成人式の当日。気付けをして写真を撮っておばあちゃんに見せに行った。一人暮らしをしながら働いている彼が、私の身体を心配して電車を乗り継いで、成人式の会場に連れて行ってくれた。彼も成人式なのに地元に帰らず私に付き添ってくれた。小中高時代と何の縁も無い、今の居住地から届いた招待状。全く知らない人ばかりの輪があちこちで出来ていて男女ともキャッキャと楽しそうだった。女の子達は親に車で送迎してもらっていた。私は何度も駅の階段を昇り降りして、随分着物も気崩れていた。草履も痛かった。団体毎に記念写真を撮っていた。式典が始まってもあちこちでお喋りは止まなかった。私は途中で会場を出た。彼が居なかったら、惨めさに拍車がかかっていただろう。成人式、惨めな思い出しかなかった。今年になるまでは。2022年、久しぶりに写真を見た。この写真捨...根無し草㊹
私が20歳を迎えた時耳の聞こえないおばあちゃんが、成人式の心配をしてくれた。もちろん両親は無関心だった。おばあちゃんは叔母さん(父親の妹)の振り袖を手配してくれた。草履とバッグとショールの新品を買ってくれた。自分の行きつけの美容院に、ヘアーセットと着付けの予約をしてくれた。私の為に奔走してくれた事が本当に嬉しかった。そんな様子を見てRさんは、首をかしげながら「成人式、成人式ってそんなに必死にするものかな?私はこの子にはしない」と4歳の娘の前で言ってしまった。自分は国立大学に通っていて成人式なんかより、有意義な事があった。自分の娘にもそういう大学生活をおくらせる。という意味だったかも知れない。あのねRさん、4歳の女の子はそういう言葉しっかりと心と記憶に残るんだよ。その日から妹は私に凄く反抗してきたり、生意気さがま...根無し草㊸
その時の家族父親、Rさん(敢えて両親と呼ぼう)12歳になった弟。4歳になった妹。その4人は普通の家族に見えた。4人で普通に暮らしたら良いのに。父親は気に入らないことがあると恫喝したり、物を投げてきた。私だけに。今でも大きな物音を聞くと、心臓がバクバクして息苦しくなる。Rさんも情け深い人では無かったから、低レベルな短大に大金つぎ込んで貰ってるんだから、家の手伝いくらい当たり前。というスタンスだった。19歳や20歳って、色々冒険したりして親を超えようとする大切な時間じゃないの?私の時間、いや人生そのものを搾取して、、、もう、開放してよ。生きるのしんどいわ。根無し草㊷
すぐに大量のステロイドの経口投与が始まった。日光に当たらない。過労にならないよう、安静に休養する。医者から言われたけどそういうわけにはいかなかった。親たちはあまり心配していなかった。難病は特定疾患で、保健所に届け出て受給者証を受け取る。当時は私の病気は全額公費負担だった。医療費が全くかかっていないからか、病気の重大さを全然わかって貰えなかった。布団で安静になんて出来なかった。ステロイドの副作用で顔がパンパンに浮腫んだ。髪の毛も沢山抜けた。彼氏に会った時、私と一緒に泣いてくれた。私のために白い可愛い折り畳みの日傘をプレゼントしてくれた。当時は若い子が日傘を指したり、夏に長袖を着て日除けをするような文化が無かったから、日光に当たらないのは難しいと思っていたけどその可愛い日傘のおかげで外を歩けた。ありがとう体調は全然...根無し草㊶
何度皮膚科へ通っても良くならなかった。身体のダルさは益々増して行った。皮膚科から大きな病院へ紹介された。その病院で診察と検査を受け、私の症状の原因が分かった。やっぱり怠けてるわけじゃ無かったんだ。ホッとした。と同時にとんでも無い恐怖に襲われた。その病の名前は全身性エリテマトーデス(通称SLE)初めて聞く病名だった。自分で自分の免疫を攻撃する、原因不明の難病だった。一生治らない。インターネットで検索何てできない時代。図書館で調べた。怖いことが沢山書いてあった。怖くて怖くて食欲も無くなり、夜も眠れなくなった。根無し草㊵
家事労働がしんどい。夕方になると特にしんどい。言いようのないダルさ。つばを呑み込むと喉が痛い。今の生活になって2ヶ月ほど経った時、毎日そんな症状に襲われた。小学校高学年になった弟は私の事を心配してくれた。保育所に通う妹はRさんによく似て頭がよく、私の事を下に見ていた。とにかくしんどいのだけれど、熱が出たり咳が出たりするわけでは無いから病院にも行かなかった。親からは怠け病のように言われた。5月の強い紫外線に当たり私の顔は真っ赤に腫れた。冬でもないに、指の関節が霜焼けのように赤くプクプクと腫れた。父親が気持ち悪いから病院へ行け、と言ってやっと病院へ行くことが出来た。皮膚科へ行って塗り薬を処方された。2週間経っても良くならなかった。それどころか悪化した。根無し草㊴
短大に通いながら私は家事労働をした。家事手伝い、では無く本当に家事労働。父親とRさんは共働きだった為、妹の保育所の迎え、掃除、洗濯、買い物、夕食準備短大に通いながらキツかった。もちろんアルバイトする時間もなく、友達と遊ぶ時間もない。幸いというか彼氏は1年間他県に研修だったので、おばあちゃんの家を利用して手紙を送って貰ってやりとりしていた。手紙が私の心の支えだった。私は、毎日過労とストレスでおかしくなりそうだった。いや、本当に病んでしまった。根無し草㊳
私は何度か遊んだグループの中の一人の男の子とよく話すようになり付き合うことになった。友達の中でも慕われてるようで、控え目で優しく良く気が付く人だった。引き寄せの法則とでも言うのか、私程では無いが彼も家庭運が無い人だった。私は父が再婚してその相手の人の実家に居候しているから、あまり自由が無いことを詫びていた。高校卒業までの2ヶ月間、時間をやり繰りして水族館や動物園や空港に飛行機を見に行ったりした。彼は高校を卒業してから就職をした。私は卒業してから居候のうちを出て、父親とRさん、弟、妹の暮らす家から短大に通うことになった。耳の不自由なおばあちゃんは父親の近くの1dkのマンションに住むことになった。それだけは安心だった。私は、居候していたM市の方が短大は通いやすいのだが、又勝手に私の行き場所が変わった。それが地獄の始...根無し草㊲
高3の秋。おそらくこのまま皆勤であるだろうと言う事。偏差値の低い中で成績が上位だった事。それにより私は付属の短大の推薦入試を受けることになった。小論文と面接のみの入試。もちろん合格した。父親はお金の事をネチネチ言った。年が明けて卒業までの3ヶ月少し時間に余裕が出来た。クラスの友達と遊びに行く事があった。行き先とメンバーを必ず伝え(メンバーは本当の事は言わなかった)6時を過ぎて帰ることは無かった。クラスの子たちはだいたいどこかの短大や専門学校に進路が決まりフワフワしていた。私もフワフワしていた。一人の友達に彼氏が出来た。その彼氏が友達を何人か連れて来るから、こっちも何人かで遊ぼうと誘われた。運命の始まりだった。根無し草㊱
私は時間を作って母に会いに行った。もちろん誰にも内緒で。母には今の状況を簡単に説明して、当分会うことが出来ないことを伝えた。困った事があったらいつでも連絡しておいでと言って、別れ際に一万円を貰った。帰ってからその一万円札をレターセットの封筒に入れ引き出しの奥にしまった。前々から私の荷物が触られているのを分かっていたから、すぐ見つかるのは分かっていた。やはり暫くして、何か隠し事は無いかと聞かれる事が何度かあった。私は、ありません。と言い切っていた。それで良い。それから何年も母に連絡することは無かった。居候の身では、家というのはやすらぎの場所では無かった。外で嫌なことがあっても家に帰ったらくつろげる。普通はそうなんじゃないかな。小さい頃から行き来のあった実のおじいちゃんおばあちゃんならまだしも、初めて会って3年も経...根無し草㉟
ある日、私は職員室に呼び出された。非常に規律の厳しい生徒と先生の距離の遠〜い学校だった為、生徒が職員室に呼び出されるなんてめったに無いことだった。クラスはざわざわした。担任の先生が、「お母さんから電話がかかってるの」と言った。お母さん??おばあさんのこと??Rさんの事??私が職員室の電話に出ると、それは、久しぶりに聞く母親の声だった。中3の2学期突然連絡が出来なくなって2年近く経っていた。絵が入賞して、新聞に学校名と氏名が小さく載ったようでそれを偶然見つけて居ても立っても居られず、連絡してきたと。私はそんなもの載っている事すら知らなかった。私は又かけ直すと言って電話を切った。担任の先生には保護者にも言わないで欲しいとお願いした。卒業まで守ってくれた。聞き耳をたてている先生たちの真ん中で私はボロボロ泣いてしまった...根無し草㉞
一ヶ月程して里帰りしていたRさんと赤ちゃんは自分の家族の元に帰って行った。変な表現だけど、弟に妹ができ4人家族になった。幸せになりますように。一方で、私は毎日打ち込むものもなくアルバイトも禁止され家と学校の往復だった。美術の授業をわざと居残って丁寧に仕上げたり掃除も頼まれてもいないのに人の担当までやって下校を遅らせた。たまに放課後、友達からハンバーガーやドーナツ食べに行こうと誘われたが中学の時のパスタの事があり断り続けた。付き合いが悪いやつには、そのうち声がかからなくなった。月3000円の小遣いは出納帳に記入して報告することになっていた。自由に服を買ったり映画を見たりするには足りなかった。私は貯金をしてCDラジカセとブルーハーツのCDを買った。テレビを自由に見ることが出来なかったから、CDで音楽を聞く事が楽しみ...根無し草㉝
勉強の遅れていた私も何とか受験勉強の甲斐あって、無事に高校入試に合格した。偏差値38の私立の女子高。やたら校則が厳しく、地元でも敬遠されていた。倍率も低く専願で落ちる人などいるのだろうか。私の中学からは受験者数1名。受験勉強の甲斐あってハイ、合格した。中学の友達は皆ちゃんと志望校に合格した。地元では公立高校3校が人気で、あとは偏差値60くらいの私立に専願。皆ちゃんと合格した。模試の後のパスタ、楽しかったよ。ありがとう。半年だったけど仲良くしてくれてありがとう。🌸🌸🌸厳しいつまらない高校生活が始まった。当たり前だけど同じ位の偏差値の集まりだった。中学の友達とは違う雰囲気だった。勉強よりも服装チェックや持ち物検査に力を入れている高校だった。元々青春なんて求めていない。...根無し草㉜
私はその頃には意見を求められたりすると自分の考えや感じたことを素直に口に出す事が出来なくなっていた。相手が何を求めているか、何と応えたら正解か、喜ばれるか、自分をよく見せられるか、そんなことばかり考えて会話するから、やたら口数が多くなり、相手を褒め称えながら言葉を選ぶ。居候の自分はそんなふうになっていた。毎日布団に入るとどっと疲れた。新しい中学では受験シーズンに入った為、クラブ活動や放課後遊んだりすることもなく淡々と日々が過ぎていった。秋になり休日に電車で隣町の高校へ、模試を受けに行った。クラスの女子6〜7人のグループに入れてもらい、模試に出かけた。模試が終わり、彼女たちは会場から家とは反対方面の駅まで行きパスタを食べよう、と誘ってくれた。模試の帰りはいつもそうしているようだった。電車代プラスα持たせて貰ってい...根無し草㉛
転校先の中学校ではあれやこれや、家庭の事情を聞いてくる子はあまり居なかった。三つの中学校に通った私が感じたことは最初のニュータウンのある、E市のT町は、街開きして数年だったため、中学校も創立が浅く、若い世帯が多く地域の重鎮の様な人が居ないため先生達がのびのびしていて、生徒も素直で勉強の質も高かった。次に通ったS市の中学校は、私が住んでいたような団地が、何十棟も立ち並ぶ町にあり、(もちろん一軒家やマンションの子も居たが)荒れていた。そして、初めて訪れたM市にある中学校は、閑静な町並みにあり文教地区といった感じだった。三つの中学校では、制服はもちろん教科書や副読本も全く違った。E市からS市に移った時はそれ程困らなかった。M市では困った。私は元々勉強が遅れていたのに、教科書も、副読本も難しい。公立中学なのに、採用して...根無し草㉚
またまた随分間が開いてしまった。子ども時代を思い出すと息苦しく、気分悪くなります。でも自分の思考を整理するために続けます。中三の二学期、転校するところから。私がおばあちゃんと離れて暮らすことになった場所は、父親の再婚相手のRさんの実家だった。2、3回しか会った事のない50代の人達を、おじいさん、おばあさんと呼んで、お世話になることになった。突然の事で、私もおばあちゃんも何の相談もされず引き離された。大好きな団地の5階からの夜景は二度と見ることは無かった。友達に別れの挨拶も出来ず月に一度会っていた母親とも連絡が取れなくなった。携帯など無い時代。おばあちゃんの家にあった黒電話で母と連絡をとっていた。母と会っていた事はおばあちゃん以外誰も知らない。おばあちゃんは耳が聞こえないから電話に出られない。突然連絡が取れなくな...根無し草㉙
「ブログリーダー」を活用して、てのさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。