もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし 和歌 (百人一首66) もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊 『金葉和歌集』 歌意 私がおまえをしみじみいとしいと思うように、おまえ
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし (前大僧正行尊)
もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし 和歌 (百人一首66) もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊 『金葉和歌集』 歌意 私がおまえをしみじみいとしいと思うように、おまえ
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで (平兼盛)
つつみ隠していたけれど、顔色や表情に出てしまっていたのだなあ、私の恋は。恋のもの思いをいているのかと、人が尋ねるくらいまで。
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (壬生忠見)
こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか 和歌 (百人一首41) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見 『拾遺和歌集』 歌意 恋をしているという私のうわさは早くも立ってしま
『沙石集』より、「歌ゆゑに命を失ふ事」の現代語訳です。
『平家物語』より、「忠度の都落ち(ただのりのみやこおち)」の現代語訳です。
「こそあらめ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の未然形+助動詞「む」の已然形です。「こそあれ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の已然形です。どちらも、多くは「逆接構文」をつくるので、基本的には「~けれど」という逆接のかたちで訳しましょう。
『平家物語』より、「能登殿の最期」です。
「おきつ」の「おき」は、「置く」と同根と言われています。「これからしようとすることを心の中に置く」というイメージであり、実際、「おもひおきつ」「おぼしおきつ」のかたちで使われることが多いです。
『大鏡』より、「行成の器量」「行成とこま」の現代語訳です。 「行成」は「藤原行成」のことです。能書家の達人として、小野道風・藤原佐理・藤原行成を「三蹟(三跡)」といいます。 空海・嵯峨天皇・橘逸勢の「三筆」っていうのも日本史で出てきたね。
漢語「労」を重ねて形容詞化したことばだと言われています。「労」は「年功・熟練」などを意味し、多くの経験を積んだがゆえの「物慣れた巧みさ」を示しています。そういった「熟達性」は、周囲からすると気品があって美しく見えますので、「上品だ」という意味でも用います。なお、「老老じ」を語源とする説もあります。あるいは、「リョウリョウジ」と記す写本もあることから、「良良じ」を語源とする説もあります。
動詞「侮る(あなづる)」が形容詞化したものです。「あなづる」の「軽蔑する・見下げる」という意味がそのまま生きているのが(1)の意味です。「軽く扱ってよい」ということは、「敬意を持たなくてよい」ということなので、やがて「遠慮しなくてよい」「気を遣わなくてよい」という意味でも使われるようになりました。それが(2)の意味です。
「しる(知る・領る)」に、尊敬の「す」がついた「しらす」という語がありましたが、さらに「召す」が付くことによって、非常に高い敬意を示す語として用いられました。もとは「しらしめす」ですが、中古以降は「しろしめす」と言いました。もともと「しる」には、主に「知る/(領地などを)治める」という意味がありますので、その尊敬語として考えておけばOKです。
「たぎたぎし」という語から転じた語という説があり、その場合「怠」は中世以降の当て字といわれます。「たぎたぎし」の「たぎ」は、岩肌を屈折しながら落ちる「滝」と同根で、「道のりが屈折している」「道がデコボコである」「足がぎくしゃくする」といった意味になります。「デコボコ道」を進んでいくことが面倒で困ることであるように、(1)「不都合だ」という意味で使用されます。そういった「平らかに物事が進行しない」状況に対して非難めいた気持ちを込めて用いる場合には(2)「もってのほかだ・とんでもない」と訳します。その説とは別に、漢語「怠」を重ねて成立したという考え方もあります。
『栄花物語』より、「今さらのご対面」の現代語訳です。
つげる! 意味 (1)言う・告げる・宣言する ポイント 主に上代につかわれたことばでです。「言う」と訳して問題ありませんが、「普通のことば」ではなく、「神聖なものにかかわる呪力をもった発語」に用いられました。もともとは神が大切なことばを表明
『栄花物語』より、「世の響き」の現代語訳です。
『大鏡』より、「宣耀殿の女御(せんようでんのにょうご)」の現代語訳です。
「聞こす」に「召す」がついて一語化しました。主に天皇などの最高ランクの人の行為に用いるので、「最高敬語」だと言えます。文法的に考えれば「聞こす」は「聞く」+尊敬の「す」であり、「お聞きになる」という意味になります。それを「召す」によって一段階高めているのが「聞こし召す」だと言えます。ただ、「聞こす」は主に「おっしゃる」の意味で用いられていたことから、「これは『聞く』+使役の『す』であり、『聞かせる』という行為を指していた」とする説もあります。「相手に対して発言する」ということですね。「召す」は「お呼びになる」ということですから、「聞こし・召す」は、「聞かせる行為を・お受け入れになる」という構造だと言うこともできます。
聞く+す 意味 (1)おっしゃる *「言ふ」の尊敬語 (2)お聞きになる *「聞く」の尊敬語 ポイント 動詞「聞く」に「尊敬」の助動詞「す」がついた「聞かす」が「聞こす」に転じたものだと言われます。あるいは、動詞「聞く」に「使役」の助動詞「
『宇治拾遺物語』より、「袴垂、保昌にあふこと」の現代語訳です。
ご覧いただきありがとうございます。おかげさまで「重要単語」が300語になりました。 がんばってきたかいがあったね。 2025年の3月までに600語を目指したいと思います。 どの記事がみなさまの参考になっているのか集計したいので、「いいねボタ
動詞「出づ(いづ)」の上代での命令形「いで」が、やがて感動詞になったものです。「出なさい」という具体的な意味を持っているわけではなく、「行動しなよ」という感じの「うながし」に使用します。自分自身の行動をうながす場合にも使います。
「手(た)」「伸し(のし)」で「たのし」という説があります。手を伸ばして舞い踊るほど、なんだか満ち足りている様子ということですね。
副詞「な」は、終助詞「そ」と呼応することで、「軽い禁止」の意味になります。命令的なニュアンスではなく、「やわらかいお願い」としての禁止です。
指示語「然」+動詞「あり」+打消の助動詞「ず」の連体形が一体化しているのが「然らぬ(さらぬ」です。「指示しているもの以外」ということから、「そのほかの」「それとは別の」といった訳をします。「然」というのが、「語るに値する何か」を漠然と指示していることもあり、その場合の「さらぬ」は、「それほどでもない」「たいしたこともない」などと訳します。
古文の世界には、善悪の基準として、「よし>よろし>わろし>あし」という4つの段階がありました。最もよいのが「よし」で、最も悪いのが「あし」です。そのため、「あし」と評されているものがあったら、それは「きわめて悪い」ものであると判断しましょう。
古文の世界には、善悪の基準として、「よし>よろし>わろし>あし」という4つの段階がありました。最もよいのが「よし」で、最も悪いのが「あし」です。そのため、「あし」と評されているものがあったら、それは「きわめて悪い」ものであると判断しましょう。
「よし」が「第一級」のほめことばであるのに対して、「よろし」は「まあまあの水準には達している」という程度のほめことばです。大学の評定でいえば、「よし」が「優」で、「よろし」は「可」という感じです。
『建礼門院右京大夫集』より、「なべて世のはかなきことを」の現代語訳です。
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 (権中納言定頼)
明け方のしだいに明るくなってくるころ、宇治川にかかる霧が、とぎれとぎれになってくる。(それに伴い)あちこちに現れてくる、川瀬に仕掛けられた網代木だ。
代名詞「いつ」に、強調の副助詞「し」と、係助詞「か」がついた連語です。そのため、もともとは(1)のように「いつ~だろうか」という疑問文として使用されます。副詞というよりは、連語としての用い方ですね。そのことばを、「『いったいいつ』って思うほどだ」という意味で使用していくうちに、(2)(3)(4)の用法が出てきました。
ぞっとするような感覚をもたらす状況を意味します。「酢」の「気」が「濃」ということから、「すけこし」⇒「すごし」となったという説がありまして、その説にしたがえば、刺激の強いものにふれて「なんだこりゃ!?」という感じでゾワッとするようなイメージです。
動詞「構ふ(かまふ)」の連用形に「て」がついて一語化したものです。「かまふ」が、「準備する・計画する」ということであるため、「かまへて」は「しっかり準備したうえで」ということになります。副詞としての「かまへて」は、物理的・具体的な準備というよりは「心構え」のことであり、「しっかりした心構えをもって○○をする」という意味合いになります。意志や命令では、「前段階からバッチリ気合いれてやろう/やれよ」という意味合いで用いているケースが多く、その際は「バッチリ気合」のところに意味の中心がありますので、「必ず・何とかして」などと訳すことになります。
「なにといふ」が圧縮されて「なにてふ」→「なんでふ」と言うようになりました。「なでふ」と書きますが、「ん」表記が登場してからは「なんでふ」とも書きます。もともとの「何といふ」という表現をおさえておけば、「なにという」「どういう」という訳し方に結び付くと思います。
「さへ」は、動詞「添ふ」の連用形「そへ」が音変化したものと見られています。「添」が示すとおり、根本的な意味は【添加】なので、まずは「(そのうえ)~までも」と訳してみるのがよいです。
忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな (儀同三司母)
忘れまいという(あなたの)言葉が、遠い将来までは(そのとおりになるか)難しいので、(その言葉のあった)今日を最後とする(私の)命であってほしいものだ。
「いさよふ」の「いさ」は、抵抗・否定を示す感動詞「いさ」や、「いさかひ」の「いさ」などと同根です。何らかの外部要因を素直には受け入れられないことを示します。「よふ」は、「ただよふ」「さまよふ」などの「よふ」と同根で、ゆらゆらと動揺することを示します。合わせると、心理的抵抗感があって前進するのをためらうことや、自然的物理的要因からなかなか進まないことを意味します。
「いさ」は、「いさかひ」の「いさ」と同根であり、相手の発言に対してやや抵抗するような、「わからない」「すんなりは同意しない」「そうではない」といった意志を示すときのことばです。「いさ知らず」というように、「知らず」を伴う表現も多く、その場合は「知らず」を修飾することになるため、「副詞」に分類されます。「不知」という漢字を「イサ」と読んでいる例もありまして、「わからない」という意味がそもそも内包されているようなことばだと言えます。
もが もがも もがな がな 意味 (1)~があったらなあ・~があればいいなあ ポイント 上代では「もが」という終助詞が同じ意味を持っており、多くは終助詞の「も」がついた「もがも」というかたちで用いられました。この終助詞の「も」は、中古になる
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな (和泉式部)
わたしは(この世から)いなくなるだろう。現世の外への【あの世への】思い出に(するために)、せめてもう一度、あなたにお会いしたいなあ。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 (小式部内侍)
大江山に行く【大江山を越えて行く】、生野の道が遠いので、天の橋立を踏んだこともない。母からの手紙もまだ見ていない。
『十訓抄』より、「大江山」の現代語訳です。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ (大納言公任)
滝の音は、途絶えてもう長い年月が経ってしまったが、その名声は世間に流れて、今なお評判になっていることだなあ。
塩対応がうらめしい 意味 (1)薄情だ・冷淡だ・つれない (2)たえがたい・苦痛だ・うらめしい ポイント 「辛し(からし)」という語がありますが、「つらし」にも「辛」の漢字をあてます。意味も近いものになります。「塩をなめたときのような刺激」
他動詞「ふたぐ」の自動詞形が「ふたがる」です。「ふた」は「蓋」のことであり、まさに「蓋がしまっている」ことを示します。やがて、「た」が「さ」になり、「ふさがる」となっていきました。「消つ」が「消す」になっていったことと同種のパターンです。
『大鏡』より、「道長と伊周」の現代語訳です。
『蜻蛉日記』より、「鷹を放つ/鷹」の現代語訳です。
なげきつつひとり寝る夜/うつろひたる菊 『蜻蛉日記』 現代語訳
『蜻蛉日記』より、「なげきつつひとつ寝る夜/うつろひたる菊」の現代語訳です。
『枕草子』より、「殿などのおはしまさで後」の現代語訳です。
「クス」は「薬(くすり)」と同根のことばで、「神秘的で霊妙なようす」をあらわします。「神」の字を「くすし」と訓じている例もあります。形容詞としては上代での使用が多く、中古では数が減りましたが、「くすし」から派生した「くすしがる」という動詞や、「くし」から派生した「くしくも」という表現で残っています。
『枕草子』より、「関白殿、黒戸より出でさせたまふとて」の現代語訳です。
『大鏡』より、「右大将道綱の母/太政大臣兼家」の現代語訳です。
『大鏡』より、「女院詮子の道長びいき(道長と女院詮子)」の現代語訳です。
『大鏡』より、「村上天皇と中宮安子(中宮安子の嫉妬)」の現代語訳です。
おはさうず【御座さうず】 動詞(サ行変格活用) / おはさふ【御座さふ】 動詞(サ行四段活用)
何人かでいらっしゃる 意味 (1)いらっしゃる *「あり」の尊敬語 (2)お出かけになる・おいでになる *「行く」「来」の尊敬語 補助動詞として (3)~ていらっしゃる・~ておいでになる ポイント 尊敬語「おはす」に「あふ」がついた「あはし
『大鏡』より、「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の現代語訳です。
『大鏡』より、「肝だめし(道長の豪胆)」の現代語訳です。
動詞「付く」の連用形「つき」に、形容詞「無し」がついたものです。「つきづきし」の対義語として理解しておくと、訳しやすいと思います。
うるさくしないでね 意味 (1)(ああ)うるさい・やかましい (2)しっ、静かに ポイント 感動詞「あな」に、シク活用の形容詞「かまし」がついて、「あなかま」と表現したものです。直訳すれば「ああうるさい」ということですが、特にそれほどやかま
「The 感動詞」と言うべきことばで、「感慨・驚き・感心」など、心が強く動いたときに発せられる語です。「ああ・あら・まあ」などと訳せばOKです。セリフの中に単独で出てくことも多いのですが、「あな+形容詞・形容動詞の語幹」で、ワンセットの感動詞のような使い方をすることも多いです。
形容詞・形容動詞の語幹用法について
「つつむ」というと、まず「包む」が思い浮かぶと思います。布などで物体をくるんだりかくしたりすることが「包む」ですが、その「隠すもの」が「心情」である場合には、「慎む」の字を当てます。「裏む」とすることもあります。主に「自分のしたいことをつつみかくしている」状況に使いやすいです。
「太(ふと)」が音変化した「ふつ」を重ねた「ふつふつ」に接尾語の「か」がついた「ふつふつか」が圧縮されて「ふつつか」となったものか、あるいは、「太束(ふとつか)」が音変化したものと言われています。
上代では「まをす」ということばであり、今でも祝詞では「かしこみかしこみまをす」というように、「まをす」を使います。もともとは、神や権力者といった上位者に対しお願いをするという意味を持ちましたが、「お願い」という意味での使い方はそれほど多くはなく、「上位の者に口をきく」行為を指すことばとして広範に用いられました。したがって、訳語としては「申し上げる」となることが多いです。
『大鏡』の一節です。ポイントは、副詞「かつがつ」、名詞「式神」、名詞「内裏」、動詞「参る」、動詞「申す」、助動詞「けり」です。
あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。(徒然草)
『徒然草』の一節です。ポイントは、形容詞「あぢきなし」、名詞「すさび」、副詞「かつ」、動詞「破り捨つ」、助動詞「べし」、助動詞「なり」です。
漢字を当てると「且つ且つ」とか「且」などと書くのですが、もとは動詞「克つ(かつ)」を重ねた語だと言われています。「克つ」は「こらえる・できる」という意味であり、「かつがつ」は「こらえこらえ」ということになります。たとえば、「ある困難」が眼前にある状況で、「たやすくそれを解決できるわけではなく、不十分な接し方にはなってしまうけれども、なんとかして対応する」という場合に使用されやすいです。「緊急性」のニュアンスを持つことが多く、その場合は「何をさしおいても真っ先に取り組む」という意味で、「何はともあれ」「何はさておき」などと訳します。
二つのことが並行して行われることを意味します。同時並行であれば(1)のように訳し、連鎖的に行われるのであれば(2)のように訳します。
『徒然草』より、「をりふしの移り変はるこそ」の現代語訳です。
古くは、激しくおそれ多い神の力を「イツ」といいまして、「いつくし(厳し)」「いつく(斎く)」「いちしろし(著し)」などの「イツ(イチ)」がそれにあたるとされます。「いちはやし」の「いち」もそれらと同根の接頭語で、「(神の力を思わせるほど)勢いが激しい」という意味合いになります。「はやし」は、もともと「生はゆ」と同根で、「はゆ(映ゆ)」「はやる(逸る)」「はやし(早し)」「はやし(林)」などといった語は、どれも「生命力を持って生き生きとする・勢いよく前に進もうとする」という意味合いがあります。
「やつる」の「やつ」は、現代語でいう「やつれる」の「やつ」と同根であり、「目立たない姿になる」「みすぼらしくなる」という意味においては、現代語「やつれる」に近い意味を持ちます。なお、古語「やつる」を「やせ細る」という意味で用いることはまずありませんので、そこは現代語「やつれる」とは異なるところです。
「やつる」の他動詞型が「やつす」です。「やつる/やつす」の「やつ」は、現代語で言う「やつれる」の「やつ」と同根で、「やつる」は「見た目の華やかさのレベルが落ちること」であり、「やつす」は「見た目の華やかさのレベルを意図的に落とすこと」です。
かくまでやつしたれど、見にくくなどはあらで、いと、さまことに、あざやかにけだかく、はれやかなるさまぞあたらしき。(堤中納言物語)
『堤中納言物語』の一節です。ポイントは、動詞「やつす」、助動詞「たり」、副詞「いと」、形容動詞「さまことなり」、形容動詞「はれやかなり」、形容詞「あたらし」です。
「ひたぶるなり」の「ひた」は、「ひたすら」「ひたむき」などの「ひた」と同意であり、もとは「一(ひと)」であると言われています。「ぶる」は、「そのようにふるまう」ということなので、「ひたぶる」は、「一つのことばかりしている=一途である」という意味合いになります。連用形「ひたぶるに」の形で用いられやすく、「ひたすら」「いちずに」「むやみに」などと訳出することが多いです。「他に何があっても構わずにそれだけを押し通す」という点で、「強引」「乱暴」という意味合いで用いられることもあります。
まだし【未だし】 形容詞(シク活用) / まだき【未だき】 副詞
形容詞「未だし(いまだし)」の語頭の「い」が落ちたものが、形容詞「まだし」です。「未だに適した状態になっていない」ということから、「時期が早い」とか、「不十分だ」といった意味で用います。その語幹から、「まだき」「まだ」という副詞が派生したと考えられています。副詞の場合、「まだ時期が早い」あるいは「未熟」であるにもかかわらず、ある事態・現象が起きてしまう文脈で使用されやすく、訳としては「もう(そうなってしまう)」「早くも(そうなってしまう)」などのようになります。
みなさま、あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
「あま」は「余る(あまる)」の「あま」と同じで、「たくさんある」ということを示します。いずれにしても、現代語でも「数多」と書いて「あまた」と読みますので、漢字さえ覚えておけば訳はしやすいと思います。
『堤中納言物語』より「虫愛づる姫君」の現代語訳(4)です。
さうぞく【装束】 名詞 / さうぞくす【装束す】 動詞(サ行変格活用) /さうぞく【装束く】 動詞(カ行四段活用)
漢語「装束(サウゾク・シャウゾク)」です。貴族の服装は中国にならったものでして、その「人前に出るきちんとした服装」のことを「装束」といいました。
『大鏡』より「花山院の出家」の現代語訳です。
犬を流させたまひけるが、帰り参りたるとて調じたまふ。(枕草子)
『枕草子』の一節です。ポイントは、動詞「流す」、助動詞「す」、敬語動詞「たまふ」、助動詞「けり」、動詞「参る」、助動詞「たり」、動詞「調ず」、敬語動詞「たまふ」です。
「付く」に、接頭語「うち」がついたものです。接頭語「うち」は、「パッと」「サッと」「ちょっと」「バシッと」といったように、「瞬間的」「軽妙」「軽快」「明瞭」などの意味合いを内包しています。そのことから「うちつく」は、「パッとつける」「サッとつける」というニュアンスで、まずは(1)のように「突然だ」「急だ」という意味で用います。
現代語とほぼ同じ意味ですので、漢字で書かれていれば読解に支障はありません。ヤ行上二段活用の動詞は「老ゆ(おゆ)」「悔ゆ(くゆ)」「報ゆ(むくゆ)」の三語ですので、覚えてしまいましょう。「老ゆ」の類義語として「年をとる」と訳す語に「ねぶ」がありますが、「ねぶ」のほうは「少年が青年になる」という文脈でも用いますし、「実際の年齢よりも大人びる・ませる」という意味でも用います。つまり、「ねぶ」はシンプルに「年を重ねる」ということです。その一方、「老ゆ」は、根本的に「ある程度の年齢を過ぎること」を意味します。
「老ゆ」とほぼ同じ意味ですが、「おゆ」のほうが、「高年齢」を指すことが多いです。一方、「ねぶ」は、子どもから青年になるくらいでも使用します。また、実際の年齢よりも「大人びる」という意味で使うことも多いです。つまり、「老ゆ」が「衰える」という意味を含みやすいことに対して、「ねぶ」は、シンプルに「年を重ねる」という意味で用いられています。
形容動詞「異なり(けなり)」の連用形「異に(けに)」が副詞化したものです。副詞として用いる場合はほとんど(2)の使い方なので、「~よりけに」という言い回しを覚えておくといいです。(1)の意味は、形容動詞「けなり」の意味がそのまま残っていますし、補助動詞を伴うと「けに」の意味が述語の中心になりますので、「副詞」というよりは「形容動詞の連用形」と考えるほうがいいかもしれません。
「術(すべ)」は「すべ」は「す(何かをする)」+「へ(方向を示す)」がもととなった語と言われていまして、「手段・方法・手だて」などを示します。それが「無し」なので、「手段がない・方法がない」ということになり、訳語としては「どうしようもない」とすることが多いですね。その「どうしようもない状況」に接した際の「人のふるまいや心情」を示す場合、「途方に暮れる」「困る」「つらい」「苦しい」などと訳すこともあります。
『枕草子』より「上にさぶらふ御猫は」の現代語訳です。
ピリッと塩辛い、身体に刺激を与えるものを「からし」と言います。現代語ではほとんど「食べ物」についてしか用いませんが、古語では「痛みを伴う刺激」に広く用いまして、多くは(2)か(3)の意味になります。
下二段動詞「立つ」+謙譲語「まつる(奉る)」が一語化したものです。もともと上代では「まつる」が「差し上げる・献上する」という意味で用いられていました。そこに「たて」がついたわけですが、ここでの「たて」は、もともと下二段の「立つ」なので、「目立たせる・はっきりさせる・くっきりさせる」というニュアンスがあります。そういう点では「たて」は強調のための接頭語みたいなものですね。なお、「まつる」のほうは、中古になると単独ではあまり用いられず、「たてまつる」「つかへまつる」というように、複合語での使い方が主流になります。
大殿籠りたる所ひきつくろひなどして、入れ奉らむとて、 (大鏡)
『大鏡』の一節です。ポイントは、動詞「大殿籠る」、助動詞「たり」、動詞「ひきつくろふ」、敬語動詞「奉る」、助動詞「む」です。
動詞「つくる」に、反復・継続を意味する接尾語「ふ」がついた「つくらふ」が、やがて「つくろふ」となりました。すでに生成されているものに再び手を加えるということであり、状況的には「(悪いところを)直す・修理する」「(雑なところを)きちんとする・整える」という意味で使われやすいです。
『大鏡』より「最後の除目(さいごのぢもく)」の現代語訳です。「兼通と兼家の不和(かねみちとかねいえのふわ)」という表題の教材もあります。 藤原兼通・兼家の兄弟は永らく不仲でしたが、兼通が関白になると、兼家の昇進をストップしたり、兼家の次女の
「痴(をこ)」+「に」+「あり」であり、「ばか・だ」と考えておけばOKです。類義語に形容詞「をこがまし」があります。
名詞「痴(をこ)」+接尾語「がまし」です。「をこ」は「愚か・ばか」ということであり、「がまし」は「~らしい」「~ようだ」「~にみえる」ということなので、端的に言えば「ばからしい」「愚かにみえる」という意味になります。
「根もころ」が音変化した語で、「ねむごろ」とも言います。「根」と「根」がコロコロからまりあっている様子が、「心を込めていること」とか「一生懸命なこと」を連想させたのだと思われます。
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
恋しい人に逢い、ともに夜を過ごすという名を背負っているのであれば、その逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、人に知られないであなたを連れてくる方法がほしいものだ。
名詞「所」と、ア行下二段動詞「得」の複合語です。ア行で活用する動詞は非常に少ないので、文法問題でも問われやすい語です。「得(う)」「心得(こころう)」「所得(ところう)」を覚えておきましょう。
名詞「心」と、ア行下二段動詞「得」の複合語です。ア行で活用する動詞はほとんどありませんので、文法問題でも問われやすい動詞です。「心」は現代語の「心」と基本的には同じ意味ですが、古語の場合「精神活動の中心・本質」という意味合いが強く、「ある行動の中心的ポイント」や「ある概念の要点」なども「心」と言います。
このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに (菅家)
この度の旅は、(あわただしくて)幣ぬさを用意することもできない【捧げることもできない】。(その代わりに)手向山の紅葉の錦を(捧げるので)、神の思うままに(お受け取りください)。
動詞「おどろく」と同根の語です。「おどろ」はもともと擬音語で、雷の音を示していたようですね。
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もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし 和歌 (百人一首66) もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊 『金葉和歌集』 歌意 私がおまえをしみじみいとしいと思うように、おまえ
つつみ隠していたけれど、顔色や表情に出てしまっていたのだなあ、私の恋は。恋のもの思いをいているのかと、人が尋ねるくらいまで。
こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか 和歌 (百人一首41) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見 『拾遺和歌集』 歌意 恋をしているという私のうわさは早くも立ってしま
『沙石集』より、「歌ゆゑに命を失ふ事」の現代語訳です。
『平家物語』より、「忠度の都落ち(ただのりのみやこおち)」の現代語訳です。
「こそあらめ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の未然形+助動詞「む」の已然形です。「こそあれ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の已然形です。どちらも、多くは「逆接構文」をつくるので、基本的には「~けれど」という逆接のかたちで訳しましょう。
『平家物語』より、「能登殿の最期」です。
「おきつ」の「おき」は、「置く」と同根と言われています。「これからしようとすることを心の中に置く」というイメージであり、実際、「おもひおきつ」「おぼしおきつ」のかたちで使われることが多いです。
『大鏡』より、「行成の器量」「行成とこま」の現代語訳です。 「行成」は「藤原行成」のことです。能書家の達人として、小野道風・藤原佐理・藤原行成を「三蹟(三跡)」といいます。 空海・嵯峨天皇・橘逸勢の「三筆」っていうのも日本史で出てきたね。
漢語「労」を重ねて形容詞化したことばだと言われています。「労」は「年功・熟練」などを意味し、多くの経験を積んだがゆえの「物慣れた巧みさ」を示しています。そういった「熟達性」は、周囲からすると気品があって美しく見えますので、「上品だ」という意味でも用います。なお、「老老じ」を語源とする説もあります。あるいは、「リョウリョウジ」と記す写本もあることから、「良良じ」を語源とする説もあります。
動詞「侮る(あなづる)」が形容詞化したものです。「あなづる」の「軽蔑する・見下げる」という意味がそのまま生きているのが(1)の意味です。「軽く扱ってよい」ということは、「敬意を持たなくてよい」ということなので、やがて「遠慮しなくてよい」「気を遣わなくてよい」という意味でも使われるようになりました。それが(2)の意味です。
「しる(知る・領る)」に、尊敬の「す」がついた「しらす」という語がありましたが、さらに「召す」が付くことによって、非常に高い敬意を示す語として用いられました。もとは「しらしめす」ですが、中古以降は「しろしめす」と言いました。もともと「しる」には、主に「知る/(領地などを)治める」という意味がありますので、その尊敬語として考えておけばOKです。
「たぎたぎし」という語から転じた語という説があり、その場合「怠」は中世以降の当て字といわれます。「たぎたぎし」の「たぎ」は、岩肌を屈折しながら落ちる「滝」と同根で、「道のりが屈折している」「道がデコボコである」「足がぎくしゃくする」といった意味になります。「デコボコ道」を進んでいくことが面倒で困ることであるように、(1)「不都合だ」という意味で使用されます。そういった「平らかに物事が進行しない」状況に対して非難めいた気持ちを込めて用いる場合には(2)「もってのほかだ・とんでもない」と訳します。その説とは別に、漢語「怠」を重ねて成立したという考え方もあります。
『栄花物語』より、「今さらのご対面」の現代語訳です。
つげる! 意味 (1)言う・告げる・宣言する ポイント 主に上代につかわれたことばでです。「言う」と訳して問題ありませんが、「普通のことば」ではなく、「神聖なものにかかわる呪力をもった発語」に用いられました。もともとは神が大切なことばを表明
『栄花物語』より、「世の響き」の現代語訳です。
『大鏡』より、「宣耀殿の女御(せんようでんのにょうご)」の現代語訳です。
「聞こす」に「召す」がついて一語化しました。主に天皇などの最高ランクの人の行為に用いるので、「最高敬語」だと言えます。文法的に考えれば「聞こす」は「聞く」+尊敬の「す」であり、「お聞きになる」という意味になります。それを「召す」によって一段階高めているのが「聞こし召す」だと言えます。ただ、「聞こす」は主に「おっしゃる」の意味で用いられていたことから、「これは『聞く』+使役の『す』であり、『聞かせる』という行為を指していた」とする説もあります。「相手に対して発言する」ということですね。「召す」は「お呼びになる」ということですから、「聞こし・召す」は、「聞かせる行為を・お受け入れになる」という構造だと言うこともできます。
聞く+す 意味 (1)おっしゃる *「言ふ」の尊敬語 (2)お聞きになる *「聞く」の尊敬語 ポイント 動詞「聞く」に「尊敬」の助動詞「す」がついた「聞かす」が「聞こす」に転じたものだと言われます。あるいは、動詞「聞く」に「使役」の助動詞「
『宇治拾遺物語』より、「袴垂、保昌にあふこと」の現代語訳です。
動詞「おもふ」に上代の助動詞「ゆ」がついて、「おもはゆ」になり、「おもほゆ」を経て「おぼゆ」と一語化したものです。「ゆ」は「自発・受身」の意味がありましたが、平安時代には動詞の一部に残っただけで、助動詞としてはなくなりました。代わりに用いられたのが「る」です。そのことから、「おぼゆ」は、「おもふ」に「自発」「受身」のニュアンスを付け加えて理解するとよいとされます。とはいえ、肯定文の場合、ほとんどは「自発」の意味で、「思われる」と訳せばよいケースが多いです。否定文の場合、「思い出せない」といったように、「可能」の意味合いが含まれることがありますが、多くはありません。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、助動詞「さす」、助動詞「む」、副詞「うたて」、動詞「おぼゆ」です。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、敬語動詞「聞こゆ」、助動詞「まほし」、助動詞「き」、下二段活用の「たまふ」の訳し方です。
『今物語』の一節です。ポイントは、動詞「しる」、動詞「たぶ」、助動詞「たり」、助動詞「けり」、係助詞「なん」です。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、接続助詞「ば」、連語「さてもあり」、連語「ぬべし」です。
現代語の「知る」と同じで、「理解する」「わかる」という意味で使うことも多い語ですが、古語としては「領る・治る」のほうの「治める」「支配する」「領有する」といった意味に注意です。その土地のことを隅々までくわしく「知る」ことができるのは、そこを「治めている」からだと言えますので、「しる=治める」という意味が成立していったという説がありますが、まったく別々に成立した語で、たまたま音が似ているだけという考えもあります。いずれにしても、「しる」とひらがなで書かれていたら、「知る」なのか「領る・治る」なのか文脈判断する必要がありますね。
『増鏡』の一節です。ポイントは、接頭語「うち」、助動詞「す」、敬語動詞「給ふ」、助動詞「り」、動詞「まどろむ」、助動詞「る」、敬語動詞「給ふ」、助動詞「ず」です。
『徒然草』より、「家居のつきづきしく」の現代語訳です。
『徒然草』の一節です。ポイントは、名詞「まこと」、形容詞「あいなし」、助動詞「に」、助詞「や」、名詞「そらごと」です。
「双無し」であれば、「比べるものがない」ということであり、「比類ない」「すばらしい」などの「ほめ言葉」になります。「左右無し」であれば、「左とも右とも言えない」という意味合いで、「どちらかに決められない」などと訳します。あるいは、「左…右…とあれこれ考えずにできてしまう」という意味合いで、「たやすい」「簡単だ」「造作もない」などと訳します。
『伊勢物語』より「初冠」の現代語訳です。
空を吹く風よ、雲のなかの通り路を 吹き閉じておくれ。美しい舞姫の姿を、もう少しの間ここに【地上に】とどめよう。
「強ちなり」という漢字をイメージできれば、意味はそのままの形容動詞です。「あな」はもともとは「自己」を意味したと言われます。「がち」は「勝ち」です。現在でも、「ためらいがち」「無駄話をしがち」などという使い方がありますが、それらは「がち」の上の語が勢いを持っていて、その傾向が強いことを意味します。そのことから、「あながちなり」は、「相手を抑え、自分(自己)が勢いを持っていること」を意味します。「俺が! 俺が!」という状態を表すので、「強引」「身勝手」「利己的」というニュアンスになります。
「になき」「になく」「になし」など、ひらがなで書かれるとわかりにくいのですが、「二無」という漢字をそのまま訳し、「二つとない」という意味で解します。「似無」をあてることもありますが、意味は同じで、「似たものがない」ということです。どちらの場合でも、「同等のものがないほど最上である」という超プラスの意味になります。
「あだ」は、もともと「花が咲いても実を結ばない様子」を示すことが多く、「不実なさま」を意味しました。人間にあてはめると、「誠実でない」ことを示しますので、「浮気だ」と訳す場合が多いです。「実を結ばない」ということは、やがては消えることになるので、「はかない」「いいかげんだ」「むだだ」などと訳すこともあります。「あだ」の対義語のように使われることばは「まめ」です。こちらは、「誠実」「真面目」「自直」などの意味になります。
広い海原を、たくさんの島を目指して漕ぎ出してしまったと、都にいる人に告げてくれ。漁師の釣舟よ。
根本的な意味は「日常とは別のことに心身を開放して熱中する・陶酔する・楽しむ」ということで、「音楽・遊戯・狩猟」などに興じることを広く意味します。ただ、圧倒的に多いのは、①の「管絃の遊びをする」という意味です。
「き」は、終止形は「来き」から、他の活用形は「為す」からきているという説があります。そのため活用は、次のように「サ行」「カ行」を併せ持ったものになります。
『徒然草』の一節です。ポイントは、動詞「思ひよそふ」、助動詞「らる」、動詞「覚ゆ」、助動詞「なり」、係助詞「や」です。
『堤中納言物語』の一節です。ポイントは、副詞「いかに」、敬語動詞「給ふ」、副詞「え(~ず)」、動詞「やる」、助動詞「ず」です。