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毎日(朝・晩)坐禅を自宅でして、師事した西嶋先生の「中論」を紹介しています。

悠村隆道
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2021/05/22

1件〜100件

  • 中論・24-7頌 均衡した状態に対する非仏教徒の無知

    第七頌 均衡した状態に対する非仏教徒の無知西嶋先生の訳そこにおいては、会話が落ち着いた状態の中で行われているにも拘わらず、君はその原因を知ろうとしない。均衡した状態や均衡した状態の大切さに対しても、君は完全に圧倒されてしまっている。中論を勉強しています均衡した状態の中にいる時、我々が落ち着いて会話をしているの眼の前にしながら、釈尊の教えを信じない君は何故我々が落ち着いた会話が出来るのか理解できずそ...

  • 中論・24-6頌 非仏教徒の虚無主義

    第六頌 非仏教徒の虚無主義西嶋先生の訳(シュンニャターと呼ばれる)均衡した状態や、結果としての世俗的な世界や、宇宙の秩序に反するものや、宇宙の秩序そのものについてさえも全く同じように、そしてすべての世俗的な仕事や、さまざまの世俗的な出来事についてさえも、(仏教を信じない)君はそれらを拒否する。中論を勉強しています自律神経がバランスしている状態や結果の存在による我々の生きる世俗的な世界やこの世の中の...

  • 中論・24-5頌 非仏教徒の仏教教団に対する否定

    第五頌 非仏教徒の仏教教団に対する否定西嶋先生の訳宇宙の中にそして仏教教団の中に何も実在しないとするならば、真実を得る人が将来といえども、どうして存在するということがあり得よう。(仏法僧と呼ばれる三つに価値、すなわち真実を得た人、宇宙の秩序、仏教教団という)三つのものが、正に尊い価値であるにも拘わらず、(仏教を信じない)君はその話しをすることさえ拒否している。中論を勉強していますもしもこの世の中に...

  • 中論・24-4頌 八種類の仏教徒の実在と宇宙の実在

    第四頌 八種類の仏教徒の実在と宇宙の実在西嶋先生の訳もしも僧伽(と呼ばれる仏教教団)が実在しないとするならば、(僧侶、尼僧、二十歳未満の尼僧、僧侶の見習い、僧侶の候補者、在家の男子、在家の女子、仏教徒の候補者という)八種類の仏教徒も現実的なものとして実在する筈がない。(観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものという)崇高なさまざまの真実の中には何も存在しないという考え方から離れない限り、現実の宇宙...

  • 中論・24-3頌 四諦の教えと四種類の結果

    第三頌 四諦の教えと四種類の結果西嶋先生の訳上記の(四諦という)崇高な真実は存在していないという考え方から離れないと、(預流化、一来果、不還果、阿羅漢果という)四つの崇高な結果も認識することができない。結果が存在しなければ、結果の安定も存在することができないのであるから、(預流化、一来果、不還果、阿羅漢果という)結果に安住する状態も実在することがない。中論を勉強していますもしも我々が「先に述べた四...

  • 中論・24-2頌 認識内容、諦め、感受作用と四諦の教え

    第二頌 認識内容、諦め、感受作用と四諦の教え西嶋先生の訳認識内容や、諦めや、さまざまの存在の根拠である感受作用は、(四諦と呼ばれる)四つの崇高な真実が存在しない限り、何一つとして現われて来ることがない。中論を勉強していますこの世の中の様々なものに対する認識内容や、叶わぬ望みに対する諦めや、さまざまの事物の感受作用による事象と云うものは、もしも四つの崇高な真実の存在を否定するならば、この世の中そのも...

  • 中論・24-1頌 非実在論の否定

    第一頌 非実在論の否定西嶋先生の訳もしも均衡した状態がこの世の中の全てである場合には、(この世の中は現在の瞬間における存在であるから)出現という事実も実在し得ないし、消滅という事実も実在し得ない。(しかし四諦という)四つの崇高な真実の中には、何も存在しないと主張するならば、それらの考えは余りにも何かに拘わり過ぎている。中論を勉強していますもしもこの世の中の全てをありのままに見られるならば、(この世...

  • 中論・第二十四章 崇高な真実に関する検証

    第二十四章 崇高な真実に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です。サテイヤ(satya)は通常「諦」と漢訳され、考え方とか哲学とかの意味に解されている。そしてこの理解は決して誤りではない。しかし本章におけるサテイヤは、考え方とか哲学とかという意味よりも、真実そのものを論じている面が多い処から、サテイヤというサンスクリットの英訳としてtrue,truthfulという意味があることを尊重して、「真実」という訳語を採用した...

  • 中論・23-25頌 非現実的な世界の不存在

    第二十五頌 非現実的な世界の不存在西嶋先生の訳さまざまのこの世の中以外の世界が、頭の中で考えられた場合には、さまざまの苦痛が何かの存在であり、器と考えられている世界も、何処かに存在しているように受け取ることがあり得る。(しかし)仮に名目的にもせよ、何かが(そのような事態を)推進するということはあり得ないし、何かが現実的でない世界を増大させるということもあり得ない。中論を勉強していますもしも我々がこ...

  • 中論・23-24頌 主観的な存在の否定

    第二十四頌 主観的な存在の否定西嶋先生の訳この世の中が(頭の中で考えられた)主観的な存在に依存している場合には、さまざまの苦痛も何らかの存在であり、器と考えられている世界も、何処かに存在しているように受け取れる。(しかし)仮に名目的にもせよ、何かが(そのような事態を)推進するということはあり得ないし、何かが将来主観的な存在を増大させるということもあり得ない。中論を勉強していますこの世の中は頭の中で...

  • 中論・23-23頌 無知と錯覚

    第二十三頌 無知と錯覚西嶋先生の訳無知が気付かれずに正に隠されている場合には、錯覚が表面に出てしまっている。無知が隠された状態の中では、現実の行いその他も隠されてしまっている。中論を勉強しています自分が何も知らない無知である事に気付いていない場合には、物事を錯覚した状態で判断してしまっている。自分が無知である事に気付いていない場合には、目の前に現実があるのにその現実に気付く事がない。坐禅をしました...

  • 中論・23-22頌 認識と存在

    第二十二頌 認識と存在西嶋先生の訳霊魂や生得的な明るさやそれなりの快適さが認識されない場合には、霊魂以外のものや生得的な明るさでないものや激しい苦しみでさえも決して認識の対象とはならない。中論を勉強していますもしも霊魂や生得的な明るさやそれなりの快適さが我々の日常生活において気付かされる事が無い場合があるならば、我々は霊魂や生得的な明るさやそれなりの快適さが我々の日常生活において存在しない事を認識...

  • 中論・23-21頌 人生の快適さと錯覚

    第二十一頌 人生の快適さと錯覚西嶋先生の訳霊魂や生得的な明るさやそれなりの快適さが認識される場合には、霊魂や生得的な明るさやそれなりの快適さが錯覚であるということは、決してあり得ない。中論を勉強しています霊魂や生得的な明るさやそれなりの快適さは、我々の日常生活においてもしかすると気付かされる事があるかもしれない。霊魂や生得的な明るさやそれなりの快適さに気付く事は行いそのものであるので、錯覚であると...

  • 中論・23-20頌 主観的なもの、客観的なものと錯覚

    第二十頌 主観的なもの、客観的なものと西嶋先生の訳(頭の中で考え出された想念が)主観的なものとしてまだ生まれていない段階で、(感覚的な刺激が)客観的なものとして生まれて来るという事実は決してあり得ない。(頭の中で考えられた想念としての)主観的なものや(感覚的な刺激としての)客観的なものが何処にも存在しない段階においては、錯覚の到来が、一体何処にあり得るであろう。中論を勉強しています頭で考え出す主観...

  • 中論・23-19頌 錯覚の不存在

    第十九頌 錯覚の不存在西嶋先生の訳この世の中には現われていないさまざまのものが、たとえ名目だけのものであるとしても、錯覚として存続し続けて行くということがどうしてあり得よう。さまざまの錯覚がまだ生まれていない状況の中で、錯覚の到来するということが、一体何処にあり得よう。中論を勉強していますこの世の中にはまだ現われていないさまざまの事物が、たとえ錯覚と言う言葉だけのものであるとしても、何故錯覚として...

  • 中論・23-18頌 反省と錯覚の解消

    第十八頌 反省と錯覚の解消西嶋先生の訳錯覚を解消したいという願いがないと、さまざまの錯覚が存続し続ける。自分自身に対する反省がある限り、何処にさまざまの錯覚の存続があり得よう。中論を勉強しています我々が自ら錯覚している事を自覚するとか錯覚を解消したいという意欲を持たなければ、いつまでたっても錯覚が解消されるという事態になる事はない。しかし思い込みや習慣などで考え出される錯覚を我々が起こさない様に努...

  • 中論・23-17頌 錯覚の存在

    第十七頌 錯覚の存在西嶋先生の訳正に錯覚の解消が行われていない状況の中では、さまざまの錯覚が存続し続ける。正に錯覚の解消がない場合には、さまざまの錯覚が存続し続ける。中論を勉強しています我々の日常生活において錯覚をしてる状況にある場合には、錯覚に気付く事が無ければ様々の錯覚が存続し続ける事になる。また、錯覚をしていない状況にあっても、気を付けなければ思い込みや習慣で様々の錯覚が存続し続ける事になる...

  • 中論・23-16頌 方向の正しさに対する認識

    第十六頌 方向の正しさに対する認識西嶋先生の訳物事の考え方がはっきり解っていない場合でも、反対方向か同一方向かという区別は常にあり得る。錯覚の存在する可能性が何処にあり得よう。錯覚でない考え方の存在する可能性が何処にあり得よう。中論を勉強しています日常生活において明確に物事の事情が解らない場合、比較する二つのものの相互関係が反対方向かまたは同一方向かという区別とは別にして、錯覚をする問題は常にあり...

  • 中論・23-15頌 考え方は認識の対象とならない

    第十五頌 考え方は認識の対象とならない西嶋先生の訳(物事を)考えるための主体になるものが考え方であり、その考え方そのものが、正に考えることの対象になっている。(しかし)静かであるということが、全てのものの実情であるから、したがって(その基礎になっている)考え方そのものについて、どのように理解するかということは誰にも分からない。中論を勉強しています我々が物事を考える時、物事を考える為の基本的な考え方...

  • 中論・23-14頌 均衡した状態と錯覚

    第十四頌 均衡した状態と錯覚西嶋先生の訳永遠と呼ばれるものが永遠でないものの中に含まれているということを考えるならば、その場合には考え方が倒錯している。永遠ではないという考え方を考えるゆとりが心の中にある限り、均衡した状態の中に錯覚があるということは、絶対にあり得ない。中論を勉強しています永遠ではないものの中に永遠なものが含まれているという考え方は、理論的に矛盾しており正に間違った考え方である。こ...

  • 中論・23-13頌 永遠なものと均衡した状態

    第十三頌 永遠なものと均衡した状態西嶋先生の訳永遠が永遠でないものの中に含まれているという考え方の場合には、ものの考え方が正に倒錯している。永遠でないものは均衡した状態の中では認めることができないと云う考え方は、考え方として決して間違っていない。中論を勉強しています永遠ではないものの中に永遠なものが含まれているという考え方は、矛盾しており正に間違った考え方である。均衡した状態の中において永遠でない...

  • 中論・23-12頌 激情や嫌悪と認識

    第十二頌 激情や嫌悪と認識西嶋先生の訳(この頌は「根本的な中論の歌」の方が分かり易いのでこちらを採用する)良い前兆に関して気付かれていない場合には、激情が将来といえども何処に存在する事が出来よう。悪い前兆が気付かれて居ない場合には、根深い悪意が将来といえども何処に存在するという事があり得よう。中論を勉強していますもしも傍から見ていると好ましい状況の中にいるのに我々がその状況に気付いていない場合には...

  • 中論・23-11頌 好ましくないことと認識

    第十一頌 好ましくないことと認識西嶋先生の訳好ましくないことが気付かれていない場合には、その好ましくないことも実在していない。何故ならば(その場合には)好ましいことも、(好ましいものが実際にあるのではなしに)見えて来ることが期待されているだけのことに過ぎないのである。(それと同時に)好ましくないものがはっきりしている場合には、その好ましくないものが(さらに改めてもう一度)認識されるということも決し...

  • 中論・23-10頌 好ましいことと認識

    第十頌 好ましいことと認識西嶋先生の訳好ましい状態も気付かれていない場合には、実在していない。何故ならば好ましくないことも、私自身が気付いていなければ、それまでのことである。好ましい状態がはっきりとしている場合に、それに伴って好ましい状態が(もう一度改めて)現われて来るということも決してない。 中論を勉強していますこの世の中において、好ましい状態が在るかどうかが分からない場合には、その好ましい状態...

  • 中論・23-9頌 習慣的な拘束の存在

    第九頌 習慣的な拘束の存在西嶋先生の訳好ましくない状態や好ましい状態が、一体さまざまの事物の何処に、将来といえども存在するということがあり得よう。悪魔や人間は社会的な慣行の中で生きているけれども、水の上に映った太陽や月の映像でさえ、やはり似たような状況の中に帰属している。中論を勉強しています我々は頭で考えたり感覚器官の感受作用で様々な事物に対して好ましくない状態や好ましい状態を判断している、その様...

  • 中論・23-8頌 感受作用の非実在性

    第八頌 感受作用の非実在性西嶋先生の訳外見、音声、味覚、感触、香り、宇宙の秩序は、個々それぞれに独立したものである。(それらは)ガンダルヴァと呼ばれる刑務所のない都市や、光線や、睡眠のような空虚なものと非常によく似ている。中論を勉強しています外見、音声、味覚、感触、香り、そしてこの世の中の様々な現象は、個々にそれぞれが独立した存在である。それらは眼、耳、鼻、舌、皮膚、感性と云う六種類の感覚器官で感...

  • 中論・23-7頌 感受対象の時間的推移

    第七頌 感受対象の時間的推移西嶋先生の訳外見、音声、味覚、感触、香り、そして宇宙の秩序、それらが六種類の感覚器官の対象である。激しい欲情や暗黒や妄想を含んでいるこの世の中の実状は、正に絶えず入れ替わっている。中論を勉強しています外見、音声、味覚、感触、香り、そしてこの世の中の様々な事物が、眼、耳、舌、皮膚、鼻、そして全ての感覚器官の統合と言う六種類の感覚器官が感受する対象である。この世の中の実状は...

  • 中論・23-5頌 激しい苦しみと実在

    第五頌 激しい苦しみと実在西嶋先生の訳自分の肉体を眺めるのと同じような状況が、さまざまの激しい苦しみと呼ばれるものの実体であって、五種類の集合体のような実態がその苦しみの中に実在している訳ではない。自分の肉体を眺めるのと同じような状況が、その苦しみの実体であって、五種類の集合体のような実態がさまざまの苦しみの中にある訳では決してない。中論を勉強しています自分の身体は自分自身のものと考える様に、さま...

  • 中論・23-4頌 さまざまの苦しみの不存在

    第四頌 さまざまの苦しみの不存在西嶋先生の訳器としての空間世界が、この世の中として存在することを認めることはできるかも知れないけれども、さまざまの激しい苦しみが現実の事物として存在するということは絶対にあり得ない。仮に何も存在しないような場合でも、或いは仮に何かが実在している場合でも、さまざまの激しい苦しみは、決して何処にも実在する可能性がない。中論を勉強しています様々のものを受け入れる器の様にこ...

  • 中論・23-3頌 完全な事物の不存在

    第三頌 完全な事物の不存在西嶋先生の訳心の映像は、実在の中にも、実在していないものの中にも存在しないのであるから、心の中で考えられた完全な事物とは一体何を意味するのであろう。心の中で考えられた完全な事物は、実在の中にも、実在しないものの中にも存在しないのであるから、そのような完成された事物が、さまざまの激しい苦痛の中に存在するということがどうしてあり得よう。中論を勉強しています心の映像は頭の中で考...

  • 中論・23-2頌 主観的な思考と現実

    第二頌 主観的な思考と現実西嶋先生の訳人々は、好ましいものと好ましくないものとを完全に倒錯した形で存在させている。それらの人々は、さまざまの主観的な存在を離れて、(事物を)正しく認めようとしないから、さまざまの激しい苦痛でさえ現実の実体ではなくなってしまっている。中論を勉強していますこの世の中の人々は、自分にとって好ましい事と好ましくない事が常に不安定に入れ替わる状況の中で生活していると思っている...

  • 中論・23-6頌 倒錯した状況の主観的作成

    第六頌 倒錯した状況の主観的作成西嶋先生の訳(頭の中で作り出された)主観的な存在の実体は、認識の対象となり得るものではなく、(主観的な存在は単に)好ましいものと好ましくないものとが倒錯したさまざまの考え方に過ぎない。さまざまの激しい苦しみが、何かを作り出している事態がはっきりとしており、(むしろ)好ましいものと好ましくないものとの倒錯した状況が、作り出されている。中論を勉強しています主観的な存在と...

  • 中論・23-1頌 錯覚の存在

    第一頌 錯覚の存在西嶋先生の訳欲望から生まれたものや激情や憎悪や妄想が、単に言葉の上だけで議論されている。何故かというと、好ましいものと好ましくないものとにおける錯覚が、疑問の余地のない形で綜合的に存在しているから。中論を勉強していますこの世の中の人々の間において、欲望から生まれた事物の事や激情する事や憎悪の対象や妄想の内容などが、単に言葉の上だけで色々と議論されている。なぜ議論をするのかと云うと...

  • 中論・第二十三章 錯覚に関する検証

    第二十三章 錯覚に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です。われわれ人類は、極めて優れた脳細胞を持っている処から、その脳細胞の働きに自惚れて、われわれの頭の中で生まれた思想内容を絶対視する傾向がある。また一方ではその優秀な感受作用に自惚れて、われわれが感覚器官の働きを通して掴んだ感覚的な刺激を物質と呼び、絶対視する傾向がある。そして前者の傾向から生まれた哲学が観念論哲学であり、後者の傾向から生まれた...

  • 中論・23-25頌 錯覚の存在

    何故ならば、 若し、 『煩悩』が、 『虚妄であり!』、 『無性であり!』、『無属である!』とすれば、何故、 『煩悩』を、『断つことができるのか?』、誰に、 『無性』を、『断つことができるのか?』。 参考: yady abhūtāḥ svabhāvena kleśāḥ kecid dhi kasyacit |kathaṃ nāma prahīyeran ko ’sadbhāvaṃ prahāsyati ||25|| If the afflictions of some did not exist by their own nature, how could they be let go of? Who...

  • 中論・22-16頌 現実の到来と地上世界

    第十六頌 現実の到来と地上世界西嶋先生の訳現実の到来は、ある意味では主観的な存在としての性格を持っており、その主観的な存在をこの世界が作り、人間社会が作っている。現実の到来は、内容の乏しい粗末なものではなく、その内容の乏しくない粗末でないものが、この世界でありこの地上世界である。中論を勉強しています現実の到来というものは、考え様によっては主観的な存在が感じられる事であり、現実が主観的な存在を現実の...

  • 中論・22-15頌 現実の行いと現実の到来

    第十五頌 現実の行いと現実の到来西嶋先生の訳人々がその得た真実を発展させて行く場合、既に発展した過去の事態は変化することのない性格を具えている。すべてのものにおいて発展を傷つけるような人々は、現実の到来を眼にすることができない。中論を勉強しています人々が真実を得てその真実をより深く理解しようとする時、既に深く探求した真実は変わる事がないと言う性格を具えている。この真実に対して否定する全ての人々は、...

  • 中論・22-14頌 主観的な存在の均衡と客観的な存在の自己管理

    第十四頌 主観的な存在の均衡と客観的な存在の自己管理西嶋先生の訳(頭の中で考えられた)主観的な存在が均衡した状態の中にあるような場合には、何の懸念も現われて来る可能性が全くない。(またそれと同時に主観的な存在とは反対の)客観的な存在が自己管理された状態から離れている場合には、やはり真実を得た人の存在があり得ないと云われている。中論を勉強しています頭の中で考えられた主観的な存在は実在しないが、もしも...

  • 中論・22-13頌 安定した状態と現実の到来

    第十三頌 安定した状態と現実の到来西嶋先生の訳安定した状態を保持していることが正に目標の達成であり、それによって実在しているものが現実の到来である。現実の到来という事実は実際には存在していないという意見は、今後切り変えられるであろうし、(現実の到来が存在しないという考え方は)正に平穏裏に変化させることができる。中論を勉強しています現実の到来というものは安定した状態を保持している事であり、その状態そ...

  • 中論・22-12頌 永遠、断滅、終末、不滅の不存在

    第十二頌 永遠、断滅、終末、不滅の不存在西嶋先生の訳永遠なものと永遠でないものとの両方が、この地上世界に存在しているとするならば、(理性、客観的な世界、現在の瞬間、そして現実そのものという)四つの確かな事実が、どうして安定した状態で存在するということがあり得よう。終末のあるものと終末のないものとの両法が、この地上世界に存在しているとするならば、(理性、客観的な世界、現在の瞬間、そして現実そのものと...

  • 中論・22-11頌 均衡している状態と均衡していない状態

    中論・22-11頌 均衡している状態と均衡していない状態西嶋先生の訳均衡した状態という言葉は、単に口先だけの表現ではなく、均衡していない状態という表現も、やはり存在することが可能である。それらの(均衡している状態と均衡していない状態との)両方が二つのものであるか二つのものではないかという問題が、今や直観的に判断すべき問題として議論されている。中論を勉強しています均衡した状態とは現実そのものとして存...

  • 中論・22-10頌 均衡した状態と感受作用

    第十頌 均衡した状態と感受作用西嶋先生の訳このように均衡した状態が(正しい)感受作用を作り出すのであるから、現に感受されたものが正にこの世の中の全てである。そのような均衡した状態を通して、直観的なものが確認されている以上、均衡した状態がその侭現実の到来であるということを、改めて主張する必要が何処にあるであろう。中論を勉強していますこの様に自律神経が落ち着いた状態にある場合に、我々は色々な刺激に対し...

  • 中論・22-9頌 主観的な存在と客観的な存在

    第九頌 現実の到来と思想や感受作用の発展西嶋先生の訳この現実の世界を正に感受作用の対象として見ることの出来る人も、(頭の中で考えたさまざまの)主観的な存在なしには、何も認識することができない。そしてそのように主観的に存在するものが実在ではない以上、その主観的な存在が客観的な存在として実在し得るということも何処にもあり得ない。中論を勉強していますこの現実の世界を正に感受作用の対象として見る事の出来る...

  • 中論・22-8頌 現実の行いと現実の到来

    第八頌 現実の行いと現実の到来西嶋先生の訳現実と抽象とが一つに重なった状態に依存して、現実の到来が実在する訳ではなく、何かを捉えようとする心の働きと五種類の集合体とは、正に同じものである。感受作用に依って現実の到来が得られるという事実がどうしてあり得よう。現実の到来は、(自律神経が均衡した場合に)直観的に得られるものである。中論を勉強しています現実と頭で考えた事が一つに重なった状態があるからと言っ...

  • 中論・22-7頌 欲望や執着からの離脱と現実の到来

    第七頌 欲望や執着からの離脱と現実の到来西嶋先生の訳多少無関心な態度がないと、感受作用も全く現われて来ないものである。欲望や執着によって束縛されていない状態が実在していないと、現実の到来は全くあり得ないものである。中論を勉強しています余り考え過ぎず多少無関心な態度でいると、感受作用の働きが活発になるものである。日々の生活において我々が欲望や執着によって縛られてない状態でないと、現実の到来は全くあり...

  • 中論・22-6頌 五種類の集合体と現実の世界

    第六頌 五種類の集合体と現実の世界西嶋先生の訳しかし五種類の集合体に対して何らの関係も持っていない場合には、現実の到来の実在する可能性が全くあり得ない。五種類の集合体が感受された形で実在していない場合には、現実が現われて来る可能性も、将来といえども全くあり得ない。中論を勉強しています五蘊(五種類の集合体)に対して全く関係していない場合には、現実に対する考え方がないという事になるので、現実の到来の実...

  • 中論・22-5頌 現実の到来と思想や感受作用の発展

    第五頌 現実の到来と思想や感受作用の発展西嶋先生の訳五種類の集合体(というような解釈的な考え方)が介入していない場合には、現実の到来に関して実現の可能性があり得る。現実の到来が現に一切の介入から解き放されている場合には、(逆に)その一切のものに対する介入が、更に発展する可能性を持っている。中論を勉強していますこの世の中を物質的に理解するための五蘊(五種類の集合体)という考え方をしなても、現実の到来...

  • 中論・22-4頌 主観的な存在と客観的な存在との消滅と現実の到来

    第四頌 主観的な存在と客観的な存在との消滅と現実の到来西嶋先生の訳・・・この頌は先生が新たに訳した「根本的な中論の歌」の方が分かり易いのでこちらの改訂を採用します。そして頭の中で考えた主観的な思想が実在でない以上、客観的な感覚的刺激も実在する可能性が全く有り得ない。しかし主観的な思考と客観的な感覚的な刺激とが一体となって動く時に、言葉では表現することの出来ない何かが、具体的な現実の到来である。中論...

  • 中論・22-3頌 現実の到来は将来のことではない

    第三頌 現実の到来は将来のことではない西嶋先生の訳(感覚的に捉えられた)客観的な存在(がどんなものであるかということ)が、はっきりと分かっている人にとっては、霊魂と呼ばれるものとは別のものが現実として現われて来る。そしてそのように霊魂とは違うものが、現実として既にあるのであるから、現実の到来が、将来具体化するものであるということがどうしてあり得よう。中論を勉強していますこの世の中は因果関係のある客...

  • 中論・22-2頌 釈尊における主観的な存在と客観的な存在の否定

    第二頌 釈尊における主観的な存在と客観的な存在の否定西嶋先生の訳釈尊が五つの集合体を離れてありの侭に受け入れている際には、(頭の中で考えられた)主観的な存在は全く実在していなかった。そして(頭の中で考えられた)主観的な存在が全く実在していない以上、(外界の刺激から生まれた)客観的な存在についても全く存在を認めることをしなかった。中論を勉強しています釈尊は頭で考える五蘊を含むこの世の中において、間違...

  • 中論・22-1頌 五種類の集合体と現実の到来

    第一頌 五種類の集合体と現実の到来西嶋先生の訳(五蘊と呼ばれる)五種類の集合体は、集合体の定義が持っている内容以上のものを持っていない訳ではないけれども、そうかと云ってさまざまの集合体の内容がこの世の中を離れている訳ではなく、現実の個々の事物と同一でないということもない。現実の到来が、五種類の集合体から切り離されたものではないとすると、その場合、現実の到来とは一体どのようなものであろう。中論を勉強...

  • 中論・第二十二章 現実の到来に関する検証

    第二十二章 現実の到来に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です。「中論」においてはその全体が二十七章ある内、第二十二章から第二十七章までの六章を仏教哲学の結論である現実の解説のために費やしており、本章においては仏教の中心的な目標である現実の到来と呼ばれる事実が、一体どのようなものであるかが述べられている。タターガタ(Tathagata)は従来、如来と訳され、現実に到達した人の意味に解されている。しかし本章...

  • 中論・21-21頌 拘束された状態の否定

    第二十頌 拘束された状態の否定西嶋先生の訳このように、正に(過去、現在、未来という)三種類の時間の中で、拘束された状態が、出生や流転として無限に続く状況の中で続いている訳ではない。(過去、現在、未来という)三種類の時間の中で、そのようなさまざまの拘束された状態が出生や流転として無限に実在している訳ではなく、またそのように拘束された状況が、さまざまの出生や流転として無限に続くということがどうしてあり...

  • 中論・21-20頌 全てのものの死滅と誕生

    第二十頌 全てのものの死滅と誕生西嶋先生の訳自己管理されつつある状態と生まれつつある状態とが、常に結び付いている訳ではない。全てのものがさまざまのものとして死滅しつつあると同時に、それらのものの中で、全てのものがさまざまの集合体として生まれつつある。中論を勉強しています消滅しつつある状態と生まれつつある状態とが、いつも一緒に存在している訳ではない。全てのものの半分として死滅しつつありまた半分として...

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