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毎日(朝・晩)坐禅を自宅でして、師事した西嶋先生の「中論」を紹介しています。

悠村隆道
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2021/05/22

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  • 中論・25-9頌 自由で静かな境地の直観的な把握

    第九頌 自由で静かな境地の直観的な把握西嶋先生の訳遅いとか早いとかと呼ばれる存在は、両方とも感覚的に捉えることの出来る事実であり、はっきりしている。(しかし)あまりはっきりとはしていない、感覚的に掴むことのできないものが、自由で静かな境地として(われわれに依って)受け取られる。中論を勉強していますこの世の中には早いものとか遅いものとかと呼ばれる存在がある。それらの存在は五感の感受作用で感覚的に明確...

  • 中論・25-8頌 感覚的な世界以外の状態としての自由で静かな境地

    第八頌 感覚的な世界以外の状態としての自由で静かな境地西嶋先生の訳存在ではないものが正に自由で静かな境地であるとするならば、現に眼の前に見えているこの世界は一体何であろう。自由で静かな境地は存在ではないのであるから、自由で静かな境地が実在するという事実は、感覚的に捉えられる世界とは違うものとして認識されるのであろう。中論を勉強していますもしも具体的な存在でないものが自由で静かな境地であると主張する...

  • 中論・25-7頌 自由で静かな境地の非存在性

    第七頌 自由で静かな境地と非存在性西嶋先生の訳存在は自由で静かな境地そのものと同じものではないのであるから、その存在そのものではない自由で静かな境地が、将来存在となるということはあり得ない。その場合、自由で静かな境地が存在ではないのであるから、その存在でないものが、認識の対象になるということもあり得ない。中論を勉強しています存在と自由で静かな境地そのものとは全く別のものであるから、存在でもない自由...

  • 中論・25-6頌 自由で静かな境地と現実の世界

    第六頌 自由で静かな境地と現実の世界西嶋先生の訳存在が正に自由で静かな境地である場合には、現に(具体的に)存続しつつあるこの具体的な世界は一体何であろう。自由で静かな境地と呼ばれるものは、感覚的に掴むことの出来るものとは別のものであろう。何故ならば、(もしも自由で静かな境地が感覚的に掴むことの出来るものであるならば、)そのような存在は何らかの形で必ず認識出来る筈であるから。中論を勉強しています存在...

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