かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
早朝5時半には起床する。俺はかみさんの仏前に座る。そして、かみさんに線香をあげる。かみさんの位牌と遺影を見つめ、俺はかみさんに想いを馳せる。その後、俺はかみさんに朝のお供えをする。再び線香をあげる。かみさんの遺影を見つめ、無理やり笑顔を作ってみるが、遺影
最愛の伴侶を亡くした後も、遺族たちは生きていかなければならない。後を追いたいと思っても、そう簡単に死ねるもんじゃないからだ。たまには夫婦が同時に亡くなるケースもある。また、一方が亡くなってから間もない時期に、もう一方が後を追うように亡くなるケースもある。
朝はスッキリ目が覚めた。かみさんと目が合って、お互いにニッコリと笑った。そして「おはよう」と声を掛け合った。目が覚めると、すぐにエンジンが掛かった。頭はフル回転し、身体は活力に充ちていた。テキパキと洗顔し、かみさんが作ってくれた朝食を摂り、スーツに着替え
平成22年5月27日のこと。当時、かみさんは「癌研有明病院」に入院していた。この日、抗がん剤での治療が始まった。治療開始は午前11時過ぎ。最初に「吐き気止め」の薬の点滴が行われた。その副作用で、かみさんは眠ってしまった。約2時間後の午後1時過ぎ、かみさんが目を覚ま
かみさんが亡くなってからの数年間(たぶん約7年間)。俺は、時間があれば「死別」という言葉でググっていた。死別の悲嘆から立ち直る方法を探していたわけではない。いつになったら元の自分に戻れるかを知りたかったわけでもない。最愛の家族を喪って、何をどうしたらいい
現役世代である限り。会社には行かなければならないし、人付き合いもしなければならないし、仕事にも追われなければならない。だが…俺の中には、そんなエネルギーは残っていない。だからと言って、「普通の人」として生きていかざるを得ない以上は、どこかから必要なエネル
鬱がひどいわけではない。強い不安感があるわけでもない。あくまでも比較的にだが、今日は精神的に安定しているようだ。こういう日はめったにない。できれば一日、穏やかに過ごしたいと思っている。だが…突然、かつての記憶が蘇ってくる。それは、かみさんが癌だと診断され
かみさんが亡くなってから。俺の「予感」はよく当たるようになった。とりわけ悪い予感ほどよく当たる。かみさんが元気だった頃ならば、予感なんて信じてはいなかった。そもそも予感なんてものを持ったこともなかったような気がする。かみさんが癌だと診断された日も…恐ろし
かみさんが亡くなってから1ヶ月。俺はまったく眠れなかった。全身を引き裂かれたような悲しみで、俺は朝まで泣き叫んでいた。あるいは朝まで咽び泣いていた。俺は心療内科を訪れた。主治医は抗鬱剤、精神安定剤、睡眠導入剤を処方してくれた。だが、病名は告げられなかった
周囲に誰もいないとき。俺は「独り言」をつぶやくことが少なくない。独り言は、いつでも同じだ。俺は「帰りたい…」とつぶやくのだ。眉間に皺を寄せ、全身を緊張させながら、深いタメ息をつき、腹の底から「帰りたい…」という声を絞り出すのだ。このことは、以前このブログ
かみさんが癌だと診断されて、医師から「余命は年単位ではない」と告げられたときだった。俺の頭から血の気が引いた。全身の筋肉から力が抜けた。俺の人生も終わったな…と思った。だが、かみさんの前では明るく振る舞わなければならない。かみさんに「余命は年単位ではない
金曜日になるとホッとする。クソ忙しい日々から解放されて、二日間はゆっくりできるからだ。自宅に帰ると仏壇の前に座り、かみさんに線香をあげる。着替えを済ませ、かみさんに夜のお供えをする。その後はひたすらウィスキーを飲む。テレビは面白くないが、酒のおかげで解放
どうやら俺は勘違いをしていたらしい。人の一生は「右肩上がり」だと思い込んでいたのだ。今日は昨日より良い日だろう。明日は今日より良い日に違いない。そんな幻想に囚われた原因は、俺自身の半生にあるような気がしている。・・・俺と俺の妹は、両親から虐待されて育って
俺を作った男は、酒を飲むと荒れる人だった。普段は優しいのだが、酔っぱらうと幼少期の俺をぶん殴っていた。その男は俺が16歳の時にくたばった。いわゆる突然死だった。俺を産んだ女は、変質的な異常者だった。俺を作った男、俺の妹、そして俺の3人に言葉の暴力を振るって
あの世って、あると思う?死後の世界って、あると思う?そう聞かれたら、大概の人は「無いと思う」とか、「あるわけないじゃん」って答えるんだろう。事実、「死後の世界」で検索すると、「死後の世界があるとか言ってる奴、全員論破する」なんてサイトも出てくるくらいだ。
たった一人の家族を喪った。俺は“ひとりぼっち”になってしまった。ひとりぼっちは寂しい。ひとりぼっちだと不安になってしまう。とりわけ将来が不安だ。孤独死する覚悟はしているが、死ぬまでの老後が不安なのだ。もはや年金や貯金、退職金等だけでは悠々自適の老後は送れ
かみさんが亡くなってから、それなりに時間が経過した。それなのに、なぜ今でも悲しいのだろう。なぜ今でも寂しいのだろう。いまだに俺は、かみさんの死に慣れることができない。かみさんと出会う前。俺は数人の女性と交際した経験がある。彼女たちと別れた後は、イライラし
早朝5時半には寝床を出る。家の中は真っ暗で、静まりかえっている。そして誰の気配も感じない。すべてが静止している。まるで空気までが動きを止めてしまったかのようだ。そうだ。かみさんはいないのだ。俺は“ひとりぼっち”だ。悲しいというよりも寂しい。寂しさに注意を
相変わらず熟睡できない日々が続いている。昨晩(日曜日から月曜日にかけて)は午後10時すぎに就寝したが、朝まで一睡もできなかった。睡眠導入剤を飲んでも眠れない。当然、疲労を残したままで出勤している。眠れない理由は、まったく分からない。心療内科で主治医に相談
この世界の中では、さまざまなことが起きている。この世界の人々は、さまざまな言動をしている。それらは漠然とした基準だが、「善」と「悪」に分けられる。二分法によって世界を認識すること。そういう習性が、われわれ人間には備わっているのだろう。善には報酬を。悪には
仕事が終わって帰路に就く。地下鉄のホームで電車を待っている間、俺は自宅に「帰るコール」をする。かみさんが電話を取る。おしゃべりが好きなかみさんは、夕食のメニューや、その日にあったことを語り始める。電車が来るまでの間、かみさんのおしゃべりに付き合う。彼女の
かみさんがいない。たった一人の家族がいない。それなのに、周囲の人々には家族がいる。俺たちだけが孤独だ。俺たちだけが“ひとりぼっち”だ。とても淋しくて心細い。自分の存在がしぼんでいくみたいだ。自分の身体の芯が凍えるみたいだ。淋しいだけではない。かすかに恐怖
俺の友人たちには夫や妻がいる。俺の部下たちにも夫や妻がいる。また、子どものいる人々もいる。もちろん独身の人がいないわけではない。夫や妻はいるけれど、家庭内別居という人もいる。いろんな人がいるけれど、俺の周囲に夫や妻を亡くした人はいない。もちろん高齢の方々
日本では、年間に約7万人が「孤独死」をしているそうだ。そのうち8割は男性が占めている。孤独死する人々には、いくつかの共通点があるという。① 配偶者との離別や死別によって、“ひとりぼっち”で生活していること、② ほかに家族がいないこと、③ 近所付き合いがな
断片的にではある。しかし、産まれてから物心がついて以来の記憶は、確かに俺の中に残っている。楽しい思い出なんて、ひとつもない。嬉しい思い出なんて、ひとつもない。幼少期以来、自分は安全なところにいなかったからだ。そこには忌まわしい体験の記憶だけが残っている。
目覚めた直後。俺は自分が深く落ち込んでいることに気が付いた。とても哀しかった。とても淋しかった。そして、深い後悔の念にも取りつかれていた。この気分には、直前まで見ていた夢の内容が反映していたのだろう。忘れてしまった夢でありながら、それは俺の中に深い「影」
誰もが死にたくないと思っているわけじゃない。本気で死にたいと思っている奴もいるんだ。ブログで死にたいと呟けば、「こいつは同情を買おうとしているだけだ」と解釈されて、コメント欄を荒らされることも少なくない。また、死にたいと呟く人々を嘲笑するためだけに、わざ
かみさんが亡くなってから数年後。俺は某医療系大学の准教授から、「複雑性悲嘆」と診断された。その当時のことだった。ある女性(Kさん)が俺に言った。死別することで得られるモノだってあるんだよ。死別なんて大したことじゃないんだよ。私の方がアンタなんかより、よっ
かみさんが元気だった頃。俺は自分を大切に生きていたはずだ。自分の心や身体だけではない。一つひとつの言葉、一つひとつの行動、すべてを大切に生きてきたはずだ。だが、かみさんを喪ってしまい、俺は自暴自棄 (やけくそ)になった。そのせいだ。俺はいろいろなモノを壊
夫にとって、妻の役割ってなんだろう。俺にとって、かみさんの役目ってなんだろう。食事の支度をしてくれること?洗濯や掃除をしてくれること?その他、家事全般を引き受けてくれること?違うような気がする。妻にとって、夫の役割ってなんだろう。かみさんにとって、俺の役
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かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
6月13日と14日。土曜日と日曜日で、仕事は休みだった。いずれの日も朝6時に目が覚めた。これまでであれば、目覚めた直後から酒を飲んでいた。カラッポの胃に流し込むウィスキーは、効果てきめんだった。すぐに酔いが回り、数時間後には意識を失った。しばらく眠った後、不快
平成22年の6月17日。かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと。かみさんが俺に言った。めぐりあえて良かった・・・・・・かみさんは、俺と出会えて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺と一緒に暮らしてこられて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺とともに人生
この記事をスマホで書いている現在。6月14日の午前4時19分である。自宅のバルコニーから空を見上げている。どうやら晴れているらしいのだが、薄暗くて判然としない。まだ「日の出」の前のようだ。空が暗いからだろうか。それとも疲労が溜まってきたからだろうか。あるいは脳
インドで旅客機が墜落したとのニュースが流れていた。離陸してから、わずか30秒後の墜落だったらしい。乗客は242人だった。昨晩そのニュースを見たときは、乗客全員が亡くなったのだろうな…と思った。しかし、翌朝のニュースでは、イギリス人の男性1人が生存していたとのこ
毎朝5時半くらいに目が覚める。かみさんの生前とは違い、スッキリ目覚めることはない。頭の中に霞が掛かっているかのようだ。全身の血液がドロドロになっているみたいだ。心が奈落に堕ちてしまったかのようだ。かみさんが亡くなって以来。目覚めた瞬間の爽快感がなくなった
俺はかみさんを喪った。たった一人の家族を喪った。自分の家庭を失った。そして…最愛の人を亡くしてしまった。祖父母とも死別した。実父とも死別した。叔父や叔母の中にも若くして亡くなった人がいる。同年代の友人も、何人か死んでしまった。だが、かみさん以外の人々との
かみさんが俺の隣にいない。周囲を見渡しても、かみさんの姿は見えない。かみさんは、どこに行ってしまったんだろう…俺はとても動揺した。だが、かみさんはどこかにいるはずだ。かみさんが生きていることを感じる。かみさんの息づかいと気配を感じる。すると俺は気がついた
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は
まだまだ、やりたいことがたくさんあっただろう。見たいものだって、たくさんあったはずだ。聞きたいものだって、たくさんあったはずだ。食べたいものも、たくさんあったはずだ。行きたいところも、たくさんあったはずだ。死ぬということは、これらをすべて断念せざるを得な
現在6月14日の午前7時37分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。ここ2日ばかり、睡眠障害が悪化している。以前から悪化していたが、それ以上に悪化してしまったのだ。毎晩、睡眠導入剤を飲んでから寝床に入っている。だが、1時間半ほどで目が覚めてしま
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、自分たちの「死期」について、何度か語り合ったことがある。かみさんは、いつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね…二人で一緒に死ねたらいいね…俺は笑顔で応じた。そうだね…仲良く暮らしてきた二人。これからも仲良く暮ら
6月27日は、かみさんが俺を遺して逝った日だ。現在6月12日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。21日には、義母と2人の義弟が北海道から上京してくれる。22日の土曜日には、俺と一緒にかみさんの墓参りをしてくれることになっている。かみさ
ふとした瞬間、かみさんを想い出す。かみさんの満面の笑顔。かみさんの明るく元気な声。かみさんの仕草。かみさんと交わした何気ない会話。想い出した瞬間、俺はほんのりと幸せな気持ちになれる。かみさんと散歩をしたこと。かみさんと旅行を楽しんだこと。かみさんと食事を
先日のブログに書いたとおり、ここ最近、ずっと熟睡できていない。夜中の2時とか3時半とかに目が覚めて、その後は朝まで眠れない日々が続いている。そのせいだろう。いわゆる「睡眠負債」が貯まっているらしい。週末の日曜日のこと。いつものとおり、午前3時に目が覚めた