俺はかみさんを喪った。世界でいちばん大切なモノを失った。かみさんが亡くなってからの数年間。もはや失うものは何もない…と思っていた。正確に言えば、ごく最近まで失うものは何もないと信じていたような気がする。その背景には、「そう遠くない将来、俺はかみさんの後を
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
俺はかみさんを喪った。世界でいちばん大切なモノを失った。かみさんが亡くなってからの数年間。もはや失うものは何もない…と思っていた。正確に言えば、ごく最近まで失うものは何もないと信じていたような気がする。その背景には、「そう遠くない将来、俺はかみさんの後を
俺はガキの頃、実母に殺されかけたことがある。それも一度や二度ではない。数えきれないほど何度もだ。抵抗できないほどの幼少期だった。俺は恐ろしかった。だが、過去の体験の中で、いちばん恐ろしかったか?と聞かれれば、そうではない。かみさんが癌だと診断されたとき。
以下は俺の身に起きたことではない。奥さまを亡くされた40歳代半ばの男性が、職場の上司から言われたことと、その時、その男性が心の中で感じたことを要約したものだ。当然のことながら、この男性の許可を頂いた上で、今回の記事を書いている。ちなみに、その男性が奥さまと
外出するのが嫌いだ。買い物に行くのも嫌いだ。会社に行くのも嫌いだ。かみさんが亡くなってから。俺は他人と関わることがイヤになった。死ぬまでずっと、かみさんの仏壇の前で酒を飲んでいたい。死ぬまでずっと、かみさんの骨壺の横で酒を飲んでいたい。酔っ払って、眠くな
私は正しいグリーフワークの道を歩んでいます!時折そんなことを、臆面も無く言う人間を見かける。心理学などで示されたグリーフワークのモデルケースに照らし、自分がそのケースのとおりに立ち直っていることを誇っているのだろう。自分は絶対に正しい。自分と同じ人間も正
世界の中心で、多くの人々に囲まれていても、俺は淋しい。雑踏の中、人々の笑い声に囲まれていても、俺は淋しい。無視されているわけではない。ましてや、誰かに石を投げつけられるわけではないし、罵詈雑言を浴びせられるわけでもない。ただ単に、かみさんが亡くなったこと
現在2月14日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。明日からまた週末だ。2日間の連休を楽しみにしている人は多いだろう。そんな中、俺は今週も憂鬱だ。かみさんが死んじゃった。家族は誰もいない。俺は“ひとりぼっち”だ。何をしたらいいの
本来、家庭というのは、人々にとって最も落ち着ける場所のはずだ。あの優しくて、暖かくて、柔らかい空気に包まれているだけで、なんて幸せなんだろう…と感じることができた。かみさんと出会う前には、俺が知らなかった空気だ。その空気を知らなかった俺に、幸せな家庭を教
たぶん生きることに意味なんて無い。俺に限ったことではなく、人間なんて、みんながそうなんだ。産まれてきてしまった以上、生きるしかないだけのことだ。死への恐怖が本能に組み込まれている以上、自ら命を断つことが難しいだけのことだ。この世に「生」を受けてしまった以
かみさんが元気だったころ。俺は自宅のバルコニーでタバコを吸っていた。わざわざバルコニーに出ていた理由は、かみさんに受動喫煙をさせたくなかったからだ。かみさんが亡くなってから。相変わらず俺は、自宅のバルコニーでタバコを吸っていた。だが、今のご時世だといろい
2月6日の木曜日。朝5時半に目が覚めた。俺は異変に気がついた。ひどい鬱(うつ)状態だったのだ。気分が落ち込んでいる。身体を動かす意欲が湧かない。食欲がまったく無い。トイレに行く気力もないし、シャワーを浴びる気力もない。心と身体が完全に凍り付いてしまったのだ
俺は被害者だ!と主張する人がいる。私は弱者だ!と主張する人もいる。それらの人々の主張に耳を傾けてみる。経済的には逼迫している様子だ。暴力を受けており、安全な暮らしも保障されていないケースも少なくない。確かに弱者であるように見受けられる。だが、声が大きいの
早朝の4時から5時の間に目が覚める。意識はハッキリしているが、なかなか布団から出ることができない。寒いからではない。夏場でも同じなのだ。俺は眉間に皺が寄るほど固く目を閉じている。心の中で、イヤだ… イヤだ…と呟いている。また1日が始まってしまった。バカバカ
かみさんが亡くなってから。それなりの年月が経過した。激しく身を引き裂く「悲しみ」は、とても深い「哀しみ」に変化していった。かみさんを救えなかった「後悔」と「罪悪感」は、次第に「諦め」へと変わっていった。それら以外にも変わったモノがある。ひとつ挙げるとすれ
俺は今でも、かみさんのことが大好きだ。世界で一番、かみさんのことが大好きだ。かみさんは「亡くなった人」だ。その事実を否定するつもりはない。「亡くなった人」を想い続けるから辛いのだ、その想いを断ち切れば、あなたは楽に生きられる。そんなことを言う人もいる。そ
かみさんが死んじゃった。俺にとって、世界で一番大切な人が死んじゃった。俺のたった一人の家族が死んじゃった。俺はひとりぼっちになってしまった。かみさんが死んじゃった。怖かっただろうに…痛かっただろうに…それでも生きようとしていたのに…俺のために、必死で生き
今までに数回、次のようなコメントが書き込まれた。「あの世なんてない。死後の世界なんてない」「それどころか、人生に意味なんてない。あるのは偶然の積み重ねだけだ」「人生に意味なんてないという事実に向き合うべきだ」「そうすれば、アナタにも光が見える」こんなこと
まただ。また「カラッポ」になってしまった。心が重たくて、気分が落ち込んでいる。微かに不安感も蹲っているようだ。だが、それらは放置しておけばいい。日常の生活に支障はない。問題なのは、無気力になってしまうことだ。会社に行く気力がない。部下たちと雑談する気にも
亡くなった祖父母や両親のことを懐かしみ、思い出を語る人々がいる。また、おじいさん・おばあさんになってから伴侶に先立たれた人が、亡くなった伴侶との思い出を語る場面には、これまで何度も居合わせた。彼らや彼女らの話を聞いていても、周囲は違和感を覚えることはない
残念ながら、昨晩も不快な気分とともに目が覚めた。予想していたとおり、熟睡できたのは先日だけだったようだ。心が重い。身体が重たい。このまま布団の中で寝ていたい。会社に行きたくない。何にもしたくない。心と身体が悲鳴をあげているからだ。その悲鳴に耳を傾けてあげ
うちのマンションはバルコニーが広い。そのスペースを有効活用するために、かみさんが木製の椅子2脚とテーブルを買ってきて、バルコニーに置いた。2脚の椅子のうち、ひとつはかみさんの椅子、もうひとつが俺の椅子だ。春や秋のこと。かみさんと一緒にバルコニーで紅茶やコ
メメント・モリ。死を忘れるな…という意味のラテン語だ。本来は、自分もいつか死ぬのだから、今を大切に生きましょうという趣旨の言葉らしい。だが、俺にとっては別の意味を持っている。死が身近であること、死がすぐ隣にあること、死は突然に襲い掛かってくること。それが
平日の朝。俺は通勤途中に朝食を摂っている。もっぱら利用するのは、喫茶店やファミレス、蕎麦屋といったところだ。どの店も朝からそれなりに混んでいる。俺は周囲を見回してみる。客層は大半がサラリーマン。その他は明らかに70歳を超えているだろう老人たちだ。誰とも話を
かみさんが亡くなってから。俺はずっと睡眠導入剤の世話になっている。薬が効かない日もあるが、大抵はグッスリ眠ることができる。眠っている間、俺は「無」だ。五感はすべて、その機能を停止したかのようだ。何も見えないし、何も聞こえない。何も考えないし、何も感じない
現在1月27日の午前7時32分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は夜中の3時に目が覚めた。とても不快な気分だった。不安感とでも言えばいいのだろうか。何か悪いことが起きそうな予感と言えばいいのだろうか。それに加え、全身の倦怠感・脱力感がハン
誰もが何かを持っている。他のモノとは違う「特別なモノ」を持っている。決して代替できない何かを持っているということ。自分の命よりも大切な何かがあるということ。こんなに嬉しいことはない。それは、人間に生きる力と意味とを与えてくれるのだ。だが、「特別なモノ」を
伴侶やお子さんを亡くした人にとって、死は身近でリアルで具体的だ。普通の人々であっても、いずれは自分も死ぬことを知っている。だが、それは遠い未来の話。彼らや彼女らにとっての死は、抽象的な「概念としての死」にすぎない。自分の死をリアルに想像することなどあるま
かみさんが元気だった頃。俺は「朝」が大好きだった。ラジオ体操ではないけれど、いつだって新しい朝は、希望の朝だった。俺が目覚めると、隣でかみさんが微笑を浮かべて俺を見つめていた。二人の目が合って、お互いに笑顔になった。こんなに幸せな瞬間があるだろうか。そう
人間は両親から産まれる。産まれた子供は、(普通ならば)両親に慈しまれて成長していく。そうして人間という生き物に対する安心感や信頼感を獲得していく。その後、近所の幼馴染、幼稚園や保育園、学校という共同体を通じて人間関係の結び方を覚えていく。学校を卒業し、社
かみさんの余命を医師から宣告された時だった。俺を取り巻く世界が崩れてしまった。まるで滝のように、全身の血液が音を立て、頭から足元に落ちていった。だが、俺はかみさんを「死の恐怖」から守るため、自分の中の悲しみや恐怖を抑圧した。かみさんは自分の余命を知らなか
ある心理カウンセラーのホームページを見た。そこには、「人間は、伴侶と死別して悲しんでいる人の姿を見ていたくない」、「伴侶と死別して悲しんでいる人の姿、苦しんでいる姿を見たくないのが人間という生き物だ」と書いてあった。まさにその通りだろう。このホームページ
ゆっくり流れる時間を楽しめること。それは“今ここ”を肯定している人にしかできないことだ。生きていることが幸せな人々だけの特権だ。目的地まで、のんびりと歩いていく人。カフェに入って何時間でも飽きずに座っていられる人。やることがなくてボンヤリしていても、虚し
何かに追い詰められている。精神的に参ってしまった。そのせいか、ここ最近、悪夢ばかりを見る。目覚めた後の気分は最悪だ。鬱と強烈な不安感に耐えられない。死にたくなる。鬱も不安感も自分にとっての「異物」だ。異物ならば排除できるだろう。だが、排除できないのだ。排
俺にとって「家庭」は憧れの場所だった。子どもの頃の俺には「家庭」が無かったからだ。俺と妹は、両親(とりわけ実母)から虐待されて育ってきた。そんな俺と妹にとって、自宅は居心地の良い場所ではなかったし、むしろ吐き気を催すような場所でしかなかった。だからこそ、
かみさんが元気だった頃。俺はとても幸せだった。俺たち夫婦は満たされていた。なんの不足や欠如もなかった。かみさんが俺の横にいる。こんなに幸せなことはない。だが…かみさんは癌に冒されてしまった。そして、俺を遺して死んでしまった。プーちゃんを遺して死にたくない
かみさんが亡くなってから。俺は基本的に”ひとりぼっち”で過ごしている。北海道(かみさんの実家)に遊びに行ったり、会社で仕事をしている間は別として、自宅にいる限り、時間や空間を共有してくれる人は誰もいない。話をする相手もいなければ、一緒に笑うことのできる相
かみさんが元気だった頃。俺はずっと会社の中枢部門にいた。中枢部門というのは残業がバカみたいに多い。休日出勤も少なくない。おかげで多額の残業代をもらっていたが、自分の時間がないことは辛かった。そして何よりも、かみさんと過ごす時間が少なくなってしまうことが切
あれは確か2017年の2月初旬だった。その頃のブログに書いたとおり、俺は死にかけたことがある。かみさんを喪って自暴自棄になっていた俺は、酒に溺れていた。毎日、ストレートで焼酎を飲んでいた。二日間で一升瓶がカラッポになるペースで飲んでいた。そんな暮らしを数年続
かみさんが亡くなってから、それなりの時間が経過した。暦だけを見れば、それは長い時間だったと言えるだろう。それなのに、俺には「長い時間だった」という実感がない。まるで昨日のことのようだ…なんて言うつもりはないが、ごく最近のことのように感じられてしまう。かみ
産まれた瞬間から、ずっと安全な場所にいたのだろう。すべてが「思いどおり」になって、満たされないことは一つもなかったのだろう。そんなふうに生きてきたならば、人生は楽しいだろうし、世界や人間を肯定できるに違いない。そういう人々からすれば、周囲の人間が自分の「
かみさんが死んじゃった。かみさんがいなくなっちゃった。俺は”ひとりぼっち”になってしまった。ひとりぼっちは、とても淋しい。だからと言って、誰でもいいから寄り添いたいとは思わない。また、誰でもいいから一緒にいて欲しいとも思わない。近づくだけで、不快になって
俺は大学生のときに家出した。実母からの言葉の暴力に耐えられなかったからだ。俺は自分で学費を稼ぎ、生活費や家賃も稼いでいた。家出と同時に、俺は家族を失った。俺は“ひとりぼっち”になったのだ。だが、心細くなんてなかった。むしろ実母との縁を切り、嫌な思い出しか
たぶん俺が幼稚園生だか小学校低学年だった頃だ。父方の祖母が言っていた。神様に“お願いごと”をするのはいいけれど、仏様に“お願いごと”をしてはダメなんだよ。その理由は分からない。だが、その言葉を聞いたとき、俺は軽い衝撃を覚えた。幼少期の俺にとって、神様も仏
毎晩6時に退社する。残業になれば別だけど、それは週に一回から二回程度であって、たいていは6時に家に向かう。そもそも管理職になってからは、残業することがほとんどない。退社してから就寝するまでの間。俺は本当に“ひとりぼっち”だ。途中で夕飯と酒を調達する。そし
現在1月7日の午前7時12分。インフルエンザの発症(12月27日)から12日が経過した。とっくにインフルエンザは治っているだろう。事実、熱は下がっている。だが、相変わらず咳や痰が止まらない。腹は減るのに食欲がない。倦怠感(身体のダルさ)も耐えがたい。そして、なにより
身体がダルい。全身のあちこちが痛む。頭の中がボンヤリしている。いつだって憂鬱だ。かみさんを亡くした悲嘆もあるんだろう。だが、多分それだけではない。恐らく老化も原因のひとつだ。生まれてから今日までの間、使い込んできた精神と肉体とにガタが来ているのだろう。無
かみさんが元気だったころ。俺は「あの世」や「死後の世界」なんて信じていなかった。正確に言えば、「信じていなかった」というより「まったく興味がなかった」のだ。俺にとっては「この世」がすべてだった。何故なら「この世」は最高に楽しくて、最高に幸せで、最高に面白
自分だけのためならば、人間は大して頑張ることができない。途中で頑張ることに疲れてしまい、「もう、この程度でいいや…」と妥協してしまいがちだ。でも…ときに人間は、自分の限界を超えることがある。限界を超えて頑張れることがあるのだ。この世界に守りたい人がいる。
現在1月3日の午前9時23分。自宅のリビングでブログの記事を書いている。インフルエンザの発症から8日が過ぎた。もういい加減に体調が回復してもいい頃だ。確かに熱は下がった。だが、咳や痰が止まらない。なによりも辛いのは倦怠感(身体のダルさ)と食欲の無さだ。寝ていて
朝目覚めると、そこにかみさんはいない。家の中にいるのは俺だけだ。動くものは何もなく、音を発するものも何もなく、温もりを感じるものも何もない。かみさんが死んだ…という現実を再認識し、俺は深く落ちていく。すべてが静止している。空気が凍りついてしまったかのよう
そうして俺は”ひとりぼっち”になった ~インフルエンザ6日目~
現在1月1日の午後3時33分。自宅のリビングでブログの記事を書いている。38度6分まで上がった熱は、36度6分まで下がっている。だが、いまだに咳や痰は抜けていないし、食欲がまったく無い。倦怠感(全身のダルさ)が半端じゃなくて、一日のほどんどを寝っ転がっている。しかし
2010年。かみさんが亡くなった年だ。この年の正月。例年通り、かみさんと俺は、北海道にあるかみさんの実家に遊びに来た。かみさんは元気だった。本当に元気で、楽しそうだった。癌になっているなんて、これっぽっちも感じることはできなかった。かみさんに誘われるまま、俺
現在12月30日の午前7時08分。昨日のとおり、自宅のリビングでブログの記事を書いている。38度6分まであった熱は、36度9分まで下がった。インフルエンザは快方に向かっているらしい。だが、鼻が詰まっているくせに鼻水が垂れてくる。咳が止まらず、痰が切れない。食欲がない。
現在12月29日の午前4時40分。早朝ではあるが、自宅のリビングでブログの記事を書いている。インフルエンザの症状は、次第に軽快してきた。38度6分まで上がった体温は、37度1分まで下がっている。鼻詰まりも治ったようだ(鼻水は垂れてくるけれど)。だが、倦怠感(身体のダル
現在12月28日の午前11時51分。自宅のリビングでブログの記事を書いている。昨日の記事に書いた通り、俺はインフルエンザに罹患した。そのせいで、俺は北海道(かみさんの実家)に行くことができず、”ひとりぼっち”で年末年始を迎えることになった。どんなに惨めな日々を送
現在12月27日の午後8時22分。本当ならば、俺はそろそろ札幌(かみさんの実家)に到着しているはずだった。だが…俺は今、自宅にいる。北海道に向かうことができなかったのだ。今朝の6時ごろ。少しダルいな…と感じた。俺は体温計で熱を測った。結果は37度1分。微熱だったので
現在12月26日の午後11時37分。いつもと違い、深夜の自宅でブログの記事を書いている。あと20分ほどで27日になる。仕事納めの日が近づいている。11月27日の早朝。俺はいつものとおり出勤するだろう。そして、いつもとは違い、大きめのカバンに着替えを詰めて、俺は職場に向か
世界でいちばん大切な人を喪えば、誰だって悲しい。その悲しみは、あまりにも激しくて、遺族の心と身体を切り刻み、生きる気力を削ぎ落す。愛する人の死とともに、半身を失って、心にポッカリ穴が開き、周囲の世界が自分から遠ざかってしまう。幸せで、平穏で、笑顔の絶えな
現在12月24日の午前7時12分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日はクリスマス・イブだ。心なしか世間の空気が軽い。かみさんが元気だったなら、二人で美味しい食事と美味しいお酒を楽しみながら、賑やかに会話を楽しんだことだろう。だが、“ひとりぼ
かみさんが元気だった頃の記憶。かみさんと一緒に暮らしていた頃の記憶。それらはとても幸せで暖かい。だが、かみさんとの記憶が胸を締め付けることもある。幸せで楽しかった想い出ばかりだが、それでも俺の胸を抉るのだ。夫婦二人でどこかに出かけたときを想い出す。もう一
かみさんを喪ってから。俺はとても悲しかった。気が狂ったかのように悲しかった。身を引き裂かれたかのように悲しかった。その激しい悲しみが、将来、どう変化していくのだろう…なんて考える余裕はなかった。いつになれば悲しみが消え去るのだろう…なんて考えても見なかっ
仕事が終わって会社を出ると、最寄りの駅まで足早に歩く。道の途中、俺は必ずかみさんに「帰るコール」をする。かみさんが、「もしもし プーちゃん? 帰ってくる~?」と電話に出てくれる。俺は「今から帰るよ」と応える。「今日の夕飯は○○だよ~」、「気をつけて帰って来
このブログの中で、俺は何度も書いてきた。単調で、退屈で、抑揚のない余生が辛い…と書いてきた。そうだ。かみさんが死んでしまった。俺は“ひとりぼっち”になってしまった。それ以来、俺の人生から喜びや楽しみが消え去った。なんのアクセントもない日々が、ダラダラと続
かみさんが亡くなったのは、俺が41歳のときだった。まだ40歳を過ぎたばかりの頃だったのだ。当然、同世代の人々(友人や知人)の中に、俺と同じ体験をした人は一人もいない。それどころか50歳代や60歳代の知人の中にも、配偶者を亡くした人は一人もいなかった。そんな状況の
かみさんが亡くなった。俺はいちばん大切なモノを失った。いちばん大切なモノを失えば、二番目に大切なモノがいちばんになる…というほど単純なものではないらしい。いちばん大切なモノを失うと、二番目以降に大切だったモノも「どうでもよくなってしまう」のだ。俺はかみさ
昨晩のこと。俺はかみさんの夢を見た。夢の中。俺は布団に横たわっていた。俺の左側に何かある(何かいる)。覗いてみると、かみさんだった。あれ?死んじゃったはずなのに、何故かみさんがいるんだ?とは思わなかった。俺は、ごく自然に「かみさんが横にいる」という状況を
土日や祭日はどうしようもない。休日の空虚さに耐えられない。無駄に時間はあるくせに、やりたいことが何もない。話し相手もいやしない。どうやって時間を潰したらいいのか分からず、途方に暮れてしまう。あんまりにも退屈だ。あんまりにもつまらない。心は鬱々と沈み込んで
普通の人たちは、馬鹿にされることはないし、嗤われることもない。悲壮感がないからだ。哀しいとも言わないし、淋しいとも言わないからだ。普通の人たちには家族がいる。自分がいちばん大切にしているモノがある。自分をいちばん大切に想ってくれるモノがある。老後の心配や
俺たち人間は、一人ひとりの顔なんか見ていない。一人ひとりに共感していたら、何にもできなくなってしまうからだろうか。どこかで誰かが泣いている。自分の傍らで、誰かが蹲って苦しんでいる。それらを知っていても、別のことに夢中になれて、笑っていられるのが人間だ。そ
かみさんが逝ってしまった。俺を遺して逝ってしまった。だが…かみさんは俺の傍にいるはずだ。見えないけれど、確かに俺の隣にいるはずだ。だから俺は、かみさんを探した。かみさんの気配を追い求めていた。そうしているうちに、数年の月日が過ぎ去った。しかし、かみさんを
現在12月12日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今朝は4時前に目が覚めた。鬱や不安感はなかった。身体のダルさもなかった。こんなことは久しぶりだ。だが、気分の良い朝だというわけでもなかった。体調の良いときは、かえって神経が鋭敏
かみさんが亡くなった。世界でいちばん大切な人を喪った。俺は“ひとりぼっち”になった。ひとりぼっちで佇んでいた。そこは、あまりにも哀しくて、あまりにも寂しい場所だった。喪失感を埋めたくて、俺は周囲を見回した。かみさんの姿を探し求めたのだ。だが、かみさんは何
すべての人間は、他の人間たちとの関係の網の目の中で生きている。他者との関係があるからこそ、人間は「動物」ではなく「人間」なのだ。かみさんが元気だった頃。俺はたくさんの人々との関係の網の中で生きてきた。最も太く、最も濃密に結ばれていたのは、かみさんだ。かみ
昨晩は熟睡することができた。夜中に何度か目覚めたが、久しぶりにたっぷり眠ることができた。しかし、たくさんの悪夢を見た。目覚める直前は、いつも悪夢だった。何度も目が覚めたのは、悪夢のせいだったのかもしれない。午前5時半に床を出た。直前まで見ていた悪夢のせい
最愛の人を喪ったのに、それでも生きながらえている人々がいる。哀しいだろう。淋しいだろう。悔しいだろう。生きていることが辛いのに、それでも生きなければならず、この世は地獄だな…とタメ息をついている。理由の分からない不安感に脅え、プレッシャーに押し潰されそう
在宅している間は、まだマシかもしれない。話をする相手もいなければ、触れ合うことのできる相手もいないけど、荒んだ心が「何か」に守られているからだ。その「何か」は、自宅の壁だったり、自分の肉体だったり、眠りに落ちてしまうことだったり、”ひとりぼっち”であるこ
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は「過去」も「未来」も大好きだった。過去は二人の幸せな想い出で満ちていた。夫婦二人で過去を振り返るのは、幸せを追体験することに他ならなかった。あの時あんなことをしたね…あの時あんなものを見たね…あの時あんな話しをしたね…
かみさんが死んでしまった。そして俺は“ひとりぼっち”になってしまった。周囲の人々を見回してみた。友だちには奥さんや旦那さんがいた。中には子どものいる人もいた。義弟は独身だが、義母がいた。義母も“やもめ”だが、義弟がいた。会社の部下たちにも家族がいた。独身
現在12月4日の午前5時54分。いつもより早い時間にブログの記事を書いている。昨晩は早めに寝床に入った。睡眠導入剤を飲み、午後9時半には布団の中にいた。だが、まったく寝付けなかった。時計を見ると、午前3時だった。いくらなんでも寝床を出るには早すぎる。少しでも眠ろ
かみさんの闘病中のこと。病状が悪化するにつれて、かみさんは眠気に加え、倦怠感(ダルさ)を訴えるようになった。だが、癌による疼痛がなかったせいか、苦しむことはなかった。ベッドに横になっている限り、俺とは普通に会話ができていた。倦怠感が辛くても、人間は死にた
ここ最近。いろんな問題が重なっている。やらなきゃいけないことが山ほどある。いくつかは片付けたものの、まだウンザリするほど沢山の課題が横たわる。それらが重圧となっている。俺は態度に出さないが、内心ではイライラしている。ストレスで破裂しそうだ。今朝も、うなさ
かみさんが元気だった頃。俺の一週間は、月曜日の朝にスタートして、金曜日の夜にゴールを迎えた。スタートからゴールまでの間はキツい。肉体的な疲労感もさることながら、精神的なストレスが半端じゃない。障害物もたくさんあるし、アップダウンがとても激しい。苛烈な競争
どうせ死ねないのなら、少しは軽やかに生きてみたい…と思っている。かみさんの後を追えないのなら、せめて心静かに余生を送りたい…と思っている。苦痛で崩れてしまいそうなのに、それでも「普通の人」として生きること。それは「やせ我慢」の連続であり、本当に苦しいこと
早朝5時半には起床する。俺はかみさんの仏前に座る。そして、かみさんに線香をあげる。かみさんの位牌と遺影を見つめ、俺はかみさんに想いを馳せる。その後、俺はかみさんに朝のお供えをする。再び線香をあげる。かみさんの遺影を見つめ、無理やり笑顔を作ってみるが、遺影
最愛の伴侶を亡くした後も、遺族たちは生きていかなければならない。後を追いたいと思っても、そう簡単に死ねるもんじゃないからだ。たまには夫婦が同時に亡くなるケースもある。また、一方が亡くなってから間もない時期に、もう一方が後を追うように亡くなるケースもある。
朝はスッキリ目が覚めた。かみさんと目が合って、お互いにニッコリと笑った。そして「おはよう」と声を掛け合った。目が覚めると、すぐにエンジンが掛かった。頭はフル回転し、身体は活力に充ちていた。テキパキと洗顔し、かみさんが作ってくれた朝食を摂り、スーツに着替え
平成22年5月27日のこと。当時、かみさんは「癌研有明病院」に入院していた。この日、抗がん剤での治療が始まった。治療開始は午前11時過ぎ。最初に「吐き気止め」の薬の点滴が行われた。その副作用で、かみさんは眠ってしまった。約2時間後の午後1時過ぎ、かみさんが目を覚ま
かみさんが亡くなってからの数年間(たぶん約7年間)。俺は、時間があれば「死別」という言葉でググっていた。死別の悲嘆から立ち直る方法を探していたわけではない。いつになったら元の自分に戻れるかを知りたかったわけでもない。最愛の家族を喪って、何をどうしたらいい
現役世代である限り。会社には行かなければならないし、人付き合いもしなければならないし、仕事にも追われなければならない。だが…俺の中には、そんなエネルギーは残っていない。だからと言って、「普通の人」として生きていかざるを得ない以上は、どこかから必要なエネル
鬱がひどいわけではない。強い不安感があるわけでもない。あくまでも比較的にだが、今日は精神的に安定しているようだ。こういう日はめったにない。できれば一日、穏やかに過ごしたいと思っている。だが…突然、かつての記憶が蘇ってくる。それは、かみさんが癌だと診断され
かみさんが亡くなってから。俺の「予感」はよく当たるようになった。とりわけ悪い予感ほどよく当たる。かみさんが元気だった頃ならば、予感なんて信じてはいなかった。そもそも予感なんてものを持ったこともなかったような気がする。かみさんが癌だと診断された日も…恐ろし
かみさんが亡くなってから1ヶ月。俺はまったく眠れなかった。全身を引き裂かれたような悲しみで、俺は朝まで泣き叫んでいた。あるいは朝まで咽び泣いていた。俺は心療内科を訪れた。主治医は抗鬱剤、精神安定剤、睡眠導入剤を処方してくれた。だが、病名は告げられなかった
周囲に誰もいないとき。俺は「独り言」をつぶやくことが少なくない。独り言は、いつでも同じだ。俺は「帰りたい…」とつぶやくのだ。眉間に皺を寄せ、全身を緊張させながら、深いタメ息をつき、腹の底から「帰りたい…」という声を絞り出すのだ。このことは、以前このブログ
かみさんが癌だと診断されて、医師から「余命は年単位ではない」と告げられたときだった。俺の頭から血の気が引いた。全身の筋肉から力が抜けた。俺の人生も終わったな…と思った。だが、かみさんの前では明るく振る舞わなければならない。かみさんに「余命は年単位ではない
金曜日になるとホッとする。クソ忙しい日々から解放されて、二日間はゆっくりできるからだ。自宅に帰ると仏壇の前に座り、かみさんに線香をあげる。着替えを済ませ、かみさんに夜のお供えをする。その後はひたすらウィスキーを飲む。テレビは面白くないが、酒のおかげで解放
どうやら俺は勘違いをしていたらしい。人の一生は「右肩上がり」だと思い込んでいたのだ。今日は昨日より良い日だろう。明日は今日より良い日に違いない。そんな幻想に囚われた原因は、俺自身の半生にあるような気がしている。・・・俺と俺の妹は、両親から虐待されて育って
俺を作った男は、酒を飲むと荒れる人だった。普段は優しいのだが、酔っぱらうと幼少期の俺をぶん殴っていた。その男は俺が16歳の時にくたばった。いわゆる突然死だった。俺を産んだ女は、変質的な異常者だった。俺を作った男、俺の妹、そして俺の3人に言葉の暴力を振るって
あの世って、あると思う?死後の世界って、あると思う?そう聞かれたら、大概の人は「無いと思う」とか、「あるわけないじゃん」って答えるんだろう。事実、「死後の世界」で検索すると、「死後の世界があるとか言ってる奴、全員論破する」なんてサイトも出てくるくらいだ。
たった一人の家族を喪った。俺は“ひとりぼっち”になってしまった。ひとりぼっちは寂しい。ひとりぼっちだと不安になってしまう。とりわけ将来が不安だ。孤独死する覚悟はしているが、死ぬまでの老後が不安なのだ。もはや年金や貯金、退職金等だけでは悠々自適の老後は送れ
かみさんが亡くなってから、それなりに時間が経過した。それなのに、なぜ今でも悲しいのだろう。なぜ今でも寂しいのだろう。いまだに俺は、かみさんの死に慣れることができない。かみさんと出会う前。俺は数人の女性と交際した経験がある。彼女たちと別れた後は、イライラし
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俺はかみさんを喪った。世界でいちばん大切なモノを失った。かみさんが亡くなってからの数年間。もはや失うものは何もない…と思っていた。正確に言えば、ごく最近まで失うものは何もないと信じていたような気がする。その背景には、「そう遠くない将来、俺はかみさんの後を
俺はガキの頃、実母に殺されかけたことがある。それも一度や二度ではない。数えきれないほど何度もだ。抵抗できないほどの幼少期だった。俺は恐ろしかった。だが、過去の体験の中で、いちばん恐ろしかったか?と聞かれれば、そうではない。かみさんが癌だと診断されたとき。
以下は俺の身に起きたことではない。奥さまを亡くされた40歳代半ばの男性が、職場の上司から言われたことと、その時、その男性が心の中で感じたことを要約したものだ。当然のことながら、この男性の許可を頂いた上で、今回の記事を書いている。ちなみに、その男性が奥さまと
外出するのが嫌いだ。買い物に行くのも嫌いだ。会社に行くのも嫌いだ。かみさんが亡くなってから。俺は他人と関わることがイヤになった。死ぬまでずっと、かみさんの仏壇の前で酒を飲んでいたい。死ぬまでずっと、かみさんの骨壺の横で酒を飲んでいたい。酔っ払って、眠くな
私は正しいグリーフワークの道を歩んでいます!時折そんなことを、臆面も無く言う人間を見かける。心理学などで示されたグリーフワークのモデルケースに照らし、自分がそのケースのとおりに立ち直っていることを誇っているのだろう。自分は絶対に正しい。自分と同じ人間も正
世界の中心で、多くの人々に囲まれていても、俺は淋しい。雑踏の中、人々の笑い声に囲まれていても、俺は淋しい。無視されているわけではない。ましてや、誰かに石を投げつけられるわけではないし、罵詈雑言を浴びせられるわけでもない。ただ単に、かみさんが亡くなったこと
現在2月14日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。明日からまた週末だ。2日間の連休を楽しみにしている人は多いだろう。そんな中、俺は今週も憂鬱だ。かみさんが死んじゃった。家族は誰もいない。俺は“ひとりぼっち”だ。何をしたらいいの
本来、家庭というのは、人々にとって最も落ち着ける場所のはずだ。あの優しくて、暖かくて、柔らかい空気に包まれているだけで、なんて幸せなんだろう…と感じることができた。かみさんと出会う前には、俺が知らなかった空気だ。その空気を知らなかった俺に、幸せな家庭を教
たぶん生きることに意味なんて無い。俺に限ったことではなく、人間なんて、みんながそうなんだ。産まれてきてしまった以上、生きるしかないだけのことだ。死への恐怖が本能に組み込まれている以上、自ら命を断つことが難しいだけのことだ。この世に「生」を受けてしまった以
かみさんが元気だったころ。俺は自宅のバルコニーでタバコを吸っていた。わざわざバルコニーに出ていた理由は、かみさんに受動喫煙をさせたくなかったからだ。かみさんが亡くなってから。相変わらず俺は、自宅のバルコニーでタバコを吸っていた。だが、今のご時世だといろい
2月6日の木曜日。朝5時半に目が覚めた。俺は異変に気がついた。ひどい鬱(うつ)状態だったのだ。気分が落ち込んでいる。身体を動かす意欲が湧かない。食欲がまったく無い。トイレに行く気力もないし、シャワーを浴びる気力もない。心と身体が完全に凍り付いてしまったのだ
俺は被害者だ!と主張する人がいる。私は弱者だ!と主張する人もいる。それらの人々の主張に耳を傾けてみる。経済的には逼迫している様子だ。暴力を受けており、安全な暮らしも保障されていないケースも少なくない。確かに弱者であるように見受けられる。だが、声が大きいの
早朝の4時から5時の間に目が覚める。意識はハッキリしているが、なかなか布団から出ることができない。寒いからではない。夏場でも同じなのだ。俺は眉間に皺が寄るほど固く目を閉じている。心の中で、イヤだ… イヤだ…と呟いている。また1日が始まってしまった。バカバカ
かみさんが亡くなってから。それなりの年月が経過した。激しく身を引き裂く「悲しみ」は、とても深い「哀しみ」に変化していった。かみさんを救えなかった「後悔」と「罪悪感」は、次第に「諦め」へと変わっていった。それら以外にも変わったモノがある。ひとつ挙げるとすれ
俺は今でも、かみさんのことが大好きだ。世界で一番、かみさんのことが大好きだ。かみさんは「亡くなった人」だ。その事実を否定するつもりはない。「亡くなった人」を想い続けるから辛いのだ、その想いを断ち切れば、あなたは楽に生きられる。そんなことを言う人もいる。そ
かみさんが死んじゃった。俺にとって、世界で一番大切な人が死んじゃった。俺のたった一人の家族が死んじゃった。俺はひとりぼっちになってしまった。かみさんが死んじゃった。怖かっただろうに…痛かっただろうに…それでも生きようとしていたのに…俺のために、必死で生き
今までに数回、次のようなコメントが書き込まれた。「あの世なんてない。死後の世界なんてない」「それどころか、人生に意味なんてない。あるのは偶然の積み重ねだけだ」「人生に意味なんてないという事実に向き合うべきだ」「そうすれば、アナタにも光が見える」こんなこと
まただ。また「カラッポ」になってしまった。心が重たくて、気分が落ち込んでいる。微かに不安感も蹲っているようだ。だが、それらは放置しておけばいい。日常の生活に支障はない。問題なのは、無気力になってしまうことだ。会社に行く気力がない。部下たちと雑談する気にも
亡くなった祖父母や両親のことを懐かしみ、思い出を語る人々がいる。また、おじいさん・おばあさんになってから伴侶に先立たれた人が、亡くなった伴侶との思い出を語る場面には、これまで何度も居合わせた。彼らや彼女らの話を聞いていても、周囲は違和感を覚えることはない
残念ながら、昨晩も不快な気分とともに目が覚めた。予想していたとおり、熟睡できたのは先日だけだったようだ。心が重い。身体が重たい。このまま布団の中で寝ていたい。会社に行きたくない。何にもしたくない。心と身体が悲鳴をあげているからだ。その悲鳴に耳を傾けてあげ
かみさんが亡くなってから数ヵ月。俺は毎晩、泣いていた。より正確に言えば「泣いていた」のではなく「哭いていた」。誰もいない家の中。真っ暗な部屋の中で慟哭していた。朝まで眠れないほどに哭いていた。それからしばらく経つと、心にポッカリ穴が開いたような身体感覚に
現在2月19日の夜7時35分。いつもとは違い、帰宅途中にブログの記事を書いている。最低の1日だった。朝から鬱と倦怠感がひどかったからだ。それだけではない。追い討ちをかけるようにして、「別の問題」が起こったからだ。この問題が何なのか、詳しく語ろうとは思わない。た
かみさんが元気だった頃。俺の一週間は、月曜日の朝にスタートして、金曜日の夜にゴールを迎えた。スタートからゴールまでの間はキツい。肉体的な疲労感もさることながら、精神的なストレスが半端じゃない。障害物もたくさんあるし、アップダウンがとても激しい。苛烈な競争
かみさんが亡くなった直後のことだ。俺はたくさんの人たちから言われた。元気を出せよ!だとか、元気を出しなさい!だとか、元気を出してください!だとか。思い返してみれば、ずいぶんとムチャクチャなことを言われてきたなぁ…と感じる。最初に言われたのは、かみさんの告
早朝4時すぎに目が覚めた。俺はとてもリラックスしていた。こんなに心地好い気分は久しぶりだ。だが、時間が経つにつれ、意識がハッキリしていった。それと並行して不安感が強くなっていった。全身が小刻みに震え始めた。目覚まし時計が鳴るまで耐えられない。俺は布団から
生きているのが面倒くさい。何をするのも面倒くさい。早朝に目覚ましが鳴り、身体を起こすのが面倒くさい。布団から立ち上がるのも面倒くさい。顔を洗うのが面倒くさい。歯を磨くのも面倒くさい。トイレに行くのが面倒くさい。シャワーを浴びるのも面倒くさい。朝の情報番組
以前、第一生命の経済研究所が発表した論文を読んだ。50歳以上79歳以下の男女600名に対し、「死」に関する意識調査を行った。その結果について考察した論文だ。この論文の中で、とりわけ目に付いたのが次の点だった。配偶者や子どもと死別した体験のある人は、「自分の死」を
きっかけがあるのは間違いない。だが、その「きっかけ」を言葉で表現することができない。たぶん言語化できたなら、俺はちょっぴりだけ自由になれるような気がしている。言葉にできないからこそ、俺は蝕まれるんだ。希死念慮が噴き出してくるんだ。どうしようもないんだ。死
いつも一緒だった。かみさんと俺はいつだって一緒だった。二人が離ればなれになるのは、俺が会社に行っている間だけ。それ以外、かみさんと俺はいつでも一緒にいた。散歩をするときも、買い物に行くときも、食事をするときも、テレビを見るときも、かみさんはいつも俺の隣に
俺の理性は知っている。もう二度とキミに逢えないこと。もう二度とキミと語り合えないこと。もう二度とキミと一緒に笑えないこと。もう二度とキミと触れ合えないこと。俺の理性は、その残酷で悲しい現実を知っている。・・・だが、理性とは別のところで、俺はキミが帰ってく
生きていれば、いずれ良いこともあるよ…かみさんが亡くなって以来、時々そんなことを言われる。こんなことを言うのは、俺の親族や友人たち。死がどこか遠くにあると思っている人々だ。生きていれば、いずれ良いこともある…この言葉の中に、「明日は素晴らしい」、「未来は
俺はいまだにかみさんを納骨していない。骨壺は、仏壇の傍らに据え置かれている。俺は一日に数回、かみさんの骨壺に手を合わせ、線香をあげている。それにも関わらず、俺はかみさんの墓参りにも行く。もちろん墓の中はカラッポだ。それなのに、なぜ墓参りに行くのか…と聞か
かみさんが元気だった頃。家の中は賑やかで、暖かかった。かみさんが元気だった頃。俺を包む空気は軽やかで、柔らかかった。かみさんが亡くなった。俺はたった一人の家族を喪って、“ひとりぼっち”になった。家の中は静まり返り、凍てついた。周囲の空気が俺に重く圧し掛か
昨日、「廃人のように」というタイトルでブログを書いた。そこで俺は、「仕事を休めない」と書いた。だが、とうとう俺は耐えられず、2日間、有給休暇を取ってしまった。2月3日(土)と4日(日)。鬱が酷くて身動きできなかった。食料の買い出しにも行けず、胃に流し込ん
平日の朝だ。当然、会社に行かなければならない。それにも関わらず、鬱がひどくて身動きできないことがある。数年前ならこんな日は、何の躊躇もなく会社を休んでしまっただろう。優秀な部下たちに任せておけば、仕事に支障を与えることはなかったからだ。だが、4月に配属さ
かみさんが亡くなってから数年が経とうとする時期だった。その頃の俺は、ようやく慟哭することが減ってきた。代わりに来たのは「鬱」だった。いつでも気分は落ちていた。ため息ばっかりついていた。楽しいことや嬉しいことなんて何にもなかった。いつだって哀しくて、いつだ
かみさんが死んじゃった。俺にとって、世界で一番大切な人が死んじゃった。俺のたった一人の家族が死んじゃった。俺は独りぼっちになってしまった。かみさんが死んじゃった。怖かっただろうに…痛かっただろうに…それでも生きようとしていたのに…俺のために、必死で生きよ
一日中、眠っていたい。24時間ずっと、眠り続けたい。他にしたいこと、やりたいことなんて一つもない。眠ること以外に欲求も欲望もない。死ぬまでずっと、眠り続けていたい。俺のたった一つの欲望。それは永遠に眠り続けることだ。眠っている間は癒しの時間だ。かみさんが亡
あの世や死後の世界の存否に対する俺の基本的なスタンスは、「あるかもしれないし、ないかもしれない。それは生きている限り知りえないだろう。でも、あって欲しいなぁ… また、かみさんに会いたいなぁ…」というものだ。ちなみに、かみさんの生前は、「あの世」があるかどう
他人(ひと)は「忘れろ」と言う。忘れるって何なんだろう?忘れるってどういう意味なんだろう?かみさんを忘れろという意味か?それとも、かみさんを喪った哀しみを忘れろという意味か?どちらの意味なのかは不明だが、いずれにしても、忘れるなんて俺には無理だ。第三者か