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中論を勉強してます https://sekisinhenpen.blog.fc2.com

毎日(朝・晩)坐禅を自宅でして、師事した西嶋先生の「中論」を紹介しています。

悠村隆道
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2021/05/22

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  • 中論・2-16頌 行くという現実の行いと行くという動き

    第十六頌 行くという現実の行いと行くという動き西嶋先生の訳行くという動きがほんの僅かでも固定的であるというようなことは、将来といえども絶対に起こり得ない。行くという現実の行いがない場合には、行くという動きがこの世の中に現われて来るということも、絶対にあり得ない。中論を勉強していますこの世の中の全ての事象は現在の瞬間の事実であるから、「行く」という動きがほんの僅かでも固定的であると言う様な事は、、将...

  • 中論・2-15頌 一切の動きの躍動性

    第十五頌 一切の動きの躍動性西嶋先生の訳行くという動きも固定的なものではないし、それと同じように、行かないという動きも固定的なものではない。行くという動きとか行かないという動きとかを離れて、三番目の全く別のものが、やはりどうして固定的なものであり得よう。中論を勉強しています「行く」と言う動きは現在の瞬間における事実であり固定されたものではない、それと同じ様に「行かない」と言う動きも現在の瞬間におけ...

  • 中論・2-14頌 追憶、認識、想像と行くという現実の行い

    第十四頌 追憶、認識、想像と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行った」(という追憶)も、「行きつつある」(という認識)も、「まだ行っていない」(という想像)も、何か別のものと入れ替えることのできない(独自の)存在である。(そのような追憶や認識や想像が)途絶え始めた段階で、一切のものが行くという現実の行いの中に存在するという状態がある。中論を勉強しています「行った」と言う追憶、「行きつつある」と言う...

  • 中論・2-13頌 行くという現実の行いと認識、追憶、想像

    第十三頌 行くという現実の行いと認識、追憶、想像西嶋先生の訳行くという現実の行いが実行される以前で、まだ何もない場合には、「行きつつある」(という認識)もないし、「行った」(という追憶)もない。そのような状況の中で、行くという現実の行いが始まるのであって、行くという現実の行いが、「まだ行っていない」(という想像)の中にあるということも絶対にあり得ない。中論を勉強しています[行く]という行いが未だ実行...

  • 中論・2-12頌 行くという現実の行いの始期

    第十二頌 行くという現実の行いの始期西嶋先生の訳行くという現実の行いは「行った」という追憶の中に生まれる筈がないし、行くという現実の行いは「まだ行っていない」という想像の中にも生まれる筈がない。行くという現実の行いは「行きつつある」という認識の中にも生まれる筈がないのであるから、行くという現実の行いの始期を特定することはできない。中論を勉強しています今まさに「行く」と言う行いは「行った」と言う過去...

  • 中論・2-11頌 行くという現実の行いの実在

    第十一頌 行くという現実の行いの実在西嶋先生の訳行く人と行くという動きの両方が、行くという現実の行いにおける二つの要素としてしがみ付いているとしても、現に行くという現実の行いが実在している。行く人と行くという動き(という概念的な理解)が両方とも生まれていない場合には、行く人と行くという動きとが分裂する以前の現実的な実体として、行くという行いが事実として現実の世界の中に実在している。中論を勉強してい...

  • 中論・2-10頌 行く人と行くという動きと行くという現実の行い

    第十頌 行く人と行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行く人と行くという動きとのどちらか一方が行くという考え方は、両方とも拘り過ぎている。行くという現実の行いが現にないならば、行く人も行くという動きも行くという現実の行いも単なる願望に過ぎない。中論を勉強していますもしも「行く人」または「行くという動き」のどちらか一方が「行く」という行為であると考えるならば、「行く人」または「行くという動...

  • 中論・2-9頌 行くという動きと行くという現実の行い

    第九頌 行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きがほんの僅かでも行くということが、将来といえどもどうしてあり得よう。行くという動きは行くという現実の行いがない限り、この宇宙の中に現れて来ることが絶対にない。中論を勉強しています「行く」という動きを感じるのは認識である、その頭で考えた認識がほんの僅かでも「行く」という現実の行いをする事は将来といえどもどうしてあり得ようか。「行く...

  • 中論・2-8頌 行く行かないという動きと行くという現実の行い

    第八頌 行く行かないという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きが行くのではないのと同じように、行かないという動きも当然行くということがない。行くという動きと違う動きが行かないという動きであって、(行くという動きと行かないという動きの他に)三番目のものが行くということも実際には決してあり得ない。中論を勉強しています「行く」という動きそのものと現実に行くという事実とは同じではない、そし...

  • 中論・2-7頌 行為をする人と現実の行い

    第七頌 行為をする人と現実の行い西嶋先生の訳行くという行為をする人が視野に入っていない場合も、行いという現実の行いが現実の世界に姿を現して来ることが不可能である。行くという現実の行いに関連して、具体的に行為を行う人が現実的でないならば、将来といえども一切のものの存在する可能性がない。中論を勉強しています行くという行為をする人に対して我々が無視をしている場合、行くという現実の行いが現実の世界に姿を現...

  • 中論・2-6頌 行くという動作と現実の行い

    第六頌 行くという動作と現実の行い西嶋先生の訳行くという動きを二つに分けることは拘りであり、行くという現実の行いを二つに分けることも執着である。何故ならば、もしも行くという動きが視野に入っていない場合には、行くという現実の行いがこの現実の世界に現れて来る可能性が断ち切られてしまっているのであるから。中論を勉強しています行くという動きを認識と動作の二つに分ける事は拘りである、行くという今現在の行いを...

  • 中論・2-5頌 「行きつつある」という事実と行くという現実の行い

    第五頌 「行きつつある」という事実と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行きつつある」という事実と行くという現実の行いとのどちらかに拘わることが、行くという現実の行いに関する二つの問題点である。「行きつつある」という事実は、行くという現実の行いに包合されており、また行くという現実の行いは、やはり「行きつつある」という事実に包合されている。中論を勉強しています「行きつつある」と言う認識と「行く」と言う...

  • いや参った参った

    ブログに入ろう思って、ブロブIDそしてパスワードを入力したら、「認証用コードを入力」してくださいの画面。メールで認証用コードを送りますとの事、早速メールを開いて認証コードを小文字で入力するのだが「認証コードが一致しません」となる。どういう事だと思い質問のメールを送るのだが、相変わらず「認証コードが一致しません」となる。パニック、パニック。冷静に考えたらもう一つメールアドレスがある。試しに開けてみたら...

  • 中論・2-4頌 現実の行いの実体

    第四頌 現実の行いの実体西嶋先生の訳行くという現実の行いが、「行きつつある」という事実の中に含まれているという考え方は、行くという現実の行いと「行きつつある」という事実との両方について、考え方が拘り過ぎている。何故ならば、「行きつつある」という事実は、行くという動きを忘れた時に動き出すのであり、(そこで始めて)「行きつつある」という事実が具体化するのであるから。中論を勉強しています「行きつつある」...

  • 中論・2-3頌 現実の行いの実状

    第三頌 現実の行いの実状西嶋先生の訳「行きつつある」という事実の中で現に行くという現実の行いを実行している場合には、それを何らかの言葉で表現しようとしても、そのことは不可能である。「行きつつある」という事実か現実の行いかのどちらかが実在している場合には、その情景を言葉で表そうとしても、そのことは不可能である。中論を勉強しています「行きつつある」と言う認識の状況に応じて正に「行く」と言う現実の行いを...

  • 中論・2-2頌 手足の動きと行きつつある事実

    第二頌 手足の動きと行きつつある事実西嶋先生の訳手足の動きが行くという動きである場合には、その手足の動きは常に「行きつつある」という(現在の瞬間における)事実の中にある。手足の動きが「行った」(という追憶)とか「まだ行っていない」(という想像)とかから抜け出している場合には、行くという動きは常に「行きつつある」という(現在の瞬間における)事実と同じである。中論を勉強しています手足が動く動作または行...

  • 中論・2-1頌 行くことに関する追憶、想像、認識と行くという現実の行い

    第一頌 行くことに関する追憶、想像、認識と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行った」(という追憶)が実際に行くことはないし、それと同じように「まだ行っていない」(という想像)が実際に行くということも決してない。「行った」(という追憶)とか「まだ行っていない」(という想像)とは別の「行きつつある」(という認識)も実際に行くということがない。中論を勉強しています「行った」という記憶は現実の行いの「行く...

  • 中論・第二章「行った」、「まだ行っていない」に関する検証

    第二章 「行った」、「まだ行っていない」に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です。 第二章では、仏教哲学の一つの基準である二種類の異なった哲学が、「行く」という極めて単純な現実の行いを例にとって、説明されている。 二種類の異なった哲学とは漢訳の言葉で表現するならば、真諦と俗諦との二つである。一般的にいうと俗諦の哲学は欧米の哲学の中では非常に発達し、われわれ人類はその恩恵を言葉では表現できない程大量...

  • 中論・1-14頌 結果と確かな事実(2)

    第十四頌 結果と確かな事実(2)西嶋先生の訳したがって結果は確かな事実を破壊する力もなければ、確かな事実以外のものを破壊する力もない。結果は存在するものではないという考え方を否定した場合、確かな事実と不確かな事実とが混然一体となった現実の世界を、一体何処に発見することが出来るであろう。中論を勉強していますしたがって結果と云うものは実在しないので、結果によって確かな事実は否定されないし不確かな事実さ...

  • 中論・1-13頌 結果と確かな事実(1)

    第十三頌 結果と確かな事実(1)西嶋先生の訳結果は確かな事実に障害を与えるけれども、さまざまの確かな事実は、さまざまの惨めな事物を破壊して行く。結果はさまざまの惨めな状態の中に包まれているものであるけれども、それが確かな事実を破壊するということが、どうしてあり得よう。中論を勉強しています結果が実在すると錯覚してしまうと確かな事実さえもゆがめてしまう、しかしたとえ結果によってゆがめられた様に見える様...

  • 中論・1-12頌 現実的な具体的なものの動きと結果

    第十二頌 現実的な具体的なものの動きと結果西嶋先生の訳そこにおいては、現実的なそしてまた正に具体的なものが、その具体的なものに沿って、したがって確かな事実に従って前進している。たとえさまざまの確かな事実とは無関係な状況のなかにおいても、結果が実際の活動を始めるということは絶対にあり得ない。中論を勉強していますこの世の中においては、現実的であり具体的なものが具体的な性質を外れることなく存在し続けてい...

  • 中論・1-11頌 結果の実在に対する否定

    第十一頌 (結果の実在に対する否定)西嶋先生の訳個々ばらばらのものが一緒に集められているものやさまざまの確かな事実の中では、具体的な事実としての結果が実在しているということは決してあり得ない。そのような事実としての結果は、どのようなさまざまの確かな事実の中にも、絶対に存在し得ないのであるから、そのような結果はさまざまの確かな事実の中にも存在する可能性が全くない。中論を勉強しています個々ばらばらの状...

  • 中論・1-10頌 現実世界の実体

    第十頌 (現実世界の実体)西嶋先生の訳さまざまの存在の中においては、あるいはさまざまの主観的な概念としての存在の段階においては、現実の実体そのものが現実の実体として認識されることがない。そのような状況の中では、この現実の世界が存在しているという考え自身が、決して現われて来るものではない。中論を勉強しています感覚器官で捉える様々の存在の中において、あるいは自分の頭で考え出した存在の中においても、現実...

  • 中論・1-9頌 現実の宇宙秩序と自己管理

    第九頌 (現実の宇宙秩序と自己管理)西嶋先生の訳宇宙の秩序がまだ現われていない段階では、自分自身を規制する自己管理の能力も現われては来ない。間断のない心の働きが自己管理の状態によって縛られていない場合には、確かな事実も全く不明確である。中論を勉強しています行為が始まっていない状況は宇宙の秩序がまだ現われていない段階である、そして自分で自分の事をうまく乗りこなす自己管理と言う状態が現れて来ない状態で...

  • 中論1-8頌 客観世界と現実的な宇宙の秩序

    第八頌 (客観世界と現実的な宇宙の秩序)西嶋先生の訳客観的な世界とは違う世界がこの世の中である場合、現実の宇宙秩序が現われて来る。現に客観的な世界とは違う宇宙秩序の中にありながら、客観的な世界がもう一度改めて存在するということが、何処にあり得よう。中論を勉強しています感覚器官で捉える客観世界はこの世の中の一部ではあるがこの世の中そのものではない、その事に気付いた場合、現実のこの世の中の姿が見えてく...

  • 中論・1-7頌 宇宙の秩序と理性

    第七頌 (宇宙の秩序と理性)西嶋先生の訳現実の宇宙が、安定したものと安定していないものとの融合の中に、または現実的なものと現実的でないものとの融合の中に、はっきりした形で現れて来ていない場合には、はっきりしている筈の宇宙が、はっきりして来ることは、決してあり得ないであろう。何故かというと、(その場合には、)完全に自由である筈の理性でさえ、具体的に固定化されてしまっているから。中論を勉強していますこ...

  • 中論・1-6頌 確かな事実の独立性

    第六頌(確かな事実の独立性)西嶋先生の訳抽象的なものであろうと具体的なものであろうと、確かな事実が何らかの他の目的のために縛られているということは決してない。抽象的な確かな事実が、何らかの具体的な事物の中に包合されているという事実はないし、また具体的なものが、確かな事実を作り出すということも決してない。中論を勉強しています理性の様な抽象的なものであろうと、客観的な事物のような具体的なものであろうと...

  • 中論・1-5頌 現象と確かな事実との同一性

    第五頌(現象と確かな事実との同一性)西嶋先生の訳明々白々とした事実がこの世の中として現れており、さまざまの事物と呼ばれるものが、正にさまざまの確かな事実そのものである。さまざまの現象がさまざまの事物として現れていない度合いに応じて、さまざまの確かな事実でないものも実在することが決してない。中論を勉強しています我々の目の前に確かな事実でないものが実在する事は決してない。そして様々の事物と呼ばれている...

  • 中論・1-4頌 現実の行いと確かな事実との合一

    第四頌 現実の行いと確かな事実との合一西嶋先生の訳現実の行いは確かな事実の類似品ではなく、(確かな事実そのものであり、)確かな事実ではない類似品が現実の行いであるということも決してない。さまざまの確かな事実は現実の行いに似ていないものではなく、現実の行いに似たものが正に実在している。中論を勉強しています現実の行いは四つの確かな事実の類似品の様なものではなく、現実の行いは四つの確かな事実そのものであ...

  • 中論・1-3頌 主観的存在、客観的存在の認識不可能

    第三頌 主観的存在、客観的存在の認識不可能西嶋先生の訳主観的な存在は、さまざもの存在の中やさまざまの確かな事実その他の中において、認識の対象となることができないのであるから、主観的な存在が認識できない以上、客観的な存在も認識することができない。中論を勉強しています頭で考える主観的な存在(頭を使って考えだした内容)と言うものは概念あるから、この世の中の様々な存在の中やさまざまの確かな事実その他の中に...

  • 中論・1-2頌 四種類の確かな事実

    第二頌(四種類の確かな事実)西嶋先生の訳四つの確かな事実とは、理性と客観世界と現在の瞬間と、そして現に眼の前に見えている神にも似た現実そのものであり、更に第五番目のものが確かな事実として実在するということは決してない。中論を勉強しています我々が生きるこの世の中には四つの確かな事実がある、それは「理性」と云われるもの「客観世界」と云われるもの「現在の瞬間」と云われるもののとそして目の前に存在する素晴...

  • 中論・1-1頌 主観的なもの、客観的なものの実在の否定

    第一頌(主観的なもの、客観的なものの実在の否定)西嶋先生の訳(確かな事実は)主観的なものでもなければ、客観的なものでもなく、(そうかと云って)その両方と無関係なものではないけれども、理論に合わないものでは決してない。眼の前のさまざまな現象が正に見えているだけのことであって、さまざまの存在(と呼ばれる概念)が実際に存在している訳ではなく、存在(と呼ばれる概念)は何も存在しないのと同じである。中論を勉...

  • 中論・第一章 確かな事実に関する検証

    第一章 確かな事実に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です。 プラテイヤヤは従来、因縁と訳されて来た。しかし本来の意味は、信仰とか信念とか確信とかと言う意味である。したがってプラテイヤヤは「中論」が主題としている仏教思想における根本的な信仰内容すなわち、現に我々の眼前に展開されているところのこの世の中は、実は真実そのものであるという徹底した実在論と関連していると解される。それは冒頭に掲げられた四行...

  • 中論・巻頭の四行詩(その2)

    巻頭の四行詩西嶋先生の訳隠されたものではない、新たに現れたものでもない、途切れ途切れのものでもなければ、永遠のものでもない。二つ以上の目的を持ったものでもなければ、幾つかの目的を持ったものでもなく、到来するものでもなければ、消滅していくものでもない。それは、明々白々とした綜合的な現象であり、目に見える世界であり、静寂であり、恵み深いものである。あの全てに目覚められた方は、そのような世界を尊敬の念を...

  • 中論・巻頭の四行詩(その1)

    西島先生の主張 プサン本のテキストにおいては、通常、帰敬偈と呼ばれている四行の詩が、第一章の冒頭に掲げられているけれども、ヨング本のテキストにはそれが見当たらない。しかし「中論」全体の思想構造から考えた場合、その四行の詩が持っている思想上の意味が非常に高いと考えられる処から、別に一章を設けて巻頭の四行詩を残すこととした。 一般的に云えば、竜樹尊者の仏教思想は、人間の思考能力から生まれた観念論と人間...

  • ダールマの存在を信ずるか否か

    ダールマの存在を信ずるか否か※ダールマを抽象的な考え方として理解するか、あるいはダールマに対する考え方と物質的存在が混然一体となった実在と理解するかに依って、この「中論」に対する解釈は大いに異なってしまう。※従来の中論における,縁起、無自性、空という三つの概念1:縁起=この世の中は実体的(事物がもつ本当の姿や本質的な正体)な存在ではなく、相互依存の関係である。2:無自性=この世の中の全ての事物は、主観...

  • 中論・結語4

    西嶋先生の中論に対する結論・・・その4 3・訳者が「正法眼蔵」や「中論」を精読した限りでは、釈尊がその最初の説法の際に仏教の中心思想として説かれた「四諦の教え」の仏教哲学における重要性が痛感される。「四諦の教え」はいわゆる小乗仏教の時代に説かれた禁欲的な消極主義がその真意ではなく、今日の欧米社会においてもその主軸となつている観念論と唯物論との非実在性に気付き、人類を最高の幸福に導く実在論を主張した...

  • 中論・結語3

    西嶋先生の中論に対する結論・・・その3そこで訳者が「中論」の翻訳に当たって経験した多少の判断を述べ、今後の日本仏教あるいは今後の世界仏教にたいして、どのような方向に向かっての努力が必要であるかという問題について考えて見たい。 1・竜樹尊者の死後はぼ百年ほど後に、既に鳩摩羅什によって「中論」の漢訳が行われており、この翻訳は前秦という国家の官営事業であった処から、中国においては「中論」に関する最も権威...

  • 中論・結語2

    西嶋先生の中論に対する結論・・・その2その1からのつづき・・・しかしこのような見解は、今日の日本における仏教界、仏教学界の中では殆ど見ることができない。そのことはもしもこの小著の「中論」改訂版が、竜樹尊者の真意に適っているとした場合、明治維新以降、欧米における科学的な研究方法を基礎として構築された日本の仏教界並びに仏教学界は、文字通り百八十度の転換を必要とすることになると思われるからである。然し明治...

  • 中論・結語1

    西嶋先生の中論に対する結論・・・その1竜樹尊者の書かれたMulamadhyamakakarikahをサンスクリットの原典から直接日本語に翻訳した初版本の拙訳「中論」を、再度原典を基準として翻訳し直したものが、この改訂版「中論」である。その結果、非常に強く感ずる最大の問題は、「中論」が徹頭徹尾この世の中が実在するという実在論を基準として書かれた仏教哲学であるという一点である。「中論」は従来この世の中の実在を否定する観念...

  • 中論・27-30頌 教説と宇宙の秩序

    第三十頌 教説と宇宙の秩序西嶋先生の訳教説は全て思考の世界の中にあり、それが現実に基礎を置く宇宙の秩序を間違った場所に置いてしまう。そのようなさまざまの教説を哀れむべきものとして受け止めた釈尊を、私は将来に亘って崇拝し続ける。中論を勉強しています教説というものは全てが思考の世界のものである、だからそれが原因となって現実からずれてしまっている教説を現実であると勘違いしてしまう。その様な現実を勘違いし...

  • 第二十七章が終われない

    「ブログ・中論勉強してます」をなんとしても白内障の手術までには終わらしておきたかったが、中論27章は難解なところが多く、最終第三十頌の「教説と宇宙の秩序」が遂に終了する事が出来なかった。術後はゴロゴロした違和感と霞が掛った様な状態である。今の所パソコンの入力は眼が疲れるので最小限にして、閲覧だけにとどめている。右目の手術の最中に少し寝てしまい、それが原因なのか眼球が動いて手術時間が18分を要したそ...

  • 白内障の手術

    先日、右眼の白内障の手術が終わった。手術前は色々と気ぜわしいことや面倒な事もあった。なにしろここ5年間医者の世話になった事がなかったので、わざわざ内科医の診断書をもらいに行かなければならなかった。たまには風邪でも引いた方が良かったかな??。それから手術の時、頭部を固定するため額と鼻の下と顎をテープで固定するため髭を剃ることになった。看護婦さんが言うには「テープを剥がすとき髭があるととても痛いですよ...

  • 中論・27-29頌 現実の世界と教説の不存在

    第二十九頌 現実の世界と教説の不存在西嶋先生の訳そのような状況の中においてはすべての事態について、均衡した状態を超越し、永遠をも乗り越えた事態が進行しつつあるということが実状である。さまざまの教説と呼ばれるものは、何処にも、何ものの中にも、どのように優れたものの中にも、またどのようなものを離れても、この現実の世界においては将来といえども存在し得ないのである。中論を勉強しています我々が生きているこの...

  • 中論・27-28頌 終末を持つ持たないの絶対性

    第二十八頌 終末を持つ持たないの絶対性西嶋先生の訳終末を持っていることと終末を全く持っていないこととが、両方とも現実の事態であるとした場合でも、終末を持つという事態が、個人の好みにしたがって具体化するということもなければ、終末を持たないという事態が、個人の好みにしたがって具体化することもあり得ない。中論を勉強しています終末を持っている状態と終末を全く持っていない状態の両方ともが、この世の中の現実の...

  • 中論・27-27頌 客観世界と現在の瞬間

    第二十七頌 現実の世界と時間系列西嶋先生の訳感受作用がたった一つの現実の場所で行われている場合には、仮に名目的な意味でも、ばらばらのものが(時間系列を通して何かに向かって)接近して行くという事態は起こり得ない。また一つの場所が、(ばらばらの状態から)たった一つの状態に接近するということはあり得ないのであるから、この世の中が(時間系列を通して)新たに現われて来るということもあり得ない。中論を勉強して...

  • 中論・27-26頌 現実の世界と時間系列

    第二十六頌 現実の世界と時間系列西嶋先生の訳自分が現実の世界に接近することによって、一箇所に限定された現実の事態が、同じように接近して来るというような(時間系列の中における)事態はあり得ない。たった一つの場所に限定されている現実の事態が、さらに接近するというようなことがないという判断は、決して拘わった判断ではない。中論を勉強しています我々が現実を知ろうとする事によって、たった一箇所に限定された現実...

  • 中論・27-25頌 現実の世界と永遠

    第二十五頌 現実の世界と永遠西嶋先生の訳終末を持つ可能性がたった一つの(具体的な現実の)場所に限定されている場合には、(そのような現実的な見方から)逆にそのたった一つの場所が正に終末を持つ可能性のない(永遠の瞬間における)存在であると考えることも出来る。終末を持つ可能性があると考えることは、恐らく(現に)終末を持っていないという事実を示すものであろうから、この地上世界は決して拘束された世界ではあり...

  • 中論・27-24頌 現実の世界と終末

    第二十四頌 現実の世界と終末西嶋先生の訳好ましい事実が先行していない場合には、自分にとっても何かを得る機会が現れて来るとは限らない。五蘊と呼ばれる集合体がその五蘊と呼ばれる集合体自体に依存して、さまざまの事物を存在させているのであるから、そこにおいてはこの地上世界が現実に終末を持たない現在の瞬間として捉えられる可能性もある。中論を勉強していますすでに存在するものがある。もしもその事が好ましい事実で...

  • 中論・27-23頌 現実の世界と終末に似た状態

    第二十三頌 現実の世界と終末に似た状態西嶋先生の訳さまざまの好ましい事実が先行している場合でも、自分にとって何かを得るさまざまの機会が現われて来るとは限らない。五種類の集合体そのものが五種類の集合体を作り出している事態が、明々白々としたこの世の中の実体であり、そのような状況の中ではこの地上世界も、終末に似たものとして存在することが可能である。中論を勉強していますすでに存在するものがある。もしもその...

  • 中論・27-22頌 終末を持つものと終末を持たないものとの融合

    第二十二頌 終末を持つものと終末を持たないものとの融合西嶋先生の訳(五蘊と呼ばれる五種類の)集合体から成るさまざまの事物は、断絶のない流れであるから、それは正に光りの照射を乞い願っている。したがって終末を持たないように見える性質も、終末を持つように見える性質も、共に何かに拘束されてしまっている。中論を勉強しています五蘊と呼ばれる様々の事物から成り立っているこの世の中は絶え間ない流れの様である、その...

  • 中論・27-21頌 現実の世界以外の世界の不存在

    第二十一頌 現実の世界以外の世界の不存在西嶋先生の訳有限の性質を持ったものがこの地上世界であるとしても、おそらくこの地上世界以外の世界の存在するということがどうしてあり得よう。現に有限の性質を持たないものが、この地上世界であるとしても、この地上世界以外の世界が、どうして存在するということがあり得よう。中論を勉強しています我々が日々生活しているこの地上世界が有限の性質を持ったもので成り立っているとし...

  • 中論・27-20頌 永遠と永遠でないものとの合一

    第二十頌 永遠と永遠でないものとの合一西嶋先生の訳永遠なものが全く実在していない場合には、永遠でないものが一体どのようにして存在するということがあり得よう。永遠なものも永遠でないものも両方とも、正に隠されていて眼では見えないものである。中論を勉強していますもしもこの世の中に永遠なものが全く実在していないと言うならば、一体どうして永遠でないものがこの世の中に存在すると言う事があり得るだろうか?我々が...

  • 中論・27-19頌 現実世界の不可説性

    第十九頌 現実世界の不可説性西嶋先生の訳何かが何処からともなく到来し、また何かが何処へともなく去って行く。したがって無限の過去からの存在が正に日常生活における浮き沈みである場合には、恐らく具体的な事物が実在するということでは決してないであろう。中論を勉強しています言葉では表現できない何かが何処からともなくやって来て、その言葉では表現できない何かがまた何処へともなく去って行く。もしも無限の過去からの...

  • 中論・27-18頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待

    第十八頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待西嶋先生の訳永遠でないものと永遠なものとが両方とも、現実の事実として存在する場合には、永遠なものもわれわれの希望通りに現われる訳ではなく、永遠でないものもわれわれの希望通りに現れて現われて来ない点では全く同じである。中論を勉強していますもしも永遠でないものも永遠なものも両方ともが、空想ではなく現実の事実として存在するとするならば、永遠な...

  • 中論・27-17頌 永遠と永遠でないものとの共存

    第十七頌 永遠と永遠でないものとの共存西嶋先生の訳天国もやはり一つの具体的な場所であるとすると、その一つの具体的な場所は、恐らく普通の人間社会と同じ社会であろう。永遠でないものと永遠なものとが両方とも存在していることが可能であり、この世の中は、決して拘わった状態のものではないであろう。中論を勉強していますもしも世間で言っている天国と言うものが具体的な場所として存在するならば、恐らくその様な具体的な...

  • 中論・27-16頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定

    第十六頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定西嶋先生の訳神とは違うものが人間らしさであるからこそ、永遠でないものという考えもあり得る。神とは違うものが人間らしさであるからこそ、宿命と呼ばれるものは起こり得ない。中論を勉強しています完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、我々の世界においては永遠でないものの存在を考える事が出来る。完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、...

  • 中論・27-15頌 神および永遠

    第十五頌 神および永遠西嶋先生の訳現実の神が現実の人間的なものの中にある場合には、それに伴って永遠なものも存在する可能性がある。実際に見えて来ないものが神であるから、永遠は恐らく生まれて来るものではないのであろう。中論を勉強しています頭で考えてみると神の様なものが人間の行いの中にあるのかもしれない、また頭で考えてみると人間の行いの中に永遠なものが存在するのかもしれない。しかし神と云うものは見えたり...

  • 中論・27-14頌 旅行も現在の瞬間

    第十四頌 旅行も現在の瞬間西嶋先生の訳旅行の途中にあって、まだ何処にも行き着いていないというふうに考える必要は決してなく、自分が何処かに行き着くであろうということは、自分で知ることができる。まだ目的地に到着していないということが現状であって、まだ目的地に着いていないということとまだ旅行中であるということとは、同じ事実の裏表である。中論を勉強していますもしも我々の人生の全てを旅行に例えるとするならば...

  • 中論・27-13頌 過去派と未来

    第十三頌 過去派と未来西嶋先生の訳ものの見方が完全に過去に帰属している人々は、未来は自分と無関係であると考えたり、未来こそ自分と密接な関係があると考える。(しかし)ある場合には未来と自分自身とが無関係であり、ある場合には未来と自分自身とが密接に関係しているということは、この世の中が整然とした形で、姿を見せていないことを意味している。中論を勉強していますものの見方の基準を常に過去にしている人々は、過...

  • 中論・27-12頌 未来の不存在

    第十二頌 未来の不存在西嶋先生の訳未来は決して現に存在するものではない。何故かというならば(もしも未来が既に実際に存在するとするならば)、其処においては悪徳でさせも既に固着してしまっている筈であるから。既に実行された行為が、仮にも霊魂と呼ばれるものに依存して存在するならば、この世の中に存在しているさまざまの事物も、正に理性に適合しないものになってしまう。中論を勉強しています未来というものは頭で考え...

  • 中論・27-11頌 現在の瞬間と現実の世界

    第十一頌 現在の瞬間と現実の世界西嶋先生の訳行為における途切れ途切れの瞬間というものは、決して好ましくないものではなく、また行われた行為の結果とは違うものが、現在の瞬間における行いである。この世の中以外の状態を認識させたいと期待することは、その出発点から拘わりがあり過ぎる。中論を勉強しています途切れ途切れの刹那に行われる行為というものは決して好ましくないものではない。また行為の結果は頭で考えた内容...

  • 中論・27-10頌 眼の前の世界が現実の世界

    第十頌 眼の前の世界が現実の世界西嶋先生の訳もしもこの世の中が、この眼の前の現状とは違ったものとして存在することがあり得るとするならば、この眼の前の現状を拒絶することも可能な筈である。しかし実情としては、正に現実が確立されているだけのことであって、そのような状態の中においては、生まれつつあるという状態と死滅という状態とは(現実と呼ばれる)一つのものであろう。中論を勉強していますもしも我々が住むこの...

  • 中論・27-9頌 未来、過去、世俗の不存在

    第九頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳未来と呼ばれるものも過去と呼ばれるものも世俗と呼ばれるものも、現実の事実として現れるものではない。何故ならばそれらのものはまだ誕生しない以前から、何か別のものの発展として具体的に存在している訳ではないのであるから。中論を勉強しています我々は未来も過去も世俗的な道徳もこの世の中に実在していると思っているが、それらは頭で考えた言葉であり内容であって、いずれもが現...

  • 中論・27-8頌 感受作用と現実と霊魂

    第八頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳このように感受作用を離れて別個の事態がある訳ではないのと同じように、感受された内容と現実の事態とが、全く同じであるということも絶対にない。感受作用とは全く関係のない内容が、霊魂と呼ばれるものに依存して実在するということはないし、具体的なさまざまの事物が確かなものとして実在していないということも決してない。中論を勉強していますこの様に現在の瞬間の事態である感受...

  • 中論・27-7頌 感受作用と霊魂

    第七頌 感受作用と霊魂西嶋先生の訳また別の例として、感受作用を離れて、霊魂が姿を現わすということも決してない。何故ならば、把握された内容が感覚的に受け入れた内容と違う場合には、その別の内容は決して理解することの出来るような内容ではないのであるから。中論を勉強していますまた別の例として同じ様な感受作用が他にあったとしても、だからと言って霊魂と呼ばれているものが新たに姿を現わすという事は決してない。何...

  • 中論・27-6頌 感受された内容と霊魂

    第六頌 感受された内容と霊魂西嶋先生の訳感受された内容と霊魂とは同じものでは絶対になく、具体的なものはその表面を覆う外面があると同時にその内容が全体に行き亘っているものである。何故ならば、感受された内容が名目的であるということがどうしてあり得よう。感受されたものは、将来に向かって存続し続けて行くのである。中論を勉強しています我々の感覚器官の働きによって得られる感受作用の内容と我々が考え想像する霊魂...

  • 中論・27-5頌 霊魂の不存在

    第五頌 霊魂の不存在西嶋先生の訳感受された内容が甚だ漠然としているということは、霊魂と呼ばれるものがこの世の中において実際に活躍しているということが、実在ではないということである。感受されたものも恐らく霊魂と呼ばれるものと似たものであり、霊魂と呼ばれるものも、やはり人々の思い込みであって実在ではない。中論を勉強しています感受作用による認識が甚だ漠然といているということは、いくら霊魂が存在していると...

  • 中論・27-4頌 霊魂の実在に対する疑問

    第四頌 霊魂の実在に対する疑問西嶋先生の訳霊魂と呼ばれるものが、仮にも具体的なものとして(この世の中に)存在するとするならば、その感受される内容がもっとはっきりしたものになっている筈である。感受された内容が、甚だ取り留めのない漠然としたものであるという事情が、霊魂と呼ばれるものによる影響であるとするならば、霊魂と呼ばれるものは、一体何であろう。中論を勉強していますもしも霊魂と呼ばれるものがこの世の...

  • 中論・27-3頌 教説の非実在性

    第三頌 教説の非実在性西嶋先生の訳「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とか(と呼ばれる教説)は、具体的なものとして(この世の中に実際に)実在する性質のものではない。何故ならば、まだこの世の中に具体的に現われて来ていないものが、既にこの世の中のものとして実在するということはあり得ないのであるから。中論を勉強しています「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とかのそれぞれの教説は、頭で考え出した事であ...

  • 中論・27-2頌 教説と現実

    第二頌 教説と現実西嶋先生の訳私は、さまざまの教説は将来といえども存在しない方が望ましいと考えており、極楽浄土に逃げて行くことは、一種の逃避であると思う。私としては、(教説の)存在を考えることは、結論を急ぎ過ぎることであり、極楽浄土を願うことであり、逃げ場を求めることである(と思う)。中論を勉強しています私は、さまざまの教説は出来れば存在しない方が良いと考えている。教説を頼りにする事は極楽浄土に逃...

  • 中論・27-1頌 四種類の教説

    第一頌 四種類の教説西嶋先生の訳「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、これらがさまざまの教説の(具体的な)例である。これらは、「未来派」は永遠性を指向し、「過去派」は世界の創造主を指向し、「世俗派」は世間並みの道徳を指向し、「現実派」は過去と未来とを共に否定した現在の瞬間に基礎を置く仏教哲学に依って支えられている。中論を勉強しています「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、と言わ...

  • 第二十七章 教説に関する検証 (その2)

    第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その2)abhum:ヴィシュヌ派:ヴィシュヌ神の永遠性を信じ、この世の発生以前から存続し続けている永遠性を信ずる立場に立って、精神主義的な観念論を主張した宗派として理解した。atitam:特殊のシヴァ派:シヴァ神に対する信仰から、一切の事象を過去によって既に決定された事実として理解し、この世の中を決定論的に理解した宗派ではないかと想像される。adhvana...

  • 第二十七章 教説に関する検証 (その1)

    第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その1)仏教はダールマまたは現実を直接描写した教えであって、通常の教説のように抽象的な概念を使って、主観的なあるいは客感的な教説を述べた教えとは異なる。しかしその反面、もしも仏教が全く言葉では説明することのできない教えであるとするならば、仮にそのような仏教思想が存在するとしても、他の人々に対して伝承することができないと云う意味で、致命的な欠...

  • 中論・26-12頌 個々の事物の独立性

    第十二頌 個々の事物の独立性西嶋先生の訳個々のものが抑圧されていることに依って、個々の事物がこの世の中において活動を開始する訳ではない。苦しみとか五種類の集合体とかというようなものも、それぞれ個々に独立したものであり、それであればこそこの世の中は、一つに纏まった世界として自己管理されているのである。中論を勉強しています個々の状況が全て管理されているからと言って、個々の事物がこの世の中において全て認...

  • 中論・26-11頌 無知から生まれた抑圧と現実の行い

    第十一頌 日常生活の基本原則と理知西嶋先生の訳さまざまの無知の中やさまざまの抑圧の中に、さまざまの現実的な行いが実在しているということはない。無知から生まれた抑圧は、知識に従う場合でも具体的なものの中に求める場合でも、実際に存在することからは完全にかけ離れている。中論を勉強しています様々の無知の状態の中や様々の押さえつけた状態の中においては、様々な考え方やまた様々な感受作用ではない行為の実践が現実...

  • 中論・26-10頌 日常生活の基本原則と理知

    第十頌 日常生活の基本原則と理知西嶋先生の訳そのような事情から、日常生活の浮き沈みにおける基本原則が、様々の現実的な行いを準備し、さまざまの無知を準備する。したがって行いが無知を作り出す訳ではなく、現実が観察的な態度を止める時に理知が作り出される。中論を勉強しています憂鬱な状態の苦しみを耐え忍ぶ事により現実がわかってくると言う事情から、日常生活における基本原則が正しければ様々な現実的な行いを、また...

  • 中論・26-9頌 忍耐と現実の世界

    第九頌 忍耐と現実の世界西嶋先生の訳憂鬱な状態を耐え忍んでいると、この世の中が姿を現わし、現実の世界が動き出す。そのようにして綜合的な世界が、個々の特殊事情の中に、この現実の世界の中に、苦痛と(五種類の)集合体とが一つに重なった状態の中に存在している。中論を勉強しています憂鬱な状態を耐え忍んでいると、その憂鬱はこの世の中の事であり、現実の事であると認識するようになる。憂鬱を含む綜合的なこの世の中に...

  • 中論・26-8頌 五種類の集合体と嘆き

    第八頌 五種類の集合体と嘆き西嶋先生の訳五種類の集合体(五蘊)が正に存在であり、その存在を離れて誕生(生)が具体的なものとなる。老化や死滅(老死)はさまざまの苦しみであり、さまざまの激しい苦痛は正にさまざまの嘆きである。中論を勉強しています五蘊と呼ばれている五種類(色・受・想・行・識)の集合体は現実の存在である。その現実の存在の有無に関わることなく誕生(生)が具体的なものとなる。老化や死滅(老死)は...

  • 中論・26-7頌 感受作用と存在

    第七頌 感受作用と存在西嶋先生の訳感受作用(受)を通して存在(有)が現実的なものとなり、感受作用(受)そのものが実際に機能する。器としての世界を感受作用の対象として認めることをしないならば、存在を断念しなければならないような事態の存在(有)を考えなければならないような事態はあり得ない。中論を勉強しています我々は感受作用(受)を持っているから、この世の中の存在(有)が現実的なものとなる。その事は感受...

  • 中論・26-6頌 感受作用と渇望する心

    第六頌 感受作用と渇望する心西嶋先生の訳感受作用(受)そのものがさまざまの確かな事実の中に含まれていないということは、望ましいことである。何故ならば(本当に求められているものは、感受作用(受)そのものではなくて)むしろ感受作用の対象の方にあるのであるから。渇望する心(愛)は感受作用(受)における(感覚器官と感覚の対象と両者の接触と感受作用との)四つの要素として獲得される。中論を勉強しています感受作...

  • 中論・26-5頌 物質と感受作用と眼および接触と感受作用

    第五頌 物質と感受作用と眼および接触と感受作用西嶋先生の訳三種類のものが一つに結び付いた状態とは、物質と感受作用と眼との(三つの結合の)ことである。したがって接触(触)が接触(触)そのものから抜け出した時に、感受作用(受)が活躍を始める。中論を勉強しています接触の働き(触)は三種類のものが一つに出会うことであり、その三種類のものとは物質と感受作用と眼(感覚器官)の事である。したがって物質と眼(感覚...

  • 中論・26-4頌 現実の事物と綜合的な認識

    第四頌 現実の事物と綜合的な認識西嶋先生の訳眼が物質に対して明瞭である場合には、全ての事物に関する構成も同じように明瞭である。名称と物質との結合(名色)である現実の事物が同じように明瞭である場合には、綜合的な認識が活動し始める。中論を勉強していますもしも物質を見る眼の働きがハッキリしている場合には、この世の中の全ての事物に対しても同じようにハッキリとしている。そして外界の世界の事物がハッキリしてい...

  • 中論・26-3頌 現実の事物と接触

    第三頌 現実の事物と接触西嶋先生の訳瑞々しい状況の中でそして名称と実体とが一つに重なった現実の事物(名色)の中で、六種類の感覚器官(六入)と綜合的な存在とが一つに重なった状態で存在している。そして六種類の感覚器官(六入)が到来したことにより、接触の働き(触)が実際に開始される。中論を勉強しています幸せでありそして名称とその物質的な実体とが一つに重なった具体的な事物(名色)の中に、六種類の感覚器官(...

  • 中論・26-2頌 安定した状態と現実の事物

    第二頌 安定した状態と現実の事物西嶋先生の訳心の働きが落ち着くと、現実の行いでもあり確かな事実でもあるものが、行くという行いに関する二つの要素を形成している。その場合には安定した心の働きの中で、名称と実体とが一つに重なった現実の事物(名色)が地上に行き渡る。中論を勉強しています心が無明の状態から識という状態に馴染むに従い、現実の行いと行いをしていると言う心が形作られる。やがて識の働きは順調になじん...

  • パソコンが壊れてしまった

    以前から調子不全のパソコンが壊れてしまった。それは突然。デスプレイガ半分朱色のフィルターがかかり縦のバーコードが出現して見づらい見づらい。電気製品なら買ったその日から使えるが、パソコンはそうはいかない。だましだましで使っていたが、仕方なく買うことにした、私としてはできればよいのだが出来よいよいので8GB,コア7,ssd256ぐらいの性能でよいと思っていたが、妻が「年をとって目が疲れ安くなっているから、ノート...

  • 中論・26-1頌 無知と行いと心理作用

    第一頌 無知と行いと心理作用西嶋先生の訳新しい誕生に伴なって、さまざまの綜合的な行い(行)が実行され、混迷の状態(無明)と白紙のような心理作用(識)とが共存して、三種類のものが一つに重なっている。それらがこの世の中の移り変わりに従って序々に姿を変え、行為を通して実行と呼ばれる動作が実際に前進する。中論を勉強しています生まれたばかりの赤ん坊はただ手足を動かして(行)いる、何の意識もないと言う状態(無...

  • 中論・第二十六章 十二種類の項目に関する検証

    第二十六章 十二種類の項目に関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですこの世の中の一切がすべて原因結果の関係に依って拘束されているという思想は、仏教思想における一つの大原則である。そしてそのような因果関係における定型的な図式として、仏教では古くから十二因縁という解説が行われている。この章で述べている十二種類の項目とは、正にその十二因縁のことであって、十二因縁とは無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取...

  • 中論・25-24頌 宇宙秩序の言語表現不能

    第二十四頌 宇宙秩序の言語表現不能西嶋先生の訳何に限らず何かを得るということは、心の安まるものであり、何かを拡大して行くとことも、幸福観を伴うものである。どのような場所においても、どのようなものの中においても、どのようなものに就いても、釈尊は宇宙の秩序について言葉で説明されることがなかった。中論を勉強しています全ての何かを得る事に対して平静になる事、より以上にと言う気持ちに対して平静になる事、これ...

  • 中論・25-23頌 永遠でないものと永遠なものとの不明確性

    第二十三頌 永遠でないものと永遠なものとの不明確性西嶋先生の訳この世の中とは何であろう。この世の中でない別の世界とは何であろう。永遠とは何であろう。永遠でないものとは何であろう。永遠でないものも永遠なものも一体何であろう。この二つのものは今後とも、何物でもないであろう。中論を勉強しています我々はこの世の中を理解しているであろうか。この世の中以外の別の世界があったならば理解出来るであろうか。永遠とい...

  • 中論・25-22頌 無限なものと有限なもの

    第二十二頌 無限なものと有限なもの西嶋先生の訳さまざまの均衡した状態の中や、宇宙の中のすべての事物の中において、何が無限なものであり得よう。何が有限なものであり得よう。無限のものとか有限のものとかは一体何であろう。無限でないものとか有限でないものとかは、一体何であろう。中論を勉強しています現在の瞬間の状況において、そして全ての言葉では表現できない現実の中において、無限と呼べるものが何処かに有るだろ...

  • 中論・25-21頌 自己管理と自由で静かな境地

    第二十一頌 自由で静かな境地と時間西嶋先生の訳自己管理の状態から外れた処に、終末と言う考え方が始まったり、永遠という考え方が始まったりする。自由で静かな境地は西の方にあると云われている平和な世界であり、漠然とした予想であり、救いの場所である。中論を勉強しています自律神経が均衡していないために、我々が自己管理の状態から外れている場合、我々は終末と言う考え方を考え始めたり、永遠という考え方を考え始めた...

  • 中論・25-20頌 自由で静かな境地と時間

    第二十頌 自由で静かな境地と時間西嶋先生の訳自由で静かな境地の中にあるものが正に時間であり、時間は同時に日常生活の浮き沈みの中にもある。(自由で静かな境地と日常生活における浮き沈みとの)二つのものの間には、ほんの僅かの間隙も全く認めることができない。中論を勉強しています我々の自由で静かな境地の中にある時間は正に現在の瞬間であり、現在の瞬間は同時に我々の日常生活の浮き沈みの中にもある。現在の瞬間にお...

  • 中論・25-19頌 日常生活における浮き沈みと自由で静かな境地

    第十九頌 日常生活における浮き沈みと自由で静かな境地西嶋先生の訳日常生活における浮き沈みの中に自由で静かな境地がない場合には、何か穏当でないものが実在する。自由で静かな境地の中に日常生活の浮き沈みがない場合には、何か穏当でないものが実在する。中論を勉強していますもしも色々な事が起きる我々の日常生活において自由で静かな境地がない場合には、我々が気付いていない穏当でない何かが実在する。もしも自由で静か...

  • 中論・25-18頌 確乎とした信念と尊敬に値するもの

    第十八頌 確乎とした信念と尊敬に値するもの西嶋先生の訳確乎とした信念が正に尊敬に値するものとして存在していることも、決して非難される性質のものではない。確乎とした信念や尊敬に値するものが両方とも存在しない場合には、そのように両方とも存在しないような状態は、議論の対象にさえならない。中論を勉強しています確乎とした信念云うものは尊敬に値するものである、それらの存在は否定されたり非難される性質のものでは...

  • 中論・25-17頌 自己管理と尊敬に値するもの

    第十七頌 自己管理と尊敬に値するもの西嶋先生の訳自己管理を離れた別の状態が尊敬に値する情態であると主張されたことは、未だ嘗て一度もない。自己管理も尊敬に値する情態も両方ともない場合には、自己管理も尊敬に値する情態も両方ともないような事態は議論の対象とはならない。中論を勉強しています自己管理が出来ている状態と云うものは尊敬に値するものであるのに、自己管理から程遠い状態にあるものが尊敬に値するものであ...

  • 中論・25-16頌 自由で静かな境地は状態

    第十六頌 自由で静かな境地は状態西嶋先生の訳自由で静かな境地が、存在していないものでもなく存在しているものでもないということが分かって来ると、(その)存在していないものでもなく、存在しているものでもない、(自由で静かな境地と呼ばれる)状態は、成長し発展して行くものではない(ことが分かって来る)。中論を勉強しています自由で静かな境地は状態を示すものであり存在する存在しないと言う性質のものではない、そ...

  • 中論・25-15頌 存在、不存在とは無関係の自由で静かな境地

    第十五頌 存在、不存在とは無関係の自由で静かな境地西嶋先生の訳(自由で静かな境地は、)存在しないものでもなければ、存在するものでも決してなく、自由で静かな境地と呼ばれるものは化粧品とおなじような(修飾的な)ものである。自由で静かな境地は存在していないとも云えるし、存在しているとも云え、現実の世界における現実的な実情である。中論を勉強しています自由で静かな境地は具体的に存在しないとか存在するとかと云...

  • 中論・25-14頌 存在と自由で静かな境地

    第十四頌 存在と自由で静かな境地西嶋先生の訳もしも存在しないという事実が積極的にあるとするならば、存在と自由で静かな境地との二つは一体何を意味するのであろう。存在と自由で静かな境地との二つが存在しないという事実は、一つの場所において起こり得るのであろうから、それは光と暗闇とが一つに重なった情態と似ている。中論を勉強していますもしもこの世の中には何も存在しないという主張が正しいとするならば、一体存在...

  • 中論・25-13頌 自由で静かな境地と現実の世界

    第十三頌 自由で静かな境地と現実の世界西嶋先生の訳(自由で静かな境地について)存在しないということも存在するということも両方ともあり得るとしても、自由で静かな境地が(存在していない状態と存在している状態との)両方であるということが、どうしてあり得よう。客観的な世界そのものとは違う世界が自由で静かな境地であるから、(自由で静かな境地は)実際に存在する世界と抽象的な存在しない世界とが一つに重なった、現...

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