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  • 目が覚めると一休禅師

    一休禅師の長辺1.5メートルのプリントを鴨居から垂らしている。朝目が覚めギョッとするが。被写体が4、50センチほどの人物なので、それが人間大、あるいはそれ以上に拡大することにより別な世界が立ち現れる。サンディエゴ写真美術館の館長だったデボラ・クロチコさんに、写真作品というより大きくプリントした方が良い、といわれた時は理解出来なかったが。「私と同じようなアプローチをしている作家はいますか?」と聞くと、ちょっと考えて紙に書いてくれたのがシンディ・シャーマンだった。?つまり居ないということだな、と。実をいうと私には男性写真家は皆狩人のように見えて苦手意識がある。歳上の人シンディ・シャーマンはもっとも好きな写真家の一人であった。目が覚めると一休禅師

  • 一休和尚なかりせば

    雲水姿の一休和尚は笠を持っているが、そういえば欠けていたな、なおそう、と思って出してきたが、和尚が横目で細かいことは気にするな。」という。法衣を削っているうち粉にまみれた。チリ埃を積もるままに任せてみたが、こうなあると、あまり関係なくなって来た。見方によれば汗が乾いて塩を吹いたように見えなくもない。しかし設定は正月の京都である。すると再び「細かいことは気にするな。」この一休、作り初めたのはいつだったか、実はふげん社の個展時から顔が別人となっている。つまり何年も細かいことを気にしてきたので、もう笠が欠けていようが塩吹いていようがどうでも良い。思えば一休にたまたま陰影を与えて、鎌倉室町の陰影を与えられて来なかった人物にはむしろ陰影、立体感を、と一変したのも、一休なかりせば。一休和尚なかりせば

  • 抑え難い願望

    作家シリーズの江戸川乱歩のように、作品として今後も活躍してもらいたい人物が一休和尚だが、まずは小四の時に読んだ『一休禅師』のイメージの雲水姿である。瓢箪を肩にしているのは、3、4歳の頃、TV時代劇『紅孔雀』で八名信夫がこうやって酒をガブガブやっていたのを覚えていた。私の中には見る人を笑わせたい、という願望が押さえ難くあるが、ユーモラスな発想が好きな元禄の絵師に幇間でもあった英一蝶がいる。シャレが過ぎたか島流しにもなっている。一蝶に『一休和尚酔臥図』という和尚が往来で酔いつぶれている作品があり、ならば、と髑髏を竹竿に掲げて正月の京の街を歩くという嫌味なことをしたその晩に、酔いつぶれているところを以前制作した。長辺1、5メートルにする必要は感じないので今回は出品しないけれど。抑え難い願望

  • 40数年で6人

    建長寺の開山大覚禅師像を抱えて建長寺に行った時、三門を前に、30年は修行のため、山を降りないと禁則を立てていた慧遠法師が話に夢中になり、うっかり虎溪の石橋を越えてしまって我にかえって笑っている『虎溪三笑図』のような状態であった。もっとも私の場合は、笑うどころか満開の桜がまるでテイッシュペーパーに見えた。初めて坐禅をしたのが、その日の鎌倉禅研究会の椅子に座ってのことという有様である。そんな私を支えたのは、七百数十年前の開山の一枚の頂相に感銘を受けた、幼い頃からの人間への私の視点、感覚である。人物の肖像から、この種の感銘を受けたのは、40数年の間でチャーリー・パーカー、村山槐多、ヴァスラフ・ニジンスキー、九代目市川團十郎、一休宗純、蘭渓道隆の6人しかいない。40数年で6人

  • 活躍するのは一度だけ

    今までの個展ならば、まだデータをああだこうだやっているに違いないが、今回は一点を除いて約1メートル✖️1、5メートルのプリントなので、余裕を持って進行しなければならず、土俵際の粘りを発揮している訳にはいかない。もう何年も被写体の人形は、参考程度にしか展示していない。特に1カットのためだけに作る場合は写るところしか作らず、同じポーズを再使用することはないので、首だけ引っこ抜いて身体部分は処分してしまう。しかしホッペタ膨らませて己の分身を口から吐く鉄拐仙人では流用のしようがないし、コンビの蝦蟇仙人も、私がついカエルじみた顔に作ったので再登場の機会はやって来ることはないだろう。活躍するのは一度だけ

  • そろそろ解明を

    およそ医者というものは、患者が喜びそうなことばかりいうのはダメである。叱られながら昨日初めてヘモグロビンA1Cが5台に。他に思い当たることと言えば、不信心者のくせに、ここ2年、まるで面壁修行の如く七百数十年前の禅師を、坐骨神経痛で3週間ほとんど天井見て暮らした時も、その頭部を一時も離さず制作した効果かもしれない。個性的ではあるが一枚の痩せた禅師の肖像画に対し、何故こんなことになったのか首を傾げるばかりだが、師の教えそのものである、という前提で描かれた念を、内容も解さぬまま受信してしまった、としか考えられない。小学校の図書室で始業のチャイムにも読むのを辞められず騒ぎをおこすほど人物伝を読み耽り、またずっと人の形、様相に対する興味も変わらない。何故そうなのか、そろそろ解明したいところである。そろそろ解明を

  • 想像上の風景

    建長寺では一部の方々が、中国の大覚禅師の生誕地を訪れているようである。鎌倉時代、当時の最新の中国文化を日本に伝えたのは日本からの留学僧、あるいは来日した大覚禅師や仏光国師だったわけで、雪舟も絵画を学びに訪れたが、日本とは違う風景に「ほんとにこうなってたんだ。」とびっくりした画僧もいただろう。『蘭渓道隆天童山坐禅図』は縦2メートルにプリントした。天童山は栄西や明全、道元も修行した山だが、あくまで私の創作である。虎を見たことがなかった日本の絵師たちが描く虎は、どうしても身近な猫じみてしまうことなどを想う。想像上の風景

  • 達磨大師図

    達磨大師はインド人であるが、私の周囲の人達に聞くと、中国人だと思っている人がほとんどである。確かに数ある大師像はインド人には見えない。そこで昨年、その点を意識し、まとう衣も袈裟の原型説を聞いてサリー調にした。しかし達磨大師が登場する『慧可断臂図』があるし、制作後に陰影が描かれなかった時代の人物に陰影ないのは当たり前であり、立体制作者として、むしろ陰影を与え、立体感のある表現にすべきだと気が変わった。石塚式ピクトリアリズム、などと最終的な手法と考え7、8年続けて来たけれど。思いついたらすぐ変化するのは、新作が一番といい続けるためには絶対必要である。せっかくなので会場入口のウエルカムボードに使おう。長嶋茂雄が亡くなった。小学校の遠足で印旛沼方面に芋掘りに行った時、バスガイドがここが長嶋選手の実家ですといったの...達磨大師図

  • 自然に積もるチリホコリ

    子供の頃読んだ大人向け『一休禅師』の和尚は、とにかく汚い雲水姿というイメージが残っている。二十年間五条橋の辺りで物乞いの中で暮らした、という一休が尊敬した大燈国師の影響があるのかもしれない。また一休の出自に対する複雑な思いも影響しているかもしれない。それはともかく。その雲水姿の一休の汚れを、窓際の埃っぽいところに放置して、チリホコリの積もるままにして撮影した。乾燥中にホコリが着いているのを見て思いついたのだが、風狂僧一休禅師に、汚しの塗装というのもなんだかそぐわない気がした。当然触れば取れてしまう。上手く定着出来るかは判らないが、試しに艶消しラッカーを注文してみた。自然に積もるチリホコリ

  • 作り続けるしか策なし

    実在者は散々作って来た。説話上の仙人など自由に作れるし完成も早い。最後はこれで行くつもりでいたが、建長寺の開山蘭渓道隆の生前に描かれた唯一の肖像画(頂相)を見て気が変わってしまった。写真、肖像画を参考に長い間制作して来たが、この肖像の何が私をそうさせたのか、それを知るには作るしかない。臨済宗では頂相は、師の教えそのものとして弟子に託された。その思念が七百数十年後の、この不信心者に伝わってしまったのか。完成した像を携え建長寺の三門をくぐる時は、すっかり我に返っており、満開の桜が桜に見えず、まるでテイッシュペーパーのように見えた。しかしここ何年か、理由はともかく、私ほど毎日穴の開くほど禅師の頂相を見つめ続けた人間は建長寺にもそう居られないのではないか?何かしら頂相から受け取ったのは間違いがなく、それが何かを知...作り続けるしか策なし

  • リアル

    私が中学生の頃、メロトロンという鍵盤楽器があり、それは実際の、例えばバイオリンの音を録音したテープが、鍵盤を抑えることにより何秒間か流れる、というような仕組みだったと思うが、当時プログレバンドが多用していた。海外の演奏家協会みたいな連中が職が失われるということで訴えたかデモをした、とかの記事をロック雑誌で読んだ覚えがある。演奏技術はともかく音に関しては本物の楽器を録音したものであるから、仕事の機会を失うこともあったのかもしれない。現在のAI技術の発達は驚くべきものであり、リアルさにおいては私などとても足元にも及ばないが、勝手に実写と勘違いされることはあるが、外側の既存の成分は含まれておらず、あくまで組成は私の頭の中の世界である、とかたくなに粘土丸出しで良かった。と思う今日この頃である。リアル

  • 母のこと

    近所の大型スーパーに行って母の好物を見かけて、あっと思った直後に「そうだった。」と気付いて通り過ぎる。一緒に買い物にいき、嬉しそうに食品棚を見上げる母の横顔が忘れられず、ホームで撮ったスマホの動画は未だ観ることが出来ないでいる。昨年顔を見に行くと、建長寺の高井和尚様にご恵投いただいた『建長寺物語』を膝に車椅子で眠り込んでいる姿に、起こすことが出来ずにしばらく座って眺めたことを思い出す。私の手がけるモチーフは友人の間でさえ年々、馴染みのなさに遠目に目を細めて眺めているような有様であるが、ホームに持っていった蘭渓道隆(大覚禅師)の頭部の私の説明に、何も知りもしないのに知ったかぶりまでして興味深そうにしてくれる母であった。母のこと

  • ようやく答えが

    10年前に2000年から始めたHPがネット上から消えているので、数十年前の作品を引っ張り出してスマホで撮影し、インスタやフェイスブックでアップしている。寺山修司を三沢、泉鏡花を金沢まで持っていけば数十カットはものにして帰って来たが、そう考えると人形作ってものになったのははたった1カット、などということがしばしばある現在は、いわゆるコスパは最低である。(そんな場合、人形は写るところしか作らない)その代わり、画面の中には私のイメージしたものだけ。乱歩いうところの“現世(うつしよ)は夢夜の夢こそまこと“的にいえば、私のイメージこそまことにはなっていて、頭に浮かんだことは、どこへ消えていってしまうんだろう?と考えていた鍵っ子時代の私の悩みに、ようやく答えられている気がする。村山槐多ようやく答えが

  • 画竜点睛

    私でも画竜点睛ということで、人形制作の最後に目を入れるが、大伸ばしするようになり数ミリの手描きでは耐えられず、瞳はフォトショップで入れるようにしている。なので展示用にはあらためて目を描き入れることになる。乱視がひどく左右不均衡。メガネを作ろうにも補正しても効果がなく、長らく素通しメガネである。世の中が振動していたりロマンチックではあるけれど、おそらく脳内で補正して見えてる気になっているだけだろう。近いうちに眼科に行くことにする。万博会場に大量のユスリカが発生しているという。刺さないようだが気持ちの良いものではない。昭和30年代の夕暮れに「お前あの電柱の下でンーん、て低い声でいってみ?」とやったアレだろう。人呼んで忍法蚊柱の術。画竜点睛

  • 人生一度きり劇場

    午前中にふげん社より残りのプリントが届く。縁とは不思議なものである。ふげん社がふげん社でなかったらこのプリントはなかった。まだ築地にあった頃、個展の話をいただいてプリントを持って伺った。その中にギャラリーに断られながらようやく2011年に開いた三島由紀夫へのオマージュ展『男の死』の作品が数点。意外にもふげん社移転後に続編が決まった。三島はともかく死んでるだけの作品ですが、と私の勘違いではないかと後日確認に出向いたくらいだったが2022年に『没後50年・三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』となった。私が1日でも早くしなくては、とずっと恐れ続けてきた篠山紀信撮影の『otokonoshi』出版5ヶ月前だった。三島ではこのモチーフ以外やりたいことはない。ところがふげん社は寒山拾得の拾得が普賢菩薩の化身だということ...人生一度きり劇場

  • 欅の一枚板

    蘭渓道隆坐像は周囲が溶岩のような欅の一枚板に乗せるが、本来半憎坊用に入手したのであった。あらゆる災難に対処する半憎坊だが、特に火伏せで知られる。そこで書割りのような火焔に囲まれ印を結び呪文を唱える予定で少し大きめだったが、写真作品が想定よりカッコ良くなり過ぎ、被写体の出品を断念するという、良いんだか悪いんだかという事態に。そこで蘭渓道隆に変えてみたら少しも騒がず、むしろもっと大きくても、という感じである。無学祖元は元の兵隊に剣を向けられた『臨刃偈』(りんじんげ)あるいは『臨剣の頌』(りんけんのじゅ)と呼ばれる場面だが、こちらは当初製材された板を考えていたが、この名場面にも不定形な自然木を使いたくなってくる。欅の一枚板

  • 組成、成分の異なる肖像

    ある人物を制作したいと思うのは、人間性が当然大きいが、その面相が決め手となる。作家シリーズの頃は写真画像を集めて制作してきた。資料としての写真は、個々のカメラマンの趣向が反映されていたとしても写真である。しかし絵画しか残されていない場合、話が少々異なる。臨済宗では師の肖像画(頂相)を卒業証のように与え、それ自体を師の教えそのものとしてきた。そのため世界に数多ある肖像画、肖像写真とは組成や成分が異なる気がする。蘭渓道隆のたった一枚の肖像画で、私のような不信心者の晩年の方向性を変えてしまった可能性がある。蘭渓道隆の頂相に込められた念を七百数十年後の私が受信してしまったといえそうである。組成、成分の異なる肖像

  • 頂相が私に伝えること

    大燈国師という京都大徳寺を開いた人物がいた。悟りを開いたと師から認められた後になお師の教えを守り、東山に隠れ住み夜は修行僧を指導し、昼は五条の橋の下で物乞い病人と共に二十年間修行したという。大燈国師の視線が横目でそっぽを向いた肖像画を見て、そんな表情は一休宗純以外に見たことがない。それが興味を持った最初である。そして知ったのが、一休は国師の没後五十六年後の生まれだが大尊敬した人物であった。横目は一休が真似たものだろう。当時の五条橋は現存していないが、ロケ場所はすでに目星は着けてある。またいったい何を作ろうとしている?といわれそうだが、昨日のブログで書いたが、鈴木大拙が”禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教である“といっている。一休宗純、蘭渓道隆、大燈国師の頂相が私にそう伝えてい...頂相が私に伝えること

  • 振り返らぬカレーライス

    鈴木大拙は『禅と日本文化』で、禅は道徳的および哲学的二つの方面から武士を支援した、と禅と武士道の精神的結びつきについて語っている。“道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別に取り扱うからである“そう思うと一般的武士のイメージは禅の影響を受けて以降のものという気がする。月に一、ニ度入る蕎麦屋へ。蕎麦湯割りとカレーライスを注文。2品頼んでこの有様だが、目的は昭和30年代的絶滅種カレーライスである。小麦粉を煎りつけるのがなにはともあれ、と進路を決定した以上は、振り返らぬことを親方に教わったという趣。毎回今日は違うものを、と思って入るのだが、口をついて出るのが「蕎麦湯割りとカレーライス。」抗い難し。振り返らぬカレーライス

  • 木場のTや

    昨晩は、飯沢耕太郎さんの文化センターでの講座の後Tやに寄った。店に入るのは何年ぶりか。母親のお米と共に牡丹灯籠のお露をやってもらった三女Aちゃんが私が昨年入院手術した病院の栄養管理をしていたと思ったら結婚したという。小学生の時から知っている。母親と長女には『貝の穴に河童の居る事』に出てもらったし、屋上で母親にひしゃくで水をかけてもらって『潮騒』の初枝をやってもらった。彼女は三人めの子度が産まれるそうである。軍医総監姿の森鴎外を作った時は、肩の飾緒の三つ編みなど不器用な私にはできないので朝定食の時間に、娘3人いるから、とあっという間にやってもらい、ついでにサーベル用に使い古しの菜箸をもらって帰った。相変わらず帰ろうという気配にオヤジに注がれ帰宅は朝4時だったが、4時間で目が覚めてしまう。どこから読み始めるか...木場のTや

  • 日本への写真渡来〜幕末・明治の初期写真

    飯沢耕太郎さんの講座第1回(古石場文化センター)何故日本は本来光画と訳すべきところを写真としたのか。写真という言葉を選んだことで写真は写真だ、と日本人はなったのではないか。そう思うと会場にいる石塚公昭さんは珍しい、といっていただいたが、写真を始めた最初から、まことを写すという用語に居心地の悪さを感じ、まことなど写してなるか、とあらがい続けてきた。光画だったらどうだったのか。日本人が写真は写真であるとなったのが、その言葉のせいだったとしたなら、私がこうなったのも、やはりその言葉のせいだったろう。野島康三を見てオイルプリントの実験を始めたのが91年ごろである。絵画主義写真(ピクトリアリズム)に関して知るには飯沢さんの『芸術写真とその時代』しかなく貪るように読んだ。寒山拾得日本への写真渡来〜幕末・明治の初期写真

  • 母と聖路加病院

    この作品の頃は国定忠治の刀のように人形を捧げ持ち、カメラを額に当てて撮影する『名月赤城山撮法』で撮り歩いた。どこに持って行っても絵になるのは荷風と寺山である。背景は聖路加病院。昨年暮れに亡くなった母はここで産まれ、撮影している私の背中側の明石小学校に通った。戦中米軍は聖路加病院を爆撃しないとビラを撒いたそうだが、町内の蕎麦屋だったかに一発だけ不発弾が落ちたと母に聞いた気がする。大空襲の後、永代橋を越えて江東区側に姉と行ってみたそうだが、惨憺たる有様で、私がその辺りに越した時に、未だにあまり来たくないといっていた。疎開したのは終戦戦後で、美人三姉妹(本人談)のため進駐軍を恐れてのことだったという。母を含め、うず高い死体の山を見た人達は、何があってもあれ以上のことはない、という思いで戦後を生き抜いたのだろう。母と聖路加病院

  • ないものはでてこず

    人物にしか興味がないので、仏像作る気は全くない。仏像は祈る人の思いを受け入れる容量のようなものが必要だろう。どうすればそんな物が作れるのか想像もつかない。幼い頃からリアルな物が好きで、子供向けの挿絵は『星の王子さま』を別にして受付けなかった。作る側に回ると、必要としたところが表現されていれば、あとは触れない。ここをもっとこうすればよりリアルに、とアドバイスされても、興味がない部分は必要を感じないのでやらない。結果的に私の重要視していることがより強調される気がする。結局自分の中に在るものしか出てこないし、無いものはいくら逆立ちしても出てこない。借り物はお天道様にすぐバレる。ニジンスキー牧神の午後ないものはでてこず

  • 『慧可断臂図』

    グーグル翻訳でメール用文章を英訳するが、私が大覚禅師を作って〜と入れるのだが、文章に難があるのか、どうしても寺が作った物と譲らず、そんな人物作る一般人がいる訳ない、といわんばかりに上手くいかない。仕方なくはしょる。これは私が全部作った、といいたがりの私であるが、それがうまく伝わらないまま終えるのかと思われたが陰影を排除したり、挙句は鎌倉時代の人物である。ここに至ればもう、単純にわかりやすく作り物である。なぜこんなモチーフを?という疑問は相変わらずだろうけれど。『慧可断臂図』達磨太子に弟子入りを願い出たが、相手にされない慧可は己の左腕を切り落とし覚悟を示す。達磨太子が背を向けたままの雪舟作と違って振り向かせた。作りたいという私の念が通じ、見る人が呆れて微笑んでくれれば何よりである。『慧可断臂図』

  • メーカーと製品と製造中止

    モノクローム作品は、コダックのエクタルアという印画紙が製造中止になってやめた。写真は製品に依存しているので、古典技法を始めた頃は、紙にゼラチン塗ったり自分で作るので、これでもう怖いものはない、と思ったが薬品もメーカーが作っているのであった。昔、小学校の図工の先生のところに遊びに行くと、最近こんな粘土が出たと教わり、合間に好きなブルースやジャズの架空のミュージシャンを作るようになり、それが始まりだった。85年に今はないプランタン銀座で粘土メーカー主催の『第一回人形達展』に招待作家として出品したが、社長が「石塚さん使ってる粘土小学生用ですよ?」慌てて粘土を変えたが、以来使い続ける粘土は人気がないと聞く。製造止めるなら、私が死んだ後に願いたい。記憶では、人工甘味料チクロが製造中止になり駄菓子は不味くなった。メーカーと製品と製造中止

  • 浮かぶイメージ

    近頃は私の頭に浮かんだ程度のものはそのまま作品になるようになった。私にとって作るということは頭に浮かんだイメージを可視化して気のせいでなく「やっぱり在った」と確認する行為である。私としては満足していて不満もない。なので作品がつまらなければ私の頭に浮かんだイメージ自体がつまらないということである。またどんな巨匠の作品だろうと私にはよその家の芝生でしかない。満足したら終わりだ、というけれど、満足していないものを人に見せたり販売出来るほど神経が太くない。終わらないのは、鮫の歯のように作るものが縦列に順番を待っているからで、脳科学者によると人は頭に浮かんだ物を作るように出来ているという。この仕組みのせいで、いちいち形にしなければならない。好きでやってるから良いようなものの。虚無への供物中井英夫浮かぶイメージ

  • 作るべくして

    “門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“小四で母にねだって買ってもらった『一休禅師』のこの言葉が思いのほか私の死生観に影響を与えていたことに気付いたのも、まさにその場面を制作していた時であった。常に作りたいものがある私は死の床で、あれを作るべきだった、これも作るんだったと後悔して苦しむに決まっている、と若い頃からうんざりしていた。しかし結果的に作れるものは作っておくしか対処のすべがない、と作り続ける原動力になっただろう。その本には横目でこちらを見る、一休の弟子でもある曽我派の手になる肖像画が載っていて、あれがこちらを見ていなければ、ここまでのことになっていなかった。人の姿を作る渡世に生きる私にとって作るべくして作った一作といえるだろう。作るべくして

  • 最初と最後に阿羅漢

    実在した人物を手がけると相関関係とか、この人物と人物の間にはこの人が、とつい考える。子供の頃から人物の物語が好きなので、具体的な場面を作りたくなるのだが、いずれはただ単純に、誰ということもない男の種々相を作りたい。となると羅漢像だろう。以前書いたが、途中挫折を避けるために十六羅漢だ、なに羅漢だ、などと頭に数をつけるのは避けたい。そこに達したなら付けるのは良いけれど。20代の頃、一つ140円で公団などのベランダにぶら下がっている物干しを作りながら、架空のブルースミュージシャンを作っていた。数が溜まってきて初個展を開いたが、出品に至らなかったそれ以前の作品は、今思えばいずれも羅漢じみていた気がする。最初と最後に阿羅漢

  • 迷わず作れよ

    ここに至れば作品を毎日制作するという私なりのことを、今まで通り続けた方が“真相“に近づく気がしている。考えるな感じろは良いとして、何でそうなったか、に関して理解が追い付き、ハタと手を打ち納得、なんて時が来るのかは判らないけれど。幼い頃から伝記の類を読み耽り。人の形にも関心が高く、TV番組の誰かを当てるシルエットクイズが得意であった。肖像画に関して蘭渓道隆の寿像(生前描かれた)ほど何かを感じたことはない。この2年私ほど穴のあくほど見つめた人はいないだろう。臨済宗では頂相が師の教えそのものとされた。その念が七百数十年後の私のような不信心者にまで何某かが伝わってしまったということだろう。そんな時、私は作る。迷わず作れよ、作れば判るさ。となるのだろうか。迷わず作れよ

  • 建長寺の開山と蒙古兵

    午前中建長寺に行って展示場所の確認。大した案が浮かぶではなし。随分個展をして来たが、一度も自分だけで飾り付けたことがない。高校の同級の精神科医から空間を把握する能力に難があることを指摘されたことがあるが、引越しして人に間取りなど説明していると大抵紙からはみ出る。責任持てるのが手が届く範囲ということなのか、何とか人形は作れている。方丈の龍王殿の一画、こじんまりとした場所である。回り廊下の外に広がる庭園は、開山蘭渓道隆が作ったのではなかったか。昔火災の際は、まずは寺宝をその池に放りこんだらしい。鎌倉幕府といえば元寇との戦いだが、あろうことか建長寺の開山大覚禅師こと蘭渓道隆と、蒙古兵がテーブルの上で並んでしまう予定である。訂正最終日は15時まで建長寺の開山と蒙古兵

  • 肝心な表情

    80年代の終わり頃、あるジャンルの実在した人物を描く画家と話したことがある。その人は主に既存の写真の背景を独自に変えて描いていたが、陰影のなかった日本画と違い、西洋画ではコラージュ感が否めず、複数の人が同じ空気を吸ってる感じがあまりしなかった。その人はもうネタが尽きて来たので、写真を裏焼きにして描くしかない、という。人間の顔というものは左右対称ではないので、顔を知られた著名な人では、そう都合良くは行かないだろう。その後どうしたかは知らないけれど。しかし、参考にした写真は、写真家が人物のある表情をある時切り取った写真家の成果である。ポーズや背景変えても肝心要の表情がそれではと思った。肝心な表情

  • タイムラグ

    考えるな感じろはブルース・リーにいわれるまでもなかったが。これが最後だと7、8年も陰影のない手法をやっていたのに去年の暮れから急に方向転換。何度こう言うことを繰り返したろうか、原因は丹田あたりにいる何某かが発動するせいだが、それに任せた方が、結果が必ず良いのだけは判っている。あれだけ石塚式ピクトリアリズムなどといって嬉しそうにしてたのに、少々気恥ずかしくはあるが、メリットといえば糠床を底の方から掻き回すように常に新鮮であるし、自分で作っておいて頭の中の想定と違い、感心したりするのでオメデタイとしかいいようがない。単純に考えれば頭の理解が遅れ、それによるタイムラグのせいだろうけれど。タイムラグ

  • 文句いうマジシャン

    被写体の人形が目の前にあるのに、人間の実写と間違う人がいて冗談じゃない。と作家シリーズに転向したが、年寄りの江戸川乱歩がピストル構えて気球に乗っている写真でさえ、乱歩の書斎に置いてあるのを本人だと思った編集者がいた。「どこ見てるんだ粘土丸出しだろ?私が作ったのだ。」仕舞には被写体のどこかにサインを彫ることを本気で考えたことさえある。しかしよく考えてみると、マジシャンが驚いてる観客に、何で騙されるんだ、と文句をいってるようなものである。ようやく丹田あたりの、もう一人の私のしようとしていることの概要を頭が把握し始めた、という今日この頃であろう。まあ頭の出来に自信がある人は、なかなか“考えるな感じろ“とはいかないものである。文句いうマジシャン

  • リアル感について

    二十代で始めた最初期の架空のジャズ、ブルースシリーズの頃から着衣の調子はまるで変わっていない。頭部に時間をかけ、身体部分は一気に作るのは最初からである。自分にとって肝心な部分が込められていれば余計なことはしない。その肝心だと思った部分に重きを置いて写真を撮る。さらに拡大することにより、その部分が強調され表に出てくるようである。昔、デボラ・クロチコさんに私の作品は大きく伸ばした方が良い、といわれた時、そんなことをしたら粘土丸出し感がモロに出てしまうではないか、と思ったのだが。初めて人形と写真を展示した時、人間の実写と間違えた編集者がいた。今にして思うとコダックのTMZの像感現像が、それと同じ肝心なことを表出させる効果を生んでいたのだろう。プリンターの田村政実氏の勧めに従っただけだったが。リアル感について

  • 身辺雑記

    gooblogは11月に閉鎖になるので、何処かに移行しなければならない。それ以前、2000年に立ち上げたHPがネット上から消えたままなのだが、友人がデータを保存してくれていて、それも復旧可能ではある。HPはその年に開いた廃れた写真の古典技法オイルプリントに初めて見る手法に来廊者の目に灯りがともらないのを目の当たりにして技法公開を目的とした。古典技法花盛りの今思うと隔世の感がある。当時の身辺雑記はごく短く、不定期だったが、だんだんダラダラと牛のヨダレのようになり、近所の酔っ払いの話が続いたこともある。しかし父が亡くなった頃のことや、三島を様々な死に方させたら絶対三島にウケると思ったら、本人が最後に篠山紀信に撮らせていたことを知ったこととか書いてあるはずだが、ネットにアップしないと見られないそうである。すでに...身辺雑記

  • GWが終ったのに寒い

    写真作品が最終形であるので被写体である人形は、披露しない方が謎のままで良いような気がするのだが、そちらも観たいという方もおられるので、今回は4体だけ展示することにした。写真を撮るようになったのは、個展会場にただ並べても、この人物を、こういうつもりで制作し、私にはこう見えている、というところまでは表現出来ないと思えたからだが、結果、荒れたシナ海で霊力を発する半憎坊の登場シーンは、想定より格好良くなり過ぎ、お陰で被写体は陽の目を見ることはないだろう。井上尚弥が77年ぶりにジョー・ルイスの世界線KO記録22を更新したという。ジョー・ルイスは車椅子姿しか知らないが、軽量級で抜いたというのが凄すぎる。GWが終ったのに寒い

  • いつかこんな人が現れる

    先月、椅子に座ってではあるが、生まれて初めて坐禅したような、そんな私からすると、ある宗派の、ある寺の開祖など、創建からそれなりの年月以降、新たに手掛けられることなく埃を被ったままのモチーフの宝庫に思える。90年代に写真のことなど何も知らず、相談する相手もおらず、廃れた写真技法オイルプリントに孤軍奮闘していた頃、画像がなんとか出た小さなプリントを持って、紹介された人に会いに行くと「いつかヨドバシなどの写真用品店でなく薬種問屋に通うような人が現れると思っていた。」といわれたのを覚えている。今はそんな人は大勢いるけれど。こんな夢想をする。ボロボロの雲水姿の私が、ある寺の開祖を描いた作品をたずさえ、山深い寺を訪ねると白いモヤとともに山門から現れた老和尚がいう「いつかこんな御仁が現れると思っていた。」いつかこんな人が現れる

  • 一日

    来月の展示は6月19日(木)から22日(日)の4日間と会期は決まっているが、展示がどんなスペースになるか決まっていないので、出品作が何点になるかまだ決められない。新作の縦位置150センチに合わせて構成し直したので、長辺2メートルの作品1点、追加分含め全13作品が完成。減らすことがあっても増やすことははないだろう。立体は4点程度を考えている。『半僧坊』は最初から展示するつもりで制作していたが『半僧坊荒海祈祷図』を長辺150センチのプリントで見たらヒーローみたいでカッコ良すぎて被写体の展示は断念。タイトルを写真展としてしまえば話は早いのだが。前回は、寒山拾得写真展では、定年後の写真好きおじさんが、女房孝行をかね、中国は寒山寺や山深い風景など撮った写真展にしか見えないので辞めた。一日

  • 乃木大将とステッセル

    来月の展示は実在した人物で、と思っていたが、つい蝦蟇仙人と鉄拐仙人の『蝦蟇鉄拐図』を再構成してみた。古来から禅画のモチーフとして描かれれ来たが、なぜ二人がコンビなのかは未だに判らない。それはともかく。こう見えて、カメラで撮っていないのは鉄拐仙人と三足の蝦蟇が口から吐く部分くらいで、地面でさえ撮影したデータを使っている。などと余計なことをいってしまうのは、まことを写す、という意味の写真という用語を蛇蝎の如く嫌い続けたバチであろうか。カメラという自分の外側専用機器を眉間にむけて、私の中のまことを撮っているのだから、いいかげん写真とは乃木大将とステッセルと行くべきだろうか。、乃木大将とステッセル

  • 寒山と拾得

    寒山拾得がいつから私の中に巣食っていたのかは不明だが、森鴎外の『寒山拾得』を読んだのは中学の時だったが、寒山と拾得が笑いながら何処かに行ってしまい、二度と戻ってこなかったという。実に唐突な終わり方で、作中の人物と同様に、放りっぱなしに取り残され立ち尽くした。この終わり方がずっと巣食い続けて来た理由であることは間違いない。その思いが醸され続け、良きところで、ということだろう。唯一最初から決めていたのは癖毛のボサボサ頭で、古来からの寒山拾図でも見た覚えはない。それより大きな特徴は絵でなく写真であることだろう。しかしあれだけ写真という用語を蛇蝎の如く嫌い続けた私が以降、これは写真である、といいつのる羽目に陥ったのは皮肉というしかない。寒山と拾得

  • 三作見直しの事

    昨日は『虎溪三笑図』の再構成。長辺150センチのプリントにすることを意識した。線描の深山風景でなく、実物の鉱物を撮影したものであるから拡大することによって趣が出るだろう。二案で迷った部分があったが決定は一旦寝てからにする。”ラブレターの投函は翌日にせよ”頭はいったん冷やすべきである。幽谷の雰囲気を出すためにガスらせていたら夜が開けていた。キャプションに『虎溪三笑図』を加える。一応ステートメント的なものも書いたが、作った人物像を被写体に、と書いて被写体を展示しても、通じないことが多いのは判っている。人の思いこみは強固である。『四睡図』『慧可断臂図』の投函は明日に。三作見直しの事

  • 禅画のモチーフ

    寒山拾得展で制作した大きいプリントより最新作はさらに大きく、それに合わせて一部、再プリントをしたい。私の作品の90パーセント以上が縦位置で、新作も全て縦なので、並べられるよう再構成している。今のところ候補は『慧可断臂図』『虎溪三笑図』『四睡図』。古来から描かれてきた禅画のモチーフである。陰影のある新作に対して陰影のないフィクション部門といったところか。陰影がないと、それぞれのオブジェが影響し合わないので切り貼りしての再構成が容易である。蝦蟇仙人、鉄拐仙人、琴高仙人も考えないではないが、新作が半僧坊以外は実在した人間なので、それより目立っても。七福神のイメージである布袋尊は、実は実在した禅僧だそうだが、これも好きに造形しているので、ちょっと目立ち過ぎる気がする。禅画のモチーフ

  • 3Nでお願いの件

    結局私の関心事は幼い頃から現在まで終始一貫、頭の中に浮かぶイメージであり、なぜそんな物が浮かぶのか、そんな私とは何か?だろう。小学校の担任が「私の声が聴こえていないかもしれない。」始業のチャイムが鳴っても図書室から出てこなかった前科も考慮されたか。なので母と買い物に行くと、手をつなぎながら小さな声で私の名前を呼んで確かめていた。最大の関心事がそれであるなら、自分の外の世界は二の次、三の次となるのは当然である。その挙げ句が〝外側にレンズを向けず眉間に当てる念写が理想“ということになり、高僧をモチーフにするに至りどうやら〝己の中に仏はいる“らしい、と。思えば母や様々な大人に心配迷惑をかけた。本人には悪気はないのだが。このブログを誰が見ているかわからない。その問題は子供の頃の話で、すでに解決済み、みたいな顔をす...3Nでお願いの件

  • 何を作らないか

    ぼんやりしていると、どんなイメージが降ってくるか油断がならず、それによっては今後の道筋にも影響が出るからうっかりはできない。建長寺の和尚様にいわれたように、頼まれもしないのに、或いは需要もないのに、または発表する気もないのに。と抑えが効かず数々しでかしてきた。母にしつこく聞かされたが、台風による幼稚園の休園日、隅田川の佃の渡し船をおとなしく描いていたが、煙突だったかに東京都のマークがついていて、同じマークがあったと豪雨の中、止めるのも聞かずマンホールの蓋を見に行った。幼稚園児ならマンホールの蓋を観察しに出かけるくらいの時間はあるけれど、時間は年々貴重になっている。私の場合は何を作らないか、作らないと決めたら必ず守る。これが大事である。何を作らないか

  • プロローグ

    正義が勝つには時間がかかる、といったのは森田健作だったか。正義はともかく、良いことだろうと悪いことだろうと、何かしようと思えば時間がかかる。長い間やっているうち、考えるな感じろで行く方が結果が良いのは、人間も草木同様自然物、肝心な物はあらかじめ備わっているからで、感じたまま行くとその肝心な物が発動する仕掛けになっているのではないか?その肝心な物が〝己の中に仏はいる“の仏なのかは私にはわからないが、ここに至り最大の関心事ではある。鍵っ子時代、中井英夫編纂の百科事典の別巻『日本の美術』の頂相あるいは頂相彫刻を、畳に腹這いになって飽きることなく眺めていた半ズボンの私を思い出すと、あれがシナリオのプロローグではなかったのか?最近かなり本気でそう考えている。プロローグ

  • 法然頭はセーフ?

    手付かずのままだった浄土宗の法然上人の制作を再開しようか考えている。臨済義玄の前頭部が盛り上がった頭や、栄西の円筒形の頭はフィクションなのは明らかで、陰影有りの手法に戻ってからは作る気になれないが、真ん中が凹んでいる法然頭はありえなくもない。そう考えると、卒業証のように弟子に授けられた臨済宗の頂相の写実性は特別で、特に生前描かれた寿像は信用できる。その習慣がいつなくなったのかは知らないが、お陰で江戸中期の臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師は手がけられないでいる。松尾芭蕉の粗製濫造され続けてきた枯れ木じみた老人像を呪ってきたので、私なりの、などといって創作するのはむしろ容易だが、連中と〝同じ穴のムジナ“にはなりたくない。法然頭はセーフ?

  • キャプション

    展示は六月なので時間はあるが、展示用キャプションを書く。こういうことは早めにやっておいた方がよい。この人物はなんで龍が身体に巻き付いているのか、荒天の中、帆柱の上に立っているのか?という方々のために、簡単な説明は必要だろう。2000年に廃れていた写真の古典技法オイルプリントによる1回目のピクトリアリズ展を開いたが、見たことのない手法に、来廊者の目に明かりが灯らない、というトラウマになりかねない経験をした。ほとんどかつての数学や物理の授業中の私のようであった。結局キャプションでは追い付かず、技法公開のためHPを立ち上げた。先日建長寺の鎌倉禅研究会で作品を披露した時、若いお坊様が写真作品の前で皆さんに見えるよう被写体の大覚禅師像を持っていただいたが、数センチの顔が数十倍に拡大され、おそらく何割かの方は理解され...キャプション

  • どこにも行かずここに在る

    6月に4日間の展示が決まった。作家シリーズ最後となった三島由紀夫へのオマージュ展『椿説男の死』(ふげん社)での無観客によるトークで「次は何を?」の質問に、いつかは、と考えていた「寒山拾得」とつい口にしてしまったが、ふげん社が拾得が普賢菩薩の化身であることから付けられたという。そんな縁を逃がさず2年後の『Don’tThink,Feel!寒山拾得展』となった。誰かがシナリオを書いている。そんな気になるのはこんな時である。三島由紀夫で個展をと思ったら、そのビルの先代の社長が事件に使用された『関の孫六』を三島に進呈した人だった、なんてことさえあった。この時はその件で大変だったらしく三島だけは辞めてくれということに終わった。シナリオが良いのか悪いのかアマゾン川の如く蛇行する紆余曲折の有様だが、その原点といえば、幼い...どこにも行かずここに在る

  • 面壁九年

    〝考えるな感じろ“で生きていると、自分の中の自然物に等しく備わっている某かが導いてくれる、と薄々感じてきたが、禅宗の人物をモチーフにしていてほとんど確信となった。そうなると、単なる創作上のモチーフではなく、創作行為がそのまま自分とは何か、を探求することになる。本来そうあるべきだろう。達磨大師は岩壁に向かってまる九年坐禅したという。おかげで手足が腐り取れてダルマの姿になった、というのは日本だけのストーリーらしい。私は粘土に向かって40猶予年。悟ることなど頭の隅にも考えたことはないが、足腰の衰えだけは一人前である。面壁九年

  • 独学我流者 外側にレンズを向けず

    架空の人物制作に転向するはずが、一枚の大覚禅師(蘭渓道隆)の頂相のリアリズムに打たれ気が変わった。我に返る思いで一転実像にこだわり、挙句に陰影さえも戻ってしまった。創作された、実際はあり得ない後頭部から前頭部にかけて盛り上がった臨済像や臼のような円筒形の頭をした栄西は、陰影なしならともかく、もう作ることはないだろう。臨済済義玄は“仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す“といっている。何かを求める時、外に依存するのではなく、自分自身の内面を見ろ。師の教えに依存や執着するな、ということらしい。外側にレンズを向けない独学我流者は納得である。独学我流者外側にレンズを向けず

  • 馬の骨作る時間はない

    前回の寒山拾得展で、寒山拾得が臨済宗に伝わる話ということで〝怒目憤拳“の様子が興味深く、臨済宗の開祖臨済義玄を作ってしまった。当時はいくら調べても実態が判らず。結局、中国のある僧が注文で描かせたものが日本に伝わり、一休の弟子の曽我派の画僧などに模写され描き継がれ大徳寺周辺から広がって行ったものらしい。大徳寺にはまったく別人の穏やかな臨済の肖像画があり、これが実像に近ければ作りたいのだが。間もなく出るタウン誌に書いたばかりだが、昔、未発見だったロバート・ジョンソンの写真が発見された、と音楽雑誌に載った。さっそく作り始めたが、あの音楽を生み出すような“十字路で悪魔と取引した感“が感じられず、酔っ払って編集部に電話をした。「そういうことになってます。」結局納得できず止めたが、後に誤報と判明した。飲んだくれては作...馬の骨作る時間はない

  • 私の役目

    雲水姿の一休宗純は、窓際に置いて自然の塵、ホコリをまとわせた。小四で読んだ『一休禅師』はとにかく汚いイメージだったが、どうやら“オリジナル”があるようで。一休が尊敬していた大燈国師は、師から悟りに達したと認められてなお、さらに二十年乞食の中で修行をする。国宝である大燈国師の頂相は眉をひそめ、写真で言えば横目でレンズどころかあらぬ方向を見ている。横目の一休の肖像画は一休が意図的に真似たのだろう。両者ともに後世に立派な己が姿を、などと考えていない。ここは肝心である。江戸中期の白隠禅師が『乞食大燈像』を残している。禅宗の中興の祖にたいして申し訳ないけれど作風が私の好みではない。令和の時代に乞食大燈像を可視化するのは私の役目だろう。例によって”頼まれもしないのに”。時代は合わないが一休との共演も果たしたい。策はす...私の役目

  • 一日

    今年、同い年の友人に、こんなことをやっているが、最新作が人生上の最突端である。といったら付き合いの長い彼に「ボケた?」といわれてびっくりした。制作に体力を使う訳でもなく、材料費もたいしてかからない。あとは好奇心、集中力が年齢と共に衰える気がしなかったので、経験を重ねて行けばピークを最晩年に持って行ける、と若い頃から想定していた。神奈川に住むその友人は建長寺に来て、梱包など手伝ってくれた。からなず一言いう彼が何もいわないのでのでどうだった?と聞いても作品には触れようとせず身体の心配ばかりするので、自分もいつの間にか頸動脈あたりに介錯を失敗したような手術跡をつけておいて“余計なお世話である”一日

  • 前言撤回のこと

    昔から人間も草木同様自然物、あらかじめ肝心なものは備わっている、と考えて来た。それこそが〝考えるな感じろ“で進んだほうが結果が良い理由だろう、と。そうこうしてある一文が目に止まった。〝禅は仏を外に求めず、自らの中にあると信じた“ここでいう仏とは、自然物に備わっているであろう肝心なものを指しているのではないか?だとすれば、それを追求して来た高僧をモチーフにすることは、結果的に、その肝心なものに多少なりとも関わることになるのではないか?私が長らく〝レンズを外に向けず眉間に当てる念写が理想“と標榜して来たことも無縁とは思えなかった。寒山拾得展で虎に乗った禅師や仙人など手掛け、以後、実在した人物は作らず、架空の人物像で行くつもりが前言撤回し、実在した高僧の像を作ることになったのは、以上の理由による。前言撤回のこと

  • 北条時頼と大覚禅師

    頭に浮かんだイメージを制作するなら、どうせなら数百年間可視化されておらず、私がやらなければ今後も誰もやらないだろう画を作ってみたいが、そんなモチーフはなかなかない。天気も良い。部屋の片付けをしようと思ったとほぼ同時に、袈裟を着た法衣姿の鎌倉幕府第5代執権北条時頼と大覚禅師が対座して見つめ合っている。そこには如何なるものが通いあっているのか。そんなイメージが浮かんだ。こういう場合、構図も出来上がった状態で降って来る。だがしかし、とりあえず予定した作品はおおよそ出来て一息ついたところなので、建長寺の開基北条時頼という大ネタは、いずれかの機会に、ということに。これだからうかつに部屋を片付けよう、などと考えないことである。北条時頼と大覚禅師

  • 腹具合

    建長寺訪問後、腹の具合が悪い。バレエを一度観ただけでニジンスキーで個展を開いてしまった私も、坐禅を一度もしたことないのに建長寺開山を、和尚様がおっしゃったように「頼まれもしないのに。」まるで発表の予定に向けて制作しているような顔をして作り続けて来た。そもそも通常と違い、特定の寺の開山をモチーフにしたのだから建長寺以上に展示するのに相応しい場所などない。さすがの母も、授業が始まってるのに図書室から出て来ず騒ぎを起こすような、ブレーキが効かないところは、大人になれば治ると踏んでいたはずだが、そうはいかなかった。私としては、これは生まれついてのことで、不細工や足が短いことが本人に責任がないのと同様、私には責任がないと考えている。といいながら、プレッシャーに対し腹具合は実に正直である。しかし某事のおかげで、明日あ...腹具合

  • 旅路の果て

    小学校では図工の時間が大好きだったが子供の絵ではない、と私に向かっていう教師がいて、担任も全員参加のコンクールに私の絵だけ出すのを忘れた、という。そんなことがあってその後美術部にも入らず。高校の進路指導では、系列の芸術学部と書いたら「お前デッサンやってるのか?」「えっデッサンの試験あるんですか?」写生など幼い頃から苦手で木炭など触ったこともない。かといって浪人する根性などないので、デッサン描けなくても入れる工事現場のプレハブみたいな工芸学校の陶器科に。浪人したり美術の短大出た経験者もいたが、粘土でリンゴを作る課題で、最初にリンゴ大に粘土を丸めるド素人組の一人であった。それが鎌倉時代の高僧の像を作り、写真やパソコンなど蛇蝎の如く苦手だったことばかりを手段としている。殴られて20年ぶりに目が覚める男のドラマが...旅路の果て

  • ショートカット機能なし

    重圧から解放され、未だ何も手に付かずにいる。2002年に、前年にイベントで一度バレエを観ただけで、ニジンスキー、ディアギレフ、コクトーで個展を開催した。ご丁寧にも廃れた写真の古典技法オイルプリントで。あれを持ってパリのオペラ座を訪れても、これほどの緊張感はなかっただろう。食欲に任せて目の前のパンに齧り付くようにモチーフなど変化させて来た、と頭では思い込んでいるが〝考えるな感じろ‘’の感じる担当の丹田辺りのもう一人の私が実は仕切っているのは判っている。幼い頃から人間にしか興味がない私にとって、これ以上のモチーフはないように思える。創作欲を刺激する祖師の個性的な面相、まつわる伝説。何故早く気が付かなかった、と思わないでもないが、人生にショートカット機能はない。独学我流でひたすらほふく前進してきて身に染みている...ショートカット機能なし

  • 鼠が象の股下をくぐる

    蘭渓道隆像は、国宝である斜め45度向いた唯一の寿像(生前描かれた)だけを元に制作したが、立体にすれば、どこからでも撮れる利点を生かしたい。蘭渓像は絵画、立体像ともに数々残されているが、何百年前に制作された名工の作だろうと、没後に作られたとなれば条件自体は私と一緒である。寿像が真実にもっとも近い、と考えるのが当然とするならば、信仰の対象になって来た開山像に対して失礼を承知でいうならば、どの蘭渓像とも私は意見を異にする。男専門に四十年以上制作してきた渡世上の信念に従ったとはいえ、建長寺のHPにも載る開山様の木像と面相が違う像を持って建長寺の門をくぐるのは、ネズミが象の股下をくぐるが如き心持ちであった。鼠が象の股下をくぐる

  • 用意されたシナリオ

  • 頼まれもしないのに

    昨日の建長寺でのこと。高井和尚様が、私の作品を前に「頼まれもしないのに」とユーモアを交えお話いただいた。実在した人物はもう充分作った。寒山拾得の続編を寺の多い鎌倉あたりのスペースで、と思っただけで、寺での展示など考えてもいなかったが、建長寺を検索していて開山である蘭渓道隆の頂相に感銘を受け、何も決まる前から作り始めてしまい、円覚寺の開山無学祖元まで作ってしまった。私は作りたいと思ったら需要など考えない。感心されるぐらいなら呆れられた方が。と常々思っているが、作りたい、という本気の想いに呆れ、笑顔にでもなってもらえれば何よりだと考えている。長年あれをこれを作れば良かった、と後悔しながら死ぬことを恐れてきたが、高井和尚様の〝頼まれもしないのに“を思い出しながら、どうも私はそんなタマではないな?しなくても良い心...頼まれもしないのに

  • 鎌倉禅研究会(建長寺)

    七百数十年前、建長寺の開山となった自作の蘭渓道隆像を持って鎌倉禅研究会に参加するため門をくぐるプレッシャーに、境内の満開の桜が桜に見えない。演台には参加者に向け蘭渓道隆像が置かれ始まることとなった。高井和尚様のご指導で椅子に座ってではあったが生まれて初めての坐禅を経験。一部は鎌倉国宝館の学芸員による『鎌倉地域の羅漢図』以前ブログに書いたが、男性ばかり作ってきた私が、最後に男の種々相を表現するには羅漢像を作りながら終わるのは良いと考えていた。2部の前に長辺150センチのプリント6カットを解説することに。近所の居酒屋で新聞を読むとしわくちゃになると知られていた私なので、ふげん社から送られてきたプリントは初めて開けて見た。大きすぎてテーブルに乗らないので畳に広げることに。2部『蘭渓和尚とその時代』蘭渓道隆の生ま...鎌倉禅研究会(建長寺)

  • スキに乗じて

    未プリントだが最新作は『蘭渓道隆天童山坐禅図』である。これで次回作さえ浮かばなければ心残りはないことになる?はずである。浮かばないようコントロール出来るものなら楽だろう。多くの場合、小説なり資料なり、ほとんどが文章がきっかけになる。イメージが、ぼた餅のように唐突に落ちてくるのを避けるには、まずは文章を目にしないいことである。制作の調子が上がると部屋が散らかってくる。先日どうにも邪魔だったものを捨て、陽気もよくなってきたので、これを機に部屋を片付ける気になっている。新たなイメージが浮かんでいない、この隙に乗じるしかない。解体現場からいただいてきた、30年以上通った煮込み屋のカウンターも、台所にサーフボードのように立てかけたままになっている。スキに乗じて

  • 安航を祈る

    友人がアメリカに旅行に行くというので、スマホに入れとけ、と送ったのが半憎坊である。おそらく猿田彦が変化したものだろう、道開きの神である。制作者のことさえ気にしなければ海難、火難避け、様々なご利益があるとされる。そういえば、と思い出したのが、三島の戯曲『船の挨拶』。怪しげな船からの銃撃に感謝しながら死ぬ灯台職員の話である。いかにも三島らしい。航行する船に向けて掲げられた国際信号旗、これは〝汝の安全なる航行を祈る“である。三島はなるべく時代の変化に影響受けないよう心がけたが、その後変更された。実際は小雨混じりの曇天の野島崎灯台を撮影した。天気だけでなく配置をだいぶ動かしたし、上で抱き合ってるアベックを抹消した覚えがある。友人は空の旅だったが、こちらも送っておいた。安航を祈る

  • ピストルに撃たれたように

    一度もしたことがないが坐禅は半眼でするもので、つまり目は瞑らない。そのことと関係があるかはわからないが、何かイメージする時は目を開いている時に限られている気がする。目を瞑っているほうが集中しそうだが、あまり思いつくことはないように思う。自分で写真の暗室作業をやっていた頃、真っ暗な中で目を開いているというのが、どうにも落ち着かず、イライラしてきて向いていなかった。寝付きが良く、ピストルに撃たれたように寝る、といわれる。母と同居していた時、話していると突然黙るので、脳溢血でも起こしたか、と何度起こされたか。ピストルに撃たれたように

  • 向き不向き

    陰影がない手法のメリットといえば、構図の自由がある。かつての日本人がやったように、背景に主人公の心情を反映させることも可能である。しかしやってみると、構図の自由があるといいながら、どうしても絵巻物などの長焦点レンズ的になり、それが余計に古典的日本絵画調に見える理由でもある。広角レンズ的な写真的構図が合わない。これに関しては追求するほどの興味はない。そういえば、曽我蕭白はタイムリーパーかのように超広角レンズを知っていたのではないか?というような『石橋図』があるが、線描の水墨画だから可能なのだろうか。水の表現と同様に、陰影のない写真作品ではやれる気がしない。向き不向き

  • 手遅れになる前にアンモニア

    データが完成していて未プリントなのは少林寺の岩窟内の『月下達磨大師図』と長辺2メートルを予定している『蘭渓道隆天道山坐禅図』いずれも“観てきたような嘘をいい“である。先日友人が高野山に行って感激していた。行ったことあるか?と聞くので「ない。」私は寺山修司の“想像力より高く飛べる鳥はいない“を信奉して来た。つまり自然界の最上位にあるのが人間の想像力だ、と。もう一つは江戸川乱歩の“現世(うつしよ)は夢夜の夢こそまこと“である。人間の想像力が最上位か、夜の夢がまことかはともかく、子供が口を開けたまま東の空でも眺めていたら、手遅れになる前にほっぺた張り倒すか、アンモニアでも嗅がせるべきだとは思っている。1997年個展DM手遅れになる前にアンモニア

  • 陰影しかないような坐禅窟

    立体は作ってしまえば、どんな角度からも撮れる。この利点を生かすため残された写真、絵画とは違う角度から撮って来た。大覚禅師こと蘭渓道隆は、生前描かれた唯一の肖像画は、向かって右斜め45度を向いている。敬意を表し、一カットは右を向かせた。仮に左を向いてる正岡子規を右にむかせたら、子規は右を向かないとでもいうのか、顔が違う、という人が必ずいる。そうしたものである。1カットは下から見上げ、1カットは失礼ながらというべきなのか、上から見下ろし撮った。流れからいえば正面が欲しい。陰影を描かない手法では面壁坐禅図を一度完成させた。しかし今となっては、坐禅窟には灯りを持ち込んではならない、という決まりでもなければ、次に制作するとしたら岩窟内、陰影しかないような真正面の坐禅図だろう。陰影しかないような坐禅窟

  • 横目で呪いながら

    月一のクリニック。以前、高校時代の友人と電話で話し、スマホを切ったつもりで診察室での女医先生との会話を聴かれてしまった。「どうしても◯◯に職員室に呼び出されたみたいになっちゃうんだよな。」最恐の◯◯先生に呼び出された時は、恐怖の時間を短くするため、次の授業開始時間の寸前に行く工夫をした。その後コーナンで買い物。疲れたので、軒下に座る枯れ木じみた爺さんの横で休む。「俺もあんたを作ったんだが、資料を読むため深川図書館に行くんで自転車で前を通るたび、俺より若くして死んだのに、こんな爺いにしやがって、って横目で呪いながら通ったもんだぜ?」以来、実像にこだわることに拍車がかかった。横目で呪いながら

  • 検査

    2回目の冠動脈手術を受けて以来の検査。自覚症状もなかったのが、たまたま検査で見つかった。私がのんびりしているので症状が出なかったらしい。その分発見が遅れたということになるけれど。そう考えると、自覚のないままある日心筋梗塞、なんて人はいくらでもいるだろう。これから鎌倉や室町時代の人物に陰影(立体感)を与えることにしよう、という時だったから、これを恐れていたんだよな、と思ったが、身近に何回かカテーテル手術をやった人がいて、手術自体は大したことはない、と聞いていたから、気が急いて、退院したらただじゃすまさねぇ、と集中した。被写体はすでにある。再撮影を終えプリントも済ませた。被写体を作らなくても良い撮影は楽チンである。検査

  • 4月というのに

    昨日のブログを書いていて、行き当たりばったり、好奇心に任せてモチーフを変えて来たつもりで、実は自分とは何だ、ということのために選択して来たのだ、と思った。最初のジャズ、ブルースはそのジャンルの音楽が好きだった、作家シリーズも好きな作家ばかりだったが。一休和尚こそ小学四年で読んだ『一休禅師』のイメージが強く残っていたものの、かつて父が眠るしかも親戚の寺の宗派を聞かれて答えられなかったような私が、何故お坊様を作っているのか?丹田あたりのもう一人の私が、そこに何かがあると判断していたなら納得がいく。連載中のタウン誌の次号の書き出しである。〝映画や小説から全てを学んだ、といういい方があるが、人形作家である私の場合はほとんど作って来た人物に学んだ、といっていいだろう”4月というのに

  • 金鉱掘りみたいな思い

    自分で作っておいて驚くことがあるのは、イメージを可視化するための作業、工程に無意識の何某かが加わり、そんな予期せぬものが完成作から立ち現れてくるので驚くのだろう。そこに私とはなんだ?の答えが含まれているかもしれない。私のモチーフの変遷は欲と興味に任せ、ただ面白いからだ、と自分では思い込んでいるが、そう思うと、作家シリーズ最後となった『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』を終えた時、これ以上掘っても、ここからはもう何も出てきそうにない、と金鉱掘りみたいな思いで、寒山拾得へ走った。やはり私は丹田あたりのもう一人の私に任せ“考えるな感じろ“でいくべきであろう。金鉱掘りみたいな思い

  • 二刀流ならではの感慨

    ジャズ・ブルースシリーズを一回発表しただけで翌年、6人の作家をモチーフに作家シリーズに転向した。江戸川乱歩はピストル構えて気球に乗っていたが、造形の段階で極端に広角的に制作し、背景として紙に青空を描いて襖の裏に貼り付け、マンションの屋上で自然光で撮った。珍妙なセッティングだったが、ラボでプリントを一目見て「私はこういうことをしようとしていたのか!?」他人事のように驚いた。あの経験が未だに忘れられないでいる。そこまで育てた(造形した)つもりがないのに、知らない所で人生を重ねて来た息子と再会したようだったのは、長辺2メートル30センチのプリントのフットボール大の顔の三島由紀夫と目があった時だった。これは被写体制作と撮影の二刀流でしか味わえない感慨であろう。明日の到着が待ちきれず、長辺150センチのプリントの様...二刀流ならではの感慨

  • 坐禅窟内の事

    陰影のない手法から陰影のある手法へ再制作して来たが、坐禅窟内で壁に向かう蘭渓道隆は作っていない。陰影のない浮世絵では月があるから夜、室内では行灯があるから夜、と西洋画や写真のように、夜だからといって真っ正直に暗くしない。しかも視点は面壁する壁からという、陰影ないからこその試みであった。しかし坐禅窟内の座禅は昼間にするものだ、ということでもなければ何かしら灯りを持ち込まなければ夜の坐禅はないのではないか。昔は灯りなしでは、月夜の晩でもなければ座禅窟にたどり着久のも大変だったろう。であれば巌窟内に何かしら灯りがあったとすれば陰影ありで制作可能ではないか?部屋を片付けようと思ったら思った。坐禅窟内の事

  • 理想も目標もなく

    職人が満足したらお終いだ、というが、私には満足していない物に値段を付けて個展会場に立っている神経はない。件の職人には、きっと理想、あるいは目標となるイメージがあるから出るセリフだろう。その点私には理想もなければ目標もなく、ただ頭に浮かぶイメージを可視化し。やっぱり在った、と確認したい欲にかられた独学我流者である。スポーツ選手などと違って毎日の経験を重ねることにより、いくつになっても最新作が人生上の最突端といえる渡世である。理想や目標がなければゴールがない代わりに挫折しにくく、なんでその状況で笑っていられる?といわれがちである。書き出しはそんなつもりではなかったが、私がいかにオメデタイか、という印象のまま終わった。理想も目標もなく

  • 暗雲の如く湧き上がる

    何か作る時、どうしようかと考え込むことは少ない。スケッチをしないのは、スケッチしてああだこうだしたいのに、最初のいい加減な悪戯描きを超えられず、ゴミ箱をあさることになる。だからこそ死の床で作りたい物が順番待ちして苦しむだろう、と長年憂鬱であった。それは昨年末より、遠因となった一休和尚の制作、母の死、2度にわたる入院によって、ほぼ払拭された。若い頃は発表するつもりがなくても欲求に任せて作ったが、一仕事約十年弱かかってきたことを思うと、この歳になると、何を作らないかが重要になる。私の悪癖の一つが、今日は部屋を片付けよう、と頭の隅にちょっとよぎっただけで、創作意欲が不吉な暗雲のごとく湧き上がることである。私の主要な作品は、おおかたそうして作られて来た。暗雲の如く湧き上がる

  • 自分を呆れ驚かすには

    小中学校、工芸学校、陶芸家を目指した頃の先輩に、出来立ての『蘭渓道隆天童山坐禅図』をメールで送ったら「このテーマが良く判らない」と返事。確かに作っている本人も多少戸惑うこともあるが“考えるな感じろで行った方が結果がよいことだけは知っている。扱うモチーフが変わるにつれ、話し合う相手が激減してきた。友情を持って止めろと忠告してくれていた連中も、止めても無駄、と遠巻きにしている始末である。昨日人の忠告を聞かない人の話を書いたばかりだが、人形をいくら作ろうと死ぬことはない。デイアギレフはコクトーに「私を驚かせてみろ」といったが、私を呆れ驚かす方法を一番知っているのは私自身なのだから仕方がない。自分を呆れ驚かすには

  • 近くの他人

    昨日は今はなき煮込み屋の常連との飲み会。午後1時からから8時間くらい飲んでいたのではないか。皆さんには母もよくしてもらった。私も泉鏡花原作の拙著『貝の穴に河童の居る事』(風涛社)では昨日の二人を含め、人間の登場人物七人は、常連や近所の人達が名演技を披露してくれ、まさに公私共にお世話になった。妹は海外在住であるし、母が笑ったまま逝けたのは、ホームの職員を含め他人様のおかげである。なので友人らには、自分だけで抱え込まず他人に頼るべきだというのだが、肉親のこととなると、なかなかそうはいかない。知り合いで他人を信じない夫婦がいて、私のアドバイスに聞く耳を持たず、心配で昨年旦那にメールした時も相変わらずだったが、すでに手遅れと思ったら今月亡くなった。死なずに済んだものを、と悔しさと後悔、腹立たしさが拭えないでいる。近くの他人

  • 今日も今日とて

    長辺2メートルを予定しているプリントは、日本に初めて本格的禅を伝えた鎌倉建長寺の開山蘭渓道隆が、道元や栄西も修行した中国の天童山で坐禅をしているところを想定した。現在は壁を背にする臨済宗の坐禅も、当時は禅宗の開祖達磨大師と同様壁に向かう面壁坐禅であった。陰影なしで完成していたはずだが、陰影有りに宗旨替え?してみると、それまで作った世界が違って見える。イメージのもちようで、世界はいくらでも変えられるのではないか。屋根裏のアンネ・フランクも防空壕内の谷崎潤一郎もそう考えていたかもしれない。私の場合は本来外の世界を撮るために製造されたカメラのレンズを眉間にあて、行ったこともない山で坐禅する人を妄想、夕景にするか月光風景にするか悩んでいる。今日も今日とて

  • 後戻りはせず

    昨年暮れから急な方向転換で、最後の手段だと考えていた陰影を排除した手法から、陰影(立体感)のある手法に戻った。しかし先週にさえ戻りたくないよう心掛けている私には後戻りは許されない。モチーフは写真どころか肖像に陰影を与えられたことのない時代の人物であることが大きく違う。初めてジャズ、ブルースをテーマの個展で写真を発表した時、一人の編集者に人間の実写に間違えられ、わざわざ被写体まで作って既存のジャズ写真と一緒にされてはかなわない。翌年、大きく方向転換し、作家シリーズに転向した私が、古典的日本画調であることを、いつまでも喜んでいては明らかな衰退であろう。後戻りはせず

  • 幼馴染

    幼いころ、頭に浮かんだものはどこへ行ってしまうのだろう?と思い悩んだが、それが私の創作の原点であろう。一人のときに浮かんだことは、友達に話していればともかく、黙っていたら、ただ消えてなかったことになってしまう。鍵っ子だった私にとって友達はそのために必要だった。今はその役割が個展の開催だろう。バプテスト系幼稚園からの友達の家の前で、神様がいるかどうか、と半ズボン同士で。あんな髭生やした爺さんが雲の上にいる訳ないだろ、と私。お母さんがお宮参りで彼の弟を抱いて玄関から出て来たが、その赤ん坊も還暦を過ぎ、彼も先月、私が命名した美容室を従業員に譲って引退した。電話では話すものの何年も会っていない。近いうち昼間から飲むことになっている。幼馴染

  • アウトプットの年頃

    世の中には不思議なこと興味深いことはあるけれど、自分の中のイメージ以上のことは起きないだろう。子供の頃読んだ探検記、旅行記、あの時イメージした以上の世界があるはずがない。世界を見聞するにしたって寿命には限りがある。寺山修司は”書を捨て町へ出よう“といったけれど“どんな鳥も空想力より高く飛べる鳥はいない”ともいった。最近は、制作に関する本以外、ほとんど読まない。他人の頭に浮かんだ世界に感心している場合ではないので、小説は『没後50年三島由紀夫へのオマージュ展「椿説男の死」(ふげん社2020年)以来読んでいない。インプットよりアウトプットに注力すべき年頃である。アウトプットの年頃

  • 可笑しさ哀しさの追求

    制作するのは男性ばかり、それも中年から老年に限られている。制作上の面白さ醍醐味といえば、男性には本来的に女性にない可笑しみと哀しみがある。昨今インターネットでは、何も隠されていないAV映像が流れている。18の時にまだ車が反対車線を走っていた頃の沖縄で初めてその類の映像を観た。呼び込みの男がドアをノックすると、洋物の映像には音声がなく演歌が流れており、何故かトイレットペーパーを持った女性があっち行ったりこっち行ったりしていた。大変趣きのある趣向であったが、?と我に返ってみると、壮大で深刻な恋愛小説であろうと、あんなことをしたかしないかが問題になっている訳で、特に男の行為における起承転結の様は滑稽としかいいようがない。かの業界では、そのつもりではないようだが男の可笑しさ哀しみを益々追求しているように見える。可笑しさ哀しさの追求

  • 達磨大師は陰影なしで

    近所に落ちたような雷鳴で目覚め、雪が降っている事にも気付かず2カットを仕上げる。昨年暮れ、タウン誌の連載用に、一休禅師の背景に、と考えた背景に陽が当たっていたので、久しぶりに一休本人にも陰影与えてみたら、室町時代は陰影がないのが当たり前だ、であれば、と陰影与えてやり直すことにした。被写体はすでにあるし、もともとずっと陰影を与えていたのでスムースに撮り直すことが出来た。良かれと思って造形した訳だから、それを生かすべく光を与えるのは楽しい。ただ禅宗の開祖達磨大師だけは、象徴的な存在でもあり、陰影なしのままにした。中国人だと思い込んでいる人が多いので、浅黒いインド人調にして、袈裟の元はサリーだと聞いたので、衣もサリー調に。インドから渡って来て少林寺の洞穴で壁に向かって9年坐禅をし、おかげで手足が腐り取れていわゆ...達磨大師は陰影なしで

  • 頭の中のヴィジョン

    プリント用のデータのチェック。身体を龍に巻き付かれていたり、竹竿にシャレコウベ掲げてこっちを見ている人物を眺めていると、いったい私は何をやっているんだろう?と思わなくもないが。こんな気分にしてくれるのは、結局他人ではなく私自身しかいない、と満更ではない。この歳になると、周りの知人友人の中には毎日テレビばかり観ている、なんて隠居状態の連中が散見されるが、私が鍵っ子の頃から今に至り、一人でいても平然としているのは、常にビジョンが浮かんでいるからだろう。中学の休み時間、周りの連中が、小説を読んでいる間中、頭の中にずっと映像が流れ続けている訳ではない、と聞いてビックリしたことがある。あの時の驚きは「お前らのウチ、テレビないのか!?」そんな感じだった。頭の中のヴィジョン

  • 人生ショートカットは不可

    未プリントの中からまずは6点ほど選んでプリントしてみることにした。同じテーマで陰影無しと有りが出来てしまった訳だが、ここに至って同じテーマの作品を比べると、陰影有りの立体感というのはやはり説得力がある。両手法を並行利用するとなれば、陰影無しは、こうでなければ描くことが出来ない、という場面のためだけに用いるべきであると。新しいモチーフ、廃れていた古典技法、何でも一つのことに必ず最低でも10年弱はかかって来た。全てに上書き続け本日が最突端。それもこれも一休の“門松は冥土の旅の一里塚“を恐れ続けながらも変化を続けた賜物といえそうである。ショートカットは不可というのが実感である。人生ショートカットは不可

  • 肖像研究者

    松尾芭蕉は、門弟が師の姿を描き残しているのに無視され、忍者説があるほどの健脚が、俳句の枯れたイメージに利用され、いい加減な老人像が捏造され続けて来た。芭蕉を制作しているその時点で、私自身が芭蕉の没年齢をすでにえ超えていたことが腹立たしさを倍増させた。大覚禅師(蘭渓道隆)は唯一の寿像(生前描かれた)のみを基に制作したが、全国には噂話だけで、いや噂話さえ聞いたことがないと思える像が沢山残る。信心さえできればイワシの頭でもブラックバスでも良いというのだろうか?私は不信心者ではあるけれど、40年以上続けている渡世上我慢出来ない。作りたい高僧が何人もおり、創作はいくらでも出来る。しかしそれでは有象無象と同じことになってしまいかねない。肖像研究の第一人者といえるような方と出会いたいところである。肖像研究者

  • 『黒澤明2影武者撮影の現場』古石場文化センター

    先週に続き、油井昌由樹さんの講座2回目。油井さん制作のドキュメンタリーを観て『影武者』のオーデイションの様々、勝新太郎のエピソード、質疑応答など。終了後、残った人達でお茶を飲もうと喫茶店へ。2軒隣が馴染みの焼き鳥屋だったので顔をだし「今黒澤映画の家康さん連れてくるから記念写真!!」それで終わるはずが家康様が「ここで食ってっても良いな?」とおっしゃる。結局ズラズラと入店。私が20代の終わりから30年通った店で、裸足にサンダルで昼間からフラフラ歩いているし、娘は子供の頃から見かけるけど、ずっとあの調子で誰?人見知りで余計な口を聞かないので十年間、近所の某施設の人間だと思われていたらしい。考えてみると、ここの一家は黒澤映画といったって誰も観たことないだろうな?と思いながら帰宅すると、大谷の第一打席。『黒澤明2影武者撮影の現場』古石場文化センター

  • ないものは撮れず

    天気が良いのは今日だけのようなので、上野動物園に鹿を撮影に行こうと思った。無学祖元の法話を聴きに白鹿が集まったという場面を作ろうと。円覚寺の山号、瑞鹿山はそこから来ている。四月に近くなるとツノが落ちてしまうと聞いていた。まぁツノぐらいなら、なんとかなるだろう。一応電話してみると、今は展示していないという。どういうこと?この間電話した時は、ウチの鹿は角の形が変なので、多摩動物園の方が数も多いし良いかもしれないと聞いたので、多摩動物園に聞くと、こちらも現在展示していないという。ないものは撮れない。写真の最大の欠点である。この世にないものばかりモチーフにしている私はつい八つ当たりしたくなるが、腰痛持ちとしては出かける前に判って良かった、ということにしておく。ないものは撮れず

  • 初鴉

    “門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし“小四で知ったこの言葉に、自分で思っていた以上の影響を受けており再チャレンジ。一休は汚いイメージが残っている。一作目は何故か正装にしたが、今回は窓際で埃にまみれたのを利用してみた。当初門松を配すことを考えたが、室町時代の門松は、現代とは違うことだけしか判らず。一休は鴉の声を聞いて悟りを開いたといわれる。正月頃の鴉はどうしているのだろう、と調べたら、初鴉が正月の季語と知り、これ幸いと鴉を配した。門松ではいかにもダサい。何故、大人向けの『一休禅師』を母にねだったのか。おそらく小三の時に担任の出産のため、代理でお世話になった田中先生が、転任の際、図書室の伝記の類を貪り読んでいる私に『世界偉人伝』を内緒いただいた。それでトンチ小坊主でない一休を知ったためだと思わ初鴉

  • 本物の汚れ

    最初に三遊亭円朝で陰影のない撮影した時、人肌を重ね塗りしたのが、ただ汚れのムラに見えて、三脚などそのままにして一色のベタ塗りにし直した。寒山と拾得など着衣はボロでも形だけで、陰影を描かない日本では汚しの表現は、あまり用いられない。数年前、シャレコウベを掲げた一休禅師を初めて制作した時、私にとって重要な人物とは思っておらず寒山拾得展の脇役に過ぎなかったので、本来汚い雲水姿こそ似合う一休禅師に正装を着せてしまった。掛け軸状に制作した一点は元サンデイエゴ写真美術館の館長であったデボラ・クロチコさんの元へ旅立ったが、ここに至ると『一休禅師』で小4の私がイメージした汚い雲水姿で再制作を試みたい。ちなみに汚れは埃っぽい窓際に何週間も置きっ放しにしておいたホンモノ?を予定している。本物の汚れ

  • スーパーにて

    大型スーパーに食材を買い物に行くと、つい母に、と考えてしまう。最後の2年ほどはホームが誤嚥を恐れ、大したものは持って行けなかった。一緒に買い物に行っていた頃、嬉しそうに食品の棚をを見上げる表情が思い出される。父の時も涙一つこぼれなかったが、昔から男が一人工作する姿にツンとくるところがあった。父とも通った大工センターに材料を買いに行ったら、そのイメージは日曜大工好きの父のイメージだったのだ、とフイに気付いて、亡くなって随分経っているのに涙が止まらず、買い物どころでなく帰ったことがある。そう思うと、母が亡くなり2ヶ月が過ぎ、そろそろ危ない頃である。一番危険なのは、あの嬉しそうな買い物中の母の顔だろう。こう書いていても危ないので、スーパーでカミさんに、ただついて歩いている使い物にならなそうなダンナが邪魔臭い、と...スーパーにて

  • 今となっては足腰に難

    映画や小説から全てを学んだ、といういい方があるが、私の場合は、ほとんど全てを作ってきた人物と向き合ってきたことにより学んだ。また最近よく思うのは、何十年も他人を作って来たが、作ることは自分と向き合うことであった。今にして思うと、陰影を排除することにより、結果的にこの不信心者を、今のモチーフに導くことになった。人間も草木同様自然物。人間にも肝心なことは備わっている。と考えて来たが、自分の中に仏は居る、と同じことではないか?しかし調子に乗って坐禅などしない。私にはひたすらヒトを作る、という方法がある。今となっては脚腰痛いし。今となっては足腰に難

  • 「臨剣の頌」(りんけんのじゅ)

    写真を始めてずっと、制作した立体像の陰影を、それをさらにより生きるように陰影を与えていた。なので、陰影を排除しようとい思いついた時に躊躇したのは当然である。蒙古兵と無学祖元の『臨剣の頌』を制作しながらつくづく思った。寒山拾得や蝦蟇仙人にも陰影を与えようとは思わないけれど。陰影のない石塚式ピクトリアリズムは、ガッツ石松の幻の右くらい〝滅多に出ない“スペシャルな手法とすべきかもしれない。蒙古軍が南宋に浸入した時、温州の能仁寺にて坐禅する無学祖元が蒙古兵に剣を向けられるが、平然と「臨剣の頌」(りんけんのじゅ)という漢詩を詠む。すると感銘を受けた兵は去ったという。後に北条時宗にこわれて来日し、円覚寺の開山となる。「臨剣の頌」(りんけんのじゅ)

  • パラレルワールド

    蒙古兵に喉元に剣を向けられる無学祖元。すでに真正面を向いた作品を作ったので、手前で横を向かせた。2人の顔を入れるとなると、構図は大体決まってくる。前作で龍を身体にまとわせたので、ごく普通に当たり前に、を心掛ける。陰影のない世界だと、空気感などとは無縁の真空状態のような世界だった。2人がいくら近寄っていようと、影はもとより反射による影響も受けず。まさに切り貼り。だからからこそ、背景に、人物の考えている内容を反映させたり、日本人がかつて普通に行っていたことが出来た。今回は途中で方向転換したので、2種類作ることになってしまったが、今後はパラレルワールドを行き来するが如く使い分けたい。パラレルワールド

  • 草喰う犬

    『臨剣の頌』の撮影を終え、私のような不信心でいい加減な人間が、あまりにも立派な高僧のことばかりずっと考えている。これはどこか歪んだバランスを欠く行為ではないのか?ふとよぎった。60年代に量産され海外に輸出された、奇妙で安物のいわゆるビザールギターは、アフリカのミュージシャンやシカゴのマックスウェルストリートあたりのブルースマンが抱えている姿がたまらなく格好が良い。そんなギターのピックアップは、コイルの巻き数が雑で少ないためか、出力は低いが独特の響きがあり、歪ませると味もある。そんなピックアップに交換しようとハンダ付け。私はこういうことが、すこぶる付きで下手くそである。ギターの腕も何十年経とうと爪の先ほども上達しないが、こんな余計で無駄なことでバランスが整う気がする。犬はたまに道端の雑草を喰うが、本日私を襲...草喰う犬

  • 一日

    入院時に、ベッドで上半身を起こしていると前日からの腰痛が消えたので、退院後、すぐにアマゾンで角度をつけられるマットを入手した。ところが寝相は悪い方ではないのだが、朝になるとずり下がって寝ている。しょうがないな、と寝直したら心温まる夢をみて寝坊した。自然光で蒙古兵を撮影。曇天の灯りでイメージより柔らか過ぎる。そうこうしたらクリニックの定期検診の時間が迫り、そのままにして出かける。結果全て問題なし。軽く祝杯をあげる。毎日ブログを書いていて心臓の手術をした、なんていうと、間を開けにくい。心温まる夢の話を書こうにも、時間が経つと、なんで心温まったかさえ判らず。タイトルも付け難いほど何もない日のタイトルは大体“一日“である。一日

  • 撮影にあたり

    先日も触れたが、まだ写真をやっていない頃、仕事でプロに撮ってもらう場合、あまり見下ろしてばかり撮られるのが不満だった。普段見上げるように、崇めるかのように作っていたので、人間を撮影するつもりで撮ってもらいたかった。立体を制作するということは、陰影を作り出すことに他ならない。被写体制作者として考えると、撮影者には陰影により、私の制作した陰影をさらに生かしてもらいたいところである。それでも陰影を排除しなければ描けないことも確かにあって、ここぞ、というときは、これからも使い分けてみたい。明日は蒙古兵と無学祖元の『臨剣の頌』の再撮影の予定である。撮影にあたり

  • 当て書きされたシナリオ

    考えてやったことをことごとくはずし、感じるままの方が結果が良い。表層の脳の性能の悪さに早々に気付いたのが幸いであった。人間も草木同様自然物ではあるが、巨大化した頭を使って考え過ぎ、おかげで同じ間違いを繰り返し暴走もする。鍵っ子だった私は、頭に浮かんだイメージはどこへいってしまうんだろう?と一人妄想し、よりによって中井英夫編纂の百科事典(ボデイビルの項には三島の貧弱な上半身が使われていた)を読み耽り、別巻の日本の美術の異様なほど迫真的な頂相彫刻を、飽きずに眺めていたことを思い出すと、私に当て書きされたシナリオは、あの時すでに用意されていたのだろう。ここ数年で、書き手の察しはおおよそついている。当て書きされたシナリオ

  • 撮影の準備

    陰影がないと艶も反射もなく質感描写もされない。元寇の甲冑には革が多用されていたらしいが、なかなかの製鉄技術も持っていた。なので甲冑に艶を与えた。陰影のあるとないとでは、同じ被写体でもそんなところが違う。こんなとき、被写体制作者と撮影者が同一だからいいようなものである。でなければ人形制作者は、艶を消せといったり出せといったりいい加減にしろ、なんてことになるだろう。急な寒さの中、食材を買いに行く。春菊が香りが薄くてさえない。肉で言えば鶏肉が一番好きなのだが、前からたまに気になっていた。妙に石油臭い。撮影の準備

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