Ryo Daimonji Blog菜畠に花見皃なる雀哉 芭蕉 菜の花畑で、人が花見をしているような顔で飛び回っている雀だよ、ほどの意味であろうか。菜の花の美しさ、可愛さを俳句にするのは意外と難しい。その上に鳥類の中でも可愛い雀を擬人化で付け加えるのも可愛さのつきすぎの
Ryo Daimonji Blog しぐるるや駅に西口東口 安住 敦 出口を東西南北で示すところは多い。多くは南北の場合が多いがこの句、西口東口を示す。大きな駅なのだろう。この駅、地下鉄のそれではないのか。すっかり迷ってしまったではないか。そうなんだ、こういう句は何
Ryo Daimonji Blog 春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉 春ですねぇ。名もない山の薄霞さえのんびりと穏やかで心地よいです。ほどの意味だろうか、いつ、どこで、誰と、どのように詠まれたのかわからないが、のどかな春の景色や温度、気分までも上五「春なれや」で伝
2012年(平成24年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 猪狩の間髪 入れぬ二発めぞ
Ryo Daimonji Blog 眉の根に泥乾きゐるラガーかな 三村純也 眉毛ではなく「眉根」である。一歩さらにラガーに近づく。泥乾きたるでなく「乾きゐる」である、まるで生き物を発見したかのように泥の存在を突き示している。つまるところ、ラグビーという運動の激しさと
Ryo Daimonji Blog 海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉 山里育ちの私は鴨の声を日常的に聞くことはほぼない。しかし今はネットがある、早速聴いてみる。まあ鴨の声って色彩で表すにはダミ声にすぎる、白い、というならもっと透明感のある声であってほしい。だが、強
2012年(平成24年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 霧襖トラック出たり十一墩
Ryo Daimonji Blog 冬ぬくしバターは紙に包まれて 中村安伸 暖冬とはいえセーターコートとついつい着込んでしまう。冷蔵庫の冷え切ったバターは紙に包まれている。出がけ前の朝食の一瞬、バターに目が入った。 食べ物俳句は写生句の基本だと思う。リアルに美味そう
Ryo Daimonji Blog 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 なるほど、「狂句」を外せば有季定型句になる。が、僕にとってこの句の難は「竹斎」であった、意味がわからなかったのである。竹斎は医者で、よくある店のコピーの「日本一まずい店」とかある、あれであるつまり世界一
Ryo Daimonji Blog 冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬遷子 うららかな冬の日に芥子粒のような塵となって、私はこの世を去ろうとしている、と辞世句を残したと解した。66歳の他界であった。武士を思わす潔い覚悟の言葉である。
2011年(平成22年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 爪に折る千羽鶴なり春星忌
Ryo Daimonji Blog 明けぼのや白魚白きこと一寸 芭蕉 夜明けの空が白み始めた頃、芭蕉は宿泊の本統寺を抜け出し 浜に出ていることになる。その時刻に見た白魚が一寸の小ささで白くあった、と白魚の形状を読んでいる。通常の白魚は三寸ほどあるようなのでこの句の白魚
Ryo Daimonji Blog 日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ 寺田京子 太陽に届かんとするほどに高く力強く飛ぶ鷹である。その鷹が一塊の骨となるまでかぎりを尽くして飛ぶ、と詠んだ。実際に鷹がそこまで、自死するほどに飛ぶことはあるまいが、作者は鷹の勇壮さを俳句表現
Ryo Daimonji Blog D 51の模型冷たし無人駅
Ryo Daimonji Blog あそび来ぬ鰒釣かねて七里迄 芭蕉 まず、この句のふぐ(魚編に豕)の漢字は私の辞書では見当たらなかった。当て字で失礼します。句意は比較的平易である。「遊びで鰒釣に出かけたが釣れず、ついつい七里までも来てしまいました」ほどに解した。七里と
Ryo Daimonji Blog 天空は生者に深し青鷹 宇多喜代子 この天空は単に高い空のことを言っているのではなく、冥界につらなる空を越える空域を言っているのだと思う。従って、我々生とし生ける物にとって高いのではなく深いのである。問題は「青鷹(もろがえり)」である。
2010年(平成22年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog わびすけや 舟屋に船の鎮もれる
Ryo Daimonji Blog 宮守よわが名をちらせ木葉川 芭蕉 宮守さんよこの水もなく枯れ葉に敷き詰められた川にこそ私の名前を散らせてください。とやや自虐的に詠嘆してみせた。しかし、この木葉川、この上なく侘しく美しくこの川に自分を重ね詠む芭蕉会心のナルシズムと
Ryo Daimonji Blog 飛鳥仏けふも面長大根干す 斉藤夏風 この句を読んで私が真っ先に思い浮かべたのは中宮寺の半跏思惟像である。その他にも法隆寺金堂の釈迦三尊像などもずっしりと重みのある三体の仏像で、面長である。中宮寺の仏さんは膝を半跏けに崩して人間臭さ
2021年(平成23年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 月極駐車場銀杏落葉や土瀝青
Ryo Daimonji Blog 石山の石にたばしるあられかな 芭蕉 この景どこかで見たことがある。ところでこの上五の石山は固有名詞なのか、一般的に岩の多い石山と解していいのか、後者と解して進める。あとは「たばしる」だが聞きなれた感じはするのだが、繰り返すとそう
Ryo Daimonji Blog 酒なくば無口な波郷忌も近し 伊藤白潮 昭和31年43歳、療養中の波郷である(アサヒグラフ1985.4)。酒を飲むと妙に気が晴れ陽気な気分になりついつい饒舌になったりするものである。「酒なくば」か、誰でもそうだがしらふの波郷の素顔を瞬間捉えた。
2007年(平成19年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog寄せ鍋や蓋に押さへる蟹鋏
Ryo Daimonji Blog 冬の日や馬上に来る影法師 芭蕉この句を読むのは2度目だ。前回もこの影法師は芭蕉自身と解している。かっこいい影法師でなくしょぼくれた冬の日を負い来る己れを詠嘆しているものと読んだ。今回もその解釈に変わるところはない。この影法師を田に映る
Ryo Daimonji Blog pことごとく未踏なりけり冬の星 高柳克弘 この句「未踏」という言葉に命が宿る。直接的な意味としては「残らず全て、踏み込んだことがない」ほどの意味と言えようが、それだけでは足りない。大きく志を持って踏み込もうとする彼の地であるが、未だこ
2007年(平成19年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 朝霧の千の太陽輝ける
Ryo Daimonji Blog びいと啼く尻声悲し夜ルの鹿 芭蕉 一読「ぴい」ではないのかと思った。鹿鳴く季節の今、確かに鹿は遠く悲しくぴいーと鳴く、昼夜問はない。季語にも「鹿笛」とある。ならばこそ「ビイ」なんだ、芭蕉の耳というわけだ。鹿が鳴くのは求愛のためだと
Ryo Daimonji Blog 『名句の所以』(著:小澤實p202 毎日新聞出版)より 放屁虫貯へもなく放ちけり 相島虎吼 放屁虫、僕たちはカメムシ、ヘコキムシとか言ったりする。少し暖かくなるとカーテンのうしろなどに出没する。とるときべっぴんさんとか嫁さんとか呪文のよ
2007年(平成19年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
ブルースにジャズにボサノヴァ赤のまま
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Ryo Daimonji Blog菜畠に花見皃なる雀哉 芭蕉 菜の花畑で、人が花見をしているような顔で飛び回っている雀だよ、ほどの意味であろうか。菜の花の美しさ、可愛さを俳句にするのは意外と難しい。その上に鳥類の中でも可愛い雀を擬人化で付け加えるのも可愛さのつきすぎの
Ryo Daimonji Blog行春や心もとなき京便 虚子 この句の中七「こころもとな・し」は①待ち遠しくて心がいらいらしている。が一番ピッタリくる。下五、京からの便りと、もじどおり読む。しかし誰からの、どういう便りなのかさっぱりわからない、京からのということでその
Ryo Daimonji Blog崇徳院しづもる讃岐西行忌 上﨑暮潮 崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)の争いは崇徳上皇の讃岐への遠流で終わる(1156年 保元の乱)。この時の崇徳院の恨みは日本三大怨霊の一人として知られるげな。この霊をしづめたのが西行とも言われ、西行の陰徳が偲ば
Ryo Daimonji Blogつゝじいけて其陰に干鱈さく女 芭蕉 この句上六中五下八の破調句である。この言葉の流れに「女」の無骨な性格をいいとめている『高柳芭蕉』。との解釈もあるとする。貞享ニ(1685)年『野ざらし紀行』である。「旅店に腰を懸けて」。の前書きがあるよ
Ryo Daimonji Blog湯婆の都の夢のほのぼのと 虚子 上五「たんぽ」で冬の季語であるが、ここは「ゆたんぽ」と読んで良いと解する。このゆたんぽから、みやこの夢をほのぼのと思う。との俳意とするならいくら虚子さんとはいえあまりに甘い一句であると思う。出典は俳句全
Ryo Daimonji Blog火に乗せて草のにほひす初諸子 森澄雄 諸子のおいしい食べ方は、炭火でこんがり焼き上げ酢味噌、生姜醤油でいただくのがいいらしい。ところがこの句その時に草の匂いがする、という。水中にすむ諸子が焼き始めると草の匂いがするげな、こんどそんな機
Ryo Daimonji Blog辛崎の松は花より朧にて 芭蕉 辛崎は滋賀県大津市、唐崎あたりのことのようだ。琵琶湖に向かって立つ松が詠まれている。曖昧さをよしとする美感で、花よりもぼやけて見える夜の松の情趣を繊細に捉えている。琵琶湖に向かう松もさることながら、私は丹
Ryo Daimonji Blog花吹雪狂女の袖に亂れけり 虚子 和装の女性が桜吹雪の中を袖を振って舞っている。そしてその女性は狂女だという。桜の根元には死体を埋めたり、狂う女性を踊らせたり、さまざまにその美の表現がこころみられる。美しさに怪しさが漂うとき、狂い踊る女
Ryo Daimonji Blog生別もいづれ死別や春の水 山本紫黄 この作者、生別死別といった大変重い事を俳句でさらりと詠まれた。他の句にも〈来ぬ女こそわが女冬日の浜〉とか、〈てめえの靴はてめえで探せ忘年会〉とかあった。 生き死にを俳句にすることはいいのだが、その
Ryo Daimonji Blog山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 この句の命は中七の「ゆかし」であった。辞書をみると、①何となく知りたい、見たい、聞きたい。と好奇心をさす。②何となくなつかしい。何となくしたわしい。心がひかれる。③上品ですぐれている。とある。貞享
Ryo Daimonji Blog朝櫻一度に露をこぼしけり 虚子 俳句で一瞬を詠むのは常套である。風が吹いたのか鳥が飛び立ったものか、ともあれ一度に葉についた露が落ちたのであるしかも朝のことである。「こぼしたことだよ」と軽く一瞬の過去を詠嘆して見せる、これもまた19歳の
Ryo Daimonji Blog山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子 まるで中学生に戻ったかのように女性の身体図を見てみた。「へその裏」と言えば当然子宮のあたりだ、妊娠中の胎動の感覚を具体的に自分の体で詠んだ。そしてそれが俳句になっている。「胎動」の具象化に成功して
Ryo Daimonji Blog我がきぬにふしみの桃の雫せよ 芭蕉 貞享二年(1685)『野ざらし紀行』。京都市伏見西岸寺の盛りの桃の花を任口の高徳になぞらえて、私が着ている衣に桃花の雫を滴らせて欲しい(高徳に浴したい)と当時八十歳の老僧任口上人への挨拶句としたもの。(『新
Ryo Daimonji Blog更けゆくや花に降りこむ雨の音 虚子 1893(明治26)年虚子19歳作とある。この花はわが邦にあり、そこへ雨が降り込むという。がしかし、降り込んでいるのは音だという。この表現になるほど虚子19歳の非凡な感覚表現の若さを感じる。
Ryo Daimonji Blog東山三十六峰みな笑ふ 清水基吉 清水 基吉は、俳人、小説家で東京都渋谷区に1918(大正7)年に生まれている。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間
Ryo Daimonji Blog樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉 難しい句である。まづ場所は京都市鳴滝とある(「芭蕉全句」小学館)。次に「かまはぬ」かかわるとの意味に従う、つまり桜の花にかかわらない、枝ぶりである。先の林和靖に例えた山荘主を樫の木に類えている、らしい。
Ryo Daimonji Blog月の夜に笠きて出たり鉢叩 虚子 この場合の笠は、被りもんを意味するんだろう。月の夜なんで雨避けではなく帽子みたいなファッションなのであろう。鉢叩なる季語では、十一月初旬から大晦日までの寒い夜である。空也念仏が聞こえてきそうな年末の通
Ryo Daimonji Blog下燃えぬ人間それに従ひぬ 星野立子 季語「下燃」は、早春、大地から草の芽が萌え出ること、またはその芽をいうとある。また、古来ひそかに思い焦がれる意味に使われた言葉であるとも歳時記にあった。 つまりはそういう早春の季節のうごめきに人間
Ryo Daimonji Blog梅白し昨日ふや鶴を盗まれし 芭蕉 貞享二(1685)年春の作。「京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山家をとふ」と前書。広大な別荘にすむ秋風へ、秋風を林和靖になぞらえての挨拶句。つまり「宗の高士、林和靖は西湖の孤山に住み、ただ梅と鶴を愛した」秋風
Ryo Daimonji Blog餅もすき酒もすきなりけさの春 虚子 餅に酒。いずれも好きと改めて言う。何やらめでたくあるのは、新年のことほぎだからなのだろう。「けさの春」「今朝の春」で歳時記に新年の季語とある。なるほどである。
Ryo Daimonji Blog 斯く翳す春雨傘か昔人 虚子 この句を読んで「春雨じゃぬれて行こう」という台詞がうかんだ。月形半平太が傘を差し掛ける舞妓に言った台詞とあるが、この句の昔人はどんなふうに翳したものであろうか、ともあれ相合傘にせよ春雨にさす傘には風情が
Ryo Daimonji Blog 大比叡やしの字を引て一霞 芭蕉 比叡山に霞が細く一筋、しの字のようにたなびいている。と言ったことのようだ。これには『一休咄』(寛文八年)の典拠があり、一休さんが比叡山の僧に大文字で、長々と、読み易くと乞われて書いた書が比叡山から麓
Ryo Daimonji Blog ものの芽のあらはれ出でし大事かな 虚子 ものの芽であったり木の芽であったり、春は、芽吹の季節である。言い換えれば春のあたりまえの現象である。北原白秋は薔薇が咲くのをなんの不思議ではないがとその美しさを詩ったが,虚子はそれを大事であ
Ryo Daimonji Blog 火にのせて草のにほひす初諸子 森澄雄 諸子が琵琶湖で有名なことは知っていた。それと子供の頃の雑魚とりでも諸子はいた。大きいのがいないので僕たちの中でのお魚ランクは低かったと思う。この句火で焼いて食べるのか、一人キャンプでやれば一口
Ryo Daimonji Blog うきふしや竹の子となる人の果 芭蕉 憂きことの多い人の世に、人生果てて竹の子となる人もあることよ。と充てておこう。死後竹林に埋められ竹の子になったという小督なるそれは美人の琴の名手を踏まえた一句であった。『平家物語』天皇と小
Ryo Daimonji Blog うなり落つ蜂や大地を怒り這ふ 虚子 私はこの句の蜂にカネ蜂をイメージしているが、正式にはスズメ蜂が正しいようだ。上五うなり落つは、殺虫剤などで落ちる時に見たことがある。そしてまさに怒り狂って這い回るのである。中七のや切りがよく効
Ryo Daimonji Blog 山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子 十月十日母は己が腹を痛め、我が子をなす。この句その痛みとは程遠く笑う山に囲まれ,幸せに胎動を見つめている。具体的に己が腹の部位を下五で示したところクールでいいのだ。
Ryo Daimonji Blog 衰や歯に喰あてし海苔の砂 芭蕉 昭和30年代になるが、ご飯に小さな石が混じってガリッとすることが時々あった。この句では海苔を食べた時のようだ。お米や海苔に砂が混じることはよくあることで珍しいことではない。その歯応えに芭蕉翁は自身の
Ryo Daimonji Blog 巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ 虚子 巣の中の蜂を見ての句だが蜂の頭の部分をかぶとと表現した。この表現で蜂の存在感が際立った。刺すという蜂の危険に満ちた顔の動きがまざまざと見えるのだ。
Ryo Daimonji Blog 東山三十六峰みな笑ふ 清水基吉 近代以降、「三十六峰」を具体的に特定しようという試みが度々行われているようですが、京都盆地の東に位置する北は比叡山から南は稲荷山まで、南北12kmにわたって連なる山々の総称のようです。その山々がみな笑う
Ryo Daimonji Blog 山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 貞享ニ(1685)年の『野ざらし紀行』京都から大津に出る小関越えと言う道での作。「山道を歩いてきて、菫をみつけた。なんとなく心がひかれた」という句意らしい。この句の中七「何やらゆかし」との表現がいつ
Ryo Daimonji Blog 木々の芽のわれに迫るや法の山 虚子 この句の「法の山」が松ヶ崎の妙法の「法」の山をさすのか、一般的にいう山中の修業寺をさしているのか私にはわからない。その山の木々の芽が私に迫ると具体的な印象を言っているので、私は前者と解した。
Ryo Daimonji Blog 目を入るるとき痛からん雛の顔 長谷川 櫂 あの細い絵筆で雛の顔を描くのだ。あの精緻な作業を見ているとよくぞまあ仕事として続けられるもんだと感心する。それを痛いと感じているのだ。いくら人形とはいえ、その目、鼻、口と辿っていくとまるで
Ryo Daimonji Blog 奈良七重七堂伽藍八重ざくら 芭蕉 奈良七重と柔らかく「な」の音で起こし、さらにしちどう伽藍と七で繋ぐ。そして八重ざくらと八でまとめる。土地柄の柔らかな都の風が漂う中さらに重厚な寺院の七堂伽藍を見せる。そして、その景はピンク濃く咲く
Ryo Daimonji Blog 踏青や古き石階あるばかり 虚子 「踏青」春芽生えた青草を踏みながら、野山を散策すること、野遊びと歳時記である。「古き石階あるばかり」と言われてもそう言うところってどこにでもあるわけで、ただ、上五をトウセイと音読みするところ緊張す
Ryo Daimonji Blog 下萌えぬ人間それに従ひぬ 星野立子 春になると野にも庭にも草々が芽を出す。そういった春の息吹に人間も我知らず従っている。作者は中七で人間と広く構えるが、私は「私は」と己の中に強く下萌の感覚が高揚することを詠んでいるのだと解した
Ryo Daimonji Blog 春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉 「名もなき山」「名もなき花」「名もなき俳人」と思いつくままあげてみた。名もないけれど、美しい、素晴らしい、と逆説的に褒める常套表現である。春だからであろうか、名もなき山に薄霞が立ち込めているよ。貞享
Ryo Daimonji Blog うち笑める老を助けて青き踏む 虚子 一読して老いた親を助けて為す例えば麦踏みのような農作業を思った。しかし、青き踏むとは春の野を遊び野草を踏む行楽のことを言うらしい。とすると、老いの手などを引き歩みを助けて青きを踏んでいたところ
Ryo Daimonji Blog 梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太 ようやく梅が咲いて春立つ庭にいきなり青鮫が登場する。しかも庭中にうようよと回遊しているのだ。この庭のピンクがかった梅の色に安心していると今度は青味がかった鮫の群れが来る。この色合いの錯綜はそ
Ryo Daimonji Blog どむみりとあふちや雨の花曇 芭蕉 「どむみり」どんよりと咲く楝の花が浮かばなかった。調べてみると、楝の花は比較的花弁が小さくたくさん花をつけるようで、確かに一輪咲の花の迫力には遠いようである。雨の花曇は雨降りは曇りではないので気象表