現在9月17日の午前7時34分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今朝、自宅から駅に向かう道中のことだった。楽しいことが何にもないな…と思った。面白いことも何にもないな…と思った。かみさんがいなくなってから、俺の毎日はカラッポだ。朝起きて、か
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
現在9月17日の午前7時34分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今朝、自宅から駅に向かう道中のことだった。楽しいことが何にもないな…と思った。面白いことも何にもないな…と思った。かみさんがいなくなってから、俺の毎日はカラッポだ。朝起きて、か
かつて、俺には「理想の自分像」というべきものがあった。それは、あるべき自分の姿であり、本来の自分のようなものであり、目指してきた自分のあり方だった。かみさんが元気だった頃。自分の実際のあり方は、理想の自分と合致していた。俺はすべてに満足していた。だが、人
かみさんの闘病中のこと。俺が心の中で、常に考えていたことがある。それは「かみさんに俺の命を半分あげよう」ということだった。命を半分あげる?そんなことを考えても、決して実現することはない。冷静に考えれば、「命を半分あげる」なんてできるはずがない。だが、かみ
早朝5時半には起床する。そして、かみさんの仏前に座る。かみさんに線香をあげて、俺は遺影と目を合わせる。かみさんの表情を窺うものの、特段の変化はなく、俺は落胆する。バルコニーに出てみると、まだ人の気配は感じない。みんな寝静まっているのだろう。鬱がひどい。底
頭がぼ~っとしている。それでも無理やり集中力を絞り出している。身体がダルい。それでも無理やり元気を絞り出している。ここ最近、心と身体の疲労感がハンパじゃない。ずっと疲れてはいるけれど、それでも俺は、自分自身にムチを打ち、なんとか毎日を乗り切っている。かみ
夫を亡くした人がいる。妻を亡くした人がいる。80歳や90歳になって亡くしたわけではない。まだ40歳や50歳であるにも関わらず、人生の伴侶を亡くしてしまったのだ。日頃から覚悟をしておくなんて余裕はなかった。それは突然にやってきたのだ。さっきまでは幸せだったのに、突
先週の金曜日の夜からだっただろうか。それとも土曜日に入ってからだろうか。いずれにしても、先週末から鬱(うつ)が酷い。昨晩、かみさんの夢を見た後は、得も言われぬ幸福感に包まれて、一時は鬱も快方に向かっていた。だが、しばらく経つと、また憂鬱な気分になってきた
昨晩、俺は夢を見た。かみさんの夢だった。以前にも似たような夢を見たことがある。かみさんは“光”だった。俺も“光”だった。かみさんと俺は、まるで連星のように、お互いにお互いの周りを回っていた。時折お互いに触れあって、次第に二人の距離が縮まってきた。そして突
休日の朝。俺は平日と同様、午前5時半に起床する。寝床を出たらゴミを捨て、米を炊きながら掃除する。米が炊けたら、かみさんにお供えをする。そして、線香をあげる。しばしの間、かみさんの遺影を見つめる。哀しいような、切ないような、何とも表現しがたい気分だ。これで
かみさんがいない。世界でいちばん大切な人が逝ってしまった。そのとき以来、俺の涙腺は決壊した。あれから時間が経った。それなのに、いまだに涙が零れてしまう。16歳のときに実父が死んでから、一度も泣いたことがなかった俺なのに、今では涙もろくなってしまった。かみさ
かみさんが元気だった頃。俺は自分がかみさんより早く死ぬと思っていた。また、かみさんも自分のほうが長生きすると信じていた。俺が心配だったことがある。そのうちの一つは「俺が死んだあと、かみさんが困窮してしまうのではないか」ということだった。年金なんかアテにな
かみさんが亡くなったばかりの頃だった。俺は人間が隠し持っている「残酷さ」を見せつけられた。もちろん全ての人間が残酷なわけではない。あの時期、俺に寄り添ってくれた人々もいたのだ。義母や2人の義弟、かみさんの親族たち、大学時代の友人たち、会社の先輩や同僚の一
会社に行きたくない。仕事をサボりたい。家から出たくない。世間との関わりを断ち切りたい。朝から酒を飲みたい。酔っ払って寝ていたい。意識のあることが疎ましい。何も考えず、何も感じない「無」になりたい。かみさんが亡くなってから。俺は俗世間から身を引きたいと思っ
今、俺はどんな表情をしているのだろうか。鏡を見ていないので確かめようがない。だが、自分の内面を見つめれば、自分の表情にも想像がつく。たぶん俺は、泣きたいような表情をしているだろう。たぶん俺は、眉間にシワを寄せ、苦痛に歪んだ表情をしているだろう。事実、俺は
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦の朝は、とても賑やかだった。毎朝7時に目が覚めた。俺は顔を洗い、かみさんが作ってくれた朝食を摂り、歯を磨き、スーツに着替えた。かみさんは俺のために「愛妻弁当」を作ってくれた。その間、かみさんはずっと“おしゃべり”をしてい
寝床に就いたのは、22時05分だった。いつもより1時間半ほど早い就寝だ。台風による気圧の低下が原因だろうか。全身がダルいし、眠気も半端じゃなかったのだ。俺はかみさんに線香をあげてから、睡眠導入剤を服用した。そして、布団の中に潜り込んだ。俺は夢を見ていた。誰が
かみさんの死は、俺にとって過去の出来事ではない。今ここにある現実だ。だが、あれから月日が経ったことも事実だ。それにも関わらず、なぜ過去にならないのだろう。多分かみさんの死とともに時間が止まってしまったからだ。アルベルト・アインシュタインが明らかにしたよう
世界はこんなにも広い。そして、そこにはたくさんの人間が棲んでいる。これだけ大勢の人間がいるのに、なぜ俺たちだったんだろう?なぜ俺たち夫婦が、こんな目に合わなきゃならなかったんだろう?なんで容ちゃんだったんだろう?なんで俺だったんだろう?みんな、「なんで?
ときおり無性に寂しくなってしまう。ひとりで自宅のソファに座り、チビチビとウィスキーを飲んでいるとき(ここ最近は禁酒しているが…)。ひとりでランチに行って、食事をしているとき。ひとりで街中を歩いているとき。いずれも俺が“ひとりぼっち”のときだ。かみさんが死
物心がついた頃から、俺は泣かない子どもだった。泣いてしまうと、実母から殴られるからだ。実母は子どもを傷つけることを楽しんでいた。小さな子どもが傷つけられれば、泣きたくなるのが当然だ。だが、泣いてしまえばボコボコにされる。殴られないようにするために、幼少期
俺の実母はマトモじゃない。俺を虐待し、妹を虐待した。実母は俺たち兄妹を言葉の暴力で傷つけた。俺たちが傷ついている表情を見せるたび、実母は下卑た笑いを浮かべていた。俺や妹を傷つけることに快感を覚えていたのだろう。小学校も高学年になると、俺は実母に反発するよ
ここ最近。心の中で、かみさんの名前をで呟くことが多くなった。自宅のリビングで、かみさんの位牌や遺影を眺めているとき。バルコニーの椅子に座り、ぼんやりと空を眺めているとき。電車やバスの窓から外を眺めているとき。さまざまな場面で、俺はかみさんの名前を心の中で
日曜日はとても辛かった。微熱があったせいでもあるし、腰が痛かったせいでもある。あるいは、下腹部がシクシクと痛むせいでもあった。だが、それ以上に辛かったのは、強烈な不安感に苛まれていたからだ。心身が小刻みに震えていた。自分の芯が溶けてしまいそうだった。かみ
かみさんが元気だった頃。俺は「平日」も「休日」も好きだった。どっちが好きか? と聞かれれば、もちろん「休日」のほうが好きだったに決まってる。かみさんと一緒に買い物をしたり、散歩をしたり、外食したりの「休日」だ。かみさんと俺が、時間と空間のすべてを共有し、二
やっぱり俺にはわからない。俺はいったい何のために生きているんだろうか。俺はいったい何のために頑張っているんだろうか。ある「上から目線」の人からは、アンタは会社での立場があるんだから、頑張るのは当たり前だと言われた。課長は経営者側の役職である以上、会社に尽
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、よく散歩した。俺は休日出勤をすることも多かったけど、そうでなければ土曜日のたび、かみさんと俺は、ブラブラと散歩した。昼頃に家を出て、二人でのんびり散歩して、帰宅するのは夜10時…ということも多かった。もちろん、ずっと歩
人間は毎晩、夢を見ているそうだ。だが、たいていは見た夢を覚えてはいない。それどころか、夢を見た記憶さえ残っていないことも少なくない。そんな中、覚えている夢の印象は強烈だ。どんなに荒唐無稽な夢であっても、すみずみまで覚えているし、夢を見ていた間の感情も覚え
人間という生き物には、「他人と関わりたい」という「コミュニケーション欲」がある。その欲求は、脳の奥深くに刻まれた本能的なものだろう。それぞれの人のコミュニケーション欲が、人々を「関係の網」で結び付けている。誰もが多くの人々との間に結ばれた「関係の網」の中
毎朝5時20分に目覚まし時計が鳴る。その瞬間、俺は目を覚ます。だが、すぐには寝床から出られない。しばしの間、俺は布団の中でボンヤリしている。すぐに起床できないのには訳がある。目覚めた瞬間、「鬱(うつ)」に襲われるからだ。鬱に抵抗し、起床するには10分程度の時間
酒を飲まなくなってから40日になろうとしている。そのせいか、毎晩、熟睡できており、夜中に目覚めることは少なくなった。また、悪夢にうなされることもなくなった。だが、昨晩、久しぶりに夢を見た。夢の中、かみさんは俺の横にいた。かみさんと俺が窓の外を見ていた。する
かみさんが元気だった頃。俺には「やりたいこと」が山ほどあったし、「なりたい自分」も持っていた。それらは「理想の自分」みたいなものだった。かみさんが癌だと診断された日だ。俺はそれらを追い求めるのを止めた。かみさんの看病に専念したかったからだ。かみさんの病を
かみさんはいつでも俺の隣にいてくれた。チョロチョロと俺にくっついてきて、俺の横でおしゃべりをしながらニコニコ笑っていた。そんなときのかみさんは、まるで俺の「娘」か「妹」のようだった。かみさんのことが、とても愛おしかった。一方で…かみさんが「母」や「姉」の
現在8月16日の午前7時02分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。関東地方に台風が接近している。中心気圧は950ヘクトパスカル。東京に上陸する台風としては、歴代最強クラスらしい。俺が起床した朝5時半。とても激しい雨が降っていた。だが、幸いなことに
かみさんの実家がある北海道は、地震が少ない。数年前の「北海道胆振東部地震」のような例外もあるが、めったに大きな地震は起こらない。かみさんが大きな地震を経験したのは、上京してから数年が経った頃だった。1991年、俺と暮らし始めた時期に、かみさんは初めて大きめの
3連休の初日(8月10日)、俺はかみさんの墓参りに行った。その際、墓地は閑散としていた。せっかくの3連休だ。みんな墓参りなんかには行かず、帰省をしたり、旅行をしたりしているのだろう…と思っていた。だが、違ったらしい。今年のお盆は、8月13日から16日までなんだそ
8月の3連休が終わった。その間、俺はずっと“ひとりぼっち”だった。以前のように、朝から酒を飲み、眠たくなったら寝てしまい、起きたら再び酒を飲む、そんな過ごし方はしなかった。すでに禁酒は(8月12日時点で)33日目を迎えている。泥酔して寝落ちをしなかったせいか、
旦那が死んだくらいで…嫁が死んだくらいで…子どもが死んだくらいで…いつまでも悲しんでんじゃねぇよ…こんなことを言えるのは、いったいどんな生き物なんだろう?こんなことを奴らには、いったいどんな色の血が流れているんだろう?かつての死別カテゴリーのブログには、
クソ熱い3連休も、最終日を迎えた。予想していた通り、連休は時間がゆっくり流れた。8月10日はメンタルクリニックに通院し、その後、かみさんの墓参りに行った。墓地は閑散としていた。せっかくの3連休に墓参りをする奴なんて、俺くらいなのだろうか。みんな、どこかに遊び
仕事が終わったら自宅に向かった。同僚との飲み会が終わったら帰路に就いた。その他、どんなことでもいい。外出して用事が済めば、俺は家路を急いだ。俺の足取りは、いつだって軽やかだった。何故だかウキウキしていたらしく、鼻唄を歌いたくなるような気分だった。家に帰れ
かみさんが亡くなってから。俺はずっと酒に依存してきた。かみさんを喪った悲しみを少しでも鎮めたかった。自分の半身を削がれたような心の激痛を治めたかった。ひとりぼっちになってしまった寂しさを癒したかった。俺は死にたかった。かみさんの傍らに逝きたかった。酒を飲
8月の三連休が近づいている。かみさんが元気だった頃ならば、夫婦二人でどこかに遊びに行っただろう。あるいは一緒に自宅でのんびり過ごしたのかもしれない。しかし、今の俺は“ひとりぼっち”だ。いったい、どうやって過ごしたらいいんだろう。俺は今から頭を抱えている。
8月6日は、俺の誕生日だった。また一つ年を取り、死に一歩近づいた。俺の誕生日なんて、誰も覚えていない。そもそも俺だって、他人の誕生日なんか覚えていない。自分の両親の誕生日も忘れたし、友人や部下たちの誕生日も知らない。それどころか、最も親しい義母や2人の義弟
現在8月6日の午前7時23分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今朝は午前5時20分に目が覚めた。まだ眠い目を擦りながら、俺は仏壇の前に座り、かみさんに線香をあげた。しばしの間、俺はかみさんの位牌を見つめていた。位牌の横にあるかみさんの遺影から
8月5日の時点で、禁酒を始めてから26日が経った。おかげで身体の調子は悪くない。だが、時間をもて余してしまうことが多くなった。とりわけ週末は、その傾向が大きいと感じている。酒に溺れていた頃は、朝目覚めたら酒を飲み、酔っぱらったら寝てしまい、また目覚めたら酒を
この世界の中で、いちばん大切なのは自分自身だ…という奴がいる。俺はそんな奴らが大っ嫌いだ。だが、そういう連中は少数派なんじゃないだろうか。たいていの人々は、自分自身よりも大切な「何か」を持っている。その「何か」とは、伴侶であったり、子どもであったりするの
かみさんが元気だった頃だって、いつでも俺は走り続けていた。走っていれば疲れるが、必ずゴールが見えていた。それは土日や祭日であり、年末年始やゴールデンウィーク、夏休みだった。ゴールの手前には、かみさんがいた。走り続ける俺を、かみさんはいつでも待っていてくれ
また週末がやってきた。猛暑日が続くけど、夕方以降は雷雨になる日もあるらしい。セミが鳴いている。浴衣で歩いている人がいる。夏に特有の風景。そして土日の2連休。かみさんが元気だった頃ならば、俺の気分も高揚しただろう。かみさんと一緒に過ごす夏の週末。それは本当
現在8月1日の午前7時18分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。先日、「禁酒。そして孤独」というタイトルでブログを書いた。あれ以来、ずっと禁酒を続けており、すでに3週間が経過した。別に我慢しているわけではない。断酒しようという強い意志がある
俺はかつて、「いちばん最初に幸せになった奴」と言われていた。大学生時代の友人たちの誰よりも、俺がいちばん最初に結婚したからだ。会社で知り合った同年代の同僚の誰よりも、俺は早くに結婚していたからだ(今の会社に入る数年前から、俺とかみさんは同棲していた)。周
ここ最近、猛暑日が続いている。今年の夏がピークを迎えたのだろうか。それとも8月にかけて、さらに暑くなるのだろうか。夏と言えば「スイカ」だ。かみさんはスイカが大好きだった。子どもの頃から好きだったそうだ。かみさんは、スイカを丸ごと買ってきて、よく冷やし、日
現在7月29日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。俺は会社に向かっている。街中を歩きながら、周囲を見回している。街の中も、公共交通機関の中も、閑散としている。人が少ないのだ。俺の視界の及ぶ範囲は、人影が“まばら”なのだ。学生さ
何度かブログに書いたとおり、俺は両親から虐待されて育ってきた。おかげで俺は、人間が大嫌いになってしまった。人間に対する不信感は、「自己否定」と「過緊張」の原因になった。そのせいで、俺には「できないこと」がいっぱいあった。子供の頃から生きることが苦しかった
二人が一緒なら、怖いものは何にもない。二人が一緒なら、俺たち夫婦は何でもできる。二人が一緒なら、全知全能だ。かみさんと俺は、お互いに支え合って生きてきた。恐れるものなど何もなかったんだ。かみさんに欠けている部分は、俺が補ってあげればよかった。俺にできない
現在7月26日の午前7時40分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今年4月以降、本当に忙しかった。仕事の量が多すぎて、息をつく暇もなかった。昨年度の実績報告を作ったり、今年度の年間計画を作ったり、部下全員の人事関係の資料を作ったり…何がワーク
かみさんが亡くなってから。それなりに時間が経過した。それでも俺は哀しくて、寂しくて、やるせない。そんな俺を温かく見守ってくれる人々がいる。とりわけ夫婦仲の良い人々は、人間の一生で最も辛いことがあったのだから、哀しくて当然ですよ…と言ってくれる。一方で、い
一日に数回、俺はかみさんに線香をあげている。朝目覚めた直後。朝のお供えをするとき。スーツに着替えて出勤する直前。会社から帰宅したあと。夜のお供えをするとき。そして就寝する直前。俺は仏壇の前に座り、線香を焚いている。かみさんが元気だった頃。俺がかみさんに線
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、夏が大好きだった。夏といえば「海」、「花火」、「蝉の声」、「かき氷」、「スイカ」、「そうめん」、「旅行」、「避暑地」、そして「夏休み」。さまざまな言葉とイメージが頭に浮かぶ。かみさんと俺は、それらの全てが大好きだった
先日の記事に書いたとおり、ここ最近、俺は禁酒をしている。自分の健康を心配しているからではない。長生きしたくなったわけでもない。なんとなく飲みたくならないのだ。おかげで、いつも俺を苦しめていた倦怠感が消えた。食欲も旺盛で、以前のように無理やり食い物を口に運
かみさんが亡くなった。俺にとって、世界でいちばん大好きで、いちばん大事な人が死んじゃった。亡くなってからの数年間。あまりの激しい悲しみに翻弄され続けていた。人前では歯を食いしばり、涙が溢れてくるのを必死で堪えていた。誰も見ていないところでは、声を張り上げ
幸せになりたい…なんて思っていない。一日をなんとかやり過ごし、余生を食い潰し、少しでも早く「終わり」が来ればいい…と思っている。俺には幸せを求める余裕なんか無い。幸せを求めるためには、ある種の「余裕」が必要なのだ。かみさんが死んじゃった。かみさんに会
かみさんは、俺の妻だった。かみさんは、俺のいちばんの親友だった。かみさんは、俺の母であり、姉だった。かみさんは、俺の娘であり、妹だった。そうだ。かみさんは、俺のすべてだったのだ。かみさんが死んだ。俺は「すべて」を失った。妻がいなくなり、いちばんの親友もい
頑張れば、どうにかなる…というものではない。どんなに沢山の障害があろうとも、どんなに大きな山があろうとも、頑張れば乗り越えられる…というものではない。だが、この世界には「根性論」だけで全てが解決すると思っている者がいる。数年前のこと。俺は会社でのプレゼン
かみさんが亡くなってから。俺は何度も同じような夢を見ている。全く同じ夢というわけではないのだが、似たようなストーリーの夢を頻繁に見ている。その夢を見て目覚めた朝は、いつだって切なくて、やるせない。心の底から求めているにも関わらず、その希望は絶対にかなわな
7月の3連休。俺は久しぶりに断酒した。自分の健康を気遣ったわけではない。断酒の理由を聞かれても、答えは見つからない。あえて言えば、酒を飲みたくならなかったのだ。いつもとは違い、身体が軽かった。何もやる気がない…という気分にもならなかった。3連休の1日目。
かみさんを亡くして最初の数年。俺に寄り添ってくれる人たちがいた。俺の言葉に耳を傾けてくれる人たちもいた。これ以上、俺を傷つけないように気を配り、選びに選んだ言葉を掛けてくれる人たちもいた。だが、そんな優しい人々ばかりに囲まれていたわけではない。世界はあま
かみさんが元気だった頃。俺と世界との間は、とても滑らかだった。俺は世界を受け入れていた。世界も俺を受け入れてくれた。まるで真綿でくるまれているかのように、世界は俺にとって、居心地の良い場所だったはずなんだ。それなのに…かみさんが死んじゃった。そのとき以来
かみさんが元気だった頃。毎週土曜日には夫婦二人で散歩に行った。健康のためというのではない。体力づくりのためというのでもない。かみさんと俺は、他愛のない会話を交わしつつ、周囲の風景を眺めながら、気ままな散歩をしていたのだ。あの頃、俺たち夫婦は「ゆっくり、の
かみさんが元気だった頃。俺は基本的に楽観的な人間だった。辛いことは沢山あった。苦しいことも沢山あった。悔しいことも沢山あった。だが、いつだって「どうにかなるさ」と希望を失うことはなかった。事実、いつだって「どうにかなっていた」のだ。俺が「どうにかなるさ」
朝、目が覚める。まだ目を開けてはいないが、意識はハッキリしつつある。そんな瞬間、眠っている間に忘れていたことが、意識の中に上ってくる。あ、そうだっけ。容ちゃんは死んじゃったんだっけ…もう俺の家族はいないんだ。俺は“ひとりぼっち”になっちゃったんだ。思い出
7月2日以降、毎晩ほとんど眠れない。もともと睡眠障害はあるのだが、それが悪化しているらしい。睡眠導入剤を飲んでから布団に入る。だが、まったく寝付ける気配がない。日付が変わった頃にはウトウトするのだが、30分程度で目が覚めてしまう。しばらくすると、眠りに落ちる
伴侶を亡くしてしまえば、誰だって悲しかろう。伴侶のいない余生を過ごしていかざるを得ないとすれば、誰だって哀しかろう。体力が尽きていようと、意識が朦朧としていようと、死別直後の数年間、遺族たちは悲しくて慟哭する。自分の意思とは無関係に、悲しみが内側から噴き
身体がダルい。歩くことはもちろん、立ち上がることさえシンドイことも少なくない。全身が痛む。あちこちの骨と筋肉とが悲鳴をあげている。俺の身体が徐々に崩れていく。それは「あの日」から、ある程度は予想していたことだ。死ぬこと自体は怖くない。かみさんの生前は怖か
かみさんが亡くなって多少の時間が過ぎた頃。俺の中に希死念慮が生まれた。そこには、いくつもの理由があった。強烈な悲嘆に耐えられなかったからだ。心身を引き裂かれたような、激しい痛みが苦しかったからだ。持っていたモノすべてを失って、自分の人生に絶望したからだ。
週末はずっと布団の中にいた。身体が半端じゃなくダルかったからだ。さらには鬱がひどかったからだ。死にたいと強烈に思った。眠っている間に心臓が止まってしまえばいいと思った。かみさんが亡くなってから。俺はずっと“ひとりぼっち”で生きてきた。だから分かるんだ。か
明日は今日より良い日だろう。もし明日がダメだとしても、1週間後あるいは1か月には良い日がやって来るだろう。1か月後がダメだとしても、1年後には、事態は好転しているはずだ。かみさんと出会って以来。俺はそんなふうに思って生きてきた。かみさんの生前。俺は意外と
今朝も早く目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。せめて5時半くらいまで眠っていたい。だが、最近は暗いうちに目が覚めてしまう。仕方がないので布団の中にいるのだが、心の底から沸き上がる「不快感」に耐えられない。俺は「死にたい… 死にたい…」と
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび
ある方から頂いたコメントを読んで、思い出したことがある。ごく最近のことだ。俺がテレビを見ていたら、出演者が言っていた。夫婦はいずれ死別するんだから。早いか遅いかだけの違いだよ。俺は愕然とした。言っていることに間違いはない。だが、それが夫や妻を亡くした人に
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は
まだまだ、やりたいことがたくさんあっただろう。見たいものだって、たくさんあったはずだ。聞きたいものだって、たくさんあったはずだ。食べたいものも、たくさんあったはずだ。行きたいところも、たくさんあったはずだ。死ぬということは、これらをすべて断念せざるを得な
現在6月14日の午前7時37分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。ここ2日ばかり、睡眠障害が悪化している。以前から悪化していたが、それ以上に悪化してしまったのだ。毎晩、睡眠導入剤を飲んでから寝床に入っている。だが、1時間半ほどで目が覚めてしま
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、自分たちの「死期」について、何度か語り合ったことがある。かみさんは、いつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね…二人で一緒に死ねたらいいね…俺は笑顔で応じた。そうだね…仲良く暮らしてきた二人。これからも仲良く暮ら
6月27日は、かみさんが俺を遺して逝った日だ。現在6月12日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。21日には、義母と2人の義弟が北海道から上京してくれる。22日の土曜日には、俺と一緒にかみさんの墓参りをしてくれることになっている。かみさ
ふとした瞬間、かみさんを想い出す。かみさんの満面の笑顔。かみさんの明るく元気な声。かみさんの仕草。かみさんと交わした何気ない会話。想い出した瞬間、俺はほんのりと幸せな気持ちになれる。かみさんと散歩をしたこと。かみさんと旅行を楽しんだこと。かみさんと食事を
先日のブログに書いたとおり、ここ最近、ずっと熟睡できていない。夜中の2時とか3時半とかに目が覚めて、その後は朝まで眠れない日々が続いている。そのせいだろう。いわゆる「睡眠負債」が貯まっているらしい。週末の日曜日のこと。いつものとおり、午前3時に目が覚めた
「ブログリーダー」を活用して、プーちゃんさんをフォローしませんか?
現在9月17日の午前7時34分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今朝、自宅から駅に向かう道中のことだった。楽しいことが何にもないな…と思った。面白いことも何にもないな…と思った。かみさんがいなくなってから、俺の毎日はカラッポだ。朝起きて、か
かつて、俺には「理想の自分像」というべきものがあった。それは、あるべき自分の姿であり、本来の自分のようなものであり、目指してきた自分のあり方だった。かみさんが元気だった頃。自分の実際のあり方は、理想の自分と合致していた。俺はすべてに満足していた。だが、人
かみさんの闘病中のこと。俺が心の中で、常に考えていたことがある。それは「かみさんに俺の命を半分あげよう」ということだった。命を半分あげる?そんなことを考えても、決して実現することはない。冷静に考えれば、「命を半分あげる」なんてできるはずがない。だが、かみ
早朝5時半には起床する。そして、かみさんの仏前に座る。かみさんに線香をあげて、俺は遺影と目を合わせる。かみさんの表情を窺うものの、特段の変化はなく、俺は落胆する。バルコニーに出てみると、まだ人の気配は感じない。みんな寝静まっているのだろう。鬱がひどい。底
頭がぼ~っとしている。それでも無理やり集中力を絞り出している。身体がダルい。それでも無理やり元気を絞り出している。ここ最近、心と身体の疲労感がハンパじゃない。ずっと疲れてはいるけれど、それでも俺は、自分自身にムチを打ち、なんとか毎日を乗り切っている。かみ
夫を亡くした人がいる。妻を亡くした人がいる。80歳や90歳になって亡くしたわけではない。まだ40歳や50歳であるにも関わらず、人生の伴侶を亡くしてしまったのだ。日頃から覚悟をしておくなんて余裕はなかった。それは突然にやってきたのだ。さっきまでは幸せだったのに、突
先週の金曜日の夜からだっただろうか。それとも土曜日に入ってからだろうか。いずれにしても、先週末から鬱(うつ)が酷い。昨晩、かみさんの夢を見た後は、得も言われぬ幸福感に包まれて、一時は鬱も快方に向かっていた。だが、しばらく経つと、また憂鬱な気分になってきた
昨晩、俺は夢を見た。かみさんの夢だった。以前にも似たような夢を見たことがある。かみさんは“光”だった。俺も“光”だった。かみさんと俺は、まるで連星のように、お互いにお互いの周りを回っていた。時折お互いに触れあって、次第に二人の距離が縮まってきた。そして突
休日の朝。俺は平日と同様、午前5時半に起床する。寝床を出たらゴミを捨て、米を炊きながら掃除する。米が炊けたら、かみさんにお供えをする。そして、線香をあげる。しばしの間、かみさんの遺影を見つめる。哀しいような、切ないような、何とも表現しがたい気分だ。これで
かみさんがいない。世界でいちばん大切な人が逝ってしまった。そのとき以来、俺の涙腺は決壊した。あれから時間が経った。それなのに、いまだに涙が零れてしまう。16歳のときに実父が死んでから、一度も泣いたことがなかった俺なのに、今では涙もろくなってしまった。かみさ
かみさんが元気だった頃。俺は自分がかみさんより早く死ぬと思っていた。また、かみさんも自分のほうが長生きすると信じていた。俺が心配だったことがある。そのうちの一つは「俺が死んだあと、かみさんが困窮してしまうのではないか」ということだった。年金なんかアテにな
かみさんが亡くなったばかりの頃だった。俺は人間が隠し持っている「残酷さ」を見せつけられた。もちろん全ての人間が残酷なわけではない。あの時期、俺に寄り添ってくれた人々もいたのだ。義母や2人の義弟、かみさんの親族たち、大学時代の友人たち、会社の先輩や同僚の一
会社に行きたくない。仕事をサボりたい。家から出たくない。世間との関わりを断ち切りたい。朝から酒を飲みたい。酔っ払って寝ていたい。意識のあることが疎ましい。何も考えず、何も感じない「無」になりたい。かみさんが亡くなってから。俺は俗世間から身を引きたいと思っ
今、俺はどんな表情をしているのだろうか。鏡を見ていないので確かめようがない。だが、自分の内面を見つめれば、自分の表情にも想像がつく。たぶん俺は、泣きたいような表情をしているだろう。たぶん俺は、眉間にシワを寄せ、苦痛に歪んだ表情をしているだろう。事実、俺は
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦の朝は、とても賑やかだった。毎朝7時に目が覚めた。俺は顔を洗い、かみさんが作ってくれた朝食を摂り、歯を磨き、スーツに着替えた。かみさんは俺のために「愛妻弁当」を作ってくれた。その間、かみさんはずっと“おしゃべり”をしてい
寝床に就いたのは、22時05分だった。いつもより1時間半ほど早い就寝だ。台風による気圧の低下が原因だろうか。全身がダルいし、眠気も半端じゃなかったのだ。俺はかみさんに線香をあげてから、睡眠導入剤を服用した。そして、布団の中に潜り込んだ。俺は夢を見ていた。誰が
かみさんの死は、俺にとって過去の出来事ではない。今ここにある現実だ。だが、あれから月日が経ったことも事実だ。それにも関わらず、なぜ過去にならないのだろう。多分かみさんの死とともに時間が止まってしまったからだ。アルベルト・アインシュタインが明らかにしたよう
世界はこんなにも広い。そして、そこにはたくさんの人間が棲んでいる。これだけ大勢の人間がいるのに、なぜ俺たちだったんだろう?なぜ俺たち夫婦が、こんな目に合わなきゃならなかったんだろう?なんで容ちゃんだったんだろう?なんで俺だったんだろう?みんな、「なんで?
ときおり無性に寂しくなってしまう。ひとりで自宅のソファに座り、チビチビとウィスキーを飲んでいるとき(ここ最近は禁酒しているが…)。ひとりでランチに行って、食事をしているとき。ひとりで街中を歩いているとき。いずれも俺が“ひとりぼっち”のときだ。かみさんが死
物心がついた頃から、俺は泣かない子どもだった。泣いてしまうと、実母から殴られるからだ。実母は子どもを傷つけることを楽しんでいた。小さな子どもが傷つけられれば、泣きたくなるのが当然だ。だが、泣いてしまえばボコボコにされる。殴られないようにするために、幼少期
太陽の光には耐えられる。だが、電灯や電球などの灯りは苦手だ。通勤電車の中、会社のビルの中、夜の商店街、そして自宅のリビング…人工的な灯りのすべてが鬱陶しい。かみさんが元気だった頃。夜間にリビングの灯りを消すことなんてなかった。せいぜい就寝するときと、自宅
眠っている間は目を閉じている。目が覚めれば目を開ける。それらは自然な動作であって、取り立てて話題にするようなことではないだろう。それらの動作を意識したことさえない人が多いに違いない。かみさんが元気だったころ。かみさんは俺の横でスヤスヤと眠っていた。あの頃
現在9月15日の午前7時37分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。ここ最近、夜中に何度も目が覚めてしまう。目覚めた後は、あまり眠れずに朝を迎えている。昨晩も同様だった。夜中の1時すぎに目が覚めて、それ以降は、ほとんど眠れなかった。さすがに疲労
現在9月14日の午前7時23分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。心と身体に疲れが溜まっている。昨晩は6時間ほど熟睡したはずなのに、疲れがまったく取れていない。ダルくてダルくて仕方がないのだ。午前4時頃には目が覚めて、疲れを自覚した俺は、会社
現在9月13日の午前7時22分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。昨晩も熟睡できなかった。就寝前には睡眠導入剤を飲んだのに、夜中に何度も目覚めてしまった。最初は午前1時すぎに目が覚めた。その後はなかなか寝付けなかった。だが、いつの間にか眠りに
俺の最愛の人が亡くなった。世界でいちばん大切な人が亡くなった。その瞬間だった。俺は自分の人生も終わった…と思った。だからといって、かみさんの後を追うことはできそうになかった。自ら後を追う度胸は無かったからだ。酒に溺れてはみたが、大病に罹る気配も無かったか
現在9月11日の午後9時20分。いつもとは違い、会社から帰宅した後、自宅のリビングでブログの記事を書いている。とてもじゃないが、通勤途中でブログの記事を書くことなんてできなかった。今朝の通勤途中、俺は眠りこけていた。土日に熟睡できなかったからだ。寝不足の原因は
土日や祭日であろうとも、俺は早朝5時すぎには起床する。もう少し眠っていたいけど、どうしても目が覚めてしまうのだ。かみさんの仏前に座って線香をあげる。そして、遺影と位牌に視線を落とす。かみさんの表情に変化はない。かみさんの気配を感じるわけでもない。また寂し
人間にとって、伴侶は大切な存在だ。また、子どもも大事な存在だ。伴侶や子どものことならば、自分を犠牲にしても守ろうとするに違いない。だが、人間という生き物は、家族以外の第三者に対してならば、いくらでも残忍になることができる。それもまた、人間という動物の実態
かみさんが亡くなった。俺の最愛の人が亡くなった。世界でいちばん大切な人が亡くなった。亡くなってしまったら、もう二度と会うことはできない…と考えるのが常識だろう。その常識に従う限り、遺族にできることは「諦める」ことだけだ。だが、諦めるなんて、あまりにも残酷
昨晩、また夢を見た。かみさんと会えるような心地の好い夢ではない。ロクでもない悪夢だった。その夢の内容を詳しく語ろうとは思わない。ただ、目覚めた後、俺は夢を思い出し、静かな怒りに震えてしまった。あまりにも情けなくて、悔しかったのだ。この世界は、なんて不公平
毎日、夜中の2時くらいに目が覚める。もう一度、眠りたいと思うが、朝まで熟睡することはできない。俺は諦めて、午前5時半には床を出る。かみさんの仏壇の前に座り、線香をあげる。かみさんの姿は見えない。かみさんの声も聞こえない。かみさんの気配を感じることさえでき
かみさんが亡くなってから。それなりに時間が経った。いや、「それなりに」というのは、当事者である俺の感覚だ。伴侶やお子さんを亡くした経験のない「普通の人たち」からは、「ずいぶん時間が経った」と見えるだろう。俺は「普通の人たち」とは異なる時間を生きている。た
現在9月4日の午前7時34分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。昨晩は夜中の1時40分に目覚めてしまった。夜中に目が覚めると気分が落ちてしまう。もう一度、眠ろうとしても、なかなか眠れないからだ。もし眠れたとしても、深く眠ることはできず、浅い眠り
眠りに落ちる寸前。自分の身体に自然と意識が向いていく。心臓が鼓動している。呼吸はゆっくりだが、とても深い。全身の血流さえ感じることができそうだ。いずれも「生命の兆候」だ。心臓が動いているのも、血液が流れているのも、自分の意思とは関係がない。腕や脚の筋肉を
かみさんが元気だった頃。かみさんと一緒にいると、俺はいつでも楽しいことに囲まれていた。他愛のない会話が楽しかった。一緒にテレビを視ているだけで楽しかった。かみさんの手料理を食べていると楽しかった。二人で酒を飲んでいると楽しかった。二人で並んで散歩をした。
現在9月1日の午前7時21分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。今日は金曜日だ。かみさんが元気だった頃、俺たち夫婦は金曜日の夜が大好きだった。翌日から週末の連休だからだ。かみさんと俺は、ビールを飲みながら深夜まで語り合った。俺たち二人はソファ
現在8月31日の午前7時26分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。昨日のことだ。新聞に博物館の広告が出ていた。掲載されていたのは「東京都現代美術館」だった。それを見た瞬間、俺はとても哀しくなった。心臓が縮むような想いだった。涙は出なかったが、
現在8月30日の午前7時26分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。昨晩は、夜中に何度も目が覚めてしまった。1時間半ごとに目が覚めてしまった。原因は仕事のストレスだ。やらなきゃならないことが山ほどあるのに、また余計な仕事が本店の課長から降ってき
かみさんが亡くなってから。それなりの月日が経った。それなのに、俺はいまだにかみさんの不在に慣れることができない。早朝に起床して、かみさんの仏前に座り、線香をあげる。自分の心にぽっかり穴が開いていることに気が付く。自分と周囲の世界との間に見えない壁があるよ