この作品の頃は国定忠治の刀のように人形を捧げ持ち、カメラを額に当てて撮影する『名月赤城山撮法』で撮り歩いた。どこに持って行っても絵になるのは荷風と寺山である。背景は聖路加病院。昨年暮れに亡くなった母はここで産まれ、撮影している私の背中側の明石小学校に通った。戦中米軍は聖路加病院を爆撃しないとビラを撒いたそうだが、町内の蕎麦屋だったかに一発だけ不発弾が落ちたと母に聞いた気がする。大空襲の後、永代橋を越えて江東区側に姉と行ってみたそうだが、惨憺たる有様で、私がその辺りに越した時に、未だにあまり来たくないといっていた。疎開したのは終戦戦後で、美人三姉妹(本人談)のため進駐軍を恐れてのことだったという。母を含め、うず高い死体の山を見た人達は、何があってもあれ以上のことはない、という思いで戦後を生き抜いたのだろう。母と聖路加病院