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  • 何を作らないか

    ぼんやりしていると、どんなイメージが降ってくるか油断がならず、それによっては今後の道筋にも影響が出るからうっかりはできない。建長寺の和尚様にいわれたように、頼まれもしないのに、或いは需要もないのに、または発表する気もないのに。と抑えが効かず数々しでかしてきた。母にしつこく聞かされたが、台風による幼稚園の休園日、隅田川の佃の渡し船をおとなしく描いていたが、煙突だったかに東京都のマークがついていて、同じマークがあったと豪雨の中、止めるのも聞かずマンホールの蓋を見に行った。幼稚園児ならマンホールの蓋を観察しに出かけるくらいの時間はあるけれど、時間は年々貴重になっている。私の場合は何を作らないか、作らないと決めたら必ず守る。これが大事である。何を作らないか

  • プロローグ

    正義が勝つには時間がかかる、といったのは森田健作だったか。正義はともかく、良いことだろうと悪いことだろうと、何かしようと思えば時間がかかる。長い間やっているうち、考えるな感じろで行く方が結果が良いのは、人間も草木同様自然物、肝心な物はあらかじめ備わっているからで、感じたまま行くとその肝心な物が発動する仕掛けになっているのではないか?その肝心な物が〝己の中に仏はいる“の仏なのかは私にはわからないが、ここに至り最大の関心事ではある。鍵っ子時代、中井英夫編纂の百科事典の別巻『日本の美術』の頂相あるいは頂相彫刻を、畳に腹這いになって飽きることなく眺めていた半ズボンの私を思い出すと、あれがシナリオのプロローグではなかったのか?最近かなり本気でそう考えている。プロローグ

  • 法然頭はセーフ?

    手付かずのままだった浄土宗の法然上人の制作を再開しようか考えている。臨済義玄の前頭部が盛り上がった頭や、栄西の円筒形の頭はフィクションなのは明らかで、陰影有りの手法に戻ってからは作る気になれないが、真ん中が凹んでいる法然頭はありえなくもない。そう考えると、卒業証のように弟子に授けられた臨済宗の頂相の写実性は特別で、特に生前描かれた寿像は信用できる。その習慣がいつなくなったのかは知らないが、お陰で江戸中期の臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師は手がけられないでいる。松尾芭蕉の粗製濫造され続けてきた枯れ木じみた老人像を呪ってきたので、私なりの、などといって創作するのはむしろ容易だが、連中と〝同じ穴のムジナ“にはなりたくない。法然頭はセーフ?

  • キャプション

    展示は六月なので時間はあるが、展示用キャプションを書く。こういうことは早めにやっておいた方がよい。この人物はなんで龍が身体に巻き付いているのか、荒天の中、帆柱の上に立っているのか?という方々のために、簡単な説明は必要だろう。2000年に廃れていた写真の古典技法オイルプリントによる1回目のピクトリアリズ展を開いたが、見たことのない手法に、来廊者の目に明かりが灯らない、というトラウマになりかねない経験をした。ほとんどかつての数学や物理の授業中の私のようであった。結局キャプションでは追い付かず、技法公開のためHPを立ち上げた。先日建長寺の鎌倉禅研究会で作品を披露した時、若いお坊様が写真作品の前で皆さんに見えるよう被写体の大覚禅師像を持っていただいたが、数センチの顔が数十倍に拡大され、おそらく何割かの方は理解され...キャプション

  • どこにも行かずここに在る

    6月に4日間の展示が決まった。作家シリーズ最後となった三島由紀夫へのオマージュ展『椿説男の死』(ふげん社)での無観客によるトークで「次は何を?」の質問に、いつかは、と考えていた「寒山拾得」とつい口にしてしまったが、ふげん社が拾得が普賢菩薩の化身であることから付けられたという。そんな縁を逃がさず2年後の『Don’tThink,Feel!寒山拾得展』となった。誰かがシナリオを書いている。そんな気になるのはこんな時である。三島由紀夫で個展をと思ったら、そのビルの先代の社長が事件に使用された『関の孫六』を三島に進呈した人だった、なんてことさえあった。この時はその件で大変だったらしく三島だけは辞めてくれということに終わった。シナリオが良いのか悪いのかアマゾン川の如く蛇行する紆余曲折の有様だが、その原点といえば、幼い...どこにも行かずここに在る

  • 面壁九年

    〝考えるな感じろ“で生きていると、自分の中の自然物に等しく備わっている某かが導いてくれる、と薄々感じてきたが、禅宗の人物をモチーフにしていてほとんど確信となった。そうなると、単なる創作上のモチーフではなく、創作行為がそのまま自分とは何か、を探求することになる。本来そうあるべきだろう。達磨大師は岩壁に向かってまる九年坐禅したという。おかげで手足が腐り取れてダルマの姿になった、というのは日本だけのストーリーらしい。私は粘土に向かって40猶予年。悟ることなど頭の隅にも考えたことはないが、足腰の衰えだけは一人前である。面壁九年

  • 独学我流者 外側にレンズを向けず

    架空の人物制作に転向するはずが、一枚の大覚禅師(蘭渓道隆)の頂相のリアリズムに打たれ気が変わった。我に返る思いで一転実像にこだわり、挙句に陰影さえも戻ってしまった。創作された、実際はあり得ない後頭部から前頭部にかけて盛り上がった臨済像や臼のような円筒形の頭をした栄西は、陰影なしならともかく、もう作ることはないだろう。臨済済義玄は“仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す“といっている。何かを求める時、外に依存するのではなく、自分自身の内面を見ろ。師の教えに依存や執着するな、ということらしい。外側にレンズを向けない独学我流者は納得である。独学我流者外側にレンズを向けず

  • 馬の骨作る時間はない

    前回の寒山拾得展で、寒山拾得が臨済宗に伝わる話ということで〝怒目憤拳“の様子が興味深く、臨済宗の開祖臨済義玄を作ってしまった。当時はいくら調べても実態が判らず。結局、中国のある僧が注文で描かせたものが日本に伝わり、一休の弟子の曽我派の画僧などに模写され描き継がれ大徳寺周辺から広がって行ったものらしい。大徳寺にはまったく別人の穏やかな臨済の肖像画があり、これが実像に近ければ作りたいのだが。間もなく出るタウン誌に書いたばかりだが、昔、未発見だったロバート・ジョンソンの写真が発見された、と音楽雑誌に載った。さっそく作り始めたが、あの音楽を生み出すような“十字路で悪魔と取引した感“が感じられず、酔っ払って編集部に電話をした。「そういうことになってます。」結局納得できず止めたが、後に誤報と判明した。飲んだくれては作...馬の骨作る時間はない

  • 私の役目

    雲水姿の一休宗純は、窓際に置いて自然の塵、ホコリをまとわせた。小四で読んだ『一休禅師』はとにかく汚いイメージだったが、どうやら“オリジナル”があるようで。一休が尊敬していた大燈国師は、師から悟りに達したと認められてなお、さらに二十年乞食の中で修行をする。国宝である大燈国師の頂相は眉をひそめ、写真で言えば横目でレンズどころかあらぬ方向を見ている。横目の一休の肖像画は一休が意図的に真似たのだろう。両者ともに後世に立派な己が姿を、などと考えていない。ここは肝心である。江戸中期の白隠禅師が『乞食大燈像』を残している。禅宗の中興の祖にたいして申し訳ないけれど作風が私の好みではない。令和の時代に乞食大燈像を可視化するのは私の役目だろう。例によって”頼まれもしないのに”。時代は合わないが一休との共演も果たしたい。策はす...私の役目

  • 一日

    今年、同い年の友人に、こんなことをやっているが、最新作が人生上の最突端である。といったら付き合いの長い彼に「ボケた?」といわれてびっくりした。制作に体力を使う訳でもなく、材料費もたいしてかからない。あとは好奇心、集中力が年齢と共に衰える気がしなかったので、経験を重ねて行けばピークを最晩年に持って行ける、と若い頃から想定していた。神奈川に住むその友人は建長寺に来て、梱包など手伝ってくれた。からなず一言いう彼が何もいわないのでのでどうだった?と聞いても作品には触れようとせず身体の心配ばかりするので、自分もいつの間にか頸動脈あたりに介錯を失敗したような手術跡をつけておいて“余計なお世話である”一日

  • 前言撤回のこと

    昔から人間も草木同様自然物、あらかじめ肝心なものは備わっている、と考えて来た。それこそが〝考えるな感じろ“で進んだほうが結果が良い理由だろう、と。そうこうしてある一文が目に止まった。〝禅は仏を外に求めず、自らの中にあると信じた“ここでいう仏とは、自然物に備わっているであろう肝心なものを指しているのではないか?だとすれば、それを追求して来た高僧をモチーフにすることは、結果的に、その肝心なものに多少なりとも関わることになるのではないか?私が長らく〝レンズを外に向けず眉間に当てる念写が理想“と標榜して来たことも無縁とは思えなかった。寒山拾得展で虎に乗った禅師や仙人など手掛け、以後、実在した人物は作らず、架空の人物像で行くつもりが前言撤回し、実在した高僧の像を作ることになったのは、以上の理由による。前言撤回のこと

  • 北条時頼と大覚禅師

    頭に浮かんだイメージを制作するなら、どうせなら数百年間可視化されておらず、私がやらなければ今後も誰もやらないだろう画を作ってみたいが、そんなモチーフはなかなかない。天気も良い。部屋の片付けをしようと思ったとほぼ同時に、袈裟を着た法衣姿の鎌倉幕府第5代執権北条時頼と大覚禅師が対座して見つめ合っている。そこには如何なるものが通いあっているのか。そんなイメージが浮かんだ。こういう場合、構図も出来上がった状態で降って来る。だがしかし、とりあえず予定した作品はおおよそ出来て一息ついたところなので、建長寺の開基北条時頼という大ネタは、いずれかの機会に、ということに。これだからうかつに部屋を片付けよう、などと考えないことである。北条時頼と大覚禅師

  • 腹具合

    建長寺訪問後、腹の具合が悪い。バレエを一度観ただけでニジンスキーで個展を開いてしまった私も、坐禅を一度もしたことないのに建長寺開山を、和尚様がおっしゃったように「頼まれもしないのに。」まるで発表の予定に向けて制作しているような顔をして作り続けて来た。そもそも通常と違い、特定の寺の開山をモチーフにしたのだから建長寺以上に展示するのに相応しい場所などない。さすがの母も、授業が始まってるのに図書室から出て来ず騒ぎを起こすような、ブレーキが効かないところは、大人になれば治ると踏んでいたはずだが、そうはいかなかった。私としては、これは生まれついてのことで、不細工や足が短いことが本人に責任がないのと同様、私には責任がないと考えている。といいながら、プレッシャーに対し腹具合は実に正直である。しかし某事のおかげで、明日あ...腹具合

  • 旅路の果て

    小学校では図工の時間が大好きだったが子供の絵ではない、と私に向かっていう教師がいて、担任も全員参加のコンクールに私の絵だけ出すのを忘れた、という。そんなことがあってその後美術部にも入らず。高校の進路指導では、系列の芸術学部と書いたら「お前デッサンやってるのか?」「えっデッサンの試験あるんですか?」写生など幼い頃から苦手で木炭など触ったこともない。かといって浪人する根性などないので、デッサン描けなくても入れる工事現場のプレハブみたいな工芸学校の陶器科に。浪人したり美術の短大出た経験者もいたが、粘土でリンゴを作る課題で、最初にリンゴ大に粘土を丸めるド素人組の一人であった。それが鎌倉時代の高僧の像を作り、写真やパソコンなど蛇蝎の如く苦手だったことばかりを手段としている。殴られて20年ぶりに目が覚める男のドラマが...旅路の果て

  • ショートカット機能なし

    重圧から解放され、未だ何も手に付かずにいる。2002年に、前年にイベントで一度バレエを観ただけで、ニジンスキー、ディアギレフ、コクトーで個展を開催した。ご丁寧にも廃れた写真の古典技法オイルプリントで。あれを持ってパリのオペラ座を訪れても、これほどの緊張感はなかっただろう。食欲に任せて目の前のパンに齧り付くようにモチーフなど変化させて来た、と頭では思い込んでいるが〝考えるな感じろ‘’の感じる担当の丹田辺りのもう一人の私が実は仕切っているのは判っている。幼い頃から人間にしか興味がない私にとって、これ以上のモチーフはないように思える。創作欲を刺激する祖師の個性的な面相、まつわる伝説。何故早く気が付かなかった、と思わないでもないが、人生にショートカット機能はない。独学我流でひたすらほふく前進してきて身に染みている...ショートカット機能なし

  • 鼠が象の股下をくぐる

    蘭渓道隆像は、国宝である斜め45度向いた唯一の寿像(生前描かれた)だけを元に制作したが、立体にすれば、どこからでも撮れる利点を生かしたい。蘭渓像は絵画、立体像ともに数々残されているが、何百年前に制作された名工の作だろうと、没後に作られたとなれば条件自体は私と一緒である。寿像が真実にもっとも近い、と考えるのが当然とするならば、信仰の対象になって来た開山像に対して失礼を承知でいうならば、どの蘭渓像とも私は意見を異にする。男専門に四十年以上制作してきた渡世上の信念に従ったとはいえ、建長寺のHPにも載る開山様の木像と面相が違う像を持って建長寺の門をくぐるのは、ネズミが象の股下をくぐるが如き心持ちであった。鼠が象の股下をくぐる

  • 用意されたシナリオ

  • 頼まれもしないのに

    昨日の建長寺でのこと。高井和尚様が、私の作品を前に「頼まれもしないのに」とユーモアを交えお話いただいた。実在した人物はもう充分作った。寒山拾得の続編を寺の多い鎌倉あたりのスペースで、と思っただけで、寺での展示など考えてもいなかったが、建長寺を検索していて開山である蘭渓道隆の頂相に感銘を受け、何も決まる前から作り始めてしまい、円覚寺の開山無学祖元まで作ってしまった。私は作りたいと思ったら需要など考えない。感心されるぐらいなら呆れられた方が。と常々思っているが、作りたい、という本気の想いに呆れ、笑顔にでもなってもらえれば何よりだと考えている。長年あれをこれを作れば良かった、と後悔しながら死ぬことを恐れてきたが、高井和尚様の〝頼まれもしないのに“を思い出しながら、どうも私はそんなタマではないな?しなくても良い心...頼まれもしないのに

  • 鎌倉禅研究会(建長寺)

    七百数十年前、建長寺の開山となった自作の蘭渓道隆像を持って鎌倉禅研究会に参加するため門をくぐるプレッシャーに、境内の満開の桜が桜に見えない。演台には参加者に向け蘭渓道隆像が置かれ始まることとなった。高井和尚様のご指導で椅子に座ってではあったが生まれて初めての坐禅を経験。一部は鎌倉国宝館の学芸員による『鎌倉地域の羅漢図』以前ブログに書いたが、男性ばかり作ってきた私が、最後に男の種々相を表現するには羅漢像を作りながら終わるのは良いと考えていた。2部の前に長辺150センチのプリント6カットを解説することに。近所の居酒屋で新聞を読むとしわくちゃになると知られていた私なので、ふげん社から送られてきたプリントは初めて開けて見た。大きすぎてテーブルに乗らないので畳に広げることに。2部『蘭渓和尚とその時代』蘭渓道隆の生ま...鎌倉禅研究会(建長寺)

  • スキに乗じて

    未プリントだが最新作は『蘭渓道隆天童山坐禅図』である。これで次回作さえ浮かばなければ心残りはないことになる?はずである。浮かばないようコントロール出来るものなら楽だろう。多くの場合、小説なり資料なり、ほとんどが文章がきっかけになる。イメージが、ぼた餅のように唐突に落ちてくるのを避けるには、まずは文章を目にしないいことである。制作の調子が上がると部屋が散らかってくる。先日どうにも邪魔だったものを捨て、陽気もよくなってきたので、これを機に部屋を片付ける気になっている。新たなイメージが浮かんでいない、この隙に乗じるしかない。解体現場からいただいてきた、30年以上通った煮込み屋のカウンターも、台所にサーフボードのように立てかけたままになっている。スキに乗じて

  • 安航を祈る

    友人がアメリカに旅行に行くというので、スマホに入れとけ、と送ったのが半憎坊である。おそらく猿田彦が変化したものだろう、道開きの神である。制作者のことさえ気にしなければ海難、火難避け、様々なご利益があるとされる。そういえば、と思い出したのが、三島の戯曲『船の挨拶』。怪しげな船からの銃撃に感謝しながら死ぬ灯台職員の話である。いかにも三島らしい。航行する船に向けて掲げられた国際信号旗、これは〝汝の安全なる航行を祈る“である。三島はなるべく時代の変化に影響受けないよう心がけたが、その後変更された。実際は小雨混じりの曇天の野島崎灯台を撮影した。天気だけでなく配置をだいぶ動かしたし、上で抱き合ってるアベックを抹消した覚えがある。友人は空の旅だったが、こちらも送っておいた。安航を祈る

  • ピストルに撃たれたように

    一度もしたことがないが坐禅は半眼でするもので、つまり目は瞑らない。そのことと関係があるかはわからないが、何かイメージする時は目を開いている時に限られている気がする。目を瞑っているほうが集中しそうだが、あまり思いつくことはないように思う。自分で写真の暗室作業をやっていた頃、真っ暗な中で目を開いているというのが、どうにも落ち着かず、イライラしてきて向いていなかった。寝付きが良く、ピストルに撃たれたように寝る、といわれる。母と同居していた時、話していると突然黙るので、脳溢血でも起こしたか、と何度起こされたか。ピストルに撃たれたように

  • 向き不向き

    陰影がない手法のメリットといえば、構図の自由がある。かつての日本人がやったように、背景に主人公の心情を反映させることも可能である。しかしやってみると、構図の自由があるといいながら、どうしても絵巻物などの長焦点レンズ的になり、それが余計に古典的日本絵画調に見える理由でもある。広角レンズ的な写真的構図が合わない。これに関しては追求するほどの興味はない。そういえば、曽我蕭白はタイムリーパーかのように超広角レンズを知っていたのではないか?というような『石橋図』があるが、線描の水墨画だから可能なのだろうか。水の表現と同様に、陰影のない写真作品ではやれる気がしない。向き不向き

  • 手遅れになる前にアンモニア

    データが完成していて未プリントなのは少林寺の岩窟内の『月下達磨大師図』と長辺2メートルを予定している『蘭渓道隆天道山坐禅図』いずれも“観てきたような嘘をいい“である。先日友人が高野山に行って感激していた。行ったことあるか?と聞くので「ない。」私は寺山修司の“想像力より高く飛べる鳥はいない“を信奉して来た。つまり自然界の最上位にあるのが人間の想像力だ、と。もう一つは江戸川乱歩の“現世(うつしよ)は夢夜の夢こそまこと“である。人間の想像力が最上位か、夜の夢がまことかはともかく、子供が口を開けたまま東の空でも眺めていたら、手遅れになる前にほっぺた張り倒すか、アンモニアでも嗅がせるべきだとは思っている。1997年個展DM手遅れになる前にアンモニア

  • 陰影しかないような坐禅窟

    立体は作ってしまえば、どんな角度からも撮れる。この利点を生かすため残された写真、絵画とは違う角度から撮って来た。大覚禅師こと蘭渓道隆は、生前描かれた唯一の肖像画は、向かって右斜め45度を向いている。敬意を表し、一カットは右を向かせた。仮に左を向いてる正岡子規を右にむかせたら、子規は右を向かないとでもいうのか、顔が違う、という人が必ずいる。そうしたものである。1カットは下から見上げ、1カットは失礼ながらというべきなのか、上から見下ろし撮った。流れからいえば正面が欲しい。陰影を描かない手法では面壁坐禅図を一度完成させた。しかし今となっては、坐禅窟には灯りを持ち込んではならない、という決まりでもなければ、次に制作するとしたら岩窟内、陰影しかないような真正面の坐禅図だろう。陰影しかないような坐禅窟

  • 横目で呪いながら

    月一のクリニック。以前、高校時代の友人と電話で話し、スマホを切ったつもりで診察室での女医先生との会話を聴かれてしまった。「どうしても◯◯に職員室に呼び出されたみたいになっちゃうんだよな。」最恐の◯◯先生に呼び出された時は、恐怖の時間を短くするため、次の授業開始時間の寸前に行く工夫をした。その後コーナンで買い物。疲れたので、軒下に座る枯れ木じみた爺さんの横で休む。「俺もあんたを作ったんだが、資料を読むため深川図書館に行くんで自転車で前を通るたび、俺より若くして死んだのに、こんな爺いにしやがって、って横目で呪いながら通ったもんだぜ?」以来、実像にこだわることに拍車がかかった。横目で呪いながら

  • 検査

    2回目の冠動脈手術を受けて以来の検査。自覚症状もなかったのが、たまたま検査で見つかった。私がのんびりしているので症状が出なかったらしい。その分発見が遅れたということになるけれど。そう考えると、自覚のないままある日心筋梗塞、なんて人はいくらでもいるだろう。これから鎌倉や室町時代の人物に陰影(立体感)を与えることにしよう、という時だったから、これを恐れていたんだよな、と思ったが、身近に何回かカテーテル手術をやった人がいて、手術自体は大したことはない、と聞いていたから、気が急いて、退院したらただじゃすまさねぇ、と集中した。被写体はすでにある。再撮影を終えプリントも済ませた。被写体を作らなくても良い撮影は楽チンである。検査

  • 4月というのに

    昨日のブログを書いていて、行き当たりばったり、好奇心に任せてモチーフを変えて来たつもりで、実は自分とは何だ、ということのために選択して来たのだ、と思った。最初のジャズ、ブルースはそのジャンルの音楽が好きだった、作家シリーズも好きな作家ばかりだったが。一休和尚こそ小学四年で読んだ『一休禅師』のイメージが強く残っていたものの、かつて父が眠るしかも親戚の寺の宗派を聞かれて答えられなかったような私が、何故お坊様を作っているのか?丹田あたりのもう一人の私が、そこに何かがあると判断していたなら納得がいく。連載中のタウン誌の次号の書き出しである。〝映画や小説から全てを学んだ、といういい方があるが、人形作家である私の場合はほとんど作って来た人物に学んだ、といっていいだろう”4月というのに

  • 金鉱掘りみたいな思い

    自分で作っておいて驚くことがあるのは、イメージを可視化するための作業、工程に無意識の何某かが加わり、そんな予期せぬものが完成作から立ち現れてくるので驚くのだろう。そこに私とはなんだ?の答えが含まれているかもしれない。私のモチーフの変遷は欲と興味に任せ、ただ面白いからだ、と自分では思い込んでいるが、そう思うと、作家シリーズ最後となった『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』を終えた時、これ以上掘っても、ここからはもう何も出てきそうにない、と金鉱掘りみたいな思いで、寒山拾得へ走った。やはり私は丹田あたりのもう一人の私に任せ“考えるな感じろ“でいくべきであろう。金鉱掘りみたいな思い

  • 二刀流ならではの感慨

    ジャズ・ブルースシリーズを一回発表しただけで翌年、6人の作家をモチーフに作家シリーズに転向した。江戸川乱歩はピストル構えて気球に乗っていたが、造形の段階で極端に広角的に制作し、背景として紙に青空を描いて襖の裏に貼り付け、マンションの屋上で自然光で撮った。珍妙なセッティングだったが、ラボでプリントを一目見て「私はこういうことをしようとしていたのか!?」他人事のように驚いた。あの経験が未だに忘れられないでいる。そこまで育てた(造形した)つもりがないのに、知らない所で人生を重ねて来た息子と再会したようだったのは、長辺2メートル30センチのプリントのフットボール大の顔の三島由紀夫と目があった時だった。これは被写体制作と撮影の二刀流でしか味わえない感慨であろう。明日の到着が待ちきれず、長辺150センチのプリントの様...二刀流ならではの感慨

  • 坐禅窟内の事

    陰影のない手法から陰影のある手法へ再制作して来たが、坐禅窟内で壁に向かう蘭渓道隆は作っていない。陰影のない浮世絵では月があるから夜、室内では行灯があるから夜、と西洋画や写真のように、夜だからといって真っ正直に暗くしない。しかも視点は面壁する壁からという、陰影ないからこその試みであった。しかし坐禅窟内の座禅は昼間にするものだ、ということでもなければ何かしら灯りを持ち込まなければ夜の坐禅はないのではないか。昔は灯りなしでは、月夜の晩でもなければ座禅窟にたどり着久のも大変だったろう。であれば巌窟内に何かしら灯りがあったとすれば陰影ありで制作可能ではないか?部屋を片付けようと思ったら思った。坐禅窟内の事

  • 理想も目標もなく

    職人が満足したらお終いだ、というが、私には満足していない物に値段を付けて個展会場に立っている神経はない。件の職人には、きっと理想、あるいは目標となるイメージがあるから出るセリフだろう。その点私には理想もなければ目標もなく、ただ頭に浮かぶイメージを可視化し。やっぱり在った、と確認したい欲にかられた独学我流者である。スポーツ選手などと違って毎日の経験を重ねることにより、いくつになっても最新作が人生上の最突端といえる渡世である。理想や目標がなければゴールがない代わりに挫折しにくく、なんでその状況で笑っていられる?といわれがちである。書き出しはそんなつもりではなかったが、私がいかにオメデタイか、という印象のまま終わった。理想も目標もなく

  • 暗雲の如く湧き上がる

    何か作る時、どうしようかと考え込むことは少ない。スケッチをしないのは、スケッチしてああだこうだしたいのに、最初のいい加減な悪戯描きを超えられず、ゴミ箱をあさることになる。だからこそ死の床で作りたい物が順番待ちして苦しむだろう、と長年憂鬱であった。それは昨年末より、遠因となった一休和尚の制作、母の死、2度にわたる入院によって、ほぼ払拭された。若い頃は発表するつもりがなくても欲求に任せて作ったが、一仕事約十年弱かかってきたことを思うと、この歳になると、何を作らないかが重要になる。私の悪癖の一つが、今日は部屋を片付けよう、と頭の隅にちょっとよぎっただけで、創作意欲が不吉な暗雲のごとく湧き上がることである。私の主要な作品は、おおかたそうして作られて来た。暗雲の如く湧き上がる

  • 自分を呆れ驚かすには

    小中学校、工芸学校、陶芸家を目指した頃の先輩に、出来立ての『蘭渓道隆天童山坐禅図』をメールで送ったら「このテーマが良く判らない」と返事。確かに作っている本人も多少戸惑うこともあるが“考えるな感じろで行った方が結果がよいことだけは知っている。扱うモチーフが変わるにつれ、話し合う相手が激減してきた。友情を持って止めろと忠告してくれていた連中も、止めても無駄、と遠巻きにしている始末である。昨日人の忠告を聞かない人の話を書いたばかりだが、人形をいくら作ろうと死ぬことはない。デイアギレフはコクトーに「私を驚かせてみろ」といったが、私を呆れ驚かす方法を一番知っているのは私自身なのだから仕方がない。自分を呆れ驚かすには

  • 近くの他人

    昨日は今はなき煮込み屋の常連との飲み会。午後1時からから8時間くらい飲んでいたのではないか。皆さんには母もよくしてもらった。私も泉鏡花原作の拙著『貝の穴に河童の居る事』(風涛社)では昨日の二人を含め、人間の登場人物七人は、常連や近所の人達が名演技を披露してくれ、まさに公私共にお世話になった。妹は海外在住であるし、母が笑ったまま逝けたのは、ホームの職員を含め他人様のおかげである。なので友人らには、自分だけで抱え込まず他人に頼るべきだというのだが、肉親のこととなると、なかなかそうはいかない。知り合いで他人を信じない夫婦がいて、私のアドバイスに聞く耳を持たず、心配で昨年旦那にメールした時も相変わらずだったが、すでに手遅れと思ったら今月亡くなった。死なずに済んだものを、と悔しさと後悔、腹立たしさが拭えないでいる。近くの他人

  • 今日も今日とて

    長辺2メートルを予定しているプリントは、日本に初めて本格的禅を伝えた鎌倉建長寺の開山蘭渓道隆が、道元や栄西も修行した中国の天童山で坐禅をしているところを想定した。現在は壁を背にする臨済宗の坐禅も、当時は禅宗の開祖達磨大師と同様壁に向かう面壁坐禅であった。陰影なしで完成していたはずだが、陰影有りに宗旨替え?してみると、それまで作った世界が違って見える。イメージのもちようで、世界はいくらでも変えられるのではないか。屋根裏のアンネ・フランクも防空壕内の谷崎潤一郎もそう考えていたかもしれない。私の場合は本来外の世界を撮るために製造されたカメラのレンズを眉間にあて、行ったこともない山で坐禅する人を妄想、夕景にするか月光風景にするか悩んでいる。今日も今日とて

  • 後戻りはせず

    昨年暮れから急な方向転換で、最後の手段だと考えていた陰影を排除した手法から、陰影(立体感)のある手法に戻った。しかし先週にさえ戻りたくないよう心掛けている私には後戻りは許されない。モチーフは写真どころか肖像に陰影を与えられたことのない時代の人物であることが大きく違う。初めてジャズ、ブルースをテーマの個展で写真を発表した時、一人の編集者に人間の実写に間違えられ、わざわざ被写体まで作って既存のジャズ写真と一緒にされてはかなわない。翌年、大きく方向転換し、作家シリーズに転向した私が、古典的日本画調であることを、いつまでも喜んでいては明らかな衰退であろう。後戻りはせず

  • 幼馴染

    幼いころ、頭に浮かんだものはどこへ行ってしまうのだろう?と思い悩んだが、それが私の創作の原点であろう。一人のときに浮かんだことは、友達に話していればともかく、黙っていたら、ただ消えてなかったことになってしまう。鍵っ子だった私にとって友達はそのために必要だった。今はその役割が個展の開催だろう。バプテスト系幼稚園からの友達の家の前で、神様がいるかどうか、と半ズボン同士で。あんな髭生やした爺さんが雲の上にいる訳ないだろ、と私。お母さんがお宮参りで彼の弟を抱いて玄関から出て来たが、その赤ん坊も還暦を過ぎ、彼も先月、私が命名した美容室を従業員に譲って引退した。電話では話すものの何年も会っていない。近いうち昼間から飲むことになっている。幼馴染

  • アウトプットの年頃

    世の中には不思議なこと興味深いことはあるけれど、自分の中のイメージ以上のことは起きないだろう。子供の頃読んだ探検記、旅行記、あの時イメージした以上の世界があるはずがない。世界を見聞するにしたって寿命には限りがある。寺山修司は”書を捨て町へ出よう“といったけれど“どんな鳥も空想力より高く飛べる鳥はいない”ともいった。最近は、制作に関する本以外、ほとんど読まない。他人の頭に浮かんだ世界に感心している場合ではないので、小説は『没後50年三島由紀夫へのオマージュ展「椿説男の死」(ふげん社2020年)以来読んでいない。インプットよりアウトプットに注力すべき年頃である。アウトプットの年頃

  • 可笑しさ哀しさの追求

    制作するのは男性ばかり、それも中年から老年に限られている。制作上の面白さ醍醐味といえば、男性には本来的に女性にない可笑しみと哀しみがある。昨今インターネットでは、何も隠されていないAV映像が流れている。18の時にまだ車が反対車線を走っていた頃の沖縄で初めてその類の映像を観た。呼び込みの男がドアをノックすると、洋物の映像には音声がなく演歌が流れており、何故かトイレットペーパーを持った女性があっち行ったりこっち行ったりしていた。大変趣きのある趣向であったが、?と我に返ってみると、壮大で深刻な恋愛小説であろうと、あんなことをしたかしないかが問題になっている訳で、特に男の行為における起承転結の様は滑稽としかいいようがない。かの業界では、そのつもりではないようだが男の可笑しさ哀しみを益々追求しているように見える。可笑しさ哀しさの追求

  • 達磨大師は陰影なしで

    近所に落ちたような雷鳴で目覚め、雪が降っている事にも気付かず2カットを仕上げる。昨年暮れ、タウン誌の連載用に、一休禅師の背景に、と考えた背景に陽が当たっていたので、久しぶりに一休本人にも陰影与えてみたら、室町時代は陰影がないのが当たり前だ、であれば、と陰影与えてやり直すことにした。被写体はすでにあるし、もともとずっと陰影を与えていたのでスムースに撮り直すことが出来た。良かれと思って造形した訳だから、それを生かすべく光を与えるのは楽しい。ただ禅宗の開祖達磨大師だけは、象徴的な存在でもあり、陰影なしのままにした。中国人だと思い込んでいる人が多いので、浅黒いインド人調にして、袈裟の元はサリーだと聞いたので、衣もサリー調に。インドから渡って来て少林寺の洞穴で壁に向かって9年坐禅をし、おかげで手足が腐り取れていわゆ...達磨大師は陰影なしで

  • 頭の中のヴィジョン

    プリント用のデータのチェック。身体を龍に巻き付かれていたり、竹竿にシャレコウベ掲げてこっちを見ている人物を眺めていると、いったい私は何をやっているんだろう?と思わなくもないが。こんな気分にしてくれるのは、結局他人ではなく私自身しかいない、と満更ではない。この歳になると、周りの知人友人の中には毎日テレビばかり観ている、なんて隠居状態の連中が散見されるが、私が鍵っ子の頃から今に至り、一人でいても平然としているのは、常にビジョンが浮かんでいるからだろう。中学の休み時間、周りの連中が、小説を読んでいる間中、頭の中にずっと映像が流れ続けている訳ではない、と聞いてビックリしたことがある。あの時の驚きは「お前らのウチ、テレビないのか!?」そんな感じだった。頭の中のヴィジョン

  • 人生ショートカットは不可

    未プリントの中からまずは6点ほど選んでプリントしてみることにした。同じテーマで陰影無しと有りが出来てしまった訳だが、ここに至って同じテーマの作品を比べると、陰影有りの立体感というのはやはり説得力がある。両手法を並行利用するとなれば、陰影無しは、こうでなければ描くことが出来ない、という場面のためだけに用いるべきであると。新しいモチーフ、廃れていた古典技法、何でも一つのことに必ず最低でも10年弱はかかって来た。全てに上書き続け本日が最突端。それもこれも一休の“門松は冥土の旅の一里塚“を恐れ続けながらも変化を続けた賜物といえそうである。ショートカットは不可というのが実感である。人生ショートカットは不可

  • 肖像研究者

    松尾芭蕉は、門弟が師の姿を描き残しているのに無視され、忍者説があるほどの健脚が、俳句の枯れたイメージに利用され、いい加減な老人像が捏造され続けて来た。芭蕉を制作しているその時点で、私自身が芭蕉の没年齢をすでにえ超えていたことが腹立たしさを倍増させた。大覚禅師(蘭渓道隆)は唯一の寿像(生前描かれた)のみを基に制作したが、全国には噂話だけで、いや噂話さえ聞いたことがないと思える像が沢山残る。信心さえできればイワシの頭でもブラックバスでも良いというのだろうか?私は不信心者ではあるけれど、40年以上続けている渡世上我慢出来ない。作りたい高僧が何人もおり、創作はいくらでも出来る。しかしそれでは有象無象と同じことになってしまいかねない。肖像研究の第一人者といえるような方と出会いたいところである。肖像研究者

  • 『黒澤明2影武者撮影の現場』古石場文化センター

    先週に続き、油井昌由樹さんの講座2回目。油井さん制作のドキュメンタリーを観て『影武者』のオーデイションの様々、勝新太郎のエピソード、質疑応答など。終了後、残った人達でお茶を飲もうと喫茶店へ。2軒隣が馴染みの焼き鳥屋だったので顔をだし「今黒澤映画の家康さん連れてくるから記念写真!!」それで終わるはずが家康様が「ここで食ってっても良いな?」とおっしゃる。結局ズラズラと入店。私が20代の終わりから30年通った店で、裸足にサンダルで昼間からフラフラ歩いているし、娘は子供の頃から見かけるけど、ずっとあの調子で誰?人見知りで余計な口を聞かないので十年間、近所の某施設の人間だと思われていたらしい。考えてみると、ここの一家は黒澤映画といったって誰も観たことないだろうな?と思いながら帰宅すると、大谷の第一打席。『黒澤明2影武者撮影の現場』古石場文化センター

  • ないものは撮れず

    天気が良いのは今日だけのようなので、上野動物園に鹿を撮影に行こうと思った。無学祖元の法話を聴きに白鹿が集まったという場面を作ろうと。円覚寺の山号、瑞鹿山はそこから来ている。四月に近くなるとツノが落ちてしまうと聞いていた。まぁツノぐらいなら、なんとかなるだろう。一応電話してみると、今は展示していないという。どういうこと?この間電話した時は、ウチの鹿は角の形が変なので、多摩動物園の方が数も多いし良いかもしれないと聞いたので、多摩動物園に聞くと、こちらも現在展示していないという。ないものは撮れない。写真の最大の欠点である。この世にないものばかりモチーフにしている私はつい八つ当たりしたくなるが、腰痛持ちとしては出かける前に判って良かった、ということにしておく。ないものは撮れず

  • 初鴉

    “門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし“小四で知ったこの言葉に、自分で思っていた以上の影響を受けており再チャレンジ。一休は汚いイメージが残っている。一作目は何故か正装にしたが、今回は窓際で埃にまみれたのを利用してみた。当初門松を配すことを考えたが、室町時代の門松は、現代とは違うことだけしか判らず。一休は鴉の声を聞いて悟りを開いたといわれる。正月頃の鴉はどうしているのだろう、と調べたら、初鴉が正月の季語と知り、これ幸いと鴉を配した。門松ではいかにもダサい。何故、大人向けの『一休禅師』を母にねだったのか。おそらく小三の時に担任の出産のため、代理でお世話になった田中先生が、転任の際、図書室の伝記の類を貪り読んでいる私に『世界偉人伝』を内緒いただいた。それでトンチ小坊主でない一休を知ったためだと思わ初鴉

  • 本物の汚れ

    最初に三遊亭円朝で陰影のない撮影した時、人肌を重ね塗りしたのが、ただ汚れのムラに見えて、三脚などそのままにして一色のベタ塗りにし直した。寒山と拾得など着衣はボロでも形だけで、陰影を描かない日本では汚しの表現は、あまり用いられない。数年前、シャレコウベを掲げた一休禅師を初めて制作した時、私にとって重要な人物とは思っておらず寒山拾得展の脇役に過ぎなかったので、本来汚い雲水姿こそ似合う一休禅師に正装を着せてしまった。掛け軸状に制作した一点は元サンデイエゴ写真美術館の館長であったデボラ・クロチコさんの元へ旅立ったが、ここに至ると『一休禅師』で小4の私がイメージした汚い雲水姿で再制作を試みたい。ちなみに汚れは埃っぽい窓際に何週間も置きっ放しにしておいたホンモノ?を予定している。本物の汚れ

  • スーパーにて

    大型スーパーに食材を買い物に行くと、つい母に、と考えてしまう。最後の2年ほどはホームが誤嚥を恐れ、大したものは持って行けなかった。一緒に買い物に行っていた頃、嬉しそうに食品の棚をを見上げる表情が思い出される。父の時も涙一つこぼれなかったが、昔から男が一人工作する姿にツンとくるところがあった。父とも通った大工センターに材料を買いに行ったら、そのイメージは日曜大工好きの父のイメージだったのだ、とフイに気付いて、亡くなって随分経っているのに涙が止まらず、買い物どころでなく帰ったことがある。そう思うと、母が亡くなり2ヶ月が過ぎ、そろそろ危ない頃である。一番危険なのは、あの嬉しそうな買い物中の母の顔だろう。こう書いていても危ないので、スーパーでカミさんに、ただついて歩いている使い物にならなそうなダンナが邪魔臭い、と...スーパーにて

  • 今となっては足腰に難

    映画や小説から全てを学んだ、といういい方があるが、私の場合は、ほとんど全てを作ってきた人物と向き合ってきたことにより学んだ。また最近よく思うのは、何十年も他人を作って来たが、作ることは自分と向き合うことであった。今にして思うと、陰影を排除することにより、結果的にこの不信心者を、今のモチーフに導くことになった。人間も草木同様自然物。人間にも肝心なことは備わっている。と考えて来たが、自分の中に仏は居る、と同じことではないか?しかし調子に乗って坐禅などしない。私にはひたすらヒトを作る、という方法がある。今となっては脚腰痛いし。今となっては足腰に難

  • 「臨剣の頌」(りんけんのじゅ)

    写真を始めてずっと、制作した立体像の陰影を、それをさらにより生きるように陰影を与えていた。なので、陰影を排除しようとい思いついた時に躊躇したのは当然である。蒙古兵と無学祖元の『臨剣の頌』を制作しながらつくづく思った。寒山拾得や蝦蟇仙人にも陰影を与えようとは思わないけれど。陰影のない石塚式ピクトリアリズムは、ガッツ石松の幻の右くらい〝滅多に出ない“スペシャルな手法とすべきかもしれない。蒙古軍が南宋に浸入した時、温州の能仁寺にて坐禅する無学祖元が蒙古兵に剣を向けられるが、平然と「臨剣の頌」(りんけんのじゅ)という漢詩を詠む。すると感銘を受けた兵は去ったという。後に北条時宗にこわれて来日し、円覚寺の開山となる。「臨剣の頌」(りんけんのじゅ)

  • パラレルワールド

    蒙古兵に喉元に剣を向けられる無学祖元。すでに真正面を向いた作品を作ったので、手前で横を向かせた。2人の顔を入れるとなると、構図は大体決まってくる。前作で龍を身体にまとわせたので、ごく普通に当たり前に、を心掛ける。陰影のない世界だと、空気感などとは無縁の真空状態のような世界だった。2人がいくら近寄っていようと、影はもとより反射による影響も受けず。まさに切り貼り。だからからこそ、背景に、人物の考えている内容を反映させたり、日本人がかつて普通に行っていたことが出来た。今回は途中で方向転換したので、2種類作ることになってしまったが、今後はパラレルワールドを行き来するが如く使い分けたい。パラレルワールド

  • 草喰う犬

    『臨剣の頌』の撮影を終え、私のような不信心でいい加減な人間が、あまりにも立派な高僧のことばかりずっと考えている。これはどこか歪んだバランスを欠く行為ではないのか?ふとよぎった。60年代に量産され海外に輸出された、奇妙で安物のいわゆるビザールギターは、アフリカのミュージシャンやシカゴのマックスウェルストリートあたりのブルースマンが抱えている姿がたまらなく格好が良い。そんなギターのピックアップは、コイルの巻き数が雑で少ないためか、出力は低いが独特の響きがあり、歪ませると味もある。そんなピックアップに交換しようとハンダ付け。私はこういうことが、すこぶる付きで下手くそである。ギターの腕も何十年経とうと爪の先ほども上達しないが、こんな余計で無駄なことでバランスが整う気がする。犬はたまに道端の雑草を喰うが、本日私を襲...草喰う犬

  • 一日

    入院時に、ベッドで上半身を起こしていると前日からの腰痛が消えたので、退院後、すぐにアマゾンで角度をつけられるマットを入手した。ところが寝相は悪い方ではないのだが、朝になるとずり下がって寝ている。しょうがないな、と寝直したら心温まる夢をみて寝坊した。自然光で蒙古兵を撮影。曇天の灯りでイメージより柔らか過ぎる。そうこうしたらクリニックの定期検診の時間が迫り、そのままにして出かける。結果全て問題なし。軽く祝杯をあげる。毎日ブログを書いていて心臓の手術をした、なんていうと、間を開けにくい。心温まる夢の話を書こうにも、時間が経つと、なんで心温まったかさえ判らず。タイトルも付け難いほど何もない日のタイトルは大体“一日“である。一日

  • 撮影にあたり

    先日も触れたが、まだ写真をやっていない頃、仕事でプロに撮ってもらう場合、あまり見下ろしてばかり撮られるのが不満だった。普段見上げるように、崇めるかのように作っていたので、人間を撮影するつもりで撮ってもらいたかった。立体を制作するということは、陰影を作り出すことに他ならない。被写体制作者として考えると、撮影者には陰影により、私の制作した陰影をさらに生かしてもらいたいところである。それでも陰影を排除しなければ描けないことも確かにあって、ここぞ、というときは、これからも使い分けてみたい。明日は蒙古兵と無学祖元の『臨剣の頌』の再撮影の予定である。撮影にあたり

  • 当て書きされたシナリオ

    考えてやったことをことごとくはずし、感じるままの方が結果が良い。表層の脳の性能の悪さに早々に気付いたのが幸いであった。人間も草木同様自然物ではあるが、巨大化した頭を使って考え過ぎ、おかげで同じ間違いを繰り返し暴走もする。鍵っ子だった私は、頭に浮かんだイメージはどこへいってしまうんだろう?と一人妄想し、よりによって中井英夫編纂の百科事典(ボデイビルの項には三島の貧弱な上半身が使われていた)を読み耽り、別巻の日本の美術の異様なほど迫真的な頂相彫刻を、飽きずに眺めていたことを思い出すと、私に当て書きされたシナリオは、あの時すでに用意されていたのだろう。ここ数年で、書き手の察しはおおよそついている。当て書きされたシナリオ

  • 撮影の準備

    陰影がないと艶も反射もなく質感描写もされない。元寇の甲冑には革が多用されていたらしいが、なかなかの製鉄技術も持っていた。なので甲冑に艶を与えた。陰影のあるとないとでは、同じ被写体でもそんなところが違う。こんなとき、被写体制作者と撮影者が同一だからいいようなものである。でなければ人形制作者は、艶を消せといったり出せといったりいい加減にしろ、なんてことになるだろう。急な寒さの中、食材を買いに行く。春菊が香りが薄くてさえない。肉で言えば鶏肉が一番好きなのだが、前からたまに気になっていた。妙に石油臭い。撮影の準備

  • ただ居合わせた人のように

    喉元に刀を向けられた人がいて、そこに出くわしたカメラを持った撮影者は安全が保証されており、写真なんて撮ってないで、なんで助けようとしないんだ、なんていわれないことが判っていたなら、近寄って、刀を向けた人物と向けられた人物の両方の表情を一画面に納めようと、普通はそうするだろう。宗時代の中国を元寇が荒らし回っており、間もなく日本にまで来襲しようという頃。無学祖元は後に来日し、元寇を迎え撃つ北条時宗に“煩悩にとらわれるな“とアドバイスを与えることになる。そんな場面は余計なことをせず、ただ居合わせた人のように撮りたい。ただ居合わせた人のように

  • 放っておく

    主役となる被写体は、私が創作した人物であるが、私の頭の中に在ったのは本当のこと。それを被写体にしている、という意味でいえばまことを写している、といえなくもない。しかし写真作品を人間を撮った実写と間違われたことで、まことを写す、という意味の“写真“に過剰に反応し、まことなんて妙なものに関わるなんてまっぴら、と長い年月あらがい続け紆余曲折。その結果、今の私がある。人間も草木同様自然物、肝心なことはあらかじめ備わっているはず、と考えて来た。禅宗をモチーフに至ったのは偶然のはずだが、そうではないようにも思える。考えるとロクなことがなかったからこうなった。放っておこう。放っておく

  • 少々反省

    夜の夢こそまことの江戸川乱歩チルドレンである私は、ホントのことなどどうでも良い、と空や海、地面から木々や壁など撮影してはデータを保存し、いずれ足腰立たなくなっても部屋から一歩も出ずに制作を続けられるよう本気で考えていた時期がある。そしてコロナ禍の間、中国の深山風景も手に乗る石ころで制作したが、昨年、突然の神経痛に、3週間ほとんど天井見ながら暮らした。食材は全てアマゾン。とはいえ玄関まで取りに行くのも一苦労であった。さらに冠動脈手術を経験したが、どこかの王様に石の塔に幽閉され、眉間にレンズを当てる念写が理想なんていってたのがアダとなったか。ちょっとだけ反省している。少々反省

  • 撮影のこと

    写真を始めたのは、個展会場に人形を並べただけでは、私にはこの人物はこう見え、こんなつもりで作った、というところまで届かない気がしたからである。それに普段、裸電球i1灯の下で、常に見上げながら作っていたが、スタジオなどで撮影されると、見下ろして撮られることが多かった。人間をそんなに見下ろさないだろう。久しぶりに陰影を与えると、作ったデイテールを強調できるから、やはり面白くはある。陰影がないと長焦点レンズ的構図をえらびがちで緊迫感に欠ける。宗の時代の寺で、坐禅中の僧が喉元に刀を突きつけられている場面に出くわし、デジカメを手にしていたなら。異世界から現れた私は、連中には見えていないし、撮影中一つのポーズのままじっとしている。撮影のこと

  • 三つ子の魂百まで

    もっとも時間をかけるのは頭部で、それが出来れば出来たも同然である。首から下は一気に作る。作り始めた頃から変わらない。そしていいたいこと以上のことはやらない。過去の日本の肖像彫刻、絵画を見ると、頭部は克明に表現されているが着衣の部分は形式的である。私と一緒とはいわないが、肝心なのはその表情であることは違いはない。リアルであれば良いわけではなく〝やりたいこと以外しない“AIの時代、かえってそれで良いんじゃないか?などと友人に語っているが、なんのことはない。それは小学生時代を通じ、コピーアンドペーストの如く、通信簿に書かれ続けたセリフである。〝好きなことだと休み時間でもやっています“〝掃除の時間、何をして良いか判らずフラフラしています“さすがに今はフラフラなどしないが〝掃除の時間何をして良いか判らず“は相変わら...三つ子の魂百まで

  • 臨剣の頌

    午後、マイナンバーカードを受け取りに行き、ついでに昨年期限切れとなった住基カードを返納する。帰宅後、陰影を与えて再撮影することにした蒙古兵の色の補修。宗の時代、寺に押し入って来た蒙古兵に、後の円覚寺開山、無学祖元は、刀を突きつけられるが、全く動ぜず漢詩”臨剣の頌“を詠み、感服した蒙古兵は退散する。陰影のない前作では、どうしても日本画調構図になってしまったが、名場面に思えるわりに誰も手をつけた気配がないこの場面。心機一転、戦場カメラマンの如くに?ものにしたい。何がどうということはないが妙に疲れている。早めに寝ることにする。臨剣の頌

  • 母最後のメッセージ

    昨年暮れからの一連の出来事で、死に対する恐怖が大分薄れた気がするのは昨日書いた通りだが、そうなった理由の一つに、痛いも苦しいもなく逝った母の死に顔がある。12月27日早朝まだ暗い中病院に駆けつけた時はまだ温かかった。正月に入ることと、火葬場が混んでいたこともあり、すぐに斎場の冷蔵室に入ったが、そのため、火葬の日は10日以上経っているのに母は全くそのままだった。元々シワが少ない方だったが、深いシワがなくツルツル艶やかで、あまり間近でしげしげと眺めるものだから、横で妹が呆れていたが、あれは死ぬなんて大したことないわよ、という母からの最後のメッセージだったと理解している。母最後のメッセージ

  • 母の予見

    死の床で、あれも作りたかったこれも作るべきだった、と身を捩って苦しむに決まっている、と長年恐れ続けたが、その原因が小四で読んだ大人向け『一休禅師』の“門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“だと気付いたのは、昨年、その竹竿にシャレコウベ掲げた一休を制作している時だった。長期の予定は立てず3体まで、などの策を講じていたが、皮肉にもその一休にたまたま陰影を与えたことにより、新たな試みを始めてしまった。その途端、母が亡くなり2度の冠動脈の手術を経て、昨日退院した。結果明らかに死に対する恐怖が薄れており、こうなったら、創作による快楽により、ヨダレ垂らしながら死んでやる、と変化した。本屋の店先で一休禅師を「読んだってわかる訳ない」と反対したことを覚えていた母の母性は、こんな私を全て予見していた。恐るべし...母の予見

  • 退院

    昨日手術を終え、病室に戻ると腰痛を発症。ベッドの柔らかさが合わなかった。痛み止めをもらい貼り薬を貼ってもらった。朝、これは厄介なことになった、と再び貼り薬をもらいながら、ベッドが高さ調整できるのを知ったのは退院20分前。ところが10分ほど寝ただけで腰痛消える。昨年、突然の神経痛で3週間天井見たまま苦しんだ時も、治療らしい治療をせずに突然痛みが消えた。ベッドを起こしてかえって痛める人もいるらしいが、長年の腰痛の打開策を得たかもしれない。1時間もの手術を2回もしていただいた先生には申し訳ないが、心臓は元々自覚症状がなかったし、これで長年の腰痛が改善されるとしたら画期的な出来事である。退院の準備をしながら頭の中は次回作。少々スマートさに欠けるが、解き放たれた野良犬の如き気分であった。退院

  • 無事手術終わる

    昨年末、初めての入院が決まってすぐに母が亡くなるとは思わなかった。東映のヤクザ映画を見ると何次郎だ何三郎だ、と長男は郷で真面目に親の面倒を見ていると思しい。長男の私は小学生の時、少年兵の本を読んでいて、その年齢を指折り数え、本を閉じるや椅子を蹴立て、昭和二年生まれの父の前で「何で戦争行かなかったんだよ!」町内の子供同士の喧嘩と区別がついていない。幸いなことに、こんなボンクラなバカ息子は私にはいない。ここ数年、ウソをついてでも出来るだけ母が笑って生きられるよう努めてきた。ボケたどさくさに感謝も伝えられた。そして2回の入院の間に墓じまいも終え、明日の午前中退院である。もう何をどうしでかそうと、といってもせいぜい可愛らしいお人形を作る程度のことであるが、どう転んだってもう親不孝のしようがない。無事手術終わる

  • 入院(2度目)

    無学祖元の陰影有バージョンが、本日入院時間が迫る中完成し、昨日のブログに追加した。陰影がないとフラットな無背景でもスーパーのチラシ調にはならない、といって来たが、陰影があっても、黄金の龍だ青い鳩だ白鹿だ、と神の使いに囲まれているような人物は、そもそもスーパーのチラシ調になりようがない。カテーテルによる検査入院を含めると3度目なので、特にどうということもない。といいながら、無学祖元を入院に間に合わせたのは、一応ここには至った。ということにしておきたい。前回の入院では隣のイビキに悩まされたので耳栓を持って来たが、今回は大部屋に一人であった。妄想が次々浮かんでしまうが、先日の養老孟司の話ではないが、ここまで来ると、何かを作るために、何を作らないでおくか、が大事になって来るのだろう。入院(2度目)

  • 改作

    完成していた作品を再撮影して陰影を与えている。鎌倉は円覚寺の開山、無学祖元は、袖から龍が顔を出し、膝の上には青い鳩。言い伝えられた場面を制作したものだったが、山号の瑞鹿山の元となった白鹿も作った物を配してみたが、例によって私の“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ“な部分が出た、と思わないでもないので、別作品で、動物園の鹿を使う予定なので、それによっては白鹿は外すかもしれない。龍や鳩、あるいは鹿も、おそらく神の使いであろうから、陰影があろうとなかろうと良い。改良版は龍の髭を残し完成。明日は再び入院なので、余った野菜など鍋にしたが、今時の春菊は香りが薄くて食べてる気がしない。陰影有バージョン完成改作

  • 成熟に達しない悪い癖

    昔、解剖学者養老孟司の“人間は頭に浮かんだものを作るように出来ている“という一文を目にし、人間はそのように出来ているのか。であれば私には落度は何もない。と当ブログでもことあるごとに引用してきた。ところが最近のインタビューで「一番怖いのは、人間には『できることをやってしまう』という、悪い癖があることです。『できることをやらない』という成熟に達することが、本当に難しい」。そういえばイチローが三振するのが難しいといっていたが。それにしたってこの期に及んで一番怖い、成熟に達しない悪い癖の持ち主といわれても。いや元々そう思っていたのに、そうじゃないんだ、人間はそういうもんなんだよ、と優しく肩に手を置かれたつもりになっていた私が悪いのであろう。成熟に達しない悪い癖

  • 笑う男

    ドーパミンだかなんだか、痺れるような快感物質を溢れさせるのは、夜、こんなことをしているのは地球上で私だけだろう、と頭から取り出し可視化したものを眺める時である。この物質は小学校低学年で、始業のチャイムが鳴っているのに図書室から出て来ず騒ぎを起こした時も間違いなく溢れていた。この物質を溢れさせるには諸条件を伴う。地球上で私だけなのは需要がないからだ、なんてことがよぎるようではまず無理だし、カラの米櫃の底を、怖い顔して突きつけるような存在が身近にいるようではさらに無理である。しかしそんなことをものともせず、あの物質に身も心も浸るためアメリカに渡り、どんな過酷な状況でも笑っている男。まもなくあの快楽に酔う笑顔が連日見られることだろう。笑う男

  • いずれ北斎再開も

    立体像を作るということは、陰影を作り出すことに他ならないが、それを自ら排除するのは葛藤があった。葛飾北斎が画室にて、障子に写る影と、はみ出した足から、どうやら『蛸と海女』用に裸の女をデッサンしているようである。襷がけをして何かを覗き込むように絵を描く北斎は作ってあるのだが、以前、つげ義春トリビュート展用に『ゲンセンカンの女』で半裸の女に行灯の灯りによる陰影を与えたい欲望と闘った経験があったので辞めてしまった。しかし陰影表現の復活により、この北斎をもって私のモットー〝感心されるくらいなら呆れられた方がマシ“な北斎を完成させることになるだろう。北斎は一説によると180センチくらいあったという。同じ〝世界の“黒澤明と風貌が似ていると思いながら作った。いずれ北斎再開も

  • 大覚禅師とビャクシンの樹(陰影有バージョン)

    建長寺の開山、大覚禅師(蘭渓道隆)が自ら手植えしたという中国原産のビャクシンの樹は現在境内で巨樹となっている。その前で、この七百数十年の年月を想う大覚禅師。一度完成しているが、新に陰影(立体感)を与えてみた。二時に古石場文化センターで油井昌由樹さんの講座『黒澤明七人の侍公開70年』。油井さん制作のドキュメンタリーを上映後、79年に『影武者』のオーデションで家康役を得てからの貴重な話。始めてお会いしたのは、高一の時、油井さんのアウトドアショップにバンダナを買いに行った。その後油井さん司会の美術番組に出ることになり、コールマンの部品を撮ったUFO写真を見せられた話をしようと思ったら家康になってしまって榎本了壱さんに交代。アシスタントのマリアンは可愛く、音声がサラリーマン時代の吾妻光良さんで、仕事中ゆえサイン貰...大覚禅師とビャクシンの樹(陰影有バージョン)

  • 墓じまい

    昨日、神楽坂の牛込城跡に建つ親戚の寺で墓じまいを行った。永井荷風も訪れたことが日記に書かれている。私の最古の絵は叔母が取っておいていてくれた〝お墓“である。このタイミングでやらずとも、と思ったが、母の意向もあったし、一度納骨して合祀の墓に移すとなると、一手間増えることもあり、四十九日に合わせて行うことにした。制作途中の法然上人の首を持って行き、住職の〝南無阿弥陀仏“を聴かせた。唯一の気がかりだった母が亡くなり、親不孝のしようがなくなったことにより、幼い頃夢見た、どこかの王様に石の塔に幽閉され〝算数や宿題なんてつまらないものは一切しなくて良いから、ここで一生好きなことだけやっておれ“状態に限りなく近いこととなった。墓じまい

  • 完成

    昨年12月27日に母が亡くなり、2週間後に私が冠動脈の手術で、何かと慌ただしかったが、こんな時に、よりによって新たなことを始めてしまったが、作ってさえいればなんとかなる。母の四十九日までには、と思っていたが間に合った。宗時代の中国。日本からの留学僧により日本にはまだ本格的な禅が根付いていないことを知り、日本に渡ることになる蘭渓道隆。後に建長寺の開山となる。その遠くを見る目の先にあるのは、これから訪れる日本なのか?或いは真理の道なのか?そのつもりはなくても、この間の私の様々な思いが反映していてもおかしくはない。完成

  • 毒を食らわば皿まで

    途中挫折の可能性を低めるために、長期の予定を立てず3体まで、というのはグッドアイデアだったが、新しいことを始めてしまえば、そんな悠長なことはいってられない。平面的な、陰影(立体感)を与えられたことがない人達を手掛けたい。今の所、松尾芭蕉、葛飾北斎、一休宗純、大覚禅師、無学祖元であるが。浄土宗の法然上人を完成させ、資料として迫真の頂相が残されている臨済宗にこだわらなければ、私が作る踊る一遍上人も見てみたい。一休が尊敬し、二十年間、乞食の中で修行したという大燈国司も、白隠禅師描く乞食大燈像とは違うリアルなアプローチを試みたい。ここに至れば、多少の毒を食っても回る前にくたばるだろうから、健康より食いたいものを食うべきである。毒もものともしない最強の年頃といえなくもない。それを友人にいったら、お前が身体にいいもの...毒を食らわば皿まで

  • 鎌倉時代にカメラ

    山頂より遠くを眺める大覚禅師、細部の修正を残し完成。写真にあらがい続けた私の長い旅路は、個展会場で、ジャズ、ブルースをモチーフにした写真作品を、人間を撮影した実写に間違われた。そんなおっちょこちょいが一人いたことに始まる。腐るほどあるジャズ写真風な物を、わざわざ人形作って制作するなんてまっぴらである。長い旅路の果ての答えが、陰影を排した手法のはずだった。予定通り寒山拾得など説話中の人物制作に進んでいれば。それが鎌倉や室町時代の人物を手がけてみると、腐るほどある当時の肖像画風な物を、わざわざ人形作って制作している人になってしまった。気がついたのが死の床でなかったのが何よりである。さすがに鎌倉時代にカメラあったんですか?なんておっちょこちょいは現れまい。鎌倉時代にカメラ

  • 肌艶と陽光

    陰影がない世界では、艶や輝きも存在しない。川瀬巴水など新版画の作家達は、陰影のない浮世絵と陰影のある西洋画法の盾と矛を上手に使い分けている。その間で水の反射、輝きを表現している。石塚式ピクトリアリズムは絵画調ではあるが、あくまでカメラで撮影された写真なので特に水の表現には限界があった。艶といえば、数年ぶりに大覚禅師の肌を磨いて肌艶を加え撮影。曇天だろうと電灯の灯りだろうと色温度などかまわないが、本格的に〝現世“に帰って参りました、という気分で〝まことの陽光“を使いたい。岩山の先端に立つという設定で石を撮影。主役は画面の真ん中に、出来るだけ大きく配したくなるが、長辺150センチのプリントにする予定なので、背景の青空を広く見せたい。肌艶と陽光

  • 久しぶりに思い出した写真の欠点

    自分を焦らしているつもりはないが、大覚禅師の撮影を前に、次に再撮予定の無学祖元の色の塗り直しをやっておくことにした。無学祖元は大覚禅師の後に来日し、同じく鎌倉は円覚寺の開山となる。円覚寺の山号、瑞鹿山は、無学祖元の法話を聞こうと白鹿が集まって来たことから付けられた。前作では作った白鹿を使ったが、現世の光を与えるとなれば、上野動物園の鹿を撮りに行くつもりだが、鹿の角は3月ごろ、生え変わるために落ちてしまうことを急に思い出した。ここ数年行ったことも見たこともない中国の深山風景さえ作ってきたので、存在しない物は撮れないという、写真最大の欠点を久しぶりに思い出した。イメージのためならどんな奇手でも使う所存ではある。ドストエフスキーを作った時、意外と透けてまばらなアゴ髭は粘土では表現できない。ロシアの文豪のアゴに、...久しぶりに思い出した写真の欠点

  • 快感物質のこと

    田代まさしがドーパミンというのはセックスの時でも150から300だが覚醒剤だと1000ぐらい出てしまう、といっていた。私には自分を焦らして、創作上の快感を高めよう、という悪癖があるが、結果、集中力が高まるという実利的効果がある。まして昨年末まで、新たなことを始めるとは思わなかった。つまり臍下三寸、丹田辺りのもう一人の私に、性能が今一つの頭がついていけず、当ブログでああだこうだ駄文を晒し、擦り合わせついていこう、というのが正直なところである。件の快感物質については、よくこの状況で笑っていられる、と少々頭の足りない人を見るような顔をされるが、私からいわせると、よくアレなしで、あるいは150から300程度で、こんな現世で生きていけるものだ、と感心している。しかし亡き母に、そういうことは決して顔に出してはならない...快感物質のこと

  • 冥土の旅の一里塚

    たまたま昨日の誕生日に大覚禅師(蘭渓道隆)立像がほぼ完成した。先日亡くなった森永卓郎は、一学年下らしいが、死を覚悟し13冊も書いたそうである。私は一休禅師の〝門松は冥土の旅の一里塚〜“のせいで死の床であれもこれも作りたかった、と苦しむであろうことを恐れ続けた。そのおかげで作り残しを避けるため作り続けてきたし、さらに途中挫折を避けるため、先の予定は3体まで、という策を弄していたのに、その一休のせいで、これで終わるつもりでいた陰影を排除する手法から、鎌倉、室町時代の人物には、むしろ陰影を与えるべきだ、と新たなことを始めることになってしまった。やはり頭で考えたことは上手く行かない。そこで頼りは、幼い頃からお馴染みの快感物質である。大覚禅師に陰影を与える期待感で、どうでも良くなっている。冥土の旅の大きな一里塚とな...冥土の旅の一里塚

  • 人生上の皮肉或いは転石苔を生ぜず

    人生上の皮肉といえば大げさだが、写真やパソコンなど、かつて嫌いだったり、苦手だったりしたことばかりが、現在主要な手段となっている。そして何より、超が付く面倒くさがりが1カットのために時間を費やし、年々面倒な方向に突き進んでいる。手法により適合するスタイルというものがあるのだろう。陰影を排した手法は、構図の自由さは得られたが、どうしても長焦点レンズ的になり、古典的日本画調になった。それが一転、鎌倉、室町など、絵画上、陰影が与えられたことのない人物に陰影を与えようとなると、デジタルカメラを手に、私一人鎌倉時代に降り立ったような顔をして、あれだけあらがい続けて来た〝写真的“に撮りたくなってくる。これを人生上の皮肉といわず、ポジテイブな意味での転がる石に苔むさず、ということにしておく。人生上の皮肉或いは転石苔を生ぜず

  • 避けたい誤認制作

    写真発明以前の人物制作は参考写真を集めて始めれば良いが、それ以前の人物を手掛ける場合、元にする肖像画の、描写が肝心なのは当然だが、生前に製作された寿像、没後に製作された遺像があるとしたら、迷わず寿像を選択する。そして何より、これが実像に近い、と信じたなら、他の作品が、どんな巨匠の作だろうと、文化財だろうと一瞥もせず、師の姿を後世に残そうとした人達の想いをひたすら尊重する。各地方、各時代に制作された別人が如き像が存在する場合も多く、それぞれが拝されている。『ミステリと言う勿れ』の第一回で久能整が、かつて誤認逮捕をした刑事にいう〝真実は人の数だけあるが事実は一つ“まさにである。私なりにではあるが誤認制作?は避けたい。そしてその像に陰影(立体感)を与え、それを被写体に現世の光を与え撮影となる。昨年末より様々あり...避けたい誤認制作

  • パンツ一丁定期検診

    月一のクリニック定期検診。母もそうだったが、椅子に長時間座っていると、膝から下が浮腫む。そこで心臓の検査を、ということになった。いやこれはそうではなくて、と思ったが、紹介された病院に行って、冠動脈2本に不具合が見つかった。自覚症状がまったくなかったので運が良かった。このままでいたら岸部一徳得意の、心筋梗塞の発作をいずれ起こしていただろう。昨年末、タウン誌の連載に、私の死生観に影響を与えた一休禅師について書いたが、初の入院について触れたので、ホームの母に心配させても、と退院してから見せるつもりが知らずに逝った。区の定期検診で安心している連中に、それじゃ絶対見つからないぜ、と島帰りの悪党のようにアドバイスしているが、区の定期検診といえば、小学生のように、おじさんがパンツ一丁で並ばされる、とずっと思い込んでいた...パンツ一丁定期検診

  • 寝床の中で

    頂相は大体きょくろくという背もたれのある椅子に座っており、脱いだ中国風の沓が台の上に置いてあり、だいたい斜め45度を向いている。禅宗でも黄檗宗の隠元禅師などは真正面を向いている。その辺りの事情が知りたいところである。沓も今の寺で用いられる沓とは趣が違うようだが、絵画として描かれているので参考になる。陰影を排除した手法を始めたことは、結果的に、寒山拾得を入り口として、信仰心に欠ける私を鎌倉や室町時代の高僧制作に誘導することになった。作家シリーズから、このモチーフへの移行は、他にどんなストーリーも考えられない。水木しげるの漫画で、奇妙なものに出会った少年が、今のはなんだったんだろう?などと、うっそうと描き込まれた山道をぶつぶついいながら歩いてる、そんな場面がたまらなく好きだが、今朝の私は寝床の中でそんな感じで...寝床の中で

  • 法衣の色

    法衣の色というのは色々決まりがあるようで、つい無難な色にしてしまう。しかし昔の頂相(禅宗の高僧の肖像画)を見ると、なかなか色彩に富んでいる。二十代の頃、深夜、ジャズのラジオ番組を聴きながら、架空のジャズマンに色を塗っていた。ちょうどその時、モダンジャズギターの開祖、チャーリー・クリスチャンが、飛行機から降りたった時の服装を説明していたが、モノクロ写真しか存在していない時代の人物ゆえチンドン屋か?と唖然として筆が止まった。私が作っているのが架空の人物だというのに、こんなことで良いのか?以来(多少)カラフルになった。制作中の昨年末に母が亡くなり、その二週間後に冠動脈の手術を受けた。まして実質的に新シリーズの一作目である。大覚禅師の遠くを見る目に、あるいは法衣の色に多少でも、私の何らかの想いが反映されていても良...法衣の色

  • 不器用で一日

    親に似る、ということがあるなら親に似ない、ということもあるだろう。工学部出て脱サラするまで錨’の設計をしていた父は日曜大工が趣味でノコギリからカンナ、砥石の使い方、パンダ付けなど子供の頃に教わったが、ことごとく下手くそであった。こんなことをしていると器用だと思われるが、そんなことは全くない。頭に浮かんだ物を見てみたいの一念のみで、その方法は、合理的とはいえない。執念の分、作品に何某か趣が加わっているのではないか、と期待してはいるけれど、実情はその分膨大な時間を費やす結果となっている。今日はある作業を試み、ただイライラして断念。腹立たしいので何を試みたかは書かない。不器用で一日

  • 躊躇した事

    幼稚園での記憶。お絵描きの時間。クレヨンを手にしながら、あるいは工作をしながら、自分の中に何かが起きている感覚があった。今思うとある種の快感物質が出ていたのだろう。幼い子供が口を開けたまま東の空でも眺めていたら危険である。お隣のおばちゃんに「ボク、口を開けてると埃が入るわよ。」とよくいわれた。母はさすがに異変を感じていた。自分と何かを比較して考えるという、おそらく社会人として生きるために用意されている、そんな部分が欠如していた。おかげで思い付いたら躊躇せず作る。唯一躊躇といえば、陰影を排除した時。良かれと思って作った陰影である。何事もそうだが、何かを得るためには何かを捨てなければならない。この理屈は理解していた。引き換えに構図の自由を得た。そしてまた再び陰影を与えようとしている。躊躇した事

  • 先端に立つ

    なんとか一月中に大覚禅師の仕上げが終わる。後は着彩すれば坐禅姿に次いで立像の完成となる。いかにも中国的な尖った岩山の山頂に立たせるのだが、私は何かの先端に立たせたくなる。孤高の存在的なイメージか。村山槐多も槐多作『尿する僧』(いばりする僧)にちなみ背後から注射器で立ちションをさせた。まだアナログな時代であった。発泡スチロールの岩に、足元に生えた草を貼り付けた。〝青春王子“村山槐多像とした。近作でいえば帆柱の先端で刀印を結ぶ半僧坊。先端ではないが、オウム貝に乗って空を飛ぶ澁澤龍彦も作った。今後陰影(立体感)を与えて見たい人は色々いる。先端に立つ

  • 慌てると得る物が少ない?

    自分にそのつもりがなくても、自分を焦らして創作の快感をさらに高めよう、という悪癖が出ているのか、仕上げが予定より遅れている。背景を先に用意して主役をその状況に合わせて最後に合成する手法は、隔月で交通局のフリーペーパーの表紙を担当していた時の苦肉の策で、写らないところは作らないで、ようやく入稿に間に合う、と会う有様であったが、被写体制作者と撮影者が同一という二刀流ならではあったが、今回は被写体も展示用に作っているので、あの頃より時間がかかるのは当然である。そういえば、心臓に対し自覚症状が全くなかった私に、手術を担当した先生が、私がセカセカ忙しい人間であったら症状が出てたかもしれませんよ。と笑っていた。昔は慌てるコ○キはもらいが少ないといったものである。慌てると得る物が少ない?

  • 一日

    昨日は念の為風邪薬を飲んでギターを弾いたりダラダラ過ごしたが、風邪引いたり、酒ぐらい飲まないと一日中作ってしまうことになる。その調子で長年やってこの程度か、と思わなくもないが、考えるな感じろでやっているうちに、私の頭で考える程度のことは、ずいぶん前から超えているので、良しとしている。それにしても、そうなるまでが、あまりにも長かった。好きでやってるから良いようなものの。しかし肝心なのは頭で考えることを、ヘソ下は三寸、丹田辺りのもう一人の私が超えてからである。降って来たものをひたすら拾わなければならない。しかし個展会場では、制作意図を後付けし、熟考の末作りました。という顔をしている。一日

  • After Hours

    最初のジャズ、ブルースシリーズでの実在したミュージシャン、次の作家シリーズ、共に被写体は写真を参考に作ったが、すなわち、光と影を与えられたことのある人物ということになる。そして陰翳を排する手法をとるようになり、経緯はともかく、気が付いたら写真どころか陰翳を与えられたことのない時代の人物を手掛けるようになり、立体を造形し被写体とする私は、むしろ陰翳を与えるべきだろうということに。今日は暖かくして休むことにした。PeeWeeCraytonのBluesAfterHoursのギター練習。私には作品の完成を前に自分をじらし、より快感を高めよう、という悪癖があるが、今日は少々疲れが出たようである。AfterHours

  • 作者の想いと共に山頂へ

    この調子でいけば明日の夜には着彩に入れるぐらいにりそうである。昨年暮れに、ようやく至った手法と思っていたものが、あっけなく崩れてしまった。といっても、やめる訳ではなく、都合により使い分けることにしたけれど。新作は背景に青空を使う。それまでの陰影を排除した手法では、青空どころか、実際の空を使うことも一切なかった。そして山頂に立ち、遠くを見つめる大覚禅師。立像にしようと思った時に、すぐにこの画が浮かんだのだが、その後に手法の件や個人的な様々が起きた。大覚禅師には作者のそれらを踏まえ、背負って山頂に立ってもらうことにしたい。その視線の先は、これから禅を伝えるために向かう日本なのか真理なのか。シリーズ第一作の一休禅師はたまたま出来たものだが、大覚禅師が実質的な新シリーズ第1作ということになるだろう。作者の想いと共に山頂へ

  • 寒い一日

    昨年の暮れ27日に母が亡くなり、私も冠動脈の手術などでずっと落ち着かなかったが、新作の大覚禅師(蘭渓道隆)立像の仕上げも進み、今日は落ち着いて一日過ごした。のんびり仕上げをしながらカレイの煮付けを作る。いつもならアクも味のうちとばかりに適当にやるところだが丁寧に取り、一度冷まして味を染ませる。寒くもあり、昼から燗酒。昨年スマホで撮影した母の映像や、ノートに書かれた何気ない書きつけなど未だ見る気にはなれないでいる。春ごろだったか、どさくさに紛れて母に感謝を伝えたことがある。多少呆け気味だからいえたことで、そうでなければ照れ臭くていえない。「感謝してるんだ。」母は笑っていた。寒い一日

  • 皮肉な結論?

    ジャズ、ブルースシリーズの最初の個展で、被写体が目の前に置いてあるのに人間を撮った実写と間違った編集者。そんなおっちょこちょいは一人であったけれど、わざわざ人形作って、既存のジャズ写真風なものを制作する人に見えてしまったというショックは忘れられず、その後長い年月を、まことを写すという写真というものにあらがい続けることになった。それに対する私が至った結論が、写真から陰影を排する〝石塚式ピクトリアリズム“だったが、実はそれは〝わざわざ人形作って、ジャズ写真どころでないほど描かれ続けた日本絵画風なものを制作する人“になっていたのではないか?それに昨年暮れに気付いて鎌倉、室町時代の人物を陰影与えて撮影することにした。それは、私があらがい続けて来た写真的であるほど効果的だろう。これはなんとも皮肉な結論といわざるを得...皮肉な結論?

  • 脳内麻薬

    母が亡くなり冠動脈の手術があろうと、制作中の作品の完成に対する期待感のおかげで平静を保ち笑っていられる。それは幼い頃からお馴染みのモルヒネ成分に似た脳内麻薬のせいだろう。勘違いしていたことがある。私の気の合う友人、何か作っている連中も、私同様、あの物質が脳内に生成されていると思い込んでいた。それが、結婚をして子供を作ったり、株式会社を立ち上げたり、あの物質が脳内に生成されている人間とは思えない奇妙な行動を取るようになる。そうこうして連中にはあの物質が生成されていない?と気付くが、だとしたらあまりにも可哀想で、とても確認することが出来ずに今に至っている。まあ人の幸せは人それなので、ここだけの話にしておくけれど。脳内麻薬

  • 一日

    蘭渓道隆仕上げ進める。午後、カテーテル手術をした病院に行き、特に変化がないことを報告。2回目の手術は、母の四十九日過ぎてからに決まる。年末から一挙にドタバタと様々なことが重なった。それでもまだ、作りたいものが完成まじかで目の前に立っているから良いようなものである。それにより身のうちに麻薬成分を熟成する術があるおかげで平穏を保ち、さらに笑っていられるのは何よりである。昔、刑務所内でこんなことをやっていられるなら、娑婆にいる時と変わらない物作って出所してやる、なんていったものである。いいたいことは判らないでもないが、他にもっと気の利いた例えはなかったのか?一日

  • 大覚禅師立像制作佳境

    今週中にも仕上げを終え、着彩に入れるかもしれない。後は禅師が立つ岩と本人を撮影し、背景に配せば完成である。私がもっとも多用し、様々な条件に対処するため苦肉の策で始めた、私にとっての大リーグボール2号である。背景を先に用意し、それに合わせて主役を撮影するのだが、角部屋の2方向の窓と、室内の乱反射する光により後で人物を撮る。現在の所に引っ越した時は、すでに陰影を排した大リーグボール3号に移行しており、陰影とはもう縁がない、と思い込んでいたが、つい2方向から光の角部屋を選んでいた。乱反射の件は、私が住めば自動的に室内に乱反射が生まれる。今回は青空を背景にするが、陰影のない3号は、反射する物、特に天敵は水の表現であり、結局解決不可の事案であったが、2号と3号を使い分けるとなれば、話が違って来るだろう。大覚禅師立像制作佳境

  • 矛と盾の使い分け

    『巨人の星』を観ていた小学生時代、一人に打たれたからって、大リーグボールを使い分ければ良いのに。と思った私は、背景と人物を別々に撮り、光を合わせて合成する私の大リーグボール2号と、陰影を排する3号を使い分けることにした。本来、矛盾を受け入れず、一度決めたなら、その日から生まれ変わるべきだ、と融通の効かない私であったが、この歳にして、ようやく矛と盾を使い分けよう、という心境になった。2号、3号ともに、それでなければ、どうしても成せないものがある。しかし2号と3号を使い分け、より多くの創作上の快楽を貪ろう、というのが本当のところだろう。何をおいてもそれを第一に優先して来た人間の性根が、そう変わるはずがない。蘭渓道隆立像、明日より仕上げに入る。矛と盾の使い分け

  • 一日

    蘭渓道隆を台から切り離し、禅僧の履く靴をおおよそ作って乾けば仕上げに入る。法然の頭部おおよそ完成する。耳毛まで描いてしまう臨済宗の頂相に比べると、想像を加える余地がある分完成は早いが、もう少し粘りたい。明日ははるか雲の上にいる、という設定の善導大師の制作を開始したい。かなり小さく作るつもりである。子供の頃は、鉛筆、クレヨン、紙さえ与えておけば何時間でも大人しくしている、といわれていたが、今は粘土さえあれば、いくらでもやることがあり満足である。思えば私の満足は安上がりに出来ている。二十代の頃、粘土会社の社長に「石塚さんの使ってる粘土は小学生用ですよ?」といわれてちょっと高いのに変えたけれど。『情熱大陸』で冠動脈カテーテル手術を観た。一昨日こんなことされてたのか。一日

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