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  • やるまで判らず

    寝ている分には痛み止めも要らないが、立ち上がり歩くと相変わらず激痛が走る。これが怪我をしているような痛みなので嫌になる。中締めとなった深川江戸資料館の『深川の人形作家石塚公昭の世界』は8年前のゴールデンウィークてある。こんなタイトル恥ずかしい、と反対した覚えがある。深川はトレンドだそうだが、いや恥ずかしいのは〝石塚公昭の世界“の方だったのだが。この個展では、先日十数年ぶりにお会いしたデボラ・クロチコさんにいわれた、写真作品というより拡大した方が良い、とわれたのを初めて実現したという意味があった。ただでさえ粘土感丸出しの作品が、アラが目立つだけだと思ったが、会場が広いので、やることになった。実際目にすると、そこまで作った覚えはなく、フランケンシュタイン博士ではないが「It'salive!」不思議であった。僅...やるまで判らず

  • 上を向こうが振り返ろうが

    坐骨神経痛、工芸学校の同級生も結構患ったようである。ロクロなど長年やっていて良い訳はないだろう。いくらか楽になった気がする。蘭渓道隆の首は、仰向けのまま目の前十数センチで仕上げたが、それが功を奏したことにしておく。蘭渓道隆の頂相あるいは頂相彫刻についての研究について読む。七百年の間に様々試みられて来たが、本人に会ったことがなければ私と条件は一緒である。建長寺には経行図という歩く姿を描いた肖像画があるそうだが、ポーズの違う身体だけ作り、首をすげ替え撮影するという何十年もやってきた方法を取るのも良いだろう。6センチほどの首に何ヶ月もかかってしまったが、出来てしまえばこちらの物である。上を向こうが振り返ろうが、うつ向こうが自由自在である。このために数ヶ月かけている。上を向こうが振り返ろうが

  • 真実は人の数だけ

    建長寺の蘭渓道隆の木像は、没後すぐに作られたようだが、垂れ気味の目こそ共通だが、目の大きさ骨格まで違う。制作者は現在国宝である肖像像は観ているはずである。何故こういうことが起きるのか。菅田将暉主演の『ミステリという勿れ』で整君はいう。〝真実は一つではなく、人の数だけある“その他数体ある彫刻は、どこにも共通点が見出せない物もある。私はあくまで生前描かれた肖像画がもっとも真実を伝えている、と判断し制作したが、建長寺のサイトに載っている木像とは違ってしまうわけだが、こればかりは致し方ない。今までやって来たようにやるしかない。それに元にした肖像画はよその寺ではなく建長寺の収蔵品である。もう一人円覚寺の開山無学祖元は、絵画でなく円覚寺の木像を元にした。笑っている訳ではないが、口角が上がって、伝え聞く人がらが伝わって...真実は人の数だけ

  • 大覚禅師の頭部完成

    教わらなくとも初めから知っていることがある。頭で考えることがことごとくハズし続け、根拠はないけれど、湧き出る物に従った方が結果が良い。どうやら人間も草木同様の自然物、肝心な物はあらかじめ備わっているようだ。となると〝考えるな感じろ“ということにもなり、レンズをさらに外に向けずに眉間に向けるようになる。仏は己の内に在る、という禅的モチーフに至ったのは、自然な流れだ、と考えている。そもそも自分そのものが自然物なのだから、そこに寺山修司いうところの〝どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない“これで充分。自然の中で暮らす必要など全くない。狐か鳴いたり、4キロ四方人家がない所に暮らした経験からすると、想像力に関しては、むしろ低空飛行のままであった。坐骨神経痛で仰向けのまま、大覚禅師こと蘭渓道隆師の頭部、ようやく満足...大覚禅師の頭部完成

  • 建長寺開山

    数ヶ月蘭渓道隆師の〝あの感じ“が何故出ないのか、ほんの数ミリ眼球を前に出してようやく。改めて陰影のないフラットな絵画から立体を起こす、というのは、頭にある情報のストックを動員し、推理創作するしかない。高度な技術、表現から宗より携え来日したと思われていたが、今では日本で描かれたとされている。この肖像画も、私が禅宗の頂相、あるいは頂相彫刻が人像表現の究極と思うに至った理由の一つである。本人を前に平面に写したであろう絵師その他関係者、七百年後に、それをまた立体に戻そう、なんて輩が現れるとは考えもしなかったろう。こう言っては何んだが、作家であれば気を悪くするとしてもファンやご遺族であろうが、本格的禅を日本にもたらせた禅師、しかも建長寺の開山となると趣はだいぶ違う。制作中の像をを持って建長寺の門をくぐる2日前、寝て...建長寺開山

  • 今日も今日とて

    坐骨神経痛は痛み止め飲んでも、一時的な物をだとのことで、まずはストレッチだそうで、YouTube観ながら、そろそろと。散歩嫌いで安静にしているのが何より、という訳で、普段ストレッチなどしない。バチが当たったということだろう。次回の展示に対する、今の段階での予定をまとめる。こうしてみると『Don’tThink,Feel!寒山拾得展』は寒山拾得や道教的仙人など、架空の話しが中心で、三島由紀夫から、の大転換であったが、創作の余地が多く楽しかった。中国の深山風景をどうするのか策がないまま。個展一月前。手のひらに乗る石ころで標高数千メートル級風景をこなし、達磨太子の面壁座禅する巌窟も作った。創作の余地が多くなると、実景を写した背景がむしろ違和感を生じる。自分を表現する、という意味においては、外側にレンズを向ける写真...今日も今日とて

  • 一日

    昨日、田村さんのお父さんの杖を借りたので、買い物に行くが激痛走る。ひどい炎症を起こしているような、脚に切り傷を負い、出血しているかのようである。痛みが多少楽になる姿勢というのが、その都度変わるのが厄介である。医者にも行けず。鎮痛剤を飲んで横になっている分にはなんとか。その代わりとはとても言えないが、蘭渓道隆師、ほぼ完成といいながら数ヶ月。何か納得が出来ないままだった。こんな時必ず原因がある。眼球の位置が想定より前にあることにようやく気づく。陰影がないと、フラットなので、位置が合ってるように見えても、想像力てま穴埋めする必要がある。浮世絵の役者絵美人画は、皆同じように見えていたのが、実は個性を描き分けていることが判るようになると、それを見分け、楽しんだ江戸庶民の文化度に感心した。あれが陰影削除に至る分岐点だ...一日

  • 『初鴉』海を渡る

    坐骨神経痛真っ只中、田村写真の田村さんの車で代官山のTSUTAYAへ。十数年前、作品を見ていただいたサンディエゴ写真美術館、現名誉館長のデボラ・クロチコさんにお会いする。日本人は出自不明な物に対し目に明かりが灯らないことがずっと身に染みて来た私が、アメリカ人の専門家に〝ユニーク“を連発いただいた嬉しさは未だに忘れられない。今回はその後に始めた手漉き和紙による陰影のない〝石塚式ピクトリアリズム“作品だけをお持ちした。何が嬉しいといって、私が今のモチーフに至った、その変化を評価いただいたことである。人間変われるうちが華、毎日が人生上の最突端のつもりでやって来た。一休禅師が〝門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし“と正月の京の街を、竹竿にシャレコウベを掲げ、家々を回った。そこにまとわりつく鴉。タイト...『初鴉』海を渡る

  • 手漉き和紙プリント

    3種類の痛み止めのおかげで夜も寝られている。痛みの少ない姿勢で制作するが、ズキンと来る痛みを考えると、食事の用意で台所に立つ気になかなかなれない。手漉き和紙のプリントを、田村写真の田村さんに依頼する。改めて陰影のない〝石塚式ピクトリアリズム“を眺めると、独学我流者が、何が根拠なんだか、人間も草木同様自然物、肝心な物はあらかじめ備わっている。と他人の作品見て感心していている場合じゃない、と美術館にも行かなくなり、長い旅路の果て。あるいは、幼い頃夢見た、どこかの王様に石の塔に幽閉され〝算数、宿題やらないで良いから、ここで一生好きなことをやっておれ“そんな人物が、発見されて出て来たら、こんな物を持っていた、という感じがしないでもない。手漉き和紙プリント

  • 密かな裏テーマ

    大覚禅師(蘭渓道隆)法衣の仕上げと頭部の修正。陰影のない絵画の立体化なので、久しぶりに見たらちょっと立体感の解釈に修正を要した。生前に描かれた肖像画を元にした。立体像は何体か残されているが、作られた時代がそれぞれであり、顔がみんな違う。それぞれの作者は肖像画を目にしているだろうとは思うが、私は最初から本人の賛が書かれている、つまり本人のお墨付きとは考え、肖像画の立体化を初めから目的としていた。私が考えたように、もし国宝の肖像画が実像にもっとも近いのであれば、首尾良く立体化が成されたならば、七百数十年振りに、大覚禅師、蘭渓道隆の正面の顔を見ることになるのではないか。長年多くは写真の立体化で試みて来たことには、そんな効果もある。律儀なボクサーのように顎を上げようとしない宮沢賢治を下から撮るこも出来た。密かな裏テーマ

  • スパルタ教育と完全なる結婚

    昨晩は鎮痛剤も効いて、9時前に寝てしまい午前2時過ぎに目が覚めた。まだ歩くとビリビリと激痛が走る。週明けに用事があるので、せめて車に乗れる程度にはしたい。昨年転院した母のホームだが、コロナのせいで、予約制で一階のコーナーのテーブル挟んでの面会だった。母も前のホームを含め2度陽性になったが、いずれも無症状に終わった。それがようやく予約の必要なくなり、居住スペースで要マスクでの面会が可能となった。美味しい酒粕をいただいたので、母が子供の頃好きだったという酒粕を焼いて砂糖をまぶした物を持って行こうと思っていたが、市販の、包装された物以外不可だそうで残念。次の面会では一休宗純の首でも持って行こう。大人向けの『一休禅師』を小4でねだったら、解るわけないから、と反対したことを母は覚えている。母が隠していた石原慎太郎の...スパルタ教育と完全なる結婚

  • 坐骨神経痛2

    昨晩も、数時間寝たところで痛みで目が覚めてしまった。むしろ痛みが増した気がしないでもない。午前中届いた痛み止めを飲む。半僧棒の前後に配する火焔のデザインを考える。英一蝶の、背中の火焔を濡れないように傍に置いて滝に打たれる不動明王図、一蝶のこんなユーモアが好きで作品化してみようと思ったが、思わぬところで火焔を作ることになった。『一休和尚酔臥図』も道端で酔って寝ている一休も作ってみたが、一蝶が、日本で初めて陰影を描いた日本人とされているのを知り、奇縁のようなものを感じた。この2日、ろくに寝ていない。早々に飲んで早めに寝ることにする。水原一平、とんだ大泥棒をテレビで眺めていたことになる。連続殺人を犯しながらクイズ番組に出ていた勝田某なんて消防士もいたけれど。坐骨神経痛2

  • 坐骨神経痛

    坐骨神経痛というものらしい。昨晩はほとんど痛くて寝られなかった。数年前になった時も、朝起きたら痛みが走った。脚の中でビリビリと炎症が起きてるような痛みである。元々腰痛持ちではあったが、椅子に座ると楽だったが、今回は椅子に座ると一番痛く、先日タクシーに乗って後悔した。まあ様々なバチが当たったといわれても仕方がない。仕方ないので寝転がったまま、半僧坊を削ったり、調べ物をする。ある思い付きをしたが、神経痛のおかげだ、という気はさすがにしない。坐骨神経痛

  • 炎と半僧坊

    半僧坊仕上げ手前で乾燥へ。半僧坊の台座に燃え盛る炎の制作方決まる。ここ何年か、人物像が主に被写体となっていたので、展示用として制作するのは、久しぶりの感じである。写る所しか作らない場合は、一カット撮ったら、他に使いようがないので、首だけ引っこ抜いて捨ててしまうことが多い。もったいないという人がいるが実物見せると、冷酷なくらい映らない所は作っていないので呆れられる。達磨大師の構図、満月に少林寺をシルエットに、と考えたが、久しぶりスケッチブックに描いてみると、月を低くすることになり、高い崖の上に達磨大師をというイメージから達磨大師を大きく扱うことに。私の場合は背景も、主役の表情を引き立たせるための物である。右脚が椅子に座ると痛いので、寝転がったまま粘土を。実に辛い。炎と半僧坊

  • 一日

    半僧坊の台座に火焔を配して、燃え盛る炎の中で霊力を発する半僧坊。なかなかカッコ良いのではないか。歌舞伎の仁木弾正調に。何で今時、このような奇妙な物を作っているのだろう?と思っている時に限って、甘美な孤独感に酔う、ヘソ下三寸のもう一人の私である。だがしかし、構想だけで、完成を待っている連中を仕上げるまでは手掛けないことに決めている。そもそも明治時代に、浜松の方広寺で火災があり、本堂など焼けたが、半僧坊は焼けず、以来火伏せの神として全国に知られるようになったそうである。ここ3日ほど、右脚がピリピリと痛くて仕方がない。体勢を変えると楽になったと思うと痛くなり、しょっちゅう変えている始末で眠りも浅い。困ったのは椅子に座るのが一番痛い。原因は判らないが、何年か前の正月にも一度あった。しばらくして自然に治ったが。本日...一日

  • 火伏せの神

    半僧坊の写真作品は、東シナ海の荒海の船上の帆柱の先に立つ、初登場のシーンの設定である。半僧坊の厄難消除のご利益でも、海上安全となった理由だが、もう一つ、代表する霊力、ご利益は火災消除である。そこで立体像としての半僧坊は、燃え盛る炎に囲まれ火伏せの霊力を発しているところにしよう、と台座に不動明王の背中の火焔状の物を配することにした。ヘソ下三寸の私は、こうして思い付いては仕事を増やしてくれる。しかし完成作を想像すると、炎に囲まれている像は知らないし、火伏せの神らしくて良い。と結局従うことになる。ただし、台座まで作るのは、完成直前の状態で待たされている連中を仕上げてからだ、と肝に命じた。火伏せの神

  • 絡子環

    半僧坊は、当初船のへさきに立たせるつもりだったが、帆柱の先に気が変わっている。ただの帆柱よりへさきの方が船らしいとと考えていたはずだが。奥山半僧坊大権現のある浜松は方広寺の月例法話の中で和尚が半僧坊登場の様子をに一言「帆の上に」といわれたのが耳に残っていたのだ。嵐なので帆は下ろしているだろう、と帆柱の先にしたのだった。ただの柱の先では、と思ったが、そこに蝉と呼ばれる滑車を着け、ロープをかける。単なる柱には見えないだろう。それに半僧坊は直立させるが帆柱は斜めにし、嵐の海ということにしたい。蘭渓道隆、無学祖元、半僧坊をの袈裟に付いている絡子環(らくすかん)という輪っかを着け、ようやく法衣らしくなった。絡子環

  • 月下達磨図

    スケッチの必要がある作品が一つあった。達磨大師である。今までの達磨大師がインド人に見えない、というところから始まった。なので衣はインドのサリーやビルマの水島上等兵っぽくした。面壁九年の坐禅修行のある晩という設定である。『月下達磨図』。本来、作りながら、その表情をこう撮ろうと、それを基本に全てが決まるのだが、月と崖、その背景に月を配すのだが、その月に、少林寺の多重塔がシルエットになっている設定にした。そうなると、適当な上空にポッカリ、月百姿破窓月という訳には行かず、低い位置になる。カメラの視点と月の間に達磨大師。どの角度で達磨を撮るか。それが決まらないと、どんな崖を作るか決められない。ヘソ下三寸の私は思い付くだけで、あとは良きに計らえと丸投げである。月岡芳年に『月百姿破窓月』という作品がある。私はインド人風...月下達磨図

  • アイデアスケッチ

    スケッチの類いはまったく描かない。何気なく描いた悪戯描きでイメージが固まってしまい、そうなると何故だか変更が効かなくなるからである。捨ててしまった悪戯描きを超えられず、ゴミ袋を漁ったこともある。それで決まるならそれはそれで良いともいえるが、それがなければ他の可能性があったのではないか、と考えてしまうのである。写真作品の画面は、ぼたもちが落ちてくるように瞬時に決まるが、決まるが、スケッチブックでああだこうだしたいのだが、以上の理由で、何十年も描いていない。しかし今日買い物ついでにノートを1冊入手した。最近、完成直前まで使っておきながら、次の作品を始めてしまうことが続いている。特に今回は、予定になかった半僧坊を突然始めてしまった。これは流石にあんまりである。スケッチして暴走を止められるのではないか?と考えた。...アイデアスケッチ

  • 虎に翼

    朝ドラ『虎に翼』珍しく第一回から観ている。伊藤沙莉を初めて見たのはお菓子だかパンだかのCMで、2人で踊ってる片方は誰だろう?と思っていて、しばらくしたら『ミステリと言う勿れ』が良かった。私も未だに結婚の何処がめでたいのかさっぱり解らないでいる。さらに、出来れば死ぬまでに、女大谷みたいなのが現れ、例えば男子の陸上記録を抜くところを見たいものだ、とずっと思っている。思っていたら、64年の東京オリンピックのマラソンのアベベの記録は同じエチオピアの女子がついに抜いた。また先日、ネットで元キックボクサーの魔裟斗が20キロも軽い女子に腕相撲で負けてびっくりした。半僧坊は、ヘソ下三寸のもう一人の私が、突然予定変更したおかげで、長年続けて来た手順が狂い、詳しくは書かなかったが、長年培った型を踏み外す危険を味わい、2度とす...虎に翼

  • 一日

    半僧坊を乾燥させながら、半僧坊を始めたせいで未完成であった無学祖元と蘭渓道隆の最終仕上げ。久しぶりに見ると不思議な気がする。改めて考えると、目指す物があったわけではなく、行き当たりばったり、目の前にぶら下がったパンに齧り付いて来ただけである。目標、目指す物がない、というのは、そこに届かず、挫折することがない、ということでもある。蘭渓道隆から半僧坊に作り進めてまた一歩進んだ。常にその日が人生上の最突端である。単におめでたい人間という気がしないでもないけれど。一日

  • 起動するヘソ下三寸

    半僧坊は当初、浜松の方広寺の明治時代の刷物をそのまま立体化するつもりでいたが、制作中に気が変わり、嵐の中現れる、伝説の登場時の場面を制作することにした。霊力を発しているところ、ということで、修験者のように印を結ぶことにした。おかげでバランスが変わり、いくらが傾いて来たので、早々にろくろ台から外し、乾かしながら作り進めた。結局、ヘソ下三寸辺りのもう一人の私の命ずるまま、ということになった。それは結果が必ずその方が良いので構わないのだが、杖を持って印を結んでこちらを睨んでいる半僧坊を見ていると、何でこれを作っている?という気分になり、グズな頭が理解するタイムラグを埋めるかのように、当ブログで繰り返し思い出したり検証したり。ヘソ下三寸の私が起動した時、私はいかにも思いついた、という顔をするらしい。起動するヘソ下三寸

  • レンズを自分に向ける

    80年代だったか90年代だかに、女性のセルフヌードが流行ったことがあった。眉間にレンズを当てる念写が理想、と考えていたが、外側にレンズを向ける限り、比喩的表現にしかならないと考えていたので、自分にレンズを向ける女性達には共感を感じていた。それに男性がレンズを外側に向けハンティングするイメージが生理的に少々苦手で、好きな写真家はどうしても女性になる。中でも当時、もっとも好きだったのが、年上のひとシンディ・シャーマンだった。何年か前にサンディエゴ写真美術館のデボラ・クラチコさんに作品を見てもらったとき、何か質問は?聞きたいことはただ一つ。私のようなアプローチをしている人が他に居ますか?だったが、紙に書いてくれたのがシンディ・シャーマンだった。全然違うじゃないか?と思ったが、その後、陰影のない手法により〝念写“...レンズを自分に向ける

  • 流れには乗るが逆らえず

    光と影の芸術といわれる写真の最大の欠点は、無い物は撮れないことである。それがよりによって無い物を作り、さらに光と影を排除している。すっかり写真という土俵を割ってしまった感があるが、ようやく〝念写“のツールとして使い物になるものになった。こんなことならもう少し早く、といいたい所だが、流れというものには逆らえない。作家シリーズ最後となった『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』は、三島が死の数週間前まで撮らせていた『男の死』の出版の噂に怯えながらの10年だったが、あくまで三島の作品内の死をモチーフにしたとはいえ、それが奇しくも出版の5ヶ月前に個展が出来たことが何よりであり、やり切った、という初めての経験でもあった。それを通過したから、ただ今、半僧坊という権現を作っている訳で、何事も一足飛びに、とは行かないようで...流れには乗るが逆らえず

  • 厄難消除

    昨日に続き晴天なのでベランダで半僧坊を乾燥させていたが、どうもそんな悠長なことでは間に合いそうにない。乾燥機にかける。最近はタウン誌に制作中の新作について書く流れになっている『半僧坊大権現』の原稿は入稿済みだが、最初は方広寺の摺物の立体化で、ただ杖を持っているだけのつもりだったのが、途中で刀印を結んで霊力を発しているところにしよう、と気が変わり、予定が変わってしまった。なので原稿の〝予言“に合わせなくてはならない。一昨年『布袋尊』を作った時、金運アップのご利益もあるかもしれない、なんていっていたが、作ったのが私だと思うと、説得力に欠けたかもしれない。半僧坊は火伏せの神である。写真作品では、嵐の中帆柱のてっぺんで、道ひらきの神として猿田彦的霊力も発する予定である。厄難消除、海上安全、火災消除。厄難消除

  • 見たまんま嫌い

    写真や西洋絵画になく、浮世絵、古典的日本画にある自由を写真に取り入れられないか、と考えたが、それで何をしようとしていたのか。具体的な用途を思い描いていた記憶はない。中締めといえる個展が終わり、しばらく図書館に通っては、浮世絵、日本画を眺め、その自由さを羨ましく眺めていた記憶がある。何をきっかけにそうしていたか思い出せない。一つもしや?と思ったのが、長塚京三が北斎を、宮﨑あおいが娘のお栄をやったドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』その中で北斎が西洋画を見て「見たまんま描いていやがる。」といった。見たまんまが大嫌いな私は、そのセリフがよほど気に入ったか、当ブログで何度も引用した覚えがある。ひょっとしてあの北斎のセリフがきっかけじゃあるまいな?調べたら、図書館通いの一年後のドラマだった。どうでも良いことだが〝何だ...見たまんま嫌い

  • 誰が描いた絵図なのか

    雷鳴轟く嵐の風景は、頭の中ではおおよそ制作方法は考えた。イメージとしては滝沢馬琴辺りの絵草紙のスペクタクルシーンである。雷は小学生の時描いた、キングギドラが吐く光線やメーサー砲のレーザー光線の要領で描く。光と影の芸術から肝心の陰影を排除して、鎌倉時代の嵐の東シナ海で、袈裟をまとった天狗状の人物が、帆柱の先端に立って霊力を発揮している場面を写真作品にしようとしている。陰影が出ないように撮影して切り抜いて貼り付けるだけなので、こんなことなら、と思わなくもないが、ここに至るために、端折って済ませることは一つもなかった。光やレンズの作用の助けが使えない分、被写体の出来が成否を決めることになり、私の原点は人形制作だったことも思い出させてくれている。禅的モチーフに至っていることが、また不思議で、このための手法とさえ思...誰が描いた絵図なのか

  • 誰が描いた絵図なのか

    雷鳴轟く嵐の風景は、頭の中ではおおよそ制作方法は考えた。イメージとしては滝沢馬琴辺りの絵草紙のスペクタクルシーンである。雷は小学生の時描いた、キングギドラが吐く光線やメーサー砲のレーザー光線の要領で描く。光と影の芸術から肝心の陰影を排除して、鎌倉時代の嵐の東シナ海で、袈裟をまとった天狗状の人物が、帆柱の先端に立って霊力を発揮している場面を写真作品にしようとしている。陰影が出ないように撮影して切り抜いて貼り付けるだけなので、こんなことなら、と思わなくもないが、ここに至るために、端折って済ませることは一つもなかった。光やレンズの作用の助けが使えない分、被写体の出来が成否を決めることになり、私の原点は人形制作だったことも思い出させてくれている。禅的モチーフに至っていることが、また不思議で、このための手法とさえ思...誰が描いた絵図なのか

  • 帆柱の先っちょだけ

    雷鳴轟く嵐の場面、実際半僧坊が現れるのはそんな場面だけれども、へさきにしろ帆柱にせよ、その先端に立たせるということは、船体や、荒れた海を描かずして、ということでもある。となれば雷鳴轟く背景と、見えない風を描くために浮世絵師がそうしたように、半僧坊の法衣はより風にあおられ、髪も髭も、より風を受けねばならない。三島由紀夫を戦闘機F104に乗せる必要があった時は、定年迎えてヒマな酔っぱらいが、三島とほぼ同じ160センチくらいだったので、浜松の自衛隊基地まで連れて行き、物差し代わりに室内展示のF104の座席に座らせ撮った。主役の被写体制作に、ほとんどの制作時間を費やし、シャッター切るまで数ヶ月かけているのだから充分だろう。眉間にレンズを当てる念写が理想だが、そんな能力はないのだから仕方がない。今回は帆柱の先っちょ...帆柱の先っちょだけ

  • スペクタクル半僧坊

    無文元選禅師は元王朝が危ないという情報を得て、日本から来ていた他の僧と帰国することにした。そして東シナ海で嵐にあう。観音経を唱えていると半僧坊が現れ、船を導き、無事九州に着いたということになっている。その場面のため、霊力を発する半僧坊を、船のへさきか帆柱の先に立たせようと考えた。当時の帆はムシロだったようだが、嵐の場合は帆を下ろすだろうし、帆柱を倒すこともあったらしい。ただの円柱では船に見えないのではないか?となればへさきか。最近手がけているモチーフは、性質上、昔手がけられていなければ、以後手付かずのモチーフが多い。だからといって、やり過ぎは慎まなければならない。ただ無背景の中に立たせるべきか。と午前中は思っていたが、ヘソ下三寸辺りのもう一人の私が黙っておらず、今この段階で、雷鳴轟く中、帆柱の先にすっくと...スペクタクル半僧坊

  • 二人三脚

    尊富士新入幕で優勝!上半身がごついが、膝から下の感じが輪島を思い出す。親方、伊勢ヶ浜の旭富士ファンであったから余計に嬉しい。半僧坊が登場するエピソードは後醍醐天皇の皇子である無文禅師が元王朝時代の中国に渡る。当時の国教はラマ教だったそうで、大陸で旧来の仏教を伝えるのは禅宗だけだったという。7年の修行を終え、帰国の途上、東シナ海で嵐にあい、禅師が一心に経を唱えていると身の丈3メートルの偉人が現れ船を導き、無事に帰国する。無文禅師は、日本の船で帰国したのか、あるいは元の船だったのか。最近は遣唐使、遣隋使などの船が模型やCGで再現されているようだが、記録が残っているのか、調べて判るのかすら判らない。何故知りたいかというと、半僧坊が、船のへ先か帆柱の先にすっくと立ち、嵐の中、刀印を結び霊力を発している画が浮かんだ...二人三脚

  • 半裸の女体から陰影排除ならず

    陰影のない石塚式ピクトリアリズムは、もう10年近くやっていると思ったら、まだ6年ぐらいらしい。昨日アップしたつげ義春トリビュート展(ビリケン商会)に出品した『ゲンセンカンの女』は、苦闘中の、ポイントとなった作品である。この頃は陰影と共に日本的遠近法まで取り入れる気でいたが、形を加工するしか方法がなく、これでは〝まことを写す“写真である意味がなくなる。と結局断念し、出品作を2度差し替える、という失態を演じた。わずかにタバコ盆辺りに形跡が残る。それより何よりも、自分の作った人物は、せっかく自分で造形した陰影なのに、と葛藤しながらも陰影を排除しながら、行燈の灯りの当たる半裸の女体から陰影を排除することに耐えられず、陰影あるカットで後に作り直した。ようやく腑に落ちたものの、石塚式ピクトリアリズムではなくなり、確か...半裸の女体から陰影排除ならず

  • 強風の中の天狗

    全体像を作っているおかげで、予定と違う方向から撮ることに決めた。立体は作っていると、イメージしていなかったところも、出来上がってくるわけで、自分で作っていながら、始めて目にするイメージが現れる。絵画や、写る所だけしか作っていないと、こういう経験は出来ない。途中から、荒れた海や燃え盛る炎に向けて霊力を発しているので、強風に煽られていることにしようとしたら、重心が変わり傾いて来た。まいったな、と思ったが、昔テレビで制作中の佐藤忠良の、粘土の人体が崩れるように倒れたのを観たことがある。佐藤忠良でさえ倒すのだから、私如きが倒しそう、になっても驚くことはない。強風の中の天狗というと、どうしてもつげ義春『ゲンセンカン主人』を連想してしまう。強風の中の天狗

  • 依存症

    すでに撮影を始めているはずが、権現様を作っている。ギャンブル依存症について報道されている。ドーパミンがそうさせているらしい。2011年、一度目の『三島由紀夫へのオマージュ男の死』の前、知人に喫茶店でそれだけは止めろと説得された。二つのギャラリーに、何をやっても良いが、それだけは、とかいって断られていたし。しかし説得の言葉も、その時の私には、妙なる音楽に聴こえた。仕組みは似たような物かもしれない。それはともかく。写る所しか作らない場合、それこそ数度もふれないほど作らない。それだけ構図も決まっていて、どう撮ろう、と悩むことはない。制作時間も短い。そのかわり一カットのためだけに作ることになる。久しぶりに展示を意識して全体を作っている。そうすると、今度はこちらからも、あちらからも撮りたくなってしまう。依存症

  • 予言に追いつくよう

    半僧坊も、作ると決めたものの、色々調べたり、ブログに書いたり整理しており、そうこうしていたら次号『タウン誌深川』の原稿『半僧坊大権現』が出来てしまった。しかし昨日、滅多にないことだが、気が変わって首から下を作り直すことにしてしまった。すでに書いてしまった文中の予言?に追いつくよう制作を進める。天を仰ぐように上を向いていた頭の顎を引かせた。何か企んでいるような表情は、半僧坊というより〝怪僧“ラスプーチンの如しだが、その霊力を向ける矛先は、あくまで人々に降りかかる災いである。『古画名作裏話』を入手。昔から人形から人形を、写真から写真を学ぶべきではない、と考えている。予言に追いつくよう

  • やり直す

    半僧坊の胴体、やり直すことにした。写真作品の完成形をイメージして造形する訳だが、本来見せるべきは表情で、いつもと違って、プラス天狗状の高い鼻という要素がある。さらに杖や刀印を結ぶ手、など要素が多い。もう少しポイントをはっきりさせたい。ここのところ、前向いて坐禅している人ばかり作っていたので、久しぶりに勝手が違った。というのは頭で分析したことであり。霊力、神通力を発しているといえば、巨大な赤鯉に乗って飛び出す琴高仙人、吉兆ものの三本脚の蛙を肩にした蝦蟇仙人、己の分身、魂を口から吐き出す鉄拐仙人を作ったが、それらの物を制作して、本来味わうはずの快感を感じない。これはおかしい、と我に帰る。考えてみると、写るところしか作らない場合、ここからしか撮らない、とイメージをはっきり持って作っていた。一カットのためだけに作...やり直す

  • 地面に影を描く黒澤明

    夜、江東区古石場文化センターへ。小津安二郎の地元で、映画に特化したセンターである。小津コーナーには、私の小津像も収蔵されている。『影武者』の家康役から黒澤映画常連俳優の油井昌由樹さんを担当者に紹介する。いずれ講演会など行われるだろう。15の時、油井さんのアウトドアショップ、スポーツトレインに、まだどこにも売っていなかったバンダナを買いに行った。「UFOの写真見せてやるよ。」キャンプ用品で捏造したものだったが。85年油井さん司会の深夜の美術番組『美の世界』(日本テレビ)に出ることになり、その話をしようと思ったら『影武者』オーディションに受かって司会が榎本了壱さんとマリアンに。音声が社員だったスゥインギンバッパーズの吾妻光良さんだった。83年の2回目の個展に2人で見えて、勝った負けた、とやっていた。DMのチャ...地面に影を描く黒澤明

  • 艱難辛苦イバラの道

    真言密教などで右手の人差し指と中指を刀に見立てたものを刀印といい、左手を鞘として両手を組んで結ぶのを、忍者でお馴染みの剣印という。権現様を作っているのも予定外なら、粘土の到着を待つ間に気が変わり、刀印を結ぶ権現様を作っているのはさらに予定外である。ここから『タウン誌深川』からの2度目の引用。小学生時代の私に〝三本脚のガマガエルを頭に乗せた蝦蟇仙人、虎に乗った豊干禅師、鯉に乗った琴高仙人、布袋様も作ったぞ。」と教えたら「えっこのままオジサンになるまで好きなことをやってていいの?」と目を輝かすだろうか。いやそれでは教育上よろしくない。人生はチョロい物だと勘違いしかねない。その後の私の紆余曲折、艱難辛苦のイバラの道を記録した映像でもあれば見せたいが「何か作ってるか寝てるか酒飲んでるかで、肝心なことは何もやらない...艱難辛苦イバラの道

  • 半僧坊霊力を発す

    『半俗半僧、身長一丈余、面相あくまで赤く、高鼻乱髪白衣に身をつヽみ、金色の袈裟を肩に、木杖を携え、その姿あたかも猿田彦そのままの一老人なり』修験道の修行をした方にメールで質問したりして、結局左手に杖を持ち、右手で刀印を結び、発する霊力。荒海や燃え盛る炎に向けたくはあるが、火と水という、陰影のない石塚式ピクトリアリズムでいずれも苦手なモチーフ。陰影あった頃は、霊力を使うことなく一晩で金閣寺を炎上させた私だったが。ギター奏法でも特殊な奏法になると、曲を選ぶこともあるという。その代わり、たとえば半僧坊の全身から四方八方放射状の光を発する図というのは可能であろう。そうすれば、粘土がなくて一日イライラしたのも、このためだったのだ。となる手はずである。半僧坊霊力を発す

  • 予定変更か

    制作を始めた頃から、作りたいのに、わざわざ他のことしたり自分を焦らし、制作の快感をより高めよう、というヘキがある。おかげで獲物に齧りつくように集中力が増し、完成が早いのも事実ではある。昨日粘土がないことに気付き、自動的に、そんな状態である。しかし効果を狙ってのこととは大分違う。朝からアマゾンの発送状況を確認し続ける。いつの時代に描かれたか、方広寺の摺物をもとに頭部を制作した。これぞ半僧坊という物が残っているなら、あえてそれに準じるのも良い。ならば立ち姿も同じポーズで、と決めていたのだが、粘土を待つ間に虫がわき始める。半僧坊は厄難消除、海上安全、火災消除の霊力を持つ。真言は〝オン・ナンノウチリチリ・ソワカ“。ならば荒れた海原や燃え盛る炎に向け、刀印を結んで霊力を発しているのはどうか?吉と出れば、昨日は粘土が...予定変更か

  • 頭に血が上る

    本日から半僧坊の首から下を作るつもりで昼食後、さて粘土を、とダンボール箱を覗くと別の物が。ずっと粘土が入っていると思い込んでいた。頭に血が上る。ヘソ下三寸のもう一人の私は作ることになるとせっかちに変身する。かといって咳が出るので外出を控えている。仕方なくアマゾンで注文。蘭渓道隆、無学祖元のなんというのか、袈裟に着いてる輪っかを作る。こういう形の決まった、製品的な物を作るのが苦手である。なので架空のジャズ、ブルース、ミュージシャンで個展デビューしたのに、楽器製作でウンザリし、翌年の個展では楽器ケースを持たせる、という策を考えた。しかしそれも面倒になり、『アフターアワーズ』とかタイトル付けて、何も持たない演奏後の人物多くなった。そもそも私のようなぶきっちょがやるようなことではないいのだろう。本日は早めに飲酒。...頭に血が上る

  • 一日

    他の連中を仕上げ、着彩を済ますべきだが、明日から半僧坊の全体に取り掛かりたい。作りながら蘭渓道隆と無学祖元、一休宗純の法衣の部品を作り、仕上げたい。余計なことを始めてしまうので、完成が遅れてしまうのだが。半僧坊は、ウェーブがかかったモジャモジャとした髪で、髭も含め妙な形だと思っていたが、それは後ろの髪が、周りこみ、髭などと重なっているためだと解釈。陰影のない線描画、西洋画と違って、説明ははぶかれている。陰影があってもクラナッハのように解剖学的にめちゃくちゃなのもあるが、あれはあれが良い。好きだったクラナッハも、上野で展覧会があったが、結局行かずじまいだった。もう見る方はいいや、という事だな、と思った。人混みがますます苦手になっているし。最近一週間に一回は救急車のサイレンを聞いている。マスクをしている人も増...一日

  • 権現様作る

    それにしても何で私は権現様を作っているのだろうか?権現様は全国各地にある。仏や菩薩が仮の姿となって人々を救う。天狗や不動明王のような、あるいは混ざったような様々な姿をしている。半僧坊は顔は天狗のようだが、由来の浜松は方広寺の開山、無文元選禅師が中国からの帰途、嵐に会うが、そこに現れ無事に船を導く。そんなところは天狗の原型ともいわれ、日本神話のなかで、進むべき道を照らす道ひらきの神とされるまさに猿田彦だろう。私も要領は判っている。本来グズグしている私とは違う、ヘソ下三寸あたりのもう一人の私が発動し、作りたい、と思ってしまえば、人間イメージした物を作るように出来ている、という養老孟司いうところの仕組みによって作ることになる。そして完成するまでに、いや遅くとも発表するまでに、熟孝の末に作ることを決め、完成したの...権現様作る

  • 一日

    最近、ユーチューブで坊様の法話をよく聴くのだが、名調子に感心することが多い。中国からの渡来僧を作ったが、日本から相当な数の僧が大陸に渡っている。当時の最新の文化を学び帰国する訳だが、大陸側の支配民族が次々と変わる中での話しである。また興味深い人物も多い。しかし興味を持つのは良いが、残りの時間を考えなければならない。これまでに、ようやく三つ目のモチーフを始めたに過ぎない。手法もようやく大リーグボール3号である。とにかくヘソ下三寸に居るもう一人の私は需要もかかる時間もお構いなしなので、程度の悪い頭で、ブレーキをかけなければならない。手法に関してはもうさすがに4号はないだろうし、文字情報からイメージが湧くことが多いので、余計な読書は止めるべきだろう。余程のことがない限り小説を読むこともないかもしれない。とにかく...一日

  • ピクトリアリズム

    96年、初めて画廊で写真を発表した時、被写体が目の前にあるのに、人間を撮った実写だと間違った人がいた。わざわざ人形作って現実の模倣などまっぴらである。作り物でないと出来ないものを、と翌年作家シリーズに転向した。当時はアナログで、澁澤龍彦をオウム貝に乗せて空を飛ばしたり。谷崎は巨大なヌードと共演させた。仮にあの時、実写に間違われたことを良しとしたなら。人間変われるうちが華、という風船体質でなかったなら、今頃、まさかこんな時代が来るとは、と断末魔と共にAI技術の波に飲みこまれて行ったかもしれない。石塚式ピクトリアリズムは、まことを写すカメラで撮ったにも関わらず、私のイメージ内のまことしか登場しない。かつての西洋絵画の影響を受けたピクトリアリズム(絵画主義写真)とは趣きは違うけれど、やってる本人が絵に見えるから...ピクトリアリズム

  • ズボラな宣教師?

    奥山半僧坊大権現で木版により刷られた半僧坊は、その元になった下絵は、画風からして明治より以前に描かれたものだろう。鼻高く、目の色薄く、頭頂部に毛がなく、ウエーブのかかった髪。この異人のモデルとなったのは、世界中の、あらゆる辺境にまで足を伸ばし、現地人にパンツを履かせて回った白人の宣教師ではないか?昔の日本では、異人の象徴だったろう。だとしたら髪や髭は伸び放題、ズボラな宣教師である。頭部に関しては、できるだけそのまま立体化したいが、デフォルメされた、日本的遠近感のもとに描かれた線描画である。辻褄が合わない場合がある。解釈が必要となる。ズボラな宣教師?

  • モチーフにより

    明治3年の木版で刷られた方広寺の半僧坊は、老白人に見えると書いたが、線描ではあるが瞳に色をささず、白髪といわれた髪はウェーブがかかり、ほとんど白人である。鼻の高さは、当時は天狗の如く見えたかもしれない。テンガロンハットでも被せればサザンロックのベテランミュージシャンに見えなくもない。蝦蟇仙人を作った時、蝦蟇仙人が、カエル顔である必要はないことに気が付いた時には、すでに出来てしまった。日本中国で星の数ほど描かれ、日本では忍者の児雷也に変じたりしたモチーフである。一方、半僧坊は、静岡の方広寺、奥山半憎坊大権現が大元で、明治時代は大人気で門前市を成したそうである。そこで中国土産として親しまれた、寒山寺の寒山拾得の拓本と同様に売られたであろう摺物の絵を立体化している。建長寺の半僧坊でも護符と共に半僧坊御姿絵として...モチーフにより

  • 正調半僧坊

    昨日、火災に巻き込まれたら、人形の首だけ引っこ抜いて逃げると書いたが、今作っている半僧坊は、静岡の方広寺の奥山半僧坊大権現が大元で、大火の際燃えなかったことから火伏しのご利益が脚光を浴び、全国に広がったので、半憎坊を作りながら火事に遭うわけには行かない。方広寺の開祖無門元選が中国からの帰途嵐に遭い、一心に観音経を読んでいると、現れて助けたのが袈裟をまとった鼻の高い異人で、3メートルはあったらしい。無事帰ると再び現れ、無門師に弟子入りを願い出る。「汝、半ば僧に似たる所あり」。そこから半僧坊と称するようになる。方広寺から明治時代勧請(神仏の分霊を場所を移し祀る)したのが建長寺の半僧坊大権現である。十数体の山伏姿の天狗が守っている。明治3年に方広寺で刷られた物を見ると、袈裟をまとい、鼻の高い猿田彦のように描かれ...正調半僧坊

  • 一日

    母の入っている施設にしばらくコロナが出続けていて中々顔を見に行けない。母も2度目の陽性となった。棟続きで病院なので対応は早い。幸い今回も無症状で、元気で歌を歌っているという。こういう時、電話の相手は笑っているので、様子が想像でき、また調子に乗っているのだろう。ご迷惑かけて、といいたくなってしまう。長らく商売をやっていたせいで、息子の言うことは聞かないくせに、外ズラは良い。おかげで楽しげにやっているから、その点に限れば助かっている。私は外出をあまりしないわりに、咳が続くので、冷凍食品や調味料もアマゾンで取り寄せ、外出をさらに控えている。どうせ取り寄せるなら、聞いたことがない、地方のメーカーを選んでいる。便利になった。どうせやるなら、死ぬ寸前までやれる仕事が良いと昔から思っていたが、足腰立たなくなっても、玄関...一日

  • 夜の夢より昼の夢は厄介

    先週まで思いもしなかったものを作ろうとしている。何で?というのはグズな表層の脳であって、ヘソ下三寸の私はせっかちである。建長寺の最深部に半僧坊大権現がある。この辺りは絶景だそうだが、山伏姿の天狗の銅像が並んでいる。元は、ある禅僧が中国での修行を終えた帰路、嵐にあう。それを救ったのが、赤い顔で高い鼻の天狗のような日本で言う猿田彦みたいな物だったらしい。袈裟を着け、半分僧のように見えたことから半僧坊となった。各地に大権現はあり、天狗、あるいは烏天狗、不動明王のようであったり様々だが、袈裟を身に着けた物は見当たらない。天狗ではなく、袈裟を身に着けた猿田彦調の大権現を作ってみよう。夢を見た。明治時代、湖畔のほとりに停められた馬車の中で男が殺されている場面を制作しようとしていた。目が覚めながら〝何だ夢か、色々考えた...夜の夢より昼の夢は厄介

  • 自ら回向返照して更に求めず

    昨年より作り続けている建長寺開山、渡来僧である蘭渓道隆は、もっとも実像を描写していると思われる建長寺収蔵の肖像画だけを参考に作っている。ずいぶん前から完成間近、といってる気がするが、完成に至っていない。その原因は、どんな人物であったのか、良く知らないまま作っている、からであるのは明らかで、臨済宗の関係者の方にお会いする機会があり、その2日前だったか、夜中に寝ていて目が覚め、胃液を戻してしまった。〝やっぱり気にしているのだ“と思った。根も詰めすぎたし、と今は資料文献を読むことに費やしている。『まるごと建長寺物語』(高井正俊著)で蘭渓道隆の『自ら回向返照して更に求めず』という言葉を知った。回向返照(えこうへんしょう)とは、法を求めて外の世界へ向かう自己のまなざしを、自らの内側を照らすように差し向かわせること。...自ら回向返照して更に求めず

  • 読書で一日

    最近根を詰めすぎたか、腰痛をかばうせいだろう。寝違えたように、肋骨辺りが痛い。主導権を握っている、へそ下三寸に居るもう一人の私も、所詮私の身体のウチに在る。一日寝床で資料を読むことにした。人物を作る場合、見た目だけ似せても届かないものがある。しかしターゲットの人物を知ろうとすれば、関係の深い人物のことも目に入る。目に入ろうと、そちらの方向に入り込んではならない。まずは作りかけの人物を完成してからである。出来るだけ先の予定は立てないように心がけること。そうはいっても、向こうから飛び込んで来るのは交通事故の如しで避けがたい。私は運転免許を持っていないが、おかげで人を轢き殺す可能性はない、と本気で安心して来たが、事故を避けるのなら読書は止めろ、ということになる。しかしどう考えても、これを作るのは私しかいないだろ...読書で一日

  • 胃液逆流防止の事

    元々の始まりは高校の時のブルースブームであった。雑誌で見たブルースマン一覧の面構えに釘付けとなった。その頃はまだ巨匠がかろうじて生きていた。その後、作家シリーズに転向した。中年〜老人ばかり作って来たが、いずれの業界も、時代と共に容貌の個性が薄くなっていくように思える。そうこうして昨年、高僧を描いた頂相あるいは頂相彫刻が、人像表現の究極と思うに至った。数百年前の高僧の面立ちはいずれも個性的である。また霊力を伴った超現実的エピソードの数々。河井寛次郎の〝鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥”のように、そのために用意していたかのような、陰影を排除した手法。こんなことをさせる、ヘソ下三寸の私を全面的に信頼している。しかし、需要という物を全く考慮せず、ブレーキを備えていないので、性能の悪いもう一人の私は「何だか判らないけ...胃液逆流防止の事

  • 瀑布を描くには

    長辺2メートルで掛け軸くらいのバランス、つまり縦長画面に瀑布は良いだろう。英一蝶の滝に打たれる『不動明王』を石塚式ピクトリアリズムで制作するには、水の処理が思い付かず保留している。行燈の灯や人魂などの小さな火は筆描きで何とかなったが、水ばかりは策が浮かばない。陰影がないのに水が輝き光を反射していてはおかしい。かといって川の流れや滝を線描きは、基本が写真である以上どうだろう。遠景の滝は『虎溪三笑図』で、マウスで白い筋を描いたが、試してみたいことはある。何かに絵の具を垂らしてみたい。マウスや筆描きだと、つい上手く描こうとしてしまうが、シワシワにしたロールペーパーあたりに垂らせば自然な流水にならないだろうか?出来るだけ大きく描きたい。そういえば。ウチに、木場の煮込みの銘店『河本』の解体時に救い出したカウンターの...瀑布を描くには

  • 2メートルの瀑布図

    入手した書籍の中に、全国の大覚禅師こと蘭渓道隆像が載っていた。立体は4体程度しか知らなかったから驚いた。日本に本格的な禅が浸透していないと知り、自らの意思で来日したということだが、いきなり鎌倉へ、という訳ではなく、各地に影響を与えた分、像が残されているということだろう。建長寺の後も、各地に赴任?している。いずれも生前の作ではないようである。噂話を元に作られたかのような像が多い。国宝である建長寺の肖像画の迫真性を想うと、肖像画のみを元に作ったのは正しかった。私が作ったのは存在しない坐禅姿だが、立像も絵画では一点あるが、立体の立像はないのがはっきりした。何百年も誰も作らなかったのだから、私が作らなければ、今後誰も作らないだろう。長辺2メートルのプリント、背景は瀑布などどうか。その場合〝石塚式ピクトリアリズム“...2メートルの瀑布図

  • IEKI吐くまで

    この間、夜中に寝ていて、突然胃液が上がって来る、という異変が起きた。七百数十年前に渡来した僧を作ったが、通常であれば、その生い立ちから調べ、作家なら作品を読むのだが、私には何が書いてあるのかわからない文献ばかりで、今までのようにはいかなかった。最低限ここまでは触れておきたい、というところに達していないせいで、あんなことになったのだろう。頭ではそこまで意識しているつもりはなかったが、ヘソ下三寸のもう一人の私が、頭で思っている以上に気にしていたらしい。いつもは一方的にけしかけるくせに、案外ナイーブである。単に警告だったか、スッキリしてすぐ寝たが。そうこうして資料が一冊届いた。これがあれば、胃液の逆流だけは避けられそうである。しかしものは考えようで、40年以上やってきて、胃液を吐くようなモチーフに出会う、という...IEKI吐くまで

  • 英一蝶の事

    日本人で最初に影を描いたのが英一蝶とは。そのくらいやらかしても不思議ではないが。太鼓持ちで絵師というのもユニークだが、何かが過ぎて島流しになる。流された島でもずいぶん絵を描き、稼いだらしい。私には呆れついでに笑わせたい、というところが押さえがたくあるので、一蝶のユーモアが好きである。往来で、酒屋の前で酔い潰れている『一休和尚酔臥図』を見て、一休を酔い潰れさせても良いのか。とすでにシャレコウベを竹竿に掲げた一休は作ったので、京の街を〝御用心“と歩き回ったその晩、シャレコウベ枕に酔い潰れてもらった。背中の火焔を濡れないように傍に置いて滝に打たれる『不動図』も取り掛かる寸前まで行きながら、絵に見えるといってもこちらは写真。水の表現に打開策がなく保留中である。制作中の雲水姿の一休の足元に、犬や乞食や夜鷹を配したい...英一蝶の事

  • 川面に映る陰

    日本人が初めて影を描いたのは朝暾曳馬図(ちょうとんえいばず)」で川面に映る影を描いた英一蝶だという。小学校低学年の頃から、子供の絵じゃない、とことあるごとに言われ、みんな出品するコンクールに、私の絵だけ出すのを忘れた、と担任にいわれたり、ロクなことがなかった話は何度か書いた。その発端が、図工の時間に遠足の絵を描く授業で、池に浮かぶボートに水面に映る影を描いたことだった。廊下に張り出された絵を見た隣のクラスの担任が、なんでここに影を描いた?といい出した。周りがマッチ棒のカカシのような絵を描いている中、子供の絵じゃない。といわれ続けることになる。そんなこともあってか、中高と美術部にも入らず読書に熱中し、制作を始めるのは、工芸学校に入ってからである。それが今は写真から陰影を排除し、太鼓持ちでもあった英一蝶の『一...川面に映る陰

  • まことを写さない写真手法

    〝太陽一灯の一神教の世界と違って、便所にまで神様が居る日本では陰影など出ない“10年近く陰影を排除した手法をやっていると、かつての日本人が、何故陰影を描かなかったか、今は理解できる。袖から金の龍が顔を出す人物に、現実であるかのような陰影を与えたなら、今はむしろ、不純な行為に思える。袖から金の龍が顔を出す人物を描きたければ陰影など描くな、という話である。96年『ジャズ・ブルース人形と写真展』(SPACEYUI)初めてギャラリーで、人形を被写体として写真を発表した。ある編集者が、被写体が目の前にあるのに、写真は人間を撮った物だと勘違いした。現実を模倣したい訳ではないのだ。思えばここから、まことを写す、という意味の写真という言葉に抗い続けることとなった。そして長い旅路の果てに〝まことを写さない写真手法“に至った...まことを写さない写真手法

  • 一休禅師

    雲水姿の一休宗純。竹竿にシャレコウベ。小学四年で母にせがんで買ってもらった大人向け『一休禅師』のイメージがまさにこれである。門松が目出度くもあるが、目出度くもない。初めて聞く言葉に妙に感心した小学生であった。19歳の工芸学校の頃、好きになった河井寛次郎の『鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥』を知った時も、最初に門松は〜を思い出した。中年、老人専門作家である私が、作るべくして作った人物といえるだろう。『狂雲集』は一休の『仮面の告白』だと考えているが、今後『狂雲集』方向に走ることも、さらに寒山拾得の風狂方向、はたまた、隣に一遍上人を並べて個人的に一人喜ぶのも一興である。足元に犬の件は、実は古い犬種らしい芝犬であれば室町時代もクリアしそうである。展示場所を選ぶだろうが、隣に乞食、しどけない夜鷹を並べたバージョンも、...一休禅師

  • 拡大プリントと石塚式ピクトリアリズム

    2016年、手元にある展示出来る物を出来るだけ展示しようと試みた『深川の人形作家石塚公昭の世界』(深川江戸資料舘)は中締めと考えていた展覧で、その時点で展示出来る物は全て展示し、スライド上映による朗読ライブも開催出来た。さらに初めて2メートル超のプリントも展示したが、初めて人間大、あるいはそれ以上に拡大された連中と対面した私は、突然楽屋に香川照之が尋ねて来た猿之助の如き状態であった。拡大することによって、無意識下の、へそ下三寸のもう一人の私の〝真意“が露になったのではないか?というのが昨日立てた仮説である。当時母と同居しており、会期終了後、毎日、図書館に逃避したものだが、何故か浮世絵、かつての日本画ばかり眺めていた。これもヘソ下三寸が勝手にした事で、なんでこんな物ばかり眺めているのか、表層の脳は首をかしげ...拡大プリントと石塚式ピクトリアリズム

  • 仮説

    蘭渓道隆の数体の木像は、年代こそ違うが、亡くなった以降に作られた物なので、大雑把にいえば、七百数十年後に作る私と条件は一緒といえるだろう。生前唯一描かれた肖像画が、実像にもっとも近いとするなら、立体化して正面向かせ、人間大に拡大するだけで、充分作る意味がある。と私は思うが、唯一判ってもらえそうなレントゲンまで駆使して調査をした研究者の方にはどう映るだろうか。もっとも、数センチの頭部が人間大からフットボール大まで拡大プリントされた時、生き別れた息子が突然楽屋に訪ねて来た歌舞伎役者のような状態になったので、どんな人物として私の前に立ち現れるのか、作った私自身、予想が出来ない。初めて長辺2メートルに拡大した16年の『深川の人形作家石塚公昭の世界』の会場で、私はここまで作ったつもりはないが?と独りごちながら、不思...仮説

  • 元寇から七百五十年目

    作家シリーズの頃、文学研究者は多いが、私ほど、作家の面相を穴の開くほど見詰める人間はいないだろうと思ったものだが、完成間近の大覚禅師こと蘭渓道隆に関し、私など足元に及ばない程見詰めたであろう人がいる。各地に数体ある蘭渓道隆像を調査し、場合によってはレントゲンを当て、内部に納められた物を調べる。そのレポートのおかげで、生前描かれた国宝の肖像画が、もっとも実像を伝えている、と判断し、その肖像画だけを参考に制作した。その研究者の方に参考になる話でも伺えたら、と思い、個人情報の扱いにうるさい昨今だが、ダメ元で国立博物館に蘭渓道隆を作っている者ですが、と少々怪しいが他に言いようがなく、問い合わせしてみた。さすがに時間がかかったものの、本日アドレスの返信が届いた。ところで今年最初の元寇(文永の役)から七百五十年目なん...元寇から七百五十年目

  • 一番の望み

    写真を始めて以来、まことを写すという意味の写真に抗い続け来た。写真、西洋画になく、浮世絵、日本画にある自由さを写真に取り入れられないか、その自由を阻害しているのは陰影ではないか?と考え被写体から陰影を排除する手法を始めて10年ほどになる。最初のカットは三遊亭圓朝であった。蘭渓道隆の制作により、ゴールが近い気がしている。相変わらず表層の脳ミソは性能が悪い。何故そう思うのかは理解していないが、ヘソ下三寸に居るもう一人の私は確実にそう考えているのが判る。一昨年の寒山拾得展の流れから、昨年、急遽ハンドルを切り、名前も知らなかった無学祖元、蘭渓道隆を制作することになり、その結果、高僧を描いた頂相絵画、頂相彫刻は、肖像画、肖像写真、人形、彫刻、私のイメージする人像表現の究極と思うようになった。幼い頃、百科事典ブームで...一番の望み

  • 抗いの最終局面

    大覚禅師こと蘭渓道隆の頭部、最終仕上げ。今まで肖像画しか残っていない人物を作ったのは松尾芭蕉と葛飾北斎、臨済義玄。松尾芭蕉は門弟の描いた作品、臨済義玄は中国で創作され、伝来した肖像画、北斎は自画像を元にした。いずれも線描で描かれており、立体感など、こちらの解釈で作れることもあり楽だったが、国宝でもある蘭渓道隆の肖像画は、迫真の描写で描かれている。とはいえ陰影はないから立体感を想像して作らなければならない。場合によって、鼻毛や耳毛まで描かれる頂相画は、その存在理由、役割を考えると、単なる肖像画とは違う。それを実感しながらの制作で、時間もかかった。写真を始めた当初から、まことを写す、という写真というものに、抗い続けて来た。何故そこまで、と頭では思わないでもながったが、へそ下三寸のもう一人の私が収まらなかった。...抗いの最終局面

  • 着彩続く

    昨日は朝から食欲がなく、胃の調子が良くなかった。いくらか寒気もする。風邪など何年もひいてないのだが。早めに寝ていたら突然胃液が上がって来て目が覚めた。出してしまったら、朝には治っていた。なんだったのか。仏罰という言葉がつい浮かぶ。着彩の続き。達磨大師の赤が、どちらかというと腰巻きの赤そのもので、これで良いのかどうか。蒙古兵完了。一休宗純は、残るは草鞋の紐。無学祖元の膝上の鳩は、円覚寺の木像の椅子の背もたれには2匹刻まれているので、それにならって一匹増やすことにする。無学祖元と蘭渓道隆は今週中に着彩まで、と思ったが、僧衣というものは、好き勝手に塗れるものではない。地位により使う色が決まっている。蘭渓道隆は肖像画に使われている色を使いたいが、図版により色が違う。無学祖元は、参考にした円覚寺の木像は真っ黒で、そ...着彩続く

  • 着彩開始

    着彩を開始する。達磨大師は『慧可断臂図』で白い法衣を着せたので今度は赤にしようと思ったが、月下の達磨大師ということで、白のほうが映えるか、と思ったが、同じようなモチーフで月岡芳年の達磨図『月百姿破窓月』がある。これも旧来の達磨大師とは趣きを変えた赤い達磨大師で、対抗心が湧いて高崎のダルマぐらい赤くした。雲水姿の一休宗純は、肩に酒の入った瓢箪を肩に、網代笠と髑髏を掲げた竹竿を持つ姿をようやく見た。写真作品としては、正装ではあったが、すでに竹竿に髑髏は一度作ったので、写真作品としては朱鞘の大太刀を持たせる予定である。臨済義玄を塗り直した。無学祖元が来日前、寺が元寇に襲われ、一人坐禅中に、喉元に剣を向けられながら、動ぜず。漢詩を詠んで退散させた、という故事から。名場面の割に視覚化されていないようなので、蒙古兵も...着彩開始

  • 真実は人の数だけある

    予定としては、次も寒山拾得を推し進めるつもりでいたはずが、本格的禅を日本に伝えるために来日した渡来僧を2人作ることになった。大覚禅師こと蘭渓道隆の立体像は、私の知る限り建長寺に2体、他2体ある。いずれも亡くなった後に作られているが、建長寺の2体を含め、いずれも顔が別人のように違う。数百年間に及ぶ伝言ゲームのようである。まさにドラマ『ミステリと言う勿れ』で菅田将暉の久能整君がいっていた、人は主観でしか物事を見ることは出来ず〝真実は人の数だけある“である。そう思うと、生前描かれ、本人が賛を書いている、本人お墨付きといえる国宝の肖像画が最も〝事実“に近いはずだと思えた。だとすると、それを立体化し、正面を向かせることが出来れば、蘭渓道隆の死後七百数十年ぶりに、真正面の顔を見られるのではないか?もちろんこれも私の真...真実は人の数だけある

  • スポーツ新聞に水戸黄門の父

    私が死の床でアレを作れば良かった、コレを作るんだった、と後悔に苦しむのをことさら恐れた理由が、死にそうだった父が退院して来たら、スポーツ新聞広げて水戸黄門を観ていてショックを受けたのが原因だと昨日書いたが、これは間違いないだろう。年齢と共に気になって来た。私の場合、作りたい物がまったく途切れずに常にある。ということは、死の床で、作れなくなった時も、何かはある訳で、それを想像してはウンザリしていた。父はどうだったのだろう。しかし考えてみると、ほとんど外に出ず作ってばかりいる私は、人には退屈な生き方に見えているかもしれない。頭に浮かんだイメージが形となって目の前に現れる快感がどれほどのものか、これは私にしか判らないことであろう。大谷がパスタに塩のみと聞いて「人生つまんなくね?」といった選手がいたらしいが、わか...スポーツ新聞に水戸黄門の父

  • いいじゃないの幸せならば by佐良直美

    ペーパーをかけながら、きっと来年の今ごろも、まさかこんなものを作るとは思わなかった、といっているんだろうな、と思った。行き当たりばったりの、とんだ風船野郎であるが、長い予定など立てず、目の前の、今作るべき物を作る。これこそが死の床で、アレを作りたかった、コレを作るんだった、と後悔に身をよじる可能性を低めるコツである。何故これほど恐怖を感じるのか。理由に気が付いた。亡くなった父が、何度目かの入退院を繰り返していた時、今回も危なかったが、ガリガリになりながらも、なんとか退院をして来た。夕方、実家に帰ると、父はスポーツ新聞を読みながら、水戸黄門を観ていた。その姿にショックを受けた。この期に及んで他にすることないのか?!しかしそのおかげかどうか、本日が人生上の最突端だと思えている。何が良いといって、過去のあらゆる...いいじゃないの幸せならばby佐良直美

  • 滅亡を防ぐ男達

    大谷翔平、手術後の経過も良く、新天地での活躍が楽しみである。私は普通の人と視点がちょっと違っていて、野球をすることによって湧き出る快感物質に取り憑かれた男の躍動する姿、笑顔を見たいのである。こんなあからさまな人間を始めて見た。かつて、一時の性欲や手料理如きに胃袋捕まれ、結婚していく友人らに、友情を持って止めることを常としていた。それというのも、全ての人が、あの快感物質が湧き出ていると思い込んでいたからである。私にとって家庭生活=快感物質の湧き出るのを阻害するものでしかない。学生時代の昼休み、小説を読んでいる間中、映像が浮かび続ける私は、他の連中がそうではない、と知って、びっくりしたのを覚えているが、そんな訳で〝お前ら頭おかしいんじゃないか?“と言わんばかりに説得していたことを、今では反省している。アレが湧...滅亡を防ぐ男達

  • 一日

    一休の竹竿にシャレコウベは、やはり正装より雲水姿の方が似合うだろう。網代笠に酒器の瓢箪を肩に。本当は、野良犬を足元に、と思うのだが、室町時代の野良犬がどうだったか判らない。当時描かれた犬はいるが、描くとなると、どうしても毛並みが良い犬で、乱世の時代に喰われもせず、うろちょろしているような、洋犬の血があまり混ざっていないような犬はさっぱり判らず。もっとも陰影を排除すること手法は、他のオブジェには影響を与えないので、後で付け加えることは可能である。また展示場所によるが、当初イメージしていた、胸をはだけムシロを手にした夜鷹や乞食を付け加えても良い。乞食、夜鷹、犬、洟垂れ小僧など並べてみるのも良いだろう。来週には、着彩に取り掛かれるだろう。陰影を排除する手法は、光やレンズの味に頼ることは出来ず、被写体の出来が成否...一日

  • 人間性と面立ち

    小学4年で母にねだって買ってもらった「一休禅師」で見た横目でこちらを見る一休像は、門松は目出度くもあり目出たくもなし、の言葉と共に記憶に残った。後小松天皇の落胤として生まれ、二年後に南北朝が合一。様々な事情から寺に預けられる。一歩間違えば殺されていてもおかしくない。あの表情は、そんな出自により作られたものだろう。小学一年で図書室と出会い、伝記の類いを読みまくった私だが、掲載される肖像が現代のイラストレーターが描いたものでなく、当時描かれた物であると説得力が増した。人間模様への興味から犯罪ドキュメント関連の本もずいぶん読んで来たが、最近めっきり興味が湧かない。その原因は、ニュースにおける犯人が皆マスクをして印象に残らないせいもあるだろう。建長寺開山、大覚禅師こと蘭渓道隆も、その個性的な国宝の肖像画にまず興味...人間性と面立ち

  • 鍵盤の数

    坐禅での手の置き方にも左右決まりがあることさえ知らず、作り直したような人間には、知るべきことが多い。初個展で私の作ったピアノの鍵盤の数を数える女の子がいた。鍵盤の数などどうでも良かった私だが、後に実在の人物を作るようになり、やれることはやっておかないと、鍵盤の数を知っている人には台無しだろう。頂相彫刻は大抵椅子に座って描かれている。中国由来の形式だろう。なので蘭渓道隆と無学祖元は坐禅姿にしたのだが、そこまで作っておいて、壁を背にし、袈裟を着けない臨済宗の座禅も、七百年前はどうだったのか?しばらく制作が止まった。近所の臨済宗の寺で聞いてみるのも。町工場の社長が本社の創業時のことまで知っているとは限らない。人づてに建長寺の関係者に聞いていただいた。残された物をただ写すならともかく、違うものを作るのであれば、せ...鍵盤の数

  • 出発進行

    昨日、死の床で一遍上人を作れば良かったと後悔するのはまっぴら、と書いたのは、だから作るのは止めた、という意味ではなく、むしろ逆である。早速一遍上人の資料を注文した。ただし今は熟読は止めろと、肝に銘じつつ。そう簡単に収まるのであれば、妙な施設で検査させたり母は苦労しなかったろう。中川家の漫才で、弟の礼二が小学2年の時「日曜になったら、朝から晩まで裏のドア開けて出発進行出発進行」頭がおかしいと大学病院に連れて行かれた。「全部ホンマの話やないか!」に笑った。私が連れて行かれたのは病院ではなかったと思うけれど。40有余年、中年〜老人の男専門に作って来た私とすれば、異様な表情、ギクシャクしたポーズの老人に、これは私の出番だ、と思うのは当然であり、作る言い訳が見つからなかった、という、単に渡世上の事情にすぎない。私を...出発進行

  • 出発進行

    昨日、死の床で一遍上人を作れば良かったと後悔するのはまっぴら、と書いたのは、だから作るのは止めた、という意味ではなく、むしろ逆である。早速一遍上人の資料を注文した。ただし今は熟読は止めろと、肝に銘じつつ。そう簡単に収まるのであれば、妙な施設で検査させたり母は苦労しなかったろう。中川家の漫才で、弟の礼二が小学2年の時「日曜になったら、朝から晩まで裏のドア開けて出発進行出発進行」頭がおかしいと大学病院に連れて行かれた。「全部ホンマの話やないか!」に笑った。私が連れて行かれたのは病院ではなかったと思うけれど。40有余年、中年〜老人の男専門に作って来た私とすれば、異様な表情、ギクシャクしたポーズの老人に、これは私の出番だ、と思うのは当然であり、作る言い訳が見つからなかった、という、単に渡世上の事情にすぎない。私を...出発進行

  • 旅路の果て

    先月末、40年来の知人宅で、初個展前後の、架空のブルースマンの作品をアルバムにした物を見せられた。そこにはそれ以外の作品も写っていた。1つ140円で、団地のベランダにぶら下がっている物干しを溶接しながら作っていた。いずれ160円になる、と聞いていたが、刑務所でも同じ物を作っていたからかなわず。そうこうして、溜まって来たので初個展となった。当時、朝ドラで『おしん』をやっていて、その直前のニュースで個展情報が流れたものだから、初個展の割に人が来て、翌年の2回目も決まった。ところがプレッシャーになり、一度はキャンセルを申し出にギャラリーに向かったほどで、これは酒など飲んでいられない、と約一年禁酒をした。この頃一番好きだった噺家が志ん生の息子、志ん朝の兄、金原亭馬生で、どんな俳優がドラマの中で飲酒をしようと平気な...旅路の果て

  • 苦しい誕生日

    仕上げも進み、一休宗純以外は後は完全に乾燥させ、着彩を済ませれば。と完成が見えて来た。錚々たる高僧を並べて眺めてみると、私のような、とびきりの不信心者が、と数年前の私が見たら、事情がまったく飲み込めないだろう。何しろ何年も父の墓参りもしていない。いくら出不精とはいえ、墓はたかだか新宿区である。いい訳するとすれば、私の場合、父の姿などは、3D映像のようにイメージの中でリアルに動きまわる。なのでいつかヒットした歌ではないが、ここに父は居るのに、石の下にある骨片に手を合わせに出かけなくても、というのが正直なところである。それは渡世上の主要な私の武器でもあるのだが、それがアダとなることもある。本日は朝から頭の中で、一遍上人が南無阿弥陀佛、と踊り続け、何か作る理由がないか調べるのだが、どうしても鎌倉入り直前に、武士...苦しい誕生日

  • 何を今さら

    それにしても、今時一遍上人を作る私を想像すると、あまりに私らし過ぎる。蘭渓道隆と一遍上人の出会いは実はなかったと、検証されているなら、嘘になってしまうので作る訳にはいかない、と私は案外律儀である。余計なことを調べてくれたな、野暮なことを、と。円覚寺にある開山、無学祖元の像は椅子の背もたれに龍と2匹の鳩が刻まれている。それは来日前に、我が国に教えを伝えよ、と金龍と蒼鳩を伴った神が繰り返し現れた。来日して鶴岡八幡の鳩を見て、あれは八幡の神だったのだ、と悟った。そのことを後世に伝えていくため、我が姿を刻むことあれば、袖から龍、膝上に鳩を、といい残したが、なぜ背もたれにしたのかは不明である。だったら私が、と作った。しかし考えてみると、袖から龍が顔を出す人物を作っておいて、嘘になる、案外律儀だと、何を今さらという話...何を今さら

  • 横目で資料を漁る

    1月31日のブログで〝被写体は全て揃うことになる。しばらくは余計なことを思い付かないでくれよ“と書いた。キナ臭い予感の正体は前日のブログに書いてあった。建長寺の開山、蘭渓道隆のもとを、一遍上人が訪れた逸話は互いに詠みあった詩まで残っているが事実ではないようだ。当時禅宗が盛んな鎌倉を各宗派の僧が布教を目的に集まって来たようで、一遍上人も、建長寺の目と鼻の先まで来たのは事実のようだが、おそらく弟子を引き連れた小汚い一団だったろうが、北条時宗と会った説もあるが、出入りを禁じられ、進路を変えざるを得ず。というのが真相らしい。事実がどうか定かではない、というなら作れるが、余計な解明を、と律儀なところも持ち合わせる私は残念がった。一遍上人は、おそらく小学〜中学の頃、読みまくった、中井英夫編纂の百科事典で目にしていたで...横目で資料を漁る

  • 芸術家の上昇志向

    葛飾北斎の晩年の肉筆画がどうも苦手である。テレビドラマのセリフではあるが、西洋画を見た北斎は「見たまんま描いていやがる。」そういっていながら、次第に西洋の陰影法を取り入れていく。北斎が何かと取り上げられていた頃だったが、私が写真から陰影を排除し始めた頃だったので、まるで北斎とすれ違うように、反対方向に分かれた気がしていたが、私には北斎が余計なことを始めて、結局中途半端に終わったように思え、陰影に関しては、娘のお栄の方が、よほど消化しているように見える。私がかつて一目惚れし、人形制作を放って習得に夢中になった野島康三の、顔料を使用するピグメント写真法は、時代とともに、絵画を模倣する古臭い表現扱いされていき、野島も銀塩写真に転向するが、私にはまったく面白く感じられず、和装を洋装に、ダンスまで始め、新たな時代に...芸術家の上昇志向

  • 新作ラインナップ

    自分がどういう物を作れば、より多くの快感物質が脳内から湧き出るかを熟知している。仮に良い作品が出来たとしても、肝心のそれが湧き出さなければ、私にはまったく意味がない。また、私の作品を見て呆れている人達の顔を見るのも好きである。子供の頃からその物質に取り憑かれ続けた私が、現状で、もっとも湧き出るであろうと手掛けた新作のラインナップである。『人形』1達磨大師座像。2臨済義玄座像。3蘭渓道隆坐禅像。4無学祖元坐禅像。坐禅像に袖口から龍、膝上に2匹の鳩、(未定)両脇に白鹿。4無学祖元に刀を向ける蒙古兵。5雲水姿の一休禅師。片手に酒器である瓢箪。片手に竹竿にシャレコウベ。『写真作品』1達磨大師。A崖上の達磨大師。背景に満月。B円窓に上半身の真正面か真横。2蘭渓道隆A建長寺お手植えのビャクシンの巨樹を背景に七百数十年...新作ラインナップ

  • 仕上げ進む

    写真を始めたのは遅かった。まずは月刊の写真雑誌を一年読んでみたが、私には1カットでは誰の作品か判らずじまいに終わった。結局、野島康三のピクトリアリズム作品を別にすれば、フィット感みたいなものがなく。そもそも暗室作業が向いていなかった。十数年前、サンディエゴ写真美術館の館長に作品を観てもらう機会があったが、アメリカ人の口から〝ユニーク“が連発されるのが嬉しかった。日本人は見たことがない物を目にすると、ユニークとはいわずに、目に明りを灯らせない、ことによって表現するのを身に沁みて知っていたからである。その館長が、私の作品は拡大した方が良いといってくれたが、その時は、ただアラが出るだけではないか?と思った。何か質問は?に聞きたかったことはただ一つ、私のようなアプローチをしている人はいますか?だったが、しばらく考...仕上げ進む

  • 思春期のサルの如し

    達磨大師の耳輪。アマゾンで注文したが2回イメージに合わず。ようやく。やはりこれがないと雰囲気が出ない。首が完成し、身体を一気に作る3日ほどまでが一番面白い。乾燥が終わり着彩までの修正が、どうしても作業という感じで飽きるので、蘭渓道隆、無学祖元、雲水姿の一休宗純を、あっちやったりこっちやったりして進めて行く。そういえば、今回、モンゴル人とインド人まで作ったことになる。これらを仕上げれば、今回、予定の被写体は全て揃うことになる。しばらくは余計なことを思い付かないでくれよ、と。危険なのは、制作以外の油断している時に限って、棚からぼた餅のようにイメージが降って来る。たまたま居合わせた目撃者によると、いかにも思い付いた、という顔をするらしい。養老孟司によると、人間は頭に浮かんだ物を作るように出来ているらしいが、浮か...思春期のサルの如し

  • 虚実の間

    『慧可断臂図』において、面壁坐禅中の達磨大師の表情を描くため、雪舟は真横を向かせたが、私は振り向かせた。月岡芳年は『月百姿破窓月』で面壁姿を描いているが、破窓月と、窓があったのか壁を崩し、達磨大師の表情、姿を露わにした。ただ打ち捨てられた廃墟で目を閉じている、という感じである。私も月下の達磨大師を考えているので、芳年のやりたいことは良く判る。大半は面壁にこだわらず、外に向かって座る姿が描かれている。坐禅姿の蘭渓道隆を作ったのだから、本人が坐禅をしたといわれる建長寺の坐禅窟を背景に使いたいが、背を向けていては仕方がないと一応断念したが、数ある達磨図同様、律儀に壁に向かわす必要はないだろう。たまには外の景色を眺めることぐらいあっただろう。そういえば、座禅窟の坐禅中の蘭渓道隆を一遍上人が尋ねて来た、という逸話が...虚実の間

  • ブルーザー・ブロディの白髪

    琴ノ若大関昇進確実ということである。思い出すのは祖父の横綱琴櫻、佐渡ケ嶽である。解説席に座ると、絶対弟子を褒めず、けなしてばかり、勝った時くらい褒めてやりゃいいじゃないか、とテレビを観ながら思ったが、それが逆に弟子思いの師匠という感じが滲んだものである。一推しの宇良は残念だったが、まだまだこれからである。昨日はネパール人が私の達磨大師見てヨギ(インドのヨガの行者)みたいだ、といっていたそうで、これで肌を浅黒く着彩すれば少なくとも旧来の達磨大師とは趣の違う達磨大師になりそうである。達磨はインドからから中国に来たのは結構歳を取ってからのようである。そう考えると、多少白髪混じりで良いかも知らない。白髪混じりの達磨大師は記憶にないし。そこで浮かんだのが、レスラーに刺されて亡くなったプロレスラー、ブルーザー・ブロデ...ブルーザー・ブロディの白髪

  • 達磨大師をぶら下げて

    日曜美術館で河井寛次郎を観る。特に興味ががあった訳ではなく入った工芸学校の陶磁器科だったが、河井寛次郎を好きになり、その気になった。記念館は2回行った。本日は知り合って40年という連中と会うため本八幡のHさん宅に集まる。Hさんのネパール人の奥さんの退院祝いをかねて。インド、チベットなど何度も行ったような人達なので、最新作の達磨大師を持って行った。Hさんとは、私の初個展の直後、地元の情報を載せるチラシの取材で知り合った。インドに行って写真を撮っていたHさんは、私の部屋に転がっていた人形を撮った、記憶も薄れつつある、未発表作の、モノクロプリントのアルバムを作っていて驚く。大変危険なアルバムであった。当時写真に興味がなかったので、記録に残そうとも思っていなかった。それがいつしか写真が創作上の最終形態となり、写真...達磨大師をぶら下げて

  • 一日

    達磨大師を包む法衣はほとんど指で制作した。なので蘭渓道隆の仕上げもそうしてみた。そう違いが出る訳ではないけれど。ちょっとでも良い思いをすれば試していく。久しぶりに目の前の円覚寺開山、無学祖元の仕上げ。こちら円覚寺の木像を元にした。頂相彫刻の傑作といわれるだけある。作りたかったのは、ただの座像ではなく、来日前、蒙古兵に刀を向けられながら微動だにせず、という来日前の名場面が、おそらく可視化されていないことだった。円覚寺は元寇との戦いによる敵味方双方犠牲者を祀る目的で建造され、無学祖元は開山として招かれることになる。しかしなんだか良く判らない蒙古兵を作ることになるとは思わなかった。蘭渓道隆は肖像を正面を向かせることに意義があるが、人物により作りどころは様々である。頂相あるいは頂相彫刻は、縁ある特定の寺に収蔵され...一日

  • 目的は真正面

    今回の制作の中でも特別な思いがあるのが建長寺の開山、大覚禅師こと蘭渓道隆である。宗時代の中国より持参したというのは間違いで、日本で描かれたらしい国宝の肖像画があり、自賛が書かれているので、生前の作、つまり本人のお墨付きともいえるだろう。他の肖像画、彫刻は死後の作ということもあり、作者と私とは、条件はほぼ一緒である。肖像画のみをもとに立体化を試みた。例によって肖像画には陰影がなく、部分だけ見ては立体感がつかめず、顔全体を見て立体として把握しなくてはならないが、頭部だけでも数ヶ月かかったのは、足りないディテールは、実はどこかで見た、人間の記憶により補完しているはずで、私の人の形状に関する記憶が生かされる。しかし私の辞書に載っていないタイプの顔であった。結果として、建長寺に数百年伝わる木像と別人になってしまう。...目的は真正面

  • 月下達磨図

    月下達磨図、一瞬で浮かぶのは良いのだが、一度浮かぶと変更が効かない。大抵他のことをしている時に、棚からぼた餅のように、構図などもほとんど決まった状態で落ちて来る。他に別の可能があるのではないか?とジタバタしてみるが、ファーストインプレッションを超えることがない。結局それが作品になって来たのだから、良いのかもしれないが、これさえなければ、他のパターンかあったんじゃないか、スケッチブックを前に、色々やりたいのに。このスケッチがまた曲者で、何かの端っこにイタズラ描きして、いやちゃんとスケッチブックで、しかしイタズラ描きを超えられずゴミを漁ることになったり。なのでスケッチなど一切しないことに。月下達磨図はもう配置も変えられない。作りながら考えるのは巌窟、崖のディテールくらいだろう。草や松の枝を配したり。月が後ろで...月下達磨図

  • それで良いのだ

    達磨大師をベランダで乾燥。5日で出来てしまったが、旧来通りの達磨大師に、と珍しく殊勝なことを考えていたはずが、よっぽど珍しい物になってしまった。天竺となると遠い。見たことがないインド人を、中国人の描いた物を鵜呑みにしたとしても仕方がないが、作るとなると、サーベル咥えて乱入して来るインド人を散々観て、先週もインド人のカレー屋に行った私としては我慢ができなかった。江東区で、良くチラシを持って呼び込みをしているインド人がいるが、そこに入ろうとすると、目が合っているのに、入れないように立ちはだかっているかのように、寸前まで立っていることが2店舗続いた。なんだよインド人?以来店の前に立っている店は避ける。雲水姿の一休宗純飲をようやく仕上げに入る。洞窟の入り口に座る達磨大師。背景に大きな満月。少林寺の塔がシルエットと...それで良いのだ

  • 達磨インド人化計画

    私のブログを見て達磨がインド人と知って驚いたという人がいた。そうでしょう?あれではインド人には見えない。インド人の描いた達磨も今のところみつからない。インドに10回は通った友人も知らないという。仏教徒のインドの友達いないから判らないが、仏跡巡りの現地でガイドしたりお土産売っているのは、みんなヒンドゥ教徒だという。少々居もしない人物を捏造してしまった感がよぎる。しかし我が渡世においては、それは通常業務のうちである。虎を見たことがなかった日本人のように、インド人を見たことがなかった日本人が、描き継いで来た結果かもしれない。しかし先週もインド人のやっている店でカレーを食べた私が、あいも変わらずの達磨大師という訳にはいがないのである。江戸川乱歩の生誕地で乱歩の資料を収集などされている中相作さんより『伊賀一筆fmと...達磨インド人化計画

  • 一葉と達磨どちらもオアシがない

    達磨大師は、私にはインド人に見えたことがなかった。千年単位で固定化されたイメージであり、新たなイメージを目指すような相手ではない、と旧来のイメージに準じよう、と制作を始めた私であった。今まで私ならではの作品を作って来たつもりであったが、達磨大師には早々に白旗を上げつつ制作を始めたが、性根というものは、容易に改まるものではないらしく、結果、禿げ頭、濃い眉に髭、ギョロ目に太鼓腹、という従来の条件を踏まえながら私ならではの達磨大師となったのではないか。樋口一葉の雅号一葉について。一葉と同じ歌塾に通った旧友の証言が残っている。一葉は桐の一葉ですか?と問うと「そうじゃないですよ達磨さんの葦の一葉よ。」と答えた。達磨大師は揚子江を葦の葉に乗って渡ったという故事がある。「おあしがないから。これは内緒ですよ。」葦と達磨に...一葉と達磨どちらもオアシがない

  • 猫を虎にダルマをインド人に

    日曜美術館で、新宿西口広場を作った建築家を紹介していた。コルビジェに学んだそうだが、地下広場に関しては、極度な方向音痴の私には青木ヶ原の樹海を研究したようで、もっとも行きたくない場所の一つである。虎を見たことがなかった日本人は、中国渡来の絵画や、毛皮を見て想像で描いた。なので身近な猫じみた虎が多い。そこで猫を撮影して、そんな虎を制作してみたことがある。そう考えると、達磨大師も、インド人を見たことがない日本人が、インド人はああだ、と真に受け、描き継いで来たのではないか?というぐらい、私にはインド人に見えない。ここ何年か日本美術の資料を見続け、日本の写し、という学びの文化に、いささかウンザリしている。本日虎のことを思い出したのだが、そう考えたら、先日まで私なりの達磨大師など作りようがない、と伝統に殉じた達磨大...猫を虎にダルマをインド人に

  • 言ってることとやってることが

    ラインナップの充実のため、私ならではの、などと考えずに、無難な達磨大師を、といつになく殊勝な心持ちで取り組んだ達磨大師であったが、予定とまったく違う物を作っている。ここ数日を思い出してみる。当初、普通の人間っぽい感じで行こう、となのでギョロ目はやめようと書いた気がする。しかし、そもそも達磨大師が普通の人間であろうはずがない。結局ギョロ目になってしまった。これでもう普通の達磨大師だ。と思った記憶がある。二日で頭部が完成し、知り合いに、首から下を作り始めた画像を送ると「外人みたい。」といわれた。いや、そもそも達磨大師はインド人だ、知らないのかな、と思った。そういえばインド人ということになっているが、インド人に見えないけれど、インド本国では、もっとインド人じみた達磨大師がいるのかもしれない。昔からインド通いの友...言ってることとやってることが

  • 予定変更

    昔からインドに10回くらい行っていた友人に、インドには、もっとインド人じみた達磨大師のイメージがあるか聞いてみたら「ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」という。AIじゃあるまいし。たった3つのキーワードでインド人とは?星の数ほど描かれて来た達磨図は、描いている方も、古来よりインド人のつもりで描いて来たのだろうか?インドに10回行った人がそういうのだから、そうなのかもしれないけれど。私にはインド人には見えない。いや正確にいうと、私の辞書に載ってるインド人ではない、が正しい。つい先日まで、これだけ定型化していると、私ならではの達磨大師など作りようがない。また新たな達磨大師像を、と挑戦するような対象でもない。その辺はわきまえている。なのでラインナップのバランスのために作ろうと...予定変更

  • 私の印度人、達磨大師

    制作中の達磨大師を知り合いにメールすると「外人みたい。」「達磨大師ってインド人だよ。」なので『慧可断臂図』の時は黒い肌にした。そういえば、いかにもなインド人調達磨大師って見たことがない。知人も私の達磨大師が外人に見えるくらい、日本人あるいは中国人調イメージが普通である。そこでしょっちゅうインドに行っていた知り合いに「インドにはインド人風達磨大師って絵でも彫刻でもあるの?」と聞いてみた。すると意外なことに「そうかなぁ…ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」という。あの程度でインド人的表現ということになっていたのか?。達磨大師を作ることに決めたけれど、初めから私ならではの達磨大師は作りようがない。と考えていたが、これで気が変わった。当初、戦後のアメリカマット界で反日感情を利用...私の印度人、達磨大師

  • 達磨大師

    達磨大師は衣に包まれ手足を作らないこともあり制作は早いだろう。法衣用の粘土も届いたので、一気に完成に向かいたい。〝人間も草木同様自然物。肝心なものはあらかじめ備わっている“と考えて来た。〝考えるな感じろ“もブルース・リーに教わるまでもなく知っていた。ただ目の前の作りたい物を、パン食い競走のパンに齧り付くように、欲望のまま齧り付いて来たつもりでいたが、それにしては誰かがシナリオを書いているかのように、どこか一点に向かっている気がしてならなかった。当ブログにおいても、かつてNHKの3匹の子豚『ブーフーウー』で、連中を鞄から出し、クランクを回してお芝居を始めていたお姉さんのような存在が?などといっていた。作家シリーズ最後となったふげん社における『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』のトークショーで「次は何を?」...達磨大師

  • 虚実ブレンドの妙

    架空のブルースマンが初個展であった。もともと何かを参考に作るのは苦手であり、勝手に作るのが楽しい。写真を始め、その人物の背景まで描けるようになり、作家シリーズを始める。実在した人物をモチーフにするとなると、上手い嘘を付くにはホントを混ぜるのがコツだが、そのブレンドの妙というものが生まれる。江戸川乱歩いうところの〝現世(うつし世)は夢夜の夢こそまこと“のうつし世と夜の夢のブレンドの面白さ。これは実在した人物を扱ってこそである。またそれには陰影をなくすことにより、さらに拍車がかかる。一昨年の40周年展では、寒山と拾得はもとより、仙人や昔過ぎて実体の判らない人物など、架空の人物を多く作り、40周年だから、という訳ではないが、デビューの頃の架空の人物を作る自由を思い出した。蘭渓道隆が完成間近であるが、随分時間がか...虚実ブレンドの妙

  • 面壁坐禅の事

    制作に資料も必要のない達磨大師は頭部が完成し、明日より坐禅姿の制作に入りたい。衣の衣紋線をいつもより滑らかにしたい気がして、いつもより質感の滑らかな粘土を注文する。面壁坐禅九年で手足がなくなった達磨大師だが、達磨大師を描く場合、坐禅姿でも、みんな普通に前を向かせている。『慧可断臂図』で、坐禅中の表情を見せるため、雪舟は真横を向かせたが、私は振り向かせた。考えてみると、面壁中の達磨大師を描く場合、我々?のような律儀な試みは、ほとんど成されていないように思える。そう考えると、建長寺に残る、蘭渓道隆が坐禅をしたと伝わる座禅窟で坐禅する蘭渓道隆は、壁に背を向ける臨済宗でも、当時は面壁であったので、後ろ向きでは仕方がない、と断念していたが、古来より、みんな達磨大師に坐禅姿で正面を向かせている。であれば座禅窟にこちら...面壁坐禅の事

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