「いぶ」ということばに「はれない(はっきりしない)」という意味合いがありまして、「いぶし」は、それを「気がかり」に思う心情面のことばとして使用されます。「気がかり」であるがゆえに、その内容を確認したい心情として「見たい・聞きたい・知りたい」などと訳すこともあります。また、「疑い」の気持ちが強ければ「不審だ」などと訳します。
動詞「おもふ」に上代の助動詞「ゆ」がついて、「おもはゆ」になり、「おもほゆ」を経て「おぼゆ」と一語化したものです。「ゆ」は「自発・受身」の意味がありましたが、平安時代には動詞の一部に残っただけで、助動詞としてはなくなりました。代わりに用いられたのが「る」です。そのことから、「おぼゆ」は、「おもふ」に「自発」「受身」のニュアンスを付け加えて理解するとよいとされます。とはいえ、肯定文の場合、ほとんどは「自発」の意味で、「思われる」と訳せばよいケースが多いです。否定文の場合、「思い出せない」といったように、「可能」の意味合いが含まれることがありますが、多くはありません。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、助動詞「さす」、助動詞「む」、副詞「うたて」、動詞「おぼゆ」です。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、敬語動詞「聞こゆ」、助動詞「まほし」、助動詞「き」、下二段活用の「たまふ」の訳し方です。
『今物語』の一節です。ポイントは、動詞「しる」、動詞「たぶ」、助動詞「たり」、助動詞「けり」、係助詞「なん」です。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、接続助詞「ば」、連語「さてもあり」、連語「ぬべし」です。
しる【知る・領る・治る】 動詞(ラ行四段活用・ラ行下二段活用)
現代語の「知る」と同じで、「理解する」「わかる」という意味で使うことも多い語ですが、古語としては「領る・治る」のほうの「治める」「支配する」「領有する」といった意味に注意です。その土地のことを隅々までくわしく「知る」ことができるのは、そこを「治めている」からだと言えますので、「しる=治める」という意味が成立していったという説がありますが、まったく別々に成立した語で、たまたま音が似ているだけという考えもあります。いずれにしても、「しる」とひらがなで書かれていたら、「知る」なのか「領る・治る」なのか文脈判断する必要がありますね。
『増鏡』の一節です。ポイントは、接頭語「うち」、助動詞「す」、敬語動詞「給ふ」、助動詞「り」、動詞「まどろむ」、助動詞「る」、敬語動詞「給ふ」、助動詞「ず」です。
『徒然草』より、「家居のつきづきしく」の現代語訳です。
世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆そらごとなり。(徒然草)
『徒然草』の一節です。ポイントは、名詞「まこと」、形容詞「あいなし」、助動詞「に」、助詞「や」、名詞「そらごと」です。
「双無し」であれば、「比べるものがない」ということであり、「比類ない」「すばらしい」などの「ほめ言葉」になります。「左右無し」であれば、「左とも右とも言えない」という意味合いで、「どちらかに決められない」などと訳します。あるいは、「左…右…とあれこれ考えずにできてしまう」という意味合いで、「たやすい」「簡単だ」「造作もない」などと訳します。
『伊勢物語』より「初冠」の現代語訳です。
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ(僧正遍昭)
空を吹く風よ、雲のなかの通り路を 吹き閉じておくれ。美しい舞姫の姿を、もう少しの間ここに【地上に】とどめよう。
「強ちなり」という漢字をイメージできれば、意味はそのままの形容動詞です。「あな」はもともとは「自己」を意味したと言われます。「がち」は「勝ち」です。現在でも、「ためらいがち」「無駄話をしがち」などという使い方がありますが、それらは「がち」の上の語が勢いを持っていて、その傾向が強いことを意味します。そのことから、「あながちなり」は、「相手を抑え、自分(自己)が勢いを持っていること」を意味します。「俺が! 俺が!」という状態を表すので、「強引」「身勝手」「利己的」というニュアンスになります。
「になき」「になく」「になし」など、ひらがなで書かれるとわかりにくいのですが、「二無」という漢字をそのまま訳し、「二つとない」という意味で解します。「似無」をあてることもありますが、意味は同じで、「似たものがない」ということです。どちらの場合でも、「同等のものがないほど最上である」という超プラスの意味になります。
「あだ」は、もともと「花が咲いても実を結ばない様子」を示すことが多く、「不実なさま」を意味しました。人間にあてはめると、「誠実でない」ことを示しますので、「浮気だ」と訳す場合が多いです。「実を結ばない」ということは、やがては消えることになるので、「はかない」「いいかげんだ」「むだだ」などと訳すこともあります。「あだ」の対義語のように使われることばは「まめ」です。こちらは、「誠実」「真面目」「自直」などの意味になります。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船(参議篁)
広い海原を、たくさんの島を目指して漕ぎ出してしまったと、都にいる人に告げてくれ。漁師の釣舟よ。
根本的な意味は「日常とは別のことに心身を開放して熱中する・陶酔する・楽しむ」ということで、「音楽・遊戯・狩猟」などに興じることを広く意味します。ただ、圧倒的に多いのは、①の「管絃の遊びをする」という意味です。
「き」は、終止形は「来き」から、他の活用形は「為す」からきているという説があります。そのため活用は、次のように「サ行」「カ行」を併せ持ったものになります。
今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかくおぼゆるにや。(徒然草)
『徒然草』の一節です。ポイントは、動詞「思ひよそふ」、助動詞「らる」、動詞「覚ゆ」、助動詞「なり」、係助詞「や」です。
「その御顔はいかになり給ふぞ」ともえ言ひやらず。(堤中納言物語)
『堤中納言物語』の一節です。ポイントは、副詞「いかに」、敬語動詞「給ふ」、副詞「え(~ず)」、動詞「やる」、助動詞「ず」です。
「やる」は、「こちらから向こうに行かせる・送る・届ける」といった意味です。漢字で書くと、「遣隋使」「遣唐使」でおなじみの「遣る」となります。「遣」を「おこす」と読むこともありますが、その場合、「向こうからこちらに送ってくる」という意味になりますので、ベクトルが逆になりますね。これは現代語では「よこす」と言います。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関(蝉丸)
和歌 (百人一首10)これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関蝉丸 『後撰和歌集』歌意これがあの、(東国へ)行く人も(都へ)帰る人もここで別れては、知っている人も知らない人もここで出会うという逢坂の関なのだよ。作者作者は
「けり」は、「来きあり」がつまったものだと言われています。「語り手」のところに「出来事がやって来て、いま存在している」というのが、「けり」の本質的な意味です。したがって、「けり」は、次のような場合に使用されやすいです。① ある事実にいま・・気がついたということ(詠嘆・気づき) ② かつてどこかであった出来事をいま・・語り起こすこと(伝聞過去・伝承過去)
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに(小野小町)
花の色は、色あせてしまったなあ。むなしく長雨が降っていた間に。私自身がむなしく時を過ごし、もの思いにふける間に。
「長目」あるいは「長見る」といったことばが、動詞化したのではないかと言われています。文字通り「長時間ものを見る」ということは、シャカリキに動いているわけではありませんから、「もの思いにふけりながらぼんやりしている」という意味で用いられるようになっていきました。
「要(えう)」が「無し」ということで、文字通り「必要がない」という意味になります。
「傍ら」「痛し」という文字のとおりの状況を示します。もともとは、「痛々しい状況である人」に対して、そばで見ていてはらはらしてしまう心情を示します。批判的なニュアンスであれば「みっともない・見苦しい」と訳しますが、シンプルに同情しているような場合には、「気の毒だ・心苦しい」などと訳します。そのうち、「自分自身が痛々しい状況になっているとき」に、近くで人に見られるのが「恥ずかしい・きまりが悪い」という心情でも使用されるようになりました。
形容詞「甚し(いたし)」と同根の語と言われています。「いと」は、形容詞や形容動詞を修飾することが多く、その場合、「状態・性質」がはなはだしいと言っていることになります。一方、形容詞「いたし」の連用形「いたく(いたう)」のほうは、具体的な「動作・作用」のはなはだしさを述べる場合が多いです。この「いたく(いたう)」を副詞と考えることもあり、そうすると「いと」と「いたく(いたう)」は意味的には類義語のような関係になりますね。
「あく」は「本来いるべき場所」であり、そこから「離る(かる)」ということになります。
『徒然草』「悲田院の尭蓮上人は」の現代語訳です。
「即ち」は、「即」の漢字の意味でおさえておきましょう。「即」は、「皀」が「ごちそう」を表し、「卩」が「ひざまずく人」を表しているといわれます。
我が庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人は言ふなり(喜撰法師)
私の庵は、都の東南にあって、このように(穏やかに)住んでいる。(しかし)世を憂いて隠れ住んでいる宇治山だと、人は言うようだ。
動詞「あり」に「し」がついて、「あらし」という形容詞になり、「存在する状態だ・様子だ」ということを示しました。それが助動詞化していく過程で、「あ」が取れて「らし」になっていったと考えられています。ある根拠を持って、何らかの現象が「あるにちがいない」と推定するときに、「らし」が用いられました。ただ、平安時代には、「現在推量」の「らむ」や、「(視覚)推定」の「めり」を多く用いるようになっていったことから、「らし」は、和歌特有のことばになっていき、鎌倉時代以降はほとんど使われなくなりました。
この頃、物怪にあづかりて、困じにけるにや、居るままにすなはち、眠り声なる、いと憎し。(枕草子)
『枕草子』の一節です。ポイントは、動詞「あづかる」、動詞「困ず」、助動詞「なり」、係助詞「や」、副詞「すなはち」です。
「推量・意志」の助動詞「む」に「し」がついて、やがて「まし」になったという説があります。たとえば、「行く+し」で「ゆかし」という語が生まれましたが、それは「心がそちらに行きたがっている」ということです。同じような構成として、「む+し」の「まし」は、「む」で想定される「イメージ」に向かって、「そうなってほしいと思っている」ということを意味しています。「まし」は、「現実」と「イメージ」との間に「距離・隔たり」があるため、現実的ではないことを夢想するような場合に多く用いられます。
『土佐日記』より、「阿倍仲麻呂」の現代語訳です。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも(安倍仲麿)
大きく広がる空をふり仰いではるか遠くを見ると、(そこに見える月は、)かつて見た春日にある三笠山に出ていた月なのだなあ。
今は昔、安倍仲麿といふ人有りけり。遣唐使として物を習はしめむがために、かの国に渡りけり。数たの年を経て、え返り来ざりけるに、またこの国より藤原清河といふ人、遣唐使として行きたりけるが、返り来けるに伴ひて返りなむとて、明州といふところの海の
かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける(中納言家持)
かささぎが(恋人たちを会わせるために)天の川に橋を渡したというが、いま宮中の階(鵲橋)におりる霜の白さを見ると、夜もすっかり更けたのだなあ
上代では「な・に・ぬ・ね」が直前を打ち消すはたらきをする助動詞として使用されていました。その連用形「に」に「す」がついて、「にす」となり、やがて「ず」になったと考えられています。
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「いぶ」ということばに「はれない(はっきりしない)」という意味合いがありまして、「いぶし」は、それを「気がかり」に思う心情面のことばとして使用されます。「気がかり」であるがゆえに、その内容を確認したい心情として「見たい・聞きたい・知りたい」などと訳すこともあります。また、「疑い」の気持ちが強ければ「不審だ」などと訳します。
「いぶ」ということばに「はっきりしない(はれない)」という意味合いがありまして、「いぶせし」は、その「内にこもった鬱屈した状態」を表します。その点で(1)の意味が本義です。(2)(3)の意味は中世くらいから出てきます。
シンプルに「道が平らだ」ということなのですが、「心」が「平ら」であることや、「凸凹のトラブルがない」ことを意味するようになりました。用例としては(3)の「無事だ・平穏だ」という意味で用いることが多いです。
「こち」は「骨」であり、「ゴツゴツしているさま」「四角四面なさま」「洗練されていないさま」を表します。それに形容詞を成立させる接尾語「なし」がついて「こちなし」となりました。「骨っぽい!」ということであり、「洗練されて角がとれたようす」とは逆のイメージです。そのため、「無作法」「無風流」などと訳します。
「長(をさ)」を重ねたことばです。「をさ」は、年齢や能力が長じていることを示しますので、どちらかというと(2)の「しっかりしている」「きちんとしている」という意味のほうが原義に近いです。たとえば、「幼し(をさなし)」という語は、この「長(をさ)」が「無し」であることを示すことから、「年少だ・幼稚だ」という意味になります。ただ、実際の用例としては、下に打消表現を伴い、(1)のように「めったに(~ない)・ほとんど(~ない)・なかなか(~ない)」という意味で用いることがほとんどです。
「目」+「安し(易し)」で一語化した形容詞です。「見た目が穏やかである」ということから「感じがよい」と訳すことが多いです。記述問題なら「見た目が」をつけておいたほうが無難ですが、内からにじみ出る感じのよさを表すこともあり、選択肢問題ではシンプルに「感じがよい」と訳していることもあります。また、「すんなり見ることができる(見るのに抵抗がない)」というニュアンスで「見苦しくない」と訳すこともあります。
『今鏡』より、「用光と白波」の現代語訳です。
上一段動詞「見る」に、上代の助動詞「ゆ」がついて一語化しました。「ゆ」はもともと接尾語で、「見ゆ」などのように動詞の活用語尾に使用されることで助動詞化していったという説もあります。「ゆ」は主に「自発」の意味を持つため、「見ゆ」は「自然と目に入る」ということを意味します。また、「受身」のニュアンスで「見られる」、「可能」のニュアンスで「見ることができる」などと訳すこともあります。
わが命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえているならば、堪え忍ぶ心が弱まると困るから。
心ならずもこのはかない現世に生きながらえるならば、恋しく思い出されるにちがいない、そんな夜更けの月だなあ。
(あなたが来ないとわかっていれば)ためらわずに寝てしまっただろうに。(あなたを待っているうちに)夜が更けて、とうとう西にかたむくまでの月を見たことだよ。
もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし 和歌 (百人一首66) もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊 『金葉和歌集』 歌意 私がおまえをしみじみいとしいと思うように、おまえ
つつみ隠していたけれど、顔色や表情に出てしまっていたのだなあ、私の恋は。恋のもの思いをいているのかと、人が尋ねるくらいまで。
こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか 和歌 (百人一首41) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見 『拾遺和歌集』 歌意 恋をしているという私のうわさは早くも立ってしま
『沙石集』より、「歌ゆゑに命を失ふ事」の現代語訳です。
『平家物語』より、「忠度の都落ち(ただのりのみやこおち)」の現代語訳です。
「こそあらめ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の未然形+助動詞「む」の已然形です。「こそあれ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の已然形です。どちらも、多くは「逆接構文」をつくるので、基本的には「~けれど」という逆接のかたちで訳しましょう。
『平家物語』より、「能登殿の最期」です。
「おきつ」の「おき」は、「置く」と同根と言われています。「これからしようとすることを心の中に置く」というイメージであり、実際、「おもひおきつ」「おぼしおきつ」のかたちで使われることが多いです。
『大鏡』より、「行成の器量」「行成とこま」の現代語訳です。 「行成」は「藤原行成」のことです。能書家の達人として、小野道風・藤原佐理・藤原行成を「三蹟(三跡)」といいます。 空海・嵯峨天皇・橘逸勢の「三筆」っていうのも日本史で出てきたね。
『枕草子』の一節です。ポイントは、形容動詞「いみじげなり」、名詞「手」、格助詞「にて」です。
『枕草子』の一節です。ポイントは、格助詞(同格)「の」、動詞「たてまつる」、助動詞「む」、助動詞「けり」、接続助詞「ば」です。
『枕草子』の一節です。ポイントは、接頭語「御」、名詞「はて」、名詞「服」です。
『枕草子』より「円融院の御果ての年」の現代語訳です。
教科書を読解する入試のための学習としておすすめの方法論は、「教科書を完璧にすること」です。授業で品詞分解をしたりして、けっこう精密にやっていると思うよ。学校の授業では、教科書の作品をいくつかピックアップして扱いますよね。時間の都合で仕方がな
意味① (事物・物事・自然などの)ようす・情景・兆候② (人の)表情・態度・機嫌③ 少しばかり・ほんの少し④ 事情・わけポイント漢語「気色」の呉音読みがそのまま定着しました。「色」ということが示すように、主に「視覚で認識したようす」を意味し
「気(け)」+「這ひ(はひ)」だと考えられています。つまり、「気」が、じわーっと漂っているイメージですね。類義語の「気色(けしき)」が、「目に見えるものの様子」を示すことに対して、「けはひ」は、「聴覚」や、「第六感」みたいなもので感じ取れることを示します。そのことから、「物音」「雰囲気」「(漠然とした)ようす」などと訳します。
『建礼門院右京大夫集』の一節です。ポイントは、名詞「けしき」、連語「ありし」、助動詞「ず」です。
「いかに」に「て」がついて「いかにて」となったものが、やがて「いかで」につまったものと考えられています。「いかに」が、状態・性質・方法・原因などを広く問うものであるのに対して、「いかで」は、手段や原因を問うものであり、やや限定的な使い方であると言えます。
『宇津保物語』の一節です。ポイントは、助動詞「む」、終助詞「にしがな」です。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、副詞「手づから」、副詞「はた」、副詞「え」、助動詞「ず」、助動詞「なり」、接続助詞「ば」です。
「なり」の識別です。
「なむ」の識別です。
「なむ」の識別です。
『源氏物語』の一節です。ポイントは、格助詞「の」、副詞「やがて」、動詞「とまる」、終助詞「なむ」です。
「真実(まめ)」「真目(まめ)」ということばから来ている説があります。もともとの性質が「まじめ」であるというのが根本的な意味ですが、表面的な態度について使用することもあります。「物品」について用いている場合には、「実用的」と訳しておきましょう。
助動詞「つ」に、願望を示す終助詞「しか」がついて、さらに、詠嘆を示す終助詞「な」がついたものだと言われています。単純な希望(願望)というよりは、実現が困難なことや、普通に考えると不可能なことについて、「~したいものだなあ」と望む場合に用いられます。ベースとなっている終助詞「しか」だけで「願望(希望)」を示すのですが、「しか」は、過去の助動詞「き」の連体形「し」に、疑問や感動(詠嘆)を表す「か」がついたという説があります。
『枕草子』の一節です。ポイントは、副詞「いかで」、助動詞「けり」、動詞「見ゆ」、連語「にしがな」、動詞「おぼゆ」です。
ラ変動詞「あり」に、推量の助動詞「む」が接続詞、「あらむ」となったものから、「あ」が欠落して「らむ」となり、一語の助動詞として認識されていったものだと考えられています。「む」が主に「未来」を推量するものであるのに対して、「現在」を推量するものが「らむ」であり、「過去」を推量するものが「けむ」です。
『徒然草』の一説です。ポイントは、感動詞「あな」、副詞「などか」、助動詞「けん」、連語「なむ」です。