ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは和歌 (百人一首99)人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は後鳥羽院 『続後撰集』歌意人がいとおしい、一方では人が恨めしいと思う。つまらないとこ...
奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき(猿丸大夫)
和歌 (百人一首4)奥山おくやまに もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声こゑ聞く時ぞ 秋は悲しき猿丸大夫 『古今和歌集』歌意人里離れた奥山で、散った紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、秋は悲しいものと感じられる。作者作者は「猿丸大夫」です
単語を覚えるための最良の手段は、「文章を読んでいきながら、わからない単語について辞書を引く」という「地道な作業」です。ただ、「入試においてどのくらいの量を覚える必要があるかという指針」のために、また「定着したかどうかの確認」のために、やはり
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ(山部赤人)
和歌 (百人一首3)田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ山部赤人 『新古今和歌集』歌意田子の浦に出てみると、真っ白な富士の高嶺にしきりに雪が降っているよ【降り積もっているよ】。作者作者は「山部赤人やまべのあかひと
大学入試に臨むにあたり、古語辞典は必須です。国立二次試験や難関私大の古文を読解するためには、どうしても辞書が必要です。辞書「辞書」については、「入試」の水準でいえば、本格的なものではなく、「コンパクト版」で十分です。むしろ、「コンパクト版」
「文法」って難しいですよね。でも、「無駄に難しく考えすぎて嫌いになっている」という状態に陥っている場合も少なくありません。もし今、文法に苦手意識があるのであれば、次の2冊のうちどちらかをやってみることをおすすめします。受験期の基礎をつくって
「したたかなり」と同根の語と言われています。「したたか」は、「しっかりしている」「手ぬかりがない」「きちんとしている」という意味です。類義の動詞である「したたむ」は、「しっかりとする・きちんとする」ということであり、行為としては「(しっかりと)処理する」「(きちんと)整理する」ということになります。何かのイベントの事前であれば「準備する」と訳すこともありますし、事後であれば「後始末する」と訳すこともあります。文脈的に「食事」を「したたむ」のであれば「食べる」などと訳し、「文」を「したたむ」のであれば「書き記す」などと訳します。
長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、(徒然草)
『徒然草』の一節です。ポイントは、名詞「すさび」、名詞「具足」、動詞「とりしたたむ」、助動詞「じ」、名詞「反古」です。
「スサ」が「思うままにふるまう」ことを示しており、「すさぶ」は「勢いのおもむくままにふるまう」という意味になります。「気の向くまま」のほうに力点があれば「慰み楽しむ」という意味になり、「勢い」のほうに力点があれば、「激しくなる」といった意味になります。
本文静かに思へば、よろづに過ぎにし方の恋しさのみぞせんかたなき。人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古ほうごなど破やり棄すつる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地
上代に使用された「ましじ」という助動詞がつまったものと考えられています。意味としては、「べし」と対になるイメージであるため、「当然そうなるはず」という意味をひっくり返して、「当然そうならないはず」という意味合いになります。
打消の助動詞「ず」には、もともと「ヌ系列」の活用(な・に・ぬ・ね)がありまして、その連体形「ぬ」に、接尾語「し」がついて「ぬし」になったものが、やがて「じ」になったと言われています。意味としてはちょうど「推量・意志」の助動詞「む(ん)」と対になる使用法が多く、「~ないだろう」「~ないつもりだ」などと訳します。
「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ」(宇治拾遺物語)
『宇治拾遺物語』の一節です。ポイントは、接続詞「されば」、動詞「申す」、動詞「候ふ」、助動詞「じ」、助動詞「つ」です。
あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む(柿本人麻呂)
和歌 (百人一首3)あしひきの 山鳥の尾をの しだり尾をの 長々し夜を ひとりかも寝む柿本人麻呂 『拾遺和歌集』解釈山鳥の尾の長く垂れさがっている尾のように長い長い夜を、(恋しい人も近くにおらず)一人で寝るのだろうか。修辞◆枕詞 ◆序詞作者
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山(持統天皇)
和歌 (百人一首2)春過ぎて 夏来にけらし 白妙しろたへの 衣干すてふ 天あまの香久山かぐやま持統天皇 『新古今和歌集』作者作者は「持統天皇」です。天智天皇の第二皇女で、天武天皇の皇后でした。天武天皇の崩御後に即位し、都を藤原京に遷都しまし
動詞「這ふ(はふ)」に「あり」がついて「這ひあり」となったものが、やがて「はべり」になったと言われています。貴人に対して「平伏して仕える」ということから、「お仕えする」「控える」という謙譲語の役割を担いました。「主体を低くする謙遜表現」として、次第に丁寧語で使われることが多くなりました。補助動詞の場合は100%丁寧語と考えます。
指示語「さ」に、動詞「守もる」がつき、さらに反復・継続を示す「ふ」がついて、「さもらふ」という動詞として使用されていました。構成要素から考えると、「そちらを守り続ける」という意味になります。ここでの「さ」という指示語は、「守るべき対象」であるので、「高位の者」になります。そこから、「お仕えする・おそばに控える」という謙譲語の意味で使用されました。この「さもらふ」が「さぶらふ」となり、やがて「さふらふ」「さうらふ」となっていきます。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ
百人一首①秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ天智天皇 『後撰和歌集』現代語訳秋の田の ほとりの仮宿の 苫(の網目)が荒いので 私の衣の袖は 夜露に濡れることだ作者天智天皇が農民の労苦を思いやって詠んだとされています
「音」に接尾語「なふ」がついて一語化したものです。「なふ」は、その動作や行為をするということで、「音なふ」の場合は「音を出す」ということになります。誰かを訪問するときは、音を立てて来訪を知らせますので、平安時代には、そのまま「訪問する」という意味でも用いられました。
上代によく使われていた尊敬語「坐ます」を重ねると「坐まします」になります。さらに敬意を足すと「大坐おほまします」となり、これがやがて「おはします」になりました。ここから「ます」が落ちたのが「おはす」と考えられています。先に「おほます」から「おはす」ができて、そこに「ます」がついて「おはします」になったという説もあります。
「あり」「をり」などの尊敬表現として、「坐ます」という尊敬語があります。これを重ねると、「坐まします」になります。
「増さる」の意味であれば、「ふえる・多くなる」と訳します。「勝る・優る」の意味であれば、「まさる・優れる」などと訳します。ひらがなで書かれることが多いので、「増」なのか「勝・優」なのか、文脈判断しましょう。
本文今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに、「無悪善」と書きたりけり。帝、篁に、「読め」と仰せられたりければ、「読みは読み候ひなん。されど、恐れにて候へば、え申し候はじ」と奏しければ、「ただ申せ」と、た
「むく」ということばが、「不気味なもの・様子」を示していると言われます。たとえば、「むく」に「めく」がついた「むくめく」は、「(虫や蛇などが)不気味に動いている」ことを意味しています。また、「むく」を2つ重ねた「むくむくし」は、「なんとも気味が悪い」「あまりにも不気味」といった意味になります。「むくつけし」の場合は、「理解ができないために、恐ろしくて気味が悪い」というニュアンスが強いです。「正体不明」なものに対して「なんだかゾッとするな……」と思うときに使いますね。
『枕草子』より「中納言参りたまひて」の一節です。
「音(ね)+あり」がつまったものです。活用語の「終止形」について、「~という音がある」という意味をつけるようなイメージですね。そのため、何か実際に音が聞こえている場面であれば、「~の音(声)がする」「~が聞こえる」などと訳します。聞こえてきた音を「根拠」にして、(音がするということは……)「~ようだ」と訳すのが「推定」の用法です。「音」が「人々のうわさ・評判」などを意味していれば、「伝聞」の用法です。「~という」「~そうだ」などと訳します。
『枕草子』より「中納言参りたまひて」の現代語訳です。
『徒然草』より「名を聞くより」の現代語訳です。
「体言+に+あり」がつまって、「体言+なり」となっていきました。「あり」がベースなので、活用は「ラ変型」になります。「体言」につく助動詞ですが、直前の語が活用語である場合には「連体形」につきます。
「言ふ+甲斐+無し」なので、「言う価値がない」「言っても効果がない」という意味になります。表現的には「言っても仕方がない」ということですが、そのくらい「無価値であるさま」を形容していますので、文脈にあわせて、「取るに足りない」「つまらない」など、様々な訳し方をします。
物語などこそ、あしう書きなしつれば、言ふかひなく、作り人さへいとほしけれ。(枕草子)
『枕草子』の一節です。ポイントは、形容詞「あし」、動詞「書きなす」、形容詞「言ふかひなし」、副助詞「さへ」、形容詞「いとほし」です。
助動詞「む」+格助詞「と」+サ変動詞「す」=「むとす」がつまって「むず」になりました。意味は「む(ん)」と同じと考えて大丈夫です。
「連れ」が「無し」なので、「周囲との関係がない」ということを意味しています。シンプルに「周囲の影響を受けない/影響を持とうとしない」という意味であれば「平然としている」「素知らぬふうだ」「さりげない」などと訳します。そういった態度にマイナスの意味がこもっていれば、「冷淡だ」「薄情だ」などとふみこんで訳すことになります。
『徒然草』の一節です。ポイントは、副詞「さすがに」、接続助詞「ば」、助動詞「なり」、助動詞「べし」です。
指示語「さ」+動詞「す」+上代の助詞「がに」が一語化し、「さすがに」という語がよく使われました。その後、「さすがなり」という用い方が出てきたようです。そのことからも、②「さすがに」というかたちは、副詞と区別できない用例も多いです。ある出来事を前提として、「それはそうであるが」といったん受け止めつつも、語り手の心情としては「そうするわけにはいかない」「そうもいかない」などと、何か屈折したことを考えているときに使用することが多いです。
助動詞「む(ん)」は、その出来事が「未確定・未確認」であることを示します。「これからしようと思っていること」や「おそらくそうだろうと思っていること」などを、「む(ん)」で表していることになります。文末用法の場合、だいたい次のように区別します。/一人称⇒意志/二人称⇒適当・勧誘/三人称⇒推量/ただ、一人称行為であっても「推量」がふさわしい場合などもありますので、上の区別は「絶対」ではありません。
「得」は、漢字のとおり、何かを入手することを意味しています。シンプルに「手に入れる」という意味だけではなく、「(知識を)得る」「(能力を)得る」という意味合いで使用されることも多い動詞です。獲得するものが「知識」であれば、「理解する」などと訳し、「能力」であれば、「~できる」とか「得意とする」などと訳します。
感動詞「あや」が、そのまま形容詞になったと考えられています。「あや~」と不思議に思うほど、自分の理解を超えた現象などに用います。多くは、「不思議だ」という意味で使用しますが、「身分が低い」という意味でも使用します。
『大和物語』より「をばすて」の一節です。ポイントは、名詞「嫗」、接尾語「ども」、連語「いざたまへ」、形容詞「尊し」、名詞「わざ」、助動詞「なり」、敬語動詞「たてまつる」、助動詞「む」です。
本文 信濃の国に更級といふ所に、男住みけり。若き時に親死にければ、をばなむ親のごとくに、若くより添ひてあるに、この妻の心、憂きこと多くて、この姑の、老いかがまりてゐたるを常に憎みつつ、男にもこのをばの御心のさがなく悪しきことを言ひ聞かせれけ
「しどろなり(乱れている)」と同根のことばで、「しど」が、「無秩序で雑然としている様子」を意味しています。「け」は「気」であり、「様子」「見た目」を示しており、「なし」は「はなはだしくそうである」という意味の接尾語です。つまり、「まさに秩序がない様子」という意味合いになります。
動詞「老ゆ」と同根のことばと考えられています。どちらも「年を取る」ということなのですが、「老ゆ」が、単純に老いていくことを意味することが多いのに対して、「およすく」のほうは、「すくすくと成長する」という意味合いで使用されることが多いです。
「すくむ」の「すく」と同根のことばです。たとえば、「身がすくむ」と言ったら、「体がこわばる」という意味ですね。「すくよかなり」も、人の性格や言動などが「こわばっている」ことを表しています。そのことから、「堅実だ」「無愛想だ」などといった意味になります。
「ころ」が、「幅のある期間」を意味しますので、「年ごろ」というと、「複数年」を表しています。文脈的には「現在に至るまで」の「長い年月」を意味します。「現在」につながっているほうに力点があれば「ここ数年」と訳し、「長さ」のほうに力点があれば「長年の間」と訳します。
「たり」は、「てあり」がつまってできた助動詞です。「言ひてあり」「咲きてあり」などが、「言ひたり」「咲きたり」となっていきました。そのため、基本的には「今そうなっている」ことを示します。
「り」は特殊な助動詞です。もともとは、「渡りあり」「旅しあり」というように、動詞の連用形に「あり」がついたものが前身です。それがつまって、「渡れり」「旅せり」となっていきました。そのため、根本的な意味は「存在している(今それが起きている)」ということになります。
古文では、人の生まれつきの能力を「かど」と言い、勉強してのちに身につけた能力(特に漢学の能力)を「ざえ」と言います。どちらも、漢字では「才」と書きます。「かど」を重ねた「かどかどし」という形容詞は、この「先天的な才能・才気」がある様子を示しています。
「いと」が「幼いこと」を意味しており、「気(け・き)」がその「様子」を意味しています。したがって、「いとき」という表現が、現代語で言うと「おさなげ」という意味を持っていることになります。それに、「はくはなだしくそうである」という意味の接尾語「なし」がついて、「いとけなし・いときなし」という形容詞が成立しました。
助動詞「す」「さす」「しむ」 ―もともとは「使役」 のちに「尊敬」の用法が多くなる― 使役・尊敬 (謙譲・受身)
活用と接続助動詞「す」「さす」「しむ」について学習しましょうひとまず、3ついっぺんに活用を見ておきましょう。ではいっぺんにいきます。助動詞「す」の活用です。未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形 せ / せ / す / す る /
語源はよくわかっていませんが、「言ひ文(あや)けなし」がつまったものではないか、と説明されることがあります。「言ひ」は、「口頭での発言」です。「文(あや)」は、書き言葉であり、「理屈の流れ」などを示すこともあります。その「話し言葉」と「書き言葉」が混ざってしまっているような、理路整然としていない言語活動は、まさに「子どもっぽくて頼りない」ものですよね。
「心」が「付く」ということが、「気に入ること」「好きになること」を意味しています。それが「無し」なので、「気に入らない」「好きになれない」ということになります。
「すべなし」という形容詞の「すべ」には、漢語の「術」をあてていました。そのまま音読すると「ずち」「ずつ」「じゅつ」となるので、「ずちなし」「ずつなし」「じゅつなし」という言い方が発生したようです。
「果(はか)」は「はかる」と同根のことばであり、「仕事の分量・目安」「仕事の進み具合」などを示します。「はかばかし」は、その「果」が重ねて用いられているわけですから、「仕事の進み具合が目に見えて成果を上げている」ということを意味します。
「片」は「かたよっている」ということであり、「くな」は「くねっている(曲がっている)」ということです。そのことから、「偏屈だ」という意味になります。「知識が偏っており、それを広げようとしない」ということから「無教養だ」と訳したり、「感性が偏っており、ものの情趣を理解しようとしない」ということから「無風流だ」などと訳したりします。「教養がなく無風流だ」などと、いっしょに訳出することもあります。人間に対して使用すると、主に①②の意味になりますが、建物や風景などに用いると⓷の意味になります。
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ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは和歌 (百人一首99)人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は後鳥羽院 『続後撰集』歌意人がいとおしい、一方では人が恨めしいと思う。つまらないとこ...
この世の中は、いつまでも変わらないものであってほしいなあ。波打ち際を漕ぐ漁師の小舟の綱手を、漁師たちが引いている様子はしみじみといとおしいものだ。
行き届いているフルハイビジョン意味(1)きめこまやかだ・繊細だ(2)綿密だ・くわしい・こまごまとしている(3)心がこもっている・愛情深い・懇切丁寧だ(4)色が濃い(5)にこやかに *「笑ふ」を修飾してポイント繊細で綿密なようすを意味してい...
「こそあらめ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の未然形+助動詞「む」の已然形です。「こそあれ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の已然形です。どちらも、多くは「逆接構文」をつくるので、基本的には「~けれど」という逆接のかたちで訳しましょう。
~けれど、~~!!意味~こそ(ー已然形)、 *前提句となる(1)~は(こそ)ーけれど、 / ~は(こそ)ーものの、 *逆接強調~こそ(ー已然形)。 *前提句とならない(2)~は(こそ)ー *単純な強調 ポイント「こそー已然形」は、もともとは...
あるけれど意味こそあれ(1)~はあるけれど / ~こそあるものの(2)~であるけれど / ~ているけれどポイント「こそあれ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の已然形です。「こそー已然形」は、もともとは「逆接」をつくる構文なりますので、そこで...
よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる和歌 (百人一首83)世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる皇太后宮大夫俊成 『千載集』歌意この世の中よ、つらさから逃れる方法はないのだなあ。思いつめ...
おもひわび さてもいのちは あるものを うきにたへぬは なみだなりけり和歌 (百人一首82)思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり道因法師 『千載和歌集』歌意つれない人を思い悩み、それでもやはり(死にもせず)命はまだあ...
ほととぎすが鳴いた方角を眺めると、(ほととぎすの姿はすでになく)ただ有明の月が空に残っている。
まずはいつもの「敬語の種類」をあげておきます。〈尊敬語〉 主体(行為者)に敬意を示す 「おはす」「たまふ」など〈謙譲語〉 客体(行為の受け手)に敬意を示す 「申す」「参る」など〈丁寧語〉 聞き手・読み手に敬意を示す 「はべ...
まずはいつもの「敬語の種類」をあげておきます。〈尊敬語〉 主体(行為者)に敬意を示す 「おはす」「たまふ」など〈謙譲語〉 客体(行為の受け手)に敬意を示す 「申す」「参る」など〈丁寧語〉 聞き手・読み手に敬意を示す 「はべ...
まずはいつもの「敬語の種類」をあげておきます。〈尊敬語〉 主体(行為者)に敬意を示す 「おはす」「たまふ」など〈謙譲語〉 客体(行為の受け手)に敬意を示す 「申す」「参る」など〈丁寧語〉 聞き手・読み手に敬意を示す 「はべ...
辞書によっては「謙譲語Ⅱ」っていうのが登場するんだけど、あれはいったい何なの?「謙譲語Ⅱ」は別名「丁重語」とか「荘重体敬語」とも言いまして、ちょっと特殊な用法になる謙譲語です。ひとことで言うと、「行為を丁重な表現であらわすことで、その発言の...
じっと見つめる・・・ 意味 (1)見守る・じっと見つめる (2)見定める・うかがう (3)守護する・大事にする ポイント 「目(ま)+守る(もる)」が一語化したもので、「目を離さずじっと見る」ということです。「まぼる」というときもあります。
日もいと長きに、~ 日もいと長きに、つれづれなれば、夕暮れのいたう霞かすみたるに紛れて、かの小柴垣のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光朝臣これみつのあそんとのぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏据ゑ奉りて行ふ尼なりけり。簾すだれ少し
もともとは水上を移動して、水面で隔てられた向こう側に移動することに用いられました。中古では、水上に限らず、地面や空中を移動することにも広く用いられるようになります。類義語「わたす」のほうは、中古になっても「水上」を移動することにほぼ限定されます。
『徒然草』百二十九段の現代語訳です。
成り立ちははっきりしませんが、「みそか盗人」「みそか心」といったことばもあります。「密(みつ)か」が「みそか」に音変化したのではないでしょうか。用例としてはほとんどが「みそかに」という連用形のかたちですね。ちなみに「みそかなり」はおもに和文で使用され、漢文訓読体では「ひそかなり」と読みます。これは「ひそまる」「ひそむ」という語と関係があるとされます。
「こぼつ」ともいいます。語源は定かではありませんが、「雷が鳴る」とか、「物を叩く」とか、打撃音のようなものを示す「こほこほ」「ごほごほ」という擬音語がありまして、そこから来ているのかなと思います。
朝から晩まで 意味 (1)一日中・終日・朝から夕刻までずっと ポイント 「日ねもすがら」または「日経もすがら(ひへもすがら)」が圧縮された表現と考えられています。「すがら」は「~の間じゅう・ずっと」という意味ですから、「日経もすがら」だとす
わが命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえているならば、堪え忍ぶ心が弱まると困るから。
心ならずもこのはかない現世に生きながらえるならば、恋しく思い出されるにちがいない、そんな夜更けの月だなあ。
(あなたが来ないとわかっていれば)ためらわずに寝てしまっただろうに。(あなたを待っているうちに)夜が更けて、とうとう西にかたむくまでの月を見たことだよ。
もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし 和歌 (百人一首66) もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊 『金葉和歌集』 歌意 私がおまえをしみじみいとしいと思うように、おまえ
つつみ隠していたけれど、顔色や表情に出てしまっていたのだなあ、私の恋は。恋のもの思いをいているのかと、人が尋ねるくらいまで。
こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか 和歌 (百人一首41) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見 『拾遺和歌集』 歌意 恋をしているという私のうわさは早くも立ってしま
『沙石集』より、「歌ゆゑに命を失ふ事」の現代語訳です。
『平家物語』より、「忠度の都落ち(ただのりのみやこおち)」の現代語訳です。
『平家物語』より、「能登殿の最期」です。
「おきつ」の「おき」は、「置く」と同根と言われています。「これからしようとすることを心の中に置く」というイメージであり、実際、「おもひおきつ」「おぼしおきつ」のかたちで使われることが多いです。
『大鏡』より、「行成の器量」「行成とこま」の現代語訳です。 「行成」は「藤原行成」のことです。能書家の達人として、小野道風・藤原佐理・藤原行成を「三蹟(三跡)」といいます。 空海・嵯峨天皇・橘逸勢の「三筆」っていうのも日本史で出てきたね。
漢語「労」を重ねて形容詞化したことばだと言われています。「労」は「年功・熟練」などを意味し、多くの経験を積んだがゆえの「物慣れた巧みさ」を示しています。そういった「熟達性」は、周囲からすると気品があって美しく見えますので、「上品だ」という意味でも用います。なお、「老老じ」を語源とする説もあります。あるいは、「リョウリョウジ」と記す写本もあることから、「良良じ」を語源とする説もあります。
動詞「侮る(あなづる)」が形容詞化したものです。「あなづる」の「軽蔑する・見下げる」という意味がそのまま生きているのが(1)の意味です。「軽く扱ってよい」ということは、「敬意を持たなくてよい」ということなので、やがて「遠慮しなくてよい」「気を遣わなくてよい」という意味でも使われるようになりました。それが(2)の意味です。
「しる(知る・領る)」に、尊敬の「す」がついた「しらす」という語がありましたが、さらに「召す」が付くことによって、非常に高い敬意を示す語として用いられました。もとは「しらしめす」ですが、中古以降は「しろしめす」と言いました。もともと「しる」には、主に「知る/(領地などを)治める」という意味がありますので、その尊敬語として考えておけばOKです。
「たぎたぎし」という語から転じた語という説があり、その場合「怠」は中世以降の当て字といわれます。「たぎたぎし」の「たぎ」は、岩肌を屈折しながら落ちる「滝」と同根で、「道のりが屈折している」「道がデコボコである」「足がぎくしゃくする」といった意味になります。「デコボコ道」を進んでいくことが面倒で困ることであるように、(1)「不都合だ」という意味で使用されます。そういった「平らかに物事が進行しない」状況に対して非難めいた気持ちを込めて用いる場合には(2)「もってのほかだ・とんでもない」と訳します。その説とは別に、漢語「怠」を重ねて成立したという考え方もあります。
『栄花物語』より、「今さらのご対面」の現代語訳です。
つげる! 意味 (1)言う・告げる・宣言する ポイント 主に上代につかわれたことばでです。「言う」と訳して問題ありませんが、「普通のことば」ではなく、「神聖なものにかかわる呪力をもった発語」に用いられました。もともとは神が大切なことばを表明
『栄花物語』より、「世の響き」の現代語訳です。
『大鏡』より、「宣耀殿の女御(せんようでんのにょうご)」の現代語訳です。
「聞こす」に「召す」がついて一語化しました。主に天皇などの最高ランクの人の行為に用いるので、「最高敬語」だと言えます。文法的に考えれば「聞こす」は「聞く」+尊敬の「す」であり、「お聞きになる」という意味になります。それを「召す」によって一段階高めているのが「聞こし召す」だと言えます。ただ、「聞こす」は主に「おっしゃる」の意味で用いられていたことから、「これは『聞く』+使役の『す』であり、『聞かせる』という行為を指していた」とする説もあります。「相手に対して発言する」ということですね。「召す」は「お呼びになる」ということですから、「聞こし・召す」は、「聞かせる行為を・お受け入れになる」という構造だと言うこともできます。