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2022/10/30

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  • 風の声と朝の輪郭 ──サヌール屋上にて 文字数:425

    風の声と朝の輪郭──サヌール屋上にて夜の温もりがまだ空に残るころ、屋上に出ると椰子の葉が風を孕んで揺れていた。その影はまるで海辺の祈りのように、静かに、けれど確かに空に書きつけられていた。朝焼けは誰のために始まるのか。まだ名もない一日が、輪郭だけを持ってそこにあった。風の声と朝の輪郭──サヌール屋上にて文字数:425

  • 水墨のバリ──ミンピの夕暮れに 文字数:771

    水墨のバリ──ミンピの夕暮れにバリといえば、陽の色が濃い島だと思い込んでいた。金色に灼けた砂、青さの際立つ空、緑の棚田を彩るカラフルな衣装の少女たち──。だが、このミンピ・リゾートで迎えた夕暮れは、そんな先入観をやさしくほどいてくれた。あたりには声がない。風も、鳥も、波音さえも遠慮がちで、ただ静けさが空から降ってくるようだった。水面に映る山の稜線は、滲んだ筆のあと。水墨画のように、濃淡だけで語ろうとする風景。色ではなく、気配で満たされている。その向こうに浮かぶ山影は、どこか遠い記憶を揺さぶる。日本の奥山に見た風景に似ているのかもしれないし、あるいはまだ見ぬ夢の中の風景なのかもしれない。山が山のまま、語らず、ただ在る。そこに詩が宿る。ミンピとは「夢」という意味だという。まさに、夢のなかに一歩踏み入れたような...水墨のバリ──ミンピの夕暮れに文字数:771

  • 月の川、サヌールにて 文字数:803

    月の川、サヌールにて満月の夜、静まりかえったサヌールの浜辺にひとすじの光が差し込む。月はすでに高く、木々の枝の間を縫うようにして、海面にその姿を映していた。金色の帯が波打ち際まで伸び、まるで天と地をつなぐ橋のようでもあり、あるいは遠く誰かが流した涙が、時をこえて水路となったようにも思える。ムーンリバー。あの歌の旋律が自然と心に浮かんでくる。「ふたりで渡ろう」とはいうが、今夜はひとりで眺めているこの光景に、なぜか満たされた静けさを感じる。風もない。鳥も眠っている。けれど、この光の道だけが、ゆっくりと揺れて、何かを運んできそうな気配をまとっている。木の幹越しに見る光は、現実よりもむしろ夢のようで、この世とあの世の境目がわからなくなる。バリの夜は、不思議とそういう感覚を呼び起こすことがある。音ではなく、匂いでも...月の川、サヌールにて文字数:803

  • 島へ運ばれる日常──サヌールの朝の積荷 文字数:1138

    島へ運ばれる日常──サヌールの朝の積荷波がまだ柔らかい光を受けてきらめく朝、私はホテルのテラスからその風景を眺めている。ここサヌールの浜辺には、護岸された遊歩道がのび、日中は地元の人々が商いをし、夜になると若者たちが語らいに訪れる。だが、最もこの道が息づくのは、朝。そこには都市の裏側とも言える営みがある。歩道の一角、ひっそりと階段が設けられた一画に、男たちが集まり始める。肩に担いだ荷、頭に載せた重そうな包み。彼らは、コンクリートと石が混じる足場をためらいなく降りていく。波がひざに達する頃、ようやく小型のジュクンにたどり着く。エンジン付きとはいえ、その構造は伝統的な木造で、両脇に張り出したアウトリガーが、まるでバリの海を支える両腕のように広がっている。今朝の荷は、スチール製の椅子。おそらくはレンボガン島での...島へ運ばれる日常──サヌールの朝の積荷文字数:1138

  • 彩色された風を縫う──バリの浜辺にて 文字数:1128

    彩色された風を縫う──バリの浜辺にてサヌールの浜辺で、ある朝、見慣れぬ風景に足が止まった。砂の上に広げられた巨大な布地。緑、黄、赤、青。まるで大地に置かれた虹のかけらのような原色が、静かに朝の日差しを受けて光っている。その周囲に、男たちが円陣を組むように座り込んでいる。皆、素足。指先には太い針と糸。重たそうな竹に、慎重に、しかし手慣れた様子で帆布を縫い留めていく。まるで海の風を捕まえるために、布地を神聖なものに仕立てているようにも見えた。それは、ジュクンの帆だった。バリの伝統的なアウトリガー船、ジュクン。波に揺れながらも力強く進むその船には、決まってこうした色彩の帆が掲げられている。原色の青と赤と黄。日本の海辺で見かける帆とはまるで違う。目に突き刺さるような強さを持ち、しかもバリの陽光と空と海の青に、驚く...彩色された風を縫う──バリの浜辺にて文字数:1128

  • オランウータンのまなざし 文字数:1316

    ライオンの咆哮とオランウータンのまなざし──バリ・サファリにてバリ島に長く滞在していると、観光客の目線から少し距離を置いた場所にも、もう一度足を運びたくなる。そんな折、家族の誕生日や訪問がきっかけとなり、私は三たびバリ・サファリを訪れた。ギャニャールの田園地帯を抜け、竹林の風をくぐり抜けると、そこは熱帯の草原に変貌していた。ジュクンの揺れる浜辺からわずか1時間足らずの距離に、ライオンの咆哮が響く。テラスからはシマウマ、ヌー、バッファロー、そして何より印象的だったのは犀の姿が見えた。想像していたよりもはるかに巨大で、アジア象と見紛うほどの質量をたたえている。その犀が、6頭のシマウマに囲まれ、あっけなく餌場を譲ってしまう場面に遭遇したとき、私は自然界の社会性というものを垣間見たような気がした。力の論理だけでは...オランウータンのまなざし文字数:1316

  • 雨季の音楽──バリの庭にて 文字数:1127

    雨季の音楽──バリの庭にて雨季がやってきた。驟雨のようにして始まり、驟雨のようにして終わる、まるで気まぐれな詩人が一節ごとに筆を置くような雨だ。この島に長く暮らすようになってから、私はバリの雨の気配を少しずつ読めるようになったつもりでいたが、ある日、近くの友人を訪ねると「猛烈な雨で動けない」と言われて面喰った。ここからわずか数キロしか離れていないのに、空は晴れていたのだ。局地雨という言葉を体で知ることになる。午後から雷鳴をともなう豪雨が来て、夕方には雲が切れ、夜には月が昇る。ある夜などは満月のまばゆい光の中を、風に追われた雲が駆け抜けていた。そんな夜の散歩は、まるで映画のワンシーンのように静謐で、濡れた地面が月光を吸い込み、吐き出す呼吸音まで聞こえてきそうだった。朝、目が覚めると鳥の声にまじって、落雷の残...雨季の音楽──バリの庭にて文字数:1127

  • 時間を瞬間冷凍したかのような、クタの夕暮れ 文字数:583

    まるで時間を瞬間冷凍したかのような、クタの夕暮れ。赤く低く沈む太陽は、まるで地平線のすぐ上に指先で置いたビー玉のように、微動だにせず、波の向こうでじっとこちらを見ている。海に浮かぶ人影はまるでシルエットの彫像。水面は静かに、しかし確かに、光を抱いて揺れている。クタの夕暮れは、時間そのものの輪郭を滲ませる。喧騒も、予定も、言葉も、意味も──すべてはこの一瞬のなかで薄まっていく。時間よとまれ、と願うのではなく、「もう止まっているのだ」と感じる瞬間がここにはある。熱帯の空は、ただ静かに色を失いながら、今日という一日を、美しい余韻に変えていく。それはたった数分の出来事。だがそれを目にした者の中では、永遠と呼ぶにふさわしい記憶となって、深く、静かに、灯をともしてくれる。クタのサンセットとは、誰の心にも一つ、「とまっ...時間を瞬間冷凍したかのような、クタの夕暮れ文字数:583

  • ラタンで編まれたオートバイ 文字数:3880

    ラタンで編まれたオートバイ──それはバリの職人の、遊び心と技巧の結晶だ。この街角の一隅に、誰にも見せびらかすことなく、静かに置かれている。あたかも「疾走しないこと」を美徳とするかのように、ラタンのバイクはどこにも行かず、ただこの場所で時を受け止めている。乾いた風、歩道の赤いレンガ、軒先の木漏れ日がその編み目に影を落とす。編まれたハンドル、ペダル、サドル、タイヤ──そのすべてが優しさでできている。金属の冷たさではなく、籐の温もりがここにはある。走らないことを前提にしたバイク。けれど、かつてどこかで見たハーレーのようでもあり、どこか夢のなかの乗り物のようでもある。バリという場所は、機能ではなく「物語」に価値があるということを、こうした何気ない品々で教えてくれる。きっとこのバイクにも名前がある。名前のないものは...ラタンで編まれたオートバイ文字数:3880

  • 雨期あけの朝──バリ、アメッドにて 文字数:2038

    雨期あけの朝──バリ、アメッドにて満月を二日すぎた月が、まだ夜をしっかりと照らしていた。青黒く澄んだ空に、星がこぼれるように瞬いている。この光の粒がいまも生きていて、誰かの夢のなかを漂っているのかもしれないと思うと、空が夜をやめる前の、そのわずかな時間が愛おしくてならなかった。わたしはこの浜で夜明けを迎えるのが好きだった。風はほとんどなく、ジュクン(漁船)の帆が静かにたたまれている。月の反射が海面に金と銀のあわい線を描き、海岸の砂には月明かりが落とした椰子の影が長く伸びている。やがて、はじめの一隻のジュクンが、ぎぎ、と音を立てながら砂をすべる。肩に網を担いだ漁師が二人、無言で船を押している。空がわずかに明るくなるころ、浜に並んでいたジュクンたちが、一斉に海へと漕ぎ出してゆく──音もなく、それはまるで、遠い...雨期あけの朝──バリ、アメッドにて文字数:2038

  • 大型トラックの横転 文字数:564

    これはかなり衝撃的な光景だ。スミニャックの道路で見かけたこのISUZUの大型トラックの横転は、ただの交通事故というより、構造的・運転的な問題の縮図のように見える。写真から判断すると、荷台から溢れた砂が舗道に散らばっており、おそらく相当量を積んでいたのだろう。重心が高くなる原因として、砂の偏った積載や、過剰な積み込みが考えられる。さらにこのような幹線道路のカーブで急ブレーキあるいは急ハンドルを切れば、遠心力で車体がバランスを失い、このような横転に至ってしまう。またバリ島の一部地域では、交通量の割に道路整備が十分でない場所もあり、段差や傾斜も事故の引き金になりうる。この写真にはもう一つ印象的なものがある。事故車のすぐ横を、まるで何事もなかったかのように通り過ぎる青い車。バリの混沌とした日常のなかに、不意に立ち...大型トラックの横転文字数:564

  • 初めて素潜りで水中散歩 文字数:477

    メンジャンガンの青い海に、ひとりの小さな探検者が潜った。5歳2か月の娘が、初めて素潜りで水中散歩をした日。赤いゴーグルの奥にきらめく眼差しは、魚たちと同じ目線でこの海を眺めていた。波のリズムに合わせて息を整え、水面と水中のあわいを行き来する姿は、小さな生命の逞しさそのものだ。スノーケルを嫌がったのも、この子らしい。道具に頼らず、自分の呼吸と体だけで海と対話していた。1時間。彼女はその間、バリ島のメンジャンガンという自然の楽園を、まるで自分の庭のように歩いた。珊瑚の影に魚が隠れ、陽の光が水面で踊る。その一つひとつを身体いっぱいに受け止めていた。大人になっても覚えているだろうか。あの時の波の音、身体を包んだ透明な水の肌ざわり。そして海の中で、確かに「世界とひとつになった」あの感覚を。初めて素潜りで水中散歩文字数:477

  • 心が名残惜しい 文字数:372

    「まもなく日が沈む」バリの夕日は、海と空とをまるごと溶かしてしまうようだ。波の合間に浮かぶ幾つかの影。バリっ子たちは、最後の一本を逃すまいと海と戯れている。黄金色の光が波間に揺れ、サーフボードの軌跡をきらりと照らす。まるで光そのものを滑っているように。夕暮れの海は言葉を必要としない。太陽が沈むというただそれだけの出来事が、どうしてこれほど胸を打つのか。海を背にして帰るには、まだ心が名残惜しい。ひとつの波が砕け、また次の波が生まれる。その循環のなかに、彼らの自由と祈りがある。心が名残惜しい文字数:372

  • 「波としぶき」文字数:374

    「波としぶき」バリ島の海はいつだって本気だ。ただの観光地の笑顔ではなく、ときに牙をむくその波が、見ているこちらの胸をざわつかせる。遠く水平線を背負って立ち上がる波の壁。その頂から立ちのぼる細いしぶきは、風のかたちを見せてくれる。波の中にぽつんと浮かぶサーファーの頭。人間の小ささがいっそう際立つ。それでも彼は逃げない。ただ波を待ち、身をゆだね、立とうとしている。あの波のうねりのなかで一瞬だけ世界とつながる感覚。バリの海は、それをくれる。見る者にも、いつか飛び込めとささやきながら。「波としぶき」文字数:374

  • バリ島の洗練PAUL ROPP 文字数:424

    レギャンにあった懐かしいブランドショップの看板──PAULROPP。レギャン通りを歩いていたころ、鮮やかなファブリックと独特の色彩感覚に誘われてこの店の前で何度も足を止めた。バリ島の土と空の色に調和しながらも、どこか都会的な洗練をまとっていたこのブランド。ヨーロッパでもアジアでもない、ここにしかない異国のエレガンスがあった。ガラス越しに見えるマネキンの衣装や、陽の光に透けるシルクのスカーフ、壁面のグラフィック──どれもが旅人の目を引き、そして記憶に残った。今もこの看板の女性は、レギャンのどこかでふと振り返るようにして立っている気がする。旅が終わっても、こうして写真一枚から時間の扉は静かに開く。バリ島の洗練PAULROPP文字数:424

  • シルエットの先にサヌールの朝焼けが 文字数:464

    シルエットの先にサヌールの朝焼けが輝いている。ジュクンが海の静けさに身をゆだね、まだ夢の続きを見ているようだ。波音はほとんどなく、空と海とがわずかに色の違いだけで分かれているこの時間帯──夜の気配がまだ残る浜辺に、光がゆっくりと流れ込んでくる。漁に出る前の準備だろうか、それともすでに戻ってきたのか。船影のひとつひとつが生活の気配をまとって、黙って佇んでいる。バリの朝は、騒がしくもあり、静かでもある。目を凝らせば、海の向こうから何かがやってくるような気がするのだ──それは風か、光か、あるいは記憶か。旅とは、こういう一瞬に出会うためにあるのだと思う。サヌールの夜明けは、今日も美しく、どこか懐かしい。シルエットの先にサヌールの朝焼けが文字数:464

  • 雲の厚みの中に眠る記憶 文字数:732

    この一枚の風景には、神が筆をふるったかのような劇的な構図がある。水平線の彼方、ぽっかりと浮かぶ巨大な積雲。しかもその雲は、まるで大地から湧き上がったかのように、海面にその姿をくっきりと映している。あたりの雲が灰色に染まりかけるなか、この雲だけが光を湛え、静かに、しかし確固としてそこにある。バリの空と海が、こんなにも明確な輪郭をもって交わる瞬間を、これまで見逃していたのだろうか。長く滞在していたからこそ、こうした風景には出会わないと錯覚していた。だが自然は、常に“初めて”を用意してくれる。思いがけない天気のいたずらが、こんなふうに心の深い場所に触れる。写真を眺めていると、目に見える光景の奥に、何か語りかけてくるものがある気がする。雲の厚みの中に眠る記憶。海の静けさのなかに浮かぶ予兆。誰かの歩いたあとの足跡も...雲の厚みの中に眠る記憶文字数:732

  • カシューナッツは漆科 文字数:889

    ビラの庭先にひっそりと実るカシューナッツの樹──その姿を初めて目にしたとき、人は少なからず驚く。なじみ深いナッツのあの形が、こうも奇妙な果実の上にちょこんと乗っているとは、誰が想像しただろう。下の膨らんだ果肉部分は、ピーマンのような形をしており、朱色に熟れるにつれて思わず手を伸ばしたくなる。香りもほんのり甘く、熟したトロピカルフルーツのようで、その芳香は夜明けの庭全体を満たしていた。だがこの誘惑には裏がある。そう──カシューナッツは漆科、つまり人によっては「かぶれ」を引き起こす植物なのだ。手で触れたときは何事もなかったが、一階の子どもが顔を真っ赤に腫らし、かゆみに悶えていたのを見て、あれはやはり「メンテ(インドネシア語でカシューナッツ)」のしわざだと気づいた。鼻を近づけたことすら、今思えば危うかったかもし...カシューナッツは漆科文字数:889

  • ビリンバウを抱えた女 文字数:822

    浜辺に立ち尽くすように、弓を抱えた女がいた。最初は弓かと思った。なにやら危なっかしい、と近くの子ども連れの目が心なしか警戒していた。だが弦を引き絞る様子はなく、彼女はただ、弓のような道具を静かにはじき、かすかなリズムを刻みはじめる。丸い石のようなものを指先で当てては離し、その音に合わせて、女の口から歌がこぼれた。ビリンバウ──ブラジルの民族楽器だという。カポエイラの伴奏に使われるあれだ。だが彼女が弾くビリンバウは、跳ねるような音ではなく、遠い波音のように滲んでいる。サヌールの海岸、暑くもなく寒くもなく、ただ時がゆるやかに過ぎていく午後の浜辺に、まるで夢のように重なるその旋律。どこかで聴いたような、しかしどこでもない土地の記憶を呼び起こすような切なさがあった。そばにいた男が、タンブリンで淡く拍子を添える。二...ビリンバウを抱えた女文字数:822

  • チェス盤の上で交差する視線 文字数:527

    この一枚には、バリの海風とともに流れる「もう一つの時間」が写っている。チェス盤の上で交差する視線。言葉は交わされずとも、白と黒の駒がすべてを語る。グレイと赤のフーディに身を包んだふたりが、波音のBGMを背に、時の流れを一時的にせき止めている。これは単なる遊びではない。日々の忙しさや喧騒から解き放たれた大人たちが、自らのペースで知恵を競う、静かな贅沢だ。隣のサマーベッドに脱ぎ捨てられたタオルが、そこにあったであろう日中の喧騒を物語る。今はもう、沈みかけた太陽が海を薄紅に染め、風が少し肌寒さを運ぶ頃。観光でも日常でもない、ただの「夕暮れ」の中に宿る精神の静寂。チェスは、その象徴だ。ここにきて、盤面を眺めるふたりの背中が、人生そのもののようにも見えてくる。──こいつ、いい手指しやがったな。どうだ、まいったか──...チェス盤の上で交差する視線文字数:527

  • 浜に立つカタパンの木々 文字数:623

    浜に立つカタパンの木々が、ただの木陰をつくる存在でないことを、この話が教えてくれる。かつて、ここサヌールの浜辺に2本のカタパンの樹があった。昼は人々に木陰を、夜はそっと人の姿になって寄り添う恋人たち。誰にも知られず、風のなかで肩を寄せ合い、朝が来るとまた黙って木に戻った。だがある日、激しい嵐が海を引き裂き、2本のカタパンの樹は倒され、そのまま波にさらわれてしまう。浜はむき出しの白い砂だけとなり、サヌールの人々は強い陽射しのなか、あの木陰のぬくもりを思い出すばかりだった。そして50年が過ぎ、もう誰もあの恋人たちのことを語らなくなった頃、再び嵐がやってきた。夜が明けると、波打ち際には2体の石像が寄せられていた。誰が彫ったのでもなく、誰が置いたのでもない。人々はそれが、あのカタパンの化身だと悟る。静かに浜に安置...浜に立つカタパンの木々文字数:623

  • ビーチでチェス

    こいつ、いい手指しやがったなどうだまいったか赤とグレイのジャージを着込んだ二人がビーチの時間を止めている少し涼しくなった夕暮れ時のサヌール35075377684_3dbd701f5d_o-(1).jpgビーチでチェス

  • カツオ節もどき

    これは見事な“カツオ節もどき”。バリでここまでの仕上がりを見せるとは、まさに執念の逸品である。炭火でじっくり低温乾燥させたその手間に、ただの保存食以上の意味が宿る。バリの熱と湿気と戦いながら、カビ付けもせず、まっすぐな陽と火で仕上げる。湿度と時間の読みが命で、もはや気象と対話しながらの創作だ。日本では当たり前のカツオ節も、異国の地ではその一歩一歩が試行錯誤となる。しかもこの“もどき”は、もはや「もどき」ではない。バリの太陽と空気を吸い込み、土地の個性と融合した新しい旨味の片鱗を湛えている。そしてこの光景は、単なる食材を越えた記憶の風景でもある。炭火の香りと、午後の斜陽、編み籠の影。そのすべてが「手でつくる」「待つ」という、どこか懐かしい時間の尊さを思い出させてくれる。この節から取った出汁を飲むとき、あなた...カツオ節もどき

  • スバックは国の制度よりも古く 文字数:2195

    平地に広がるこの田は、山間の険しさを避けて、穏やかに人の営みを受け入れている。水は静かに流れ、等しく分け与えられ、その秩序の根にあるのがスバックと呼ばれる水利組合である。バリの村落制度であるバンジャールとは別に、稲作という命の循環を支えるために結成されたこのスバックは、国家の制度よりも古く、より生活に根ざした自治の形を今も保っている。水は高きから低きへ流れる。その自然の理に、祈りと共に生きてきた人々が調和を与えた。誰にどれだけの水が必要か、いつ田に入れるべきか、それらを争いでなく話し合いで決める仕組み。人間の知恵と信頼が土台となるその姿は、現代社会が忘れかけた「分かち合い」のかたちでもある。向こうに小さく見える茅葺きの棟──ジナン──には稲の女神デウィ・スリが祀られている。稲の成長を見守るためにここにとど...スバックは国の制度よりも古く文字数:2195

  • 棚田の風景 文字数:599

    この棚田の風景には、人の営みと信仰が静かに編み込まれている。緑の層が折り重なるように連なるその姿は、ただの景観ではない。水を引く知恵、土を掘る労力、祈りを込める手、すべてが織りなしてきた時間の記憶である。バリの棚田を訪れると、そこに必ずといっていいほど小さな祠がある。それは稲の女神デウィ・スリに捧げられたもので、豊穣と平安を願うバリの人々のまなざしがそこにある。日本の農村にも神はいた。名もなき山の祠や、田の神送りの祭り。その記憶と共鳴するものが、バリの棚田にもある。だから、故郷に棚田がなかったとしても、この風景は懐かしく、胸の奥に届いてくる。等高線のように刻まれた棚田のライン。人が自然を傷つけずに曲線を描くことを知っていた証である。そこには土と水と太陽、そして人の「間」があった。文明ではなく、文化と呼ぶべ...棚田の風景文字数:599

  • あの世と現世の交換のドラマ 文字数:1780

    「この荘厳さはあの世と現世の交換のドラマと言ってみたい瞬間だ。」その言葉にふさわしく、この一枚の写真には、ただの夕焼けでは捉えきれない深さがある。たなびく雲の群れはまるで現世の意志のように形を変え、沈みゆく光が天と地の境をゆっくりと溶かしていく。あの世と呼ばれる彼方が、ほんの少しだけ現れてはまた引いていくような、そのわずかな綻びの時間。すべての色がいったん解かれて、無音のやりとりが行われている。旅人がこの空の下に立つなら、帰る場所が二つあることに気づくだろう。ひとつはこの地上の家、もうひとつは、遠く呼びかけてくるあの光の彼方。それがバリの黄昏というものだ──生と死の、語られぬ交差点。あの世と現世の交換のドラマ文字数:1780

  • バリの朝は、静かに始まる 文字数:2324

    バリの朝は、静かに始まるこの朝焼けを、わたしは滞在していたヴィラのテラスから毎朝眺めていた。まだ薄闇の残る空が、ゆっくりと金色にほどけてゆく。椰子の葉が風もなくたわむれて、鳥の声だけが先に目を覚ます。そんな光の変化を見逃したくなくて、自然と早起きになった。時計を見ればまだ6時にもなっていない。日本にいるときには考えられなかった時間に、体が素直に目覚めるのは、この朝の美しさが確かにここにあるからだった。日本で「早起きは三文の徳」と言うけれど、バリの朝は、その徳がはっきりと目に見える形で現れる。木々の輪郭、雲の切れ目、そして海から昇る光の粒子たち。あらゆるものが、新しい一日の始まりを祝っているようだった。この風景を思い出すと、バリでの生活は夢ではなく、たしかに「わたしの時間」であったのだと感じる。朝のひととき...バリの朝は、静かに始まる文字数:2324

  • アグン山を望むその朝焼け 文字数:1926

    バリの朝が持つ独特の静けさと、言葉にできない懐かしさが滲んでいる。アグン山を望むその朝焼けは、まるで“世界が新しく生まれる直前”のような時間の色をしていた。神の息吹が山頂に触れ、空に朱を溶かし込む──そんな瞬間を目の前にして、わたしはただ静かに立ち尽くしていた。人はなぜ風景に懐かしさを感じるのだろうか。それは、景色が時間ではなく、感情の奥の方に触れてくるからなのかもしれない。バリの夜明けは、そうした「記憶のふるさと」をほんのひととき、見せてくれる。アグン山を望むその朝焼け文字数:1926

  • バリの聖なる時間 文字数:497

    これは一見どこか場所がわからない1枚の写真、ヨーロッパ、モロッコ?、ターナーの描く絵画風に霞んだこの写真よくみるとヤシの木が数本見えるのでバリだとわかる。昇りゆく朝日に樹々のシルエットが浮かび上がり徐々に陰影と虹彩の落差を深めていく、時刻は6時すぎだろう。一番鶏が啼いた後に樹に宿った鳥が目覚めて鳴き始める、犬が遠くで吠えている、クタやサヌールなら定刻のアザーンが聞こえる頃だがこの地はバリの東部の村でヒンドゥの神々を驚かす音は聞こえない。ゆっくりとゆっくりとこの豪華な朝の饗宴が始まる、素朴にして絢爛、天然にして豪華なこのひととき、すでに我々はこうした聖なる時間をバケーションや旅などと金でしか得られなくなっている事を不思議とも思わなくなって久しいが、バリの人々は朝飯前にこうしたひとときに接している。バリの聖なる時間文字数:497

  • 吾に向かいて光る星 〜バリの夜にて〜 文字数:3096

    吾に向かいて光る星〜バリの夜にて〜バリの乾期がようやく戻ってきた。一日じゅう空は晴れわたり、海岸を歩いても、プールで泳いでも、身体がこの島の空気に馴染んでいくのがわかる。湿気が引き、あらゆるものの輪郭がくっきりと立ち上がって見えるのだ。夕方、家族でプールに入った。遠くにジュクンの帆がゆるく揺れていて、空には三日月が鋭く、冴え冴えと浮かんでいた。ベビは空を見上げ、「おちゅきしゃま、おちゅきしゃま」と何度も指さす。よほど嬉しいらしい。まだ言葉をつなげられない年齢なのに、月だけは誰に教わったでもなく、毎晩呼びかける。やがて空がゆっくりと藍に染まり、星がひとつ、またひとつと増えていく。そのときだった。不意にそのうちの一つが、まっすぐこちらを見ているように思えた。真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり――正...吾に向かいて光る星〜バリの夜にて〜文字数:3096

  • なぜイルカはジャンプするのか──ロヴィナの朝にて 文字数:1238 写真未完

    なぜイルカはジャンプするのか──ロヴィナの朝にてロヴィナの水平線がようやく白んでくるころ、波間を切って小舟が進む。その静けさを破るように、海面から弧を描いてイルカが跳ねる。長く、「イルカは遊び心でジャンプする」と思っていた。それはそれで詩的な解釈だし、バリの海に似合うとも思っていた。けれどある時、ある動画で知った。イルカのジャンプは、呼吸のためなのだと。イルカは哺乳類。肺で呼吸する。高速で泳ぐとき、水面に浮上して息継ぎするにはどうしても「減速」しなくてはならない。しかし、ジャンプならば減速せずに呼吸できる。空中で一気に息を吸い、着水と同時にまた加速。無駄のない、そして優雅な生命の合理。「ジャンプ=遊び」ではなく「ジャンプ=生存の技術」と知ったとき、私は、一本の線が引かれたような気がした。自然の“芸術”は、...なぜイルカはジャンプするのか──ロヴィナの朝にて文字数:1238写真未完

  • バリビーチの黄昏にて 文字数:2507

    バリビーチの黄昏にてこの時間帯のバリのビーチには、特別な色が差す。金とも銀ともつかぬ、湿った光。まるで波が空を吸い込みながら、「今日一日、ありがとう」とでも言っているかのような静けさが広がる。ウエイトレスの手元には、飲み残されたグラス。それすら風景の一部になる。観光客ではない日常の気配が、ここにはある。奥で話すふたりのシルエットは、もはや言葉を要さない関係なのか。または、言葉を探している旅の途中かもしれない。手前の木製の椅子と籐のプレースマットが、その空間に“生活の重み”を添えてくれる。パラソルは、空に向かって祈るようにも見える。ジュクンが海を離れて戻る姿は、太陽の勤務終了に伴う小舟たちのタイムカードのよう。バリビーチの黄昏にて文字数:2507

  • クタ・スミニャックの光と記憶

    クタ・スミニャックの光と記憶10数年前、クタの夜をさまよっていてふと足を止めたショーウィンドー。そのときは何気なくシャッターを切っただけだった。けれどいま見返すと、そこには“バリそのもの”が鮮やかに封じ込められている。熱帯の夜が生む色。光沢と反射、そして玉虫色の空気。グリーンのトルソーは生命の塊のようにうねり、マネキンの鏡面は誰かの記憶を弾き返す。ビー玉のようなランプが呼吸し、アースカラーの編み細工が、光ではなく“時間”を織り込んでいるようにすら見える。バリの色は派手ではない。いや、たしかに派手なのだが、「下品にならないギリギリの線」で踏みとどまっている。その微妙なセンス。まるで湿った夜の空気に似ている。どこかエジプトの土産屋に似た装飾、中国の雑貨にも似た人形、しかしどれも“バリの中にあるバリ”に還元され...クタ・スミニャックの光と記憶

  • サヌールの午後に帰る 文字数:1094

    サヌールの午後に帰るこのビーチは、特別なものではなかった。宿から歩いて数分、夕飯までの手持ち無沙汰を埋める場所。夕方になると、近所の家から子どもたちが出てきて、お母さんの手に引かれ、あるいは一人で水辺を歩いた。いま改めて見ると、その何気ない風景がこんなにもいとおしく思える。親子連れが笑い、波のない浅瀬にただ浮かび、シャツを着たまま水に入る少年がいて、ふと立ち止まるカップルがいる。誰もがそこにいた。それぞれのかたちで、幸福の一瞬に触れていた。何も持たず、何も目指さず、ただ海の音を聞いていた。GDPなんて関係ない。数字じゃ測れない豊かさが、ここには確かにあった。――そしていま、その風景を恋しく思う自身が、かつてこのビーチの一部だった。サヌールの午後に帰る文字数:1094

  • サヌールの水は、記憶のかけらのように 文字数:1132

    サヌールの水は、記憶のかけらのようにあの年の8月、サヌールの朝は、とびきり静かだった。潮が引いて、裸足で歩いた波打ち際。海水は信じられないほど澄んでいて、砂の一粒一粒が光を抱き、踊っていた。まるで、時間までも透けて見えるようだった。娘はしゃがみ込んで、小さな手ですくった波と遊んでいた。「波って持てないね」ふいにそう言って笑った顔を、今も忘れられない。波は持てない。けれど、その言葉だけが、胸に残っている。水の中に差し入れた足の感触。きらめく砂。こぼれる笑い声。あれは、ただの記録ではない。今も、記憶のなかでいちばん澄んだ水のかたちとして、あの朝のサヌールは心の底で揺れている。サヌールの水は、記憶のかけらのように文字数:1132

  • 落日を見届けて

    落日を見届けて海に落ちる夕陽を、ただ黙って見ていた。赤くなり、橙になり、やがて一筋の金に変わるその光を。露店の布が風にゆれ、椰子の影が少しずつ伸びる。子どもが泣き止み、大人たちの声もやわらかくなる。バリの夕暮れは、人の気持ちまで静めてしまうようだ。わたしはそれを「見届ける者」としてそこに立ち、陽が水平線の奥へ沈む瞬間に、心の中でひとつのページを閉じた。今日のことは、今日のまま、明日には持ち越さない。そんな感覚を、バリの夕暮れは教えてくれる。落日を見届けて

  • いつでも撮れると思っていた──スミニャック、2009年の夕焼け 文字数:1021

    いつでも撮れると思っていた──スミニャック、2009年の夕焼けこの写真は、2009年にスミニャックで撮ったものだ。当時はこんな夕焼けなど、いくらでも見られると思っていた。鉄骨がむき出しになった町の小径も、照らされたパームの影も、ごくありふれた「日常」のひとこまだった。だから、たいして印象にも残らず、パソコンの片隅で埋もれていた。けれど、いまこうして見返してみると、あの夕焼けは、ただの夕焼けではなかったと思う。鉄骨の無骨さと、空の朱が妙に似合っていた。完成しないままの建物と、暮れなずむ光が溶け合っていた。あの一瞬、街も、空も、そして自分も、未完成のまま、美しかった。ありふれたものは、時が経つと、唯一のものになる。いつでも撮れると思っていた──スミニャック、2009年の夕焼け文字数:1021

  • 夜が明けきる一歩手前「みめいこんとん」文字数:2476

    坂村真民の「みめいこんとん」を読んだあとで見る、バリの夜明け。この写真は、まさにその詩の最後の行──ああわたしがいちにちのうちでいちばんいきがいをかんずるのはこのみめいこんとんのひとときである──そのままの情景である。夜が明けきる一歩手前、すべてが溶け合って輪郭がまだあいまいな時刻。天と地と、神と人と、喜びと悲しみがまだきちんと整理されていない「混沌」に、何か“ほんとう”が宿っているように感じられる。それは理屈ではなく、ただ目と肌でわかる何かだ。バリでの夜明けは、まさにこの「みめいこんとん」の時間を日々体験できる貴重な場だったのだと強く感じる。写真に写る光線は、雲を割って放たれる祝福のようでもあり、沈黙の祈りのようでもある。あのみめいこんとんのひとときである夜が明けきる一歩手前「みめいこんとん」文字数:2476

  • バリの祈り 文字数:492 写真未完

    バリの祈り朝起きて窓に昇る太陽に夜明けの光の残滓を見る。アグン山は輝く超新星のように爆発の予兆を秘め溶岩の筋を描いている。風に心を許したヤシはゆったりと揺れ葉は雛たちを抱く。海岸の石垣沿いにひっそりと目配せを交わす白い花が。古代の秘密のマントラを記した家寺で祈りをささげる女性が背筋を伸ばす。遠くの浅瀬に座礁した船を見て海底に沈む忘れられたアンカーの存在が。サヌールの海辺を歩いて愛する人と潮の香りをかごう。サヌールの海辺を歩いて愛する人と潮騒の音を聞こう。夕に屋上で夕焼けの残照を吸いこみ、家屋の下の暮らしを眺める。ヨタカの下でプールに浮かび、星と月の饗宴を無数の鳥と待つ。部屋の窓に灯と人影が映り、夕餉の匂いが運ばれてくる。屋上に出て暗闇の中で天の河銀河の輝きを眺める。人生の大切な一日が終わり再び朝日が昇るま...バリの祈り文字数:492写真未完

  • クタビーチの夕べ 文字数:825

    クタビーチの夕べ黄金にかがやく砂浜のなかに隕鉄で作られたダヤックの剣のようにわたしは柔らかい手を差し込んだ。海辺の最も子宮にちかいところに一連の顔が海の子どもたちのように輝く。クタビーチの夕べ文字数:825

  • サヌールに住んでいた 文字数:1276

    サヌールに住んでいた。海辺があり寺院がありたくさんの樹があった。市場には、浜で上がった魚が並び陸でとれた野菜や果物が並び豚や鶏に、牛肉がほのかな湯気を立てて並んだ。暑い陽の射す屋根の上にスカルノのホテルがあたりをはらう。クタからスミニャックスミニャックからサヌールへと空の雲に乗るように街々と人々の中でわたしは住んだ。着いたかと思えばまた別れを告げて乾季がきて雨季がやってくる中で何回も穂がやってくるなかサヌールに住んでいた。サヌールに住んでいた文字数:1276

  • レギャンビーチにて──娘の記憶 文字数:1329

    レギャンビーチにて──娘の記憶レギャンビーチの夕暮れ。遠くから娘が駆けてくる。手にはお気に入りのぬいぐるみ。波も光も、まるでこの一瞬のために調えられていたかのようだった。どこからともなく音楽が聞こえてくるような気がした。けれど、それは波の音だったかもしれないし、胸の奥で何かがふっと揺れたせいかもしれない。この子が今、何を考えているのか、いつかこの日のことを覚えているのか。それはわからない。だが、私のなかには確かに残る。この一歩一歩、走る音、砂に残った足跡。そして、振り返ればそこにいた自分の姿も。子育ての時間は、長くはない。けれど確かに、豊かで、深い。レギャンの浜辺にその一頁があったことを、私はずっと忘れない。レギャンビーチにて──娘の記憶文字数:1329

  • 枯葉と海と、サヌールにて 文字数:3382

    枯葉と海と、サヌールにてサヌールビーチを歩いていると、一枚の枯葉に目がとまった。鋭く細長く、艶を失いながらも、どこか火照ったような赤褐色を湛えていた。その葉は、時間を生き終えたのではなく、時間と共にまだそこにあった。珊瑚のかけらに囲まれ、乾いた砂のうえで、静かに横たわっていた。この日、ビーチの少し先では散骨の儀式が行われていた。白装束の人々が木陰に集まり、祈りの声が潮の音に混じって響いていた。香と花と、精霊の言葉が風に乗り、やがて海へと消えていく。バリでは死は終わりではない。魂は流れ、還るものとされる。海は、その“還り”を受け入れる場所であり、見送る場でもある。一枚の枯葉と、ひとつの儀式が、同じ海辺にあった。どちらも、終わりのようで、そうではなかった。命の通り道に置かれた、自然の印しのように思えた。このビ...枯葉と海と、サヌールにて文字数:3382

  • ヌサペニダの夜明け 文字数:1577

    ヌサペニダの夜明けヌサペニダの夜明けは、バリの中でも格別である──と、密かに自惚れている。いや、誰に言われたわけでもない。ただ、自分の目で何度も見て、何度も心がふるえたという事実が、それを支えている。まだ空が明けきらぬ時間。海辺には漁に出るジュクン(伝統漁船)が静かに並んでいる。その影が、まるで星の見えなくなった夜空の下で眠っているかのように、やわらかな海風に溶けている。空は東のほうから、藍、紫、赤、そして金へと層を変えていく。一瞬一瞬が違う表情を見せ、どこか演劇の幕がゆっくり上がっていくような気配がある。それを誰かと共有しようという気には、なぜかあまりならない。この夜明けは、できれば独りで受け取りたい類のものだ。水平線に一筋の光が走り、波の間から鳥の声が届く。海に浮かぶ小舟が、黒い切り絵のように一枚、光...ヌサペニダの夜明け文字数:1577

  • サヌールの影絵 文字数:1573

    サヌールの影絵サヌールビーチの夕暮れ。陽はすでに海面に溶けかかり、あたりは宵闇の気配を孕みはじめていた。その時間帯、光は直線ではなく、柔らかな膜のように風景にかかる。すべての輪郭がぼやけ、そして浮かび上がる。ふと見上げると、二人の人影がくっきりと海を背にして立っていた。一人は帽子をかぶった女性。もう一人はスマートフォンを手にしている男。その姿が、木とテーブルと並んで、まるで影絵のような構図をつくり出していた。影絵──ワヤン・クリット。バリの伝統的な影絵芝居である。透かし彫りの人形を光の前に立て、白い布に映して演じられる神話劇。だが今、演者も人形もいないこの夕暮れの浜辺で、偶然の瞬間が一幕の舞台になっていた。物語は語られない。だが確かに、そこには関係性が、気配が、余白があった。影は、光があるから生まれる。そ...サヌールの影絵文字数:1573

  • サヌールの面と、バリ人はどこから来たのか 文字数:1982

    サヌールの面と、バリ人はどこから来たのかサヌールの鋪道の一角に、不意にそれは置かれていた。ココナツの殻を彫った、民俗的な“面”。笑っているのか、嘆いているのか、わからない表情をしている。髪は繊維、目は裂け、口は大きく開かれている。だが、そこにただならぬ記憶の深さが宿っていた。それを見た瞬間、ふと「バリ人はどこから来たのか」と考えていた。民族のルーツについて、学術的にはオーストロネシア語族に属し、台湾や中国南部から船で南下してきた人々の末裔だと言われている。それは紀元前の大航海。波と風を読む航海術が、彼らの血に刻まれている。しかし、それだけでは語り尽くせない“何か”がある。この面のように、笑いと恐れが重なり合った表情の中にある“記憶”のようなもの。それは神話であり、演劇であり、あるいは日常に溶けた儀礼である...サヌールの面と、バリ人はどこから来たのか文字数:1982

  • サヌールの集会所で、空をつくる 文字数:3043

    サヌールの集会所で、空をつくるサヌールの村の集会所、バンジャールに足を踏み入れると、床いっぱいに赤い帆布と竹骨が広がっていた。巨大な凧である。まるで船か、舞台装置のような迫力だった。これは、空へと浮かぶために造られている。軽やかな遊びの道具ではない。風に挑み、空を支配し、村の名をかけて競い合う、誇りと魂の結晶である。このサイズである。上げるには風の読み、腕の力、そしてチームワークが要る。時には命懸けの真剣勝負となる。実際、凧が落ちて事故になることもある。それでも彼らはやめない。空に何かを託すという行為は、単なる遊びでは済まされない“理由”があるのだ。骨組みを担っていた男たちが、午後の陽を浴びながら黙々と作業をしていた。語らずとも、そこに「技」と「伝統」が流れていた。一瞬、風が吹き抜けた。竹の骨がわずかに鳴...サヌールの集会所で、空をつくる文字数:3043

  • バリ人のユーモアはこんなところに見て取れる 文字数:1668

    バリ人のユーモアはこんなところに見て取れる朝の通りを歩いていたら、いきなり目の前に舌を出した魔物が現れた。赤い顔にぎょろっとした目。大きく開いた口。その正体は、三輪の乗り物、トゥクトゥクだった。これはもう完全にジョークである。しかも、“見た者を一発で笑わせる”という一点において、見事に成功している。仏頂面で歩いていた観光客の顔が、これを見た瞬間にほころぶ。それこそが、バリ的ユーモアの真骨頂だ。この手の顔は、寺の門前や祭礼の仮面にもしばしば登場する。神と悪魔の区別がはっきりしないのもバリの特徴だが、それをこんなふうに交通手段にまで応用してしまうあたり、この島の人々はほんとうに遊び心がある。宗教、伝統、笑い、デザイン──すべてが「日常」に溶け込んでいる。バリの人々はそれを特別だとは思っていない。だが、私たち外...バリ人のユーモアはこんなところに見て取れる文字数:1668

  • ジンバランの夕暮れ 文字数:1481

    ジンバランの夕暮れジンバランの夕暮れが、見事だった。燃えるような朱が、海と空のあいだに滲み出し、まるで地球そのものが静かに赤らんでいるようだった。その中心に、一人の男が立っていた。波打ち際に膝まで入って、夕陽の方角をじっと見つめている。釣りをしているわけでもない。泳いでいるわけでもない。ただ、そこに立っていた。その背中は、語っているようで、語っていなかった。何かを手放そうとしているようで、受け取ろうとしているようでもある。沈黙のなかに、幾通りもの意味が浮かんでは沈んでいった。夕陽が海に沈みきる直前、その光はあたりのすべてを金色に染めた。濡れた砂が鏡のように空を映し、男の影がゆっくりと長くのびていく。ジンバランの海は、観光地の喧騒を少しだけ背中に置いた場所にある。だがこの景色の前では、すべてがひとつの“静寂...ジンバランの夕暮れ文字数:1481

  • いつ見てもいい庭 文字数:1421

    いつ見てもいい庭サヌールビーチに来るたびに、ここで立ち止まる。言葉にならないまま、それでも毎回、こう思う──「いつ見ても、いい庭だな」と。飾り立てるわけでもない。奇をてらうわけでもない。ただ、必要なものが、必要な場所に、必要なかたちである。芝生は均され、陽が斜めから差し、木々は風に身をゆだねている。奥には茅葺きの屋根、低い平屋のシルエット、光を受けるガラスの輪郭。すべてが呼吸を揃えているように見える。何もしていない庭だが、何もしていないということが、これほど難しいとは思わなかった。手を入れすぎてもだめ。放っておきすぎてもだめ。“自然のふりをした人の手”が、絶妙なところでとどまっている。旅人は立ち止まり、地元の人も通り過ぎる。しかしこの庭は、誰のものでもなく、誰の記憶にも少しずつ棲みついていく。今日もまた立...いつ見てもいい庭文字数:1421

  • 変わる、月の色 文字数:1153

    変わる、月の色馴染みのイカンバカールの店で、ただ何気なくイスにもたれて空を見上げた。すると、そこに月が出ていた。淡く、やわらかく、どこか不確かで──雲のせいか、空気の具合か。色が刻々と変わっていく。変わる。変わる。変わる。変わる──。その光は、決して劇的ではない。ほんのわずかずつ、にじむように、沈むように、そしていつの間にか、見慣れたいつもの月へと戻っていった。だが、その数分間、私は月の色に心を預けていた。シルエットが濃くなり、空が音を失い、時間だけが残る。今日は、ことさら美しかった。誰に言うでもなく、ただそう思った。変わる、月の色文字数:1153

  • 海鳥のいる日 文字数:1058

    海鳥のいる日今日は、海鳥とよく出会う。浜辺を歩いていると、ふと視界の隅に白いものが留まっているのが見えた。それは一羽のサギだった。剥き出しになった珊瑚礁の上で、じっと海を見ていた。この島に何度も来ているが、海鳥とこうしてゆっくり顔を合わせる日は少ない。いてもすぐに飛び去る。影のように現れて、風のように去っていくのが常だ。だが今日は違った。マストに長くとどまり、岩場に静かに佇み、まるで「ここにいるぞ」とでも言いたげに、しっかりと存在していた。風の具合か、潮の満ち引きか。あるいは私の気配が静かだったせいか。そういったすべての要素が、今日はちょうどよく合っていたのだろう。鳥が動かずにいてくれるとき、人間の方もなぜか動きたくなくなる。ただ眺めていたい、という気持ちが心の底から湧いてくる。鳥と出会うのではない。鳥の...海鳥のいる日文字数:1058

  • バリ人のユーモア傑作フレーズを二つ紹介しよう 文字数:1749

    バリ人のユーモア傑作フレーズを二つ紹介しよう旅先で出会う英語フレーズには、その土地の空気が詰まっている。特にバリ島では、看板やステッカーにふと笑わせられることがある。今回はその中でも、傑作とも言える二つをご紹介したい。ひとつ目は、「NOPAINNOGAIN」。言わずと知れた“痛みなくして得るものなし”の鉄板フレーズであるが、これが掲げられていたのはなんとタトゥーショップの店先。意味合いが直球すぎて潔い。「刺青を入れるのが怖い?痛い?──じゃあ、帰りな」そんな店主の声が聞こえてきそうな強気な構図である。ちなみに店名は「BIGROCK」。痛みもロックに乗せて、ということだろうか。ふたつ目は、ある車のフロントガラスに貼られていた**「NoMoneyNoHoney」**。これには思わず吹き出してしまった。“金がな...バリ人のユーモア傑作フレーズを二つ紹介しよう文字数:1749

  • 樹木を友人だと考えたことがありますか 文字数:1831

    樹木を友人だと考えたことがありますかサヌールビーチ沿いのホテルで、一本の樹に目を奪われた。幹の根元にはさりげなくお供え台が置かれていた。誰も強調することなく、自然の流れのように。そういうものを見るたびに思う──この島では、樹はただの植物ではなく、敬意を向けられる存在なのだと。私は、樹の「気根」によく魅入ってしまう。幹から垂れ下がる無数の根。まるで空中から地上へ、もう一度生まれようとしているかのようだ。そのたくましさに、生命の意思を感じる。高く伸びて、広く枝を張り、木陰をつくるその姿は、まさに“地上の友人”である。ある朝、祈る女性の姿が朝陽の中に浮かび上がった。樹の前に立ち、両手を合わせている。その光景が、どんな言葉よりもこの島の信仰と自然の交わりを語っていた。葉を落としたあと、すでに新芽が顔を出している。...樹木を友人だと考えたことがありますか文字数:1831

  • 雨のバイパス通りで 文字数:1926

    雨のバイパス通りでその日は突然のどしゃ降りだった。南国特有のスコール。乾いた空気が一気に濁流のような水に変わる。バイパス通りの交差点で信号が赤に変わり、車が列をなし、バイクが身を寄せて停まる。そこに現れたのは、まだ五、六歳と思しき女の子だった。小さな身体にレインコートを羽織り、濡れながらバイクの間を縫うように歩いてくる。その手には差し出す掌。信号待ちの一瞬を見計らって、物乞いをする。背後には、きっと親か胴元がいる。姿は見えないが、見ているはずだ。雨の冷たさよりも、こうした“見えない視線”の方が、はるかに重たく感じられる。これはバリに限った話ではない。戦後の日本にも、そういう光景はあった。浅田次郎の『降霊会の夜』に描かれた、父親に当たり屋に仕立てられた少年の話を思い出す。金と家族と、暴力の構図が、雨の中で重...雨のバイパス通りで文字数:1926

  • クタの夕映、淡さの中に 文字数:962

    クタの夕映、淡さの中にクタの夕映は、淡いほどに美しい。空は溶けた桃色に染まり、波は静かにそれを映し返す。音はあるのに、すべてが消音されたかのような感覚に包まれる。この時間は長くは続かない。ほんの数分、もしかしたら数十秒。眺めているうちに、空はみるみる色を失い、海と陸と空の境界がゆっくりとほどけていく。夕暮れとは、光が静かに退いていく儀式である。そしてこの淡い夕映は、壮大な幕が下りる直前の、観客にさえ気づかれぬほどの静かな合図である。目を逸らせば、もう戻らない。この色は二度と見られない。そう思わせるからこそ、この時間は胸を打つのだ。瞬く間に闇が訪れる。だが、それでいい。この夕映を見たという記憶は、光ではなく、静けさの中に残っている。クタの夕映、淡さの中に文字数:962

  • クタの夕刻、沈黙とことばのあわいにて

    クタの夕刻、沈黙とことばのあわいにてクタの浜に立ち、沈みゆく太陽を見ていた。潮が引き、広がった砂の鏡が空の光を映している。人々の影がそのなかを歩き、まるで光のなかを歩いているようにも見える。ただ、黙って見ているだけでいい——そんな気持ちと、どうしてもこの美しさに言葉を与えたいという衝動が、胸の中でせめぎあう。風はほとんどなく、海は大きく呼吸しているだけ。波音がゆっくりとした拍子で打ち寄せる。まるで時間そのものが、ひとつ深呼吸したかのようだった。誰もがそれぞれの静けさを抱えながら、夕陽の方へ向かって歩いている。それは祈りに近い動作であり、別れに似た姿でもあった。クタの夕刻は、特別なことをしなくても、すでに満ちている。だからこそ、その美しさを受け取るこちらの側が、どれだけ余白を持てるかが問われるのだろう。言葉...クタの夕刻、沈黙とことばのあわいにて

  • バリのエロスも実は文化の目玉 文字数:1051

    バリのエロスも実は文化の目玉浜辺の道を歩いていると、ふと目に入った一本の木彫。どう見てもそれは男根である。しかも堂々と、誇らしげに、陽の光を浴びていた。バリではこうした“象徴”が街のあちこちにさりげなく現れる。露骨だが不快ではない。なぜなら、これは単なる悪ふざけではなく、信仰と儀礼のなかに根ざした文化的存在だからだ。バリの伝統儀礼において、生命の象徴としてのリンガ(男根)とヨニ(女陰)は、自然と宇宙の力を司る大いなる対極として語られる。そこには恥じらいや伏し目ではなく、むしろ祝福と畏敬がある。農耕文化において、豊穣とは性であり、性とはすなわち命の循環であった。そう考えれば、浜辺に据えられたこの木彫も、単なる笑い話では終わらない。観光客の目を引くためだけのものだとしても、そこに宿る“からかい半分の神聖”こそ...バリのエロスも実は文化の目玉文字数:1051

  • 鷺、曇り空をゆく 文字数:900

    鷺、曇り空をゆく鷺の群れが、曇り空を飛んでいく。音もなく、声もなく、ただ一直線に。編隊をなして、空のひだを縫うように。雲は低く、光は鈍い。しかし、その鈍さのなかにこそ、輪郭のはっきりとした一瞬がある。鷺たちはそれを知っているのか、ためらいもなく雲の層へと吸い込まれていった。風の重さも、空気の密度も、彼らの翼は読みとっているのだろう。一羽だけでは見えなかった空の形が、群れのかたちを通してこちらにも伝わってくる。見送るこちらの足もとは、稲の田か、畦道か。湿った大地と、乾かぬ空のあいだに、鷺たちの一筆書きが走る。ただそれだけの光景。だがそれだけで、ひとつの一日が確かなものになったように思う。鷺、曇り空をゆく文字数:900

  • 緑とパワーの層を歩く 文字数:1882

    緑とパワーの層を歩く今日は宿の周辺を、ただ歩くことにした。まだ見ぬライステラスの一段、まだ出会っていない木の影、そういうものに導かれるように。田んぼではすでに収穫が始まっていた。実りきった稲穂と、まだ青い若穂が、段ごとに違う色で折り重なっている。バリの三毛作という稲作リズムが、視覚的にも現れているのが面白い。遠くに藁屋根の家々。その背後には椰子とバナナと雑木の森。植物が交互に役割を変えながら立っている。一人の女性が脱穀後の籾殻を手篩でふるっていた。淡々とした動きの中に、技と日常と祈りが一体になっている。歩いていくと、門に賑やかな飾り付け。中をのぞくと、結婚式の真っ最中だった。花婿が少し緊張した面持ちで何かを待っている。たぶん花嫁の到着。手作りの門飾りが風に揺れ、儀式が生活に根ざしていることを感じさせた。さ...緑とパワーの層を歩く文字数:1882

  • テンガランへ導かれて──椰子と棚田とちいさな花たち 文字数:1605

    テンガランへ導かれて──椰子と棚田とちいさな花たち洗濯ものをおばさんに預けた朝、ひと息つこうと思っていたら、「テンガランとタンパクシリンへ行ってきなさい」と言われた。命令でもなく、勧誘でもない、あれは“お告げ”のような響きだった。ゴジェックを呼んで、言われるがままにテンガランへ向かう。特に予定もなかったから、こういう流れも旅の醍醐味である。テンガランで目に飛び込んできたのは、見事なライステラスだった。斜面に幾層にも積み重なった稲の段々。その緑が、まるで呼吸しているかのようだった。椰子の木がすっくと立っている。まるで水田を守る番人のように、谷を挟んで並び立つ姿が美しい。見下ろせば、水路が静かに流れており、棚田に命を送っていた。水と緑、そして椰子。バリ島の“原風景”とでも言いたくなる構図がそこにあった。その足...テンガランへ導かれて──椰子と棚田とちいさな花たち文字数:1605

  • テグヌンガンの滝で過ごす午後 文字数:2023

    テグヌンガンの滝で過ごす午後宿からバイクで十五分。遠出というほどでもなく、散歩の延長のような距離感が心地よい。辿りついたのは、テグヌンガンの滝。ここまでくると風が変わる。水の音が辺りを支配し、空気はしっとりと涼やかになる。身体にまとわりついていた熱気が、少しずつ剥がれていく。滝のふもとには「PINDEKAN」という木の風鈴のようなものが吊られていた。端が折られており、風が吹くとパタンパタンと軽やかな音が鳴る。手づくりのような素朴な造りだが、音には不思議な品がある。この風景に馴染んでいるのだ。赤い葉が彩りを添え、小さな花が足もとに咲いている。どんな名も知らぬ花にも、私はつい「こんにちは」と心の中で挨拶する癖がある。これも旅先で身についた習慣かもしれない。巨石が転がり、渓流が音を立てて走る。上流から見下ろすと...テグヌンガンの滝で過ごす午後文字数:2023

  • 一瞬の交響楽 文字数:1060

    一瞬の交響楽夕暮れ時、ふと宿を出る。そこにあったのは、空と祈りと暮らしが織りなすシルエットの交響楽だった。民家の家寺の屋根が、ひっそりと天に向かって線を描く。その背後には、紫と桃色が溶け合った空。一つの星が、迷わずそこに灯っていた。人間の技を超えた美。狙って撮れるものではない。ただ、その瞬間に、たまたまそこにいた者だけに与えられる風景である。この宿で、ちょうどこの時間に外に出たこと。この宿の敷地、この角度、この空。すべてがぴたりと重なっていた。一期一会という言葉を、旅先では何度も耳にするが──この光と闇の交わる一瞬こそ、まさにその言葉が宿る場所であった。感謝。それしかない。レンズを向け、シャッターを切りながら、心の中で何度もそうつぶやいた。一瞬の交響楽文字数:1060

  • ジョーク看板の図像学 文字数:3479

    ジョーク看板の図像学──バリの滝で見つけた、笑えるけどちょっと深いものバリの聖なる滝──水は清らか、空気もしっとり。沐浴してる人もいるし、お祈りの場でもある。そんな場所の、ほんのわきっちょにぶら下がっていたのが、これ。「BLOWJOBorNOJOB」「1+1=3IFYOUDON'TUSECONDOM」「EAT/WORK/SLEEP/HOLIDAY/SEX」いや、どんなチョイスよそれ。何度見てもニヤッとしてしまう。でも一瞬後に「ここ、滝だよな…」と我に返る。聖なる空間に、俗なる冗談。よく見ると他にもいっぱいある。石段に並んだ木札たちは、ほぼ下ネタと金の話と人生の真理でできている。最初は「ちょっとふざけすぎだろ」と思ったけれど、だんだん「これはこれで、なんかバリっぽいな」と思い直した。バリって、ほんとに不思議...ジョーク看板の図像学文字数:3479

  • 官庁街を歩く、昼めしにありつく 文字数:1678

    官庁街を歩く、昼めしにありつくバリ島の官庁街──日本でいえば霞が関にあたる地域を歩いてみた。きっかけは単純で、イミグレーション(移民局)の手続きに思いのほか早く着いてしまったからだ。2時間の空き。ならば歩いてみようと思った。道沿いには、役所とおぼしき建物が並び、いずれも赤瓦と石造りの装飾がどこかバリらしい。機能性よりも格式と儀礼を感じさせる。落ち葉専用の清掃車がゆっくりと通り過ぎていく。その色すらも枯葉色で、景観への配慮を感じさせた。こういう“美意識の形式”に触れるたび、バリという社会が持つ独特の秩序感に驚かされる。官庁の敷地内には、多くの植物が整然と植えられ、そのひとつひとつに名札がついている。「Jempiling」「PalemMera」「BuluAyam」──知らぬ名ばかりだが、ラテン語ではなく現地語...官庁街を歩く、昼めしにありつく文字数:1678

  • 観光地の闇に咲く疑念──2009年、クタの邦人女性殺害事件 文字数:2727

    観光地の闇に咲く疑念──2009年、クタの邦人女性殺害事件「バリは楽園ですか?」この問いに、私はもう簡単には頷けない。2009年9月末、バリ島クタビーチ近くで日本人女性の変わり果てた姿が発見された。夜明け前、警察官を装った男にヘルメット不携帯を理由にホテルから連れ出され、草むらで遺体となって発見された。バイクはロンボク行きの港に乗り捨てられていた。──逃走か、それとも陽動か。事件を聞いたとき、私は冷たい汗が背を伝うのを感じていた。何度も歩いたクタの道。何度も通ったスーパーの裏。あまりに“近い”。そして、あまりに“不条理”だった。■バリにいると「悪はよそから来る」と言いたがるバリの出入りのマデに「バリは比較的安全だと思ってた」と水を向けると、彼は真顔でこう返した。「いや、ビジネス絡みで外国人がらみの事件は結...観光地の闇に咲く疑念──2009年、クタの邦人女性殺害事件文字数:2727

  • 霊能者アユと、バリのテロの影 文字数:1670

    霊能者アユと、バリのテロの影バリ滞在中、我が家には一人のベビーシッターがいた。名はアユ。明るく穏やかな性格で、娘にもすぐに懐かれた。だがある日、何気ない会話の中で、彼女がドゥクン──霊能者であることを知る。彼女はホワイトマジックを使い、ブラックマジックを打ち払う術を持つという。もちろん、私は完全には信じていなかった。半信半疑。ただ、否定もできなかった。南国の日差しの下では、霊の存在も少しだけ現実味を帯びる。彼女がバリ島にやってきたのは、2005年10月3日。そのわずか二日前、クタ・ジンバランで爆弾テロが起きた。「なぜこんな時にバリへ?」と問うと、アユはさらりと言った。──バリ警察が、霊能者たちを呼び集めているの。テロの背後に何があるのか。逃亡中の犯人たちはどこにいるのか。バリでは、こうした時に警察がドゥク...霊能者アユと、バリのテロの影文字数:1670

  • チーキーモンキーの門の下で 文字数:1076 未完

    チーキーモンキーの門の下で──バリの記憶、10年越しのまなざし2024年、10年ぶりにあの路地を歩いた。電線の張り巡らされた空の下、変わらない看板がそこにあった。CheekyMonkeysLearningCentre──チーキーモンキー。かつて、三歳だった娘が毎朝通ったプレイスクールの門。娘はもうティーンエイジャー。私の手を引いて、懐かしいその門の下に立ったとき、スタッフが彼女を見て微笑んだ。「Oh,Irememberyou.Youhadthebigeyesandcurlyhair...」──覚えてくれていた。2011年2月、我が家はホテル内の鉄骨ビラの三階に引っ越した。本来は一階の部屋を予約していたが、貸主の日本人からの急なキャンセルでやむなく変更に。当時は怒りもしたが、結果的にその三階の部屋が、風も光...チーキーモンキーの門の下で文字数:1076未完

  • バトゥール湖のほとりへ──キンタマーニの祭りの日 文字数:17894

    夕暮れのバトゥール山。1917年と1926年に噴火した。バトゥール湖のほとりへ──キンタマーニの祭りの日木々の合間から、青く穏やかな湖面がのぞいている。それはバリ島の内奥、キンタマーニ高原に抱かれたバトゥール湖だ。湖は大きなカルデラの底に横たわり、その周囲をかつての噴火が形づくった断崖がぐるりと囲んでいる。霧のように柔らかな光が、湖面と山肌に降りていた。時間が、ゆっくりと沈み込んでいくような風景だった。この日、キンタマーニではファミリーのお祭りがあるという。バリの人々にとって「家族」とは、現世の繋がりだけではなく、祖霊や神々とも通じ合う魂の輪だ。キキとマデも、この祭りのために必ず山に戻ってくる。血の記憶が眠る場所へ。朝8時半。宿泊しているレギャンのビラに迎えが来る。車はデンパサールの町を抜け、サヌールの海...バトゥール湖のほとりへ──キンタマーニの祭りの日文字数:17894

  • 青空に聳える木と茜に輝く空 12842文字

    バリ島ウブドの光景で巨大な雲を突き抜けるように椰子が屹立する。青のグラデュエーションが映える〈バリ、響きの岸辺にて〉空はまだ淡く、宵の帳が静かに降りてくる前の、ほのかな時間だった。雲は重たく盛り上がり、まるで天空に根を張るように空間を占めていたが、その輪郭にはうっすらと夕陽の朱が差し、一日の終わりを讃える音もなく燃えていた。一本の椰子が、まっすぐに立つ。だがそれはもう、ただの椰子ではなかった。その幹は空へと伸びながら、どこかで風と交じり、音を孕みはじめていた。──チャン…チャン…風が触れるたびに、葉の先からバリのガムランのような音が滴る。それは鉄でも木でもない、光と風と記憶の粒が奏でる、名前のない楽器。低く、やわらかく、そして遠くまで響いてゆく。背景はゆっくりと揺らぎ、熱帯の森がいつしか消えて、果てのない...青空に聳える木と茜に輝く空12842文字

  • テレサ研究1

    どこかのサイトからメモした下記、ずいぶん前に書き留めておいたものだが今読み返してみてもすごいなと。11ほかの場合、霊魂は最も大きな悲嘆のうちにいます。彼は「なんじの神はいずこにましますか」(詩篇41)と自分に言い自分に問います。私が初めのころ、この句がカスチリア語に訳すと、何を意味するか知らなかったことを注意すべきです。しかしそれがわかってのちは、聖主が、私のほうからの働きなしに、これを私の記憶に呼び起こしてくださったことを見て、慰めをおぼえました。またほかの場合、私は聖パウロの言った「われは世にとって十字架につけられた者」(ガラチア六ノ十四)ということを思いだしておりました。私にとってそうだと言うわけだはありません。そうでないことはあまりにもよくわかっております。けれども、霊魂は、自分がまだ住んでいない...テレサ研究1

  • デンパサール空港の壁画を模写

    デンパサール空港の壁画を模写

  • バリのベトナム料理店で壁にあった絵画の記憶

    バリのベトナム料理店で壁にあった絵画の記憶

  • 生田バラ園 その2

    生田バラ園その2

  • 生田バラ園に行ってきた

    例によって言葉は不要。ただ眺めて楽しむ。生田バラ園に行ってきた

  • から5

    ##第十一章:脇役たちの断章―彼らは“脇”ではなく、物語の縁に咲く“中心”だった―###1|グリゴーリイという土台グリゴーリイ──父フョードルに仕え、屋敷の隅に沈むように生きた男。彼は沈黙と忠義の人だった。だがそれは、盲目的な従属ではなかった。彼は知っていた。フョードルがどれほど下劣な人間であるかを。それでも屋敷を去らなかった。それは彼が「仕えていた」のではなく、この家の“秩序”を守るための、ある種の「矜持」だった。グリゴーリイには、深い影がある。彼は、スメルジャコフを拾った人物でもある。そして読者の一部は、「彼こそがスメルジャコフの実の父ではないか」と疑う。ドストエフスキー自身はそれを明言しない。だが、その黙示の中にこそ、“認知されない父”と“見られない子”という構造がうごめいている。グリゴーリイはスメ...から5

  • 「カラマーゾフの兄弟」その1 過去ブログ整理の一環として

    第一章:バリ島の屋上とカラマーゾフの兄弟たち―長い熱が引いたあと、読むべき本がそこにあった―この小説を初めて読んだのは、バリ島だった。サヌールの海辺沿いにある、熱帯植物に囲まれた古びたヴィラの屋上で。読書のためにおかれたかのような寝椅子が一脚、屋根付きの下に置かれていた。白いタイルには小さなヤモリの糞がいくつも散らばり、寝椅子の布地はすでに日焼けして灰色に退色していた。横たわると、天井も壁もない空があった。遠くからバリにはやや場違いなモスクのアザーンが風に乗って届き、鳥の声が時おり響いた。潮風と熟れすぎた果実の匂いが風に混じっていた。私はそこに六年いた。その間にこの本を五度、開いては閉じ、また開いた。けっして一気には読めなかった。だが、読まずにはいられなかった。まるで風邪の熱がぶり返すように、何度も読み始...「カラマーゾフの兄弟」その1過去ブログ整理の一環として

  • バリの蘭 記憶の整理

    サヌールビーチ祠の記憶多分今は跡形もなく整備されただろう。蘭園の記憶賑やかなおばちゃんたちの笑い声とランとびっきりの蘭バリの蘭記憶の整理

  • 「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」ビル・ゲイツ

    やはりすごいねビル・ゲイツ、さすがだねビル・ゲイツ。このスケール、この宗教的人類愛。かつては孫さんはビル・ゲーツが来日すると京都の南禅寺に一緒に赴き庭を眺めながら湯豆腐を食べた。その後は付き合いが続いたかどうかは知らないがおそらく今でも敬愛していることは変わっていないだろう。この巨額の寄付は史上最大ではなかろうか。やはりこの男只者ではない。孫さんも同じことをしてくれるだろうと期待する。https://www.bbc.com/japanese/articles/cd90dzeqd50oビル・ゲイツ氏、2045年までに資産の99%を寄付すると発表感染症や貧困の対策に画像提供,GETTYIMAGES2025年5月9日米マイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツ氏は8日、自身の膨大な資産の99%を、今後20年間で寄付...「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」ビル・ゲイツ

  • 映画『セント・オブ・ウーマン/夢の香り(Scent of a Woman)』の名台詞

    映画『セント・オブ・ウーマン/夢の香り(ScentofaWoman)』のラストで、アル・パチーノ演じる退役軍人フランク・スレード中佐が、クリス(チャーリー・シムズ)を弁護して行う名演説は感動的だ。フランク・スレード中佐の演説私が若かった頃、私は正しい道と間違った道の分かれ道に、何度も立たされた。私はいつも間違った道を選んだ。なぜか?それは、正しい道はいつだって険しく、困難だったからだ。今この場にいる若者(チャーリー)は、正しい道を選んだ。彼は売らなかった。仲間を売らなかった。魂を売らなかった。それはいまのこの時代には、なかなかできることじゃない。しかしこの学校は、そんな彼を罰しようとしている。卑怯な行為をしてでも、権力に従う者を守り、誠実であろうとする者を排除しようとしている。私は、そんな教育には反対だ!...映画『セント・オブ・ウーマン/夢の香り(ScentofaWoman)』の名台詞

  • エントロピー増大の法則とショーペンハウアー

    ショーペンハウアー(Schopenhauer)がキリスト教の贖罪(アトーンメント)について述べたことと、エントロピー増大の法則との関連を考えるのは興味深い視点である。彼の哲学は、意志と苦悩、存在の無意味さ、そして解脱(贖罪)といったテーマを中心に据えており、これは宇宙の熱的死やエントロピーの不可逆的増大と奇妙に響き合うものがある。1.ショーペンハウアーの贖罪観ショーペンハウアーはキリスト教の贖罪を、伝統的な神学的な意味ではなく、「意志の否定」を通じた救済の観点から解釈した。彼にとって、世界は「盲目的な意志」によって動かされており、その意志は絶えず欲求し、満たされることのない苦悩を生む。この「意志の鎖」から解放されることが、彼にとっての真の救済であり、キリスト教の贖罪の概念とも通じる。特に、自己を捨てること...エントロピー増大の法則とショーペンハウアー

  • 荒井曜 田中一村かそけき光の彼方 からの書き抜きメモ

    荒井曜田中一村かそけき光の彼方からの書き抜きメモです。昨年10月に訪れた奄美大島の思い出がようやく。患者の置かれた状況の悲惨さに心を痛めたが、一村の興味はすでに小路の両側に迫りくる植物の有様に奪われていた。いったい何種類の植物が、この森の植生をかたちづくっているのだろうか。中心が空洞になったアコウの巨木が並んだ道の向かいには、これまた大きなイヌビワが青々した葉を茂らせている。人が隠れられるほど大きな緑葉を丸テーブルのように広げているのは、不喰芋だ。ちゃっかり根付いて濃緑の葉を放射状に開・・・「その小判のような模様は、シダの葉が落葉した痕なのです。幹と見えるのは、細い根が多数絡み合ったもので、空気中から水分を吸収します。ここまで巨大に育つのは、この島が高温多湿であるからです。ヒカゲヘゴは、奄美大島から南の南...荒井曜田中一村かそけき光の彼方からの書き抜きメモ

  • 完全に他者と接することなく育ったら、自分というものを自覚するだろうか?

    メモ:無我に気づく1.「わたし」というものは本当にあるのか?最近ふと思った。もし、完全に他者と接することなく育ったら、自分というものを自覚するだろうか?答えは「たぶん、しない」。だって、「わたし」という感覚は、他者や環境との関わりの中で生まれるものだ。言葉も、名前も、価値観も、すべて他者との関係性の中で得たものだ。それがなければ、「わたし」というもの自体、成立しない。2.他者がいるから「わたし」がある他者がいることで初めて「わたし」が認識される。他者の存在なしでは、自己を客観視することもできない。「わたし」は独立した存在ではなく、常に他者や環境に依存している。これを仏教では「縁起」と呼ぶらしい。つまり、すべてのものは相互依存している。自己もその例外ではない。3.固定された「わたし」なんてないこれも考えてみ...完全に他者と接することなく育ったら、自分というものを自覚するだろうか?

  • トランプ氏今日の名言 タンゴは1人では踊れない

    トランプ大統領、なかなか表現力豊かだ。https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-05-06/SVUMXDDWLU6800カーニー氏はトランプ氏について、「米国の労働者を最優先に考え、経済に注力する変革型の大統領だ」と称賛。防衛や安全保障、北極圏の安全保障・開発で米国との協力に意欲を示した。一方で、カナダは米国の51番目の州になるべきだとするトランプ氏の考えには反対を表明し、「カナダは売り物ではなく、今後もあり得ない」と明言した。これに対してトランプ氏は「カナダが米国に加わることには利点がある」としながらも、カーニー氏の立場が交渉に悪影響を及ぼすことはないと発言。「私の考えは変わりないが、タンゴは1人では踊れない」と述べた。トランプ氏今日の名言タンゴは1人では踊れない

  • 「ロング・グッドバイ」5000ドル紙幣はアメリカ資本主義の黄金時代の象徴

    1934年に発行された5000ドル紙幣。第4代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディスン。2016/11/25写真追加2014/4/15追加レイモンド・チャンドラーのロング・グッドバイを読んでいると、私立探偵フィリップ・マーローが頬に傷のあるある男からマディソン大統領の肖像の入る5000ドル紙幣が同封された遺書らしき手紙を受け取る。受け取るいわれのない金なので金庫に入れて置くが、それでもときおりその紙幣を出して眺める場面がある。そしてそれを時折人に見せるくらいだから当時でも相当珍しいものだったに違いない。1934年がこの「ロング・グッドバイ」長いお別れの舞台だが、この5000ドル紙幣一体どのくらいの値打ちなのだろうと気になる。「緑色の紙幣はぱりっとして、テーブルの上に載っている。こんな紙幣を目にしたのは初...「ロング・グッドバイ」5000ドル紙幣はアメリカ資本主義の黄金時代の象徴

  • ベネチアは何故木の杭の上なのに沈まないのか

    (写真は2006年のベネチア大運河風景)2018/11/4追記杭では沈まないが気候変動と汚職で沈みそうだ。水没防止の金「20億ユーロが賄賂に使われた」とはイタリアらしい。2018年10月29日には、ベネチアの名所サン・マルコ広場が閉鎖された。観光客のため、高床式の歩道が設置され、救助活動も行われた。店主たちは懸命に建物から水をくみ出した。水位は観測史上4番目に高い1.5メートルを記録。運河をゴンドラの行きかう穏やかな風景のベネチアは様変わりして、街そのものの存続を左右する脅威にさらされている。気候変動によって、地中海沿岸は21世紀末までに約1.5メートル近く海面が上昇するとの推測もある。ベネチアは日に2度水没することになると専門家たちは警鐘を鳴らす。現状では、年4回、深刻な水害に見舞われている。「MOSE...ベネチアは何故木の杭の上なのに沈まないのか

  • 紀野一義 佐々木閑 大乗の発生と富裕層の発生

    大乗がいかにして発生したか紀野一義氏は富裕層の発生と大乗菩薩団が形成された時期が重なり、そして般若経や法華経などの大乗経典が生まれたのではと講演で述べている。佐々木閑氏は釈迦時代の仏教が分裂していく過程が未だよくわかっていないので定説ではないが、その分派の流れのどこかで金銭の布施を受けて良いとの異論が出て、それが大乗経が生まれるきっかけになったのではと私的には考えてると述べている。両氏の話はプロテスタントと資本主義の関係みたいで興味ぶかい。紀野一義佐々木閑大乗の発生と富裕層の発生

  • 映画 回想の名台詞 地獄に堕ちた勇者ども

    久々に傑作と云える映画をみた。生涯忘れがたい映画作品の一つになろう。この壮麗にして暗鬱、耽美的にして醜怪、形容を絶するような高度の映画作品を見たあとでは、大ていの映画は歯ごたえのないものになってしまうにちがいない。三島由紀夫映画芸術より映画回想の名台詞地獄に堕ちた勇者ども

  • 映画 回想の名台詞 フェリーニの「道」 ジェルソミーナはザンパーノの神、そしてわたしの神は

    青年「この世の中にあるものは何かの役に立つんだ例えばこの石だ」ジェルソミーナ「どれ?」青年「どれでもいいこんな小石でも何か役に立ってる」ジェルソミーナ「どんな?」青年「それは・・・おれなんかに聞いてもわからんよ神様はご存知だお前が生れる時も死ぬ時も人間にはわからんおれには小石が何の役に立つかわからん何かの役に立つこれが無益ならすべて無益だ空の星だって同じだとおれは思うお前だって何かの役に立ってる今振り返ってこのセリフ、随分と仏教的なセリフを述べていたんだ。まあ17歳にはよくわからんかったが何故か心に残り、手紙にこのセリフを使った記憶がある。随分と遠い記憶が何かの文章でふと呼び覚まされることがある。今朝も映画とは全く関係のない実務的なサイトを眺めていると突然、あまり脈絡もなく「道」に触れられていた。ジェルソ...映画回想の名台詞フェリーニの「道」ジェルソミーナはザンパーノの神、そしてわたしの神は

  • 森の木漏れ日を

    森の木漏れ日作品1森の木漏れ日作品2森の木漏れ日作品3森の木漏れ日を

  • ネトフリで「とらわれて夏」

    ケイト・ウィンスレットが出演しているというだけでみた。ちょっと作りすぎの筋だが彼女が出演しているだけで楽しめた。タイタニックも良かったが読書する女も。ネトフリで「とらわれて夏」

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