Ryo Daimonji Blog命二ツの中に生たる桜哉 芭蕉 貞享ニ(1685)年の作『野ざらし紀行』。前書きに「水口にてニ十年を経て故人に逢ふ」とある。「命二ツ」とは芭蕉と土芳のことである。その再会の感激を水口の桜に託しているのだ。この時代に二十年を超えて逢うということ
)Ryo Daimonji Blog春立てまだ九日の野山哉 芭蕉 この句の九日が正月一月の九日であることに大方の異論はないようだ。それにしても正月の日の経つ感覚は不思議だ。今日も実際三日なのだが今年は日が経つのが遅く感じられて仕方がない。それが五日を過ぎると急に早く過ぎ
Ryo Daimonji Blog 小鳥死に枯野よく透く籠のこる 飴山 實 鳥であれ犬であれ飼っていたペットが死に、その籠や小屋が残っているのを見るのはとても辛いことだ。その寂しさ、空虚さを「枯野よく透く」と選ばれた言葉に、暗くもなく重くもない小鳥の死の認識がある
Ryo Daimonji Blog耳とほき浮世の事や冬籠 虚子 歳をとって耳の遠くなった自分にとって世俗の損得や人のことなんぞはどうでもいいことだ。この調子で冬籠と決め込もう。耳が遠くなると言う高齢の特徴を活かして冬籠と決め込む余裕のことを俳句にされた。季語がややつき
Daimonji Blog 歩行ならば杖つき坂を落馬哉 芭蕉 杖をつかわないと行けないほどの坂である。世に杖つき坂とも言われている。そこを馬で行こうものなら落馬するのは必定、それほどに厳しい坂である。歩行で行って落馬すると言うのはおかしいが、自分の落馬にまつわる思
Ryo Daimonji Blog 冬ざれやものを言ひしは籠の鳥 高橋淡路女 あたり一面が冬の寒さの景色になった。そんな中、籠の鳥がしきりに同じ言葉を繰り返す。おうむか九官鳥かそういった鳥だ。籠の鳥との下五であるが、通常籠の鳥は不自由の象徴として用いられる。身辺不自
Ryo Daimonji Blog 柴漬に見るもかなしき小魚かな 虚子 俳句の勉強が一生もんだと言うことは誰よりも知っているつもりだった。「柴漬」僕の持っている「角川俳句大歳時記」にも「講談社新日本大歳時記」にもな・い。その後ネットで「ふしづけ」と読むのであり、各々
Daimonji Blog いざさらば雪見にころぶ所迄 芭蕉 なんとも楽しい俳句である。親しい友と興じた後で、名残惜しいがさあお別れだ、雪見を兼ねて見送るとしましょう。ただし雪に足を取られてころぶところまでとしましょうね。いざ。
Ryo Daimonji Blog この枯れに胸の火放ちなば燃えむ 稲垣きくの 草や木が枯れ果てたこの冬の野や山に私の胸の内に燃える火を放てば燃えるに違いない。「業火」と言う言葉が浮かんだ。作者は何にこれほどの火を燃やしているのか。恋焦がれる火ならば浅ましくはある
Ryo Daimonji Blog 蒲団かたぐ人も乗せたり渡舟 虚子 日本中の大きな川には渡し舟があって多くは舟で、あるものは人が担いだりして渡したものであろう。この句は渡し舟を詠んでいる。しかもこの舟は蒲団を肩に担ぐひとを乗せたらしい。今で言う引っ越しで家財一式を
Ryo Daimonji Blog 磨きなほす鏡も清し雪の花 芭蕉 鏡に己が姿を写ししばし見入るということは、単に着衣をチェックするということにとどまらず誰しもするところであろう。時に鏡の曇りや汚れといったことには特に気になるところである。朝から始めた鏡磨きで
Ryo Daimonji Blog 冬木の枝しだいに細し終に無し 正木浩一 先日この稿で自然、動物、植物の内に上がってくるが名句の句材として「木」は難しいとやったところだ。この句も誰しもが見る冬木の枝を丁寧に詠まれた。「しだいに」「終に」と副詞と「細し」「無し」の
Ryo Daimonji Blog 大根の花紫野大徳寺 虚子 京都市北区紫野の大徳寺。懐かしい、大学浪人時代に友人がこの辺りに下宿していて時折ほっつき歩いた。端正な壁に沿って路地があり寺にたどり着いた記憶がある。この句、上五を庶民的な大根に委ね突如中七で花紫野と
Ryo Daimonji Blog 鷹一つ見付てうれしいらご崎 芭蕉 いらご崎は鷹を観察する趣味の方々も集まるところがあるほどに 鷹にまつわる名所のようだ。芭蕉が特に喜んだポイントは敬愛する西行の「巣鷹渡る伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな」。と言う歌と杜国との
Ryo Daimonji Blog 大空の風を裂きゐる冬木あり 篠原鳳作 名句の句材として「木」は難しい。自然、動物、植物の内に上がってくるが、木に意思があるわけのものではない、従って風を切り裂いて存在しているわけではなく、この句はあくまで作者の受け止めである。この
Ryo Daimonji Blog 春雨の衣桁に重し戀衣 虚子 春雨の日に昨日のことを思い出している。ガラーンとした和室に昨日の着物が掛けられていてずっしりと重い。何と言うこともないのだが、今ひとつ気が晴れないのだ、気が晴れぬと言うより気が虚ろなのである。あれか
Ryo Daimonji Blog 星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉 星のきれいな星崎にあって、星を見ようとしないでその深い闇をこそ見てください。そうすればきっと美しい星が見えてきますよ、と千鳥が啼いて教えています。つまり、星は闇があればこそ美しく見えるもので、本
Ryo Daimonji Blog 一九三六と 覚えしこの日ニ・二六 奈良文夫 この句の名句の所以は、歴史の勉強で誰しもやった語呂合わせ、例えば今流行りの鎌倉。良い国作ろう鎌倉幕府、とかあれあれ。覚えると言う勉強の基本の普遍性、懐かしさ? それとも語呂合わせのヒドク
Ryo Daimonji Blog 君火をたけよきもの見せむ雪まるげ 芭蕉 あたりは寒い雪の日で、弟子の誰かと心やすい話となった。そこで翁が君は火を焚いてください。そうすれば私は、良いものを見せてあげましょう、雪だるまです。と言う。などと文字面をなぞってみるが
Ryo Daimonji Blog 次の田に畦の影ある冬田かな 倉田絋文 田んぼには一枚一枚が広々としたものもあれば、裾から上まで段をなす棚田などさまざまな形態がある。この句はどちらかといえば後の方で隣り合った田の景色を詠んだもののようである。見る向きによってで
Ryo Daimonji Blog 此梅に牛も初音と鳴きつべし 芭蕉 長い冬が去ってこの梅も咲き始めた。この時とばかりに、牛も鶯の初音のように鳴いてよいと、当然、適当の意を強調して是認する(私の文法書の通り)。鈍重な牛の鳴き声を可愛い鶯の初音に見立てたところにエス
Ryo Daimonji Blog われは粗製濫造世代ふゆひばり 高野ムツオ 産めよ増やせよ、と言われた時代があったことは知っている。確か戦争中ではなかったか。その煽りを受け戦後ベビーブームとなったのではなかったか。作者の世代のことはよく知らないのだが、おそらくその
Ryo Daimonji Blog 盃の下ゆく菊や朽木盆 芭蕉 難しい、まず「盆の下ゆく菊」である。盃に酒を飲む部屋の窓下に小さな流れがあって、そこに菊が流れていった。盃は古びた盆の上にあって、なんともしみじみすることだなあ。と、一応の解釈にしてみた。このまま
2012年(平成24年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 猪鍋食ふ味噌は濃くせよ熱くせよ
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Ryo Daimonji Blog命二ツの中に生たる桜哉 芭蕉 貞享ニ(1685)年の作『野ざらし紀行』。前書きに「水口にてニ十年を経て故人に逢ふ」とある。「命二ツ」とは芭蕉と土芳のことである。その再会の感激を水口の桜に託しているのだ。この時代に二十年を超えて逢うということ
Ryo Daimonji Blog夕暮の汐干淋しやうつせ貝 虚子 明治27年3月20日「小日本」とある。この頃虚子は碧梧桐と行動を共にしていたようだ。虚子二十歳の作品である。夕暮のしおひ狩り(と解する)に空の貝があつた淋しいことだと、虚子若き日のノスタルジーと読んだ。
Ryo Daimonji Blogはりつけにあらず寝釈迦は寝給へり 及川貞 キリスト教の尊師キリストは磔で死んだ、多方仏教の尊師釈迦は寝るように死んだ。いずれがという評価を言っているのではない、その違いを俳句に詠んだのだ。そしてその穏やかな寝姿にお釈迦さまへの敬愛の念
Ryo Daimonji Blog菜畠に花見皃なる雀哉 芭蕉 菜の花畑で、人が花見をしているような顔で飛び回っている雀だよ、ほどの意味であろうか。菜の花の美しさ、可愛さを俳句にするのは意外と難しい。その上に鳥類の中でも可愛い雀を擬人化で付け加えるのも可愛さのつきすぎの
Ryo Daimonji Blog行春や心もとなき京便 虚子 この句の中七「こころもとな・し」は①待ち遠しくて心がいらいらしている。が一番ピッタリくる。下五、京からの便りと、もじどおり読む。しかし誰からの、どういう便りなのかさっぱりわからない、京からのということでその
Ryo Daimonji Blog崇徳院しづもる讃岐西行忌 上﨑暮潮 崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)の争いは崇徳上皇の讃岐への遠流で終わる(1156年 保元の乱)。この時の崇徳院の恨みは日本三大怨霊の一人として知られるげな。この霊をしづめたのが西行とも言われ、西行の陰徳が偲ば
Ryo Daimonji Blogつゝじいけて其陰に干鱈さく女 芭蕉 この句上六中五下八の破調句である。この言葉の流れに「女」の無骨な性格をいいとめている『高柳芭蕉』。との解釈もあるとする。貞享ニ(1685)年『野ざらし紀行』である。「旅店に腰を懸けて」。の前書きがあるよ
Ryo Daimonji Blog湯婆の都の夢のほのぼのと 虚子 上五「たんぽ」で冬の季語であるが、ここは「ゆたんぽ」と読んで良いと解する。このゆたんぽから、みやこの夢をほのぼのと思う。との俳意とするならいくら虚子さんとはいえあまりに甘い一句であると思う。出典は俳句全
Ryo Daimonji Blog火に乗せて草のにほひす初諸子 森澄雄 諸子のおいしい食べ方は、炭火でこんがり焼き上げ酢味噌、生姜醤油でいただくのがいいらしい。ところがこの句その時に草の匂いがする、という。水中にすむ諸子が焼き始めると草の匂いがするげな、こんどそんな機
Ryo Daimonji Blog辛崎の松は花より朧にて 芭蕉 辛崎は滋賀県大津市、唐崎あたりのことのようだ。琵琶湖に向かって立つ松が詠まれている。曖昧さをよしとする美感で、花よりもぼやけて見える夜の松の情趣を繊細に捉えている。琵琶湖に向かう松もさることながら、私は丹
Ryo Daimonji Blog花吹雪狂女の袖に亂れけり 虚子 和装の女性が桜吹雪の中を袖を振って舞っている。そしてその女性は狂女だという。桜の根元には死体を埋めたり、狂う女性を踊らせたり、さまざまにその美の表現がこころみられる。美しさに怪しさが漂うとき、狂い踊る女
Ryo Daimonji Blog生別もいづれ死別や春の水 山本紫黄 この作者、生別死別といった大変重い事を俳句でさらりと詠まれた。他の句にも〈来ぬ女こそわが女冬日の浜〉とか、〈てめえの靴はてめえで探せ忘年会〉とかあった。 生き死にを俳句にすることはいいのだが、その
Ryo Daimonji Blog山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 この句の命は中七の「ゆかし」であった。辞書をみると、①何となく知りたい、見たい、聞きたい。と好奇心をさす。②何となくなつかしい。何となくしたわしい。心がひかれる。③上品ですぐれている。とある。貞享
Ryo Daimonji Blog朝櫻一度に露をこぼしけり 虚子 俳句で一瞬を詠むのは常套である。風が吹いたのか鳥が飛び立ったものか、ともあれ一度に葉についた露が落ちたのであるしかも朝のことである。「こぼしたことだよ」と軽く一瞬の過去を詠嘆して見せる、これもまた19歳の
Ryo Daimonji Blog山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子 まるで中学生に戻ったかのように女性の身体図を見てみた。「へその裏」と言えば当然子宮のあたりだ、妊娠中の胎動の感覚を具体的に自分の体で詠んだ。そしてそれが俳句になっている。「胎動」の具象化に成功して
Ryo Daimonji Blog我がきぬにふしみの桃の雫せよ 芭蕉 貞享二年(1685)『野ざらし紀行』。京都市伏見西岸寺の盛りの桃の花を任口の高徳になぞらえて、私が着ている衣に桃花の雫を滴らせて欲しい(高徳に浴したい)と当時八十歳の老僧任口上人への挨拶句としたもの。(『新
Ryo Daimonji Blog更けゆくや花に降りこむ雨の音 虚子 1893(明治26)年虚子19歳作とある。この花はわが邦にあり、そこへ雨が降り込むという。がしかし、降り込んでいるのは音だという。この表現になるほど虚子19歳の非凡な感覚表現の若さを感じる。
Ryo Daimonji Blog東山三十六峰みな笑ふ 清水基吉 清水 基吉は、俳人、小説家で東京都渋谷区に1918(大正7)年に生まれている。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間
Ryo Daimonji Blog樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉 難しい句である。まづ場所は京都市鳴滝とある(「芭蕉全句」小学館)。次に「かまはぬ」かかわるとの意味に従う、つまり桜の花にかかわらない、枝ぶりである。先の林和靖に例えた山荘主を樫の木に類えている、らしい。
Ryo Daimonji Blog月の夜に笠きて出たり鉢叩 虚子 この場合の笠は、被りもんを意味するんだろう。月の夜なんで雨避けではなく帽子みたいなファッションなのであろう。鉢叩なる季語では、十一月初旬から大晦日までの寒い夜である。空也念仏が聞こえてきそうな年末の通
Ryo Daimonji Blog 命二つの中に生たる桜哉 芭蕉 この二つの命とは芭蕉と土芳のことであるらしい。この二人が20年振りに大津水口で再会したのだった。貞享二(1685)年『野ざらし紀行』所載。芭蕉と土芳の別々に生てきた二つの命の中に桜は春になると咲き抜いて今目の
Ryo Daimonji Blog 春山の名もをかしさや鷹ヶ峰 虚子 この句の春山を下五鷹ヶ峰のことだとすると、これは京都市北区の鷹ヶ峰を指すのであろうか、この現在地は北区鷹峯赤坂に始まり北鷹ヶ峰、南鷹ヶ峰など20を越える地域からなり、このことを面白いというのであれば
Ryo Daimonji Blog 生別もいづれ死別や春の水 山本紫黄 この句の中七「いづれ死別や」に「どうせ死ぬんやから」と生を前向きに捉えるきっぱりした勇気と解したい。「生を明らめ死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり」と曹洞宗経典「修証義」は始まる。春の水のよ
Ryo Daimonji Blog 斯く翳す春雨傘か昔人 虚子 この句を読んで「春雨じゃぬれて行こう」という台詞がうかんだ。月形半平太が傘を差し掛ける舞妓に言った台詞とあるが、この句の昔人はどんなふうに翳したものであろうか、ともあれ相合傘にせよ春雨にさす傘には風情が
Ryo Daimonji Blog 大比叡やしの字を引て一霞 芭蕉 比叡山に霞が細く一筋、しの字のようにたなびいている。と言ったことのようだ。これには『一休咄』(寛文八年)の典拠があり、一休さんが比叡山の僧に大文字で、長々と、読み易くと乞われて書いた書が比叡山から麓
Ryo Daimonji Blog ものの芽のあらはれ出でし大事かな 虚子 ものの芽であったり木の芽であったり、春は、芽吹の季節である。言い換えれば春のあたりまえの現象である。北原白秋は薔薇が咲くのをなんの不思議ではないがとその美しさを詩ったが,虚子はそれを大事であ
Ryo Daimonji Blog 火にのせて草のにほひす初諸子 森澄雄 諸子が琵琶湖で有名なことは知っていた。それと子供の頃の雑魚とりでも諸子はいた。大きいのがいないので僕たちの中でのお魚ランクは低かったと思う。この句火で焼いて食べるのか、一人キャンプでやれば一口
Ryo Daimonji Blog うきふしや竹の子となる人の果 芭蕉 憂きことの多い人の世に、人生果てて竹の子となる人もあることよ。と充てておこう。死後竹林に埋められ竹の子になったという小督なるそれは美人の琴の名手を踏まえた一句であった。『平家物語』天皇と小
Ryo Daimonji Blog うなり落つ蜂や大地を怒り這ふ 虚子 私はこの句の蜂にカネ蜂をイメージしているが、正式にはスズメ蜂が正しいようだ。上五うなり落つは、殺虫剤などで落ちる時に見たことがある。そしてまさに怒り狂って這い回るのである。中七のや切りがよく効
Ryo Daimonji Blog 山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子 十月十日母は己が腹を痛め、我が子をなす。この句その痛みとは程遠く笑う山に囲まれ,幸せに胎動を見つめている。具体的に己が腹の部位を下五で示したところクールでいいのだ。
Ryo Daimonji Blog 衰や歯に喰あてし海苔の砂 芭蕉 昭和30年代になるが、ご飯に小さな石が混じってガリッとすることが時々あった。この句では海苔を食べた時のようだ。お米や海苔に砂が混じることはよくあることで珍しいことではない。その歯応えに芭蕉翁は自身の
Ryo Daimonji Blog 巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ 虚子 巣の中の蜂を見ての句だが蜂の頭の部分をかぶとと表現した。この表現で蜂の存在感が際立った。刺すという蜂の危険に満ちた顔の動きがまざまざと見えるのだ。
Ryo Daimonji Blog 東山三十六峰みな笑ふ 清水基吉 近代以降、「三十六峰」を具体的に特定しようという試みが度々行われているようですが、京都盆地の東に位置する北は比叡山から南は稲荷山まで、南北12kmにわたって連なる山々の総称のようです。その山々がみな笑う
Ryo Daimonji Blog 山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 貞享ニ(1685)年の『野ざらし紀行』京都から大津に出る小関越えと言う道での作。「山道を歩いてきて、菫をみつけた。なんとなく心がひかれた」という句意らしい。この句の中七「何やらゆかし」との表現がいつ
Ryo Daimonji Blog 木々の芽のわれに迫るや法の山 虚子 この句の「法の山」が松ヶ崎の妙法の「法」の山をさすのか、一般的にいう山中の修業寺をさしているのか私にはわからない。その山の木々の芽が私に迫ると具体的な印象を言っているので、私は前者と解した。
Ryo Daimonji Blog 目を入るるとき痛からん雛の顔 長谷川 櫂 あの細い絵筆で雛の顔を描くのだ。あの精緻な作業を見ているとよくぞまあ仕事として続けられるもんだと感心する。それを痛いと感じているのだ。いくら人形とはいえ、その目、鼻、口と辿っていくとまるで
Ryo Daimonji Blog 奈良七重七堂伽藍八重ざくら 芭蕉 奈良七重と柔らかく「な」の音で起こし、さらにしちどう伽藍と七で繋ぐ。そして八重ざくらと八でまとめる。土地柄の柔らかな都の風が漂う中さらに重厚な寺院の七堂伽藍を見せる。そして、その景はピンク濃く咲く
Ryo Daimonji Blog 踏青や古き石階あるばかり 虚子 「踏青」春芽生えた青草を踏みながら、野山を散策すること、野遊びと歳時記である。「古き石階あるばかり」と言われてもそう言うところってどこにでもあるわけで、ただ、上五をトウセイと音読みするところ緊張す
Ryo Daimonji Blog 下萌えぬ人間それに従ひぬ 星野立子 春になると野にも庭にも草々が芽を出す。そういった春の息吹に人間も我知らず従っている。作者は中七で人間と広く構えるが、私は「私は」と己の中に強く下萌の感覚が高揚することを詠んでいるのだと解した
Ryo Daimonji Blog 春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉 「名もなき山」「名もなき花」「名もなき俳人」と思いつくままあげてみた。名もないけれど、美しい、素晴らしい、と逆説的に褒める常套表現である。春だからであろうか、名もなき山に薄霞が立ち込めているよ。貞享