第十七頌 永遠と永遠でないものとの共存西嶋先生の訳天国もやはり一つの具体的な場所であるとすると、その一つの具体的な場所は、恐らく普通の人間社会と同じ社会であろう。永遠でないものと永遠なものとが両方とも存在していることが可能であり、この世の中は、決して拘わった状態のものではないであろう。中論を勉強していますもしも世間で言っている天国と言うものが具体的な場所として存在するならば、恐らくその様な具体的な...
第十七頌 永遠と永遠でないものとの共存西嶋先生の訳天国もやはり一つの具体的な場所であるとすると、その一つの具体的な場所は、恐らく普通の人間社会と同じ社会であろう。永遠でないものと永遠なものとが両方とも存在していることが可能であり、この世の中は、決して拘わった状態のものではないであろう。中論を勉強していますもしも世間で言っている天国と言うものが具体的な場所として存在するならば、恐らくその様な具体的な...
第十六頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定西嶋先生の訳神とは違うものが人間らしさであるからこそ、永遠でないものという考えもあり得る。神とは違うものが人間らしさであるからこそ、宿命と呼ばれるものは起こり得ない。中論を勉強しています完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、我々の世界においては永遠でないものの存在を考える事が出来る。完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、...
第十五頌 神および永遠西嶋先生の訳現実の神が現実の人間的なものの中にある場合には、それに伴って永遠なものも存在する可能性がある。実際に見えて来ないものが神であるから、永遠は恐らく生まれて来るものではないのであろう。中論を勉強しています頭で考えてみると神の様なものが人間の行いの中にあるのかもしれない、また頭で考えてみると人間の行いの中に永遠なものが存在するのかもしれない。しかし神と云うものは見えたり...
第十四頌 旅行も現在の瞬間西嶋先生の訳旅行の途中にあって、まだ何処にも行き着いていないというふうに考える必要は決してなく、自分が何処かに行き着くであろうということは、自分で知ることができる。まだ目的地に到着していないということが現状であって、まだ目的地に着いていないということとまだ旅行中であるということとは、同じ事実の裏表である。中論を勉強していますもしも我々の人生の全てを旅行に例えるとするならば...
第十三頌 過去派と未来西嶋先生の訳ものの見方が完全に過去に帰属している人々は、未来は自分と無関係であると考えたり、未来こそ自分と密接な関係があると考える。(しかし)ある場合には未来と自分自身とが無関係であり、ある場合には未来と自分自身とが密接に関係しているということは、この世の中が整然とした形で、姿を見せていないことを意味している。中論を勉強していますものの見方の基準を常に過去にしている人々は、過...
第十二頌 未来の不存在西嶋先生の訳未来は決して現に存在するものではない。何故かというならば(もしも未来が既に実際に存在するとするならば)、其処においては悪徳でさせも既に固着してしまっている筈であるから。既に実行された行為が、仮にも霊魂と呼ばれるものに依存して存在するならば、この世の中に存在しているさまざまの事物も、正に理性に適合しないものになってしまう。中論を勉強しています未来というものは頭で考え...
第十一頌 現在の瞬間と現実の世界西嶋先生の訳行為における途切れ途切れの瞬間というものは、決して好ましくないものではなく、また行われた行為の結果とは違うものが、現在の瞬間における行いである。この世の中以外の状態を認識させたいと期待することは、その出発点から拘わりがあり過ぎる。中論を勉強しています途切れ途切れの刹那に行われる行為というものは決して好ましくないものではない。また行為の結果は頭で考えた内容...
第十頌 眼の前の世界が現実の世界西嶋先生の訳もしもこの世の中が、この眼の前の現状とは違ったものとして存在することがあり得るとするならば、この眼の前の現状を拒絶することも可能な筈である。しかし実情としては、正に現実が確立されているだけのことであって、そのような状態の中においては、生まれつつあるという状態と死滅という状態とは(現実と呼ばれる)一つのものであろう。中論を勉強していますもしも我々が住むこの...
第九頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳未来と呼ばれるものも過去と呼ばれるものも世俗と呼ばれるものも、現実の事実として現れるものではない。何故ならばそれらのものはまだ誕生しない以前から、何か別のものの発展として具体的に存在している訳ではないのであるから。中論を勉強しています我々は未来も過去も世俗的な道徳もこの世の中に実在していると思っているが、それらは頭で考えた言葉であり内容であって、いずれもが現...
第八頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳このように感受作用を離れて別個の事態がある訳ではないのと同じように、感受された内容と現実の事態とが、全く同じであるということも絶対にない。感受作用とは全く関係のない内容が、霊魂と呼ばれるものに依存して実在するということはないし、具体的なさまざまの事物が確かなものとして実在していないということも決してない。中論を勉強していますこの様に現在の瞬間の事態である感受...
第七頌 感受作用と霊魂西嶋先生の訳また別の例として、感受作用を離れて、霊魂が姿を現わすということも決してない。何故ならば、把握された内容が感覚的に受け入れた内容と違う場合には、その別の内容は決して理解することの出来るような内容ではないのであるから。中論を勉強していますまた別の例として同じ様な感受作用が他にあったとしても、だからと言って霊魂と呼ばれているものが新たに姿を現わすという事は決してない。何...
第六頌 感受された内容と霊魂西嶋先生の訳感受された内容と霊魂とは同じものでは絶対になく、具体的なものはその表面を覆う外面があると同時にその内容が全体に行き亘っているものである。何故ならば、感受された内容が名目的であるということがどうしてあり得よう。感受されたものは、将来に向かって存続し続けて行くのである。中論を勉強しています我々の感覚器官の働きによって得られる感受作用の内容と我々が考え想像する霊魂...
第五頌 霊魂の不存在西嶋先生の訳感受された内容が甚だ漠然としているということは、霊魂と呼ばれるものがこの世の中において実際に活躍しているということが、実在ではないということである。感受されたものも恐らく霊魂と呼ばれるものと似たものであり、霊魂と呼ばれるものも、やはり人々の思い込みであって実在ではない。中論を勉強しています感受作用による認識が甚だ漠然といているということは、いくら霊魂が存在していると...
第四頌 霊魂の実在に対する疑問西嶋先生の訳霊魂と呼ばれるものが、仮にも具体的なものとして(この世の中に)存在するとするならば、その感受される内容がもっとはっきりしたものになっている筈である。感受された内容が、甚だ取り留めのない漠然としたものであるという事情が、霊魂と呼ばれるものによる影響であるとするならば、霊魂と呼ばれるものは、一体何であろう。中論を勉強していますもしも霊魂と呼ばれるものがこの世の...
第三頌 教説の非実在性西嶋先生の訳「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とか(と呼ばれる教説)は、具体的なものとして(この世の中に実際に)実在する性質のものではない。何故ならば、まだこの世の中に具体的に現われて来ていないものが、既にこの世の中のものとして実在するということはあり得ないのであるから。中論を勉強しています「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とかのそれぞれの教説は、頭で考え出した事であ...
第二頌 教説と現実西嶋先生の訳私は、さまざまの教説は将来といえども存在しない方が望ましいと考えており、極楽浄土に逃げて行くことは、一種の逃避であると思う。私としては、(教説の)存在を考えることは、結論を急ぎ過ぎることであり、極楽浄土を願うことであり、逃げ場を求めることである(と思う)。中論を勉強しています私は、さまざまの教説は出来れば存在しない方が良いと考えている。教説を頼りにする事は極楽浄土に逃...
第一頌 四種類の教説西嶋先生の訳「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、これらがさまざまの教説の(具体的な)例である。これらは、「未来派」は永遠性を指向し、「過去派」は世界の創造主を指向し、「世俗派」は世間並みの道徳を指向し、「現実派」は過去と未来とを共に否定した現在の瞬間に基礎を置く仏教哲学に依って支えられている。中論を勉強しています「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、と言わ...
第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その2)abhum:ヴィシュヌ派:ヴィシュヌ神の永遠性を信じ、この世の発生以前から存続し続けている永遠性を信ずる立場に立って、精神主義的な観念論を主張した宗派として理解した。atitam:特殊のシヴァ派:シヴァ神に対する信仰から、一切の事象を過去によって既に決定された事実として理解し、この世の中を決定論的に理解した宗派ではないかと想像される。adhvana...
第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その1)仏教はダールマまたは現実を直接描写した教えであって、通常の教説のように抽象的な概念を使って、主観的なあるいは客感的な教説を述べた教えとは異なる。しかしその反面、もしも仏教が全く言葉では説明することのできない教えであるとするならば、仮にそのような仏教思想が存在するとしても、他の人々に対して伝承することができないと云う意味で、致命的な欠...
第十二頌 個々の事物の独立性西嶋先生の訳個々のものが抑圧されていることに依って、個々の事物がこの世の中において活動を開始する訳ではない。苦しみとか五種類の集合体とかというようなものも、それぞれ個々に独立したものであり、それであればこそこの世の中は、一つに纏まった世界として自己管理されているのである。中論を勉強しています個々の状況が全て管理されているからと言って、個々の事物がこの世の中において全て認...
第十二頌 自由で静かな境地と感覚世界西嶋先生の訳(自由で静かな境地について)存在しないということも存在するということも両方ともあり得るとすると、その場合自由で静かな境地は両方を兼ねている。感覚的に感受されない世界が自由で静かな境地の世界ではない。何故ならば、感覚的に感受出来る世界と感覚的に感受出来ない世界との両方が一つに重なった世界が、この現実の世界であるから。中論を勉強しています自由で静かな境地...
第十一頌 自由で静かな境地と自由自在の境涯 西嶋先生の訳(自由で静かな境地については)存在しないということも存在するということも両方とも云えるのであるから、その場合自由で静かな境地は両方を兼ねている。存在しないということも存在するということも両方ともあり得るのであるから、(自由で静かな境地の基礎にある)自由自在の境涯そのものは、何ものにも拘束されることがない。中論を勉強しています自由で静かな境地と...
第十頌 自由で静かな境地と存在西嶋先生の訳物事を断念したり、喋りたくないことを我慢して喋ったりすることは、よくあることであり、また至る処にあるものである。したがって自由で静かな境地が存在するものではないとか、存在しないものではないという主張は、(自由で静かな境地を)固定的に考え過ぎている。中論を勉強しています我々の日常生活において何か物事を断念したり、不本意な事を喋ったりする事はよくある事であり、...
第九頌 自由で静かな境地の直観的な把握西嶋先生の訳遅いとか早いとかと呼ばれる存在は、両方とも感覚的に捉えることの出来る事実であり、はっきりしている。(しかし)あまりはっきりとはしていない、感覚的に掴むことのできないものが、自由で静かな境地として(われわれに依って)受け取られる。中論を勉強していますこの世の中には早いものとか遅いものとかと呼ばれる存在がある。それらの存在は五感の感受作用で感覚的に明確...
第八頌 感覚的な世界以外の状態としての自由で静かな境地西嶋先生の訳存在ではないものが正に自由で静かな境地であるとするならば、現に眼の前に見えているこの世界は一体何であろう。自由で静かな境地は存在ではないのであるから、自由で静かな境地が実在するという事実は、感覚的に捉えられる世界とは違うものとして認識されるのであろう。中論を勉強していますもしも具体的な存在でないものが自由で静かな境地であると主張する...
第七頌 自由で静かな境地と非存在性西嶋先生の訳存在は自由で静かな境地そのものと同じものではないのであるから、その存在そのものではない自由で静かな境地が、将来存在となるということはあり得ない。その場合、自由で静かな境地が存在ではないのであるから、その存在でないものが、認識の対象になるということもあり得ない。中論を勉強しています存在と自由で静かな境地そのものとは全く別のものであるから、存在でもない自由...
第六頌 自由で静かな境地と現実の世界西嶋先生の訳存在が正に自由で静かな境地である場合には、現に(具体的に)存続しつつあるこの具体的な世界は一体何であろう。自由で静かな境地と呼ばれるものは、感覚的に掴むことの出来るものとは別のものであろう。何故ならば、(もしも自由で静かな境地が感覚的に掴むことの出来るものであるならば、)そのような存在は何らかの形で必ず認識出来る筈であるから。中論を勉強しています存在...
第五頌 自由で静かな境地と客観世界西嶋先生の訳存在が正に自由で静かな境地にあるならば、自由で静かな境地がこの客観世界そのものとして存在することが可能である。客観世界以外の世界は認識することが出来ないのであるから、それが存在するという事実は何処にもあり得ないし、何ものでもあり得ない。中論を勉強しています存在が自由で静かな境地の状況であるならば、自由で静かな境地が具体的な客観世界そのものとしてこの世の...
第四頌 存在と自由で静かな境地西嶋先生の訳存在がその侭自由で静かな境地であるということではなく、(自由で静かな境地の)生まれたり消えたりする性質は暗示的なものである。何故かというと、もしも(自由で静かな境地が)生まれたり消えたりする性質を持っていないとすると、(自由で静かな境地の)存在が自由で静かな境地に適合した状態として実在しているという事実が無くなってしまうから。、中論を勉強しています存在と言...
第三頌 自由で静かな境地の実情西嶋先生の訳孤立したものでもなく、寄り集まったものでもなく、刹那的なものでもなく、永遠のものでもない。隠されたものでもなく、いま現われたものでもないもの、そのようなものが自由で静かな境地として(人々によって)好まれる。中論を勉強しています心の中に何か残る様なものでもなく、何か目的のために寄り集まった様なものでもなく、一瞬一瞬の刹那的なものでもなく、永遠の様なものでもな...
第一頌 自由で静かな境地の発現、消滅西嶋先生の訳均衡していない状態がこの世の中の全てに拡がっている場合でも、(均衡していない状態が)新たに発現するという事実はあり得ないし、新たに消滅するという事実もあり得ない。何かを諦めることを拒否し、自己管理の状態からも離れてしまっている場合には、どのように自由で静かな境地も、将来といえども具体化することがあり得ない。中論を勉強しています均衡していない状態という...
第一頌 自由で静かな境地の発現、消滅西嶋先生の訳均衡した状態がこの世の中の全てである場合でも、(均衡した状態は)新たに生まれて来るとか消滅するとかという性質のものではない。何かを諦めることを拒否し、自己管理の状態からも離れてしまっている場合には、将来といえども自由で静かな境地が具体化するという事実は、絶対にあり得ない。中論を勉強しています均衡した状態というものはあくまでも瞬間瞬間の状態であり具体的...
先週の木曜日頃、珍しく左肩が痛くておかしいなと思っていたら、土曜日には朝から鼻水が止まらず大変な一日、ただ熱は37度以下だし頭痛もしない咳も出ないという状況だから仕事をする事は出来た。いつもより早めに仕事を切り上げ寝る事にした、只々眠い。片や妻は背中がとにかく痛いらしく息をするのも大変そうだったが、私と同じように熱も頭痛も咳も出ない。夜中に妻が「背中が痛くて息が出来ない」という、スポーツ用の酸素...
第二十五章 ニルバーナ、自由で静かな境地に関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですニルヴァーナは本来、「火が消えた」の意味であって、仏道修行の結果、思想的な焦りもなくなり、肉体的な欲望にも煩わされない状態をいう。それを心理学的・生理学的な状況として説明するならば、われわれの体内にある自律神経に関連して、思想的な焦りの基礎である交感神経と、感覚的な敏感さの基礎である副交感神経とが、丁度同じ強さになった...
第四十頌 現象世界が四種類の真実そのもの西嶋先生の訳明々白々としたこの現象世界をありの侭に見ることの出来る人は、この世の中を見ることのできる人である。苦諦(と呼ばれる観念論)についても、集諦(と呼ばれる唯物論)についても、そして更に滅諦(と呼ばれる行いの哲学)についても、道諦(と呼ばれる道義)についても、事情は全く同じである。中論を勉強しています我々の目の前に現われるこの世の中の様々な現象を、もし...
第三十九頌 均衡していない状況は何処にもない西嶋先生の訳まだ到達していないということは、これから到達する可能性を持っているということであり、苦しみの領域の中にいるということも、一種の行いである。すべての激しい苦しみを、宇宙の秩序として受け取ることが出来るような場合には、自由で静かな境地でない状況は、何処にも見当たらない。中論を勉強しています我々が何かをまだ到達していないと言う事は、その何かを将来到...
第三十八頌 完全に安定した状態の可能性西嶋先生の訳自分自身を自由自在に引きずり廻すことのできるような力量が、まだ生まれていないような場合でも、最高の地位を保ち続けることが、将来の状態としてはあり得る。さまざまの輝かしい彩りに飾られ、一切のものに関連して途轍もなく安定した状態の中に置かれていることが、この地上世界の実情である。中論を勉強していますたとえ我々が一人前になっていない状況だとしても、将来に...
第三十七頌 行為の実行と均衡した状態西嶋先生の訳行為がまだ全く実行されていない場合でも、まだ始められていない状態が、(観念的な)行為としてあり得る。行為の実行を意図することは、恐らく行為がまだ実行されていないことを意味しているのであろうから、(その場合にはまだ)さまざまの自由で静かな境地は、完全に視野の外に置かれている。中論を勉強していますまだ行為が全く実行されていないと言う事は、いまだに行為が実...
第三十六頌 非仏教徒の世俗生活に対する否定西嶋先生の訳(仏教を信じていない)君は、すべての世俗的な職業やさまざまの世俗的な生活の価値を否定する。(仏教を信じていない)君は、現に眼の前に見えている綜合的な現象が、極めて均衡の取れたさまざまの現象であることを認めようとしない。中論を勉強しています仏教を信じていない人々は、俗世間の全ての職業を嫌い、俗世間の様々な生活していくための価値あるものを只々否定す...
第三十五頌 均衡している状態と均衡していない状態と結果西嶋先生の訳宇宙の秩序の実情と宇宙の秩序に反するものの実情とが両方とも見えている場合に、結果と呼ばれるものが、宇宙の秩序と宇宙の秩序に反するものの中に認識される。(しかし)宇宙の秩序と宇宙の秩序に反するものとが一つに重なったこの世の中の綜合的な現象に関しては、それらが自由で静かでない境地であったり、結果であったりすることがあり得ない。中論を勉強...