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  • 歴史紀行 地域版 76 開拓神社 〜北海道札幌市

    開拓神社北海道札幌市中央区宮ヶ丘円山公園北海道神宮境内北海道神宮の摂社、開拓神社の建立は比較的新しく、北海道開拓から70周年を迎えた昭和13年に北海道庁長官石黒英彦が記念事業として斎殿を建立したのが始りでした。その後、北海道開拓において、特に偉大な業績を果たした37柱を御祭神として祀るべく、北海道神宮の境内に鳥居、拝殿を新設しました。祀られている37柱1.武田信広若狭国(現、福井県)から北海道に渡り、松前氏の始祖となる。2.松前慶広豊臣秀吉、前田利家、徳川家康らと交流を深め、松前藩を興した初代藩主。3.佐藤信景蝦夷地の開発にあたり、水稲の成果をあげた。4.村山伝兵衛北洋漁業の漁場開拓者。5.松田伝十郎択捉島、樺太島の探検調査。6、本多利明蝦夷地開拓、海運振興の必要性を幕府に建白。7、伊能忠敬東蝦夷地海岸線...歴史紀行地域版76開拓神社〜北海道札幌市

  • 歴史紀行 地域版 75 旧開拓使麦酒醸造所 〜北海道札幌市

    旧開拓使麦酒醸造所北海道札幌市東区北2条東4丁目サッポロファクトリーレンガ館サッポロビール。ぼくが小学生の頃、初めての校外学習で、社会科の見学授業で工場見学したのがサッポロビールでした。当時は飲料メーカーはビンが主流で、飲料が充填されたビンが高速でレールから流れて来る工程を観た時は驚いたものです。ビール工場の見学の最後は、別棟で製造されている炭酸ジュース【リボンナポリン】を貰えて、美味しく飲んだ思い出があります。開拓使麦酒醸造所は、明治初期に開拓使設置に伴い、札幌に設けられた官営工場の一つです。札幌農学校初代教頭として招聘されたウイリアム・スミス・クラークに代表される御雇い外国人枠で来道した鉱山技師のトーマス・アンチセルが道内の視察中に、群生している野生のホップ岩内内町で発見したことから、北海道でのビール...歴史紀行地域版75旧開拓使麦酒醸造所〜北海道札幌市

  • 思い出フォト 40 2018年 9月

    5年前の9月初旬は遠州巡り。菊川市の黒田代官屋敷加茂地区約二万石、嶺田地区約三万石の石高がありました。明治時代になり、最初の県知事はこの菊川市から出ました。横須賀町番所掛川市の南に位置する遠州横須賀は城下町で、古い街並みが今も残ります。続いてお隣、袋井市先日も訪問した常林寺ベトナムとの友好の架け橋となった浅羽佐喜太郎公記念碑思い出フォト402018年9月

  • 思い出フォト 39 2017年 9月

    浜松市のゆるキャラ家康くんと直虎ちゃん2017年9月、浜松市内を巡りました。浜松城犀ヶ崖1572年元亀3年、武田信玄に三方ヶ原の戦いで大敗した徳川家康ですが、その夜、浜松城下に野営した武田軍に夜襲を仕掛け、一矢報いたのが犀ヶ崖です。本多肥後忠真の碑三方ヶ原の戦いで討死した平八郎忠勝の叔父夏目吉信の碑夏目吉信は家康を助けるため、家康の鎧を身に着け、名乗りを挙げ、身代わりとなり討死しました。秋葉神社井伊の赤備え発祥の地武田滅亡後、武田旧臣を召し抱えた家康は、その大半を若武者井伊直政に託しました。武田旧臣は新参者、同じく新参者から家康の近臣に成長した直政に武田の赤備えの猛者を与えました。思い出フォト392017年9月

  • 現代語訳 昭和天皇 実記 3 万歳

    3万歳1901年、明治34年5月5日、日曜日。午前8時半。皇太子殿下(後の大正天皇)、東宮御所に環啓される。午前9時半。賢所、皇霊殿、神殿において、御命名の祭典が行なわれる。明治天皇御代拝を侍従日根野要吉郎、皇后御代拝を権掌侍小池道子、皇太子御代拝を東宮侍従大迫貞武、皇太子妃御代拝を東宮主事中田直慈がそれぞれ奉仕し、玉串を奉(たてまつ)る。御名御称号書は宸筆にて、それぞれ大高檀紙に記され、三つ折りにされて#柳筥(やないばこ)に納められる。午前10時。侍従長徳大寺実則は勅使としてこれを奉じ東宮御所に参上する。侍従長徳大寺実則は、内謁見所において皇太子に御名御称号書を御覧に入れた後、親王の居間に進み親王に奉呈された。東宮大夫中山孝麿はこれを受け、案上に奉る。午前10時半。皇太子、皇太子妃及び親王は、御命名の御...現代語訳昭和天皇実記3万歳

  • 街道紀行 4 東海道 小夜の中山

    街道紀行4東海道小夜の中山小夜の中山~静岡県掛川市佐夜鹿~小夜の中山は、東海道の金谷宿と日坂宿の間の峠道のことで、古くから、箱根峠や鈴鹿峠と共に、東海道の三大難所として知られ、また長い傾斜の続く約1里(約4キロ)の道のりは、夜泣き石等の伝説、歌人の旅での歌枕として古今集や勅選集などで歌われ、鎌倉時代初期に西行法師が詠み新古今和歌集に入れられました。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」この歌は、西行が源平合戦の折り、平重衡の兵火により灰塵に帰した東大寺再建のために東国へ砂金勧進の旅路で読んだ歌碑などがあり、また、江戸時代の俳聖~松尾芭蕉も奥州に赴く過程で、【道のべの木槿(むくげ)は馬にはくはわけり】~現代釈~道端に咲いたムクゲの花が馬にパクリと食われてしまったよ~と野ざらし紀行で素朴な句を...街道紀行4東海道小夜の中山

  • 街道紀行 3 甲州街道 内藤新宿

    甲州街道内藤新宿記念碑東京都新宿区新宿御苑角江戸幕府が東海道や中山道など、日光、奥州、甲州と、五街道整備を本格化させたのは、江戸幕府初代将軍の徳川家康の命によるものです。江戸から甲府へと抜ける甲州街道は、徳川家康が征夷大将軍となった翌年の1604年慶長9年に本格的に整備が始まり、江戸城が外敵に襲われ、落城の危機に瀕した際は、搦手に位置する半蔵門から将軍を脱出させ、甲州街道を抜けて親藩大名の治める甲府城へと落ち延びる役割を持つ街道としての機能をもたせるべく整備されました。甲州街道は、東海道や中山道と同じく、1里【約4キロ】ごとに目印と休息を兼ねた一里塚が設けられるはずでした。ところが、甲州街道は、最初の宿場町が日本橋を基点とした位置から、4里(約16キロ)も離れた高井戸に設置され、人馬の提供を義務付けられて...街道紀行3甲州街道内藤新宿

  • 街道紀行 2 東海道 品川宿

    東海道品川宿本陣跡東海道品川宿東京都品川区東海道は、1601年、慶長六年、関ヶ原の戦いに勝利して事実上の天下人となった徳川家康が五街道〜東海道、中山道、甲州街道(甲州道中)、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、の各街道の本格的な発足に先がけて整備を命じ、江戸、日本橋から京、三条大橋【現在の東京都中央区日本橋〜京都市東山区】まで、五十三の宿場町(五十三次)、現在の距離にして約490キロありました。東京都心では国道1号、15号(第1京浜)の多くの部分が旧東海道と並走する格好となります。品川宿本陣跡品川区北品川2丁目品川区立聖蹟公園品川宿は起点となる日本橋から最初の宿場町で、旅人の見送りと出迎えの双方の人々が集う江戸の玄関口として大いに賑わいました。北品川商店街現在の京急北品川駅から青物横丁駅界隈がかつ...街道紀行2東海道品川宿

  • 現代語訳 昭和天皇 実記 2 御命名

    現代語訳昭和天皇実記2御命名1901年、明治34年5月5日、日曜日。親王様の御誕生第七日につき、御命名式が執り行われ、明治天皇より御名を裕仁(ひろひと)、御称号を迪宮(みちのみや)と賜り、宮内大臣をもって官報に告示された。御名および御称号は、明治天皇が親王様御誕生の翌日、明治34年4月30日に侍従長徳大寺実則を介し文事秘書官長細川潤次郎に撰申を御下命される。5月1日、文事秘書官股野琢より、御名の候補として、裕仁(ひろひと)雍仁(やすひと)穆仁(あつひと)の三号と、御称号の候補として、迪宮(みちのみや)謙宮(かねのみや)の二号の勘申がなされ、徳大寺実則侍従長の上奏により御選定になる。裕仁の裕は、#易経に【益徳之裕也】、#詩経に【此令兄弟綽々有裕】、#書経に【好問則裕自用則小】、#礼記に【寛裕者仁之作也】、と...現代語訳昭和天皇実記2御命名

  • 思い出フォト 38 2016年 9月 2

    2016年9月東京訪問再来年、創建400年を迎える東叡山寛永寺寛永寺徳川綱吉公霊廟勅使門上野東照宮金色殿勝海舟邸跡勝安房(海舟)邸跡勝海舟、坂本龍馬師弟像思い出フォト382016年9月2

  • 平日の誤算

    墓参も済み帰宅の途へ。先日の死亡ビル建設に伴う作業員死亡事故現場が見える東京駅八重洲口高速バスに乗ったのが16時ちょうど。今日の東名は事故、足柄付近の工事で渋滞が重なり、東名掛川バス停に着いたのが22時前…。土日祝日じゃないから、大丈夫かと思いましたが、後のまつり。新幹線にしておけば…と過ぎりました。平日の誤算

  • 墓参

    有給休暇を取り東京へ。あいにくの雨天ですが日帰りの墓参です。墓参

  • 日本、ベトナム外交樹立50周年

    本日、9月21日は日本とベトナムの外交関係樹立50周年を迎えました。これを記念して秋篠宮殿下ご夫妻がベトナムを訪問され、記念式典に参加されます。日本、ベトナム外交樹立50周年

  • 歴史紀行 地域版 74 北一硝子 〜北海道小樽市

    北一硝子(三号館)北海道小樽市堺町北一硝子(本社)北海道小樽市花園町江戸時代から明治にかけて、もっとも北海道で繁栄した町は小樽です。かつて、その繁栄に沸いた小樽の街は、産業も経済も他の街、とりわけ札幌に奪われてしまい、いつしか斜陽の街と呼ばれるようになりました。ただ、小樽市は観光に活路を見出し、自慢の海産物に最近ではチーズケーキといったスイーツやあんかけ焼きそばといったB級グルメと様々な食に彩られ、また、多くの観光客を魅了するのが美しいガラス細工です。その小樽繁栄のルーツは、ニシン漁でした。ニシンは食用としてだけでなく、田畑の肥料として日本中で需要が続き、群来【くき】と呼ばれる早春のニシンの産卵期には小樽の海が白く染まり、網を上げた浜は銀色に輝いていました。明治時代になると北海道開拓が本格的に始まり、多く...歴史紀行地域版74北一硝子〜北海道小樽市

  • 歴史紀行 地域版 73 - 3 伊成神社 3 〜静岡県菊川市

    伊成神社静岡県菊川市加茂天正9年(1581年)、領主より水路工事の許可を得た三浦刑部父子は潮海寺村の菊川上流より堰の工事に着工し、潮海寺、本所、半済の三つの村を縫う様に行なわれ、13年の歳月を経た文禄3年(1594年)、ようやく宿願かなって完成を見ました。この間に父の刑部はすでに病没し、完成の喜びを味わうこともなく亡くなってしまいました。水路は三浦刑部の遺児である浅右衛門と勘右衛門の兄弟が力を合わせ、ついに加茂村まで水路を引くことに漕ぎ着けたのでした。加茂村にはこんな言い伝えがありました。【嫁にやるなら加茂へはおよし、加茂は雲雀(ひばり)の遊びどこ】広い土地がありながらも、水利が悪く、荒地で作付けすらままならない、雲雀が遊ぶような土地の加茂村に嫁には出すな。他村から、ここまで言われていた加茂村も、三浦刑部...歴史紀行地域版73-3伊成神社3〜静岡県菊川市

  • 歴史紀行 地域版 73 - 2 伊成神社 〜静岡県菊川市

    伊成神社静岡県菊川市加茂菊川、西方川、牛渕川と、河川に恵まれながら痩せた土地の加茂村、その理由は、流れてる川床が低いため、田畑に充分な水を引けないことでした。そこで三浦刑部は、菊川の上流にあたる潮海寺村(現在の菊川市潮海寺)から水を引けないかと思いつきます。菊川から堰を設置して水路を掘り、加茂村まで水を引くには、途中の本所村、半済村を通る必要がありました。当時の水利権は現代よりも重要視され、戦の原因ともなることがあり、土地によっては領主などは作物に欠かせない水の確保には、見張りを置くなどました。これらの村々は村ごとに領主が違うため、三浦刑部は狂人を装うなどして村々をふらふら歩き回ったり、凧を揚げて糸を切って追いかけたりして測量を重ねました。時代は天正時代となり、この地を巡る戦いは熾烈を極め、今川、武田、徳...歴史紀行地域版73-2伊成神社〜静岡県菊川市

  • 歴史紀行 地域版 73 伊成神社 〜静岡県菊川市

    伊成神社〜三浦刑部父子、悲願の開拓静岡県菊川市加茂桶狭間古戦場伝説地愛知県豊明市〜桶狭間の戦い〜1560年、永禄3年5月19日、尾張へ攻め込んだ駿河の大名、今川義元を織田信長が乾坤一擲の戦いを挑み、大将義元を討ち取り勝利した戦いです。この戦いで織田信長は飛躍を遂げ、主君、今川義元を失った今川氏は没落の道を進み、当時人質の身だった徳川家康は再起を誓い独立を果たします。大名級の家がこの戦いの結果、それぞれ運命を変えた様に、仕えた家臣達にも大きな影響を与えました。今川義元に仕えていた武将、三浦刑部は桶狭間の戦いに敗れた後に帰参をせずに里に潜みました。やがて武士はやめて百姓になろうと決意し、二人の息子と方々と歩いて加茂村(現在の菊川市加茂地区)に住み着きます。現在の静岡県菊川市は茶の栽培が盛んなお茶の街として知ら...歴史紀行地域版73伊成神社〜静岡県菊川市

  • 現代語訳 昭和天皇 実記 1 御誕生 1901年 明治34年4月29日

    皇居1901年、明治34年4月29日、月曜日。東京都港区元赤坂の東宮御所(旧東京市赤坂区青山、青山御所)御産所において、午後10時10分、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の第一男子として御誕生になる。4月29日午前より、嘉仁皇太子妃節子様、御出産の徴候が見られ、東宮拝診医の診察をお受けになり、御産所にお入りになられる。午後10時10分、御降誕あそばされ、御身長51センチメートル。御体重3000グラム。宮内大臣田中光顕は急ぎ伺候、参殿するも、皇太子妃節子様、御安産により間に合わず。東宮大夫中山孝麿は急ぎ参内し、明治天皇、皇居に親王御誕生を奏上する。嘉仁皇太子は神奈川県の葉山御用邸滞在中に電報により御誕生の報を受けられ、東宮御内儀監督、万里小路幸子を遣わして守刀を賜わう。嘉仁皇太子第一男子の御誕生は、大日本帝国...現代語訳昭和天皇実記1御誕生1901年明治34年4月29日

  • 歴史 今日の出来事 慶長5年9月15日 午後、関ヶ原の戦い 東軍大勝

    山内一豊と千代山内一豊が徳川家康を饗応した久遠寺慶長5年9月15日、辰の刻(午前8時頃)、濃霧の晴れ間に東軍の井伊直政、松平忠吉が西軍に鉄砲を撃ちかけて始まった総勢10万を超える関ヶ原の戦いは、西軍が押し気味に進めるも、大軍勢を率いて松尾山に布陣した小早川秀秋の裏切り、形勢が一気に東軍優勢となり、申の刻(午後2時頃)には、西軍の主だった諸将が逃亡を計り決しました。掛川城東軍、徳川家康に味方した掛川城主、山内一豊は約二千の軍勢で徳川家康の本陣後方、南宮山の毛利勢に備えましたが、主だった戦功も無く戦いを終えました。戦後の論功行賞で徳川家康は、小山評定で集まった豊臣恩顧の諸将らを前に、掛川城を明け渡す発言で口火を切り、山内一豊を高く評価し、土佐一国を与えました。豊臣古参ながら小大名に甘んじ、秀吉の晩年には、甥の...歴史今日の出来事慶長5年9月15日午後、関ヶ原の戦い東軍大勝

  • 歴史 今日の出来事 慶長5年9月15日 関ヶ原の戦い

    今から約420年前の慶長5年9月15日(1600年10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の両軍合わせて10万以上の軍勢が、南北約4キロ、東西約2キロの美濃国(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)の盆地、関ヶ原で激突しました。主な流れ~徳川家康と石田三成の対立の最終局面である関ヶ原の戦いは、徳川家康が会津の上杉征伐を大義名分に、上方を留守にした隙を突いて蟄居の状態にあった石田三成が挙兵を決意、これにより引き返せない事態となります。家康は福島正則、細川忠興、黒田長政ら、石田三成とは反目する豊臣恩顧の大名らを従えて下野国の小山(現在の栃木県小山市)まで下りました。石田三成は毛利輝元を旗頭に据えて親友の大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘といった西国の大名を中心に味方引き入れて挙兵、徳川家康の政務の城...歴史今日の出来事慶長5年9月15日関ヶ原の戦い

  • 思い出フォト 37 2016年 9月 1

    武田信玄公像甲府駅南口2016年9月。最初の週末は甲府市巡りでした。円光院武田信玄公正室三条夫人菩提寺三条夫人墓所武田信玄公の墓河尻塚天正10年(1582年)武田滅亡後に甲斐支配に入ったのは織田信長の家臣、河尻秀隆でした。信長の威光を笠に、河尻の余りの暴政に耐え忍んできた甲斐の民でしたが、本能寺の変で信長が倒れると、遂に民の怒りが爆発し、あえなく殺されました。思い出フォト372016年9月1

  • 歴史 今日の出来事 1912年 大正元年9月13日 乃木希典 殉死

    乃木希典大将と辻占売(つじうらうり)少年の像東京都港区赤坂8丁目旧乃木邸跡大正元年9月13日乃木希典殉死明治時代とは、維新以降に士族が起こした萩、秋月、神風連、西南といった内乱に加え、日清~日露と、2度の国外戦争を日本人が近代化と引き換えに体験した時代でした。1912年明治45年7月29日、明治天皇が崩御され、元号が大正となり、新しい時代を迎えました。二月近くたった大正元年、9月13日、明治天皇大喪の礼当日に日露戦争で陸軍第三軍を率いた乃木希典大将が静子夫人と共に殉死しました。大正時代の到来は、日露戦争で多くの戦死者を出しながらも戦局を左右する旅順要塞攻略戦で二◯三高地を奪取した陸軍大将の殉死により迎えました。乃木大将と辻占売少年像今に伝えられる「乃木大将と辻占売りの少年」の逸話は、明治二十四年、乃木希典...歴史今日の出来事1912年大正元年9月13日乃木希典殉死

  • 歴史紀行 71 - 2 大蔵幕府跡 2

    鶴岡八幡宮背後の山と谷〜御谷(おやつ)の東麓に位置する大倉郷地区は、かつて弥生時代から集落が存在した地域で、ある程度の平地が残されていたことから頼朝が御所を置くことに決めました。大蔵の御所に入った頼朝は、政務を司る公文所〜(後の政所)や、問注所(現在でいう裁判所)などを置き、初期の武家政権としての第一歩をはじめました。大蔵の御所は頼朝が武家政権の頂点となる征夷大将軍として幕府を担って以降もこの地に置かれ、二代将軍頼家、三代将軍実朝、そして尼将軍となって繋ぎの大役を果たした北条政子が生涯を終えるまで置かれました。建暦3年(1213年)、幕府執権の北条義時と御家人和田義盛とその一族が争った和田合戦では、和田一族が攻め寄せ、将軍源実朝が避難して焼亡の危機となりました。嘉禄元年(1225年)に北条政子が亡くなると...歴史紀行71-2大蔵幕府跡2

  • 歴史紀行 71 大蔵幕府跡

    大蔵幕府跡神奈川県鎌倉市雪ノ下清泉小学校前治承四年(1180年)10月6日、石橋山の戦いで敗れ、海路安房国(現在の千葉県南部)へ逃れた源頼朝は、安房の在地豪族、安西景益を召し、さらに上総、下総で、関東最大の兵力を誇る千葉常胤、上総広常を従えた源頼朝は、総勢2万を超える大軍勢を率いて鎌倉入りしました。大蔵幕府跡は、頼朝が鎌倉入りして最初に御所を構えた大倉と呼ばれた地で、造営の奉行には、石橋山の戦いで頼朝と戦った大庭景親の兄、大庭景義が務めました。2に続きます。歴史紀行71大蔵幕府跡

  • 歴史紀行 70 源 頼朝 公像

    源頼朝公像神奈川県鎌倉市扇ガ谷源氏山公園自らの都、鎌倉を見下ろす様に座る頼朝公像。愛妻、北条政子が眠る寿福寺、鎌倉唯一の尼寺、英勝寺が麓に位置する源氏山は、かつて八幡太郎源義家が、後三年の戦いで奥州へ出陣する際、山頂に源氏の象徴である白旗を戦勝祈願を込めて掲げたことから、白旗山とも呼ばれました。治承四年(1180年)8月28日、石橋山の戦いに敗れ、箱根山中を潜伏しながら辛くも逃れた頼朝は、真鶴岬から海路、安房国(現在の千葉県南部)に渡り、下総国(千葉県北部)の千葉常胤、上総国(千葉県中部)の上総広常といった豪族達を味方につけることに成功し、その軍勢は2万以上の大軍となって膨れ上がりました。この大勢力となって武蔵国(現在の東京都、埼玉県)に入った頼朝軍に坂東武者の多くが参陣、緒戦で平家方についた畠山重忠も頼...歴史紀行70源頼朝公像

  • 静岡物語 3 江川英龍、韮山反射炉を建設

    世界遺産韮山反射炉静岡県伊豆の国市中字鳴滝入江戸時代鎖国を続け、泰平の世を謳歌していた日本ですが、1853年嘉永6年ペリー艦隊が浦賀に姿を現したことで、幕府もついに国防体制を強化せざる負えなくなりました。幕府は蘭学に精通し、鉄製大砲の鋳造、生産、西洋砲術の訓練、西洋式の築城術を導入した台場を設置しての防衛対策の必要性を問いた幕臣で韮山代官の江川太郎左衛門英龍の建議を受け入れ、鉄を精製する反射炉の建設を命じました。江川英龍は黒船来航前から反射炉の研究を進めていて、幕命を受け、直ちに建設に取り掛かりました。反射炉は、高さ約15.7mの煉瓦積みの特徴的な連双煙突を持った溶解炉です。構造的には、燃焼室と溶解室からなる炉本体と煙突からなり、石炭や木炭などの燃料をロストル部分で、千度を超す温度で燃焼ドーム状の天井に熱...静岡物語3江川英龍、韮山反射炉を建設

  • 静岡物語 2 江川英龍、品川台場建設を指揮

    品川御台場(第三台場跡)東京都港区台場1-101853年嘉永6年6月3日、ペリーの来航により、江戸幕府は外圧により泰平の世の眠りを覚まされました。ペリーは脅しの様な開国の要求を残して翌年の来航を予告して去りました。この事態に慌てた幕府は、以前から海防について意見を出していた伊豆国韮山代官の江川太郎左衛門英龍を召し出し、江戸湾内の防衛対策に当たらせます。江川英龍は、江戸湾内を巡視し、品川から対岸の有明にかけて入り江にあたる部分に砲台を設置する御台場の築造を計画します。第三台場第三台場火薬庫跡第三台場砲台跡第六台場西洋砲術と西洋の築城術を独自に学んでいた江川太郎左衛門英龍は、入り江から侵入してくる艦船に砲撃を加えて江戸市中を守るというもので、この案は直ちに採用され、嘉永6年8月、江川英龍の指揮により、11基も...静岡物語2江川英龍、品川台場建設を指揮

  • 静岡物語 1 韮山の世直し大明神 江川太郎左衛門英龍

    江川太郎左衛門英龍像静岡県伊豆の国市中史跡韮山反射炉韮山反射炉の生みの親江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は、1801年享和元年幕臣伊豆国韮山代官、江川太郎左衛門英毅の二男として生まれました。英龍の生まれた江川家は代々韮山代官を務める家柄で、英龍は13歳で韮山代官江戸役所の見習いとなり、父、英毅の飢饉で疲弊する農民達のために奔走する背中を見て育ちました。兄の病没があり、江川家を継ぐ立場になった英龍は、父がそうであった様に代官を務める傍らで倹約を徹底し、村々を巡回して困窮で窮まった農民には、長低金利で貸し付けを行って金融面でも救済に奔走しました。そんな英龍の管轄地の民衆は、いつしか~世直し江川大明神~と称えるようになりました。韮山代官として農民から慕われる行政能力を発揮した英龍は、海防にも高い関心を持っていまし...静岡物語1韮山の世直し大明神江川太郎左衛門英龍

  • 静岡物語 プロローグ ペリー来航、幕末維新の世へ

    北米合衆国水師伯理提督上陸記念碑(ペリー提督上陸記念碑)神奈川県横須賀市久里浜ペリー公園ペリー提督像神奈川県横須賀市久里浜ペリー公園1603年徳川家康による江戸幕府開府以来、泰平の世にあった日本ですが、250年後の1853年嘉永6年6月3日、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官、マシュー・カルブレイス・ペリー提督の率いる蒸気軍艦サスケハナ号を旗艦とした4隻からなる船隊が浦賀沖に現れました。浦賀奉行の戸田氏栄は、旗艦サスケハナにまず、与力の中島三郎助を派遣し、ペリー提督の来航が開国の要求を記したアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を将軍徳川家慶に渡すことが目的であることを知ります。ペリーは、応対した幕府役人の地位が低過ぎるとして親書を渡すことを拒否、船隊が浦賀沖に停泊したまま、こうしたやり取りで時間が経過する...静岡物語プロローグペリー来航、幕末維新の世へ

  • 歴史紀行 特別編 37 - 3 日越外交樹立50周年〜浅羽佐喜太郎公記念碑

    浅羽佐喜太郎公記念碑静岡県袋井市梅山常林寺浅羽佐喜太郎公記念碑~現代釈~我らは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今に類なき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海を見つめて、我らの気持ちを、どの様に、誰に、訴えたらいいのか。此処にその情を石に刻む。浅羽佐喜太郎公碑~原文豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。— 大正七年三月、越南光復会説明板天皇皇后両陛下行幸啓記念碑浅羽佐喜太郎ファン・ボイ・チャウファン・ボイ・チャウのその後…帰国後、清国上海で政治運動を続けますが、フランス官憲に逮捕され、終身刑の判決を受けるも、ベトナム民衆の猛反発...歴史紀行特別編37-3日越外交樹立50周年〜浅羽佐喜太郎公記念碑

  • 歴史紀行 地域版 37 - 2 日越外交関係樹立50周年〜浅羽佐喜太郎公記念碑

    浅羽佐喜太郎公記念碑静岡県袋井市梅山常林寺【浅羽佐喜太郎の支援と日本退去】借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志のグエン・フォン・ディを助けたばかりでなく、東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないとグエン・フォン・ディに相談をします。グエンの件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、グエンに書状を託します。しかし、公のこれまでの厚志に何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。なんと朝持たせた手紙の返事が夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金が出てきました。(この1700円という...歴史紀行地域版37-2日越外交関係樹立50周年〜浅羽佐喜太郎公記念碑

  • 歴史紀行 特別編 37 日越外交樹立50周年〜浅羽佐喜太郎 記念碑

    浅羽佐喜太郎公記念碑天皇皇后両陛下行幸啓記念碑浅羽佐喜太郎公記念碑、天皇皇后両陛下行幸啓記念碑静岡県袋井市梅山常林寺今月、日本とベトナムは、外交関係樹立50周年の節目を迎えます。個人的に、ぼくの職場には、数十人のベトナム人実習生が毎年来日し、技術の習得、語学勉強と、一生懸命頑張る姿がとても印象的で、こうした彼等の直向き(ひたむき)な姿を見ていると、彼らの成功を応援したくなります。上皇、上皇后両陛下は、御譲位される前、最後のご旅行先として静岡県を選ばれ、浜松市、袋井市、掛川市と、県西部のいくつかをご訪問なされ、東京へお戻りになられました。そのうち、2018年当時、記念碑建立100周年を迎えた浅羽佐喜太郎公記念碑のある袋井市の常林寺を御訪問なされました。日本とベトナムの友好の関わりは、一人の医者とベトナムの独...歴史紀行特別編37日越外交樹立50周年〜浅羽佐喜太郎記念碑

  • 現代語訳 徳川実紀 52 清洲同盟 3

    清洲同盟3元康君が尾張へいらっしゃることとなり、信長は道中の橋梁に修理を加え、道を整備されたりと、色々準備をされた。元康君が清洲城へお渡りの際、その御行列を拝見しようと、尾張の者などが城門の辺りに群がって騒々しかった。このとき、本多平八郎忠勝は、年わずか十四歳で供奉していた。元康君の御馬前に御長刀を持って供奉しながら、〜三河の太守、松平蔵人佐元康が両国のよしみを結ぶためにいらっしゃったというに、お前たちは作用に無礼な挙動をするのか!〜と大音声で罵ると、皆その威勢に恐れをなして大人しくなった。城下の騒ぎを聞きつけ、織田家の御家人と仲介の水野信元が先導して清洲城に入ると、信長が二の丸まで迎えに出ていた。植村新六郎家政が御刀を掲げて元康君の後ろに随っていたのを、信長の御家人がとがめて、〜何者がここまで入ってきた...現代語訳徳川実紀52清洲同盟3

  • 現代語訳 徳川実紀 51 清洲同盟 2

    清洲同盟2伯父の刈谷城主、水野信元が尾張から信長の使者として滝川左近将監一益を伴って来た。石川弥七郎数正のもとに和議のことを申し入れてきたので、数正は岡崎の老臣たちを呼んで、このことをどう進めれぱ良いか話あった。酒井左衛門尉忠次は、〜只今の当家の権勢をもっても、直ぐ様、織田。今川。両家の間に自立するのは難しいでしょう。〜元康君の前でも、忌憚なく意見を申し上げる家の風土が岡崎にはあった。当主、元康君が頼りない、侮りなどではなく、土着の三河譜代とは、古くからこうしたもの言いで、良く言えば主君と家臣との間の風通しの良さが戦場でも強さを発揮してきた。忠次は続ける。〜今川氏真は、我らが必死で織田が雪崩れ込むのを防ぐも、父上、亡き義元殿の仇すら討つ志しなく酒宴に耽る有り様。かたや信長は心願の桶狭間が成ると、次は義父の...現代語訳徳川実紀51清洲同盟2

  • 歴史紀行 特別編 36 関東大震災慰霊碑

    関東大震災慰霊碑東京都港区台場1丁目本日は2023年9月1日です。今から100年前の1923年、大正12年9月1日、午前11時58分に相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大な地震が発生しました。関東大震災です。震源域の神奈川県はもちろん、首都東京から関東全域、甲信地方の山梨県に至るまで震度6。この地震の揺れを示す震度は、北海道道南地方から中国、四国地方にまで観測し、規模の大きさを知らしめる結果となりました。また、発生が昼食の時間と重なったことが災いし、地震直後から多くの家屋から火災が起こり、大規模な延焼火災に拡大しました。強風の影響から火災旋風が発生、推定の死者、行方不明者は、10万5千人にも及び、特に焼死者を多く出した災害となりました。東京、台場にある慰霊碑は、関東大震災と東京大空襲の当時の惨状を...歴史紀行特別編36関東大震災慰霊碑

  • NEXT HISTORY PLACE 歴史紀行 特別編 36 関東大震災慰霊碑

    本日、2023年9月1日は、関東大震災から100年の節目の日となりました。後に記事をまとめ上げます。NEXTHISTORYPLACE歴史紀行特別編36関東大震災慰霊碑

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