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毎日(朝・晩)坐禅を自宅でして、師事した西嶋先生の「中論」を紹介しています。

悠村隆道
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2021/05/22

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  • 中論・27-18頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待

    第十八頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待西嶋先生の訳永遠でないものと永遠なものとが両方とも、現実の事実として存在する場合には、永遠なものもわれわれの希望通りに現われる訳ではなく、永遠でないものもわれわれの希望通りに現れて現われて来ない点では全く同じである。中論を勉強していますもしも永遠でないものも永遠なものも両方ともが、空想ではなく現実の事実として存在するとするならば、永遠な...

  • 中論・27-17頌 永遠と永遠でないものとの共存

    第十七頌 永遠と永遠でないものとの共存西嶋先生の訳天国もやはり一つの具体的な場所であるとすると、その一つの具体的な場所は、恐らく普通の人間社会と同じ社会であろう。永遠でないものと永遠なものとが両方とも存在していることが可能であり、この世の中は、決して拘わった状態のものではないであろう。中論を勉強していますもしも世間で言っている天国と言うものが具体的な場所として存在するならば、恐らくその様な具体的な...

  • 中論・27-16頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定

    第十六頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定西嶋先生の訳神とは違うものが人間らしさであるからこそ、永遠でないものという考えもあり得る。神とは違うものが人間らしさであるからこそ、宿命と呼ばれるものは起こり得ない。中論を勉強しています完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、我々の世界においては永遠でないものの存在を考える事が出来る。完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、...

  • 中論・27-15頌 神および永遠

    第十五頌 神および永遠西嶋先生の訳現実の神が現実の人間的なものの中にある場合には、それに伴って永遠なものも存在する可能性がある。実際に見えて来ないものが神であるから、永遠は恐らく生まれて来るものではないのであろう。中論を勉強しています頭で考えてみると神の様なものが人間の行いの中にあるのかもしれない、また頭で考えてみると人間の行いの中に永遠なものが存在するのかもしれない。しかし神と云うものは見えたり...

  • 中論・27-14頌 旅行も現在の瞬間

    第十四頌 旅行も現在の瞬間西嶋先生の訳旅行の途中にあって、まだ何処にも行き着いていないというふうに考える必要は決してなく、自分が何処かに行き着くであろうということは、自分で知ることができる。まだ目的地に到着していないということが現状であって、まだ目的地に着いていないということとまだ旅行中であるということとは、同じ事実の裏表である。中論を勉強していますもしも我々の人生の全てを旅行に例えるとするならば...

  • 中論・27-13頌 過去派と未来

    第十三頌 過去派と未来西嶋先生の訳ものの見方が完全に過去に帰属している人々は、未来は自分と無関係であると考えたり、未来こそ自分と密接な関係があると考える。(しかし)ある場合には未来と自分自身とが無関係であり、ある場合には未来と自分自身とが密接に関係しているということは、この世の中が整然とした形で、姿を見せていないことを意味している。中論を勉強していますものの見方の基準を常に過去にしている人々は、過...

  • 中論・27-12頌 未来の不存在

    第十二頌 未来の不存在西嶋先生の訳未来は決して現に存在するものではない。何故かというならば(もしも未来が既に実際に存在するとするならば)、其処においては悪徳でさせも既に固着してしまっている筈であるから。既に実行された行為が、仮にも霊魂と呼ばれるものに依存して存在するならば、この世の中に存在しているさまざまの事物も、正に理性に適合しないものになってしまう。中論を勉強しています未来というものは頭で考え...

  • 中論・27-11頌 現在の瞬間と現実の世界

    第十一頌 現在の瞬間と現実の世界西嶋先生の訳行為における途切れ途切れの瞬間というものは、決して好ましくないものではなく、また行われた行為の結果とは違うものが、現在の瞬間における行いである。この世の中以外の状態を認識させたいと期待することは、その出発点から拘わりがあり過ぎる。中論を勉強しています途切れ途切れの刹那に行われる行為というものは決して好ましくないものではない。また行為の結果は頭で考えた内容...

  • 中論・27-10頌 眼の前の世界が現実の世界

    第十頌 眼の前の世界が現実の世界西嶋先生の訳もしもこの世の中が、この眼の前の現状とは違ったものとして存在することがあり得るとするならば、この眼の前の現状を拒絶することも可能な筈である。しかし実情としては、正に現実が確立されているだけのことであって、そのような状態の中においては、生まれつつあるという状態と死滅という状態とは(現実と呼ばれる)一つのものであろう。中論を勉強していますもしも我々が住むこの...

  • 中論・27-9頌 未来、過去、世俗の不存在

    第九頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳未来と呼ばれるものも過去と呼ばれるものも世俗と呼ばれるものも、現実の事実として現れるものではない。何故ならばそれらのものはまだ誕生しない以前から、何か別のものの発展として具体的に存在している訳ではないのであるから。中論を勉強しています我々は未来も過去も世俗的な道徳もこの世の中に実在していると思っているが、それらは頭で考えた言葉であり内容であって、いずれもが現...

  • 中論・27-8頌 感受作用と現実と霊魂

    第八頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳このように感受作用を離れて別個の事態がある訳ではないのと同じように、感受された内容と現実の事態とが、全く同じであるということも絶対にない。感受作用とは全く関係のない内容が、霊魂と呼ばれるものに依存して実在するということはないし、具体的なさまざまの事物が確かなものとして実在していないということも決してない。中論を勉強していますこの様に現在の瞬間の事態である感受...

  • 中論・27-7頌 感受作用と霊魂

    第七頌 感受作用と霊魂西嶋先生の訳また別の例として、感受作用を離れて、霊魂が姿を現わすということも決してない。何故ならば、把握された内容が感覚的に受け入れた内容と違う場合には、その別の内容は決して理解することの出来るような内容ではないのであるから。中論を勉強していますまた別の例として同じ様な感受作用が他にあったとしても、だからと言って霊魂と呼ばれているものが新たに姿を現わすという事は決してない。何...

  • 中論・27-6頌 感受された内容と霊魂

    第六頌 感受された内容と霊魂西嶋先生の訳感受された内容と霊魂とは同じものでは絶対になく、具体的なものはその表面を覆う外面があると同時にその内容が全体に行き亘っているものである。何故ならば、感受された内容が名目的であるということがどうしてあり得よう。感受されたものは、将来に向かって存続し続けて行くのである。中論を勉強しています我々の感覚器官の働きによって得られる感受作用の内容と我々が考え想像する霊魂...

  • 中論・27-5頌 霊魂の不存在

    第五頌 霊魂の不存在西嶋先生の訳感受された内容が甚だ漠然としているということは、霊魂と呼ばれるものがこの世の中において実際に活躍しているということが、実在ではないということである。感受されたものも恐らく霊魂と呼ばれるものと似たものであり、霊魂と呼ばれるものも、やはり人々の思い込みであって実在ではない。中論を勉強しています感受作用による認識が甚だ漠然といているということは、いくら霊魂が存在していると...

  • 中論・27-4頌 霊魂の実在に対する疑問

    第四頌 霊魂の実在に対する疑問西嶋先生の訳霊魂と呼ばれるものが、仮にも具体的なものとして(この世の中に)存在するとするならば、その感受される内容がもっとはっきりしたものになっている筈である。感受された内容が、甚だ取り留めのない漠然としたものであるという事情が、霊魂と呼ばれるものによる影響であるとするならば、霊魂と呼ばれるものは、一体何であろう。中論を勉強していますもしも霊魂と呼ばれるものがこの世の...

  • 中論・27-3頌 教説の非実在性

    第三頌 教説の非実在性西嶋先生の訳「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とか(と呼ばれる教説)は、具体的なものとして(この世の中に実際に)実在する性質のものではない。何故ならば、まだこの世の中に具体的に現われて来ていないものが、既にこの世の中のものとして実在するということはあり得ないのであるから。中論を勉強しています「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とかのそれぞれの教説は、頭で考え出した事であ...

  • 中論・27-2頌 教説と現実

    第二頌 教説と現実西嶋先生の訳私は、さまざまの教説は将来といえども存在しない方が望ましいと考えており、極楽浄土に逃げて行くことは、一種の逃避であると思う。私としては、(教説の)存在を考えることは、結論を急ぎ過ぎることであり、極楽浄土を願うことであり、逃げ場を求めることである(と思う)。中論を勉強しています私は、さまざまの教説は出来れば存在しない方が良いと考えている。教説を頼りにする事は極楽浄土に逃...

  • 中論・27-1頌 四種類の教説

    第一頌 四種類の教説西嶋先生の訳「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、これらがさまざまの教説の(具体的な)例である。これらは、「未来派」は永遠性を指向し、「過去派」は世界の創造主を指向し、「世俗派」は世間並みの道徳を指向し、「現実派」は過去と未来とを共に否定した現在の瞬間に基礎を置く仏教哲学に依って支えられている。中論を勉強しています「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、と言わ...

  • 第二十七章 教説に関する検証 (その2)

    第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その2)abhum:ヴィシュヌ派:ヴィシュヌ神の永遠性を信じ、この世の発生以前から存続し続けている永遠性を信ずる立場に立って、精神主義的な観念論を主張した宗派として理解した。atitam:特殊のシヴァ派:シヴァ神に対する信仰から、一切の事象を過去によって既に決定された事実として理解し、この世の中を決定論的に理解した宗派ではないかと想像される。adhvana...

  • 第二十七章 教説に関する検証 (その1)

    第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その1)仏教はダールマまたは現実を直接描写した教えであって、通常の教説のように抽象的な概念を使って、主観的なあるいは客感的な教説を述べた教えとは異なる。しかしその反面、もしも仏教が全く言葉では説明することのできない教えであるとするならば、仮にそのような仏教思想が存在するとしても、他の人々に対して伝承することができないと云う意味で、致命的な欠...

  • 中論・26-12頌 個々の事物の独立性

    第十二頌 個々の事物の独立性西嶋先生の訳個々のものが抑圧されていることに依って、個々の事物がこの世の中において活動を開始する訳ではない。苦しみとか五種類の集合体とかというようなものも、それぞれ個々に独立したものであり、それであればこそこの世の中は、一つに纏まった世界として自己管理されているのである。中論を勉強しています個々の状況が全て管理されているからと言って、個々の事物がこの世の中において全て認...

  • 中論・26-11頌 無知から生まれた抑圧と現実の行い

    第十一頌 日常生活の基本原則と理知西嶋先生の訳さまざまの無知の中やさまざまの抑圧の中に、さまざまの現実的な行いが実在しているということはない。無知から生まれた抑圧は、知識に従う場合でも具体的なものの中に求める場合でも、実際に存在することからは完全にかけ離れている。中論を勉強しています様々の無知の状態の中や様々の押さえつけた状態の中においては、様々な考え方やまた様々な感受作用ではない行為の実践が現実...

  • 中論・26-10頌 日常生活の基本原則と理知

    第十頌 日常生活の基本原則と理知西嶋先生の訳そのような事情から、日常生活の浮き沈みにおける基本原則が、様々の現実的な行いを準備し、さまざまの無知を準備する。したがって行いが無知を作り出す訳ではなく、現実が観察的な態度を止める時に理知が作り出される。中論を勉強しています憂鬱な状態の苦しみを耐え忍ぶ事により現実がわかってくると言う事情から、日常生活における基本原則が正しければ様々な現実的な行いを、また...

  • 中論・26-9頌 忍耐と現実の世界

    第九頌 忍耐と現実の世界西嶋先生の訳憂鬱な状態を耐え忍んでいると、この世の中が姿を現わし、現実の世界が動き出す。そのようにして綜合的な世界が、個々の特殊事情の中に、この現実の世界の中に、苦痛と(五種類の)集合体とが一つに重なった状態の中に存在している。中論を勉強しています憂鬱な状態を耐え忍んでいると、その憂鬱はこの世の中の事であり、現実の事であると認識するようになる。憂鬱を含む綜合的なこの世の中に...

  • 中論・26-8頌 五種類の集合体と嘆き

    第八頌 五種類の集合体と嘆き西嶋先生の訳五種類の集合体(五蘊)が正に存在であり、その存在を離れて誕生(生)が具体的なものとなる。老化や死滅(老死)はさまざまの苦しみであり、さまざまの激しい苦痛は正にさまざまの嘆きである。中論を勉強しています五蘊と呼ばれている五種類(色・受・想・行・識)の集合体は現実の存在である。その現実の存在の有無に関わることなく誕生(生)が具体的なものとなる。老化や死滅(老死)は...

  • 中論・26-7頌 感受作用と存在

    第七頌 感受作用と存在西嶋先生の訳感受作用(受)を通して存在(有)が現実的なものとなり、感受作用(受)そのものが実際に機能する。器としての世界を感受作用の対象として認めることをしないならば、存在を断念しなければならないような事態の存在(有)を考えなければならないような事態はあり得ない。中論を勉強しています我々は感受作用(受)を持っているから、この世の中の存在(有)が現実的なものとなる。その事は感受...

  • 中論・26-6頌 感受作用と渇望する心

    第六頌 感受作用と渇望する心西嶋先生の訳感受作用(受)そのものがさまざまの確かな事実の中に含まれていないということは、望ましいことである。何故ならば(本当に求められているものは、感受作用(受)そのものではなくて)むしろ感受作用の対象の方にあるのであるから。渇望する心(愛)は感受作用(受)における(感覚器官と感覚の対象と両者の接触と感受作用との)四つの要素として獲得される。中論を勉強しています感受作...

  • 中論・26-5頌 物質と感受作用と眼および接触と感受作用

    第五頌 物質と感受作用と眼および接触と感受作用西嶋先生の訳三種類のものが一つに結び付いた状態とは、物質と感受作用と眼との(三つの結合の)ことである。したがって接触(触)が接触(触)そのものから抜け出した時に、感受作用(受)が活躍を始める。中論を勉強しています接触の働き(触)は三種類のものが一つに出会うことであり、その三種類のものとは物質と感受作用と眼(感覚器官)の事である。したがって物質と眼(感覚...

  • 中論・26-4頌 現実の事物と綜合的な認識

    第四頌 現実の事物と綜合的な認識西嶋先生の訳眼が物質に対して明瞭である場合には、全ての事物に関する構成も同じように明瞭である。名称と物質との結合(名色)である現実の事物が同じように明瞭である場合には、綜合的な認識が活動し始める。中論を勉強していますもしも物質を見る眼の働きがハッキリしている場合には、この世の中の全ての事物に対しても同じようにハッキリとしている。そして外界の世界の事物がハッキリしてい...

  • 中論・26-3頌 現実の事物と接触

    第三頌 現実の事物と接触西嶋先生の訳瑞々しい状況の中でそして名称と実体とが一つに重なった現実の事物(名色)の中で、六種類の感覚器官(六入)と綜合的な存在とが一つに重なった状態で存在している。そして六種類の感覚器官(六入)が到来したことにより、接触の働き(触)が実際に開始される。中論を勉強しています幸せでありそして名称とその物質的な実体とが一つに重なった具体的な事物(名色)の中に、六種類の感覚器官(...

  • 中論・26-2頌 安定した状態と現実の事物

    第二頌 安定した状態と現実の事物西嶋先生の訳心の働きが落ち着くと、現実の行いでもあり確かな事実でもあるものが、行くという行いに関する二つの要素を形成している。その場合には安定した心の働きの中で、名称と実体とが一つに重なった現実の事物(名色)が地上に行き渡る。中論を勉強しています心が無明の状態から識という状態に馴染むに従い、現実の行いと行いをしていると言う心が形作られる。やがて識の働きは順調になじん...

  • パソコンが壊れてしまった

    以前から調子不全のパソコンが壊れてしまった。それは突然。デスプレイガ半分朱色のフィルターがかかり縦のバーコードが出現して見づらい見づらい。電気製品なら買ったその日から使えるが、パソコンはそうはいかない。だましだましで使っていたが、仕方なく買うことにした、私としてはできればよいのだが出来よいよいので8GB,コア7,ssd256ぐらいの性能でよいと思っていたが、妻が「年をとって目が疲れ安くなっているから、ノート...

  • 中論・26-1頌 無知と行いと心理作用

    第一頌 無知と行いと心理作用西嶋先生の訳新しい誕生に伴なって、さまざまの綜合的な行い(行)が実行され、混迷の状態(無明)と白紙のような心理作用(識)とが共存して、三種類のものが一つに重なっている。それらがこの世の中の移り変わりに従って序々に姿を変え、行為を通して実行と呼ばれる動作が実際に前進する。中論を勉強しています生まれたばかりの赤ん坊はただ手足を動かして(行)いる、何の意識もないと言う状態(無...

  • 中論・第二十六章 十二種類の項目に関する検証

    第二十六章 十二種類の項目に関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですこの世の中の一切がすべて原因結果の関係に依って拘束されているという思想は、仏教思想における一つの大原則である。そしてそのような因果関係における定型的な図式として、仏教では古くから十二因縁という解説が行われている。この章で述べている十二種類の項目とは、正にその十二因縁のことであって、十二因縁とは無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取...

  • 中論・25-24頌 宇宙秩序の言語表現不能

    第二十四頌 宇宙秩序の言語表現不能西嶋先生の訳何に限らず何かを得るということは、心の安まるものであり、何かを拡大して行くとことも、幸福観を伴うものである。どのような場所においても、どのようなものの中においても、どのようなものに就いても、釈尊は宇宙の秩序について言葉で説明されることがなかった。中論を勉強しています全ての何かを得る事に対して平静になる事、より以上にと言う気持ちに対して平静になる事、これ...

  • 中論・25-23頌 永遠でないものと永遠なものとの不明確性

    第二十三頌 永遠でないものと永遠なものとの不明確性西嶋先生の訳この世の中とは何であろう。この世の中でない別の世界とは何であろう。永遠とは何であろう。永遠でないものとは何であろう。永遠でないものも永遠なものも一体何であろう。この二つのものは今後とも、何物でもないであろう。中論を勉強しています我々はこの世の中を理解しているであろうか。この世の中以外の別の世界があったならば理解出来るであろうか。永遠とい...

  • 中論・25-22頌 無限なものと有限なもの

    第二十二頌 無限なものと有限なもの西嶋先生の訳さまざまの均衡した状態の中や、宇宙の中のすべての事物の中において、何が無限なものであり得よう。何が有限なものであり得よう。無限のものとか有限のものとかは一体何であろう。無限でないものとか有限でないものとかは、一体何であろう。中論を勉強しています現在の瞬間の状況において、そして全ての言葉では表現できない現実の中において、無限と呼べるものが何処かに有るだろ...

  • 中論・25-21頌 自己管理と自由で静かな境地

    第二十一頌 自由で静かな境地と時間西嶋先生の訳自己管理の状態から外れた処に、終末と言う考え方が始まったり、永遠という考え方が始まったりする。自由で静かな境地は西の方にあると云われている平和な世界であり、漠然とした予想であり、救いの場所である。中論を勉強しています自律神経が均衡していないために、我々が自己管理の状態から外れている場合、我々は終末と言う考え方を考え始めたり、永遠という考え方を考え始めた...

  • 中論・25-20頌 自由で静かな境地と時間

    第二十頌 自由で静かな境地と時間西嶋先生の訳自由で静かな境地の中にあるものが正に時間であり、時間は同時に日常生活の浮き沈みの中にもある。(自由で静かな境地と日常生活における浮き沈みとの)二つのものの間には、ほんの僅かの間隙も全く認めることができない。中論を勉強しています我々の自由で静かな境地の中にある時間は正に現在の瞬間であり、現在の瞬間は同時に我々の日常生活の浮き沈みの中にもある。現在の瞬間にお...

  • 中論・25-19頌 日常生活における浮き沈みと自由で静かな境地

    第十九頌 日常生活における浮き沈みと自由で静かな境地西嶋先生の訳日常生活における浮き沈みの中に自由で静かな境地がない場合には、何か穏当でないものが実在する。自由で静かな境地の中に日常生活の浮き沈みがない場合には、何か穏当でないものが実在する。中論を勉強していますもしも色々な事が起きる我々の日常生活において自由で静かな境地がない場合には、我々が気付いていない穏当でない何かが実在する。もしも自由で静か...

  • 中論・25-18頌 確乎とした信念と尊敬に値するもの

    第十八頌 確乎とした信念と尊敬に値するもの西嶋先生の訳確乎とした信念が正に尊敬に値するものとして存在していることも、決して非難される性質のものではない。確乎とした信念や尊敬に値するものが両方とも存在しない場合には、そのように両方とも存在しないような状態は、議論の対象にさえならない。中論を勉強しています確乎とした信念云うものは尊敬に値するものである、それらの存在は否定されたり非難される性質のものでは...

  • 中論・25-17頌 自己管理と尊敬に値するもの

    第十七頌 自己管理と尊敬に値するもの西嶋先生の訳自己管理を離れた別の状態が尊敬に値する情態であると主張されたことは、未だ嘗て一度もない。自己管理も尊敬に値する情態も両方ともない場合には、自己管理も尊敬に値する情態も両方ともないような事態は議論の対象とはならない。中論を勉強しています自己管理が出来ている状態と云うものは尊敬に値するものであるのに、自己管理から程遠い状態にあるものが尊敬に値するものであ...

  • 中論・25-16頌 自由で静かな境地は状態

    第十六頌 自由で静かな境地は状態西嶋先生の訳自由で静かな境地が、存在していないものでもなく存在しているものでもないということが分かって来ると、(その)存在していないものでもなく、存在しているものでもない、(自由で静かな境地と呼ばれる)状態は、成長し発展して行くものではない(ことが分かって来る)。中論を勉強しています自由で静かな境地は状態を示すものであり存在する存在しないと言う性質のものではない、そ...

  • 中論・25-15頌 存在、不存在とは無関係の自由で静かな境地

    第十五頌 存在、不存在とは無関係の自由で静かな境地西嶋先生の訳(自由で静かな境地は、)存在しないものでもなければ、存在するものでも決してなく、自由で静かな境地と呼ばれるものは化粧品とおなじような(修飾的な)ものである。自由で静かな境地は存在していないとも云えるし、存在しているとも云え、現実の世界における現実的な実情である。中論を勉強しています自由で静かな境地は具体的に存在しないとか存在するとかと云...

  • 中論・25-14頌 存在と自由で静かな境地

    第十四頌 存在と自由で静かな境地西嶋先生の訳もしも存在しないという事実が積極的にあるとするならば、存在と自由で静かな境地との二つは一体何を意味するのであろう。存在と自由で静かな境地との二つが存在しないという事実は、一つの場所において起こり得るのであろうから、それは光と暗闇とが一つに重なった情態と似ている。中論を勉強していますもしもこの世の中には何も存在しないという主張が正しいとするならば、一体存在...

  • 中論・25-13頌 自由で静かな境地と現実の世界

    第十三頌 自由で静かな境地と現実の世界西嶋先生の訳(自由で静かな境地について)存在しないということも存在するということも両方ともあり得るとしても、自由で静かな境地が(存在していない状態と存在している状態との)両方であるということが、どうしてあり得よう。客観的な世界そのものとは違う世界が自由で静かな境地であるから、(自由で静かな境地は)実際に存在する世界と抽象的な存在しない世界とが一つに重なった、現...

  • 中論・25-12頌 自由で静かな境地と感覚世界

    第十二頌 自由で静かな境地と感覚世界西嶋先生の訳(自由で静かな境地について)存在しないということも存在するということも両方ともあり得るとすると、その場合自由で静かな境地は両方を兼ねている。感覚的に感受されない世界が自由で静かな境地の世界ではない。何故ならば、感覚的に感受出来る世界と感覚的に感受出来ない世界との両方が一つに重なった世界が、この現実の世界であるから。中論を勉強しています自由で静かな境地...

  • 中論・25-11頌 自由で静かな境地と自由自在の境涯

    第十一頌 自由で静かな境地と自由自在の境涯 西嶋先生の訳(自由で静かな境地については)存在しないということも存在するということも両方とも云えるのであるから、その場合自由で静かな境地は両方を兼ねている。存在しないということも存在するということも両方ともあり得るのであるから、(自由で静かな境地の基礎にある)自由自在の境涯そのものは、何ものにも拘束されることがない。中論を勉強しています自由で静かな境地と...

  • 中論・25-10頌 自由で静かな境地と存在

    第十頌 自由で静かな境地と存在西嶋先生の訳物事を断念したり、喋りたくないことを我慢して喋ったりすることは、よくあることであり、また至る処にあるものである。したがって自由で静かな境地が存在するものではないとか、存在しないものではないという主張は、(自由で静かな境地を)固定的に考え過ぎている。中論を勉強しています我々の日常生活において何か物事を断念したり、不本意な事を喋ったりする事はよくある事であり、...

  • 中論・25-9頌 自由で静かな境地の直観的な把握

    第九頌 自由で静かな境地の直観的な把握西嶋先生の訳遅いとか早いとかと呼ばれる存在は、両方とも感覚的に捉えることの出来る事実であり、はっきりしている。(しかし)あまりはっきりとはしていない、感覚的に掴むことのできないものが、自由で静かな境地として(われわれに依って)受け取られる。中論を勉強していますこの世の中には早いものとか遅いものとかと呼ばれる存在がある。それらの存在は五感の感受作用で感覚的に明確...

  • 中論・25-8頌 感覚的な世界以外の状態としての自由で静かな境地

    第八頌 感覚的な世界以外の状態としての自由で静かな境地西嶋先生の訳存在ではないものが正に自由で静かな境地であるとするならば、現に眼の前に見えているこの世界は一体何であろう。自由で静かな境地は存在ではないのであるから、自由で静かな境地が実在するという事実は、感覚的に捉えられる世界とは違うものとして認識されるのであろう。中論を勉強していますもしも具体的な存在でないものが自由で静かな境地であると主張する...

  • 中論・25-7頌 自由で静かな境地の非存在性

    第七頌 自由で静かな境地と非存在性西嶋先生の訳存在は自由で静かな境地そのものと同じものではないのであるから、その存在そのものではない自由で静かな境地が、将来存在となるということはあり得ない。その場合、自由で静かな境地が存在ではないのであるから、その存在でないものが、認識の対象になるということもあり得ない。中論を勉強しています存在と自由で静かな境地そのものとは全く別のものであるから、存在でもない自由...

  • 中論・25-6頌 自由で静かな境地と現実の世界

    第六頌 自由で静かな境地と現実の世界西嶋先生の訳存在が正に自由で静かな境地である場合には、現に(具体的に)存続しつつあるこの具体的な世界は一体何であろう。自由で静かな境地と呼ばれるものは、感覚的に掴むことの出来るものとは別のものであろう。何故ならば、(もしも自由で静かな境地が感覚的に掴むことの出来るものであるならば、)そのような存在は何らかの形で必ず認識出来る筈であるから。中論を勉強しています存在...

  • 中論・25-5頌 自由で静かな境地と客観世界

    第五頌 自由で静かな境地と客観世界西嶋先生の訳存在が正に自由で静かな境地にあるならば、自由で静かな境地がこの客観世界そのものとして存在することが可能である。客観世界以外の世界は認識することが出来ないのであるから、それが存在するという事実は何処にもあり得ないし、何ものでもあり得ない。中論を勉強しています存在が自由で静かな境地の状況であるならば、自由で静かな境地が具体的な客観世界そのものとしてこの世の...

  • 中論・25-4頌 存在と自由で静かな境地

    第四頌 存在と自由で静かな境地西嶋先生の訳存在がその侭自由で静かな境地であるということではなく、(自由で静かな境地の)生まれたり消えたりする性質は暗示的なものである。何故かというと、もしも(自由で静かな境地が)生まれたり消えたりする性質を持っていないとすると、(自由で静かな境地の)存在が自由で静かな境地に適合した状態として実在しているという事実が無くなってしまうから。、中論を勉強しています存在と言...

  • 中論・25-3頌 自由で静かな境地の実情

    第三頌 自由で静かな境地の実情西嶋先生の訳孤立したものでもなく、寄り集まったものでもなく、刹那的なものでもなく、永遠のものでもない。隠されたものでもなく、いま現われたものでもないもの、そのようなものが自由で静かな境地として(人々によって)好まれる。中論を勉強しています心の中に何か残る様なものでもなく、何か目的のために寄り集まった様なものでもなく、一瞬一瞬の刹那的なものでもなく、永遠の様なものでもな...

  • 中論・25-2頌 均衡していない状態と自由で静かな境地

    第一頌 自由で静かな境地の発現、消滅西嶋先生の訳均衡していない状態がこの世の中の全てに拡がっている場合でも、(均衡していない状態が)新たに発現するという事実はあり得ないし、新たに消滅するという事実もあり得ない。何かを諦めることを拒否し、自己管理の状態からも離れてしまっている場合には、どのように自由で静かな境地も、将来といえども具体化することがあり得ない。中論を勉強しています均衡していない状態という...

  • 中論・25-1頌 自由で静かな境地の発現、消滅

    第一頌 自由で静かな境地の発現、消滅西嶋先生の訳均衡した状態がこの世の中の全てである場合でも、(均衡した状態は)新たに生まれて来るとか消滅するとかという性質のものではない。何かを諦めることを拒否し、自己管理の状態からも離れてしまっている場合には、将来といえども自由で静かな境地が具体化するという事実は、絶対にあり得ない。中論を勉強しています均衡した状態というものはあくまでも瞬間瞬間の状態であり具体的...

  • もしかして?

    先週の木曜日頃、珍しく左肩が痛くておかしいなと思っていたら、土曜日には朝から鼻水が止まらず大変な一日、ただ熱は37度以下だし頭痛もしない咳も出ないという状況だから仕事をする事は出来た。いつもより早めに仕事を切り上げ寝る事にした、只々眠い。片や妻は背中がとにかく痛いらしく息をするのも大変そうだったが、私と同じように熱も頭痛も咳も出ない。夜中に妻が「背中が痛くて息が出来ない」という、スポーツ用の酸素...

  • 中論・第二十五章 ニルヴァーナ、自由で静かな境地に関する検証

    第二十五章 ニルバーナ、自由で静かな境地に関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですニルヴァーナは本来、「火が消えた」の意味であって、仏道修行の結果、思想的な焦りもなくなり、肉体的な欲望にも煩わされない状態をいう。それを心理学的・生理学的な状況として説明するならば、われわれの体内にある自律神経に関連して、思想的な焦りの基礎である交感神経と、感覚的な敏感さの基礎である副交感神経とが、丁度同じ強さになった...

  • 中論・24-40頌 現象世界が四種類の真実そのもの

    第四十頌 現象世界が四種類の真実そのもの西嶋先生の訳明々白々としたこの現象世界をありの侭に見ることの出来る人は、この世の中を見ることのできる人である。苦諦(と呼ばれる観念論)についても、集諦(と呼ばれる唯物論)についても、そして更に滅諦(と呼ばれる行いの哲学)についても、道諦(と呼ばれる道義)についても、事情は全く同じである。中論を勉強しています我々の目の前に現われるこの世の中の様々な現象を、もし...

  • 中論・24-39頌 均衡していない状況は何処にもない

    第三十九頌 均衡していない状況は何処にもない西嶋先生の訳まだ到達していないということは、これから到達する可能性を持っているということであり、苦しみの領域の中にいるということも、一種の行いである。すべての激しい苦しみを、宇宙の秩序として受け取ることが出来るような場合には、自由で静かな境地でない状況は、何処にも見当たらない。中論を勉強しています我々が何かをまだ到達していないと言う事は、その何かを将来到...

  • 中論・24-38頌 完全に安定した状態の可能性

    第三十八頌 完全に安定した状態の可能性西嶋先生の訳自分自身を自由自在に引きずり廻すことのできるような力量が、まだ生まれていないような場合でも、最高の地位を保ち続けることが、将来の状態としてはあり得る。さまざまの輝かしい彩りに飾られ、一切のものに関連して途轍もなく安定した状態の中に置かれていることが、この地上世界の実情である。中論を勉強していますたとえ我々が一人前になっていない状況だとしても、将来に...

  • 中論・24-37頌 行為の実行と均衡した状態

    第三十七頌 行為の実行と均衡した状態西嶋先生の訳行為がまだ全く実行されていない場合でも、まだ始められていない状態が、(観念的な)行為としてあり得る。行為の実行を意図することは、恐らく行為がまだ実行されていないことを意味しているのであろうから、(その場合にはまだ)さまざまの自由で静かな境地は、完全に視野の外に置かれている。中論を勉強していますまだ行為が全く実行されていないと言う事は、いまだに行為が実...

  • 中論・24-36頌 非仏教徒の世俗生活に対する否定

    第三十六頌 非仏教徒の世俗生活に対する否定西嶋先生の訳(仏教を信じていない)君は、すべての世俗的な職業やさまざまの世俗的な生活の価値を否定する。(仏教を信じていない)君は、現に眼の前に見えている綜合的な現象が、極めて均衡の取れたさまざまの現象であることを認めようとしない。中論を勉強しています仏教を信じていない人々は、俗世間の全ての職業を嫌い、俗世間の様々な生活していくための価値あるものを只々否定す...

  • 中論・24-35頌 均衡している状態と均衡していない状態と結果

    第三十五頌 均衡している状態と均衡していない状態と結果西嶋先生の訳宇宙の秩序の実情と宇宙の秩序に反するものの実情とが両方とも見えている場合に、結果と呼ばれるものが、宇宙の秩序と宇宙の秩序に反するものの中に認識される。(しかし)宇宙の秩序と宇宙の秩序に反するものとが一つに重なったこの世の中の綜合的な現象に関しては、それらが自由で静かでない境地であったり、結果であったりすることがあり得ない。中論を勉強...

  • 中論・24-34頌 非仏教徒における現実の世界と結果

    第三十四頌 非仏教徒における現実の世界と結果西嶋先生の訳宇宙の秩序に従っているものと宇宙の秩序に反するものとが両方とも見当たらない場合には、(仏教を信じていない)君の心の中には結果という考え方が湧いて来る。宇宙の秩序に従っているものと宇宙の秩序に反するものとが一つに重なった現実の世界の中では,(仏教を信じていない)君といえども結果という考え方を認めることができない筈である。中論を勉強しています君が...

  • 中論・24-33頌 宇宙の秩序と主観的な存在

    第三十三頌 宇宙の秩序と主観的な存在西嶋先生の訳宇宙の秩序も宇宙の秩序に反するものも両方とも、人間の作為で作れるものでは将来といえども絶対にない。均衡の取れていない行為というものはこの世の中には絶対にあり得ない。何故ならば(頭の中で考えられた)主観的な存在は行為そのものでは絶対にあり得ないのであるから。中論を勉強していますこの世の中の秩序に沿っているものも、あるいはこの世の中の秩序に反するものも、...

  • 中論・24-32頌 主観的な想念と仏道修行

    第三十二頌 主観的な想念と仏道修行西嶋先生の訳(頭の中で作り出された)主観的な想念が災いして、賢明でない人は頭で問題を考えることに忙殺されている。仏道修行が実践的な性格のものでない場合には、それらの人々が現実に出会う機会は、なかなか到来しないであろう。中論を勉強しています自分の頭の中で色々と考える事が災いとなり人生を上手く生きられない人は、頭で考える事ですべてが解決できると思いこみ増々頭で問題を考...

  • 中論・24-31頌 真実を得た人と真実そのもの

    第三十一頌 真実を得た人と真実そのもの西嶋先生の訳完全な智慧が充分明瞭でない場合には、君の考えている真実を得た人に関しても、執着する態度が強過ぎる考え方のように見える。真実を得た人とは、どんな人なのかがはっきりしていない場合には、君の考えている真実に関しても、執着する態度が強過ぎるように思われる。中論を勉強しています君がこの世の中の真理を充分に身につけていない場合には、真実を得た人だと君が思ったと...

  • 中論・24-30頌 真理の探究と現実の世界

    第三十頌 真理の探究と現実の世界西嶋先生の訳さまざまの真理探求などというものは存在しないという考え方から離れないと、現実の宇宙は決して見えて来ない。宇宙の秩序が現実的ではなく仏教教団が現実的でない場合には、真実を得た人が将来といえども、存在するということがどうしてあり得よう。中論を勉強しています「真理の探究などと言うものは、何処にも存在しない」と言う考え方に捉われていると、目の前に存在する現実の宇...

  • 中論・24-29頌 結果の達成と仏教教団

    第二十九頌 結果の達成と仏教教団西嶋先生の訳結果の安定は結果の存在しない処ではあり得ないし、(結果の存在しない処では、)現実の問題として(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という)四種類の結果の達成もあり得ない。(僧伽とよばれる)仏教教団が実在しない場合には、(僧侶、尼僧、二十歳未満の尼僧、僧侶見習い、僧侶候補者、在家の男子、在家の女子、仏教徒の候補者と呼ばれる)八種類の人々やそれに準ずる素晴らしい...

  • 中論・24-28頌 主観的な想念と結果の達成

    第二十八頌 主観的な想念と結果の達成西嶋先生の訳(頭の中で作り出された)主観的な想念によっては、しっかりと掴むことの出来ないものが正に結果であり、その結果とは一体どういうものであろうか。達成することのできるものが現に非常に近付きつつあるのであって、(頭の中で作られた)主観的な想念も、恐らく(それ自身の範囲では)何らかの達成されたものを意味するであろう。中論を勉強しています自分の頭の中で作り出された...

  • 中論・24-27頌 主観的な想念と実践的な修行との違い

    第二十七頌 主観的な想念と実践的な修行との違い西嶋先生の訳直観的な判断能力を放棄している場合には、存在の根拠となっているものはこの現実の世界だけである。知識に似たようなものが関連している訳ではなく、(預流向、一来向、不還向、阿羅漢向という)四種類の修行過程や(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という)四種類の結果についても、状況は全く同じである。中論を勉強していますもしも我々が直観的に判断する事を放...

  • 中論・24-26頌 感受作用と主観的な想念

    第二十六頌 感受作用と主観的な想念西嶋先生の訳主観的な想念のために、物事を知る働きがうまく機能していない場合には、この世の中に一体何があり得るであろう。物事を知る働きが全く機能していない場合には、主観的な想念が頑固な居座りを続ける。中論を勉強しています我々が頭で考えた事で頭が一杯になっている時は、周りの環境を感知する目や耳や鼻などの感覚器官は上手く働いていない場合がある、その様な状態はこの世の中に...

  • 中論・24-25頌 苦しみや自己規制と道義

    第二十五頌 苦しみや自己規制と道義西嶋先生の訳苦しみがさまざまのものの寄り集まりとして雑然と見えている場合には、自己規制と呼ばれるものの、認識されることが決してない。道義と呼ばれるものは、苦しみと自己規制と関連がない場合、将来といえども具体的なものとして掴めるものではない。中論を勉強しています苦しみというものが様々の事の入り混じり寄り集まりであるために苦しみは漠然として見えている、その苦しみを自己...

  • 中論・24-24頌 自分自身の存在と道義

    第二十四頌 自分自身の存在と道義西嶋先生の訳現に自分自身が存在しているからと云って、それがこの世の中に道義が存在していることの理由付けに役立つ訳ではない。現在のこの場所におけるさまざまの事物が、道義の存在を示しているのであり、そのような事実によって逆に自分自身の存在が確認できるのである。中論を勉強しています現実に自分自身がこの世の中に存在しているからと云って、自分自身が存在している事がこの世の中に...

  • 中論・24-23頌 自己規制と主観的な想念

    第二十三頌 自己規制と主観的な想念西嶋先生の訳自己規制は、頭の中で作り出された想念によって、現実のものとして苦しみの中に見出されるものではない。主観的な想念がさまざまの矛盾を作り出す処から、(仏教を信じていない)君は自己規制(の価値)を強く否定する。中論を勉強しています自分を自分で管理する自己規制と言う事は頭の中で作り出された想念ではない。自己規制は行いであり具体的な現実として苦しみの中に見出され...

  • 中論・24-22頌 主観的な想念と均衡した状態

    第二十二頌 主観的な想念と均衡した状態西嶋先生の訳(頭の中で作り出された)主観的な存在が、既に認識されたものとして頭の中にある以上、何かがもう一度将来現われて来るということが、どうしてあり得よう。そこにおいては何らかの集合体が実在している訳ではないのであるから、さまざまの自由で静かな境地も、完全に抹殺されてしまっている。中論を勉強しています頭の中で考え出された想念が、実在するものとして認識されてい...

  • 中論・24-21頌 苦しみという想念の存否

    第二十一頌 苦しみという想念の存否西嶋先生の訳(目の前の)綜合的な現象がはっきりと見えていない場合には、苦しみと呼ばれるものも、将来といえども一体何処にあり得るであろう。苦しみに関連しては事実に反することが語られている処から、本当の事実はわれわれの主観的な想念の中では認識することが出来ない。中論を勉強しています我々が目の前の現実を全て意識していない場合には、苦しみと呼ばれるものが何処にあるのかとい...

  • 中論・24-20頌 四種類の崇高な真実に対する信頼

    第二十頌 四種類の崇高な真実に対する信頼西嶋先生の訳自由で静かな境地とは別の状態がこの世の中の全てである場合には、どのような創造も実在し得ないし死滅も実在し得ない。(観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものという)四種類の崇高な真実の中には、何も存在しないという主張は、自分自身の意見に対してあまりにも執着し過ぎている。中論を勉強していますもしも、この世の中の全てが自由で静かなありのままな世界でない...

  • 中論・24-19頌 綜合的な現象と宇宙の認識

    第十九頌 綜合的な現象と宇宙の認識西嶋先生の訳眼の前に現われている総合的な現象に対して不信な見方をしているような場合には、宇宙の認識されることが絶対にあり得ない。正にそのような複雑な事情のために、自由で静かな境地が見当たらないのであるから、宇宙の秩序が認識される可能性も全くない。中論を勉強しています我々の眼の前に現われているこの世の中の現象に対して決して信じる事が出来ない場合には、我々がこの世の中...

  • 中論・24-18頌 明々白々とした現象と中道

    第十八頌 明々白々とした現象と中道西嶋先生の訳そのような明々白々としたさまざまの現象が、さまざまの自由で静かな境地やさまざまの現実を作り出していることを、私は(君たちに対して)教えている。そのような現実の情報が、われわれの感受作用の働きであり、そのようにして感受されたものが正に中道である。中論を勉強しています我々の眼の前にある明々白々とした現象が、様々なありのままの状態を作り出していて、その様な事...

  • 中論・24-17頌 非仏教徒と現実の否定

    第十七頌 非仏教徒と現実の否定西嶋先生の訳行為を実行することに依って正にその動機を実現し、行為を実行することとその行為の動機とが、行いの実行を作り出す。(しかし仏教を信じない)君は目の前の現象や、自己規制や、結果などを完全に否定している。中論を勉強しています行為を実行する事はその実行が具体化する事であり、行為の動機と行為を行う者がその行為の実行を作り出す。しかし仏教を信じない君は我々の目の前に見え...

  • 中論・24-16頌 主観的な存在からの離脱と現実

    第十六頌 主観的な存在からの離脱と現実西嶋先生の訳もしも君が(頭の中で作り上げた)主観的な存在を離れるならば、さまざまの存在の中に現実の存在を発見するであろう。理性以外の確かなさまざまの事実が、さまざまの存在として実在していることを、君は正に現実の事態として見るであろう。中論を勉強していますもしも君が自分の頭の中で作り上げた様々な存在から離れて、この世の中をありのままに眺めてみるならば、実在してい...

  • 中論・24-15頌 非仏教徒と霊魂その他

    第十五頌 非仏教徒と霊魂その他西嶋先生の訳君は正にさまざまの悪徳や個人的な霊魂や客観的な霊魂を作り上げ、この世の中のさまざまの事物の中に、弁護できるようなものを作り上げている。正に自分が馬に乗っておりながら、犬の上に腰を下ろしたような不注意な状態を続けている。中論を勉強しています仏教を信じない正にあなたは、数々の間違いや生前には霊魂があり死後にも霊魂の存在を作り上げている、そしてこの世の中のさまざ...

  • 中論・24-14頌 均衡した態度と自由自在

    第十四頌 均衡した態度と自由自在西嶋先生の訳すべてのものが現実の事態によって拘束されている場合には、自由で静かなシュンニャーターと呼ばれる境地も現実の事態によってしっかりと保持されている。すべてのものが現実の事態によって拘束されていない場合には、自由で静かな境地も現実の事態によってしっかりと保持されてはいない。中論を勉強していますこの世の中の全てのものがこの世の中の現実によって強く拘束されている場...

  • 中論・24-13頌 均衡した態度と非難の無視

    第十三頌 均衡した態度と非難の無視西嶋先生の訳心を慎重にさせる傾向が均衡した状態の中に含まれており、そのような態度がさまざまの存在を気付かせる。非難に拘わる態度はわれわれらしくないのであり、そのような(非難に拘わる)態度は均衡した状態の中には現われて来ない。中論を勉強しています均衡した状態の中には我々を落ち着かせたり穏やかな態度を取らせたりする傾向がある。その様な態度が我々に様々の存在を気付かせる...

  • 中論・24-12頌 宇宙に関する表現の不明確

    第十二頌 宇宙に関する表現の不明確西嶋先生の訳そのような場合には、どのようなことでも積極的に表明すべきであって、そのような意向が釈尊によって示された。(しかし)私の宇宙に関する考え方は私流に凝り固まっている処から、はっきりさせることの難しい内容がぼんやりと示されている。中論を勉強していますその様な場合には、釈尊はどの様な事があっても何でも積極的に表明すべきであると我々に教えられた。しかし自分(竜樹...

  • 中論・24-11頌 均衡した状態とそれに伴う危険

    第十一頌 均衡した状態とそれに伴う危険西嶋先生の訳間違ったものの見方が否定されている場合には、均衡した状態は極く普通の平凡さとして目立たない。そこにおいて這うようにして(邪悪なものとして)近付いて来るものが、間違った判断であり、また間違ったお膳立てである。中論を勉強しています間違ったものの見方をせず毎日を落ち着いた均衡した状態で生活をしている場合、この均衡した状態が極々普通で平凡に見え当たり前の毎...

  • 中論・24-10頌 行いの世界と自由で静かな境地

    第十頌 行いの世界と自由で静かな境地西嶋先生の訳何かを実行することがあまり希望の持てない状況の中で行われている場合には、行いの世界というものが見えてこない。行いの世界というものが到来していない場合には、(自律神経が均衡した時に現われて来る)自由で静かな境地も現われて来ない。中論を勉強しています我々が何かを実行しているの時に行為の意欲が余りない場合がある、その様な時には最終的な目的である行いの世界が...

  • 中論・24-9頌 思考の世界における真実と行いの世界における真実

    第九頌 思考の世界における真実と行いの世界における真実西嶋先生の訳(吸う息と吐く息との)呼吸作用と同じように、二種類の真実が次元の違う二つのものとして別々に存在する事を、実感できない人々を、この世の中の現実を本当に深い意味のあるものとして掴むことのできない人々として、釈尊が非難された。中論を勉強しています我々が呼吸をする時、吸う息と吐く息という二種類の息があるのと同じように、思考の世界における真実...

  • 中論・24-8頌 理知的な世界における真実と行いの世界における真実

    第八頌 理知的な世界における真実と行いの世界における真実西嶋先生の訳(思考の世界における真実と行いの世界における真実との)二つの真実を充分に味わった状態が、真実を得られた方々の宇宙秩序に関する教えである。この世の中における正しい道案内が真実であり、それが行いの世界における真実でもある。中論を勉強しています頭の中で諸々を考える又は五感で感じて考える世界の真実と行いの世界によって生まれる真実がある、こ...

  • 中論・24-7頌 均衡した状態に対する非仏教徒の無知

    第七頌 均衡した状態に対する非仏教徒の無知西嶋先生の訳そこにおいては、会話が落ち着いた状態の中で行われているにも拘わらず、君はその原因を知ろうとしない。均衡した状態や均衡した状態の大切さに対しても、君は完全に圧倒されてしまっている。中論を勉強しています均衡した状態の中にいる時、我々が落ち着いて会話をしているの眼の前にしながら、釈尊の教えを信じない君は何故我々が落ち着いた会話が出来るのか理解できずそ...

  • 中論・24-6頌 非仏教徒の虚無主義

    第六頌 非仏教徒の虚無主義西嶋先生の訳(シュンニャターと呼ばれる)均衡した状態や、結果としての世俗的な世界や、宇宙の秩序に反するものや、宇宙の秩序そのものについてさえも全く同じように、そしてすべての世俗的な仕事や、さまざまの世俗的な出来事についてさえも、(仏教を信じない)君はそれらを拒否する。中論を勉強しています自律神経がバランスしている状態や結果の存在による我々の生きる世俗的な世界やこの世の中の...

  • 中論・24-5頌 非仏教徒の仏教教団に対する否定

    第五頌 非仏教徒の仏教教団に対する否定西嶋先生の訳宇宙の中にそして仏教教団の中に何も実在しないとするならば、真実を得る人が将来といえども、どうして存在するということがあり得よう。(仏法僧と呼ばれる三つに価値、すなわち真実を得た人、宇宙の秩序、仏教教団という)三つのものが、正に尊い価値であるにも拘わらず、(仏教を信じない)君はその話しをすることさえ拒否している。中論を勉強していますもしもこの世の中に...

  • 中論・24-4頌 八種類の仏教徒の実在と宇宙の実在

    第四頌 八種類の仏教徒の実在と宇宙の実在西嶋先生の訳もしも僧伽(と呼ばれる仏教教団)が実在しないとするならば、(僧侶、尼僧、二十歳未満の尼僧、僧侶の見習い、僧侶の候補者、在家の男子、在家の女子、仏教徒の候補者という)八種類の仏教徒も現実的なものとして実在する筈がない。(観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものという)崇高なさまざまの真実の中には何も存在しないという考え方から離れない限り、現実の宇宙...

  • 中論・24-3頌 四諦の教えと四種類の結果

    第三頌 四諦の教えと四種類の結果西嶋先生の訳上記の(四諦という)崇高な真実は存在していないという考え方から離れないと、(預流化、一来果、不還果、阿羅漢果という)四つの崇高な結果も認識することができない。結果が存在しなければ、結果の安定も存在することができないのであるから、(預流化、一来果、不還果、阿羅漢果という)結果に安住する状態も実在することがない。中論を勉強していますもしも我々が「先に述べた四...

  • 中論・24-2頌 認識内容、諦め、感受作用と四諦の教え

    第二頌 認識内容、諦め、感受作用と四諦の教え西嶋先生の訳認識内容や、諦めや、さまざまの存在の根拠である感受作用は、(四諦と呼ばれる)四つの崇高な真実が存在しない限り、何一つとして現われて来ることがない。中論を勉強していますこの世の中の様々なものに対する認識内容や、叶わぬ望みに対する諦めや、さまざまの事物の感受作用による事象と云うものは、もしも四つの崇高な真実の存在を否定するならば、この世の中そのも...

  • 中論・24-1頌 非実在論の否定

    第一頌 非実在論の否定西嶋先生の訳もしも均衡した状態がこの世の中の全てである場合には、(この世の中は現在の瞬間における存在であるから)出現という事実も実在し得ないし、消滅という事実も実在し得ない。(しかし四諦という)四つの崇高な真実の中には、何も存在しないと主張するならば、それらの考えは余りにも何かに拘わり過ぎている。中論を勉強していますもしもこの世の中の全てをありのままに見られるならば、(この世...

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