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2021/05/06

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  • self-awareness 3 人生はひらけます!

    『テレフォン人生相談』と言うラジオ番組があり、そのパーソナリティの一人に加藤諦三先生と言う人がいる。社会学者で早稲田大学の名誉教授の方。ここ数年地上波はほとんど見てなくて、YouTubeを垂れ流している。いつからかその『テレフォン人生相談』がくり返しくり返し流れるようになった。相談はさまざまで、不倫問題、職場の人間関係、借金、とかが多い。一見関係なさそうな相談に、相談者の年齢、家族の構成、家族の年齢まで聞く。お金の相談なんかで、弁護士が回答者で、法律により白黒はっきり出来る時はスバっと回答するが人間関係の相談は、ああしたらとかこうしたらとか、決して言わない。ひたすら相談者に話させて、パーソナリティはちょこっとヒントを出す感じ。相談者は話すことによって自分で相談内容を整理でき、答えを導き出す。その中であまり恵まれ...self-awareness3人生はひらけます!

  • self-awareness 2

    以前の私は実に僻みっぽい。人を妬む、羨む。自分を卑下する、自己肯定感が低い、本当に低い心理学的にNGな事ばかりしていた。人一倍暖かな家庭に憧れて、誰にも邪魔されずに幸せになれているはずなのに子どもが熱を出したり、自分の体調が悪くて家事もままならず、サムは長期の出張でしんどい時が続いたりしたらすぐに実家に帰ったり、すぐに母親が助けに来たりする、そんなママ友さんを見て僻んでいた。今は全くそんな事が無くなった。人と比べる事が無くなった。7ヶ月前に手術が必要な大病が見つかり大切な事に気づいた。目の前にある小さな幸せに気づいた。凄く怖い思いをしてパニックになったけど、自分ががんばって手に入れた幸せがそこにあることを確認出来た。私は家族が欲しかった。術後5分しか出来ない面会で、「良かった、本当に良かった」と泣いてくれた夫。...self-awareness2

  • 初めまして、ピングー ようこそ!わが家へ

    翌年、私はお母さんになりました。以前に手術をした産科で産みました。(初めて動物園に連れて行った時、ペンギンに強い興味を示したので、赤ちゃんをここではピングーと呼ぼう。)ピングーは男の子で産まれた時から繊細で、ちょっとの物音でもすぐにビクッと泣き出し、夜泣きも酷く育て難い赤ちゃんでした。もちろん可愛かったし、大切に大切に育てたつもり。実家が無く、産前産後助けて貰えない。サムは週末以外はずっと出張。義母はクセの強い性格で、手助けなんか望め無い。色々条件が悪い中、想像以上に子育ては大変だった。私は難病で過労は禁物だったから、産科の先生が「お母さんの身内の方が来たら退院後の注意を伝えますから呼んで下さい」と言ったそうだ。入院中耳の不自由なおばあちゃん、父親の妹である叔母さん、お義母さん、がお見舞いに来てくれた。とてもじ...初めまして、ピングーようこそ!わが家へ

  • self-awareness 1

    今日から自分のブログの中のカテゴリーを新しく作った。self-awareness自己認識。私の人生を肯定出来るように。〜~~~~~~~~~~~26歳私はパートを辞めて、妊婦さんになり、のんびり過ごした。相変わらずサムは週の中日は出張でいなかった。仮設住宅に住んでいたおばあちゃんは元のマンションの改修工事が済んで、戻ることが出来た。弟は工業高校を卒業して就職をし、おばあちゃんの家でほとんど過ごしていた。休みの日、サムは車でおばあちゃんの家に連れて行ってくれた。私の体調は大分安定していた。以前の私では考えられないほど幸せだった。辛かった子ども時代を、振り返ることも、思い出すことも、苦しむことも無かった。2021年4月フラッシュバックしちゃった。self-awareness1

  • 根無し草 60

    カテゴリー『根無し草』で過去日記を書いている。ふと昨日あたりから違和感がある。なんだろう??あぁそうだ!私あっちフラフラ、こっちフラフラの、根無し草じゃ無くなったんだ!結婚して名字が変わって、人生に礎が出来たんだ。大切な伴侶ができ、もれなく義母との付き合いが始まり。。。子供の頃の苦しみ悲しみでは無く、一人前の人間として生きて行けるようになっていた。以前は思い出すのも苦しく、辛く、心が苦しくなり、泣きながらブログを書いていた。昨日はあぁ、あの時義母め〜と軽い苛立ちで済んだ。これは、やはりブログに書くと言うことがセラピーになってるんだ。〰〰〰〰〰〰〰ということで昨日の続きです。お義母さんの性格はサムが良く知っていて、私に嫌なら付き合わなくてもいいし、パートも辞めや〜とは言ってくれていた。でも、悪く言うわけにいかない...根無し草60

  • 根無し草 59

    そのマンションの部屋が安かった理由。単刀直入に言うと、下の部屋に見るからに『ヤ●ザ』の様な夫婦と中学生くらいの娘が住んでいた。最初引越の挨拶に行った時に、真夏だったのでキャミソールの様な格好で出てきた奥さんの、急いで羽織った布で隠しきれない背中の入れ墨を見た時に確信した。そこの家ではしょっちゅう怒号が聞こえていた。救急車やパトカーも頻繁に来た。夫婦喧嘩や娘の躾と称して、奥さんが110番や119番を呼ぶらしい。それでも2年間くらいはうちには関係無く、あ〜又騒がしいなぁ、くらいで終わっていた。結果10年後、もうたまらんとなって引越す事になった。この家族の話は又後日。〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰引越しが落ち着いた頃、お義母さんから仕事を手伝うように言われた。9時から5時までの簡単な事務作業。どうせパートを探すつもりだ...根無し草59

  • 根無し草 58

    仕事を辞めて毎日家でボーッとしていた。今とおんなじ。私達は26歳になった。誰にも赤ちゃんの事は話さなかった。サムと私だけの悲しい出来事だった。仕事を辞めた事だけはお義母さんに伝えた。暫くしたらパートでも探すつもりだった。一ヶ月くらい経った頃お義母さんが中古マンションを買わないかと言ってきた。買ってあげる、では無く買いなさいと。駅前で築20年。他の部屋より何割か安い掘り出し物らしい。お義母さんは、友達と小さな会社をしていて、銀行やら不動産屋から色々勧められるのだろう。相手が商売でおべんちゃらを言ってきても、素直に受け取りノセられてベラベラ貯金の話しとかしてしまうのだろう。貯金と言っても、もしもに備えた程度なのだが。。。投資物件として勧められて、エエかっこして、息子に買わすわとでも言ったのだろう。渋る私に、早く手付...根無し草58

  • 根無し草 57

    私は被災後新しく病院を探し、ある大学病院に通院していた。普通なら紹介状が無ければすぐには診て貰えない病院だが、被災者と言う事で診て貰えた。その病院に結果8年お世話になった。前の病院と同じ薬かと思ったが、血液検査の結果ステロイドに加えエンドキサンという免疫抑制剤が処方されていた。その薬が、赤ちゃんに良くなかった‥処方された時にきちんと説明されたか今となっては思い出せないがその薬は胎児に催奇形性をもたらすという事だった。内科から産科に連絡が行き、診察してもらい、説明を受けた。初診では医師の説明が全然理解出来なかった。2回目の受診の時に、手術日を具体的に決めるよう言われた。妊婦さんで混雑する待ち合いに出た時に、私は全身の力が抜けて長椅子に倒れ込むように座りしばらく立ち上がれなかった。私は仕事を辞めた。何日間か休まなく...根無し草57

  • 根無し草 56

    震災から3ヶ月たち、私達は見知らぬ土地で新しい生活をスタートさせた。私達は24歳になった。私は転勤先でも人に恵まれすぐ馴染むことが出来た。伯母さんの家に避難していたおばあちゃんは仮設住宅の抽選に当たり、又一人暮らしに戻った。サムは職種が変わり月に半分近く出張に行くようになった。出張の期間はおばあちゃんの仮設住宅に泊まりに行き、そこから出社するようにした。仮設住宅は電車のもより駅からバスを乗り継いで、バス停からも相当歩かなければならない辺鄙な所にあった。そこから出社もだんだんと無理が出てきて、サムが出張の時は逆におばあちゃんがはるばるやって来て泊まって行くようになった。私は仕事帰りに美味しい物を買っておばあちゃんと一緒に食べたりした。教習所に通い、車の免許も取った。全く知らない土地で誰にも邪魔されない生活を送る事...根無し草56

  • 根無し草 55

    4月になり私達は再び二人の生活をスタートさせた。普通なら1時間前後で行ける距離を、半日かけて引越屋さんが荷物を運んでくれた。阪神高速が倒壊した。絶対に壊れるはずの無いものがこわれた。未知のエネルギーの恐ろしさをまざまざと感じた。私の通院していた病院も被災し、入院患者の方が亡くなられた。近隣の方が大怪我で運び込まれたり、もうすでに亡くなられた人を、助けてくださいと家族が担ぎ込んだりしたそうだ…ニュースに映し出されたその病院は野戦病院のようだった。私の病気を診断してくれた病院。毎週から2週間に一度、2週間から一ヶ月に一度と通院間隔が開き出してこうやって病気と付き合って行くんだなと教えてくれた。こうやってブログに書くまで、今まで思い出したこと無かったけど、どれだけの人達が関わっていたか…何か、ウクライナと重なる。辛い...根無し草55

  • 根無し草 54

    お義母さんは私達の為に新しい布団と毛布を買ってくれていた。一人で大変だったでしょう、有り難かった。仕事の方はと言うと私の会社は被災してしばらく誰も出社出来なかった。サムの会社はお義母さんのマンションから通える場所にあり、被災もしていなかったので、一週間後くらいから働き始めた。私は会社の計らいでそこから通える支店に転勤させて貰えた。私達のマンションは簡単に片付けただけでそのままだった。戻ろうにも電車も動いていないし、道路も繋がっていない。そのうち、いつもは観光客のカップルや家族連れを乗せる遊覧船が、200円で2時間かけて、被災地の港から被災していない街の港まで運んでくれるようになった。その遊覧船でマンションに戻り必要な物をリュックに詰めて、何回か行き来した。一人しか出入り出来ない決まりでもあったのか、、よく思い出...根無し草54

  • THE CRO-MAGNONS ハル

    奇跡のように笑うあなたに会えるならそこにあると決めた僕の探しものは海に沈む夕陽遠くまで届けば誰かを気づかせる一番星になるお星様お星様逃げません僕はもうトケテヒロガルイマハルいつか咲くと言った白い花をつけて僕はもう見つけたあなたの白い花お星様お星様負けません僕はもうミドリヒロガルイマハルザ・クロマニヨンズの『ACEROCKER』というアルバムに収録された「ハル」という曲です。これは東日本大震災の翌年に発売されました。私はこの曲に強いメッセージを受けました。この時期になると何度も何度も聞きたくなります。そして黙祷を捧げました。THECRO-MAGNONSハル

  • 根無し草 53

    おばあちゃんは父親の姉の方の伯母さんの家に引き取られた。伯母さんはおばあちゃんのマンションよりも北に住んでいたので震災の被害はあまり無かった。伯母さんは私が産まれた時にはもう結婚していて私はあまり交流が無かった。私達が半年前に結婚式を挙げ、一つ一つ集めた食器も一瞬にして割れてしまった。いや、食器なんてどうでも良い。6000人以上の方が犠牲になった。私達が住んでいた賃貸マンションは頑丈だったので『一部損壊』の緑の紙が貼られた。その他私の親類の家は『半壊』の黄色い紙が貼られた。私達は2日後にサムのお義母さんのマンションに避難させて貰う事にした。何十キロも歩いて電車が通っている駅まで行きやっと着いたその駅でも人が溢れかえりホームに入るまでも何時間もかかった。電車から見た街は電車が通っているだけあって、被害はマシに見え...根無し草53

  • 根無し草 52

    活断層は東西にのびていた。私達が新生活を始めた場所も弟が家族と住んでいる家もおばあちゃんが一人で住んでいるマンションも叔母さんが住んでいる家も産みの母親の家も活断層付近にあったため私の親戚ほとんどが被災者となった。私がかつてお世話になっていたRさんの実家は無事だった。良かった。1995年1月17日経験したことのない揺れが襲った。最初、うちの周りの狭い範囲に地盤沈下が起こったのかと思った。夜が明けだして範囲が広い事を知り私とサムはおばあちゃんのマンションに歩いて向った。マンションのドアは潰れて開かなかった。ドアをドンドン叩いたが中の様子はわからなかった。赤ちゃんを連れた若いご夫婦が、どこからか歩いて来て「ここ耳の聞こえないおばあさんが一人で住んでるんですわ」とご主人の方が言った。おばあちゃんの隣に住むご家族だった...根無し草52

  • 根無し草 51

    新しい生活は雑貨や食器を買うところからスタートした。冷蔵庫や洗濯機テレビは、サムのお義母さんが買って下さった。二人の給料合わせてやっと大卒初任給くらいだった。私は成人して自分で稼ぎ伴侶を得て自分の人生を歩き始めた。自分で切り開いた人生幸せしか無いはず…なのにいつも心の奥の方にモヤモヤとしたものがあり、隠れてコソコソ生きているような感覚に陥った。この感覚はこのあとしばらく何年も続いた。おばあちゃんに新居に遊びに来てもらった。弟も遊びに来た。サムが小遣いをあげたもんだから、毎週遊びに来るようになった。反抗期だったけど、親の存在がしんどい時に息抜きできる場所になって良かった。そんな平和な生活が一変した。私達が住んでいたのは阪神淡路大震災の被災地になった場所だった。根無し草51

  • 根無し草 ㊿

    1994年の真夏のとても暑い日に山の上にあるホテルのチャペルで私達は結婚式を挙げた。挙式、衣装、宿泊がセットになって50000円のプランだった。おばあちゃんが参列してくれた。それほど大きく無いチャペルがだだっ広く見えて違和感のある挙式だった。炎天下おばあちゃんが山から無事帰れるかとても心配だった。昔団地で一緒に暮らしていた叔母さんに、おばあちゃんが無事帰り着いたかFAXで確かめて貰う為に公衆電話から電話をかけた。すると叔母さんの方に、おばあちゃんから挙式が無事行われたとFAXで報告してくれた後だった。「私も参列してあげたら良かった」と叔母さんは言ってくれた。〜〜〜〜私の夫になってくれた彼の事ををハンサムなので(容姿ではない)ブログではサムと呼ぼう。〜〜〜〜サムと私、23歳の夏。新しい生活が始まった。根無し草㊿

  • 根無し草 ㊾

    結局話し合いにはなら無かった。父親は、産みの母親を探して養子縁組みしろ、家を出て籍を抜け!!と怒鳴り散らした。私は家を出た。彼の部屋で一緒に住まわせて貰い、そこから仕事に通った。父親は会社に電話してきて家を出た事を言ったようだった。普通の言い方では無かっただろう。彼のお母さんに何度かお会いした。お義母さんは、お義父さんとは5年ほど前に離婚して、彼が家を出た後、一人で新築マンションで悠々自適に暮らしていた。友達と小さな事業をされていて、それに夢中でいい意味で息子には無関心だった。私達はお互い23歳になり正式に籍を入れた。押しかけ女房ですね。真夏の暑い日に教会で結婚式を挙げた。二人きりで挙式のつもりだったが、彼のお母さんと私のおばあちゃんだけには列席してもらおうと思っていた。お義母さんは仕事があるからとの理由で、来...根無し草㊾

  • 根無し草 ㊽

    中1の夏休み最後の日家を出た時とそっくりだと思った。あの時、あの後、うちに一歩も戻る事は無かった。今回も戻る事は無いだろう。終電ギリギリの時間。携帯なんて無い時代。私は迷わず彼の所へ向かった。彼は起きていて、驚いて、迎え入れてくれた。翌日、私を連れて彼は家に話をしに行ってくれた。私に対して普通に接していない両親が、彼に対しても常識的に話をすることは無かった。家にはあげず、近くの中華料理屋で話をした。途中父親が大声を出したり、机を叩いたりして店の看板犬が怖がって、店主の後ろに隠れていた。それをおじさんが優しく撫でていた。申し訳無かった。私に席を外させて、父親とRさんと彼の3人で話をした。彼に随分失礼な態度を取ったようだった。こうやって書いていても気分が悪い。免疫が下がるわ。根無し草㊽

  • 根無し草 ㊼

    今振り返ってみても何がきっかけで季節がいつでとか、全然思い出せない。ある日の夕食後、家の廊下で、弟に向かって私は叫んでいた。わぁーーわぁーーと言葉になら無い言葉を叫んでいた。きっとちょっとした弟の反抗的な態度がきっかけとなって私の心のバランスがグラグラと崩れたんだと思う。私はその日、家事をせず。布団に入った。家族が寝静まった夜中、家を出た。根無し草㊼

  • THE BLUE HEARTS 1985

    1985国籍不明の1985飛行機が飛んだ風を砕くのは銀色のボディー謎のイニシャルは誰かの名前僕たちがまだ生まれてなかった40年前戦争に負けたそしてこの島は歴史に残った放射能に汚染された島1985求めちゃいけない1985甘い口づけは黒い雨が降る死にかけた街で何をかけようかジュークボックスで1985今、この空は神様も住めないそして海まで山分けにするのか誰がつくった物でもないのに1985クリスマスまでにサンタクロースのおじさんの命が危ない1985選挙ポスターも1985あてにならないプーチンよ恥を知りなさいTHEBLUEHEARTS1985

  • 根無し草 ㊻

    入社前、健康診断を受けて提出した。血液検査も私の病気の項目はチェック対象で無かった為、バレなかった。病気の事は面接でも言わないし、入社してからも一切言わなかった。本当は駄目なんだろう。でも、私は稼ぐチャンスを無くしたく無かった。働き出して、私は楽しかった。同期も沢山いて一ヶ月研修を受けながら仲良くなった。配属された場所で、パソコンを教えてくれた先輩はとても優しかった。変色して腫れた指を見て一瞬驚いた顔をしたけど、何も気づかないフリをして入力の仕方を教えてくれた。家では相変わらず家事労働が待っていた。両親は家にお金を入れるように言ってきた。妹は年長さんになり、弟は中学生になって反抗期に入った。新入社員だから残業することは無かったけど、家に帰りたく無かったから、タイムカードを押した後で毎日ダラダラと会社に残った。あ...根無し草㊻

  • 私、引きこもりなんです。

    昨年の夏までは一日6時間働いて、買い物や銀行やその他諸々用事も平気にこなしていた。人間ドックで大病が見つかり私の心のバランスが崩れた。手術までは毎日これは悪い夢じゃないかと寝ていてもガバッと起き上がり現実だと分かるとおいおい泣いた。主治医に眠れない食べられないと伝えたが、メンタルの部分は専門外だった。仕事は手術前に辞めた。そこの職場は、口さがない人の集まりだったので絶対に理由は言わなかった。近所の人達と生協の共同購入をしていたけどそれも辞めた。別の仕事を見つけたから、共同購入の時間に間に合わないと嘘をついた。今は共同購入の時間はうちの中で息を潜めている。美容院は入院の3日前に行った。いつもはお任せしてるけど、その日はもっと短くもっと短くとかなり短くして貰った。それから行ってない。通院する以外ほとんど外に出ていな...私、引きこもりなんです。

  • 根無し草 ㊺

    体調の方は薬のおかげで血液検査の結果が悪化することは無かった。が、劇的に良くなる事も無かった。関節炎もおこってしまい、顔も相変わらずパンパンに浮腫んでいた。将来を悲観して毎晩泣いた。夜眠れなくなってきた。睡眠導入剤を処方してもらい、それを飲むと朝までぐっすり眠れるが、時間を考えて飲まないと朝起きられなかった。そんなとき、彼が色々色々調べて浮腫に効くという漢方薬を探してきてくれた。本当に効いて一ヶ月くらいすると久しぶりに顔がスッキリとした。両頬に出来た痣のような皮膚炎は治らなかった。私はファンデーションを厚く塗り就職活動をした。「うちの会社は厚化粧はいない。」と、今ではNGな事を言ってきた失礼な面接官もいた。夜一人で泣いた。失礼な面接官の会社に受かった。短大を卒業して、春から働き出すことになった。アルバイトをした...根無し草㊺

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