第十一頌 行くという現実の行いの実在西嶋先生の訳行く人と行くという動きの両方が、行くという現実の行いにおける二つの要素としてしがみ付いているとしても、現に行くという現実の行いが実在している。行く人と行くという動き(という概念的な理解)が両方とも生まれていない場合には、行く人と行くという動きとが分裂する以前の現実的な実体として、行くという行いが事実として現実の世界の中に実在している。中論を勉強してい...
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第十一頌 行くという現実の行いの実在西嶋先生の訳行く人と行くという動きの両方が、行くという現実の行いにおける二つの要素としてしがみ付いているとしても、現に行くという現実の行いが実在している。行く人と行くという動き(という概念的な理解)が両方とも生まれていない場合には、行く人と行くという動きとが分裂する以前の現実的な実体として、行くという行いが事実として現実の世界の中に実在している。中論を勉強してい...
第十頌 行く人と行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行く人と行くという動きとのどちらか一方が行くという考え方は、両方とも拘り過ぎている。行くという現実の行いが現にないならば、行く人も行くという動きも行くという現実の行いも単なる願望に過ぎない。中論を勉強していますもしも「行く人」または「行くという動き」のどちらか一方が「行く」という行為であると考えるならば、「行く人」または「行くという動...
第九頌 行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きがほんの僅かでも行くということが、将来といえどもどうしてあり得よう。行くという動きは行くという現実の行いがない限り、この宇宙の中に現れて来ることが絶対にない。中論を勉強しています「行く」という動きを感じるのは認識である、その頭で考えた認識がほんの僅かでも「行く」という現実の行いをする事は将来といえどもどうしてあり得ようか。「行く...
第八頌 行く行かないという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きが行くのではないのと同じように、行かないという動きも当然行くということがない。行くという動きと違う動きが行かないという動きであって、(行くという動きと行かないという動きの他に)三番目のものが行くということも実際には決してあり得ない。中論を勉強しています「行く」という動きそのものと現実に行くという事実とは同じではない、そし...
第七頌 行為をする人と現実の行い西嶋先生の訳行くという行為をする人が視野に入っていない場合も、行いという現実の行いが現実の世界に姿を現して来ることが不可能である。行くという現実の行いに関連して、具体的に行為を行う人が現実的でないならば、将来といえども一切のものの存在する可能性がない。中論を勉強しています行くという行為をする人に対して我々が無視をしている場合、行くという現実の行いが現実の世界に姿を現...
第六頌 行くという動作と現実の行い西嶋先生の訳行くという動きを二つに分けることは拘りであり、行くという現実の行いを二つに分けることも執着である。何故ならば、もしも行くという動きが視野に入っていない場合には、行くという現実の行いがこの現実の世界に現れて来る可能性が断ち切られてしまっているのであるから。中論を勉強しています行くという動きを認識と動作の二つに分ける事は拘りである、行くという今現在の行いを...
第五頌 「行きつつある」という事実と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行きつつある」という事実と行くという現実の行いとのどちらかに拘わることが、行くという現実の行いに関する二つの問題点である。「行きつつある」という事実は、行くという現実の行いに包合されており、また行くという現実の行いは、やはり「行きつつある」という事実に包合されている。中論を勉強しています「行きつつある」と言う認識と「行く」と言う...
ブログに入ろう思って、ブロブIDそしてパスワードを入力したら、「認証用コードを入力」してくださいの画面。メールで認証用コードを送りますとの事、早速メールを開いて認証コードを小文字で入力するのだが「認証コードが一致しません」となる。どういう事だと思い質問のメールを送るのだが、相変わらず「認証コードが一致しません」となる。パニック、パニック。冷静に考えたらもう一つメールアドレスがある。試しに開けてみたら...
第四頌 現実の行いの実体西嶋先生の訳行くという現実の行いが、「行きつつある」という事実の中に含まれているという考え方は、行くという現実の行いと「行きつつある」という事実との両方について、考え方が拘り過ぎている。何故ならば、「行きつつある」という事実は、行くという動きを忘れた時に動き出すのであり、(そこで始めて)「行きつつある」という事実が具体化するのであるから。中論を勉強しています「行きつつある」...
第三頌 現実の行いの実状西嶋先生の訳「行きつつある」という事実の中で現に行くという現実の行いを実行している場合には、それを何らかの言葉で表現しようとしても、そのことは不可能である。「行きつつある」という事実か現実の行いかのどちらかが実在している場合には、その情景を言葉で表そうとしても、そのことは不可能である。中論を勉強しています「行きつつある」と言う認識の状況に応じて正に「行く」と言う現実の行いを...
第二頌 手足の動きと行きつつある事実西嶋先生の訳手足の動きが行くという動きである場合には、その手足の動きは常に「行きつつある」という(現在の瞬間における)事実の中にある。手足の動きが「行った」(という追憶)とか「まだ行っていない」(という想像)とかから抜け出している場合には、行くという動きは常に「行きつつある」という(現在の瞬間における)事実と同じである。中論を勉強しています手足が動く動作または行...
第一頌 行くことに関する追憶、想像、認識と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行った」(という追憶)が実際に行くことはないし、それと同じように「まだ行っていない」(という想像)が実際に行くということも決してない。「行った」(という追憶)とか「まだ行っていない」(という想像)とは別の「行きつつある」(という認識)も実際に行くということがない。中論を勉強しています「行った」という記憶は現実の行いの「行く...
第二章 「行った」、「まだ行っていない」に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です。 第二章では、仏教哲学の一つの基準である二種類の異なった哲学が、「行く」という極めて単純な現実の行いを例にとって、説明されている。 二種類の異なった哲学とは漢訳の言葉で表現するならば、真諦と俗諦との二つである。一般的にいうと俗諦の哲学は欧米の哲学の中では非常に発達し、われわれ人類はその恩恵を言葉では表現できない程大量...
第十四頌 結果と確かな事実(2)西嶋先生の訳したがって結果は確かな事実を破壊する力もなければ、確かな事実以外のものを破壊する力もない。結果は存在するものではないという考え方を否定した場合、確かな事実と不確かな事実とが混然一体となった現実の世界を、一体何処に発見することが出来るであろう。中論を勉強していますしたがって結果と云うものは実在しないので、結果によって確かな事実は否定されないし不確かな事実さ...
第十三頌 結果と確かな事実(1)西嶋先生の訳結果は確かな事実に障害を与えるけれども、さまざまの確かな事実は、さまざまの惨めな事物を破壊して行く。結果はさまざまの惨めな状態の中に包まれているものであるけれども、それが確かな事実を破壊するということが、どうしてあり得よう。中論を勉強しています結果が実在すると錯覚してしまうと確かな事実さえもゆがめてしまう、しかしたとえ結果によってゆがめられた様に見える様...
第十二頌 現実的な具体的なものの動きと結果西嶋先生の訳そこにおいては、現実的なそしてまた正に具体的なものが、その具体的なものに沿って、したがって確かな事実に従って前進している。たとえさまざまの確かな事実とは無関係な状況のなかにおいても、結果が実際の活動を始めるということは絶対にあり得ない。中論を勉強していますこの世の中においては、現実的であり具体的なものが具体的な性質を外れることなく存在し続けてい...
第十一頌 (結果の実在に対する否定)西嶋先生の訳個々ばらばらのものが一緒に集められているものやさまざまの確かな事実の中では、具体的な事実としての結果が実在しているということは決してあり得ない。そのような事実としての結果は、どのようなさまざまの確かな事実の中にも、絶対に存在し得ないのであるから、そのような結果はさまざまの確かな事実の中にも存在する可能性が全くない。中論を勉強しています個々ばらばらの状...
第十頌 (現実世界の実体)西嶋先生の訳さまざまの存在の中においては、あるいはさまざまの主観的な概念としての存在の段階においては、現実の実体そのものが現実の実体として認識されることがない。そのような状況の中では、この現実の世界が存在しているという考え自身が、決して現われて来るものではない。中論を勉強しています感覚器官で捉える様々の存在の中において、あるいは自分の頭で考え出した存在の中においても、現実...
第九頌 (現実の宇宙秩序と自己管理)西嶋先生の訳宇宙の秩序がまだ現われていない段階では、自分自身を規制する自己管理の能力も現われては来ない。間断のない心の働きが自己管理の状態によって縛られていない場合には、確かな事実も全く不明確である。中論を勉強しています行為が始まっていない状況は宇宙の秩序がまだ現われていない段階である、そして自分で自分の事をうまく乗りこなす自己管理と言う状態が現れて来ない状態で...
第八頌 (客観世界と現実的な宇宙の秩序)西嶋先生の訳客観的な世界とは違う世界がこの世の中である場合、現実の宇宙秩序が現われて来る。現に客観的な世界とは違う宇宙秩序の中にありながら、客観的な世界がもう一度改めて存在するということが、何処にあり得よう。中論を勉強しています感覚器官で捉える客観世界はこの世の中の一部ではあるがこの世の中そのものではない、その事に気付いた場合、現実のこの世の中の姿が見えてく...
第十九頌 現実世界の不可説性西嶋先生の訳何かが何処からともなく到来し、また何かが何処へともなく去って行く。したがって無限の過去からの存在が正に日常生活における浮き沈みである場合には、恐らく具体的な事物が実在するということでは決してないであろう。中論を勉強しています言葉では表現できない何かが何処からともなくやって来て、その言葉では表現できない何かがまた何処へともなく去って行く。もしも無限の過去からの...
第十八頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待西嶋先生の訳永遠でないものと永遠なものとが両方とも、現実の事実として存在する場合には、永遠なものもわれわれの希望通りに現われる訳ではなく、永遠でないものもわれわれの希望通りに現れて現われて来ない点では全く同じである。中論を勉強していますもしも永遠でないものも永遠なものも両方ともが、空想ではなく現実の事実として存在するとするならば、永遠な...
第十七頌 永遠と永遠でないものとの共存西嶋先生の訳天国もやはり一つの具体的な場所であるとすると、その一つの具体的な場所は、恐らく普通の人間社会と同じ社会であろう。永遠でないものと永遠なものとが両方とも存在していることが可能であり、この世の中は、決して拘わった状態のものではないであろう。中論を勉強していますもしも世間で言っている天国と言うものが具体的な場所として存在するならば、恐らくその様な具体的な...
第十六頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定西嶋先生の訳神とは違うものが人間らしさであるからこそ、永遠でないものという考えもあり得る。神とは違うものが人間らしさであるからこそ、宿命と呼ばれるものは起こり得ない。中論を勉強しています完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、我々の世界においては永遠でないものの存在を考える事が出来る。完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、...
第十五頌 神および永遠西嶋先生の訳現実の神が現実の人間的なものの中にある場合には、それに伴って永遠なものも存在する可能性がある。実際に見えて来ないものが神であるから、永遠は恐らく生まれて来るものではないのであろう。中論を勉強しています頭で考えてみると神の様なものが人間の行いの中にあるのかもしれない、また頭で考えてみると人間の行いの中に永遠なものが存在するのかもしれない。しかし神と云うものは見えたり...
第十四頌 旅行も現在の瞬間西嶋先生の訳旅行の途中にあって、まだ何処にも行き着いていないというふうに考える必要は決してなく、自分が何処かに行き着くであろうということは、自分で知ることができる。まだ目的地に到着していないということが現状であって、まだ目的地に着いていないということとまだ旅行中であるということとは、同じ事実の裏表である。中論を勉強していますもしも我々の人生の全てを旅行に例えるとするならば...
第十三頌 過去派と未来西嶋先生の訳ものの見方が完全に過去に帰属している人々は、未来は自分と無関係であると考えたり、未来こそ自分と密接な関係があると考える。(しかし)ある場合には未来と自分自身とが無関係であり、ある場合には未来と自分自身とが密接に関係しているということは、この世の中が整然とした形で、姿を見せていないことを意味している。中論を勉強していますものの見方の基準を常に過去にしている人々は、過...
第十二頌 未来の不存在西嶋先生の訳未来は決して現に存在するものではない。何故かというならば(もしも未来が既に実際に存在するとするならば)、其処においては悪徳でさせも既に固着してしまっている筈であるから。既に実行された行為が、仮にも霊魂と呼ばれるものに依存して存在するならば、この世の中に存在しているさまざまの事物も、正に理性に適合しないものになってしまう。中論を勉強しています未来というものは頭で考え...
第十一頌 現在の瞬間と現実の世界西嶋先生の訳行為における途切れ途切れの瞬間というものは、決して好ましくないものではなく、また行われた行為の結果とは違うものが、現在の瞬間における行いである。この世の中以外の状態を認識させたいと期待することは、その出発点から拘わりがあり過ぎる。中論を勉強しています途切れ途切れの刹那に行われる行為というものは決して好ましくないものではない。また行為の結果は頭で考えた内容...
第十頌 眼の前の世界が現実の世界西嶋先生の訳もしもこの世の中が、この眼の前の現状とは違ったものとして存在することがあり得るとするならば、この眼の前の現状を拒絶することも可能な筈である。しかし実情としては、正に現実が確立されているだけのことであって、そのような状態の中においては、生まれつつあるという状態と死滅という状態とは(現実と呼ばれる)一つのものであろう。中論を勉強していますもしも我々が住むこの...
第九頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳未来と呼ばれるものも過去と呼ばれるものも世俗と呼ばれるものも、現実の事実として現れるものではない。何故ならばそれらのものはまだ誕生しない以前から、何か別のものの発展として具体的に存在している訳ではないのであるから。中論を勉強しています我々は未来も過去も世俗的な道徳もこの世の中に実在していると思っているが、それらは頭で考えた言葉であり内容であって、いずれもが現...
第八頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳このように感受作用を離れて別個の事態がある訳ではないのと同じように、感受された内容と現実の事態とが、全く同じであるということも絶対にない。感受作用とは全く関係のない内容が、霊魂と呼ばれるものに依存して実在するということはないし、具体的なさまざまの事物が確かなものとして実在していないということも決してない。中論を勉強していますこの様に現在の瞬間の事態である感受...
第七頌 感受作用と霊魂西嶋先生の訳また別の例として、感受作用を離れて、霊魂が姿を現わすということも決してない。何故ならば、把握された内容が感覚的に受け入れた内容と違う場合には、その別の内容は決して理解することの出来るような内容ではないのであるから。中論を勉強していますまた別の例として同じ様な感受作用が他にあったとしても、だからと言って霊魂と呼ばれているものが新たに姿を現わすという事は決してない。何...
第六頌 感受された内容と霊魂西嶋先生の訳感受された内容と霊魂とは同じものでは絶対になく、具体的なものはその表面を覆う外面があると同時にその内容が全体に行き亘っているものである。何故ならば、感受された内容が名目的であるということがどうしてあり得よう。感受されたものは、将来に向かって存続し続けて行くのである。中論を勉強しています我々の感覚器官の働きによって得られる感受作用の内容と我々が考え想像する霊魂...
第五頌 霊魂の不存在西嶋先生の訳感受された内容が甚だ漠然としているということは、霊魂と呼ばれるものがこの世の中において実際に活躍しているということが、実在ではないということである。感受されたものも恐らく霊魂と呼ばれるものと似たものであり、霊魂と呼ばれるものも、やはり人々の思い込みであって実在ではない。中論を勉強しています感受作用による認識が甚だ漠然といているということは、いくら霊魂が存在していると...
第四頌 霊魂の実在に対する疑問西嶋先生の訳霊魂と呼ばれるものが、仮にも具体的なものとして(この世の中に)存在するとするならば、その感受される内容がもっとはっきりしたものになっている筈である。感受された内容が、甚だ取り留めのない漠然としたものであるという事情が、霊魂と呼ばれるものによる影響であるとするならば、霊魂と呼ばれるものは、一体何であろう。中論を勉強していますもしも霊魂と呼ばれるものがこの世の...
第三頌 教説の非実在性西嶋先生の訳「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とか(と呼ばれる教説)は、具体的なものとして(この世の中に実際に)実在する性質のものではない。何故ならば、まだこの世の中に具体的に現われて来ていないものが、既にこの世の中のものとして実在するということはあり得ないのであるから。中論を勉強しています「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とかのそれぞれの教説は、頭で考え出した事であ...
第二頌 教説と現実西嶋先生の訳私は、さまざまの教説は将来といえども存在しない方が望ましいと考えており、極楽浄土に逃げて行くことは、一種の逃避であると思う。私としては、(教説の)存在を考えることは、結論を急ぎ過ぎることであり、極楽浄土を願うことであり、逃げ場を求めることである(と思う)。中論を勉強しています私は、さまざまの教説は出来れば存在しない方が良いと考えている。教説を頼りにする事は極楽浄土に逃...
第一頌 四種類の教説西嶋先生の訳「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、これらがさまざまの教説の(具体的な)例である。これらは、「未来派」は永遠性を指向し、「過去派」は世界の創造主を指向し、「世俗派」は世間並みの道徳を指向し、「現実派」は過去と未来とを共に否定した現在の瞬間に基礎を置く仏教哲学に依って支えられている。中論を勉強しています「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、と言わ...