第十九頌 実行することと実行そのものとの融合西嶋先生の訳そのように行くという動きが行くという現実の行いを実際に作り出して行くことが、現実の問題として起こり得るのであるから、その際には、(行くという動きと行くという現実の行いとが、)たった一つのものに纏まることであり、それは正に実行することと実行そのものとが、全く一つのものとして重なっていることである。中論を勉強していますその様に「行く」と言う行為が...
第二十六頌 現実の世界と時間系列西嶋先生の訳自分が現実の世界に接近することによって、一箇所に限定された現実の事態が、同じように接近して来るというような(時間系列の中における)事態はあり得ない。たった一つの場所に限定されている現実の事態が、さらに接近するというようなことがないという判断は、決して拘わった判断ではない。中論を勉強しています我々が現実を知ろうとする事によって、たった一箇所に限定された現実...
第二十五頌 現実の世界と永遠西嶋先生の訳終末を持つ可能性がたった一つの(具体的な現実の)場所に限定されている場合には、(そのような現実的な見方から)逆にそのたった一つの場所が正に終末を持つ可能性のない(永遠の瞬間における)存在であると考えることも出来る。終末を持つ可能性があると考えることは、恐らく(現に)終末を持っていないという事実を示すものであろうから、この地上世界は決して拘束された世界ではあり...
第二十四頌 現実の世界と終末西嶋先生の訳好ましい事実が先行していない場合には、自分にとっても何かを得る機会が現れて来るとは限らない。五蘊と呼ばれる集合体がその五蘊と呼ばれる集合体自体に依存して、さまざまの事物を存在させているのであるから、そこにおいてはこの地上世界が現実に終末を持たない現在の瞬間として捉えられる可能性もある。中論を勉強していますすでに存在するものがある。もしもその事が好ましい事実で...
第二十三頌 現実の世界と終末に似た状態西嶋先生の訳さまざまの好ましい事実が先行している場合でも、自分にとって何かを得るさまざまの機会が現われて来るとは限らない。五種類の集合体そのものが五種類の集合体を作り出している事態が、明々白々としたこの世の中の実体であり、そのような状況の中ではこの地上世界も、終末に似たものとして存在することが可能である。中論を勉強していますすでに存在するものがある。もしもその...
中論・27-22頌 終末を持つものと終末を持たないものとの融合
第二十二頌 終末を持つものと終末を持たないものとの融合西嶋先生の訳(五蘊と呼ばれる五種類の)集合体から成るさまざまの事物は、断絶のない流れであるから、それは正に光りの照射を乞い願っている。したがって終末を持たないように見える性質も、終末を持つように見える性質も、共に何かに拘束されてしまっている。中論を勉強しています五蘊と呼ばれる様々の事物から成り立っているこの世の中は絶え間ない流れの様である、その...
第二十一頌 現実の世界以外の世界の不存在西嶋先生の訳有限の性質を持ったものがこの地上世界であるとしても、おそらくこの地上世界以外の世界の存在するということがどうしてあり得よう。現に有限の性質を持たないものが、この地上世界であるとしても、この地上世界以外の世界が、どうして存在するということがあり得よう。中論を勉強しています我々が日々生活しているこの地上世界が有限の性質を持ったもので成り立っているとし...
第二十頌 永遠と永遠でないものとの合一西嶋先生の訳永遠なものが全く実在していない場合には、永遠でないものが一体どのようにして存在するということがあり得よう。永遠なものも永遠でないものも両方とも、正に隠されていて眼では見えないものである。中論を勉強していますもしもこの世の中に永遠なものが全く実在していないと言うならば、一体どうして永遠でないものがこの世の中に存在すると言う事があり得るだろうか?我々が...
第十九頌 現実世界の不可説性西嶋先生の訳何かが何処からともなく到来し、また何かが何処へともなく去って行く。したがって無限の過去からの存在が正に日常生活における浮き沈みである場合には、恐らく具体的な事物が実在するということでは決してないであろう。中論を勉強しています言葉では表現できない何かが何処からともなくやって来て、その言葉では表現できない何かがまた何処へともなく去って行く。もしも無限の過去からの...
中論・27-18頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待
第十八頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待西嶋先生の訳永遠でないものと永遠なものとが両方とも、現実の事実として存在する場合には、永遠なものもわれわれの希望通りに現われる訳ではなく、永遠でないものもわれわれの希望通りに現れて現われて来ない点では全く同じである。中論を勉強していますもしも永遠でないものも永遠なものも両方ともが、空想ではなく現実の事実として存在するとするならば、永遠な...
第十七頌 永遠と永遠でないものとの共存西嶋先生の訳天国もやはり一つの具体的な場所であるとすると、その一つの具体的な場所は、恐らく普通の人間社会と同じ社会であろう。永遠でないものと永遠なものとが両方とも存在していることが可能であり、この世の中は、決して拘わった状態のものではないであろう。中論を勉強していますもしも世間で言っている天国と言うものが具体的な場所として存在するならば、恐らくその様な具体的な...
第十六頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定西嶋先生の訳神とは違うものが人間らしさであるからこそ、永遠でないものという考えもあり得る。神とは違うものが人間らしさであるからこそ、宿命と呼ばれるものは起こり得ない。中論を勉強しています完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、我々の世界においては永遠でないものの存在を考える事が出来る。完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、...
第十五頌 神および永遠西嶋先生の訳現実の神が現実の人間的なものの中にある場合には、それに伴って永遠なものも存在する可能性がある。実際に見えて来ないものが神であるから、永遠は恐らく生まれて来るものではないのであろう。中論を勉強しています頭で考えてみると神の様なものが人間の行いの中にあるのかもしれない、また頭で考えてみると人間の行いの中に永遠なものが存在するのかもしれない。しかし神と云うものは見えたり...
第十四頌 旅行も現在の瞬間西嶋先生の訳旅行の途中にあって、まだ何処にも行き着いていないというふうに考える必要は決してなく、自分が何処かに行き着くであろうということは、自分で知ることができる。まだ目的地に到着していないということが現状であって、まだ目的地に着いていないということとまだ旅行中であるということとは、同じ事実の裏表である。中論を勉強していますもしも我々の人生の全てを旅行に例えるとするならば...
第十三頌 過去派と未来西嶋先生の訳ものの見方が完全に過去に帰属している人々は、未来は自分と無関係であると考えたり、未来こそ自分と密接な関係があると考える。(しかし)ある場合には未来と自分自身とが無関係であり、ある場合には未来と自分自身とが密接に関係しているということは、この世の中が整然とした形で、姿を見せていないことを意味している。中論を勉強していますものの見方の基準を常に過去にしている人々は、過...
第十二頌 未来の不存在西嶋先生の訳未来は決して現に存在するものではない。何故かというならば(もしも未来が既に実際に存在するとするならば)、其処においては悪徳でさせも既に固着してしまっている筈であるから。既に実行された行為が、仮にも霊魂と呼ばれるものに依存して存在するならば、この世の中に存在しているさまざまの事物も、正に理性に適合しないものになってしまう。中論を勉強しています未来というものは頭で考え...
第十一頌 現在の瞬間と現実の世界西嶋先生の訳行為における途切れ途切れの瞬間というものは、決して好ましくないものではなく、また行われた行為の結果とは違うものが、現在の瞬間における行いである。この世の中以外の状態を認識させたいと期待することは、その出発点から拘わりがあり過ぎる。中論を勉強しています途切れ途切れの刹那に行われる行為というものは決して好ましくないものではない。また行為の結果は頭で考えた内容...
第十頌 眼の前の世界が現実の世界西嶋先生の訳もしもこの世の中が、この眼の前の現状とは違ったものとして存在することがあり得るとするならば、この眼の前の現状を拒絶することも可能な筈である。しかし実情としては、正に現実が確立されているだけのことであって、そのような状態の中においては、生まれつつあるという状態と死滅という状態とは(現実と呼ばれる)一つのものであろう。中論を勉強していますもしも我々が住むこの...
第九頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳未来と呼ばれるものも過去と呼ばれるものも世俗と呼ばれるものも、現実の事実として現れるものではない。何故ならばそれらのものはまだ誕生しない以前から、何か別のものの発展として具体的に存在している訳ではないのであるから。中論を勉強しています我々は未来も過去も世俗的な道徳もこの世の中に実在していると思っているが、それらは頭で考えた言葉であり内容であって、いずれもが現...
第八頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳このように感受作用を離れて別個の事態がある訳ではないのと同じように、感受された内容と現実の事態とが、全く同じであるということも絶対にない。感受作用とは全く関係のない内容が、霊魂と呼ばれるものに依存して実在するということはないし、具体的なさまざまの事物が確かなものとして実在していないということも決してない。中論を勉強していますこの様に現在の瞬間の事態である感受...
第七頌 感受作用と霊魂西嶋先生の訳また別の例として、感受作用を離れて、霊魂が姿を現わすということも決してない。何故ならば、把握された内容が感覚的に受け入れた内容と違う場合には、その別の内容は決して理解することの出来るような内容ではないのであるから。中論を勉強していますまた別の例として同じ様な感受作用が他にあったとしても、だからと言って霊魂と呼ばれているものが新たに姿を現わすという事は決してない。何...
第六頌 感受された内容と霊魂西嶋先生の訳感受された内容と霊魂とは同じものでは絶対になく、具体的なものはその表面を覆う外面があると同時にその内容が全体に行き亘っているものである。何故ならば、感受された内容が名目的であるということがどうしてあり得よう。感受されたものは、将来に向かって存続し続けて行くのである。中論を勉強しています我々の感覚器官の働きによって得られる感受作用の内容と我々が考え想像する霊魂...
第五頌 霊魂の不存在西嶋先生の訳感受された内容が甚だ漠然としているということは、霊魂と呼ばれるものがこの世の中において実際に活躍しているということが、実在ではないということである。感受されたものも恐らく霊魂と呼ばれるものと似たものであり、霊魂と呼ばれるものも、やはり人々の思い込みであって実在ではない。中論を勉強しています感受作用による認識が甚だ漠然といているということは、いくら霊魂が存在していると...
第四頌 霊魂の実在に対する疑問西嶋先生の訳霊魂と呼ばれるものが、仮にも具体的なものとして(この世の中に)存在するとするならば、その感受される内容がもっとはっきりしたものになっている筈である。感受された内容が、甚だ取り留めのない漠然としたものであるという事情が、霊魂と呼ばれるものによる影響であるとするならば、霊魂と呼ばれるものは、一体何であろう。中論を勉強していますもしも霊魂と呼ばれるものがこの世の...
第三頌 教説の非実在性西嶋先生の訳「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とか(と呼ばれる教説)は、具体的なものとして(この世の中に実際に)実在する性質のものではない。何故ならば、まだこの世の中に具体的に現われて来ていないものが、既にこの世の中のものとして実在するということはあり得ないのであるから。中論を勉強しています「未来派」とか「過去派」とか「世俗派」とかのそれぞれの教説は、頭で考え出した事であ...
第二頌 教説と現実西嶋先生の訳私は、さまざまの教説は将来といえども存在しない方が望ましいと考えており、極楽浄土に逃げて行くことは、一種の逃避であると思う。私としては、(教説の)存在を考えることは、結論を急ぎ過ぎることであり、極楽浄土を願うことであり、逃げ場を求めることである(と思う)。中論を勉強しています私は、さまざまの教説は出来れば存在しない方が良いと考えている。教説を頼りにする事は極楽浄土に逃...
第一頌 四種類の教説西嶋先生の訳「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、これらがさまざまの教説の(具体的な)例である。これらは、「未来派」は永遠性を指向し、「過去派」は世界の創造主を指向し、「世俗派」は世間並みの道徳を指向し、「現実派」は過去と未来とを共に否定した現在の瞬間に基礎を置く仏教哲学に依って支えられている。中論を勉強しています「未来派」、「過去派」、「世俗派」、「現実派」、と言わ...
第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その2)abhum:ヴィシュヌ派:ヴィシュヌ神の永遠性を信じ、この世の発生以前から存続し続けている永遠性を信ずる立場に立って、精神主義的な観念論を主張した宗派として理解した。atitam:特殊のシヴァ派:シヴァ神に対する信仰から、一切の事象を過去によって既に決定された事実として理解し、この世の中を決定論的に理解した宗派ではないかと想像される。adhvana...
第二十七章 教説に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です (その1)仏教はダールマまたは現実を直接描写した教えであって、通常の教説のように抽象的な概念を使って、主観的なあるいは客感的な教説を述べた教えとは異なる。しかしその反面、もしも仏教が全く言葉では説明することのできない教えであるとするならば、仮にそのような仏教思想が存在するとしても、他の人々に対して伝承することができないと云う意味で、致命的な欠...
第十二頌 個々の事物の独立性西嶋先生の訳個々のものが抑圧されていることに依って、個々の事物がこの世の中において活動を開始する訳ではない。苦しみとか五種類の集合体とかというようなものも、それぞれ個々に独立したものであり、それであればこそこの世の中は、一つに纏まった世界として自己管理されているのである。中論を勉強しています個々の状況が全て管理されているからと言って、個々の事物がこの世の中において全て認...
第十一頌 日常生活の基本原則と理知西嶋先生の訳さまざまの無知の中やさまざまの抑圧の中に、さまざまの現実的な行いが実在しているということはない。無知から生まれた抑圧は、知識に従う場合でも具体的なものの中に求める場合でも、実際に存在することからは完全にかけ離れている。中論を勉強しています様々の無知の状態の中や様々の押さえつけた状態の中においては、様々な考え方やまた様々な感受作用ではない行為の実践が現実...
第十頌 日常生活の基本原則と理知西嶋先生の訳そのような事情から、日常生活の浮き沈みにおける基本原則が、様々の現実的な行いを準備し、さまざまの無知を準備する。したがって行いが無知を作り出す訳ではなく、現実が観察的な態度を止める時に理知が作り出される。中論を勉強しています憂鬱な状態の苦しみを耐え忍ぶ事により現実がわかってくると言う事情から、日常生活における基本原則が正しければ様々な現実的な行いを、また...
第九頌 忍耐と現実の世界西嶋先生の訳憂鬱な状態を耐え忍んでいると、この世の中が姿を現わし、現実の世界が動き出す。そのようにして綜合的な世界が、個々の特殊事情の中に、この現実の世界の中に、苦痛と(五種類の)集合体とが一つに重なった状態の中に存在している。中論を勉強しています憂鬱な状態を耐え忍んでいると、その憂鬱はこの世の中の事であり、現実の事であると認識するようになる。憂鬱を含む綜合的なこの世の中に...
第八頌 五種類の集合体と嘆き西嶋先生の訳五種類の集合体(五蘊)が正に存在であり、その存在を離れて誕生(生)が具体的なものとなる。老化や死滅(老死)はさまざまの苦しみであり、さまざまの激しい苦痛は正にさまざまの嘆きである。中論を勉強しています五蘊と呼ばれている五種類(色・受・想・行・識)の集合体は現実の存在である。その現実の存在の有無に関わることなく誕生(生)が具体的なものとなる。老化や死滅(老死)は...
第七頌 感受作用と存在西嶋先生の訳感受作用(受)を通して存在(有)が現実的なものとなり、感受作用(受)そのものが実際に機能する。器としての世界を感受作用の対象として認めることをしないならば、存在を断念しなければならないような事態の存在(有)を考えなければならないような事態はあり得ない。中論を勉強しています我々は感受作用(受)を持っているから、この世の中の存在(有)が現実的なものとなる。その事は感受...
第六頌 感受作用と渇望する心西嶋先生の訳感受作用(受)そのものがさまざまの確かな事実の中に含まれていないということは、望ましいことである。何故ならば(本当に求められているものは、感受作用(受)そのものではなくて)むしろ感受作用の対象の方にあるのであるから。渇望する心(愛)は感受作用(受)における(感覚器官と感覚の対象と両者の接触と感受作用との)四つの要素として獲得される。中論を勉強しています感受作...
第五頌 物質と感受作用と眼および接触と感受作用西嶋先生の訳三種類のものが一つに結び付いた状態とは、物質と感受作用と眼との(三つの結合の)ことである。したがって接触(触)が接触(触)そのものから抜け出した時に、感受作用(受)が活躍を始める。中論を勉強しています接触の働き(触)は三種類のものが一つに出会うことであり、その三種類のものとは物質と感受作用と眼(感覚器官)の事である。したがって物質と眼(感覚...
第四頌 現実の事物と綜合的な認識西嶋先生の訳眼が物質に対して明瞭である場合には、全ての事物に関する構成も同じように明瞭である。名称と物質との結合(名色)である現実の事物が同じように明瞭である場合には、綜合的な認識が活動し始める。中論を勉強していますもしも物質を見る眼の働きがハッキリしている場合には、この世の中の全ての事物に対しても同じようにハッキリとしている。そして外界の世界の事物がハッキリしてい...
第三頌 現実の事物と接触西嶋先生の訳瑞々しい状況の中でそして名称と実体とが一つに重なった現実の事物(名色)の中で、六種類の感覚器官(六入)と綜合的な存在とが一つに重なった状態で存在している。そして六種類の感覚器官(六入)が到来したことにより、接触の働き(触)が実際に開始される。中論を勉強しています幸せでありそして名称とその物質的な実体とが一つに重なった具体的な事物(名色)の中に、六種類の感覚器官(...
第二頌 安定した状態と現実の事物西嶋先生の訳心の働きが落ち着くと、現実の行いでもあり確かな事実でもあるものが、行くという行いに関する二つの要素を形成している。その場合には安定した心の働きの中で、名称と実体とが一つに重なった現実の事物(名色)が地上に行き渡る。中論を勉強しています心が無明の状態から識という状態に馴染むに従い、現実の行いと行いをしていると言う心が形作られる。やがて識の働きは順調になじん...
以前から調子不全のパソコンが壊れてしまった。それは突然。デスプレイガ半分朱色のフィルターがかかり縦のバーコードが出現して見づらい見づらい。電気製品なら買ったその日から使えるが、パソコンはそうはいかない。だましだましで使っていたが、仕方なく買うことにした、私としてはできればよいのだが出来よいよいので8GB,コア7,ssd256ぐらいの性能でよいと思っていたが、妻が「年をとって目が疲れ安くなっているから、ノート...
第一頌 無知と行いと心理作用西嶋先生の訳新しい誕生に伴なって、さまざまの綜合的な行い(行)が実行され、混迷の状態(無明)と白紙のような心理作用(識)とが共存して、三種類のものが一つに重なっている。それらがこの世の中の移り変わりに従って序々に姿を変え、行為を通して実行と呼ばれる動作が実際に前進する。中論を勉強しています生まれたばかりの赤ん坊はただ手足を動かして(行)いる、何の意識もないと言う状態(無...
第二十六章 十二種類の項目に関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですこの世の中の一切がすべて原因結果の関係に依って拘束されているという思想は、仏教思想における一つの大原則である。そしてそのような因果関係における定型的な図式として、仏教では古くから十二因縁という解説が行われている。この章で述べている十二種類の項目とは、正にその十二因縁のことであって、十二因縁とは無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取...
第二十四頌 宇宙秩序の言語表現不能西嶋先生の訳何に限らず何かを得るということは、心の安まるものであり、何かを拡大して行くとことも、幸福観を伴うものである。どのような場所においても、どのようなものの中においても、どのようなものに就いても、釈尊は宇宙の秩序について言葉で説明されることがなかった。中論を勉強しています全ての何かを得る事に対して平静になる事、より以上にと言う気持ちに対して平静になる事、これ...
第二十三頌 永遠でないものと永遠なものとの不明確性西嶋先生の訳この世の中とは何であろう。この世の中でない別の世界とは何であろう。永遠とは何であろう。永遠でないものとは何であろう。永遠でないものも永遠なものも一体何であろう。この二つのものは今後とも、何物でもないであろう。中論を勉強しています我々はこの世の中を理解しているであろうか。この世の中以外の別の世界があったならば理解出来るであろうか。永遠とい...
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第十九頌 実行することと実行そのものとの融合西嶋先生の訳そのように行くという動きが行くという現実の行いを実際に作り出して行くことが、現実の問題として起こり得るのであるから、その際には、(行くという動きと行くという現実の行いとが、)たった一つのものに纏まることであり、それは正に実行することと実行そのものとが、全く一つのものとして重なっていることである。中論を勉強していますその様に「行く」と言う行為が...
第十八頌 行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きが、行くという現実の行いを作り出して行くという考え方は、そう拘わった考え方ではない。更に別の云い方をすれば、行くという動きが行くという動作の中に含まれているということであって、この考え方も決して拘わった考え方ではない。中論を勉強しています行いにおいて「行く」と言う行為がある、その「行く」と言う行為が「行く」と言う動作を作り出し...
第十七頌 認識、追憶、想像のような想念の損失と現実の行い西嶋先生の訳「行きつつある」という認識や「行った」という追憶や「まだ行っていない」という想像のような想念から抜け出した場合には、固定的なものは一切あり得ない。どんな場合においても、行くという事実が瞬間的に生まれ、瞬間的に消えて行くことによって、行くという現実の行いが作り出される。中論を勉強しています「行きつつある」という認識や「行った」という...
第十六頌 行くという現実の行いと行くという動き西嶋先生の訳行くという動きがほんの僅かでも固定的であるというようなことは、将来といえども絶対に起こり得ない。行くという現実の行いがない場合には、行くという動きがこの世の中に現われて来るということも、絶対にあり得ない。中論を勉強していますこの世の中の全ての事象は現在の瞬間の事実であるから、「行く」という動きがほんの僅かでも固定的であると言う様な事は、、将...
第十五頌 一切の動きの躍動性西嶋先生の訳行くという動きも固定的なものではないし、それと同じように、行かないという動きも固定的なものではない。行くという動きとか行かないという動きとかを離れて、三番目の全く別のものが、やはりどうして固定的なものであり得よう。中論を勉強しています「行く」と言う動きは現在の瞬間における事実であり固定されたものではない、それと同じ様に「行かない」と言う動きも現在の瞬間におけ...
第十四頌 追憶、認識、想像と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行った」(という追憶)も、「行きつつある」(という認識)も、「まだ行っていない」(という想像)も、何か別のものと入れ替えることのできない(独自の)存在である。(そのような追憶や認識や想像が)途絶え始めた段階で、一切のものが行くという現実の行いの中に存在するという状態がある。中論を勉強しています「行った」と言う追憶、「行きつつある」と言う...
第十三頌 行くという現実の行いと認識、追憶、想像西嶋先生の訳行くという現実の行いが実行される以前で、まだ何もない場合には、「行きつつある」(という認識)もないし、「行った」(という追憶)もない。そのような状況の中で、行くという現実の行いが始まるのであって、行くという現実の行いが、「まだ行っていない」(という想像)の中にあるということも絶対にあり得ない。中論を勉強しています[行く]という行いが未だ実行...
第十二頌 行くという現実の行いの始期西嶋先生の訳行くという現実の行いは「行った」という追憶の中に生まれる筈がないし、行くという現実の行いは「まだ行っていない」という想像の中にも生まれる筈がない。行くという現実の行いは「行きつつある」という認識の中にも生まれる筈がないのであるから、行くという現実の行いの始期を特定することはできない。中論を勉強しています今まさに「行く」と言う行いは「行った」と言う過去...
第十一頌 行くという現実の行いの実在西嶋先生の訳行く人と行くという動きの両方が、行くという現実の行いにおける二つの要素としてしがみ付いているとしても、現に行くという現実の行いが実在している。行く人と行くという動き(という概念的な理解)が両方とも生まれていない場合には、行く人と行くという動きとが分裂する以前の現実的な実体として、行くという行いが事実として現実の世界の中に実在している。中論を勉強してい...
第十頌 行く人と行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行く人と行くという動きとのどちらか一方が行くという考え方は、両方とも拘り過ぎている。行くという現実の行いが現にないならば、行く人も行くという動きも行くという現実の行いも単なる願望に過ぎない。中論を勉強していますもしも「行く人」または「行くという動き」のどちらか一方が「行く」という行為であると考えるならば、「行く人」または「行くという動...
第九頌 行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きがほんの僅かでも行くということが、将来といえどもどうしてあり得よう。行くという動きは行くという現実の行いがない限り、この宇宙の中に現れて来ることが絶対にない。中論を勉強しています「行く」という動きを感じるのは認識である、その頭で考えた認識がほんの僅かでも「行く」という現実の行いをする事は将来といえどもどうしてあり得ようか。「行く...
第八頌 行く行かないという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きが行くのではないのと同じように、行かないという動きも当然行くということがない。行くという動きと違う動きが行かないという動きであって、(行くという動きと行かないという動きの他に)三番目のものが行くということも実際には決してあり得ない。中論を勉強しています「行く」という動きそのものと現実に行くという事実とは同じではない、そし...
第七頌 行為をする人と現実の行い西嶋先生の訳行くという行為をする人が視野に入っていない場合も、行いという現実の行いが現実の世界に姿を現して来ることが不可能である。行くという現実の行いに関連して、具体的に行為を行う人が現実的でないならば、将来といえども一切のものの存在する可能性がない。中論を勉強しています行くという行為をする人に対して我々が無視をしている場合、行くという現実の行いが現実の世界に姿を現...
第六頌 行くという動作と現実の行い西嶋先生の訳行くという動きを二つに分けることは拘りであり、行くという現実の行いを二つに分けることも執着である。何故ならば、もしも行くという動きが視野に入っていない場合には、行くという現実の行いがこの現実の世界に現れて来る可能性が断ち切られてしまっているのであるから。中論を勉強しています行くという動きを認識と動作の二つに分ける事は拘りである、行くという今現在の行いを...
第五頌 「行きつつある」という事実と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行きつつある」という事実と行くという現実の行いとのどちらかに拘わることが、行くという現実の行いに関する二つの問題点である。「行きつつある」という事実は、行くという現実の行いに包合されており、また行くという現実の行いは、やはり「行きつつある」という事実に包合されている。中論を勉強しています「行きつつある」と言う認識と「行く」と言う...
ブログに入ろう思って、ブロブIDそしてパスワードを入力したら、「認証用コードを入力」してくださいの画面。メールで認証用コードを送りますとの事、早速メールを開いて認証コードを小文字で入力するのだが「認証コードが一致しません」となる。どういう事だと思い質問のメールを送るのだが、相変わらず「認証コードが一致しません」となる。パニック、パニック。冷静に考えたらもう一つメールアドレスがある。試しに開けてみたら...
第四頌 現実の行いの実体西嶋先生の訳行くという現実の行いが、「行きつつある」という事実の中に含まれているという考え方は、行くという現実の行いと「行きつつある」という事実との両方について、考え方が拘り過ぎている。何故ならば、「行きつつある」という事実は、行くという動きを忘れた時に動き出すのであり、(そこで始めて)「行きつつある」という事実が具体化するのであるから。中論を勉強しています「行きつつある」...
第三頌 現実の行いの実状西嶋先生の訳「行きつつある」という事実の中で現に行くという現実の行いを実行している場合には、それを何らかの言葉で表現しようとしても、そのことは不可能である。「行きつつある」という事実か現実の行いかのどちらかが実在している場合には、その情景を言葉で表そうとしても、そのことは不可能である。中論を勉強しています「行きつつある」と言う認識の状況に応じて正に「行く」と言う現実の行いを...
第二頌 手足の動きと行きつつある事実西嶋先生の訳手足の動きが行くという動きである場合には、その手足の動きは常に「行きつつある」という(現在の瞬間における)事実の中にある。手足の動きが「行った」(という追憶)とか「まだ行っていない」(という想像)とかから抜け出している場合には、行くという動きは常に「行きつつある」という(現在の瞬間における)事実と同じである。中論を勉強しています手足が動く動作または行...
第一頌 行くことに関する追憶、想像、認識と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行った」(という追憶)が実際に行くことはないし、それと同じように「まだ行っていない」(という想像)が実際に行くということも決してない。「行った」(という追憶)とか「まだ行っていない」(という想像)とは別の「行きつつある」(という認識)も実際に行くということがない。中論を勉強しています「行った」という記憶は現実の行いの「行く...
第二十六頌 現実の世界と時間系列西嶋先生の訳自分が現実の世界に接近することによって、一箇所に限定された現実の事態が、同じように接近して来るというような(時間系列の中における)事態はあり得ない。たった一つの場所に限定されている現実の事態が、さらに接近するというようなことがないという判断は、決して拘わった判断ではない。中論を勉強しています我々が現実を知ろうとする事によって、たった一箇所に限定された現実...
第二十五頌 現実の世界と永遠西嶋先生の訳終末を持つ可能性がたった一つの(具体的な現実の)場所に限定されている場合には、(そのような現実的な見方から)逆にそのたった一つの場所が正に終末を持つ可能性のない(永遠の瞬間における)存在であると考えることも出来る。終末を持つ可能性があると考えることは、恐らく(現に)終末を持っていないという事実を示すものであろうから、この地上世界は決して拘束された世界ではあり...
第二十四頌 現実の世界と終末西嶋先生の訳好ましい事実が先行していない場合には、自分にとっても何かを得る機会が現れて来るとは限らない。五蘊と呼ばれる集合体がその五蘊と呼ばれる集合体自体に依存して、さまざまの事物を存在させているのであるから、そこにおいてはこの地上世界が現実に終末を持たない現在の瞬間として捉えられる可能性もある。中論を勉強していますすでに存在するものがある。もしもその事が好ましい事実で...
第二十三頌 現実の世界と終末に似た状態西嶋先生の訳さまざまの好ましい事実が先行している場合でも、自分にとって何かを得るさまざまの機会が現われて来るとは限らない。五種類の集合体そのものが五種類の集合体を作り出している事態が、明々白々としたこの世の中の実体であり、そのような状況の中ではこの地上世界も、終末に似たものとして存在することが可能である。中論を勉強していますすでに存在するものがある。もしもその...
第二十二頌 終末を持つものと終末を持たないものとの融合西嶋先生の訳(五蘊と呼ばれる五種類の)集合体から成るさまざまの事物は、断絶のない流れであるから、それは正に光りの照射を乞い願っている。したがって終末を持たないように見える性質も、終末を持つように見える性質も、共に何かに拘束されてしまっている。中論を勉強しています五蘊と呼ばれる様々の事物から成り立っているこの世の中は絶え間ない流れの様である、その...
第二十一頌 現実の世界以外の世界の不存在西嶋先生の訳有限の性質を持ったものがこの地上世界であるとしても、おそらくこの地上世界以外の世界の存在するということがどうしてあり得よう。現に有限の性質を持たないものが、この地上世界であるとしても、この地上世界以外の世界が、どうして存在するということがあり得よう。中論を勉強しています我々が日々生活しているこの地上世界が有限の性質を持ったもので成り立っているとし...
第二十頌 永遠と永遠でないものとの合一西嶋先生の訳永遠なものが全く実在していない場合には、永遠でないものが一体どのようにして存在するということがあり得よう。永遠なものも永遠でないものも両方とも、正に隠されていて眼では見えないものである。中論を勉強していますもしもこの世の中に永遠なものが全く実在していないと言うならば、一体どうして永遠でないものがこの世の中に存在すると言う事があり得るだろうか?我々が...
第十九頌 現実世界の不可説性西嶋先生の訳何かが何処からともなく到来し、また何かが何処へともなく去って行く。したがって無限の過去からの存在が正に日常生活における浮き沈みである場合には、恐らく具体的な事物が実在するということでは決してないであろう。中論を勉強しています言葉では表現できない何かが何処からともなくやって来て、その言葉では表現できない何かがまた何処へともなく去って行く。もしも無限の過去からの...
第十八頌 永遠でないものと永遠でないものとに対する人間的な期待西嶋先生の訳永遠でないものと永遠なものとが両方とも、現実の事実として存在する場合には、永遠なものもわれわれの希望通りに現われる訳ではなく、永遠でないものもわれわれの希望通りに現れて現われて来ない点では全く同じである。中論を勉強していますもしも永遠でないものも永遠なものも両方ともが、空想ではなく現実の事実として存在するとするならば、永遠な...
第十七頌 永遠と永遠でないものとの共存西嶋先生の訳天国もやはり一つの具体的な場所であるとすると、その一つの具体的な場所は、恐らく普通の人間社会と同じ社会であろう。永遠でないものと永遠なものとが両方とも存在していることが可能であり、この世の中は、決して拘わった状態のものではないであろう。中論を勉強していますもしも世間で言っている天国と言うものが具体的な場所として存在するならば、恐らくその様な具体的な...
第十六頌 永遠でないものの肯定と宿命の否定西嶋先生の訳神とは違うものが人間らしさであるからこそ、永遠でないものという考えもあり得る。神とは違うものが人間らしさであるからこそ、宿命と呼ばれるものは起こり得ない。中論を勉強しています完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、我々の世界においては永遠でないものの存在を考える事が出来る。完全無欠の神とは違うものが具体的な人間らしさであるから、...
第十五頌 神および永遠西嶋先生の訳現実の神が現実の人間的なものの中にある場合には、それに伴って永遠なものも存在する可能性がある。実際に見えて来ないものが神であるから、永遠は恐らく生まれて来るものではないのであろう。中論を勉強しています頭で考えてみると神の様なものが人間の行いの中にあるのかもしれない、また頭で考えてみると人間の行いの中に永遠なものが存在するのかもしれない。しかし神と云うものは見えたり...
第十四頌 旅行も現在の瞬間西嶋先生の訳旅行の途中にあって、まだ何処にも行き着いていないというふうに考える必要は決してなく、自分が何処かに行き着くであろうということは、自分で知ることができる。まだ目的地に到着していないということが現状であって、まだ目的地に着いていないということとまだ旅行中であるということとは、同じ事実の裏表である。中論を勉強していますもしも我々の人生の全てを旅行に例えるとするならば...
第十三頌 過去派と未来西嶋先生の訳ものの見方が完全に過去に帰属している人々は、未来は自分と無関係であると考えたり、未来こそ自分と密接な関係があると考える。(しかし)ある場合には未来と自分自身とが無関係であり、ある場合には未来と自分自身とが密接に関係しているということは、この世の中が整然とした形で、姿を見せていないことを意味している。中論を勉強していますものの見方の基準を常に過去にしている人々は、過...
第十二頌 未来の不存在西嶋先生の訳未来は決して現に存在するものではない。何故かというならば(もしも未来が既に実際に存在するとするならば)、其処においては悪徳でさせも既に固着してしまっている筈であるから。既に実行された行為が、仮にも霊魂と呼ばれるものに依存して存在するならば、この世の中に存在しているさまざまの事物も、正に理性に適合しないものになってしまう。中論を勉強しています未来というものは頭で考え...
第十一頌 現在の瞬間と現実の世界西嶋先生の訳行為における途切れ途切れの瞬間というものは、決して好ましくないものではなく、また行われた行為の結果とは違うものが、現在の瞬間における行いである。この世の中以外の状態を認識させたいと期待することは、その出発点から拘わりがあり過ぎる。中論を勉強しています途切れ途切れの刹那に行われる行為というものは決して好ましくないものではない。また行為の結果は頭で考えた内容...
第十頌 眼の前の世界が現実の世界西嶋先生の訳もしもこの世の中が、この眼の前の現状とは違ったものとして存在することがあり得るとするならば、この眼の前の現状を拒絶することも可能な筈である。しかし実情としては、正に現実が確立されているだけのことであって、そのような状態の中においては、生まれつつあるという状態と死滅という状態とは(現実と呼ばれる)一つのものであろう。中論を勉強していますもしも我々が住むこの...
第九頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳未来と呼ばれるものも過去と呼ばれるものも世俗と呼ばれるものも、現実の事実として現れるものではない。何故ならばそれらのものはまだ誕生しない以前から、何か別のものの発展として具体的に存在している訳ではないのであるから。中論を勉強しています我々は未来も過去も世俗的な道徳もこの世の中に実在していると思っているが、それらは頭で考えた言葉であり内容であって、いずれもが現...
第八頌 感受作用と現実と霊魂西嶋先生の訳このように感受作用を離れて別個の事態がある訳ではないのと同じように、感受された内容と現実の事態とが、全く同じであるということも絶対にない。感受作用とは全く関係のない内容が、霊魂と呼ばれるものに依存して実在するということはないし、具体的なさまざまの事物が確かなものとして実在していないということも決してない。中論を勉強していますこの様に現在の瞬間の事態である感受...
第七頌 感受作用と霊魂西嶋先生の訳また別の例として、感受作用を離れて、霊魂が姿を現わすということも決してない。何故ならば、把握された内容が感覚的に受け入れた内容と違う場合には、その別の内容は決して理解することの出来るような内容ではないのであるから。中論を勉強していますまた別の例として同じ様な感受作用が他にあったとしても、だからと言って霊魂と呼ばれているものが新たに姿を現わすという事は決してない。何...