接触する部分が固くてごつごつしていることを意味します。類語に「こはごはし(強強し)」がありまして、ほぼ同じ意味で用いられます。
「あま」は「余る(あまる)」の「あま」と同じで、「たくさんある」ということを示します。いずれにしても、現代語でも「数多」と書いて「あまた」と読みますので、漢字さえ覚えておけば訳はしやすいと思います。
『堤中納言物語』より「虫愛づる姫君」の現代語訳(4)です。
さうぞく【装束】 名詞 / さうぞくす【装束す】 動詞(サ行変格活用) /さうぞく【装束く】 動詞(カ行四段活用)
漢語「装束(サウゾク・シャウゾク)」です。貴族の服装は中国にならったものでして、その「人前に出るきちんとした服装」のことを「装束」といいました。
『大鏡』より「花山院の出家」の現代語訳です。
犬を流させたまひけるが、帰り参りたるとて調じたまふ。(枕草子)
『枕草子』の一節です。ポイントは、動詞「流す」、助動詞「す」、敬語動詞「たまふ」、助動詞「けり」、動詞「参る」、助動詞「たり」、動詞「調ず」、敬語動詞「たまふ」です。
「付く」に、接頭語「うち」がついたものです。接頭語「うち」は、「パッと」「サッと」「ちょっと」「バシッと」といったように、「瞬間的」「軽妙」「軽快」「明瞭」などの意味合いを内包しています。そのことから「うちつく」は、「パッとつける」「サッとつける」というニュアンスで、まずは(1)のように「突然だ」「急だ」という意味で用います。
現代語とほぼ同じ意味ですので、漢字で書かれていれば読解に支障はありません。ヤ行上二段活用の動詞は「老ゆ(おゆ)」「悔ゆ(くゆ)」「報ゆ(むくゆ)」の三語ですので、覚えてしまいましょう。「老ゆ」の類義語として「年をとる」と訳す語に「ねぶ」がありますが、「ねぶ」のほうは「少年が青年になる」という文脈でも用いますし、「実際の年齢よりも大人びる・ませる」という意味でも用います。つまり、「ねぶ」はシンプルに「年を重ねる」ということです。その一方、「老ゆ」は、根本的に「ある程度の年齢を過ぎること」を意味します。
「老ゆ」とほぼ同じ意味ですが、「おゆ」のほうが、「高年齢」を指すことが多いです。一方、「ねぶ」は、子どもから青年になるくらいでも使用します。また、実際の年齢よりも「大人びる」という意味で使うことも多いです。つまり、「老ゆ」が「衰える」という意味を含みやすいことに対して、「ねぶ」は、シンプルに「年を重ねる」という意味で用いられています。
形容動詞「異なり(けなり)」の連用形「異に(けに)」が副詞化したものです。副詞として用いる場合はほとんど(2)の使い方なので、「~よりけに」という言い回しを覚えておくといいです。(1)の意味は、形容動詞「けなり」の意味がそのまま残っていますし、補助動詞を伴うと「けに」の意味が述語の中心になりますので、「副詞」というよりは「形容動詞の連用形」と考えるほうがいいかもしれません。
「術(すべ)」は「すべ」は「す(何かをする)」+「へ(方向を示す)」がもととなった語と言われていまして、「手段・方法・手だて」などを示します。それが「無し」なので、「手段がない・方法がない」ということになり、訳語としては「どうしようもない」とすることが多いですね。その「どうしようもない状況」に接した際の「人のふるまいや心情」を示す場合、「途方に暮れる」「困る」「つらい」「苦しい」などと訳すこともあります。
『枕草子』より「上にさぶらふ御猫は」の現代語訳です。
ピリッと塩辛い、身体に刺激を与えるものを「からし」と言います。現代語ではほとんど「食べ物」についてしか用いませんが、古語では「痛みを伴う刺激」に広く用いまして、多くは(2)か(3)の意味になります。
下二段動詞「立つ」+謙譲語「まつる(奉る)」が一語化したものです。もともと上代では「まつる」が「差し上げる・献上する」という意味で用いられていました。そこに「たて」がついたわけですが、ここでの「たて」は、もともと下二段の「立つ」なので、「目立たせる・はっきりさせる・くっきりさせる」というニュアンスがあります。そういう点では「たて」は強調のための接頭語みたいなものですね。なお、「まつる」のほうは、中古になると単独ではあまり用いられず、「たてまつる」「つかへまつる」というように、複合語での使い方が主流になります。
大殿籠りたる所ひきつくろひなどして、入れ奉らむとて、 (大鏡)
『大鏡』の一節です。ポイントは、動詞「大殿籠る」、助動詞「たり」、動詞「ひきつくろふ」、敬語動詞「奉る」、助動詞「む」です。
動詞「つくる」に、反復・継続を意味する接尾語「ふ」がついた「つくらふ」が、やがて「つくろふ」となりました。すでに生成されているものに再び手を加えるということであり、状況的には「(悪いところを)直す・修理する」「(雑なところを)きちんとする・整える」という意味で使われやすいです。
『大鏡』より「最後の除目(さいごのぢもく)」の現代語訳です。「兼通と兼家の不和(かねみちとかねいえのふわ)」という表題の教材もあります。 藤原兼通・兼家の兄弟は永らく不仲でしたが、兼通が関白になると、兼家の昇進をストップしたり、兼家の次女の
「痴(をこ)」+「に」+「あり」であり、「ばか・だ」と考えておけばOKです。類義語に形容詞「をこがまし」があります。
名詞「痴(をこ)」+接尾語「がまし」です。「をこ」は「愚か・ばか」ということであり、「がまし」は「~らしい」「~ようだ」「~にみえる」ということなので、端的に言えば「ばからしい」「愚かにみえる」という意味になります。
「根もころ」が音変化した語で、「ねむごろ」とも言います。「根」と「根」がコロコロからまりあっている様子が、「心を込めていること」とか「一生懸命なこと」を連想させたのだと思われます。
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
恋しい人に逢い、ともに夜を過ごすという名を背負っているのであれば、その逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、人に知られないであなたを連れてくる方法がほしいものだ。
名詞「所」と、ア行下二段動詞「得」の複合語です。ア行で活用する動詞は非常に少ないので、文法問題でも問われやすい語です。「得(う)」「心得(こころう)」「所得(ところう)」を覚えておきましょう。
名詞「心」と、ア行下二段動詞「得」の複合語です。ア行で活用する動詞はほとんどありませんので、文法問題でも問われやすい動詞です。「心」は現代語の「心」と基本的には同じ意味ですが、古語の場合「精神活動の中心・本質」という意味合いが強く、「ある行動の中心的ポイント」や「ある概念の要点」なども「心」と言います。
このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに (菅家)
この度の旅は、(あわただしくて)幣ぬさを用意することもできない【捧げることもできない】。(その代わりに)手向山の紅葉の錦を(捧げるので)、神の思うままに(お受け取りください)。
動詞「おどろく」と同根の語です。「おどろ」はもともと擬音語で、雷の音を示していたようですね。
月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど (大江千里)
月を見ると、さまざまに際限なく、もの悲しく感じられるなあ。私一人だけの秋ではないのだけれど。
『古今和歌集』「仮名序」より「六歌仙」の現代語訳です。
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ (文屋康秀)
吹くとすぐ、秋の草木がしおれるので、なるほどそれで山風を「嵐」と言うのであろう。
「心」に、下二段動詞「延ふ(はふ)」の連用形がついて名詞化したものです。「心」が「伸び広がって外側に出てきている」ということなので、要は「外からみてわかるほどの性質・気質」という意味合いになります。シンプルに訳すなら「気立て」がいいですね。それが「ある対象」に向かっている場合は、「気配り・心遣い・意向」などと訳せばOKです。
「据」という漢字がイメージできれば理解しやすいです。現代語の「据える」とほぼ同じ意味だと考えて大丈夫だからです。どちらかというと「活用の種類」や「活用形」といった「文法問題」で出題されやすいですね。
今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな (素性法師)
今すぐ来ようと、(あなたが)言ったばかりに、陰暦九月の夜長を待つうちに、有明の月が出てきてしまったよ。【有明の月が出るのを待ってしまったよ】
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ (元良親王)
(二人の仲が知られてしまい)悩み苦しんでしまったので、今となっては(何があっても)もう同じことだ。難波にある澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても【わが身が果てても】逢おうと思う。
動詞「はかる」に接頭語の「た」がついたものです。「はか(果)」は、「見当・目安・進み具合」などを示す語で、「はかる」となると、「見積もる・見計らう・測定する・予測する・企てる・考える」など、広い意味で用いられます。「たばかる」は、「た」によって「はかる」の意味が強まっているものと考えればいいので、根本的な意味は「はかる」と変わりません。
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや (伊勢)
難波潟の芦の、短い節と節の間のように短い時間も、(私とあなたが)逢わないでこの世を過ごしてしまえと、あなたは言うのだろうか。
もとは「ああ……」という「言葉にならないため息のようなもの」であり、感動詞で用いる場合、そのまま「ああ」と訳せばOKです。名詞で用いられている場合には、「ああ……としか言えない感情」を意味していますので、「名称」として名づけるのは難しいのですが、「しみじみとした趣き・情け」としておけば大丈夫です。記述の場合は「しみじみとした」という表現を入れておいたほうがいいのですが、選択肢問題の場合は、シンプルに「情趣」「人情」「感慨」など、コンパクトな熟語で済ませてしまっていることも多いです。
古代に「参」という語があり、それが「貴い領域(神聖な領域)」にかかわることを示しました。上一段動詞であったと考えられており、そうであれば連用形は「まゐ」になります。「まゐ入る」なら「貴い領域に入る」ということであり、「まゐ出づ」なら「貴い領域に出現する」ということになります。前者は「まゐる(参る)」で、後者は「まうづ(詣づ)」です。したがって、本動詞の意味はほとんど同じになります。
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接触する部分が固くてごつごつしていることを意味します。類語に「こはごはし(強強し)」がありまして、ほぼ同じ意味で用いられます。
「知る」「記す・徴す」と同根のことばです。一説には「白」とも関係するといわれます。何らかのかたちで明白に認識できること(もの)を示す語であり、根本的には「徴候」「兆し」といった意味になります。
姉妹サイト「減点されない論理国語」を作ってみたので、余裕のある時に更新していきます。 「減点されない古文」がおろそかにならないように気をつけます!
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「知る」「しるす」などと同根の語とされます。一説には、「白」「白し」とも関係があるとされます。何かの兆候がはっきりとあらわれて、しっかりと認識できるようなようすを形容するのに用いられました。
「いぶ」ということばに「はれない(はっきりしない)」という意味合いがありまして、「いぶし」は、それを「気がかり」に思う心情面のことばとして使用されます。「気がかり」であるがゆえに、その内容を確認したい心情として「見たい・聞きたい・知りたい」などと訳すこともあります。また、「疑い」の気持ちが強ければ「不審だ」などと訳します。
「いぶ」ということばに「はっきりしない(はれない)」という意味合いがありまして、「いぶせし」は、その「内にこもった鬱屈した状態」を表します。その点で(1)の意味が本義です。(2)(3)の意味は中世くらいから出てきます。
シンプルに「道が平らだ」ということなのですが、「心」が「平ら」であることや、「凸凹のトラブルがない」ことを意味するようになりました。用例としては(3)の「無事だ・平穏だ」という意味で用いることが多いです。
「こち」は「骨」であり、「ゴツゴツしているさま」「四角四面なさま」「洗練されていないさま」を表します。それに形容詞を成立させる接尾語「なし」がついて「こちなし」となりました。「骨っぽい!」ということであり、「洗練されて角がとれたようす」とは逆のイメージです。そのため、「無作法」「無風流」などと訳します。
「長(をさ)」を重ねたことばです。「をさ」は、年齢や能力が長じていることを示しますので、どちらかというと(2)の「しっかりしている」「きちんとしている」という意味のほうが原義に近いです。たとえば、「幼し(をさなし)」という語は、この「長(をさ)」が「無し」であることを示すことから、「年少だ・幼稚だ」という意味になります。ただ、実際の用例としては、下に打消表現を伴い、(1)のように「めったに(~ない)・ほとんど(~ない)・なかなか(~ない)」という意味で用いることがほとんどです。
「目」+「安し(易し)」で一語化した形容詞です。「見た目が穏やかである」ということから「感じがよい」と訳すことが多いです。記述問題なら「見た目が」をつけておいたほうが無難ですが、内からにじみ出る感じのよさを表すこともあり、選択肢問題ではシンプルに「感じがよい」と訳していることもあります。また、「すんなり見ることができる(見るのに抵抗がない)」というニュアンスで「見苦しくない」と訳すこともあります。
『今鏡』より、「用光と白波」の現代語訳です。
上一段動詞「見る」に、上代の助動詞「ゆ」がついて一語化しました。「ゆ」はもともと接尾語で、「見ゆ」などのように動詞の活用語尾に使用されることで助動詞化していったという説もあります。「ゆ」は主に「自発」の意味を持つため、「見ゆ」は「自然と目に入る」ということを意味します。また、「受身」のニュアンスで「見られる」、「可能」のニュアンスで「見ることができる」などと訳すこともあります。
わが命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえているならば、堪え忍ぶ心が弱まると困るから。
心ならずもこのはかない現世に生きながらえるならば、恋しく思い出されるにちがいない、そんな夜更けの月だなあ。
(あなたが来ないとわかっていれば)ためらわずに寝てしまっただろうに。(あなたを待っているうちに)夜が更けて、とうとう西にかたむくまでの月を見たことだよ。
もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし 和歌 (百人一首66) もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊 『金葉和歌集』 歌意 私がおまえをしみじみいとしいと思うように、おまえ
つつみ隠していたけれど、顔色や表情に出てしまっていたのだなあ、私の恋は。恋のもの思いをいているのかと、人が尋ねるくらいまで。
こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか 和歌 (百人一首41) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見 『拾遺和歌集』 歌意 恋をしているという私のうわさは早くも立ってしま
『沙石集』より、「歌ゆゑに命を失ふ事」の現代語訳です。
「名詞」の説明です。
「ナ行変格活用」の説明です。
「カ行変格活用」の説明です。
意味① 整える・こしらえる・作る② 調達する③ 調理する④ 調伏ちょうぶくする・こらしめるポイント「調」+「す」の複合語です。「周」という字は、もともと「稲を植えめぐらせた田」の形象で、あまねく行き届いているさまを意味しています。「用意周到
「サ行変格活用」の説明です。
『宇治拾遺物語』の一節です。ポイントは、形容動詞「おほらかなり」、動詞「す」、敬語動詞「たぶ」です。
動詞「給ふ(たまふ)」が、「たうぶ」「たんぶ」を経て、「たぶ」と変化した語といわれます。逆に「たぶ」から「たまふ」ができたという説もあります。そのため、訳としては「たまふ」と同じと考えて大丈夫です。「たまふ」よりは、ややくだけた表現とされ、会話で用いられることが多いです。
『枕草子』の一節です。ポイントは、感動詞「いで」、感動詞「あな」、形容詞「心憂し」です。
『枕草子』の一節です。ポイントは、接頭語「うち」、助動詞「す」、敬語動詞「たまふ」です。
『枕草子』の一節です。ポイントは、動詞「おぼめく」、動詞「ゆかしがる」、敬語動詞「申す」、敬語動詞「給ふ」です。
接頭語「うち」は、動詞「打つ」から来ていると言われます。もとは、「さっと勢いよく打つ動作」を示しているのですね。実際に何かを打っているのであれば、動詞「打つ」+別の動詞という複合語になりますが、実際に打っているのでない場合、「うつ」は接頭語です。接頭語として他の動詞につくと、副詞的に様々な訳になります。ただし、単に語調を整えるだけの使い方もあるので、訳出しないことも多いです。
『宇治拾遺物語』の一節です。ポイントは、副詞「まして」、「並列的な修飾」についてです。
動詞「好く」の連用形「すき」を重ねて形容詞になったものです。「好く」は、基本的には「男性が女性に関心を寄せること」に多く用いられましたが、「趣味や風流の世界」に一途であることも示しました。
『枕草子』の一節です。ポイントは、形容詞「すきずきし」、係助詞「かは」です。
『宇治拾遺物語』の一節です。ポイントは、形容詞「頼もし」、形容詞「くちをし」です。
動詞「頼む」が形容詞化したものです。「たのむ」のほうを先に見てもらえるとうれしいです。
「頼む」は、「手(た)」+「祈む(のむ)」であり、もともとは「手を合わせ、頭を下げて祈る」ことを意味したようです。「祈む(のむ)」は上代のことばで、『万葉集』では「懇願する・祈願する」の意味で用いられています。
「下二段活用」の説明です。
「上一段活用」の説明です。
「下一段活用」の説明です。