乗ったことがありますが、全線通して乗るのは、初めて。4両編成ですが、江の島駅付近からけっこう混んできます。路面電車風に走るところも。車窓からの湘南の海。長谷寺のアジサイなどちょうど満開の時期。外国人観光客などどんどん乗ってきます。席を立って外を撮るわけにもいかず、そのまま鎌倉駅に。久々に海でも眺めようか、と。由比ヶ浜まで歩きます。逗子方向。稲村ヶ崎方向。海岸では、「海の家」づくりが盛んに行われています。トンビが低空飛行。以前、弁当を広げたところ、おかず...小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その4。
小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その3。
島の東側、海沿いにある集落を歩いてみます。細い路地の両側に家が並ぶ。背後は森(江島神社)が高く広がる。藤沢市のマンホール。江の島モース臨海実験所跡推定地。エドワード・シルベスター・モースは1877年(明治10年)7月17日~8月28日ここに東洋初の臨海実験所を設け、海産動物の研究・指導を行い、我が国の近代動物学の基礎をつくりました。※エドワード・シルベスター・モースアメリカの動物学者。明治10年6月日本腕足類研究のため来日して、江ノ島で研究。1度帰国し、翌年再び、来日、東京理学部で動物学の初代教授となった。横浜から東京への車窓から大森貝塚を発見、その後発掘を行って報告書を刊行した。これによって、近代科学としてのわが国の考古学研究の基礎がつくられた。・・・モースは、大森貝塚発見で知っていましたが、江の島にも...小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その3。
小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その2。
鎌倉、三浦半島方向。江ノ島弁天橋。外国人もたくさん来ています。振り返ると、怪しげな雲行き。こちらは青空が広がる。「弁天橋沿革」解説板。この橋は、明治24年(1891年)満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭えば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚と鉄筋コンクリートパイル上部は木橋として作り直され、その後江之島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担い、この近代的な橋梁に生まれ変わったものであります。さて、定番の参道を歩くことに。平日ですが(6・16)、たくさんの人が上がったり、下ったり。売...小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その2。
小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その1。
再びやってきました。片瀬橋を渡り、左岸へ。右岸を望む。川べりのテラスへ。江の島を望む。左岸の突端。右岸、西方向を望む。すっきりしたお天気ならば、伊豆半島その向こうに富士山などが見えそうですが。手前の突堤が前回たどり着いたところ。振り返る。「江の島弁天橋」。片瀬漁港。雲の流れが速く、いやな予感。「名勝江の島」、江の島の成因と周辺の地名由来についての伝説昔、鎌倉の深沢に周囲40里の湖があり、この湖には五つの頭を持った「五頭竜」が主として住んでいた。この五頭竜は、洪水を起こしたり山を崩したり、或いは病気を流行させたりして暴れまわり、里人を苦しめていた。人々は非常に困り、また大変に恐れたが、相手が竜ではどうすることもできず、少しでも竜におとなしくしてもらうために、いけにえとして村々からくじ引きで村人を供えるように...小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その1。
向島百花園。カルガモ親子はどうなったのか? そして夏模様。半夏生。ネムノキ。秋の七草。・・・
向島百花園。6月カルガモ親子。その後どうなったのか?確かめたくて出かけました。6月17日(土)いました!親と雛が6羽くらい。雛たちは元気で泳ぎ回り、親は木下で毛繕い。まもなく旅立ちかも。訪れた方たちも興味深そうに、しばらく様子を眺めています。スカイツリー。緑がすっかり濃くなった園内。芭蕉も随分伸びてきました。半夏生(はんげしょう)が咲いています。開花時期は、7/1~7/20頃。・上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように白くなるのがおもしろい。・「半化粧」「半夏生」「片白草(かたしろぐさ)」など、いろんな呼び名がある。・花期に葉が白くなるのは、虫媒花であるために虫を誘う必要からこのように進化したのではないか、といわれている(白くて目立つ)。・花は葉と同じく白で、紐状。・花が咲き終わって夏の盛りの頃にな...向島百花園。カルガモ親子はどうなったのか?そして夏模様。半夏生。ネムノキ。秋の七草。・・・
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その8。小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。片瀬橋。右岸突端。江の島。
これまで歩いてきた利根川、荒川、江戸川、多摩川などと異なり、河口まで住宅が続きます。山本橋。漁船(ボート)がたくさん係留されています。正面に、江の島が見えてきました。残り500m。河口付近に架かる「片瀬橋」。小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。龍宮城を模したユニークなデザインの駅舎。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ天女と龍の装飾を施している。片瀬橋のたもとで小休止。右手に江の島へ渡る歩道橋。片瀬橋から河口を望む。片瀬漁港。岸壁の突端まで歩きます。手前に釣り人が数人。ここが右岸の河口?西側を望む。東側を望む。左岸の突端が。台風2号の影響か、波が高い。上流を望む。江の島方向。右岸歩きはここまで。次回は、江の島めぐりをする予定です。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/use...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その8。小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。片瀬橋。右岸突端。江の島。
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その7。鵠沼の今昔。
※鵠沼の今昔。今は住宅地が広がっていますが、かつては、1880年代のようす。荒涼たる砂浜が広がっている。現在は、住宅がびっしりと。2010年代のようす。戦前から鵠沼海岸として開発・整備され、住宅が増えてきています。神奈川県による湘南海岸開発1923年(大正12年)の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から高級住宅地へと変貌することになる。震災からの復興は急ピッチで進められた。・・・1929年(昭和4年)の小田急江ノ島線開通をきっかけに、別荘地と農村部の中間地帯には、宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。この段階での住宅地は100坪以上の敷地を有し、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名であ...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その7。鵠沼の今昔。
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その6。「奥田公園」。柏尾川。江ノ電。
さて、この先どうするか?境川からは離れてしまいますが、市役所を抜けて大通り(「国道467号)を歩くことに。賑やかな通りから、「藤沢市民会館」などが併設された「奥田公園」の中を抜けて「境川」へ。鵠このかん、左岸に「柏尾川」が合流します。柏尾川源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川(ひらどながやがわ)と瀬谷区から流れる阿久和川(あくわがわ)が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは神奈川県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは神奈川県道32号藤沢鎌倉線を藤沢駅方向に流れ、藤沢市川名で境川に合流する。流域は工場や宅地が数多く立ち並んでいるため、高度経済成長期ごろになると大量の工場排...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その6。「奥田公園」。柏尾川。江ノ電。
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その5。藤沢宿。江の島道。
旧東海道「藤沢宿」は、境川を渡った西側に広がっています。遊行寺橋からの点線が旧東海道・藤沢宿。境川沿いに歩く今回は、宿の江戸方入口のところで離れていきます。遊行寺橋を望む。旧東海道・遊行寺坂を下って、境川の手前で右折し、遊行寺、遊行寺橋を渡って宿場に入ります。堂々とした橋柱。藤沢橋。下流方向。上流方向。この先。境川沿い・右岸の道を歩くことに。こうした観光絵図が随所に設置。。にぎやかな街並みが続く中、境川に近づくと、カルガモの子が必死に泳ぐ姿が(〇)。「海から5.0km標高7.9m」。御所ケ谷橋。川幅が広くなってきます。カルガモ。直線化された流路。そのまま進むと藤沢市立大道小学校の先で、JR東海道線で行き止まりになってしまいます。遠回りして左岸の方を行けば、線路の向こうに行けそうですが。・・・道なりに回り込...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その5。藤沢宿。江の島道。
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その4。「藤沢・大和自転車道」と分かれる。白旗。遊行寺橋。藤沢宿。
左手(対岸)からけっこうな水量の落とし口(樋門)。「西部水再生センター(横浜市戸塚区)」からの流れ。高台の住宅地(藤沢市)。国道1号線沿いの建物が見えてきます。両岸にはアジサイ。大清水境川アジサイロード。ポケットパークで小休止。対岸は、「神奈川県立藤沢清流高等学校」。「藤沢・大和自転車道」案内図。この先、国道1号線のところで、境川から分かれ、「引地川」沿いになり、海岸に向かいます。「境川大橋」(国道1号線)。「境川歩き」は、そのまま境川沿い(右岸)を。「境川海から6.5㎞標高10.1m」。この付近は、すっかり住宅地に。(「今昔マップ」より)赤い線が「国道1号線」。旧東海道はもう少し南に。※白旗神社社名は源氏の旗である白旗に因む。創立年代不詳。寒川神社を勧請した寒川神社だったが、宝治3年(1249年)9月に...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その4。「藤沢・大和自転車道」と分かれる。白旗。遊行寺橋。藤沢宿。
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その3。宇田川。横浜水道境川水路橋
畑が広がります。ガクアジサイ。色とりどりのアジサイ。この付近から、川幅も狭く、左に、右に大きくカーブしていきます。自然保全地区。「国道1号まで4.0㎞」。「自転車道」らしく。トマトハウス。販売所。こちらは水田。田畑が広がる。手前の畑は?振り返る。遠くに横浜薬科大の「図書館」。左手から宇田川が流入します。宇田川は、泉区中田町付近に源を発し、ほぼ南西に流下、戸塚区俣野町で横浜と藤沢の市境となっている境川に合流しています。かつて、宇田川は村岡川と呼ばれていました。村岡は地域の郷の名で、大正時代に川下に堤を設けた宇田氏の功績を讃えて、宇田川名が生まれました。昭和45年度から都市小河川改修事業(現在は都市基盤河川改修事業に移行。)により改修が始められ、計画改修延長は3.52kmとなっています。流域に「まさかりが淵」...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その3。宇田川。横浜水道境川水路橋
「葛飾菖蒲まつり」。堀切菖蒲園・水元公園。・・・その2。屋台がたくさん。カラオケ大会。
まさに「おまつり」という雰囲気。たくさんの人出です。「水元公園」。ここでは、カラオケ大会。大勢の観客の前で、お年寄りが歌謡曲から民謡まで熱唱、自慢ののどを披露しています。花菖蒲は、というと。こちらは堀切菖蒲園と違って、種類はありませんが、自然の中で育っている感じ。小合溜。対岸は、三郷市。ハス池。スギの実がたくさん。公園の入口。演歌歌手のポスターがズラリ。熱心に見ているお年寄り。カラオケ大会の審査員?水元大橋とアジサイ。「葛飾菖蒲まつり」。堀切菖蒲園・水元公園。・・・その2。屋台がたくさん。カラオケ大会。
令和5年度も堀切菖蒲園と都立水元公園で葛飾菖蒲まつりが開催されます。期間中には、両会場で様々な催しが行われます。期間令和5年5月29日(月曜日)から6月18日(日曜日)まで会場堀切菖蒲園(堀切水辺公園)・都立水元公園(「葛飾区のお知らせ」より)6月10日(土)曇り。梅雨入りした東京地方。何とか雨も上がってきたので、自転車で堀切菖蒲園、そして水元公園と巡ってきました。どちらも結構な人出でした。堀切菖蒲園(京成電鉄「堀切菖蒲園駅」下車。「堀切菖蒲園」江戸時代、堀切の地に観光名所としての花菖蒲園が誕生し、以来、この地域にいくつかの花菖蒲園が栄えました。現在の堀切菖蒲園は、戦後唯一復興を果たした「堀切園」の一部が母体となっています。小学生、中学生が描いた雪洞が各所に。夜には灯りが点るようです。全景。江戸から現代ま...「葛飾菖蒲まつり」。堀切菖蒲園・水元公園。・・・
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その2。鷺舞橋。横浜薬科大図書館・「横浜ドリームランド」。ゴム堰。
畑ではクリの花が満開。土手には、右手の森からリス?「鷺舞橋」標識。対岸にも遊水地公園が広がっています。「藤沢大和自転車道」案内板。下流方向。鷺舞橋遠望。遠くに見えるタワーは、2006年、「横浜ドリームランド」の跡地にできた「横浜薬科大学」の図書館。日本ドリーム観光株式会社がかつて経営していた「ホテルエンパイア」を改装したもの。当時はドリームランド併設のホテルとして数々の宿泊客をもてなしていたが、バブル崩壊後の1995(平成7)年に廃業。その後、手が付けられずに残っていたものを、横浜薬科大学が開校する際に図書館として再利用したようです。けっこう目立ちます。右手に畑。境川に架けられた人道橋。堰堤。独特の滑らかな流れ。ゴム製のようです。ゴム堰は、空気または水で袋体を膨脹・起立させ、洪水時には袋体内の空気または水...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その2。鷺舞橋。横浜薬科大図書館・「横浜ドリームランド」。ゴム堰。
横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その1。湘南台文化センター。今田遊水地。
6月1日(木)。晴れ。台風2号が沖縄地方に接近している中、関東地方は晴れ間が出ました。南風はけっこう強く吹いていましたが。横浜市営地下鉄ブルーライン「湘南台駅」で下車。境川に向かいます。左手奥に大きな地球儀?独特の施設。湘南台文化センター湘南台文化センターは、1989(平成元)年に藤沢市北部の中心地である湘南台駅の駅前に開館した、こども館、市民センター、公民館、市民シアターを持つ複合施設である。設計者の選定に公開プロポーザルコンペが実施され、長谷川逸子・建築計画工房が選ばれた。設計コンセプトは「第二の自然としての建築」であり、そこでは「共生すべき自然系の様相によって記述され、読み取りうるものとして建築を作ること」とされている。アプローチには「せせらぎ」、宇宙の不可思議な調べを聞く装置などがあり、こども館に...横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その1。湘南台文化センター。今田遊水地。
東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その6。「宇宙戦艦ヤマト」。大和市から藤沢市へ。フジ、クロマツ。
両岸に、団地や住宅が続く。右手の「大和あけぼの幼稚園」から「宇宙戦艦ヤマト」の、たどたどしい楽器演奏が。さすが「ヤマト市」。対岸の団地。横浜市泉区。大和市のマンホール。大和市の木ヤマザクラをデザイン。この先で、大和市から藤沢市に入ります。「これより下流神奈川県藤沢土木事務所」「国道1号まで9.5㎞」。上空に飛行機。厚木基地から飛び立った?藤沢市のマンホール。亀甲地模様、中央に市章。「海から15.5㎞標高29.7m」。「国道1号まで9.0㎞」。ビワの木。実がたくさん。「高鎌橋」のたもとに工事のお知らせ。「藤沢大和自転車道」案内図。迂回しなければならないようなので、今回はここまで。小田急江ノ島線「長後駅」まで歩くことにします(けっこうな距離)。橋の向こうは「横浜市泉区」。こちら側は、「藤沢市」。境川には、迂回...東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その6。「宇宙戦艦ヤマト」。大和市から藤沢市へ。フジ、クロマツ。
お祭り・図子。ヤマアジサイ。カルガモの雛たち。梅の実。(向島百花園)。
「向島百花園」周辺では、にぎやかに「白鬚神社」のお祭りが行われていました。幟や半纏を見ると「図子」と書かれています。※1「図子」=細道、小路、横町の意。別名「辻子」、「十字」、「辻」、「通子」、「厨子」、「途子」。(「weblio辞書」より)普通は町会などが氏子・地域組織としてありますが、ここでは、氏子組織として「図子」(ずし)があり、現在は11図子があります(必ずしも現行の町会とは同一ではない)。西図子、南図子、辰己図子、八雲図子、六一図子、中図子、東図子、玉ノ井図子、巴図子、北図子、堤図子※2最近知り合った方で、「ずし」という読みで「圖(「図」の旧字体)司」さんがいます。この字体・名字はかなり珍しいようです。さて、園内は、「てっぽうゆり」がお出迎え。かきらん。路地には、ヤマアジサイが可憐な花を咲かせて...お祭り・図子。ヤマアジサイ。カルガモの雛たち。梅の実。(向島百花園)。
タチアオイ。隅田公園あじさいロード。東京大空襲追悼碑。東京スカイツリー。
前々日から「台風2号」や前線の影響によって、各地で激しい風雨に見舞われ、多くの被害が続出、死者、行方不明者が出、交通機関の大きな乱れがあった、6月3日(土)。東京地方は、午後から日差しが届きました。そんな昼下がり、隅田公園を訪れました。途中、近所の団地の公園には、タチアオイが。さて、浅草側にある「あじさいロード」。三々五々、人々の出も。アジサイの向こうに石碑が見えます。「東京大空襲の追悼碑」。「あゝ東京大空襲朋よやすらかに」隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東...タチアオイ。隅田公園あじさいロード。東京大空襲追悼碑。東京スカイツリー。
東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その5。オオキンケイギク。「中原街道」。再び「自転車歩行者専用道」に。
護岸工事が完成したところと工事中のところ。歩道を歩くことに。振り返る。大和市のマンホール(汚水)。亀甲模様の丸蓋、中央に大和市の市章。土手に草花が。護岸工事が完成すると、来た道にあるようなコンクリート擁壁になるのでしょうか?レトロ風の橋。「新道大橋」。中原街道。「中原街道」。江戸幕府によって東海道が整備される以前から相模の国と江戸方面を結んでいた道で、江戸時代は東海道の脇街道として、また江戸との交易の道として利用された。古代の官道が元になっていると考えられており、鎌倉街道との共通部分も多い。徳川家康が最初に江戸に入国した時にはこの道を通ったと言われている。中原街道と呼ばれるのは江戸時代になってからで、平塚市に置かれた中原御殿と江戸を結ぶことに由来する。川崎市の中原区を通っているからと考えそうになるが、明治...東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その5。オオキンケイギク。「中原街道」。再び「自転車歩行者専用道」に。
東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その4。クリの花。麦秋。カルガモたち。
「東名」脇の田園風景。この付近の今昔。(「今昔マップ」より)(〇)右手の施設?対岸は、横浜市瀬谷区。クリの花が満開。畑が広がる。「麦秋」。実りの秋(とき)。刈り入れの近づいた麦の穂が黄金色に輝いて見える時期を麦秋(ばくしゅう)といいます。この場合の「秋」は季節を表すものではなく、稲の秋にならったもので収穫の時を意味します。麦秋の時期は西日本では5月下旬で、東北地方では6月上旬から中旬、北海道では7月に入ってからとなります。この頃に吹く風を「麦の秋風」と呼びます。(「お天気COM」より)久々に見ました。森の濃い緑との対比がすばらしい。田植えを終えたばかりの水田にカルガモ。のんびりと自転車道を。川の中にもカルガモ。この先に「相鉄本線」が見えてきます。相鉄本線。左に瀬谷駅。ここからは約3Kほど、境川沿いの車道(...東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その4。クリの花。麦秋。カルガモたち。
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5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c
<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z
すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
右手は工業団地。「元荒川水管橋」。※元荒川水管橋は城北大橋から500m上流に架けられている。元来は水管橋(元荒川の上を水道水を渡らせるためのもの)だったが、平成14年に改修され、歩行者も渡れるようになった。上流方向。下流方向。土手沿いの道を進みます。「伊豆島の大蛇全3ヶ所の東側」(蓮田市黒浜)。※この付近が、蓮田市とさいたま市岩槻区の境界線になります。民俗行事の一つで、春祈祷(はるきとう)に関連する厄除け行事です。由来は200有余年前に集落内に悪い病が入り「魔除け、災難除け、疫病除け」として『大蛇(だいじゃ)』を作り、集落境界の2ヶ所に立てたと言われています。集落内の1軒に1人が夕方(3時頃)集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作ります。胴体は...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
今回から元荒川の上・中流歩きになります。利用する路線も東武線からJR線になります。「東岩槻駅」。東武線鉄橋の上流へ出ます。「東宮(ひがしみや)歩道橋」から上流を望む。この付近の今昔。(現在)東武鉄橋上流に「東宮歩道橋」。「江川地区調整池」が設置されています。(1970年代)元荒川は大きく西にカーブしていました。その後、流路の変更が行われ、宅地化されました。土手沿いの道(左岸)を歩きます。右手は住宅地。上流に「慈恩寺橋」。河川敷に畑が広がっています。(1880年代)河川敷が広がっています。(現在)かつての河川敷が農地となっています。水道橋が左手奥に。畑の正面に「水道橋」。「城北大橋」。下流の水道橋を望む。この先に人も歩ける「元荒川水管橋」があります。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。下流方向。上流に「新曲輪橋」。「国道16号線」は首都圏の幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。(「」より)春日部方面。「新曲輪(くるわ)橋」。右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。※「本郷追分」で中山道と分かれ、「幸手」で日光街道と合流する。モニュメントの人形。旧岩槻市のマンホール。蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。「岩槻橋」。岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
公園内の釣り堀。賑わっています。森の中の下道。公園内に。森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。案内図。「グリーンアドベンチャー岩槻文化公園コース」。この木の名は?この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。(1880年代)(現在)駐車場の向こうに元荒川の流れ。川沿いの小道。足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。○のところにとまっている。中川歩きの時に見た「ハグロトンボ」。ハグロトンボ(羽黒蜻蛉カワトンボ科のトンボ。別名ホソホソトンボ。東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北・本州・四国・九州に分布する。成虫の体長は57-67mm、後翅長35-44mmほどで、トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
溜井が大きく広がる。桜並木。右手は緑濃き、水田。「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。「夏越の祓」茅の輪がある。先に進みます。まだ「岩槻市」のまま。※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。田んぼが広がります。土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。振り返る。久々な経験。農家の脇に、カボチャ。枝豆。県道に出ます。上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。下流方向。上流方向。橋を渡り、右岸に。振り返る。上水道管。「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。(この項、「」HPより)「永代橋」。モニュメント。この付近の今昔。(現在)中央に堰。川幅が大きく広がっている。(1880年代)現在の堰付近の流れが複雑になっている。上流方向。広がりを見せる。旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。1926(大正15)年の建...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。6日には、窓際に。あんずが窓際に乗ると、ソウタは、あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。7月6日。「小暑」の日の午後。いました!親が。親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?親から離れ、自由気ままに泳いでいます。親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。そして親子一緒に。前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは?気になります。もみじあおい。にっこうきすげ。やまゆり。寺島なす。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/2ff6d8ff92a04e21bf1b674e796011d...あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。
「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。こちら側にも農地が。ここにもネムノキの大木。上流に「大砂橋」が見えてきます。「元荒川緑道(上流部)散策案内」。「大砂橋」を振り返る。けっこう緑が深い。路傍に何体かの古仏。元荒川の流れ。農地が続きます。菊の栽培。左手には畑作地が広がる。イチゴ。サツマイモ。咲き始めている菊。川沿いから離れて進みます。右手灌木の右に、元荒川。一面、青々とした田んぼ。「三野宮橋」。上流方向。橋を渡り、左岸へ。「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。「補修境界←さいたま市北部建設事務所→越谷県土整備事務所」。さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?さいたま市埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多。政令指定都市の一つ。また財政力指数は政...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.元荒川橋から下流を望む。川沿いには歩道がないので、県道を進みます。この標識板には、「↑越谷国道4号線→春日部←上野」とあります。左手に「元荒川」。「〆切橋」(人道橋)。越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代(宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年(大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年(昭和12年)竣工のRC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。元荒川はかつて〆切...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
元荒川歩き、2日目。往復とも東武線内の乗り降りです。北越谷駅西口。「元荒川」土手。前回に続き、左岸を歩くことに。森の脇に進みます。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央に「宮内庁埼玉鴨場」。現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。我が国では、古くから網や鷹を使っ...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
東武線のガードをくぐって先に進みます。越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)東武線鉄橋方向を振り返る。左岸のようす。桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。ところどころ、花壇があり、ベンチなどもあります。前方に「神明橋」。中央の車道部分は古そうなトラス橋振り返る。この橋を渡り、左岸に移ります。桜並木の下。河川敷には耕作地が広がっています。対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。前方には「出津橋」(人道橋)。文教大学越谷キャンパス。出津橋。学生たちが通行中。今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
元荒川歩きを再開します。カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。※伏越(ふせごし)用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)振り返る。右が葛西用水。「新宮前橋」。「宮前橋」。「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。東の方に「久伊豆神社」があります。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
「溜井(逆川・葛西用水)」。花しょうぶが満開。「元荒川」。「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。越谷市中央市民会館。平和橋・新平和橋。いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。日本橋から3番目の宿場・越谷宿。越谷駅。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸の河原。「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。正面は、「しらこばと橋」。解説板。「葛西用水」の成立享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。「葛西用水」流路図。「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。南方に「越谷レイクタウン」があります。「越谷レイクタウン」の今昔。(現在)大規模な商業施設、住宅地となっている。(1970年代)ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域左岸の大きな建物。「越谷東高校」。舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。早く木陰の下に。ほっと一息。「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。「不動橋」が見えはじめる。「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。木陰が涼しい。水分補給などで小休止。「元荒川緑道(下流部)散策案内」。来た道を振り返る。「不動橋」。※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。「しらこばと橋まで1,050m」。「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。流入口。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
雨降りの午後。向島百花園。アジサイには、雨が似合う。降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。ヤマユリ。リンドウ。ハンゲショウ(半夏生)。ネムノキ。カザグルマ。カルガモたちはどうなったか?四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。ヒナは、合計7羽。親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。雨脚が強くなってきました。親子であちこちウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。ヒナたちが叢の中に。そのうち姿が見えなくなりました。さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0f/35390b3509d0b0685431b98cec8dc837.jpg">※オナガ水色の美しい鳥実を...雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・
中川の一つ上流にある「吉川橋」。その先で、元荒川が中川に合流する。左手が「元荒川」、右手が「中川」。付近は、工事中。左手に「中島橋」。越谷市内のマンホール。「越松水消火栓消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。元荒川の最下流に架かる「中島橋」。中川方向を望む。上流に向かって歩き始めます。右岸の「元荒川緑道」を歩きます。「飯島排水機場」からの流れ。その先に「大成スポット公園」。緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。左手に土手状の盛り土が続いています。この付近の今昔。(1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。(現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。対岸のようす。国道4号線・「大成橋」。「水道管橋」その先に、「...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。「元荒川」現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。おおむね南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。かつての元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地の湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。やはり、ビール。サントリーのセット。箱から出した途端、ソウタがすぐ、底の浅い箱に入っています。よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。そのうち箱もつぶれて、そして、昨日。この格好は?頭は?しっぽは?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/45/37d01859d03c8e7e1fc05c60f5915302.jpg">ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。帰ってくると、必ずジジがそばに。家に来たときはこんな小さかったソウタ。ふだんは、一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。家人の姿が...ソウタとあんず。我が家の猫たち。
賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。「鈴木海苔株式会社」。しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。右に行くと「銚子駅」。この先は、前回、行きました。しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。「下総豊里」駅。この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)