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毎日(朝・晩)坐禅を自宅でして、師事した西嶋先生の「中論」を紹介しています。

悠村隆道
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2021/05/22

  • 中論・25-12頌 自由で静かな境地と感覚世界

    第十二頌 自由で静かな境地と感覚世界西嶋先生の訳(自由で静かな境地について)存在しないということも存在するということも両方ともあり得るとすると、その場合自由で静かな境地は両方を兼ねている。感覚的に感受されない世界が自由で静かな境地の世界ではない。何故ならば、感覚的に感受出来る世界と感覚的に感受出来ない世界との両方が一つに重なった世界が、この現実の世界であるから。中論を勉強しています自由で静かな境地...

  • 中論・25-11頌 自由で静かな境地と自由自在の境涯

    第十一頌 自由で静かな境地と自由自在の境涯 西嶋先生の訳(自由で静かな境地については)存在しないということも存在するということも両方とも云えるのであるから、その場合自由で静かな境地は両方を兼ねている。存在しないということも存在するということも両方ともあり得るのであるから、(自由で静かな境地の基礎にある)自由自在の境涯そのものは、何ものにも拘束されることがない。中論を勉強しています自由で静かな境地と...

  • 中論・25-10頌 自由で静かな境地と存在

    第十頌 自由で静かな境地と存在西嶋先生の訳物事を断念したり、喋りたくないことを我慢して喋ったりすることは、よくあることであり、また至る処にあるものである。したがって自由で静かな境地が存在するものではないとか、存在しないものではないという主張は、(自由で静かな境地を)固定的に考え過ぎている。中論を勉強しています我々の日常生活において何か物事を断念したり、不本意な事を喋ったりする事はよくある事であり、...

  • 中論・25-9頌 自由で静かな境地の直観的な把握

    第九頌 自由で静かな境地の直観的な把握西嶋先生の訳遅いとか早いとかと呼ばれる存在は、両方とも感覚的に捉えることの出来る事実であり、はっきりしている。(しかし)あまりはっきりとはしていない、感覚的に掴むことのできないものが、自由で静かな境地として(われわれに依って)受け取られる。中論を勉強していますこの世の中には早いものとか遅いものとかと呼ばれる存在がある。それらの存在は五感の感受作用で感覚的に明確...

  • 中論・25-8頌 感覚的な世界以外の状態としての自由で静かな境地

    第八頌 感覚的な世界以外の状態としての自由で静かな境地西嶋先生の訳存在ではないものが正に自由で静かな境地であるとするならば、現に眼の前に見えているこの世界は一体何であろう。自由で静かな境地は存在ではないのであるから、自由で静かな境地が実在するという事実は、感覚的に捉えられる世界とは違うものとして認識されるのであろう。中論を勉強していますもしも具体的な存在でないものが自由で静かな境地であると主張する...

  • 中論・25-7頌 自由で静かな境地の非存在性

    第七頌 自由で静かな境地と非存在性西嶋先生の訳存在は自由で静かな境地そのものと同じものではないのであるから、その存在そのものではない自由で静かな境地が、将来存在となるということはあり得ない。その場合、自由で静かな境地が存在ではないのであるから、その存在でないものが、認識の対象になるということもあり得ない。中論を勉強しています存在と自由で静かな境地そのものとは全く別のものであるから、存在でもない自由...

  • 中論・25-6頌 自由で静かな境地と現実の世界

    第六頌 自由で静かな境地と現実の世界西嶋先生の訳存在が正に自由で静かな境地である場合には、現に(具体的に)存続しつつあるこの具体的な世界は一体何であろう。自由で静かな境地と呼ばれるものは、感覚的に掴むことの出来るものとは別のものであろう。何故ならば、(もしも自由で静かな境地が感覚的に掴むことの出来るものであるならば、)そのような存在は何らかの形で必ず認識出来る筈であるから。中論を勉強しています存在...

  • 中論・25-5頌 自由で静かな境地と客観世界

    第五頌 自由で静かな境地と客観世界西嶋先生の訳存在が正に自由で静かな境地にあるならば、自由で静かな境地がこの客観世界そのものとして存在することが可能である。客観世界以外の世界は認識することが出来ないのであるから、それが存在するという事実は何処にもあり得ないし、何ものでもあり得ない。中論を勉強しています存在が自由で静かな境地の状況であるならば、自由で静かな境地が具体的な客観世界そのものとしてこの世の...

  • 中論・25-4頌 存在と自由で静かな境地

    第四頌 存在と自由で静かな境地西嶋先生の訳存在がその侭自由で静かな境地であるということではなく、(自由で静かな境地の)生まれたり消えたりする性質は暗示的なものである。何故かというと、もしも(自由で静かな境地が)生まれたり消えたりする性質を持っていないとすると、(自由で静かな境地の)存在が自由で静かな境地に適合した状態として実在しているという事実が無くなってしまうから。、中論を勉強しています存在と言...

  • 中論・25-3頌 自由で静かな境地の実情

    第三頌 自由で静かな境地の実情西嶋先生の訳孤立したものでもなく、寄り集まったものでもなく、刹那的なものでもなく、永遠のものでもない。隠されたものでもなく、いま現われたものでもないもの、そのようなものが自由で静かな境地として(人々によって)好まれる。中論を勉強しています心の中に何か残る様なものでもなく、何か目的のために寄り集まった様なものでもなく、一瞬一瞬の刹那的なものでもなく、永遠の様なものでもな...

  • 中論・25-2頌 均衡していない状態と自由で静かな境地

    第一頌 自由で静かな境地の発現、消滅西嶋先生の訳均衡していない状態がこの世の中の全てに拡がっている場合でも、(均衡していない状態が)新たに発現するという事実はあり得ないし、新たに消滅するという事実もあり得ない。何かを諦めることを拒否し、自己管理の状態からも離れてしまっている場合には、どのように自由で静かな境地も、将来といえども具体化することがあり得ない。中論を勉強しています均衡していない状態という...

  • 中論・25-1頌 自由で静かな境地の発現、消滅

    第一頌 自由で静かな境地の発現、消滅西嶋先生の訳均衡した状態がこの世の中の全てである場合でも、(均衡した状態は)新たに生まれて来るとか消滅するとかという性質のものではない。何かを諦めることを拒否し、自己管理の状態からも離れてしまっている場合には、将来といえども自由で静かな境地が具体化するという事実は、絶対にあり得ない。中論を勉強しています均衡した状態というものはあくまでも瞬間瞬間の状態であり具体的...

  • もしかして?

    先週の木曜日頃、珍しく左肩が痛くておかしいなと思っていたら、土曜日には朝から鼻水が止まらず大変な一日、ただ熱は37度以下だし頭痛もしない咳も出ないという状況だから仕事をする事は出来た。いつもより早めに仕事を切り上げ寝る事にした、只々眠い。片や妻は背中がとにかく痛いらしく息をするのも大変そうだったが、私と同じように熱も頭痛も咳も出ない。夜中に妻が「背中が痛くて息が出来ない」という、スポーツ用の酸素...

  • 中論・第二十五章 ニルヴァーナ、自由で静かな境地に関する検証

    第二十五章 ニルバーナ、自由で静かな境地に関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですニルヴァーナは本来、「火が消えた」の意味であって、仏道修行の結果、思想的な焦りもなくなり、肉体的な欲望にも煩わされない状態をいう。それを心理学的・生理学的な状況として説明するならば、われわれの体内にある自律神経に関連して、思想的な焦りの基礎である交感神経と、感覚的な敏感さの基礎である副交感神経とが、丁度同じ強さになった...

  • 中論・24-40頌 現象世界が四種類の真実そのもの

    第四十頌 現象世界が四種類の真実そのもの西嶋先生の訳明々白々としたこの現象世界をありの侭に見ることの出来る人は、この世の中を見ることのできる人である。苦諦(と呼ばれる観念論)についても、集諦(と呼ばれる唯物論)についても、そして更に滅諦(と呼ばれる行いの哲学)についても、道諦(と呼ばれる道義)についても、事情は全く同じである。中論を勉強しています我々の目の前に現われるこの世の中の様々な現象を、もし...

  • 中論・24-39頌 均衡していない状況は何処にもない

    第三十九頌 均衡していない状況は何処にもない西嶋先生の訳まだ到達していないということは、これから到達する可能性を持っているということであり、苦しみの領域の中にいるということも、一種の行いである。すべての激しい苦しみを、宇宙の秩序として受け取ることが出来るような場合には、自由で静かな境地でない状況は、何処にも見当たらない。中論を勉強しています我々が何かをまだ到達していないと言う事は、その何かを将来到...

  • 中論・24-38頌 完全に安定した状態の可能性

    第三十八頌 完全に安定した状態の可能性西嶋先生の訳自分自身を自由自在に引きずり廻すことのできるような力量が、まだ生まれていないような場合でも、最高の地位を保ち続けることが、将来の状態としてはあり得る。さまざまの輝かしい彩りに飾られ、一切のものに関連して途轍もなく安定した状態の中に置かれていることが、この地上世界の実情である。中論を勉強していますたとえ我々が一人前になっていない状況だとしても、将来に...

  • 中論・24-37頌 行為の実行と均衡した状態

    第三十七頌 行為の実行と均衡した状態西嶋先生の訳行為がまだ全く実行されていない場合でも、まだ始められていない状態が、(観念的な)行為としてあり得る。行為の実行を意図することは、恐らく行為がまだ実行されていないことを意味しているのであろうから、(その場合にはまだ)さまざまの自由で静かな境地は、完全に視野の外に置かれている。中論を勉強していますまだ行為が全く実行されていないと言う事は、いまだに行為が実...

  • 中論・24-36頌 非仏教徒の世俗生活に対する否定

    第三十六頌 非仏教徒の世俗生活に対する否定西嶋先生の訳(仏教を信じていない)君は、すべての世俗的な職業やさまざまの世俗的な生活の価値を否定する。(仏教を信じていない)君は、現に眼の前に見えている綜合的な現象が、極めて均衡の取れたさまざまの現象であることを認めようとしない。中論を勉強しています仏教を信じていない人々は、俗世間の全ての職業を嫌い、俗世間の様々な生活していくための価値あるものを只々否定す...

  • 中論・24-35頌 均衡している状態と均衡していない状態と結果

    第三十五頌 均衡している状態と均衡していない状態と結果西嶋先生の訳宇宙の秩序の実情と宇宙の秩序に反するものの実情とが両方とも見えている場合に、結果と呼ばれるものが、宇宙の秩序と宇宙の秩序に反するものの中に認識される。(しかし)宇宙の秩序と宇宙の秩序に反するものとが一つに重なったこの世の中の綜合的な現象に関しては、それらが自由で静かでない境地であったり、結果であったりすることがあり得ない。中論を勉強...

  • 中論・24-34頌 非仏教徒における現実の世界と結果

    第三十四頌 非仏教徒における現実の世界と結果西嶋先生の訳宇宙の秩序に従っているものと宇宙の秩序に反するものとが両方とも見当たらない場合には、(仏教を信じていない)君の心の中には結果という考え方が湧いて来る。宇宙の秩序に従っているものと宇宙の秩序に反するものとが一つに重なった現実の世界の中では,(仏教を信じていない)君といえども結果という考え方を認めることができない筈である。中論を勉強しています君が...

  • 中論・24-33頌 宇宙の秩序と主観的な存在

    第三十三頌 宇宙の秩序と主観的な存在西嶋先生の訳宇宙の秩序も宇宙の秩序に反するものも両方とも、人間の作為で作れるものでは将来といえども絶対にない。均衡の取れていない行為というものはこの世の中には絶対にあり得ない。何故ならば(頭の中で考えられた)主観的な存在は行為そのものでは絶対にあり得ないのであるから。中論を勉強していますこの世の中の秩序に沿っているものも、あるいはこの世の中の秩序に反するものも、...

  • 中論・24-32頌 主観的な想念と仏道修行

    第三十二頌 主観的な想念と仏道修行西嶋先生の訳(頭の中で作り出された)主観的な想念が災いして、賢明でない人は頭で問題を考えることに忙殺されている。仏道修行が実践的な性格のものでない場合には、それらの人々が現実に出会う機会は、なかなか到来しないであろう。中論を勉強しています自分の頭の中で色々と考える事が災いとなり人生を上手く生きられない人は、頭で考える事ですべてが解決できると思いこみ増々頭で問題を考...

  • 中論・24-31頌 真実を得た人と真実そのもの

    第三十一頌 真実を得た人と真実そのもの西嶋先生の訳完全な智慧が充分明瞭でない場合には、君の考えている真実を得た人に関しても、執着する態度が強過ぎる考え方のように見える。真実を得た人とは、どんな人なのかがはっきりしていない場合には、君の考えている真実に関しても、執着する態度が強過ぎるように思われる。中論を勉強しています君がこの世の中の真理を充分に身につけていない場合には、真実を得た人だと君が思ったと...

  • 中論・24-30頌 真理の探究と現実の世界

    第三十頌 真理の探究と現実の世界西嶋先生の訳さまざまの真理探求などというものは存在しないという考え方から離れないと、現実の宇宙は決して見えて来ない。宇宙の秩序が現実的ではなく仏教教団が現実的でない場合には、真実を得た人が将来といえども、存在するということがどうしてあり得よう。中論を勉強しています「真理の探究などと言うものは、何処にも存在しない」と言う考え方に捉われていると、目の前に存在する現実の宇...

  • 中論・24-29頌 結果の達成と仏教教団

    第二十九頌 結果の達成と仏教教団西嶋先生の訳結果の安定は結果の存在しない処ではあり得ないし、(結果の存在しない処では、)現実の問題として(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という)四種類の結果の達成もあり得ない。(僧伽とよばれる)仏教教団が実在しない場合には、(僧侶、尼僧、二十歳未満の尼僧、僧侶見習い、僧侶候補者、在家の男子、在家の女子、仏教徒の候補者と呼ばれる)八種類の人々やそれに準ずる素晴らしい...

  • 中論・24-28頌 主観的な想念と結果の達成

    第二十八頌 主観的な想念と結果の達成西嶋先生の訳(頭の中で作り出された)主観的な想念によっては、しっかりと掴むことの出来ないものが正に結果であり、その結果とは一体どういうものであろうか。達成することのできるものが現に非常に近付きつつあるのであって、(頭の中で作られた)主観的な想念も、恐らく(それ自身の範囲では)何らかの達成されたものを意味するであろう。中論を勉強しています自分の頭の中で作り出された...

  • 中論・24-27頌 主観的な想念と実践的な修行との違い

    第二十七頌 主観的な想念と実践的な修行との違い西嶋先生の訳直観的な判断能力を放棄している場合には、存在の根拠となっているものはこの現実の世界だけである。知識に似たようなものが関連している訳ではなく、(預流向、一来向、不還向、阿羅漢向という)四種類の修行過程や(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という)四種類の結果についても、状況は全く同じである。中論を勉強していますもしも我々が直観的に判断する事を放...

  • 中論・24-26頌 感受作用と主観的な想念

    第二十六頌 感受作用と主観的な想念西嶋先生の訳主観的な想念のために、物事を知る働きがうまく機能していない場合には、この世の中に一体何があり得るであろう。物事を知る働きが全く機能していない場合には、主観的な想念が頑固な居座りを続ける。中論を勉強しています我々が頭で考えた事で頭が一杯になっている時は、周りの環境を感知する目や耳や鼻などの感覚器官は上手く働いていない場合がある、その様な状態はこの世の中に...

  • 中論・24-25頌 苦しみや自己規制と道義

    第二十五頌 苦しみや自己規制と道義西嶋先生の訳苦しみがさまざまのものの寄り集まりとして雑然と見えている場合には、自己規制と呼ばれるものの、認識されることが決してない。道義と呼ばれるものは、苦しみと自己規制と関連がない場合、将来といえども具体的なものとして掴めるものではない。中論を勉強しています苦しみというものが様々の事の入り混じり寄り集まりであるために苦しみは漠然として見えている、その苦しみを自己...

  • 中論・24-24頌 自分自身の存在と道義

    第二十四頌 自分自身の存在と道義西嶋先生の訳現に自分自身が存在しているからと云って、それがこの世の中に道義が存在していることの理由付けに役立つ訳ではない。現在のこの場所におけるさまざまの事物が、道義の存在を示しているのであり、そのような事実によって逆に自分自身の存在が確認できるのである。中論を勉強しています現実に自分自身がこの世の中に存在しているからと云って、自分自身が存在している事がこの世の中に...

  • 中論・24-23頌 自己規制と主観的な想念

    第二十三頌 自己規制と主観的な想念西嶋先生の訳自己規制は、頭の中で作り出された想念によって、現実のものとして苦しみの中に見出されるものではない。主観的な想念がさまざまの矛盾を作り出す処から、(仏教を信じていない)君は自己規制(の価値)を強く否定する。中論を勉強しています自分を自分で管理する自己規制と言う事は頭の中で作り出された想念ではない。自己規制は行いであり具体的な現実として苦しみの中に見出され...

  • 中論・24-22頌 主観的な想念と均衡した状態

    第二十二頌 主観的な想念と均衡した状態西嶋先生の訳(頭の中で作り出された)主観的な存在が、既に認識されたものとして頭の中にある以上、何かがもう一度将来現われて来るということが、どうしてあり得よう。そこにおいては何らかの集合体が実在している訳ではないのであるから、さまざまの自由で静かな境地も、完全に抹殺されてしまっている。中論を勉強しています頭の中で考え出された想念が、実在するものとして認識されてい...

  • 中論・24-21頌 苦しみという想念の存否

    第二十一頌 苦しみという想念の存否西嶋先生の訳(目の前の)綜合的な現象がはっきりと見えていない場合には、苦しみと呼ばれるものも、将来といえども一体何処にあり得るであろう。苦しみに関連しては事実に反することが語られている処から、本当の事実はわれわれの主観的な想念の中では認識することが出来ない。中論を勉強しています我々が目の前の現実を全て意識していない場合には、苦しみと呼ばれるものが何処にあるのかとい...

  • 中論・24-20頌 四種類の崇高な真実に対する信頼

    第二十頌 四種類の崇高な真実に対する信頼西嶋先生の訳自由で静かな境地とは別の状態がこの世の中の全てである場合には、どのような創造も実在し得ないし死滅も実在し得ない。(観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものという)四種類の崇高な真実の中には、何も存在しないという主張は、自分自身の意見に対してあまりにも執着し過ぎている。中論を勉強していますもしも、この世の中の全てが自由で静かなありのままな世界でない...

  • 中論・24-19頌 綜合的な現象と宇宙の認識

    第十九頌 綜合的な現象と宇宙の認識西嶋先生の訳眼の前に現われている総合的な現象に対して不信な見方をしているような場合には、宇宙の認識されることが絶対にあり得ない。正にそのような複雑な事情のために、自由で静かな境地が見当たらないのであるから、宇宙の秩序が認識される可能性も全くない。中論を勉強しています我々の眼の前に現われているこの世の中の現象に対して決して信じる事が出来ない場合には、我々がこの世の中...

  • 中論・24-18頌 明々白々とした現象と中道

    第十八頌 明々白々とした現象と中道西嶋先生の訳そのような明々白々としたさまざまの現象が、さまざまの自由で静かな境地やさまざまの現実を作り出していることを、私は(君たちに対して)教えている。そのような現実の情報が、われわれの感受作用の働きであり、そのようにして感受されたものが正に中道である。中論を勉強しています我々の眼の前にある明々白々とした現象が、様々なありのままの状態を作り出していて、その様な事...

  • 中論・24-17頌 非仏教徒と現実の否定

    第十七頌 非仏教徒と現実の否定西嶋先生の訳行為を実行することに依って正にその動機を実現し、行為を実行することとその行為の動機とが、行いの実行を作り出す。(しかし仏教を信じない)君は目の前の現象や、自己規制や、結果などを完全に否定している。中論を勉強しています行為を実行する事はその実行が具体化する事であり、行為の動機と行為を行う者がその行為の実行を作り出す。しかし仏教を信じない君は我々の目の前に見え...

  • 中論・24-16頌 主観的な存在からの離脱と現実

    第十六頌 主観的な存在からの離脱と現実西嶋先生の訳もしも君が(頭の中で作り上げた)主観的な存在を離れるならば、さまざまの存在の中に現実の存在を発見するであろう。理性以外の確かなさまざまの事実が、さまざまの存在として実在していることを、君は正に現実の事態として見るであろう。中論を勉強していますもしも君が自分の頭の中で作り上げた様々な存在から離れて、この世の中をありのままに眺めてみるならば、実在してい...

  • 中論・24-15頌 非仏教徒と霊魂その他

    第十五頌 非仏教徒と霊魂その他西嶋先生の訳君は正にさまざまの悪徳や個人的な霊魂や客観的な霊魂を作り上げ、この世の中のさまざまの事物の中に、弁護できるようなものを作り上げている。正に自分が馬に乗っておりながら、犬の上に腰を下ろしたような不注意な状態を続けている。中論を勉強しています仏教を信じない正にあなたは、数々の間違いや生前には霊魂があり死後にも霊魂の存在を作り上げている、そしてこの世の中のさまざ...

  • 中論・24-14頌 均衡した態度と自由自在

    第十四頌 均衡した態度と自由自在西嶋先生の訳すべてのものが現実の事態によって拘束されている場合には、自由で静かなシュンニャーターと呼ばれる境地も現実の事態によってしっかりと保持されている。すべてのものが現実の事態によって拘束されていない場合には、自由で静かな境地も現実の事態によってしっかりと保持されてはいない。中論を勉強していますこの世の中の全てのものがこの世の中の現実によって強く拘束されている場...

  • 中論・24-13頌 均衡した態度と非難の無視

    第十三頌 均衡した態度と非難の無視西嶋先生の訳心を慎重にさせる傾向が均衡した状態の中に含まれており、そのような態度がさまざまの存在を気付かせる。非難に拘わる態度はわれわれらしくないのであり、そのような(非難に拘わる)態度は均衡した状態の中には現われて来ない。中論を勉強しています均衡した状態の中には我々を落ち着かせたり穏やかな態度を取らせたりする傾向がある。その様な態度が我々に様々の存在を気付かせる...

  • 中論・24-12頌 宇宙に関する表現の不明確

    第十二頌 宇宙に関する表現の不明確西嶋先生の訳そのような場合には、どのようなことでも積極的に表明すべきであって、そのような意向が釈尊によって示された。(しかし)私の宇宙に関する考え方は私流に凝り固まっている処から、はっきりさせることの難しい内容がぼんやりと示されている。中論を勉強していますその様な場合には、釈尊はどの様な事があっても何でも積極的に表明すべきであると我々に教えられた。しかし自分(竜樹...

  • 中論・24-11頌 均衡した状態とそれに伴う危険

    第十一頌 均衡した状態とそれに伴う危険西嶋先生の訳間違ったものの見方が否定されている場合には、均衡した状態は極く普通の平凡さとして目立たない。そこにおいて這うようにして(邪悪なものとして)近付いて来るものが、間違った判断であり、また間違ったお膳立てである。中論を勉強しています間違ったものの見方をせず毎日を落ち着いた均衡した状態で生活をしている場合、この均衡した状態が極々普通で平凡に見え当たり前の毎...

  • 中論・24-10頌 行いの世界と自由で静かな境地

    第十頌 行いの世界と自由で静かな境地西嶋先生の訳何かを実行することがあまり希望の持てない状況の中で行われている場合には、行いの世界というものが見えてこない。行いの世界というものが到来していない場合には、(自律神経が均衡した時に現われて来る)自由で静かな境地も現われて来ない。中論を勉強しています我々が何かを実行しているの時に行為の意欲が余りない場合がある、その様な時には最終的な目的である行いの世界が...

  • 中論・24-9頌 思考の世界における真実と行いの世界における真実

    第九頌 思考の世界における真実と行いの世界における真実西嶋先生の訳(吸う息と吐く息との)呼吸作用と同じように、二種類の真実が次元の違う二つのものとして別々に存在する事を、実感できない人々を、この世の中の現実を本当に深い意味のあるものとして掴むことのできない人々として、釈尊が非難された。中論を勉強しています我々が呼吸をする時、吸う息と吐く息という二種類の息があるのと同じように、思考の世界における真実...

  • 中論・24-8頌 理知的な世界における真実と行いの世界における真実

    第八頌 理知的な世界における真実と行いの世界における真実西嶋先生の訳(思考の世界における真実と行いの世界における真実との)二つの真実を充分に味わった状態が、真実を得られた方々の宇宙秩序に関する教えである。この世の中における正しい道案内が真実であり、それが行いの世界における真実でもある。中論を勉強しています頭の中で諸々を考える又は五感で感じて考える世界の真実と行いの世界によって生まれる真実がある、こ...

  • 中論・24-7頌 均衡した状態に対する非仏教徒の無知

    第七頌 均衡した状態に対する非仏教徒の無知西嶋先生の訳そこにおいては、会話が落ち着いた状態の中で行われているにも拘わらず、君はその原因を知ろうとしない。均衡した状態や均衡した状態の大切さに対しても、君は完全に圧倒されてしまっている。中論を勉強しています均衡した状態の中にいる時、我々が落ち着いて会話をしているの眼の前にしながら、釈尊の教えを信じない君は何故我々が落ち着いた会話が出来るのか理解できずそ...

  • 中論・24-6頌 非仏教徒の虚無主義

    第六頌 非仏教徒の虚無主義西嶋先生の訳(シュンニャターと呼ばれる)均衡した状態や、結果としての世俗的な世界や、宇宙の秩序に反するものや、宇宙の秩序そのものについてさえも全く同じように、そしてすべての世俗的な仕事や、さまざまの世俗的な出来事についてさえも、(仏教を信じない)君はそれらを拒否する。中論を勉強しています自律神経がバランスしている状態や結果の存在による我々の生きる世俗的な世界やこの世の中の...

  • 中論・24-5頌 非仏教徒の仏教教団に対する否定

    第五頌 非仏教徒の仏教教団に対する否定西嶋先生の訳宇宙の中にそして仏教教団の中に何も実在しないとするならば、真実を得る人が将来といえども、どうして存在するということがあり得よう。(仏法僧と呼ばれる三つに価値、すなわち真実を得た人、宇宙の秩序、仏教教団という)三つのものが、正に尊い価値であるにも拘わらず、(仏教を信じない)君はその話しをすることさえ拒否している。中論を勉強していますもしもこの世の中に...

  • 中論・24-4頌 八種類の仏教徒の実在と宇宙の実在

    第四頌 八種類の仏教徒の実在と宇宙の実在西嶋先生の訳もしも僧伽(と呼ばれる仏教教団)が実在しないとするならば、(僧侶、尼僧、二十歳未満の尼僧、僧侶の見習い、僧侶の候補者、在家の男子、在家の女子、仏教徒の候補者という)八種類の仏教徒も現実的なものとして実在する筈がない。(観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものという)崇高なさまざまの真実の中には何も存在しないという考え方から離れない限り、現実の宇宙...

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