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  • 邪宗の双神・・1 白蛇抄第6話

    「することが無いの」ニコニコと笑いながら八代神は、白峰に声をかけた。が、白峰は応える気力も失せている。天空界に引き戻されるように上がって来ると、白峰は十日ほどどっと、深い眠りの狭間に落ちた。十一日目に薄目を開けると八代神が覗き込んでいた。「何時までも、拗ねていてもしょうがなかろう?」丸で赤子か何かを諭すような物言いである。「判らぬでもないがの。千年はもう、取り返せぬ」「煩いの」「ほ、元々黒龍が物への、横恋慕。叶わぬ、叶わぬ」「・・・・・・」白峰の頬につううと涙が伝う。「判っておった。が、・・の・・」男泣きに泣崩れる所なぞ見とうもない。慌てて、八代神はその場を立ち去った。地上を見下ろせばそこには愛しいひのえがおる。が、その横にはつかず離れずひのえを守る白銅の姿がある。『人間に負けた訳ではないわ』己の情の薄さ...邪宗の双神・・1白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・2 白蛇抄第6話

    ゆっくり歩んでくる、八代神を黒龍は見ている。八代神は、その黒龍に「長きものは、人の姿の方が楽のようじゃの?」と、声を懸けた。八代神の瞳の中で精かんな男がにこりと笑っている。その男は「天空界とは名ばかりじゃ。丸で化け物屋敷の様じゃ」と、言う。祭神と成った者達がやがては天空界に上がってくる。狸狐の類はいうまでもなく、申神に鬼神、はてには百足の神まで居るのである。「まあ、言うな。白峰も居るではないか?」これも元を正せば蛇である。「まあの」「お前とは古い付き合いじゃ」慰めとも付かない事を言う。同じ長き物同士ではないかと言いたいらしい。「向うから来たのが、そも初めだ」白峰など相手にしたいわけではない黒龍なのである。「知った事ではないか?」八代神は黒龍の胸の内を量って苦笑した。「相手が悪いわ」白峰が懸想した相手が黒龍...邪宗の双神・・2白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・3 白蛇抄第6話

    正月を迎え正眼の元に政勝夫婦と白銅がやってきていた。久し振りに顔を合わせた白銅が「えらく色が黒うなりましたな」思わず政勝に言った。それもその筈で、政勝の代わりのかのとが「ああ、この人。一穂様の養育係りを仰せ付かりましたのよ。闊達でよう動きますそうです。馬も弓も剣に槍まで、その上に毎日の様に外歩きをなさいますに付いて歩く内にあのように・・・」「黒うなった」かのとの後を政勝が一言継いだ。一穂は主膳のたった、一人の男である。数えの十二になるが頭も良い。身体も機敏でなにより政勝の教える事の呑みこみが早い。「あれは良いお子じゃ」政勝も手放しに誉めるのであるがそれもその筈で、主膳の相好が崩れるような話がある。主膳の方も、勢姫の死を知るとさすがに心の寄る辺を失くしたのであろう。自然、一穂に目が向けられる様になる。そうな...邪宗の双神・・3白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・4 白蛇抄第6話

    明くる日の朝。城の中の拝謁の間である。主膳に呼ばれて四方を護る四人の陰陽師が顔を揃えた。と、言っても何かあったわけではない。歳の初めに、必ず主膳は四人を招くのである。四人の前に座ると主膳は深々と頭を下げた。「今年も都の守り、何卒宜しく願い奉る」其れだけであるのだが、主膳はその折り目筋目を崩す事なく、必ず頭を下げるのである。それがすむと「おお、そうじゃ」と、相好を崩す。一穂の事なのである。四人も揃うておるのは寿ぎの日を決めるには丁度良いのである。「?」「ぁ、いや、元服を前にの」髪揃えの儀式を何時にしたらいいかと言うのである。そこに、呼ばれていたのであろう。道守より帰って来ていた海老名が一穂を連れてはいってきた。「ささ。一穂様こちらに」主膳の横に座らせる様にするのを見ていた四人の目がちらりと動くのに主膳は気が...邪宗の双神・・4白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・5 白蛇抄第6話

    澄明は白銅と並んで城を出た。ここ何度か白銅が城に上がって来ていたのは、主膳の認めを得る為ではあったが何よりも主膳が澄明が女であると言う事に得心がいかなかったせいである。確かに男にしてはやけに線が細い。顔付きも女子顔だとは思っていたと言うのではあるが陰陽事が女でも出きると言う事に主膳はどうしても納得ができない。切り落とされた鬼の男根を褒賞紙を通してではあるがむずと掴むのも見ているのである。女の何処にそんな豪胆な肝があるものかというのが主膳の言い分なのであるが白銅がそれでも、澄明を嫁取りたいと言って、くいさがるのであるから信じざるを得ない。主膳は「尻に敷かれるのは覚悟の上じゃな?」と、やっとこの縁組を認めたのである。日取りが決まると二人は子蛇の塚に詣でた。二人の縁を結び直したの子蛇に手を合わせたのである。あれ...邪宗の双神・・5白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・6 白蛇抄第6話

    政勝はその神社の境内の中に入ってみた。そこには、今、思ってみても妙な物ばかりがあった。石に刻み込まれた道祖神に過ぎないと思って何気なく目をやっていた政勝もうっと息を飲んだ。描かれた道祖神は向かい合う男女であったり、男同士、あるいは女同士であったのであるがそれが一様に互いの性器に手を延ばしている。慌てて辺りを見渡せばあちこちにそれと判る物が並び立っている。民間信仰の産土神に子を授かりたい夫婦が性器を模った物を奉納する事は良くある事であり政勝自身は驚く事ではなかったが、連れ歩いてきている一穂の事が一番に懸念された。年端の行かぬ一穂に見せられぬ物であった。「流石に・・あれ・・は、いかぬ」と、政勝は言うと、また話し出した。慌てた政勝は一穂を境内から連れ出そうとしたが、すぐ側に居たはずの一穂が見当たらない。間の抜け...邪宗の双神・・6白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・7 白蛇抄第6話

    それで、澄明は改めて政勝に尋ねた。「社があったのですね?」政勝は澄明の問いに訝りもせず「おお。東北のほうに深く進んで行くと。そうじゃな、大きな椎がある。それを右手にして曲がって行くとすぐ、開けた場所に出てゆく、そこにある社じゃ」はっきり場所まで断言するのである。「大きな椎というのは?腰の高さの辺りに大きなうろのある椎の木ですか?」澄明の問いに政勝も「そうじゃ。人が抱かえたら二抱えはあるかも知れぬ。立派な椎の木じゃ」どうやら澄明の思った木と政勝の見た木は同じ物であるらしい。「そうですか」澄明は頷いて白銅を見た。白銅も周知の事であるが、その椎の木の先には確かに政勝の言うように開けた場所があることはある。が、それだけでの場所であり神室(かむろい)に値する場所であるのであろう、しんと張り詰めた雰囲気がするだけのま...邪宗の双神・・7白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・8 白蛇抄第6話

    新羅を訪ねたものの、今更になくしたものに気がつかされた波陀羅は止めど無い涙と深い焦燥にかられ、再び一樹と比佐乃の姿を垣間見にいった。屋敷の中の気配を窺う内に波陀羅が知らされた事実は更なる驚愕を波陀羅に与えただけであった。怪死を遂げた二親の四十九日もすんでいない。が、取りたてて、二人が塞ぎ込んでいる様子もなく、夕刻の闇の中に二人のマントラを唱える声が途切れ途切れに聞こえて来ていた。庭先の石灯篭に身を潜めていた波陀羅に、どうにもならぬ地獄への引導を唱和する二人の声に、また、己も同じ地獄に落ちる身である定めを知らされるだけなのであった。が、ふと比佐乃の声が途切れると、「兄様・・そのような・・無体な・・ややに・・障りませぬか?」不安な声が聞こえて来たのである。今、何と言った?何と聞こえた?波陀羅は耳を疑った。が、...邪宗の双神・・8白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・・9 白蛇抄第6話

    その波陀羅の姿に気が付いたのは政勝のいう社のある辺りに近づいて来た澄明と白銅であった。気配を殺しながら先を歩いていた白銅が澄明を押し留めた。澄明も白銅に引かれ押し黙ったまま木の幹の裏に身を潜めて白銅が見つけた者を木陰より窺い見た。「見かけぬ女鬼じゃな」澄明が白銅の潜めた声に、頷くと二人はそのまま女鬼を見詰めていた。やがてその女鬼はとぼとぼと森の奥に向かって歩き出して行った。飛び退ろうとしなかったのも妙な事に思えたが、それが女鬼にには行く当てが無いように思えた。女鬼が立ち去ると、二人は木陰をでて社の在ると言われた開けた土地の真中まで歩いて行った。そこまで行ってもやはり社の痕跡一つなく、勿論政勝の言うような道祖神の石彫りさえ無ければ、辺りの空気もしんと静まり返っていて不穏な気配一つ感じ取られなかったのである。...邪宗の双神・・9白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・10 白蛇抄第6話

    森羅山の北側の麓の木々が跳び退る足に蹴た繰られては大きく揺れ動いている。その木々を動かせているのは森羅山に入った澄明を探している伽羅である。澄明の筋書き通り事が運び天守閣から飛び降りた勢姫を受け止めた悪童丸はすでに一昨年の冬にてて親になっていたのであるが、それから一年すでに年が改まったというのに相変わらずの幼名のままでいるのである。その悪童丸に伽羅は澄明の一字を貰い受けて大人名に改名してやりたく思っていた。澄明にその許しを得たくもあり伽羅は澄明に逢える機会を待っていたのである。その澄明が城を出て森羅山に入ったのが判ると、伽羅は澄明を探しに森に入った。『澄の字を貰おうか、明の字を貰おうか。それともいっそ澄明に字名を考えて貰おうか?』と、伽羅の胸の内で算段も膨らんでゆく。拾いあげた悪童丸の名はその、産着の中に...邪宗の双神・10白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・43 白蛇抄第6話

    城へ上がった白銅は待たされる事もなく主膳の前に額ずいていた。それも道理でいい加減、まだか、まだかと尋ねても、「まだです」の一言で済ますと、後は何も言わぬ善嬉に拉致が開かぬと澄明を呼び正そうかと考えていた所に折りよく白銅が現れたのである。「一体、どうなっておる?髪揃えの儀式は運気が悪い!?一体、何時まで運気が悪い?」じりじりと先延ばしにされて行くのは、まだしも禊なぞと称して善嬉が一穂にへばりつかねばならぬほど運気が悪いと言う。陰陽師四人も揃っていての事であれば、悪気を祓えぬわけもない。白銅がどう切り出そうか考えるより先に主膳の方が、府に落ちぬ事として問質して来たのを、もっけの幸いとして、「実は・・・梃子摺っております」主膳の次の言葉を引き出すために勿体をつけた回りくどい言い方をすると、案の定「な、なんぞあっ...邪宗の双神・43白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・44 白蛇抄第6話

    主膳の若かりし頃、今は亡き妻であるかなえを娶る前の話である。伊勢の父の元の姫君であったかなえであるが、そのかなえ恋しさに都度都度伊勢に参られた主膳であった。姫君に会うには色々な口実が必要でもあり、また将を射んと欲すれば馬を欲っすの喩えそのままではないが、姫君の父に目を止めて貰いたくもある主膳は、弓の名手で知られる姫の父君の気を引く為にも多少なりとも弓の事に精通しておきたく、まずは弓矢の腕に磨きをかけ始めたのである。そんな様子を人に見られたくもなく、主膳の弓の稽古場所に自然人目のつかない森羅山を選んだのである。主膳が稽古場所に選んだのは森羅山の北東の椎の木より向こうにある窪地で、その窪地が僅かに傾斜する山の上昇線に一端、胸の高さくらいで双に分れた幹が上部で一つに繋がった榛の木があった。双に分れた所に丁度、拳...邪宗の双神・44白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・45 白蛇抄第6話

    「そうですか」が、澄明の顔色は暗い。「どうした?」「あ、いえ。せっかく双神を救う手立てが見つかったというものの、一体どうやって元に戻してやればよいか」元に戻れるのなら双神とて、とっくに戻っていよう。戻る方法もなく、生き長らえる為に餓えを満たして来た双神なのである。だが運命は、刻一刻と双神の潰える時に向かって動きだしている。神の望むさにわが双神の一方を一樹の身体の中に閉じ込める事であると、澄明も悟っている。閉じ込められた双神がシャクテイを吸う事も叶わず餓えて死に行くのを待つだけである。もう片一方の双神は、その片割れの死に行く様を、もがき苦しみながら見ているしかない。己達が仕出かしていた事の酷さを返される事が果たして双神にとってのさにわなのであろうか!?せめても罪を悔いる気持ち、罪を購う気持ちにならずに、与え...邪宗の双神・45白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・46 白蛇抄第6話

    波陀羅が帰ってきたのでいなづちは扉を開いた。中に入ってきた波陀羅に「どうした?誰が邪魔をしに来た?あやつら何者なのじゃ?」いなづちが聞くので、波陀羅波は不思議な顔をした。「お判りになっておったのでないのですか?」「何ぞ誰かがおったのは知っておる。が、我等は同門の者同士の間の事しか読めぬ」双神が根を張ったもの同士の事だけが判ると聞くと、波陀羅は己らが地中深き穴の中の蟻に感じられた。同じ蟻の巣の中にいる蟻達の事は判るがその蟻が外に出てしてきた事は判らないと聞こえた。「黒龍と言いました。八代神と言いました」「な?」奥の部屋に一樹を残しておいて、なみづちがやってきた。やはり波陀羅の失敗は知っていた。「何者じゃという?」なみづちの問いに「黒龍と、八代神というのだ」「なに?」波陀羅を振り返ると「何故?そのような者が現...邪宗の双神・46白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・47 白蛇抄第6話

    「なみづち・・・・どうする気でいる?」「政勝が事か?」「聴けば聴くほど・・・・惜しい」「だろうの・・・。考えがある」「考え?」いなづちがにたりと笑った。「波陀羅が因縁というたじゃろう?わしはそれをずううと考えておった。・・・・・。比佐乃は一樹を殺す。そう思わぬか?」なみづちは考え込んでいたが、考えに辿り付いたのであろう。「確かに。・・・・だが、それが?」「死体が出来る。同門の死体じゃ。乗り移れる。そして、御前も政勝を振ればよい。わずかの隙を狙えばよい。わしだったら、波陀羅のようなへまはしない」双神自らが、双方で一人の男の思念を振ろうというのである。「成る程。が、比佐乃が一樹を殺す?どうやって?」「ふ?今から馳走になろうという、シャクテイをかもし出すその、二人の濡れ場を見れば比佐乃も鬼になろう?」「は?はは...邪宗の双神・47白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・48 白蛇抄第6話

    一樹が比佐乃の元にさえ行かねば、一樹が比佐乃に殺される事は有得ない。だが、それを食い止める事が自分との情交なのである。「判りました。波陀羅が頼みをきいてくれますな?比佐乃様には、出きるなら、もうお会いする事の無いように」「ああ。波陀羅。切ない事を言う」一樹とて比佐乃には逢いたいのである。だが子を宿した比佐乃を抱くには一樹とて遠慮がある。逢えば愛欲の果て無体な事をしてしまいそうな自分の満たされぬ欲求と、何処か母親を思い起こさせる波陀羅への恋しさが重なり合って今は波陀羅を求めてはいるが、けして比佐乃に飽きたわけでなく、比佐乃への心を無くした訳でもないのである。「御約束下さい」一樹も波陀羅の言葉に逆らえば、同門の波陀羅との情交をもてなくなると考えた。双神の用事とやらも済んでいないのに、ここから出られる事もどうせ...邪宗の双神・48白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・49 白蛇抄第6話

    波陀羅は森羅山を出た所で見かけた女の姿を借りると澄明の屋敷の玄関先に立った。中から正眼が最初に出て来ると波陀羅に言われるまま、澄明を呼んでくれた。正眼から鬼の映し身の女子じゃが、伽羅ではないと聞かされた澄明は、さては波陀羅であるなと玄関先に出て行った。話したい事があるという女を白銅のいる鏑木の部屋に招じ入れた。「私の連れ合いになる人です。たぶん、色々と貴方の話しに良い知恵を浮かばせてくれると思いますが同席を許してくださいますか?」澄明に尋ねられると波陀羅も即座の返答に困った。判る事は、陰陽師である男を澄明が信用しているという事だけである。澄明が信をおくとならばと、波陀羅も伽羅の様に澄明を信じて行くしかないと、思えた。「まあ。波陀羅。座るが良かろう」立ち尽くしている波陀羅にその男が声を懸けて来た。「ご存知で...邪宗の双神・49白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・50 白蛇抄第6話

    澄明は、波陀羅が去ると肩を落として、ため息をついた。「どうした?」白銅が頃合の良い頃に波陀羅に話し置かねばならないきっかけを与えてくれていたのは澄明にも判っていた。「いえ。一番聞かれたくない事を波陀羅が聞き忘れていてくれていた事に」良かったというべきなのか、その覚悟もつけて貰ったほうが良かったのか、澄明はどちらともいえない成り行きにまかせた。が、後ろめたい思いがなきにしもあらずであった。「言えはすまい?」白銅も比佐乃に殺される一樹の因縁を考えた。その、一樹の死体に双神が乗り移ろうというのであれば比佐乃が一樹を殺さなければならない理由をむしろ双神が積極的に作ろうとするのではないか?親子であろうが、兄弟であろうが、双神にとって利用できる者を今まで、どう使い回してきたか。波陀羅の感情などお構いなしに双神は目的を...邪宗の双神・50白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・51 白蛇抄第6話

    玄関先に現われた一樹の声で比佐乃があっと小さな声を上げると一樹にむしゃぶりついて行った。「元気でおったか?身体はつろうないか?よう、ここまできてくれたの」比佐乃の顔を見る為に一樹は比佐乃の肩に手をおきほんの少し比佐乃の身体をおしやった。身体を少し離されて、比佐乃は一樹を真直ぐに見上げた。「ああ。相変わらず・・綺麗じゃ・・ますます、母さまに似て来た」泪が潤んで来る目元さえ亡き母親を思い起こさせる比佐乃なのである。久方の逢瀬に浸りこんでいる二人を裂いてまで、一樹を責めることもできない。因縁の時に一歩近づく恐れが身体を震わせていたが波陀羅は「比佐乃さま・・・早うにあがってもらわねば・・・」奥から声をかけた。「ああ・・・そうでした」比佐乃も慌てて一樹を招じ入れたのである。床の間には、春を感じるのか軽く綻び掛けた梅...邪宗の双神・51白蛇抄第6話

  • 邪宗の双神・52 白蛇抄第6話

    だが、其れも束の間。波陀羅の浮き立たせた因縁からの解脱法が、何も役に立たないという事をしらされる時がくる。夕餉も終え、片付けを済まし、波陀羅は古手屋を回り少しずつ集めまわってきた木綿の着物を解くと生まれくる子の為にしめしを縫った。洗いざらし草臥れたぐらいの古着が、赤子の肌を柔らかく包むことであろう。そろそろ腹帯を蒔いてやらねばならぬ頃でもある。戌の日は何時になるのであろうか。取りとめなくそんな物事を考えながら、夜遅くになって布団の中に潜り込んだ。うとうととまどろんだ波陀羅の胸を弄る者がある。それが誰の手であるか、波陀羅がきくまでもない。「なりませぬ」その手を掴むと波陀羅は声を潜めて制止した。が、「比佐乃には・・・できぬ」一樹が呟き返した。一樹が求められないといっているのか、比佐乃の身体ではできないといって...邪宗の双神・52白蛇抄第6話

  • 踊り娘・・・1

    剣の舞を踊るサーシャの足がおちてゆくそのポジションを見つめ続けた男はやがて、イワノフの手をシッカリと、握り締めた。***出番を控えている姉であるターニャの元にサーシャの事実をつたえにいくことは、つらいことでもある。だが、キエフの大物舞踏家が、サーシャを預からせてくれという。姉妹でありながら、ターニャはこんな、地方の劇場まがいの酒場の舞台から、抜け出ることも出来ないにくらべ、妹の舞踏の技術は世界を相手にする国立舞踏団の花形スターの目に十分な可能性を秘めている。イワノフがターニャに妹サーシャのチャンスをつげるのを、渋りたくなるもうひとつの要因がある。ターニャは今、この劇場のソロマドンナである。が、それは、ある一定の境界の中においてである。ある時間までは純粋に舞踏、レビューで、舞台をかざるのであるが、ある時間を...踊り娘・・・1

  • 踊り娘・・・2

    「サーシャが?」ターニャの顔が複雑にゆがんだ。妹の才能が本物であることは姉としてうれしい。だが、同じ踊り娘として、歯牙にもかけられない自分をいっそうにしらされる。「サーシャには、まだ、はなしてないが、君がサーシャの保護者である以上、まず、君の同意が必要だと思う」サーシャをキエフにいかせる。それは、サーシャが一流のプリマドンナになれるチャンス。「サーシャの気持ちしだいです」答えてから、ターニャはどこかで耳にしたせりふだと思った。イワノフだ。「踊りをつづけてゆくか、僕と結婚してくれるか、君の気持ちしだいだ」踊りを続けてゆく。イコール、結婚は断るという意味になるだろう。逆に結婚するといえば、踊りは続けてゆけない。ターニャの迷いはそこにあったかもしれない。踊りは続けたい。だが、自分の踊りはもう、踊りだけでは稼げる...踊り娘・・・2

  • 踊り娘・・・3

    舞台をはねて二人のアパートに帰ってくるまで、並んで歩きながらターニャの足取りが重い。「姉さん?どうしたの?」やはり、ソロマドンナ降格が応えているのだろうと、サーシャは言葉を選ぶ。「あたしは・・・アフタータイムの踊り手でも、別にかまわないんじゃないかとおもうんだけどね」悲しそうにうつむいたターニャにかまわずサーシャの言葉が続く。「姉さんはアフタータイムの踊り娘をばかにしてるし、観客を馬鹿にしてるんだ」ターニャの言葉が不思議でサーシャは尋ねかえした。「どういう意味だろう?」「姉さんはアフタータイムの踊りが実力で成り立ってない。踊りを見る目がない観客が女の裸を見に来てる。そこで踊ればさらしものだとおもってるんだ」サーシャに・・・何がわかるというんだろう?ましてや、この子は間違ってもさらし物になることなんかない子...踊り娘・・・3

  • 踊り娘・・・4

    それにしても、「イワノフさんも何を思ってそんな大物のところに・・・」ポジションが正確だからって、そんなことくらいで驚かれてたら、ポリジョイサーカスの綱渡りなんか、正確なポジションが当たり前。命がいくつあってもたりやしないだろう?そんなことを考えたら特に驚くことでもない。「イワノフさんの目は確かよ。コンドラテンコはあなたをキエフのプリンシバル育成所に入所させたいと、もうしこんできたのよ」プリンシバル育成所への招待?飛び出してきた話が大きすぎてサーシャにはこの話が真実であるとは思えない。「まさか?それだったら、なんで、プリンシバル関係の人がじかにあたしに話しにこないわけ?」サーシャの疑念はもっともだと思う。「いくら、イワノフさんが口をきいたからって、あたしに断りもなし、入所を決定する権利はないわ」サーシャは関...踊り娘・・・4

  • 踊り娘・・・5

    「姉さんに踊りしかなかったら、イワノフさんのプロポーズを考える事もなかったと思う。眼中にも無いって、大慌てで断っていたと思う。でも、姉さんの中でこれ以上ソロマドンナを維持できない自分だと分かったとき、結婚を考える姉さんになっていたと思う。そして、相手がイワノフさんだから・・・。姉さんの踊りがソロじゃ通じないと評価した相手だから、姉さんは踊りをとるか、結婚を取るか・・・迷っている。踊りを取りたいのは、やまやまだろうけど、もう、下降線を辿るしかない自分だと、知ったとき、姉さんは、結婚してもいいと思った。でも・・・。それは、ズバリ・・・。結婚を逃げ場所にしてるとも思うし自分で自分への評価を認めることにもなる。だから・・・。姉さん・・には、きつい事をいうけど、姉さん・・・は、自分に才能が無いって認めたくなくて・・...踊り娘・・・5

  • 踊り娘・・・6

    「だから・・・さっきも言ったように・・・イワノフさんは姉さんのことを愛してるんだろうって思った・・から」「ばかね。それは、なぜ、イワノフさんがプロポーズをしたかってことでしょ?あたしが聞いてるのはなぜ、あたしが云というと思ったかって事・・・」「ああ・・・」確かに尋ねられたことへの、返答にはなって無かった。「う~~~ん」ナゼだろう?なぜ、ターニャが云というと思ったんだろう?「だよね。父親かと思うくらい年がはなれていて・・・イワノフさんにとっては、美人でスタイル抜群で若い・・こんな姉さんと一緒になりたいだろうねってのは、判るけど逆を言えば・・・凡庸でもう、50歳ちかい年齢・・わざわざ、こんなじいさんと一緒になりたいと思うほうがわからないよね?」「・・・」だから、尋ねているんじゃないかと、切り返す言葉を飲んだの...踊り娘・・・6

  • 踊り娘・・・7

    あの日。サーシャのキエフ行きをお願いしにいって、そして、アフターで踊るとイワノフに告げた。「それは、すなわち、僕と結婚しないという意味だろうか?」求婚を断っておいてまだ、イワノフの元で働かせてくれというのは、いかにも、あつかましいと判っていた。判っていたがそれでも、ターニャにも考えがあった。もし、他の劇場に移ったら、収入面も減るが、客もへると思った。ソロマドンナとしてのターニャを知っている客が、アフターのターニャに対しても特殊なまなざしでなく以前からの踊り娘としてのターニャとして、見つめてくれるはず。だから、アフターを踊るにしても、ココが一番好条件だった。ターニャのあつかましい申し出にイワノフはビジネスの顔で応対した。「収入はおそらく、今の2倍以上になると思う。あと、どうしても、アフターに入ると後援者とい...踊り娘・・・7

  • 踊り娘・・・8

    気が付かないまま、むきになるターニャが妙に純粋にみえて、彼女は口調を和らげた。「あたしは・・はじめから、アフターにはいったの。実入りがいいからね。あたしは、17の時に子供をうんで、どうしようもなくなって、母親に預けたの。子供の父親とは、籍もいれないまま、子供も認知されないまま・・・。母親に子供を預け、養育費を送るためにね。パトロン・・はね・・・。この仕事はいつまでもつづけていけないでしょ?そのための保険。子供もこれから、お金が要るし、女手ひとつの稼ぎで十分な教育をうけさせてやりたいと思ったら・・・あたしには、このアフターの収入とパトロンの存在は必要なのよ」あるいは・・・。目的を持って流されず、しっかりと自分の意志でアフターをはる場合もあるんだよと彼女はいいたかったのかもしれない。「もうしわけないけどね・・...踊り娘・・・8

  • 踊り娘・・・9

    引き返す術がなくなったのは、サーシャへの仕送りがからんだせいでもある。キエフで・・・どれだけ、金がいるか・・・。アフターの同僚が子供のために・・裸で踊った。ターニャだって出来ないわけは無い。まがいものの踊りでも、その手で稼いだ金でサーシャはいつかプロになる。踊りたい。その心を底に埋め隠すとサーシャを希望の星にかえ、・・・・。そして、いつか・・・・。私も・・・。誰かの手に落ちる。この先、何百人何千人の好奇の目にさらされるくらいなら、きっと、たったひとりのパトロンのものになったほうが、楽になれる。それは・・・・。サーシャがプロになった時?悲しい自嘲と諦めがターニャを包み真っ白になる頭の中でステップを踏むこと。胸を・・・裸の胸を張る。なにも、胸を張ること一つもてなかった女に、できることは、このくらい・・。真っ直...踊り娘・・・9

  • 踊り娘・・10

    イワノフと二人きりで真正面きって、会うのは、アフターに入ると宣言して以来だ。イワノフの求婚を断ったせいもある。イワノフももう、ターニャを引きとめようともせず、ターニャの申請通り、次の日からアフターの振り付け師がついた。向かい合わせの席でイワノフが「アフターでのデビューは予想以上に大反響だよ」と、ターニャをたたえた。そうなのだろうか?実際問題、ターニャには、大きな手ごたえを感じない。むしろ、舞台をはねて、街で買い物をしていてさえも、観客のあの特異なまなざしと同質な視線を感じ、あえて、手ごたえがあるというのなら、それは、嫌悪感でしかなかった。「それが証拠に、僕個人としてははなはだ不愉快でしかないが、君と個人契約を交わしたいとの、申し込みがこの2週間で、13件。僕の一存で握りつぶすわけにもいかないし、検討するの...踊り娘・・10

  • 踊り娘・・11

    「まず、君に言っておかなければいけないことがある。パトロンは強制じゃない。アフターを張る踊り娘の特権ともいえる権利であって、義務じゃない。断るも受けるも踊り娘の自由である。これは、君がアフターに入ると言った時に心得ていてくれと僕は念を押したはずだ」イワノフの言葉にターニャが反駁する。「でも・・・実際、こんな風に資料まで渡されたらパトロンを持てといわれてるのと同じことだわ」「それは、君の覚悟が浅いってことじゃないかね?」この言い方ではターニャが誤解すると分かっていながらイワノフは他の言葉を選べなかった。「アフターにはいる。イコール、パトロンが付く。そうならば、そうだと初めにいってくださればいいわけでしょ?断ればいいって、いったのは、貴方だわ。なのに、こんな事されたら・・・」「違うね。君がアフターにはいっても...踊り娘・・11

  • 踊り娘・・12

    控え室の前に立ったターニャは首をかしげた。もう、誰かきてる。ドアの隙間から漏れる光といくばくか、荒い息。誰だろう?なんだろう?ターニャは扉をノックすると「入るわよ」と、中の誰かに声をかけながら、扉を開いた。「あっ・・カタリナ?」控え室の中央の狭いスペースでカタリナは振り付けのおさらいをしていた。荒い息はカタリナの喉からはっせられたものに相違なかった。「あら?」ターニャに気がつくと、カタリナは照れ臭そうに笑った。「何度、踊っても舞台に立つ前は不安になるわ」それが、こんなところで、レッスンのおさらいをしていた、いいわけ。「どうしたの?早いじゃない。やる気まんまん?それにしちゃ冴えない顔色ね。ん?なんかあった?」軽い汗をふきとりながらにこやかに笑いかけるカタリナがひどく優しくみえて、ターニャの糸がぷつりと切れ...踊り娘・・12

  • 踊り娘・・13

    「それ・・は、どういう事?」「そうだね。まず、恵まれてるってこと。うまくいえる自信はないんだけどね。まず、あなたは、どうにしてでも、ん~~~。例えば、身を売ってでも、どうにしてでも、踊り続けたいって、そんな事しなきゃ舞台にたてない。そんな目にあってないよね。ぽっと、入った劇場でいきなり、ソロをはって、アフターに入ったって十把一絡げのラインダンスから登っていくのが普通のところをこれまた、いきなり。ソロデヴュー。恵まれてるとしか、いえないけど、そのおかげであなたは、石にしがみついてでも、踊りぬく、って、情熱に欠けてる。あたしは、踊りたい。パトロンがど~の。アフターがど~の。裸がど~の。そんなことどうでもいい。踊り続けていくための材料でしかない。まあ、アフターのソロにしたって、イワノフさんのてこいれが随分あると...踊り娘・・13

  • 踊り娘・・14

    急かすだけのことはある。カタリナが今日の出し物のトップ。カタリナをみおくって、舞台の袖にたった、ターニャはカタリナの踊りに釘付けになった。演目はオリジナル。ストーリーがある。街角に立つ娼婦。それが、カタリナ。曝け出した胸を誇りストリートを闊歩する紳士をこまねく。だけど、だれ独り、カタリナの誘いにのってこない。あれやこれやの術を使いしなをつくり、胸を揺すりカモン・カモンと指をうごめかす。それでも、誰ひとり、カタリナにふりむかない。強行手段のカタリナは歩く紳士の手をつかまえ、自分の胸に触れさせてみるけれど・・・。これも、ダメ。ふてくされて、路上に座り込むカタリナ。そこにチャチャチャ風にアレンジされたシャル・ウィ・ダンスが流れ出し通り過ぎると見えた紳士がカタリナに手を差し伸べる。「シャル・ウィ・ダンス」なんです...踊り娘・・14

  • 踊り娘・・15

    舞台がはねたというのに、帰宅の足取りが重い。少し前までなら、サーシャと並んで帰る時刻は充実感につつまれていた。家に帰るという事は、ひいては、明日への準備。また、半裸身でおどるために身体を休めるだけ。食事・・・をとって、風呂に入り、それから・・・。なにもする事が無くなっている。とりとめないお喋り。サーシャに癒されていたくつろぎの時間も今は無い。物思いが流れるままにとぼとぼと歩くターニャの目に映る町並みも暗く店々の多くが戸を閉めている。「あ・・」うっかりしていた。イワノフとの話しのあとに、パンをかっておこうとおもったのに、そのまま、劇場にはいってしまって・・・。いつものパン屋は・・・もうすっかり戸締りをし終えている。無理の無いことだろう。ただでさえ、朝の早い仕事。こんな遅くまで店を開けているわけが無い。どうし...踊り娘・・15

  • 踊り娘・・16

    午後から新しい出し物の打ち合わせがある。だから、ゆっくり、寝ていればいいのにやっぱり、目が覚める。起き抜けに珈琲をいれて・・・。そう。朝のパンがないんだ。忘れないためには、先手をうつのが一番。サーシャの手紙を読んだら、パンを買いに行こう。今日の予定が、出来た。とても単純なことだけど、買い物にでかけるのは、なんだか、心弾む。日差しのやわらかい朝。そろそろ、ライラックが咲き始めてきっと、通りも甘い香りに包まれている。『あたしって・・・単純よね』芽吹きの季節は心を和ませる。でも、もっと、私は簡単。焼きたてのパンのかぐわしい匂いが好き。だって・・パンは命を紡ぐ糧だもの。きっと、あの香りに生きてるって実感がわくんだわ。これって、単純じゃないかも・・・。なかなか、哲学的だわとターニャは苦笑をこぼす。でも・・・。ふと、...踊り娘・・16

  • 踊り娘・・17

    『役に立つ・・?』それが、ターニングポイントを作り出すキーワードだったとは、ターニャは思いもしなかった。陽射しの中に歩み出たものの、パン屋がひどく遠い。ターニャの頭の中に渦巻くものと対話しながら歩けば、自然と足並みが緩む。サーシャのニュースは姉としてまず、嬉しい。だけど、養成所を造る・・なんて考えはターニャにはない。なによりも、自分の踊りの才能が認められていないのに、ううん・・・。才能が無いのに、認められるわけも無いけど。それでも、認められるほどの才能も無い人間が人に踊りを教えようなんて思いあがりもいいところ。たとえ、自分の稼ぎでスタジオを作れるほど資金ができたとしても、それでさえ、考えもしないだろうに、妹におんぶされて、道楽のように、濡れ手の粟を芽吹かせて・・・はたして、充足するだろうか・・・。するわけ...踊り娘・・17

  • 踊り娘・・18

    まだ、温かいパンを胸に抱かえたターニャの行き先は決まっていた。イワノフの事務所に行こう。そして、アフターを辞めると宣言しよう。パン屋で熱い紅茶を飲む間にターニャのうろこがおちた。サーシャへの仕送りという目的がなくなった今。「踊りは、無くても生きていける」と、ターニャの根底が変わった。そして、根底の変化はターニャの意識をも、侵食しだした。簡単な真実が、パンを待つターニャをゆさぶった。このパン・・・。どう?人が生きていくためにどんなに役にたっているか・・・。踊り・・・。どう・・・?余暇と余裕と・・・。人類文化の繁栄の副産物。生きるに必須のものではない。自己満足と自己追従。なにかの役にたつだろうか?人の暮らしをささえるだろうか?命を、生活を、ささえるだろうか?ひきくらべ、このパンは・・・私の命を紡ぐ糧・・・。地...踊り娘・・18

  • 踊り娘・・19

    まだ、舞台には当分早い時刻に現れたターニャにイワノフの動悸が早くなる。昨日の今日。大人しそうに見えて激情家のターニャ。昨日の啖呵。あの捨て台詞。憤怒解きやらぬ頭でパトロンをチョイスしてきたのではなかろうか?まさかの思いがイワノフを包みターニャを前にしても、まだ、不安の鼓動が耳に届いていた。「突然ですけど、私、此処をやめさせていただきます。今までイロイロ、お世話になってそのご恩もおかえししないのは、心苦しいのですけど・・・」切り口上の物言い。なにか、固く決心したターニャと伺える。「辞めるのは構わないが・・・この先・・どうするのかね?次の就職先はきまっているのかね?」もしも、ターニャの口からパトロンの誰かに話をつけてほしいといわれたらどうすればいい?13人の申し込み者の名前を頭の中で確認したイワノフに一人の男...踊り娘・・19

  • チサトの恋・・1

    編集長の見解と私の意見が食い違い、説得と説明と疑問と反論。その繰り返しで、へとへとになって帰ってきた。実にささいな・・トリミングの差・・これで・・ああ、まあ・・もういいや。とにかく、私が一歩もゆずらず、印刷所にGOしたわけだ・・し・・あれ?私の部屋・・ブラインドが開いてる?と、いうことは・・・・・。また、あいつだ。大急ぎで部屋の鍵・・・。いや、待てよ・・・。ドアノブをまわしてみる。案の定・・・。ドアに鍵もかけずに・・。あがりこんで・・・。あっ?あああああ・・・。大事な事をおもいだした。先週、上物のアウスレーゼをかいこんで・・ヤバイ!!玄関を開けた途端、なに?この臭い。どぶ川だって、こんな奇妙な臭いをさせてやしない・・。犯人はあいつの・・この靴・・。いやいや、こんなものにかまってるわけにはいかない・・。部屋...チサトの恋・・1

  • チサトの恋・・2

    「うわ!!」驚きたいのはこっちだ。「うわ・・そんな恰好してても、色気ひとつねえ!!驚嘆すべき事実だ」ご挨拶だねえ・・・。「あんた・・頼むから、シャワーくらいあびてよ」「うん・・今から行く・・」はあ・・・って大きなため息をもらしてやった。とたん、「どうしたん?なんかあった?」お見事。このずうずうしさととふてぶてしさ・・。「別に」「あ、そう?」って、そのまま、シャワーあびにいってしまった。心配する気さえないんだから・・と、文句もでてこないのは、あてにしてないからだけど・・。奴のことだ、また、弟ですって、管理人に鍵をあけさせたんだ。いろいろ、カメラのことで、借りがあるから、大目にみてるけど、ずうずうしいのも程がある。でも、まあ、微妙なところではあるけど、姉さん気分にひたれるのは悪くはない。それに奴の撮影技術もセ...チサトの恋・・2

  • チサトの恋・・3

    「チサト・・」リビングに行ったあいつが呼ぶ。「なによ」「こっち来て、のまないか?」は?あんた、まだ・・・・。キチンのワインラックをながめる。大丈夫、減ってない。と、いうことは、また、取材旅行のお土産のウィスキーかなんか?リビングにいくと、奴はリュックから、ウィスキー瓶をひっぱりだしてきていた。お?バルモア?グラスをとりにいくと、早速、ストレートでいただく。旨い物に弱いのはいいことかもしれない。こいつの悪ふざけも、しっかり、水にながしてしまえる。奴がまた、リュックの中をあさる。だしてきたのが、ジャーキー。自分のつまみもってるなら、ひとんちのものをあさる前にそっちをさきにくえ、と思いつつ、奴が袋の口をあけるのをおとなしく待ってるんだからあたしもつくづく、犬の性分だと想う。おあずけにおとなしく服従する犬のごとく...チサトの恋・・3

  • チサトの恋・・4

    あたしの科白に奴が返した言葉にあたしは、あきれた。「俺、アフリカにいってこようと思う・・」「なに?難民キャンプにでもいこうって?」図星だったんだろう。口の中でごにょごにょ、なにかいってた。「で、人道的テーマで撮ってみるって?」「う・・うん」切羽詰った天才はわらをも掴む思いなんだろう。それも、こいつにとっては、いい経験になるかもしれない。「で、それで、写真がすべてを語るものを撮れるわけ?」止めてやめるような根性なら、やめたほうがいい。あたしの口が酸っぱいを通り越して辛らつになってくる。「そこで、ワクチンがまにあわず、死んでいく子供にシャッターを押す。あんたにできる?」「・・・・・」「できるあんたなら、もう二度と、此処にこないでほしいわね」「チサト?」「自分の身の回りにあるものひとつの価値もみいだせない人間が...チサトの恋・・4

  • チサトの恋・・5

    朝、目覚めると、即、幼稚園に出向。奴はいつ、出かけるのだろうかとふと思う。有給休暇が2週間ちかくあるだろう。休日をはさむと、20日ちかい休みが取れる。海外への取材旅行はもっぱらあいつが担当してるから、あたしは、めったに海外なぞでかけられない。場合によっちゃあ、あいつは、そのまま、次の拠点にむかうときがあるから、2~3ヶ月かえってこないなんてこともある。しかし、休みもらえるんだろ・・?待てよ。あいつがいない間、あたしが穴埋めにつかわれる可能性もある?ありえるなあ・・・。外国もいいけど、行く場所によりけ・・り。おっと、ここだ。けっこう、でかい幼稚園。まだクラスのなかにはいる時間じゃないんだろう。遊具にもぶりついてる子がいる。しつけが行き届いていて、車をおりたあたしをみつけて、「おはようございます」なんて、いう...チサトの恋・・5

  • チサトの恋・・6

    そして、「編集長」昨日のごりおしがあるから、あたしもちょっと、低姿勢口調。「あの?幼稚園の園長先生がーやっぱり、貴女にお願いしてよかったーと、いってたんですけど・・」半分も聞かないうちに編集長はご機嫌な顔になる。「そりゃ、いいことじゃないか。うん、がんばってくれ」じゃなくて・・。「やっぱりって・・なんか、誰かがあたしを薦めてくれたっていうことじゃないのかなって」「ああ・・。それ、慎吾だ」奴?奴がなんで?「幼稚園のほうが、おまえをなざししてきたんだよ。たずねたら、慎吾から紹介されたっていうから・・慎吾・・に・・あれ?」黙り込んだあたしに編集長までが、黙り込む。「なんだよ?」やっと、出てきた言葉はあたしのだんまりへの質問・・だろうな。「いえ、なんで、や・・慎吾があたしを薦めたのかとおもって・・」「う~~ん。ま...チサトの恋・・6

  • チサトの恋・・7

    いつまでも、エアーズロックを眺めていても仕方が無い。午後から、ビストロのランチを撮影しにいくことになっていたから、事前に、ランチをたべておこうと思った。ビストロの店内のムードもつかんでおきたかったし、やはり、客層をみておくのが、一番良い。さりげない配慮があると、客層がかわる。窓際の鉢植えにオリーブの実がなっているイタリアンレストランは中年層の女性の嗜好をくすぐるのだろうか?落ち着いたタイプの客層が多いようにみえた。店のつくりによっても、物静かに食事をとるムードと会話が食事に華をそえる団欒のムードがあったりする。物静か過ぎれば、光の差し込ませ方で明るい和やかなムードを強調させることもできる。まあ、どっちにしろ、下見がてらにいってこなきゃならない。時計をちらりと見上げる。11時過ぎ・・。今から、いけば、丁度よ...チサトの恋・・7

  • チサトの恋・・8

    次の日、朝起きると、早速、幼稚園に飛んでいった。3歳児なるものが、いかに、登園をぐずるものなのか、たしかめておきたかった。あわよくば、慎吾のように奇跡がころがってくるかもしれないというたなぼたも期待していた。駐車場に車をとめて、幼稚園の門の前まであるいていくと、徒歩通園の子供がちらりほらりと門をくぐっていく。保育士は、門の脇に並んで声をかけていたが、教室がはじまるまでの間、遊具で遊ぼうと一目散の子供の背中に声をかけることになる。そんな中、母親や父親、祖父母につれられて登園してくる子供もいる。突然の泣き声は、母親にしがみついてぐずる子供のものだ。見れば、3才だろうな、可愛いポニーテールの頭を若いお母さんの両足の間におしつけて、ピーピー泣いている。お母さんはかがみこむと女の子にはなしかけはじめた。「お友達が遊...チサトの恋・・8

  • チサトの恋・・9

    「お前、自分の事になると、鈍すぎるんだよ。慎吾はお前に惚れてるんだよ」「・・・・・・・・」私の口からまったく、言葉がでてこない。奴が私に惚れてる?まあ、言うに事欠いて、よくも・・・・・ん?編集長、やけに真顔すぎた・・・。「それな、慎吾のプロポーズだったんだよ。お前、見事に肩すかしをくらわせて、鼻もひっかけない、眼中にもない、って、態度とったんだろ?それでか・・。それで、慎吾は休暇とったんだな・・」え?は?いやいや、休暇は別件だけど・・。しかし・・。プロポーズ?笑いがこみ上げてくるのをこらえたのは、編集長をこけにしてしまうと思ったからだけど、男同士ってのは、そういう風に思うのか、はたまた、すでに外見である、お互いの性別をあてはめてしまって、ありがちな男と女の顛末という推論をしたがるものなのか、結局、判らずじ...チサトの恋・・9

  • チサトの恋・10

    奴が、難民キャンプに旅発ってから、5日がすぎていた。2週間で、思う写真が撮れるものだろうか?って、思う。たった、10日ほどの滞在で、難民キャンプのなにがわかるというのだろう?ただの異邦人でしかない一個のカメラマンが、表面上の出来事をとらえるだけにすぎなくなるだろう。だいたい、目的というか、ポリシーというか、テーマというか。そんな目線をもたないってのは、棚からぼた餅がおちてきたら、そこで、ぼた餅を食いたい自分か確かめてみようなんていうのに、等しい。その根性が気に食わない。ふと・・・。あたしの思考がとまる。仮想でしかないことを考えるのは嫌いだけど、あたしだったら、どういう目線をもつだろうと思ったんだ。それは、幼稚園の園長の言葉もあったと思う。仕事を生活にしていこうとする中、なにかしらのポリシーをもっている。ビ...チサトの恋・10

  • チサトの恋・16

    おかあさんと赤ん坊を休ませてあげる個室なんていう上等なものはなく、元居たテントに二人を運び入れた。狭いテントの片隅を二人の居場所にしてあげようと女たちは場所をつくっていた。子供たちは赤ん坊をみたくてしかたがない。そばにいかないのよ、静かにしなきゃだめよと母親に叱られて、くるくるの瞳だけが赤ん坊に注がれている。あたしも同じ。おっぱいをのみながら、ねむってしまう赤ん坊のほっぺたをおかあさんがやさしくつつくと、ちいさな口がちゅくちゅくとうごくけどまた、すぐねむってしまう。きっと、おっぱいをのむのでさえ、赤ん坊には重労働なんだろう。なんて、かわいくてなんて一生懸命にいきるんだろう。そして、おかあさんは赤ん坊をだいたまま横になろうともしない。こうやって、大事に護って生きていくんだ。あたしはカメラをむけることさえ忘れ...チサトの恋・16

  • チサトの恋・17

    夕食はビーンズスープ。くばられた一杯のスープは、悲しいくらい。豆がどこにあるのか、さがしまわらなきゃいけない。それでも、わずかしかないのに、女たちは、わずかの豆を掬ってお母さんの器に入れてあげてる。おかちゃんのおっぱいのために、少しでも多くたべさせてあげたいとみんな、あたりまえのようにスプーンにのせた豆をおかあさんにもっていってあげてた。あたしといったら、これまた、涙がぼろぼろこぼれてこんな、絶好のシャッターチャンスをのがしてしまう。なんだか、慎吾のいってたことが少し、みえてくるような気がする。写真そのものが語る・・その前に、カメラマンはその感動から一歩はなれてファインダーを覗くことができるだろうか?感動や衝撃が大きければ大きいほど人はだれもが、きっと、その場に立ち尽くすだけになる。その感動や衝撃から離れ...チサトの恋・17

  • チサトの恋・18

    次の日、さすがのあたしもぐっすりねむりこけてるわけにはいかない。どうこう考えてみたって、あたしはプロのカメラマンのはず・・なんだから。依頼された仕事はやりこなさなきゃならない。でも、こんな調子では妥協の産物になるかもしれないな・・とひとりごとをつぶやきながらテントの外に出た。タオルをひっかけて蛇口に口をつけてる慎吾がいた。あたしもそこに用事がある。ちょっと、昨日のこともあるから、きまずいような、てれくさいような、弱みにぎられたようなへ~~んに複雑な気分ではあったけど慎吾からこそこそ逃げるような態度はとりたくない。「よお」あたしにきがついた慎吾はいつもの通り。「おはよ」「おう」あたしも、看護師からの話を元に慎吾をつつきまわしたくはない。だって、それ、卑怯なきがする。すっぱぬきを盾に物をいうなんて、男の風上・...チサトの恋・18

  • チサトの恋・19

    ☆テントに戻って、カメラを引っ張り出しながら慎吾は、何をとったんだろうと想う。妙にすっきりした顔が、思い出されて怪我人とか?そんな悲惨な状態を撮ったんじゃない。と、思えてくる。なにか、そんな中でふと、心やすまるようなう~~んたとえば、看護師だな。あのお姉さん・・ぴしっときついけど逆に言えば、本心でぶつかってゆくからだって考えられる。甘えを許さないけど、人の心を見抜けるというか・・・。慎吾のことをほめるわけじゃないけど必死ってのを見抜くというか・・・。その彼女が怪我人に・・どう言うんだろ?がんばって、とか、もうちょっとだから我慢しなさい。とかそんな言葉じゃない気がするなあ。たとえば、不安でいっぱいの怪我人の手を自らの手でつつんであげるとか・・・。なんか、ドラマチックで、絵になるなあと自分の想像に満足しながら...チサトの恋・19

  • チサトの恋・20

    次の日も、朝から、シャッターをおとしまくっているあたしに慎吾がきがついた。「おう」まったく、もっと、なにか、しゃべれないんだろうか?「ああ?もう出発?」「うん」慎吾が、なんだか心配そうな顔つきをみせた。奴もカメラマンだ。あたしの状態に感ずいたのかもしれない。「ごめんな。チサト」突如、あやまられてしまうと、馬鹿なりにいろいろ考える。それは、どういう意味だろう?慎吾が会心作を物にしたということがあたしによからぬ影響をあたえたと、慎吾は想ったのだろうか?「ごめんって、なに?」いささか、つっけんどんになっていると自分でもわかっている。「ん。先にあやまっておく」はい?はい?え?またも人をけむにまく気?「なによ、先にあやまるって、これから、よからぬことをしようって?」「うん」うん、って。うん、って・・何を考えてるんだ...チサトの恋・20

  • チサトの恋・21

    なんで、こんなに、それも、突如、スランプになってしまったのか、自分でもわからない。ただ、ひとつの救いはスランプのまま、これ以上悪あがきの写真をとらなくて良くなったことだろう。帰国命令がでたと看護師に伝えると、「あら?」とびっくりしてた。されは、彼女もまた、私が写真をとりきれてないことを察していたからに違いない。「う~~ん。そうかあ・・」と、彼女はうなづくしかない。まさか、引き止めてここにいろというわけにもいかないから当たり前のことだけどやっぱり、感ずいていたんだ。「写真・・とれてたんじゃないの?」余計な詮索になるとわかっているのだろう。とれてないんでしょ?と、ずばりと聞いてこなかった。「うん」情けない顔をさらけてしまったんだろう「チサト!チサトはもっと素敵なことをやってきてるじゃない」と、いいだす。おいで...チサトの恋・21

  • チサトの恋・22

    想ったけど、ちょっと、考えてる。ああいった手前、こっちから、「見せろ」とはいえない。奴に頭を下げるのも癪だし・・・・・・見せてくださいというべきよ・・・ちいちゃんとおかあさんの写真がそういったきがした。一生懸命を見るには当たり前の態度かもしれない。それで、あたしは、飛行機の中で言い慣れない言葉を練習することにした。ーお願いがあるんですけど、慎吾さんのーだめだ・・奴に・・さん、なんてつかったことはない。こっちもぎこちないが奴だって、面食らう。あげく、大笑いしておちょくりだすにきまってる。ー慎吾、写真見せてくれる?-これじゃあ、まんま、「見せてくださいというべきじゃないのか?」って反撃チャンスをわたすみたいなものだ・・・ーえ~と、写真見せてやるっていってたじゃないーだめだ・・。ー写真、みせてくださいーう~~ん...チサトの恋・22

  • チサトの恋・23

    検閲をくぐりぬけて、やっと、日本の土をふみしめたのはもう午後4時をすぎていた。これは、もうまっすぐ家にかえることにしようと編集長に電話をいれておいた。電車にゆられて、駅をでたらさすがに、暗くなってる。これは、タクシーで帰るしかないなと乗車場にならぶと看護師の言葉がよみがえってくる。ータクシーのドライバーだって、資格がどうのこうのいってたかしらーそうそう。その通りだ。堅苦しい考えより、やらずにおけない。その気持ちだけなんだ。テーマがどうの。思い入れがどーの。そんなものじゃない。シャッターをおさずにおけない。その気持ちに従うだけでいいんだ。やっと、元のチサトにもどってきたと自分でも思う。元のチサトにもどってきたのはいいけどタクシーからもみえる、あたしの部屋の明かり。奴もあいかわらず、元の慎吾でしかないかと苦笑...チサトの恋・23

  • チサトの恋・24

    確かに、あたしには映せない写真ではある。第一、あたしがあたしを映すことは不可能だ。だけど、もちろん、そういう意味じゃない。まず、一番にあげられるのは、被写体への愛情。あたしが、いろんなことを知っている当事者だからバックグラウンドにしきつめられているものが判っているからそう感じるというわけじゃない。しいて言えば、あの看護師が最後に写真を撮ってくれたのに似ている。プロだからアマチュアだからとかいうんじゃなくてその一瞬をきりとって、もってていてほしい。と、いう点でいえば、慎吾が撮った場面こそ、看護師が映したかった写真だろう。だが、おしむらく、彼女も写真をとってる立場じゃなかった。次に思うのはロゴ。彼女は戦場カメラマンだった。本来、写真をとるのが使命のはずのカメラマンが「自分も出来る限りの援助をしたいとカメラを置...チサトの恋・24

  • チサトの恋・終

    翌日になって・・あたしは迷った。「慎吾・・ああ、あの一緒に出社するのは・・」ちょっと、やばくない?「いいさ。きにしなくて」慎吾は気にならないらしい。そうだな。途中で顔あわせたってことにしておけばいいか・・とたかをくくると二人で会社に向かった。編集長は帰社したあたしにご満悦って、呈ででむかえてくれて編集長室にあたしをよびつけた。「納得しただろ?」って、突然言う。つまり、それは慎吾が昨日、あたしに写真をみせていることを知っているということになる。慎吾のやつ、編集長にどういって、来たのか知らないけど変にかんぐられるのも嫌だなとおもいつつしょうがないから「ええ、納得しました」って、答えたら「おまえは、納得したか?」って、聞いてくる。ん?なんだ?このニュアンス?「はあ?」納得したってさっきいったじゃないか?なのに、...チサトの恋・終

  • 風薫る丘の麓で・・1

    僕が見た憧憬は椅子の下で遊んでいる仔猫だった。かあさんのうしろ姿しか、もう僕はおぼえていない。なぜ、かあさんがいなくなってしまったのか、僕は知らないまま大きくなった。あの頃、仔猫だった、白いミュウはもう、よぼよぼのおばあさんになって、縁側でひなたぼっこをしている。飛んできた雀の子にさえ、興味をしめさず、よびかけても、うずくまったまま、耳さえうごかさなかった。椅子のしたで遊んでいたミュウの姿をくっきりとおもいだすことができるのに椅子にこしかけていたのが、かあさんだったかさえさだかじゃない。さだかじゃないかあさんが椅子にすわって、なにをしていたか、どんなかっこうをしていたか、もじゃもじゃした灰色のかすみがかかって、やっぱり、僕にはかあさんのうしろ姿しかなかった。とうさんは、再婚した。かあさんの姿がみえなくなっ...風薫る丘の麓で・・1

  • 風薫る丘の麓で・・2

    小さな息苦しさをふきとばすと、あとは風の香りにおされて、家路をたどる。登ってくる時は押して上がった自転車も帰りは気楽。風が薫る坂道を降りていくそのときの爽快さが、僕に勇気をあたえてくれる。忘れていろ。思い起こすな。と、ささやく風に母の後ろ姿がかすんでいく。僕の瞳からしたたる水の中にそのままとけこんでしまえばいいのに・・。ささやく風のいうとおり、僕は忘れることに努めるはずだった。僕は夢をみた。かあさんがベッドに座っていた。ベッドには鉄のパイプがあったから、病院のベッドだ。とうさんが、かあさんの傍に座った気がする。とうさんがかあさんの手をにぎりしめた。かあさんの手ををにぎりしめたとうさんの手にかあさんの涙がおちていた。とうさんが立ち上がるとベッドがふわりと宙にまいあがった。かあさんだけを乗せたまま、ベッドは空...風薫る丘の麓で・・2

  • 風薫る丘の麓で・・3

    ん・・。ああ・・。朝だ・・。「おにいちゃん!!」すぐ近くで、妹が僕を呼んでいた。僕の部屋にかってにはいってくるなよ。妹をしかりつけようとしたとき、かあさんの声までした。「圭ちゃん」つづいて、弟まで・・。「おにいちゃん」おまけにとうさんもだ。「圭一」まるで、夢の続きじゃないか。僕はきっと、うるさそうに返事をしたと想う。「なに?みんな、そろってさ・・」僕のベッドにみんなしてあつまってさ。僕はベッドからおきあがろうとして、妙な違和感を感じた。なに?これ?包帯がぐるぐるまかれた手。手の甲に点滴のチューブがのびてきてる。頭の上からぶらさがっているのは、点滴?じゃないな・・。輸血?え?どういうこと・・。あたりをみわたせば、そこはどうみても、病院の中。きょとんとしている僕の目の中でかあさんが泣き崩れた。弟も妹もわんわん...風薫る丘の麓で・・3

  • 風薫る丘の麓で・・4

    次の日、僕は、ベッドの中で退屈な時間をすごしていた。まだ、本とかTVなんか、みちゃだめよと看護師にいわれたせいもあるけど、たとえ、TVがあったって、僕はスイッチひとつ、リモコンひとつさわれない。本にいたっても、同じことだ。退屈をどうまぎらわしていいか、判らずに僕は病室を何度、ながめまわしたことだろう。することがないうえ、体の自由がきかない。まるで、眠っているのと同じ。これは、大きな夢なのかもしれない。生々しい包帯さえなけりゃ、僕は今を夢だと思えた。「圭一くん。おとうさんだよ」看護師が僕をよんだ。昨日のことがあって、看護師は「僕」をやめるようにつとめたか、とうさんのてまえだけだろうか?とうさんは僕にコンパクトCDプレーヤーをみせた。「退屈だろう?音楽ならかまわないだろう?」コンセントをさがして、つなぎおえる...風薫る丘の麓で・・4

  • 風薫る丘の麓で・・5

    僕が考え付いた事が本当か、どうか、判らない。RH-が血縁者の中にいるということだけが、本当のことで、それが、母さんだとおもいこみたいだけなのかもしれない。事実をしっているのは、父さんだけだ。そして、父さんは、僕が血液型にきがつくことをおおかれ、すくなかれ、覚悟しているんじゃないのだろうか?父さんに聞いたほうが早い。それはわかっていたけど、父さんにきりだしていく大きな理由がつかみとれなかった。尋ねる以上は、本当の答えを聞きたい。本当の答えをひきだせる、僕の理由が「実の母親がいきてるか、どうか?一人ぼっちじゃないのか?」だけでは、薄すぎると想った。もう、此処に本当の生活がある以上、とうさんは、すんだこととして、答えてくれない気がした。看護師のいう事と、同じ。それをしったからとて、変わらない物事を穿り返す必要は...風薫る丘の麓で・・5

  • 風薫る丘の麓で・・6

    僕は自分の将来をまだ決めかねていた。些細な夢はあったけど、その夢をかなえる現実的な一歩をどこにふみだしていいか、まだ、つかめていなかった。だけど、僕の腎臓がひとつ、無くなったと知った時、僕の漠然とした思いが形をととのえだしていた。医者になるのは、僕の頭じゃ無理だ。看護師か救急救命士、そのどっちか。そして、その考えがはっきり決まった時僕は母さんがひとりぼっちなら、一緒にくらせると想った。資格をとって、就職したら、僕はどのみち家をでていく。自立した僕がかあさんと暮らすのは僕の自由だろう。それに、とうさんとかあさんには、弟も妹もいる。母さんがひとりぼっちなら・・。母さんには、だれもいない。この先、としおいても、誰ひとりいない。寂しい母さんなのか、どうか、まだ、わからないことなのに、僕の瞳から、涙がこぼれおちた。...風薫る丘の麓で・・6

  • 風薫る丘の麓で・・7

    「は~~い。お薬。う~~ん。熱もはかってもらっておこうかな」毎度同じ時間に同じ科白。ときおり、非番になるんだろう、違う看護師が顔をだすこともあったけど、僕はこの人が一番気楽だった。「それから~~~駐車場におとうさんの車がとまったよ」僕が父さんと話をしようとしているのをみすかしたかのように、心の準備をしておけと看護師につげられた気がした。看護師が体温計をうけとると、「おし、異常なし」と体温をノートにかきこんでいた。ドアのむこうから、ひたひたとスリッパの音がちかづいてきて、僕は大きく深呼吸した。看護師といれかわり、父さんがはいってきた。父さんは部屋の隅にかたずけられた椅子を引っ張り出して座った。「もうちょっとだな」もう少しで家に帰ってくる。父さんが会社の帰りに、家とは反対方向にすきっぱらをかかえたまま車を走ら...風薫る丘の麓で・・7

  • 風薫る丘の麓で・・8

    「あの・・。なんで、母さんがでていっちゃったの?」父さんは大きく息を吸った。はきだしおえると、おもむろに言葉が続きだした。「いずれ、判ること・・なんだけど、もうすこし、お前が大人になってから、話したかった」それは、話すという意味なんだろうか?話したくないという意味なんだろうか?「でも、おまえが、とっくに知っていたのなら・・・」父さんが迷っていた。「大丈夫だよ。僕は少々のことじゃおどろかない」父さんは、僕の目をじっと見た。「おまえの本当の母さんは、父さんの妹なんだ。シングルマザーってきいたことあるかな?」え?それ、つまり・・・。父さんが本当の父さんじゃないってこと?「しってる・・」やっと、答えた僕を父さんがじっとみてた。「冴子は、道ならぬ恋・・だったんだろうな。どうしても、相手の名前を口に出さなかったんだ。...風薫る丘の麓で・・8

  • 風薫る丘の麓で・・9

    看護師の言葉が頭の中にくっきり、うかびあがってきていた。「知らない方が良いこともある」僕はその言葉にうちのめされるまいと思った。僕は一つの謎をといて、新たな謎をてにいれてしまったわけだ。母さんがでていった理由、それが解明されて、本当の父親がだれであるか、謎になった。それも、解いてはいけない封印がかかっている。僕は父さんが叔父だとしっても不思議とショックはなかった。今の母さんが本当の母親でなくても、やっぱり、僕には母親であるように父さんは父さんだった。それに、もしかしたら、たとえば、全然血のつながりの養子だっったってことだってありえたかもしれないと、考えたら、父さんとは血のつながりがある。母さんが伯母で父さんが父さんだったのが、母さんが母さんで父さんが叔父だっただけで、同じボックスのなかで、位置がいれかわっ...風薫る丘の麓で・・9

  • 風薫る丘の麓で・・終

    私は圭一の申し出をありがたくきいた。冴子に電話をいれ圭一の申し出を告げると、冴子が電話口で絶句していた。「冴子?・・」冴子の声が震えて聞こえた。「話しちゃったの?なにもかも?」「まさか・・」「圭一は冴子のことを覚えてた。冴子と僕が離婚したんだとおもっていたよ」「・・・・・」「だから・・・冴子は妹だって、はっきり伝えた」しばらく、沈黙が続いた。「じゃあ、あの子はあなたがお父さんじゃないって・・」「うん」冴子の声が嗚咽に変わった。「ごめんなさい・・」「大丈夫だよ。今までずっと暮らしてきたんだ。そんなことで、圭一の気持ちはゆらがなかったよ。今まで、お父さんでやってこれたのも、冴子のおかげだよ」「それで・・いいの?」「いずれ、戸籍をみたら判ることだし・・父親の判らない私生児・・この事実のほうがまだうけいれられる」...風薫る丘の麓で・・終

  • お登勢・・・1

    夜中にひいぃと切れ上がった女の声が聞こえた気がしてお芳は布団の上に起き上がった。気のせいだったのだろうか?と、思うより先に二つ向こうのお登勢の部屋あたりの襖がやや、荒げに開け放たれ廊下を忍び走る人の気配を感じた。「え?」お登勢に悪さをしようと、店の誰かが忍び込んだのかもしれない。だが、お登勢は、八つの歳で此処に来たときから「おし」だったのだ。と、なると、お芳がさっき目を覚まされた悲鳴はなんだったのだろう?かすかな、疑問を感じながらとにかく、お登勢の様子をみにいかなければ・・。と、お芳は隣に寝ているはずの亭主の剛三朗をおこそうとした。だが、剛三郎は「寄り合いで遅くなる。お芳は先に寝ていなさい」と、言ったとおり、まだ、帰ってきてはいなかった。羽織を寝巻きの上にかぶると、お芳は手燭に火をつけ、ゆっくりと、お登勢...お登勢・・・1

  • お登勢・・・2

    お登勢を呉服商の木蔦屋につれていったのは、清次郎であるが、故郷の姉川で、戦があったころ、清次郎はみちのくにでむいていた。女衒などいってはみるが、清次郎は下っ端の下っ端もいいところである。一筋になった女衒なら、名代の売れっ子女郎を右から左におきかえるだけで、銭をかせげるのであるが、清次郎はそうもいかない。と、なれば、芽の出そうな女をあちこちにうりにいくことで、名を売ってゆく事しかない。清次郎がみちのくにでむいたのも、女郎屋にたたきうる、女童を物色しにきたのである。ところが、めぼしい顔立ちの女童といきあたらない。しかたがないから、しょばをかえるかとまだ、北にあがろうかという道中であった。似たような男をかぎとるのは、お互いが放つ臭気のせいであるかもしれないが、むこうは、ぎゃくに、南にむかっていた。「血原にいくと...お登勢・・・2

  • お登勢・・・3

    「お前がとこの田んぼは・・」清次郎はここにくるまで、田畑をみつめながら、あゆんできた。どこの田んぼも合戦の跡をとどめていた。「ああ。逃げ惑う武者をおいこんで、たんぼも、むちゃくちゃにされてしもうた」実りは期待できない。そうなると、晋吉の暮らしはこの先どうなるのであろう。土間の向こうに子供が四人。父親の元にやってきた客人をちらちらと盗み見ている。よそ者とおもっているから、いっそうめずらしいのだろうが、晋吉の長男、晋太だけは、清次郎を思い出そうと、じっと、清次郎をみつめていた。「いつのまにやら、四人もこどもができていたんだの」二人目の子供が、誕生をむかえるころに村を出たようなきがする。「いや・・・」晋吉は首をふった。「いや、わしがの子は三人じゃ。ひとりは、あずかっておる子じゃ。おぼえておるか?佐久左衛門がとこ...お登勢・・・3

  • お登勢・・・4

    都に帰った清次郎はすぐに、晋太の奉公先を探した。同じ長屋に染物屋に勤める彦次郎がいた。そのくちききで、晋太は染物屋に丁稚奉公と、とんとんと話が決まった。だが、問題はお登勢である。清次郎の顔が利くところといえば、女郎屋しかない。清次郎がひとこと、声をかければ・・。お登勢は綺麗な顔立ちをしている。口がきけぬことなど、身を売るに、なんのさしさわりもないだろう。だが、そうはいかぬ。晋吉がどんなおもいで、お登勢と晋太を清次郎に託したか。これを考えると、お登勢を岡場所になぞ、うっぱらうわけにはいかない。上にお登勢の口が利けなくなったわけを考えても、そんな、むごいことが出来るはずも無い。「お登勢は眼の前で母親を犯され、そして、殺された」晋吉はそういった。お登勢の父親はきっと、「声をたてるな」そう言ってお登勢を狭い縁の下...お登勢・・・4

  • お登勢・・・5

    そして、朝。清次郎は髭をあたり、こざっぱりした意匠の着物に着替えると、お登勢をつれて、木蔦屋にでむいていった。木蔦屋のお芳というのは、もともとがこの店の跡取り娘で婿をもらって、かれこれ、十四、五年たとう。長屋のおかみがいうように、確かに面倒見がいいのは事実であるが、そこは、商売人である。下手な同情や甘い情けに流されての面倒なぞはみない。それをあかしだてるかのような、お登勢とのやり取りがある。清次郎とお登勢を前にするとお芳はまず、「ああ。お育さんから、きいてるよ」と、清次郎がことわりをのべるのをさえぎった。そして、お登勢の前にしゃがみこむと、お登勢の瞳をじっと、のぞきこんで、「あんた。いくつだい?」と、訊ねたのである。面食らったのは清次郎である。おかみから、話をきいてると、いうのであれば、眼の前のお登勢が口...お登勢・・・5

  • お登勢・・・6

    「まあ、いいよ。もう、ききゃあしないよ。それよりも、ほら、あしたにね・・染物の使いにいってくれないかい?」お芳の言葉にすまなさそうに頭をたれたお登勢の顔がくっと、もちあがってきた。染物屋には、お登勢の同郷の晋太という男がいる。その晋太にお登勢の口がきけるようになったことを、しらせることができるということである。「あ?女将さん?いいんですか?」お芳の目論見を聡く見抜くとお登勢はやはりうれしそうである。「ああ。晋太さんもよろこんでくれるだろうよ」「はい・・」ずいぶん前に知り合いはいないのか?そうたずねたとき、お登勢は「そめもののやのしんたさん」と、ひらがなでかいてみせた。今はもう、漢字で晋太とも、染物屋ともかけるけど、字をおしえたての頃だと思う。「ふ~~ん。おまえの親戚になるのかい?」お芳の問いに「あんちゃん...お登勢・・・6

  • お登勢・・・7

    昨日のことがまだ、癪に障ると朝からぶつぶつ独り言を繰り出しながらお芳がおきてみれば、剛三郎はさっさと、おきぬけ、庭に降り立って鉢植えの手入れをしている。「おまえさんったら、あいかわらずだねえ」剛三郎は四十になったころからだろうか。盆栽なぞという老人めいた手慰みをはじめたのは、夫婦の間に子が無いせいでもあろう。松の鉢植えが一段とおきにいりのようで、案の定、今日も眺めて見すかして見松のご機嫌伺いがおきぬけの仕事なのだ。ともに、庭に降り立って俄植木職人の腕前を見つめていたお芳だったが、ふと・・・。気がついた。「あたしったら、昨日の男が屋敷の中のものだとばかり思い込んでいたけど・・・」ひょっとしたら、屋敷の外から入ってきたのかもしれない。ちょっと、確かめてこようとお芳は裏木戸に足を伸ばした。だが、お芳が思ったこと...お登勢・・・7

  • お登勢・・・8

    頼まれた使いは単に仕上がった染物をとりにいくだけである。今までもなんどか、こんな使いは、したが、今までのお登勢は店先に入り、会釈をして、笑みをうかべることを忘れずに番頭さんから、仕上がったものをうけとる。これだけしか出来なかった。だが、今日からは違う。忙しそうに背を見せて働く染物屋の奉公人の丁稚の後ろを黙って通り過ぎることもない。出掛けにお芳が「晋太さんとはなしができるといいね。番頭にきいてごらんよ」と、いってくれたことさえ、今までと違う。暖簾を潜り抜けたお登勢を見つけると番頭は棚におさめた、頼まれ物に手をのばしかけた。番頭のその手が止まった。暖簾をくぐったお登勢がいま、確かに言葉を発していたと思ったからだ。「おはようございます」聞き違いか、暖簾をくぐったお登勢の後ろに木蔦屋の女将がいるのかもしれない。番...お登勢・・・8

  • お登勢・・・9

    お芳の口がとがるのを横目に見ながら洸浅寺の盆栽市をのぞいてくると、外に出た剛三郎はやはり、洸浅寺を通り過ぎた。染物屋に出向いたお登勢が帰ってくるのをみちぶちでまちうけていても、不自然に見えないように、剛三郎はしきり腕組をして首をひねり、いかにも、考え事があって此処にいるわけがある様子を繕っていた。そうやって、待ってるうちにお登勢が戻ってきて何か、考え込んでる剛三郎をみつける。お登勢がどういうだろう。「だんなさま?こんなところでどうなさりました?」こういうだろう。「いや・・・じつは、お芳が・・な・・」半分も言わないうちにお登勢が身を乗り出してくるに決まっている。「女将さんがどうなさったんですか?」お登勢がたずねてきたら、「実はお登勢のことでもある。きいてみたいことがあるのだが、話がこみいってくるし、通りすが...お登勢・・・9

  • お登勢・・10

    そのお登勢はといえば、番頭に告げた晋太の名前にかえされたとおりを胸にくりかえしていた。「晋太は屋移りで店には昼からくるだろう。この店の裏の橋をわたって、五町もあるけば、甚部衛長屋がある。その右手の三件目だよ」「あんちゃんは?」「ああ。もう二十もすぎるからなあ・・」いつまでも店子として、住まわせておくわけにも行かない。もうひとつはこの店の跡継ぎの徳冶の年齢もある。そろそろ、嫁をもらっても、おかしくない。いや、むしろ、遅いくらいかもしれない。徳冶夫婦の部屋もいるだろう。若い衆を通いにきりかえるだけで、部屋があく。一本になった若い衆から、順に通いにさせて、徳冶の嫁取りにそなえようというところだろう。と、いうことは、徳冶の嫁取りもちかいのかもしれない・・・。だが、これも番頭の推量でしかない。詳しいわけが推量でしか...お登勢・・10

  • お登勢・・50

    しかたがない。徳治は采を摘み酒を飲み終えてしまった。銚子一本が徳治のきめである。おかわりを頼んでお登勢に酒飲みだと思われたくも無いという心根もあったかもしれない。だが、湯飲みに注いで一気に酒をあおったせいで、徳治の徳利には、もう酒が無かった。と、なると、いつまでも大森屋の席に居座っている理由が無くなる。仕方が無い。帰るしかないかと席を立ちかけたとき徳治は待てよと思いなおした。お登勢ちゃんは木蔦屋の女将とどこかで話をする。そうなると・・・。そのどこからか、お登勢ちゃんはひとりで帰ってくるんじゃなかろうな?木蔦屋の女将はちゃんと、お登勢ちゃんを送ってかえってきてくれるんだろうな?『・・・・・』そのどこかのその場所にも寄ろうがお登勢ちゃんの性分だから、独りで帰れますって、断りをいれるんじゃなかろうか?もし・・・...お登勢・・50

  • お登勢・・51

    丁子屋の廊下の奥。座敷机の上に置かれた茶をお登勢に薦めるとお芳は取ってつけた笑顔を崩さぬように気をつけながらお登勢に切り出した。「話ってのはほかでもないんだけどね・・」話しなんて無いのが本当だ。お登勢を座敷に連れ込んだら寸刻後に剛三郎が入ってくる手はずでしかない。お登勢が逃げ出しにくいように奥の席を薦めると後は時間稼ぎでしかない。「その話しをようく、わかって居る人がもう直ぐ此処にくるから・・」お芳の言葉が合図になったか、ふすまが開き座敷に入ってきた男の姿にお登勢が小さく驚きの声を上げるとお登勢は身をちじこませて頭を下げるしかなかった。「旦那様・・お登勢の勝手で店を飛び出し・・」すみませんでした。と、後に続く通り一遍の挨拶が出てこない。『なんで?なんで?女将さんは旦那様を呼びつけなさった?夜這いが旦那様だっ...お登勢・・51

  • お登勢・・52

    「徳治・・さん・・」小さく呟いた声が徳治への惜別になりかわると、お登勢は瞳を閉じた。耳を塞いでお芳は逃げた。逃げる足がもつれ、お芳を呼ぶお登勢の声がお芳をひっつかむ。『堪忍しておくれ・・あたしだって・・どんなに苦しいか・・』立ち止まった足は歩を進めることを許さずお芳はその場にしゃがみこんだ。「おっかさん・・お芳おっかさん・・」お芳を母と呼び、救いを求める声から、せめて、耳を塞がぬことだけがお芳の侘びのつもりなのか、うずくまったお芳は耳を押さえた手を解き、ただただ・・・その場にうずくまり続けた。『お登勢・・あたしは・・間違いなく地獄に落ちるよ。それでも・・・、それでも、剛三郎の生き路に、悔いを残させたくない・・それが為に夜叉にさえなる・・その気持ちを・・・いつか・・』分かってくれ。分かってくれる時がきてほし...お登勢・・52

  • お登勢・・53

    廊下にうずくまる女が木蔦屋の女将だと気がつくとお登勢を剛三郎の供物の如くに差し出した張本人であることにも気がついた晋太はふううと、悲しい瞳をお芳に向けた。女の業も男の業もおそらく、たった一つの願いをかなえておきたい所から始まる。思う人にわずかでも良い思われていたい。うとまれたくない。側にいたい。たった、それだけのため我を忘れる。晋太の奥底がお芳の悲しい気持ちを解する。だけど・・・やっぱり、人の道に外れて相手の思いをつなぎとめたってどうにもならない。そんなことよりも、まことの人の生き様というものがある。それを忘れて身勝手な欲に己をなげうったらあとは・・・溺れ死ぬ・・・。相手の幸せを祈るより先に人としてよりよく生きることを掴もうとしなければ生きているとは言えない。死人のごときお芳を人らしきによみがえらせてやり...お登勢・・53

  • お登勢・・54

    すううと息を吐き整えるとお登勢は剛三郎に話し始めた。「旦那さまは甘えすぎです」お登勢の最初の一言に剛三郎はわずかに首を捻じ曲げた。お登勢が剛三郎をなじりたおすだろうと思っている剛三郎は、やけに落ち着いたお登勢の声が不思議に思えた。傍らの徳治はお登勢の思いを我もしっておこうと、じっとお登勢に耳を澄ましている。「女将さんが愛想尽かしをしないだろうと思い込んで、女将さんの辛抱にあまえていなさる」お登勢の言い分に剛三郎は不安をいだいた自分に気がついていた。「お芳が?まさか、どこかにいっちまうって?」考えられることかもしれない。お登勢が木蔦屋の跡を取る子を生むのなら何もかもを剛三郎を跡を木蔦屋を・・・なにもかもがお登勢にたくされてしまうのだから、お芳は自分の居場所をなくしてしまう。いや・・・、そうでなくても、我が女...お登勢・・54

  • お登勢・・55

    晋太に促されて、お登勢も徳治も丁子屋の座敷からそっとぬけでて、今は夜道をゆっくりと歩き出していた。「つきものが・・おちたってとこだな」晋太は足取りがおぼつかないお登勢を気使い、ゆっくりと歩をすすめていたのだが、晋太の一言はお登勢に一件が無事にいや、無事どころではない円満に解決した事をはっきりと知らせた事になった。何もかもが落着したんだとほっとしたお登勢が自分の感情にゆすぶられ始めていた。「あ・・あんちゃん・・」お登勢の足が止まり、その場所に立ち尽くしてしまった。「あ・・あんちゃん・・動けないよ・・」今頃になって、恐怖がお登勢をがんじがらめにしていた。あっという間に剛三郎につかまれあっという間に助けられ、変転のめまぐるしさで置き去りにされていた恐怖がお登勢に追いついてきていた。「あん・・ちゃん・・」今頃にな...お登勢・・55

  • お登勢・・56

    雨はふった。木蔦屋夫婦の土壌も固まることであろう。なんのきがかりも無くなったお登勢はと、いえば、今日も朝早くから脱兎のごとく家を飛び出し大森屋のてつないにはせ参じている。あいもかわらず、徳治がお登勢を送る毎日がつづいていた。そんな、ある日・・・。徳治がお登勢を誘った。「明日は大川で花火がうちあがるんだ。一緒にみにいかないか?」花火の上がる刻限といえば当然、まだ、大森屋の商売の真っ最中である。徳治の誘いをお登勢の一存では、決めかね、お登勢は考え込んでいた。さして、広くない店であれば、いやがおうでも、徳治の誘いが耳に入ってきた大森屋である。「お登勢ちゃん、いってくりゃいいよ。みんな、花火をみにいって、客なんて、ちらほら、数えるほどしかこないよ」大森屋の主人のあとおしに助けられて徳治のねがいは上手くかなう事にな...お登勢・・56

  • お登勢・・57

    徳治の唐突な申し出を聞いた時大きな花火が徳治の後ろで華開いた。嬉しいとおもう筈の徳治の求婚であるのに、お登勢の目の中には大きな火の華が映り『あんちゃんは・・この花火をひとりでみている。登勢が徳治さんとこに嫁にいってもあんちゃんは・・・きっと、ひとりでずっと、ひとりで花火を見てる・・・』お登勢の胸中に晋太の思いが打ちあがってきていた。お登勢がいなくなっても、晋太はひとりだと、ずううっと独りでいると、お登勢はまちがいなく、そうだと思う。晋太が独りで居続けるという事はとりもなおさず、それは、晋太がお登勢を独りの女性として思っているという事になる。徳治の求婚に頷こうとするお登勢に「あんちゃんを・・独りにしちゃいけない」と、いう思いが湧き上がってきて仕方が無い。晋太の背中が寂しくみえた理由にやっと、お登勢は気がつい...お登勢・・57

  • お登勢・・終

    蚊帳の中にねころんで、晋太は雨戸を開け放った外の花火をみつめていた。今頃・・・お登勢は・・・徳治の申し出に頬を桜色に染め花火が終える頃には、息をはずませ晋太の元にかえってきて・・頬の桜色のわけを晋太に聞かせてくれることだろう。それで・・いい。お登勢が幸せになることが一番いい。ごろりと寝返りをうって、あおむけになると、腕を枕に暗い天井を蚊帳ごしにながめていた。まだ、あがりつづける花火の映えが部屋の中を一瞬あかるくしてゆく。酒の酔いが心地よいまどろみをつれてきて、晋太はわずか、眠った気がする。晋太の眠りを覚ましたのは縁側へりの外からのお登勢の帰還だった。「あっ」影をさす気配に晋太が目を覚ますとそこにお登勢がいた。「ああ・・ねいっちまったんだな」戸口があいてないから、お登勢は裏に回ってきたんだろう。「すまなかっ...お登勢・・終

  • 箱舟 1(№1)

    一見みたそのときは、完璧なヒューマノイドタイプで、私たちはまず、人間のそれも、行き倒れであるとあわてて、救急車を呼び、彼女あるいは、彼を、病院に搬送した。身元を確認できる物はなく、いっさい、彼女(彼)を証明するものがなく、名前すらわからなかった。私たちが身元引受人として、病院での治療費いっさいを支払うとして、病院側では、彼女(彼)の回復を待って、彼女(彼)の個人情報を得るつもりだったらしく、その時点で私たちは病院での手続きを終えラボに帰還した。ラボの中では私たちがしていることといえば、たとえば、「異種生物のDNA段階での交雑により、生物のもつお互いの長所を受け継いだ新種の発生」ようは、混血による品種改良をDNA段階で進める研究をしてみたり、「異なる環境下において、生物の対応力がどのようにDNAを変化させて...箱舟1(№1)

  • 箱舟 2(№2)

    幸い、彼らの案じた「被爆」はいっさいなく、レントゲン室も彼ら5人も、「彼女」にも、いっさいの数値の変動を見せず、自然界における、放射能指数が目の前のデジタル数値に現れているだけだった。こんないきさつで、彼女をラボに移送しおえると、相変わらず、昏睡を続ける彼女に点滴を与え、心電図や脳波測定の処置を行った。心電図は正常な波形を刻み、なんら、一般成人と変わらぬものであったが、脳波は、複雑な紋様を描き続けていた。私は脳のパルスをコンピューターで解析してみたが、なんらかの、「言語」に思える数字変換がいくつも続き、これが、言語にかわるとしても、翻訳の材料がなにひとつ見つからなかった。単純な小動物の脳波をしらべると、欲求部分と思われる波形が生じることがある。食欲、排泄欲と思われる、脳波の波や、物音などへの恐れは心電図で...箱舟2(№2)

  • 箱舟 3(№3)

    二日の間、彼女に何の異変もなかった。だが、三日めの朝、彼女が発光しだした。青白い炎、陽炎が、薄く彼女の体が取り巻いていた。私はまだ、ラボに他の人員が着てない時間の彼女の変化を他の研究員に連絡をいれ、至急、ラボへの帰還を要請し、彼女の監視カメラがきちんと画像をとりこんでいるのを確認すると彼女の部屋に入っていった。こんな時ほど、厳重なロックシステムが面倒になる。認識と照合をくぐりぬけ、彼女の傍らに立ってみたものの、私は、何をなすべきか・・・。なんの材料も与えられていないままの私はただ、彼女の発光をみつめ、その動向を見守るしかなかった。この発光が以前、病院であったように終息していくものだと思いながら私は、彼女の変化を読み取ろうとしていた。さらに彼女の側に近寄り、ベッドの上の彼女を注視していると彼女の唇がかすかに...箱舟3(№3)

  • 箱舟 4(№4)

    それから、3~5分後に彼が現れ、私を揺り動かしていた。と、いうことは、彼女が消滅してから、まだ15分そこそこということになる。「わからないね」彼はモニター画面をもういちど、巻き戻し、閃光する部屋をスロー再生で見つめなおしていた。「どう考える?」私は彼女の消滅を受け入れるしかなかったが、その消滅が、どういうことなのか、考えつけずにいた。「ワープ・・か?それとも、本当に消滅したのか?そういうこと?」彼もまた、彼女の不在を受け止め、不在の理由を考え直している。「ワープなら・・いいんだけど・・。消滅・・だって、そんな気がしてならないの」私観でしかない。「なぜ?」何故消滅だと思うのか?と、私に問い直しながら彼もまた、どこかで、消滅であることを類推していた。「たぶん、あなたもおなじことを考えているとおもうけど・・」ワ...箱舟4(№4)

  • 箱舟 5 (№5)

    私たちの研究自体、人類救済を目的としている。異なる環境、あるいは急激な環境変化に適応出来るために、あらゆる条件に適合できるDNAを急速に成長させる。たとえば、低温。たとえば水中生活。その条件に見合う生物のDNAを人間に移植する。仮に水中生活を余儀なくされたとしたら、たとえば「いもり」など両性類のDNAを移植しそれを急速に成長させる。これで、人間はイモリのように水中でも陸上でも生活できる。こういう風にあらゆる「環境条件」のDNAをそろえ人間への移植と成長促進が確立すれば地球上にどんな環境変化がおきても人類は生き延びることが出来る。この研究を私たちは箱舟計画と名づけていた。だから、彼女の発した「箱舟」は偶然の一致と片付けるに片付けられない「一抹の危惧と無念」を味あわせていた。何故「危惧」と「無念」なのか・・・...箱舟5(№5)

  • 箱舟 6(№6)

    「なにが、わかったの?」私の顔がこわばっていくのが、自分でもわかる。私の表情が固まっていくのを覗き込んで、スタッフはおそろおそる、不安気にたずねた。「どうしたの?なにか、恐ろしいことがわかったってこと?だったら、なおさら、解説してくれなきゃ私にはわからないわ。ただの数字の羅列にしかみえないのよ。あなたが解読できるようになった「鍵」をおしえてくれなきゃ・・・」私の喉がこくりと生唾を飲み込んで、恐ろしい事実を伝えまいとする。スタッフには判ろう筈もないことだけど、「数字の羅列」にしか見えないものを、私は間違いなく言語として読んでいてそれは、つまり、その書かれていたことそのままの状況を呈しているだけに過ぎなくて私は自分が言語として直によめるという事実を説明する、その裏にある真実を自分でも認めることができなかった。...箱舟6(№6)

  • 箱舟 7(№7)

    『私たちは、私たちの星の消滅を察知して、あらたな、居住場所をさがしはじめたのです。いくつかの候補地があったのですが、やはり、元々の星の住民と同じヒューマノイドタイプの地球人が最有力候補にあがり、まず、私が実験をかねてやってきました。私たちが移住しようとしている場所は地球ということになるのですが、私たちは、寄生型生命体なので、移住といっても、地球の人口が増えたり、私たちの一族が地球人と衝突するということはいっさいありません。地球にやってきた私が最初に見かけた地球人に寄生し、貴方たちの推測どおり、私は自然放射能をエネルギーとして捕食していたのですが、宿主が突然の心臓発作で死亡してしまったのです。あらたな宿主を見つけ、寄生しなおすために大きなエネルギーが必要だったのですが、宿主の体を生きている状態に保つだけが精...箱舟7(№7)

  • 箱舟 終 (№8)

    「ごめんなさい。徹夜続きで、まいってしまってるんだと思うの。そして、彼女の脳波解析を照合した結果彼女の「箱舟」は一種、テレポートだと思うの。丁度、彼女が消えるまえに発した「箱舟」は彼女の母船とのコンタクトをとる呼びかけじゃないかと・・・」とってつけた説明をしゃべりだす私をスタッフは怪訝な顔でみつめていた。「それが、どこで、照合できたというんだ?」つじつまの合わない説明は彼女の仕業でしかない。私は寄生の事実を認識するとともに、どうすれば、彼女が寄生型生命体であることを伝えられるかそれを考えていた。私の中にまるで、サトリの化け物がいる。私の意思をよみとって、寄生の事実にふれようとするとサトリの化け物は私を支配しだす。「ですから、この部分・・・」私は脳波の数字羅列をポイントする。「この部分が「箱舟」の文字を発声...箱舟終(№8)

  • 箱舟 ☆1(№9)

    (箱舟(第1部)を書き終えた私だったが、物語の終わらせ方がしっくりこなかった。だいいち、-私ーはこの先どうなってしまうんだろう?彼女と共存するにしたって、どういう風に共存していくんだろう?寄生植物を考えたって、寄生側が宿主を殺してしまうようなことをしないのとおなじように、彼女が宿主に必要以上のコンタクトをとらないのはわかるけど、どうなるんだろう?もうひとつの案でもう一度かきなおそうか?そうおもいながら私はカレンダーをちらりとみた。某出版社、編集長からのじきじきのお声がかりで、私は箱舟を書き始めた。猶予は1週間。短編でよい。新進作家の登竜門でもある機関紙に載せてもらえれば私は作家になれる。だけど・・・・。こんなもんじゃだめだとおもう。おもいながら、この箱舟に妙な愛着がわいていた。そうだ・・・。編集長に一度よ...箱舟☆1(№9)

  • 箱舟 ☆2 (№10)

    「これ・・?あなたが・・自分でかんがえて、かいたんだよね?」あたりまえじゃないですか。そう、いいかえすこともできたけど、あまりにも、ぱくりっぽい?あるいは、ベタ物設定・・・。オリジナリティに欠ける。そんなものしか、かけないってことは、作家になるのは無理だね。編集長の言葉のニュアンスがよみとれて、私は「はい」それだけしか答えられなかった。「そうだよね。そうだよね」同じ言葉で、編集長は自分の中の煩悶をねじふせてる。もしも、いえ、知人の案を・・と、嘘をいったら、どうなっていたのだろうか?たいして、結果はかわらないだろう。この編集長ともう、会うこともなくなる。出版社にくることもない。物にもならない状態は子供のままごと遊び。私は・・もう、書くこともなくなるんだろう。そんな決心を自分にいいきかせなから、編集長の判決を...箱舟☆2(№10)

  • 白砂に落つ・・・1

    「とっつあん・・・」張り付け台に掲げられた佐吉の目に竹縄の向こうの義父の定次郎がみえた。女房殺し、が、佐吉なら大事な娘を殺された父親が定次郎だろう。娘が犯した不義をおもわば、佐吉の罪がかなしすぎる。「おまえが、わるいんじゃねえ」定次郎の横で泣き崩れる弥彦にかける声がなんまいだぶと、かわり手があわせられてゆく。佐吉は女房殺しの罪で獄門張り付けになる。お千香が、実の亭主に殺される訳がわからない。その訳を呵責に耐えかねた弥彦にさっききかされるまで、佐吉は、処刑の場所に行く事なぞ、考えもしなかった。八っつの年から定次郎の所に預けられた弥彦の指物師としての、腕はいま、見事に開花している。定次郎の仕事場から、離れ今は一本立ちになった弥彦であるがお千香が佐吉と一緒になるといいださなければ、定次郎の跡目をついでもらいたい...白砂に落つ・・・1

  • 白砂に落つ・・・2

    佐吉の処刑は正午である。お天燈様が真上から見下ろす白日に其の罪を清算しようというのであろう。お千香と佐吉は仲の良い夫婦だった。なぜ、お千香が佐吉に殺されなければ成らなかったのか。佐吉がなぜ、お千香を殺されなければならなっかたのか。佐吉はどんなに仕置きをされようとも、そのわけをかたろうとしなかったという。其の理由がわからないまま、定次郎はお千香の残した二人の子供を引き取った。どんなわけがあるにせよ、二人の子供にとって、父親が母親を殺してしまった事実は変わらない。定次郎にとってもそれは同じでどんなわけがあったとて、娘を殺された事実は変わらないのである。それでも、なんで好いた亭主にころされねばならない。訳を知りたいという思いがもたげてくるのを、定次郎はかむりをふって、払いのけた。訳を知ったとて、お千香がかえって...白砂に落つ・・・2

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