かみさんが息を引き取った瞬間だった。周囲の世界が現実感を失って、俺から遠ざかっていった。手を伸ばせば触れることはできたのかもしれないが、すべてが質感のないホログラムのように見えていた。周囲と俺との間を透明な壁が塞いでしまった。そして俺は、壁の外側に排除さ
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
かみさんが息を引き取った瞬間だった。周囲の世界が現実感を失って、俺から遠ざかっていった。手を伸ばせば触れることはできたのかもしれないが、すべてが質感のないホログラムのように見えていた。周囲と俺との間を透明な壁が塞いでしまった。そして俺は、壁の外側に排除さ
俺が41歳のとき。かみさんが亡くなった。俺は自分の人生も終わった…と思った。約20年間の幸せで、楽しい日々が終わってしまった…と思った。これからどうやって生きていったらいいんだろうか。想像する未来は、あまりにも暗くて、あまりにも重たくて、あまりにも寂しかった
かみさんと俺は、仲の良い夫婦だったと思う。そう思っていたのは、俺たち二人だけではない。俺と同期で入社した女性は、俺たち二人のことを「私にとって、理想の夫婦像」だと言ってくれた。また、かつて俺と同じ部署にいた女性は、「仲の良い夫婦は似てくるって言うけど、二
ある“風景”を見ていた。それは、とても”きらびやか”で”華やか”だった。俺は気がついた。この“風景”は、かつて俺の傍らにあり、いつでも見たいときに見ていたものだった。他でもない。以前は俺自身のモノだった“風景”なのだ。それなのに…今の俺は、この“風景”を
辛いなぁ…と呟きたくなることがある。もしも呟けば、なんで辛いの?と聞いてくれる人も多いだろう。だが、そこで何と応えればいいんだろうか。俺は迷ってしまう。花粉症で目が痒くて辛いんだよ…だとか、膝が痛くて辛いんだよ…と応えれば、大変だよねぇ…という答えが返っ
かみさんがいなくなってから。良いことなんて、めったに起こらなくなった。それは仕方のないことかもしれない。俺にとっての良いことは、いつでもかみさんと共にあったのだ。些細なことであろうとも、かみさんと一緒にいるだけで、それはとても良いことに感じられた。良いこ
とてもゆっくりではある。しかし、その歩みは着実だ。次第に自分の心と身体が弱っていくのが分かる。とりわけ気分や体調の悪い日には、「死」を身近に感じる。それは決して陰惨なものではないし、恐怖の対象でもない。むしろ甘美で柔らかい何ものかなのだ。自分の最愛の人の
かみさんが元気だった頃。朝目覚めると、かみさんはいつだって俺の横にいた。かみさんと目が合った。かみさんと俺は、自然と笑顔になった。寝室を出ると、俺は出勤の準備だ。その間、かみさんは“おしゃべり”をしながら朝食や「愛妻弁当」を作ってくれた。俺たち夫婦はバタ
かみさんが眠るように息を引き取った瞬間。俺は「すべて」が終わったと思った。俺の心に、大きな穴がポッカリと開いた。何かが俺の中から欠落してしまったのだ。俺は悲しみとともに、呆然と立ち尽くした。穴は依然として俺の中にある。何かが足りないのだ。何かが決定的に欠
全身がダルい。強い不安感で居たたまれない。つまらない。あまりにも退屈だ。ツラい。とても苦しい。寂しい。そして悲しい。時間が経つと、今より良くなるなら堪えてみよう。努力をすれば、今より良くなるなら我慢しよう。だが、事態が好転する見込みがないのだ。明るい未来
毎週末の土曜日のこと。俺が休日出勤をしない限り、かみさんと俺は、何時間も散歩をしていた。他愛のない会話をしながら、二人でのんびり遠くまで歩くのが好きだった。散歩の終わりには、どこかのレストランや居酒屋に入った。よく冷えたビールなんかを飲みながら、美味しい
かみさんが元気だった頃。かみさんの隣は空気が軽くて明るくて、暖かかった。俺はかみさんの賑やかな声に耳を傾けていた。その結果、俺の意識はいつでも外の世界に向けられていた。外の世界が俺を受け容れてくれた。とても気持ちが良くて、安心することができた。かみさんの
いったい俺はなんのために生きているんだろうか…かみさんが亡くなってから、ずっと俺が囚われている疑問だ。なんの喜びもないのだ。なんの楽しみもないのだ。なんの生きがいもないのだ。死なないから生きているだけ。痛みも苦しみもなく、眠るように逝けるなら、こんなに幸
以前「闘病記」に書いたことがある。かみさんは、自分の病が治ると信じていたにも関わらず、入院中に二回だけ泣いたことがあるのだ。いずれの時も、かみさんは同じことを言っていた。プーちゃんを遺して死にたくない…プーちゃんを遺して死ぬのはイヤだ…死ぬのが怖い…と言
俺の義父(かみさんの親父さん)は小学校の先生だった。焼酎と釣りが大好きで、とても包容力のある優しい人だった。俺の義母(かみさんのお袋さん)によれば、かみさんは父親似の性格だったらしい。義父は俺をとても気に入ってくれた。まるで本当の息子のように俺を受け容れ
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦の朝は賑やかだった。目覚まし時計が鳴ると、二人は同時に目を覚ました。すると、かみさんと俺の目が合った。かみさんは俺を見て笑顔になってくれた。俺もかみさんを見て笑顔になった。寝室から出ると、かみさんは朝食を作ってくれた。そ
初めから死にたかったわけではない。幼少期に両親から虐待されようと、何度も実母から殺されかけようと、それでも俺は生きていたかった。皮膚を引き裂かれ、内臓を食い破られた。自尊心を破壊され、心を殺された。それでも俺は、死にたいとは思わなかった。当時の俺の周りに
かみさんが闘病していた時期のこと。ひょっとしたら病気が治るかも知れないと思っていた。どうか治してあげてほしいと全力で祈っていた。かみさんが俺の横で笑っていた。かみさんと一緒にいる全ての瞬間が愛おしかった。あの時期には、まだ希望があった。だが、かみさんは俺
かみさんが亡くなってから。それなりの年月が経過した。あの日以来、俺は“ある疑問”に取りつかれ、その疑問の回答はいまだに得られていない。その疑問。それは「なんのために俺は生きているのだろうか」という疑問だ。かみさんがいなくなった。かみさんと一緒に過ごす日々
日本では、年間に約7万人が「孤独死」をしているそうだ。そのうち8割は男性が占めている。孤独死する人々には、いくつかの共通点があるという。① 配偶者との離別や死別によって、“ひとりぼっち”で生活していること、② ほかに家族がいないこと、③ 近所付き合いがな
早朝5時半には目が覚める。今日も一日が始まってしまったのか…と深いタメ息をつく。身体がとてもダルいので、会社を休んで寝ていたい。それでも俺は、身体を起こし、かみさんの仏前に座る。ローソクに火を灯し、かみさんに線香を手向ける。かみさんの位牌を見つめていると
プーちゃんも一緒に…20年以上一緒に暮らしている中で、俺は、かみさんの口から何度もこの言葉を聞いた。プーちゃんも一緒に…この言葉は、かみさんの口癖のようなものだった。・・・かみさんが美味しいものを食べていると、俺にも食べさせてあげたいと想うのだろう。かみさ
何かの本で読んだ。人は年を重ね、自らが高齢者になると、自然と「死」を意識するようになるのだそうだ。いずれは自分も死ぬ。自分の愛する人も死ぬ。自分も、自分の愛する人も、「死」と無縁ではない。最近、エンディング・ノートとやらが流行しているらしい。これを作るの
「魂は光で、エネルギーです」「亡くなった奥様は、別の次元にいるのです」「亡くなった人は、あなたの傍にいます。見えないのは、波動や周波数が異なるからです」「波調が合えば、あなたも奥様の存在を感じることができるはずなのです」「私は死後の世界があることを、科学
若年で伴侶を亡くした人や、お子さんを亡くした人にとって、死はとてもリアルだ。普通の人々なら、いずれは自分も死ぬとは分かっていても、それは遠い未来の話。自分の死の瞬間をリアルに想像することなどあるまい。だが、最愛の人が亡くなれば話は別だ。死は遠い未来のこと
心電図の音が、次第にゆっくりになっていく。かみさんが遠くに逝ってしまう。とうとう「この瞬間」が来てしまった。それでも俺は、かみさんの意識を取り戻そうとして、彼女の左手をギュッと握った。だが、その行為は虚しかった。しばらくすると、心電図が平坦になった。かみ
かみさんが亡くなって最初の約1ヶ月。俺はまったく眠れなくなってしまった。あまりの激しい悲しみで、俺の交感神経が興奮しきっていたのだろう。あれは地獄だ。布団に入ってからも全身の力が抜けず、激しい悲嘆で頭の中はグチャグチャだった。それが朝まで続くのだ。俺は発
かみさんが亡くなってからの数年間。俺は誰もいない自宅の中で泣いていた。全身が引き裂かれるような激しい痛みで、俺は号泣し、慟哭し、泣き叫んでいた。だが、時間の経過とともに、あの激しい「悲しみ」は姿を変えていった。穏やかなように見えるけど、あまりにも深い「哀
かみさんが元気だった頃。俺にはやりたいことが山ほどあった。その中には、かみさんと一緒にやりたいこともあったし、俺がひとりでやりたいこともあった。俺は、それらを実現させるため、日々の努力を重ねてきた。その努力を放棄したのは、かみさんが癌だと診断された直後だ
日本人男性の平均寿命は概ね80歳と言われている。20年をひとつの単位とすると、それを4回ほど繰り返せば人生は終わりだ。俺の80年の人生のうち、最初の約20年間には反吐が出る。良い思い出なんて一つもないからだ。ツラいこと、苦しいこと、イヤなことばっかりで、この世界
以下は、かみさんと俺との他愛のない会話だ。かみさんが俺に聞いた。ドラえもんの道具の中で、いちばん欲しいのは何?俺はしばらく考えたあと、どこでもドアと応えた。このブログの中で書いてきたとおり、俺たち夫婦は夏休みのたびに海外旅行をしていた。かみさんと俺の趣味
かみさんはいつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね。俺も「そうだね」と応えていた。だが、それは叶わない夢だろう…とも思っていた。男性のほうが、女性より短命だからだ。できれば俺も、かみさんと一緒に死にたい。二人で手をつないで横になり、一緒に逝けたら最
いつだって俺は、心の中で帰りたい…とつぶやいている。いつだって俺は、どこかに帰りたい…と思っている。そのことは以前、このブログにも書いた記憶がある。会社で仕事に追われているときならば、心の中で帰りたい…とつぶやくのは理解してもらえるだろう。だが、帰りたい
俺はかみさんを喪った。世界でいちばん大切なモノを失った。かみさんが亡くなってからの数年間。もはや失うものは何もない…と思っていた。正確に言えば、ごく最近まで失うものは何もないと信じていたような気がする。その背景には、「そう遠くない将来、俺はかみさんの後を
俺はガキの頃、実母に殺されかけたことがある。それも一度や二度ではない。数えきれないほど何度もだ。抵抗できないほどの幼少期だった。俺は恐ろしかった。だが、過去の体験の中で、いちばん恐ろしかったか?と聞かれれば、そうではない。かみさんが癌だと診断されたとき。
以下は俺の身に起きたことではない。奥さまを亡くされた40歳代半ばの男性が、職場の上司から言われたことと、その時、その男性が心の中で感じたことを要約したものだ。当然のことながら、この男性の許可を頂いた上で、今回の記事を書いている。ちなみに、その男性が奥さまと
外出するのが嫌いだ。買い物に行くのも嫌いだ。会社に行くのも嫌いだ。かみさんが亡くなってから。俺は他人と関わることがイヤになった。死ぬまでずっと、かみさんの仏壇の前で酒を飲んでいたい。死ぬまでずっと、かみさんの骨壺の横で酒を飲んでいたい。酔っ払って、眠くな
私は正しいグリーフワークの道を歩んでいます!時折そんなことを、臆面も無く言う人間を見かける。心理学などで示されたグリーフワークのモデルケースに照らし、自分がそのケースのとおりに立ち直っていることを誇っているのだろう。自分は絶対に正しい。自分と同じ人間も正
世界の中心で、多くの人々に囲まれていても、俺は淋しい。雑踏の中、人々の笑い声に囲まれていても、俺は淋しい。無視されているわけではない。ましてや、誰かに石を投げつけられるわけではないし、罵詈雑言を浴びせられるわけでもない。ただ単に、かみさんが亡くなったこと
現在2月14日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。明日からまた週末だ。2日間の連休を楽しみにしている人は多いだろう。そんな中、俺は今週も憂鬱だ。かみさんが死んじゃった。家族は誰もいない。俺は“ひとりぼっち”だ。何をしたらいいの
本来、家庭というのは、人々にとって最も落ち着ける場所のはずだ。あの優しくて、暖かくて、柔らかい空気に包まれているだけで、なんて幸せなんだろう…と感じることができた。かみさんと出会う前には、俺が知らなかった空気だ。その空気を知らなかった俺に、幸せな家庭を教
たぶん生きることに意味なんて無い。俺に限ったことではなく、人間なんて、みんながそうなんだ。産まれてきてしまった以上、生きるしかないだけのことだ。死への恐怖が本能に組み込まれている以上、自ら命を断つことが難しいだけのことだ。この世に「生」を受けてしまった以
かみさんが元気だったころ。俺は自宅のバルコニーでタバコを吸っていた。わざわざバルコニーに出ていた理由は、かみさんに受動喫煙をさせたくなかったからだ。かみさんが亡くなってから。相変わらず俺は、自宅のバルコニーでタバコを吸っていた。だが、今のご時世だといろい
2月6日の木曜日。朝5時半に目が覚めた。俺は異変に気がついた。ひどい鬱(うつ)状態だったのだ。気分が落ち込んでいる。身体を動かす意欲が湧かない。食欲がまったく無い。トイレに行く気力もないし、シャワーを浴びる気力もない。心と身体が完全に凍り付いてしまったのだ
俺は被害者だ!と主張する人がいる。私は弱者だ!と主張する人もいる。それらの人々の主張に耳を傾けてみる。経済的には逼迫している様子だ。暴力を受けており、安全な暮らしも保障されていないケースも少なくない。確かに弱者であるように見受けられる。だが、声が大きいの
早朝の4時から5時の間に目が覚める。意識はハッキリしているが、なかなか布団から出ることができない。寒いからではない。夏場でも同じなのだ。俺は眉間に皺が寄るほど固く目を閉じている。心の中で、イヤだ… イヤだ…と呟いている。また1日が始まってしまった。バカバカ
かみさんが亡くなってから。それなりの年月が経過した。激しく身を引き裂く「悲しみ」は、とても深い「哀しみ」に変化していった。かみさんを救えなかった「後悔」と「罪悪感」は、次第に「諦め」へと変わっていった。それら以外にも変わったモノがある。ひとつ挙げるとすれ
俺は今でも、かみさんのことが大好きだ。世界で一番、かみさんのことが大好きだ。かみさんは「亡くなった人」だ。その事実を否定するつもりはない。「亡くなった人」を想い続けるから辛いのだ、その想いを断ち切れば、あなたは楽に生きられる。そんなことを言う人もいる。そ
かみさんが死んじゃった。俺にとって、世界で一番大切な人が死んじゃった。俺のたった一人の家族が死んじゃった。俺はひとりぼっちになってしまった。かみさんが死んじゃった。怖かっただろうに…痛かっただろうに…それでも生きようとしていたのに…俺のために、必死で生き
今までに数回、次のようなコメントが書き込まれた。「あの世なんてない。死後の世界なんてない」「それどころか、人生に意味なんてない。あるのは偶然の積み重ねだけだ」「人生に意味なんてないという事実に向き合うべきだ」「そうすれば、アナタにも光が見える」こんなこと
まただ。また「カラッポ」になってしまった。心が重たくて、気分が落ち込んでいる。微かに不安感も蹲っているようだ。だが、それらは放置しておけばいい。日常の生活に支障はない。問題なのは、無気力になってしまうことだ。会社に行く気力がない。部下たちと雑談する気にも
亡くなった祖父母や両親のことを懐かしみ、思い出を語る人々がいる。また、おじいさん・おばあさんになってから伴侶に先立たれた人が、亡くなった伴侶との思い出を語る場面には、これまで何度も居合わせた。彼らや彼女らの話を聞いていても、周囲は違和感を覚えることはない
残念ながら、昨晩も不快な気分とともに目が覚めた。予想していたとおり、熟睡できたのは先日だけだったようだ。心が重い。身体が重たい。このまま布団の中で寝ていたい。会社に行きたくない。何にもしたくない。心と身体が悲鳴をあげているからだ。その悲鳴に耳を傾けてあげ
うちのマンションはバルコニーが広い。そのスペースを有効活用するために、かみさんが木製の椅子2脚とテーブルを買ってきて、バルコニーに置いた。2脚の椅子のうち、ひとつはかみさんの椅子、もうひとつが俺の椅子だ。春や秋のこと。かみさんと一緒にバルコニーで紅茶やコ
メメント・モリ。死を忘れるな…という意味のラテン語だ。本来は、自分もいつか死ぬのだから、今を大切に生きましょうという趣旨の言葉らしい。だが、俺にとっては別の意味を持っている。死が身近であること、死がすぐ隣にあること、死は突然に襲い掛かってくること。それが
平日の朝。俺は通勤途中に朝食を摂っている。もっぱら利用するのは、喫茶店やファミレス、蕎麦屋といったところだ。どの店も朝からそれなりに混んでいる。俺は周囲を見回してみる。客層は大半がサラリーマン。その他は明らかに70歳を超えているだろう老人たちだ。誰とも話を
かみさんが亡くなってから。俺はずっと睡眠導入剤の世話になっている。薬が効かない日もあるが、大抵はグッスリ眠ることができる。眠っている間、俺は「無」だ。五感はすべて、その機能を停止したかのようだ。何も見えないし、何も聞こえない。何も考えないし、何も感じない
現在1月27日の午前7時32分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は夜中の3時に目が覚めた。とても不快な気分だった。不安感とでも言えばいいのだろうか。何か悪いことが起きそうな予感と言えばいいのだろうか。それに加え、全身の倦怠感・脱力感がハン
誰もが何かを持っている。他のモノとは違う「特別なモノ」を持っている。決して代替できない何かを持っているということ。自分の命よりも大切な何かがあるということ。こんなに嬉しいことはない。それは、人間に生きる力と意味とを与えてくれるのだ。だが、「特別なモノ」を
伴侶やお子さんを亡くした人にとって、死は身近でリアルで具体的だ。普通の人々であっても、いずれは自分も死ぬことを知っている。だが、それは遠い未来の話。彼らや彼女らにとっての死は、抽象的な「概念としての死」にすぎない。自分の死をリアルに想像することなどあるま
かみさんが元気だった頃。俺は「朝」が大好きだった。ラジオ体操ではないけれど、いつだって新しい朝は、希望の朝だった。俺が目覚めると、隣でかみさんが微笑を浮かべて俺を見つめていた。二人の目が合って、お互いに笑顔になった。こんなに幸せな瞬間があるだろうか。そう
人間は両親から産まれる。産まれた子供は、(普通ならば)両親に慈しまれて成長していく。そうして人間という生き物に対する安心感や信頼感を獲得していく。その後、近所の幼馴染、幼稚園や保育園、学校という共同体を通じて人間関係の結び方を覚えていく。学校を卒業し、社
かみさんの余命を医師から宣告された時だった。俺を取り巻く世界が崩れてしまった。まるで滝のように、全身の血液が音を立て、頭から足元に落ちていった。だが、俺はかみさんを「死の恐怖」から守るため、自分の中の悲しみや恐怖を抑圧した。かみさんは自分の余命を知らなか
ある心理カウンセラーのホームページを見た。そこには、「人間は、伴侶と死別して悲しんでいる人の姿を見ていたくない」、「伴侶と死別して悲しんでいる人の姿、苦しんでいる姿を見たくないのが人間という生き物だ」と書いてあった。まさにその通りだろう。このホームページ
ゆっくり流れる時間を楽しめること。それは“今ここ”を肯定している人にしかできないことだ。生きていることが幸せな人々だけの特権だ。目的地まで、のんびりと歩いていく人。カフェに入って何時間でも飽きずに座っていられる人。やることがなくてボンヤリしていても、虚し
何かに追い詰められている。精神的に参ってしまった。そのせいか、ここ最近、悪夢ばかりを見る。目覚めた後の気分は最悪だ。鬱と強烈な不安感に耐えられない。死にたくなる。鬱も不安感も自分にとっての「異物」だ。異物ならば排除できるだろう。だが、排除できないのだ。排
俺にとって「家庭」は憧れの場所だった。子どもの頃の俺には「家庭」が無かったからだ。俺と妹は、両親(とりわけ実母)から虐待されて育ってきた。そんな俺と妹にとって、自宅は居心地の良い場所ではなかったし、むしろ吐き気を催すような場所でしかなかった。だからこそ、
かみさんが元気だった頃。俺はとても幸せだった。俺たち夫婦は満たされていた。なんの不足や欠如もなかった。かみさんが俺の横にいる。こんなに幸せなことはない。だが…かみさんは癌に冒されてしまった。そして、俺を遺して死んでしまった。プーちゃんを遺して死にたくない
かみさんが亡くなってから。俺は基本的に”ひとりぼっち”で過ごしている。北海道(かみさんの実家)に遊びに行ったり、会社で仕事をしている間は別として、自宅にいる限り、時間や空間を共有してくれる人は誰もいない。話をする相手もいなければ、一緒に笑うことのできる相
かみさんが元気だった頃。俺はずっと会社の中枢部門にいた。中枢部門というのは残業がバカみたいに多い。休日出勤も少なくない。おかげで多額の残業代をもらっていたが、自分の時間がないことは辛かった。そして何よりも、かみさんと過ごす時間が少なくなってしまうことが切
あれは確か2017年の2月初旬だった。その頃のブログに書いたとおり、俺は死にかけたことがある。かみさんを喪って自暴自棄になっていた俺は、酒に溺れていた。毎日、ストレートで焼酎を飲んでいた。二日間で一升瓶がカラッポになるペースで飲んでいた。そんな暮らしを数年続
かみさんが亡くなってから、それなりの時間が経過した。暦だけを見れば、それは長い時間だったと言えるだろう。それなのに、俺には「長い時間だった」という実感がない。まるで昨日のことのようだ…なんて言うつもりはないが、ごく最近のことのように感じられてしまう。かみ
産まれた瞬間から、ずっと安全な場所にいたのだろう。すべてが「思いどおり」になって、満たされないことは一つもなかったのだろう。そんなふうに生きてきたならば、人生は楽しいだろうし、世界や人間を肯定できるに違いない。そういう人々からすれば、周囲の人間が自分の「
かみさんが死んじゃった。かみさんがいなくなっちゃった。俺は”ひとりぼっち”になってしまった。ひとりぼっちは、とても淋しい。だからと言って、誰でもいいから寄り添いたいとは思わない。また、誰でもいいから一緒にいて欲しいとも思わない。近づくだけで、不快になって
俺は大学生のときに家出した。実母からの言葉の暴力に耐えられなかったからだ。俺は自分で学費を稼ぎ、生活費や家賃も稼いでいた。家出と同時に、俺は家族を失った。俺は“ひとりぼっち”になったのだ。だが、心細くなんてなかった。むしろ実母との縁を切り、嫌な思い出しか
たぶん俺が幼稚園生だか小学校低学年だった頃だ。父方の祖母が言っていた。神様に“お願いごと”をするのはいいけれど、仏様に“お願いごと”をしてはダメなんだよ。その理由は分からない。だが、その言葉を聞いたとき、俺は軽い衝撃を覚えた。幼少期の俺にとって、神様も仏
毎晩6時に退社する。残業になれば別だけど、それは週に一回から二回程度であって、たいていは6時に家に向かう。そもそも管理職になってからは、残業することがほとんどない。退社してから就寝するまでの間。俺は本当に“ひとりぼっち”だ。途中で夕飯と酒を調達する。そし
現在1月7日の午前7時12分。インフルエンザの発症(12月27日)から12日が経過した。とっくにインフルエンザは治っているだろう。事実、熱は下がっている。だが、相変わらず咳や痰が止まらない。腹は減るのに食欲がない。倦怠感(身体のダルさ)も耐えがたい。そして、なにより
身体がダルい。全身のあちこちが痛む。頭の中がボンヤリしている。いつだって憂鬱だ。かみさんを亡くした悲嘆もあるんだろう。だが、多分それだけではない。恐らく老化も原因のひとつだ。生まれてから今日までの間、使い込んできた精神と肉体とにガタが来ているのだろう。無
かみさんが元気だったころ。俺は「あの世」や「死後の世界」なんて信じていなかった。正確に言えば、「信じていなかった」というより「まったく興味がなかった」のだ。俺にとっては「この世」がすべてだった。何故なら「この世」は最高に楽しくて、最高に幸せで、最高に面白
自分だけのためならば、人間は大して頑張ることができない。途中で頑張ることに疲れてしまい、「もう、この程度でいいや…」と妥協してしまいがちだ。でも…ときに人間は、自分の限界を超えることがある。限界を超えて頑張れることがあるのだ。この世界に守りたい人がいる。
現在1月3日の午前9時23分。自宅のリビングでブログの記事を書いている。インフルエンザの発症から8日が過ぎた。もういい加減に体調が回復してもいい頃だ。確かに熱は下がった。だが、咳や痰が止まらない。なによりも辛いのは倦怠感(身体のダルさ)と食欲の無さだ。寝ていて
朝目覚めると、そこにかみさんはいない。家の中にいるのは俺だけだ。動くものは何もなく、音を発するものも何もなく、温もりを感じるものも何もない。かみさんが死んだ…という現実を再認識し、俺は深く落ちていく。すべてが静止している。空気が凍りついてしまったかのよう
そうして俺は”ひとりぼっち”になった ~インフルエンザ6日目~
現在1月1日の午後3時33分。自宅のリビングでブログの記事を書いている。38度6分まで上がった熱は、36度6分まで下がっている。だが、いまだに咳や痰は抜けていないし、食欲がまったく無い。倦怠感(全身のダルさ)が半端じゃなくて、一日のほどんどを寝っ転がっている。しかし
2010年。かみさんが亡くなった年だ。この年の正月。例年通り、かみさんと俺は、北海道にあるかみさんの実家に遊びに来た。かみさんは元気だった。本当に元気で、楽しそうだった。癌になっているなんて、これっぽっちも感じることはできなかった。かみさんに誘われるまま、俺
現在12月30日の午前7時08分。昨日のとおり、自宅のリビングでブログの記事を書いている。38度6分まであった熱は、36度9分まで下がった。インフルエンザは快方に向かっているらしい。だが、鼻が詰まっているくせに鼻水が垂れてくる。咳が止まらず、痰が切れない。食欲がない。
現在12月29日の午前4時40分。早朝ではあるが、自宅のリビングでブログの記事を書いている。インフルエンザの症状は、次第に軽快してきた。38度6分まで上がった体温は、37度1分まで下がっている。鼻詰まりも治ったようだ(鼻水は垂れてくるけれど)。だが、倦怠感(身体のダル
現在12月28日の午前11時51分。自宅のリビングでブログの記事を書いている。昨日の記事に書いた通り、俺はインフルエンザに罹患した。そのせいで、俺は北海道(かみさんの実家)に行くことができず、”ひとりぼっち”で年末年始を迎えることになった。どんなに惨めな日々を送
現在12月27日の午後8時22分。本当ならば、俺はそろそろ札幌(かみさんの実家)に到着しているはずだった。だが…俺は今、自宅にいる。北海道に向かうことができなかったのだ。今朝の6時ごろ。少しダルいな…と感じた。俺は体温計で熱を測った。結果は37度1分。微熱だったので
現在12月26日の午後11時37分。いつもと違い、深夜の自宅でブログの記事を書いている。あと20分ほどで27日になる。仕事納めの日が近づいている。11月27日の早朝。俺はいつものとおり出勤するだろう。そして、いつもとは違い、大きめのカバンに着替えを詰めて、俺は職場に向か
世界でいちばん大切な人を喪えば、誰だって悲しい。その悲しみは、あまりにも激しくて、遺族の心と身体を切り刻み、生きる気力を削ぎ落す。愛する人の死とともに、半身を失って、心にポッカリ穴が開き、周囲の世界が自分から遠ざかってしまう。幸せで、平穏で、笑顔の絶えな
現在12月24日の午前7時12分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日はクリスマス・イブだ。心なしか世間の空気が軽い。かみさんが元気だったなら、二人で美味しい食事と美味しいお酒を楽しみながら、賑やかに会話を楽しんだことだろう。だが、“ひとりぼ
かみさんが元気だった頃の記憶。かみさんと一緒に暮らしていた頃の記憶。それらはとても幸せで暖かい。だが、かみさんとの記憶が胸を締め付けることもある。幸せで楽しかった想い出ばかりだが、それでも俺の胸を抉るのだ。夫婦二人でどこかに出かけたときを想い出す。もう一
かみさんを喪ってから。俺はとても悲しかった。気が狂ったかのように悲しかった。身を引き裂かれたかのように悲しかった。その激しい悲しみが、将来、どう変化していくのだろう…なんて考える余裕はなかった。いつになれば悲しみが消え去るのだろう…なんて考えても見なかっ
仕事が終わって会社を出ると、最寄りの駅まで足早に歩く。道の途中、俺は必ずかみさんに「帰るコール」をする。かみさんが、「もしもし プーちゃん? 帰ってくる~?」と電話に出てくれる。俺は「今から帰るよ」と応える。「今日の夕飯は○○だよ~」、「気をつけて帰って来
このブログの中で、俺は何度も書いてきた。単調で、退屈で、抑揚のない余生が辛い…と書いてきた。そうだ。かみさんが死んでしまった。俺は“ひとりぼっち”になってしまった。それ以来、俺の人生から喜びや楽しみが消え去った。なんのアクセントもない日々が、ダラダラと続
かみさんが亡くなったのは、俺が41歳のときだった。まだ40歳を過ぎたばかりの頃だったのだ。当然、同世代の人々(友人や知人)の中に、俺と同じ体験をした人は一人もいない。それどころか50歳代や60歳代の知人の中にも、配偶者を亡くした人は一人もいなかった。そんな状況の
かみさんが亡くなった。俺はいちばん大切なモノを失った。いちばん大切なモノを失えば、二番目に大切なモノがいちばんになる…というほど単純なものではないらしい。いちばん大切なモノを失うと、二番目以降に大切だったモノも「どうでもよくなってしまう」のだ。俺はかみさ
昨晩のこと。俺はかみさんの夢を見た。夢の中。俺は布団に横たわっていた。俺の左側に何かある(何かいる)。覗いてみると、かみさんだった。あれ?死んじゃったはずなのに、何故かみさんがいるんだ?とは思わなかった。俺は、ごく自然に「かみさんが横にいる」という状況を
土日や祭日はどうしようもない。休日の空虚さに耐えられない。無駄に時間はあるくせに、やりたいことが何もない。話し相手もいやしない。どうやって時間を潰したらいいのか分からず、途方に暮れてしまう。あんまりにも退屈だ。あんまりにもつまらない。心は鬱々と沈み込んで
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かみさんが息を引き取った瞬間だった。周囲の世界が現実感を失って、俺から遠ざかっていった。手を伸ばせば触れることはできたのかもしれないが、すべてが質感のないホログラムのように見えていた。周囲と俺との間を透明な壁が塞いでしまった。そして俺は、壁の外側に排除さ
俺が41歳のとき。かみさんが亡くなった。俺は自分の人生も終わった…と思った。約20年間の幸せで、楽しい日々が終わってしまった…と思った。これからどうやって生きていったらいいんだろうか。想像する未来は、あまりにも暗くて、あまりにも重たくて、あまりにも寂しかった
かみさんと俺は、仲の良い夫婦だったと思う。そう思っていたのは、俺たち二人だけではない。俺と同期で入社した女性は、俺たち二人のことを「私にとって、理想の夫婦像」だと言ってくれた。また、かつて俺と同じ部署にいた女性は、「仲の良い夫婦は似てくるって言うけど、二
ある“風景”を見ていた。それは、とても”きらびやか”で”華やか”だった。俺は気がついた。この“風景”は、かつて俺の傍らにあり、いつでも見たいときに見ていたものだった。他でもない。以前は俺自身のモノだった“風景”なのだ。それなのに…今の俺は、この“風景”を
辛いなぁ…と呟きたくなることがある。もしも呟けば、なんで辛いの?と聞いてくれる人も多いだろう。だが、そこで何と応えればいいんだろうか。俺は迷ってしまう。花粉症で目が痒くて辛いんだよ…だとか、膝が痛くて辛いんだよ…と応えれば、大変だよねぇ…という答えが返っ
かみさんがいなくなってから。良いことなんて、めったに起こらなくなった。それは仕方のないことかもしれない。俺にとっての良いことは、いつでもかみさんと共にあったのだ。些細なことであろうとも、かみさんと一緒にいるだけで、それはとても良いことに感じられた。良いこ
とてもゆっくりではある。しかし、その歩みは着実だ。次第に自分の心と身体が弱っていくのが分かる。とりわけ気分や体調の悪い日には、「死」を身近に感じる。それは決して陰惨なものではないし、恐怖の対象でもない。むしろ甘美で柔らかい何ものかなのだ。自分の最愛の人の
かみさんが元気だった頃。朝目覚めると、かみさんはいつだって俺の横にいた。かみさんと目が合った。かみさんと俺は、自然と笑顔になった。寝室を出ると、俺は出勤の準備だ。その間、かみさんは“おしゃべり”をしながら朝食や「愛妻弁当」を作ってくれた。俺たち夫婦はバタ
かみさんが眠るように息を引き取った瞬間。俺は「すべて」が終わったと思った。俺の心に、大きな穴がポッカリと開いた。何かが俺の中から欠落してしまったのだ。俺は悲しみとともに、呆然と立ち尽くした。穴は依然として俺の中にある。何かが足りないのだ。何かが決定的に欠
全身がダルい。強い不安感で居たたまれない。つまらない。あまりにも退屈だ。ツラい。とても苦しい。寂しい。そして悲しい。時間が経つと、今より良くなるなら堪えてみよう。努力をすれば、今より良くなるなら我慢しよう。だが、事態が好転する見込みがないのだ。明るい未来
毎週末の土曜日のこと。俺が休日出勤をしない限り、かみさんと俺は、何時間も散歩をしていた。他愛のない会話をしながら、二人でのんびり遠くまで歩くのが好きだった。散歩の終わりには、どこかのレストランや居酒屋に入った。よく冷えたビールなんかを飲みながら、美味しい
かみさんが元気だった頃。かみさんの隣は空気が軽くて明るくて、暖かかった。俺はかみさんの賑やかな声に耳を傾けていた。その結果、俺の意識はいつでも外の世界に向けられていた。外の世界が俺を受け容れてくれた。とても気持ちが良くて、安心することができた。かみさんの
いったい俺はなんのために生きているんだろうか…かみさんが亡くなってから、ずっと俺が囚われている疑問だ。なんの喜びもないのだ。なんの楽しみもないのだ。なんの生きがいもないのだ。死なないから生きているだけ。痛みも苦しみもなく、眠るように逝けるなら、こんなに幸
以前「闘病記」に書いたことがある。かみさんは、自分の病が治ると信じていたにも関わらず、入院中に二回だけ泣いたことがあるのだ。いずれの時も、かみさんは同じことを言っていた。プーちゃんを遺して死にたくない…プーちゃんを遺して死ぬのはイヤだ…死ぬのが怖い…と言
俺の義父(かみさんの親父さん)は小学校の先生だった。焼酎と釣りが大好きで、とても包容力のある優しい人だった。俺の義母(かみさんのお袋さん)によれば、かみさんは父親似の性格だったらしい。義父は俺をとても気に入ってくれた。まるで本当の息子のように俺を受け容れ
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦の朝は賑やかだった。目覚まし時計が鳴ると、二人は同時に目を覚ました。すると、かみさんと俺の目が合った。かみさんは俺を見て笑顔になってくれた。俺もかみさんを見て笑顔になった。寝室から出ると、かみさんは朝食を作ってくれた。そ
初めから死にたかったわけではない。幼少期に両親から虐待されようと、何度も実母から殺されかけようと、それでも俺は生きていたかった。皮膚を引き裂かれ、内臓を食い破られた。自尊心を破壊され、心を殺された。それでも俺は、死にたいとは思わなかった。当時の俺の周りに
かみさんが闘病していた時期のこと。ひょっとしたら病気が治るかも知れないと思っていた。どうか治してあげてほしいと全力で祈っていた。かみさんが俺の横で笑っていた。かみさんと一緒にいる全ての瞬間が愛おしかった。あの時期には、まだ希望があった。だが、かみさんは俺
かみさんが亡くなってから。それなりの年月が経過した。あの日以来、俺は“ある疑問”に取りつかれ、その疑問の回答はいまだに得られていない。その疑問。それは「なんのために俺は生きているのだろうか」という疑問だ。かみさんがいなくなった。かみさんと一緒に過ごす日々
日本では、年間に約7万人が「孤独死」をしているそうだ。そのうち8割は男性が占めている。孤独死する人々には、いくつかの共通点があるという。① 配偶者との離別や死別によって、“ひとりぼっち”で生活していること、② ほかに家族がいないこと、③ 近所付き合いがな
かみさんが死んじゃって悲しい。かみさんがいなくて寂しい。悲しみも寂しさも、俺の中にドッカリと居座っていて、心も身体も重たい。頭を掻き毟りながら、大声で叫びたいほどの感情に振り回されて、もだえ苦しんでいる。そんな時、泣いてしまうのが一番良いと聞いたことがあ
今回の記事は、支離滅裂だ。文章の構成なんてメチャクチャだ。ただ、かみさんに伝えたいことがあって、想いつくままに書きなぐった。・・・俺は生まれてからずっと、真っ黒で、真っ暗な世界を生きてきた。生まれた時からずっと、世界が嫌いで、人間が嫌いで、人生が嫌いだっ
周囲の世界と俺との間には、見えない壁がある。とても高くて厚い壁だ。その壁が最初に作られたのは、かみさんが癌と診断された直後だった。当初、壁のこちら側には、かみさんと俺がいた。かみさんと俺は、二人寄り添って、お互いを守ろうと必死だった。俺はかみさんを、かみ
プーちゃんも一緒に…20年以上一緒に暮らしている中で、俺は、かみさんの口から何度もこの言葉を聞いた。プーちゃんも一緒に…この言葉は、かみさんの口癖のようなものだった。・・・かみさんが美味しいものを食べていると、俺にも食べさせてあげたいと想うのだろう。かみさ
会社は現在、繁忙期だ。残業も多く、終電に乗れない日も少なくない。そのせいで、身体を酷使してしまったらしい。疲れが取れないのだ。全身が痛いのだ。かみさんが元気だった頃。午前様での帰宅は頻繁にあった。辛くはなかった…と言えば、それは嘘になってしまう。だが、た
早朝5時過ぎには目が覚める。今日も一日が始まってしまったのか…と深いタメ息をつく。身体がとてもダルいので、会社を休んで寝ていたい。それでも俺は、身体を起こし、かみさんの仏前に座る。ローソクに火を灯し、かみさんに線香を手向ける。かみさんの位牌を見つめている
母方の祖父、小学1年生の時のクラスメイト、そして実の父親。高校2年生の時の友だち、父方の祖父、そして義理の父(かみさんのオヤジさん)。その後、父方の祖母、母方の祖母…かみさんの生前、俺は身近な人との死別を何度か体験してきた。彼らや彼女らが亡くなったとき、
かみさんが亡くなってから数日後。かみさんのお通夜と告別式を終えた。最後まで俺の傍にいてくれた義理の家族たちも帰っていき、俺は”ひとりぼっち”になった。誰もいない自宅の中だ。俺はかみさんの位牌と骨壺の前に座り、思いっきり泣いた。ああいうのを慟哭というのだろ
松葉杖をついている人。高齢のおじいちゃんやおばあちゃん。小さな子どもを抱いた若い母親。妊娠中の女性。この人は守ってあげなきゃいけない。この人を助けてあげなきゃいけない。電車の中で見かけたら、席を譲ってあげるはずだ。そんなふうに思うのは、誰から見ても、相手
新年度が近づいている。人事異動の季節だ。部下の数名が転出し、数名の新しい部下を迎えることになる。そんなこと、入社してから何度も経験してきたことだ。そもそも俺自身だって何度も異動してきた。一緒に仕事をしてきた同僚が転出していくからって、別に寂しくはない…と
かみさんが死んでしまった。俺の最愛の人が死んでしまった。世界でいちばん大切な人が死んでしまった。俺の足元が崩れ去った。周囲の世界が俺から遠のいた。俺は精神を病んだ。俺は引きこもりになった。引きこもっていた期間は、決して短くはない。その間、周囲は俺に追いつ
仕事が終わって退社する。部下たちと別れ、ひとり家路に就く。すると、ちょっぴり淋しくなって、気分が重くなってしまう。1時間ほどで家に着く。かみさんがいない。家の中は真っ暗で、静まりかえっている。静寂に耐えられない。とても淋しい。底冷えするような淋しさだ。涙
かみさんが亡くなった。あれほど悲しい出来事はない。俺は自分の人生に絶望し、自暴自棄になってしまった。それ以来、俺は酒に溺れている。一度は死にかけたこともある。その後、しばらくは断酒をしていたが、自暴自棄になった者が、断酒を継続できるはずもない。俺は再び酒
かみさんがいなくなった。俺は自分のいちばん大切なモノを失ってしまった。俺は生きる気力を失った。その後の数年間、何にもやる気がしなかった。やりたいことが無くなってしまっただけではない。やるべきこともできなくなってしまったのだ。このままではダメになってしまう
伴侶もいるし、子どもだっている。家庭という最も大切なモノを持っている人は、みんなとってもパワフルだ。俗っぽい欲望をたくさん抱えている。それを隠そうともしない。その欲望を満たすためならば、周囲の人々を自分の踏み台にしてしまうことも厭わない。自分の欲望を満た
今さら気がついたのか?と言われてしまいそうだ。しかし、実際のところ、今さら気がついたのだ。過去から未来に流れる時間軸の中において、俺は過去ばかりを見つめていることに気がついた。一方、周囲の人々は「未来」について語っている。明日のこと。次の週末のこと。ゴー
かみさんは、俺と義母(かみさんのお袋さん)に看取られて逝った。義母は咽び泣いていた。俺は茫然としていた。だが…かみさんは綺麗な笑顔を浮かべていた。その亡骸は、うっすらと輝いているようだった。遺された俺は、深くて大きな喪失感で、心も身体も崩れてしまった。そ
たぶん俺は誤解されている。とりわけ会社の部下たちには、大きな誤解をされている。俺はそんなに明るい奴ではない。俺はそんなに良い奴でもない。だが、部下たちは俺が「普通の人」だと思っているらしいのだ。なぜ誤解されたのだろう。会社では明るく振る舞っているからだろ
世界中でいちばん大切な人が死んでしまった。あまりにも悲しい。気が狂ってしまいそうだ。しかし…時間が経つにつれ、遺族は亡くなった人を忘れていく。かつては、そんな人がいたよな…という記憶は残っても、悲しみは薄れていき、やがては消えてしまう。それは、ごく自然な
かみさんが亡くなってから、それなりに時間が経った。それなのに、いまだに熟睡できない日が少なくない。昨晩も熟睡できなかった。悪夢を見て、夜中に目が覚めた。時計は確認しなかったが、おそらく午前2時頃だっただろう。目覚めた俺は、強い疲労感を覚えた。疲れが全く取