かみさんが元気だった頃。かみさんと俺は、毎年のゴールデンウィークに北海道に行った。ゴールデンウィークと年末年始は、かみさんの実家で過ごす。それは、俺たち夫婦の習慣だった。その習慣は、かみさんが亡くなってからも変わっていない。俺はコロナ禍の一時期を除き、ゴ
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
心が重たい。情けなくて涙が出そうになる。身体がダルい。立っているのも辛いぐらいだ。たっぷり眠ったはずなのに、心身の疲れが取れていないのだ。寝床に就く直前。俺は時計を見る。すると「今日は6時間は眠れるな…」だとか、「今晩は7時間も眠れるのか…」と考える。眠
今日は令和5年4月26日だ。4月26日は、かみさんが癌だと診断された日だ。あの日以来、4月26日は俺にとって忘れることのできない日付になった。それはそうだろう。かみさんと俺が、地獄の井戸の底を覗いた日なのだ。毎年4月26日には、フラッシュバックに苦しめられる。かみさん
朝目覚める直前だった。いつものように、俺は悪夢を見ていた。仕事がクソ忙しいせいだ。毎朝見るのは仕事に追い詰められている夢なのだ。4月24日の月曜日。目覚めた後の気分は最悪だ。会社に行きたくないと思った。かみさんの仏壇の前に座り込み、朝から酒を飲んで現実逃避し
熟睡することができない。眠っている間は意識がないにも関わらず、心のどこかがザワザワしている。目覚めた直後の気分は、いつだって最悪だ。イヤな夢を見ていたようだが、どんな夢だったのかは思い出すことができない。かみさんが亡くなってから。俺は安心して眠ることがで
何度でも同じことを言う。俺は目が覚める瞬間が大嫌いだ。かみさんが亡くなってから最初の数年間。朝目覚めると、俺は周囲を見回してかみさんを探した。あれ? なんで容ちゃんがいないんだろう…疑問を抱いた次の瞬間だった。俺は気がついた。あぁ、そうだっけ…容ちゃんは死
昨晩は少しばかり早く帰宅できた。溜まった疲れを取るために、俺は早めに寝床に就いた。時間は夜の10時頃だった。朝までグッスリ眠れたら、少しは元気を取り戻すことができるだろう。だが、夜中に何度も目が覚めてしまった。睡眠導入剤を飲んだのに、2時間ほどで目覚めてし
ここ数日。ブログの記事が、愚痴ばかりになっている。仕事が忙しすぎて、ストレスが溜まっているせいだろう。身体には疲労が蓄積している。全身が重たい。呼吸が荒い。しかも、今朝からは胃が痛む。精神にも疲労が蓄積している。いつでも緊張感が抜けない。気が重い。数ヶ月
昨日の記事に書いたとおり、アフターコロナに入ったからだろうか。いくらなんでも、やらなきゃならないことが多すぎる。目の前に大きな山があり、それを越えなければならない。精神を磨り減らし、肉体を酷使して、ようやく大きな山を越えることができる。その後は少しばかり
3年間に渡るコロナ禍で、さまざまなモノが停滞していた。自粛だの、休止だの、時短だの、縮小だのという言葉を飽きるほど聞かされた。だが、今年に入って世間の空気が変わった。もはや第9波は来ないと思われている。コロナと共存していく日々が訪れたようだ。しかし、良い
生きていれば、さまざまな環境の変化を経験する。進学したり、クラス替えがあったり、卒業したりするだろう。社会人になって、異動を経験したり、転勤したりもするだろう。新しい友だちができたり、恋人ができたり、あるいは結婚したりもするだろう。これらの大きな変化だけ
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦には夢があった。目標もあったし、希望もあった。もちろん「今ここ」は幸せだった。だが、未来はもっと明るいと信じていた。明るく楽しい未来を実現するため、かみさんと俺は前向きに生きていた。明るい未来の中には、俺たち二人の「死」
現在4月15日の午前8時13分。いつもとは違い、自宅のリビングでウィスキーを飲みながら、ブログの記事を書いている。身体がダルくて仕方がない。おかげで気分も落ちている。そのうえ頭がボンヤリしている。老化のせいだろうか。それとも肝機能が低下しているせいだろうか。理
俺の部下の中に70歳前後の人が4人いる。いずれも正社員ではなく、非常勤の嘱託さんだ。そのうち3人のAさん、Bさん、Cさんは女性。あと1人は男性のXさんだ。先日、俺が会議で席を外していたときのこと。Xさんは仕事上の間違いをAさんから指摘された。AさんはXさん
何故だろう。ここ最近、いつでも緊張している。目が覚めても光を見るのがイヤで、ジッと目を閉じている。心がいつでもザワザワしている。情けない気持ちになって泣きたくなってしまう。ときおり死にたくなってしまう。何か悪いことが起きるんじゃないだろうか。何か辛い思い
俺はすっかり荒んでしまった。かみさんがいなくなり、“ひとりぼっち”の余生が長引くにつれて、俺はすっかり刺々しくなってしまった。普段は「明るく元気な課長さん」を演じているものの、心の中には疑心暗鬼や人間不信、憎悪や攻撃性が隠れている。それらは次第に密度が高
1日は24時間だ。これを3で割ってみる。すると8時間が3つできる。3つの8時間は、仕事をしている8時間、眠っている8時間、そして、自由に過ごすための8時間に分けられる。これは“おおざっぱ”な分類で、実際には8時間以上、仕事をしていたり、6時間しか眠れない
かみさんが元気だった頃。いちばん落ち着ける場所は自宅の中だった。かみさんが俺の隣にいて、かみさんのおしゃべりを聞き、かみさんが笑っているとき、俺は最も落ち着くことができた。なんの不安や脅威もなかった。とても穏やかで、とてもリラックスしていた。だが、今は違
グリーフワークだとか、グリーフプロセスという言葉がある。そこでは、伴侶やお子さんと死別してから、どのような心理的過程をたどり、どのように悲嘆から立ち直っていくかが示されている。だいたい3年から5年くらいで立ち直るのが「普通」であるとされている。そのせいか
それは確か、「あの日」からだったと記憶している。かみさんが癌だと診断された日だ。あの日から、俺たち夫婦は同じ想いを抱いていた。自分たち二人だけが、世間から「取り残されてしまった…」という感覚だ。空間と時間のいずれもが、かみさんと俺を置き去りにして遠のいて
年度始めの一週間が終わった。環境の変化に緊張しているらしく、疲労感が半端じゃない。まだ新しい部下たちにも慣れていない。だが、部下たちだって俺に慣れてはいないだろう。仕事に関わる報告や連絡、相談は頻繁にあるのだが、この一週間、雑談する機会は少なかった。自宅
身体に障害を持つ人々がいる。あるいは怪我をしていたり、癌などの病気で苦しむ人々がいる。彼らに対し、周囲は優しい。援助をしたり、配慮をしたり、共感や同情をしたりする。彼らが抱えているハンディキャップは、周囲の人々の五感(とりわけ視覚や聴覚)で捉えることがで
この世界は不条理だ。この世界は理不尽だ。運命はあまりに残酷だ。俺は十分に苦しんで生きてきた。妹とともに、両親から虐待を受けて育ったのだ。その結果、自尊心を破壊された。ある時期までは社会に適応できず、いつだって排除される側の人間だった。そうだ。俺はずっと苦
年度末から年度始めに掛けて。ツラい日々が続いている。身体のあちこちがギシギシと痛んでいる。心は折れそうで、逃げ出したくて仕方がない。だが、ギリギリのところでヤセ我慢をしているのだ。この時期にストレスに曝されるのは、俺に限ったことではない。サラリーマンなら
ピアニストで音楽家の坂本龍一さんが亡くなった。死因は直腸ガンだったらしい。ほんの少し前、一緒にYMOで活動していた高橋幸宏さんも亡くなった。かみさんは、お二人の音楽が大好きだった。小学生の頃から好きだったらしい。数年前には、若い女優さん(歌舞伎役者の元奥
仕事が終わって退社をすると、あらゆる人々との関係が切れてしまう。他愛のない会話をする相手は誰もいない。一緒に笑うことのできる相手も誰もいない。これは本物の孤独だ。街中や地下鉄の中には大勢の人がいるけれど、彼らは俺とは無関係だ。俺の歩行を邪魔する障害物にす
俺は1日に何度も呟いている。帰りたいな…と小声で呟いている。かみさんが亡くなってから、ずっと呟き続けているのだ。もちろん誰かに聞かれてしまったことはない。周囲に人がいないとき。俺が‘ひとりぼっち’になったとき。俺はタメ息をつきながら、「帰りたいな…」と呟
ずっと楽チンに生きてきた人々がいる。ずっと思い通りに生きてきた人々がいる。ずっと自分の「やらなければならないこと」の範囲を限定的に捉えてきた人々がいる。彼らや彼女らは、何もかもが自分の思い通りにならないと気が済まない。当然、何もかもが思い通りになるはずは
自分が他者から拒絶されるような気がする。自分が他人に受け入れてもらえないような気がする。それは大概、妄想にすぎない。だが、その妄想は確実に俺を拘束している。こんな妄想を抱くようになった理由はハッキリしている。俺が両親から虐待されて育ったからだ。自尊心が傷
かみさんが亡くなってから最初の数年間。俺は「あの世」や「死後の世界」を探していた。かみさんの生前は唯物論者だった俺なのに、かみさんが亡くなった途端、「あの世」や「魂」を探し始めた。俺はかみさんに会いたかったのだ。俺が死んだら、また彼女に会えるかどうかを知
かみさんがいない。俺には家族がいない。帰れる場所がない。寄りかかる所もない。だからだろうか。俺は今、強烈な不安感を抱えている。あまりに不安で目を開けていられない。光が怖いのだ。真っ暗になれば落ち着くかもしれない。だから俺は、布団に横たわり、しっかりと目を
3月27日の月曜日。偶然だけど、かみさんの月命日だ。目が覚めて時計を確認すると、午前3時28分だった。眠っている間に死んでしまうのが理想だが、俺は今日も生きていた。もう眠くはないが、起床する気にもなれない。俺は布団の中で丸まって、ジッと目を閉じ続けた。心がザワ
ある“風景”を見ていた。それは、とても”きらびやか”で”華やか”だった。俺は気がついた。この“風景”は、かつて俺の傍らにあり、いつでも見たいときに見ていたものだった。他でもない。以前は俺自身のモノだった“風景”なのだ。それなのに…今の俺は、この“風景”を
泣き叫ぶことが少なくなっていく。それにつれて、次第に気持ちは鎮まっていく。だからと言って、立ち直ってきたというのではないし、穏やかになってきたというのでもない。慟哭の日々が過ぎ去れば、鬱の毎日がやってくるのだ。鬱はとても不快だ。不快だとは思っても、それに
俺が41歳のとき。かみさんが亡くなった。俺は自分の人生も終わった…と思った。約20年間の幸せで、楽しい日々が終わってしまった…と思った。これからどうやって生きていったらいいんだろうか。想像する未来は、あまりにも暗くて、あまりにも重たくて、あまりにも寂しかった
3月21日の春分の日。菩提寺で春の彼岸会法要があった。かみさんにお経をあげてもらうため、俺はお布施を持って寺に向かった。タクシーで概ね30分。自宅から遠くはない。おかげで墓参りには行きやすい。寺に着いて、周囲を見回した。俺は少しばかり驚いた。墓参りに来ている人
昨晩、義弟(かみさんの弟)から電話があった。かみさんの叔母・Tさんが亡くなったんだそうだ。Tさん夫妻には子どもがいない。したがって、Tさんのご主人は俺と同じになってしまった。夫婦二人で仲良く暮らしてきたけれど、妻に先立たれてしまい、“ひとりぼっち”になっ
かみさんが元気だった頃。毎週土曜日の朝、俺はかなりの早い時間に起きていた。金曜日に深夜まで残業しようとも、俺は無理やり起床していた。休日出勤をする日はギリギリまで寝ていたが、そうではない土曜日は、早朝5時には起床していた。かみさんはまだ熟睡している。顔を
相変わらず体調の悪い日々が続いている。食欲もないし、倦怠感がハンパじゃない。呼吸は荒く、息切れがしている。心拍数がバカみたいに高い。ダルくてダルくて、週末は何度も昼寝した。それでも疲労が取れず、まだまだ眠り足りない。会社を休んで寝ていたいけど、やらなきゃ
自分が愛する人のためならば、何でもしてあげたくなるものだ。喜ばせてあげたい。楽しませてあげたい。望みをかなえてあげたい。笑顔にしてあげたい。幸せにしてあげたい。愛おしいという想いには、必ずと言っていいほど、それらの気持ちが付随する。それは、自分の愛する人
辛いなぁ…と呟きたくなることがある。もしも呟けば、なんで辛いの?と聞いてくれる人も多いだろう。だが、そこで何と応えればいいんだろうか。俺は迷ってしまう。花粉症で目が痒くて辛いんだよ…だとか、膝が痛くて辛いんだよ…と応えれば、大変だよねぇ…という答えが返っ
ものすごく辛いとき。死んでしまえば楽になる。かみさんがいた頃ならば、こんなことは思わなかった。俺たち夫婦は生きたかったからだ。生きることが大好きだったからだ。しかし…今は違う。辛いのならば逃げてしまえばいい。死んでしまえば楽になる。そう考えている。生きて
ここ数週間、いつにも増して気分が重い。特定できるような理由があるわけではない。ひょっとしたら、季節の変わり目のせいかもしれないし、人事異動の時期のせいかもしれないが、理由は自分でも判然としない。なぜだか心が萎えている。他人と関わりたくない。会社に行きたく
かつて未来には希望があった。かつて将来には夢があった。たくさんの障害はあるだろう。だが、それらをすべて乗り越えて、俺は理想に到達するはずだった。その時、かみさんは俺の横にいるだろう。かみさんは俺の横で笑っているだろう。夫婦ともに老けてしまったが、それでも
かみさんがいなくなってから。良いことなんて、めったに起こらなくなった。それは仕方のないことかもしれない。俺にとっての良いことは、いつでもかみさんと共にあったのだ。些細なことであろうとも、かみさんと一緒にいるだけで、それはとても良いことに感じられた。良いこ
最愛の人を亡くした方々ならば、「死別の二次被害」に遭ったことがあるだろう。伴侶やお子さんを喪えば、周囲の人々は、遺族の心を抉るような言葉を掛けてくる。もっと辛い人は他にいくらでもいる…だとか、死別なんて大した問題じゃない…だとか。俺もイヤというほど心無い
かみさんが亡くなって3年ほどが経ったころ。ある女性から、このブログに奇妙なコメントが書き込まれた。自分がいちばん不幸だと思うのは止めてください。伴侶を亡くした人なんて、いくらでもいます。アナタもそのうちの一人に過ぎません。こんなコメントを書く人だ。きっと
かみさんがいなくなってから、ずいぶんと時間が経った。とても長い時間が経ったはずなのに、いまだに俺は、かみさんのいない日々に慣れることができない。食事の支度に困ってしまうというわけではない。掃除や洗濯が面倒だというわけでもない。主婦としての役割を果たしてく
かみさんが元気だった頃。俺は仕事が大好きだった。成果を出せば評価された。評価されれば昇給も速く、昇進するのも速かった。まるでゲームを楽しむかのように、仕事を楽しんでいた。残業が多く、帰宅が午前様になることも多かった。いつでも身体はキツかったけど、それでも
かみさんが闘病中のこと。俺はかみさんの完治を願い、自分にできることは全てやり、そしていつかは夫婦二人の穏やかな日常を取り戻そうとしてきた。だが…俺たち二人の祈りは虚しく、かみさんは息を引き取った。その瞬間、俺の人生が終わった。全身の血液が凍りつき、俺は奈
かみさんが息を引き取った。俺の最愛の家族が亡くなった。それから数年間に渡り、俺は強烈な悲しみに振り回されていた。まるで巨大な台風や地震に襲われて、成すすべもなく翻弄されているかのようだった。身体の半分を奪われるみたいだった。心臓を引き裂かれるみたいだった
俺の周囲にたくさんの人がいる。名前も素性も分からない人ばっかりだ。この人たちは、いったい何のために生きているのだろう。おそらく目的もなければ意味もない。そうだ。死なないから生きているだけなのだ。死なないから「仕方なく」生きているという意味ではない。彼らは
街を歩いているとき。たくさんの人々とすれ違い、たくさんの人々を追い抜いていく。そんなとき、俺は切なくなって、哀しくなってしまう。自分が“ひとりぼっち”であることを痛感し、胸が抉られるような気がするからだ。行き交う人々の背後には、家族の影が見える。誰にでも
伴侶やお子さんを亡くした人にとって、死は身近でリアルで具体的だ。普通の人々であっても、いずれは自分も死ぬことを知っている。だが、それは遠い未来の話。彼らや彼女らにとっての死は、抽象的な「概念としての死」にすぎない。自分の死をリアルに想像することなどあるま
ふとした瞬間、俺は深いタメ息をつきながら、「還りたいな…」と呟く。呟いた直後に我に帰り、「俺はいったい、どこに還りたいんだろうか…」と不思議な気持ちになる。かみさんがいた頃に還りたい。これは偽らざる本心だ。だが、そんなことは不可能であることを、俺の理性は
かみさんが元気だった頃。かみさんの隣は空気が軽くて明るくて、暖かかった。俺はかみさんの賑やかな声に耳を傾けていた。その結果、俺の意識はいつでも外の世界に向けられていた。外の世界が俺を受け容れてくれた。とても気持ちが良くて、安心することができた。かみさんの
俺の実父は、俺が16歳、妹が14歳のときに心筋梗塞で亡くなった。入院はしていたが、死ぬような病気ではなかったので、まさに晴天の霹靂だった。実母は実父を喪った。亡くなってから1ヶ月ほど、実母は毎日、泣いていた。非常に仲の悪い夫婦であったが、やはり悲しいのだろう
かみさんが亡くなってから。それなりの年月が経った。つい最近のことだ。俺は自分の変化に気が付いた。かみさんが元気だった頃と、かみさんが亡くなった後との俺の変化についてだ。何年も前に気づいていても、おかしくないはずだった。それなのに、俺はつい先日まで気づいて
また真夜中に目が覚めた。時計を見ると、午前3時だった。いつものような不快な気分はなく、とても穏やかな目覚めだった。だが、いくら何でも早すぎる。俺は再び目を閉じた。半分だけ眠っているようなボンヤリした頭の中、俺の意志とは無関係に、さまざまなイメージが浮かん
男ヤモメの休日は、掃除や洗濯など最低限の家事から始まる。それが終わると、かみさんに線香をあげ、お供えをする。そして俺は途方に暮れる。夜までには、まだ時間がある。どうにかして時間をやり過ごさなければならない。だが、何をしたらいいのか分からない。かみさんが元
最愛の人を喪った哀しみは、大きな質量を持っている。大きな質量は時空間を歪め、巨大な重力場を形成している。潰れてしまいそうだ。崩れてしまいそうだ。しかし…重力に反発する力もあるらしい。心の中では、死にたい…と願っている。かみさんの後を追いたい…とも思ってい
休日の朝。たいていは4時半前後に目が覚める。この時間。平日ならば、すぐに起床する。だが、休日の朝は布団から出る気力が湧いてこない。気が重いのだ。心と身体が重たいのだ。どうやって1日を過ごしたらいいのか分からない。夜が来るまでの間、どうやって時間を潰したら
日本人男性の平均寿命は概ね80歳と言われている。20年をひとつの単位とすると、それを4回ほど繰り返せば人生は終わりだ。俺の80年の人生のうち、最初の約20年間には反吐が出る。良い思い出なんて一つもないからだ。ツラいこと、苦しいこと、イヤなことばっかりで、この世界
俺は子どもの頃から「早く年を取りたい…」と思っていた。年を取れば周囲は俺に無関心になり、少しは生きやすくなるだろうと思っていた。これは、俺が両親から虐待されて育ってきたことと無縁ではないだろう。人間に対する不信感でいっぱいで、この世界はなんて生きづらいん
俺は朝が大っ嫌いだ。平日であろうと、休日であろうと関係ない。1日のうちで、最も不快な時間帯が朝なのだ。あの不快な気分をどう表現したらいいのだろうか。あまりにドンヨリしている。あまりに落ちている。あまりにも虚しい。そして、あまりにも哀しいのだ。1日を過ごし
昨晩、かみさんの夢を見た。すでに記憶は薄れているが、ぼんやり覚えている部分もある。夢の中。誰かが俺に聞いた。奥さんに連絡してあげなくてもいいの?俺は戸惑った。どうやって“あの世”に連絡したらいいんだ?連絡する方法が分からない。だが、かみさんが“あの世”に
朝はスッキリ目が覚めた。かみさんと目が合って、お互いにニッコリと笑った。そして「おはよう」と声を掛け合った。目が覚めると、すぐにエンジンが掛かった。頭はフル回転し、身体は活力に充ちていた。テキパキと洗顔し、かみさんが作ってくれた朝食を摂り、スーツに着替え
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は「死後の世界」や「あの世」について語り合ったことがない。俺がかみさんに「『あの世』ってあると思う?」なんて聞いたことはないし、かみさんが俺に「人が死んでも『魂』は生きてるんじゃないかな…」なんて言ったこともない。当時の
一週間に一回程度だろうか。頭から血の気が引いたような、急に血圧が下がったような感覚に襲われる。その感覚は、決まって朝目覚めた瞬間にやって来る。そんな時は立ち上がるのもしんどいし、歩くペースもゆっくりで、呼吸が荒くなってしまう。昨日のブログに書いたとおり、
かみさんが亡くなって一ヶ月が経った頃。俺は生まれて初めて「心療内科」を訪れた。悲しくて気が狂いそうだったからだ。涙が止まらなかったからだ。鬱で身動きできなかったからだ。誰とも話をしたくなかったからだ。主治医の診断は「死別反応」だった。そのときは抗鬱剤、精
誰でも同じだろうが、俺は「楽しい時間は速く過ぎる」と感じている。それは一時間だとか、一日だとか、短いスパンだけの話ではない。一ヶ月だとか、一年だとか、さらには数年だとか、そういう長いスパンで見ても、楽しい時間は速く過ぎていく。おそらく幸せな毎日を送ってい
久しぶりに深く眠ることができた。スッキリした気分で時計を見ると、まだ午前3時を過ぎたばかりだった。もう少し眠ろうと思った。だが、眠れそうにはなかった。俺は目を閉じて、目覚まし時計が鳴るのを待つことにした。布団の中が温かかった。目を閉じて、フワフワした感覚
土曜日の朝。目が覚めて時計を見ると、まだ午前4時すぎだった。3時間しか眠ってないが、頭はスッキリしていたし、身体は軽かった。ただ、やはり気分は重たい。家族のいない“ひとりぼっち”の身で、どうやって時間を潰したらいいのか分からない。夜までの長い時間を想像す
明るくて、幸せで、楽しかった人生が、突然、一変してしまった。それは、かみさんが癌だと診断された日だった。かみさんの余命が年単位ではないと知らされたとき。俺の心は深くて真っ暗な穴に落ちてしまった。それまでは明るかったはずなのに、世界は突然、真っ黒になったの
断片的にではある。しかし、産まれてから物心がついて以来の記憶は、確かに俺の中に残っている。楽しい思い出なんて、ひとつもない。嬉しい思い出なんて、ひとつもない。幼少期以来、自分は安全なところにいなかったからだ。そこには忌まわしい体験の記憶だけが残っている。
かみさんが亡くなって以来。睡眠障害になった俺は、二種類の睡眠導入剤(ハルシオン、レンドルミン)のお世話になっている。かみさんを喪ってから、相当な時間が経った。それにも関わらず、いまだに睡眠導入剤を手放すことができない。そろそろ薬を飲まなくても眠れるように
俺には「何か」が欠けている。その「何か」は普通の人々にはあるが、俺には無い。おそらく産まれたときには持っていたんだろう。だが、俺は「親ガチャ」に外れ、両親から「何か」を奪われた。奪われた俺が、マトモな人間関係を築けるはずがない。俺が「隙だらけ」だったから
かみさんはいつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね。俺も「そうだね」と応えていた。だが、それは叶わない夢だろう…とも思っていた。男性のほうが、女性より短命だからだ。できれば俺も、かみさんと一緒に死にたい。二人で手をつないで横になり、一緒に逝けたら最
かみさんが亡くなって1年ちょっとが経ってから。俺は主治医の勧めで会社を休職することになった。主治医から告げられた病名(?)は「死別反応、抑うつ状態、適応障害、睡眠障害」だった。これらについては以前の記事に書いたとおりだ。休職が明けて職場に復帰してからのこ
かみさんと俺は、夜が好きだった。夜遅くまで他愛のない会話をするのが好きだった。かみさんが元気だった頃。俺が会社から帰って入浴を済ませると、俺たち夫婦はその日にあったことを語り合った。俺が仕事をしている間、二人は一緒にいられない。その「すき間」を埋めるかの
悩み事があったり、ストレスが溜まっていたり、心に重たい荷物を抱えていると、人間は自分の話を誰かに聴いて欲しくなる。自分の心の内側を、どこかに吐き出したくなる。だが、話を聴いてくれる相手が誰なのかによって、どこまでの範囲の話ができるのかは変わってくるものだ
私は正しいグリーフワークの道を歩んでいます!時折そんなことを、臆面も無く言う人間を見かける。心理学などで示されたグリーフワークのモデルケースに照らし、自分がそのケースのとおりに立ち直っていることを誇っているのだろう。自分は絶対に正しい。自分と同じ人間も正
以前の記事に書いたとおり、俺の部下の中に、50歳代のKさんという「問題社員」がいる。仕事ができない。判断が遅く、いつまで経っても決断できず、結局は仕事を先延ばししてしまう。周囲が手取り足取り教えてあげても、いまだに仕事が身に付かない。そのうえコミュ障で、自
真っ暗闇だ。何にも見えない。とても静かだ。何にも聞こえない。それどころか何にも匂わないし、何の味もしないし、何にも触れない。すべての感覚が遮断されている。完全に静止した絶対零度の世界だ。だからといって怖くはない。むしろ穏やかな世界だ。理由は分かる。何も考
ここ数日間。眠っている間にかみさんの夢を見ている。続けて3回も見るのは珍しい。夢の中。かみさんと俺は、寄り添って会話をしていた。二人で今後の予定を話し合っていた。かみさんが生きているかのように、俺たち夫婦は日常を楽しんでいた。過酷な「現実」に比べ、夢の中
人生って辛いなぁ…と思う。生きていくのが、こんなに苦しいのなら、生まれてこなければ良かったなぁ…とも思う。かみさんが元気だった頃だって、生きていくのは辛いなぁ…と思うこともあった。だが、生まれてこなければ良かったと思うことはなかったはずだ。辛いことはたく
かみさんが元気だった頃。俺は幸せだった。この世界が大好きで、人生が大好きで、友だちも大好きで、仕事や趣味も大好きで、そして何よりも、かみさんのことが大好きだった。かみさんを愛し、かみさんに愛される。かみさんを癒し、かみさんに癒される。かみさんを守り、かみ
かみさんと俺は、同じ空間と時間の中で、たくさんの思い出を共有してきた。二人は同じものを見て、同じ音を聴いていた。同じものを味わって、同じ香りを嗅いで、同じものに触れていた。そして顔を見合わせて、二人は一緒に笑っていた。幸せだった。今日は昨日より楽しかった
早朝4時半には目が覚める。面白くもないクソみたいな一日が始まってしまった。真っ暗な家の中、周囲に人の気配はない。凍てつくほどに淋しい。だが…今日も「立ち直った人」を演じないわけにはいかない。俺は床を出て、かみさんの仏壇の前に座る。かみさんに線香をあげて、
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は眠ることが、あまり好きではなかった。二人が共有できる時間が減ってしまうからだ。たまには夫婦二人で朝まで語り合った。かみさんと俺は、そんな時間が大好きだった。ときには夫婦二人で朝まで映画を観たり、朝まで居酒屋で過ごしたり
ゆっくり流れる時間を楽しめること。それは“今ここ”を肯定している人にしかできないことだ。生きていることが幸せな人々だけの特権だ。目的地まで、のんびりと歩いていく人。カフェに入って何時間でも飽きずに座っていられる人。やることがなくてボンヤリしていても、虚し
かみさんが亡くなってから。悲しいことがいっぱいあった。寂しいときもいっぱいあった。かみさんが俺を遺して逝ってから。辛いことがいっぱいあった。苦しいときもいっぱいあった。一方で、嬉しいだとか、楽しいだとか、そんな気持ちになる機会は大きく減ってしまった。そも
苦しくても平気だった。辛くても耐えられた。嫌われても平気だった。憎まれても耐えられた。かみさんが俺の隣にいてくれたからだ。家に帰れば、かみさんが俺を待っていてくれたからだ。すべてから排除されようと、いちばん大好きな人だけは、自分に寄り添ってくれている。す
かみさんが亡くなってから。俺はいわゆる「死別鬱(うつ)」になった。毎年1月から2月に掛けて、鬱が悪化してしまう。今年は大丈夫かな…と油断していたが、やはり今年も“それ”はやって来た。かみさんの祥月命日が近いわけではない。かみさんが癌だと診断された日が近い
死はタブー視されて、忌避されている。死を望むことは、否定されている。死が赦されないのなら、せめて生を輝かせるような世界であってほしい。死を望むことが赦されないのなら、せめて生きる意味や悦びを教えてほしい。だが、生を輝かせるための仕組みはない。生きる意味や
誰もが死にたくないと思っているわけじゃない。本気で死にたいと思っている奴もいるんだ。ブログで死にたいと呟けば、「こいつは同情を買おうとしているだけだ」と解釈されて、コメント欄を荒らされることも少なくない。また、死にたいと呟く人々を嘲笑するためだけに、わざ
幸せな人々は、時に残酷だ。家族がいて、家庭があって、愛する人との平穏な暮らしがある人々は、時に残酷だ。愛する人が傍にいるのが当たり前で、その日々が永遠に続くと錯覚していられる人々は、時に残酷だ。自分の命を賭してでも守りたい人がいる。自分が愛していて、自分
伴侶や子どもと死別すること。それは絶対的な喪失であり、決定的な欠落だ。自分にとって最も大切なモノを失ったとき、世界は足元から崩れ去る。それまで世界の”中心”にいたはずなのに、いつの間にか世界の”周縁”に排除されている。以前は”天国”に棲んでいて、いつまで
残念ながら、昨晩も不快な気分とともに目が覚めた。予想していたとおり、熟睡できたのは先日だけだったようだ。心が重い。身体が重たい。このまま布団の中で寝ていたい。会社に行きたくない。何にもしたくない。心と身体が悲鳴をあげているからだ。その悲鳴に耳を傾けてあげ
俺が最後に熟睡できたのは、いつだったのだろうか。朝スッキリと目覚めることができたのは、いつが最後だったのだろうか。多分それは、かみさんが癌だと診断される日の前日だったに違いない。かみさんの闘病が始まってから。俺の神経は常に張つめていて、グッスリ眠ることが
「ブログリーダー」を活用して、プーちゃんさんをフォローしませんか?
かみさんが元気だった頃。かみさんと俺は、毎年のゴールデンウィークに北海道に行った。ゴールデンウィークと年末年始は、かみさんの実家で過ごす。それは、俺たち夫婦の習慣だった。その習慣は、かみさんが亡くなってからも変わっていない。俺はコロナ禍の一時期を除き、ゴ
4月26日。かみさんの誕生日ではない。結婚記念日でもない。かみさんの祥月命日でもない。だが、俺にとっては忘れられない日付だ。かみさんが「癌かもしれない」と診断された日なのだ。かみさんから話を聞いた瞬間。俺の頭から血の気が引いた。全身の血液が、音を立てて足元に
俺もたくさんの人々と死別してきた。母方の祖父が死んだ。俺の実父が死んだ。父方の祖父が死んだ。父方の祖母が死んだ。かみさんの親父さんが亡くなった。その後、かみさんの親族(俺の姻族)も数人が亡くなった。そして…かみさんが亡くなった。俺のいちばん大切な人だった
昨晩のこと。また真夜中に目が覚めた。ここ最近、ずっと中途覚醒が続いている。時計を見ると、まだ午前1時半だった。喉がカラカラに渇いていた。俺は布団から起き上がり、水分を補給するためにスポーツドリンクを飲んだ。俺は周囲を見回した。何も聞こえてこない。空気まで
先週から全く疲れが抜けていない。ダルくてダルくて仕方がない。土日にゆっくり身体を休めれば、疲れも取れるだろう…と思っていた。眠れない日々が続いていたので、土日はたっぷり眠ることができた。それなのに、月曜日の朝になっても疲れは取れていなかった。ここ最近の傾
最愛の人が息を引き取ったあと。遺族の心の中は、カラッポなくせに、混乱してもいる。悲しみや絶望が襲いかかってくるけれど、自ら考えたり行動したりするエネルギーは残されていない。そんな心理状態のときは、ひとりぼっちになって、ひたすら悲しみたいはずだ。すべての責
年度の初めから仕事に追われている。メチャクチャ忙しくて疲れきってしまった。虚しい。馬鹿みたいだ。一生懸命に仕事に勤しむ自分が滑稽だ。いったい俺は、何のために頑張っているんだろう?いったい俺は、誰のために頑張っているんだろう?・・・今の会社に入って最初の2年
昨日の記事にも書いたとおり、ここ最近、疲労が溜まっている。いくら眠っても、疲れが取れない。そもそも、あまり眠ることができない。おかげで身体がダルくて仕方がない。心は深く沈み込んでいる。なぜ熟睡できないのだろうか。なぜ疲れが取れないのだろうか。心も身体も錆
最近、疲労が溜まっている。いくら眠っても、疲れが取れないのだ。どうやら睡眠の質が悪いらしい。かみさんが亡くなって以来。俺は「睡眠障害」になり、毎晩、睡眠導入剤を飲んでいる。そのため寝つきは悪くない。だが、真夜中の2時には目が覚めて、その後はほとんど眠れな
世の中には変な奴がいる。相手を罵倒して脅迫すれば、何でも思いどおりになると思っている奴。しつこく相手に粘着すれば、相手が根負けして自分のワガママが通ると思っている奴。相手が言ってもいないことを、さも言ったかのように装おって、被害者ヅラをする奴。自分が加害
かみさんが元気だった頃と、かみさんが亡くなってからと。比べてみれば、どちらにも辛くて苦しいことが多かった。とりわけ仕事に関しては、入社した3年目の4月から、ずっと辛くて苦しかった。だが、かみさんと一緒に暮らしていた頃は、辛いことも「辛い」と感じていなかっ
朝目覚めた瞬間。深い鬱(うつ)を感じることがある。目を開けたくない。布団から出たくない。会社に行きたくない。もう何もかもがイヤになってしまうのだ。ウィスキーでも飲めば、少しは気が晴れるのかもしれない。だが、出勤する前に酒に酔うわけにもいくまい。代わりに抗
何かが足りない。何かが決定的に欠け落ちている。その欠落の正体は、俺にも分からない。正体が不明なくせに、存在感だけはやたらと大きい。真っ黒で、真っ暗な空洞だ。巨大な質量を持ち、巨大な重力を持った穴だ。この穴は、周囲の人々からエネルギーを剥ぎ取り、全てを吸い
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。ある日、かみさんが泣きじゃくりながら叫んだ。「プーちゃんを遺して死ぬのは嫌だ!」かみさんは死にたくないと言ったのではない。死ぬのが怖いと言ったのでもない。俺を遺して死にたくない。そう言ったのだ。・・・かみさ
先日の記事に書いたとおり、俺はギックリ腰になってしまった。普通は2週間程度で治るらしいが、いまだに痛みが治まらない。会社を休んで安静にしていたい。だが、仕事が忙しくて休むわけにはいかない。仕方がないので、腰にコルセットを巻いて、毎日フラフラになりながら出
かみさんが亡くなってから数日後のことだった。ある親族が、嘆き悲しんでいる俺を見て言っていた。これからだって、生きてれば良いこともあるよ~その親族はヘラヘラと笑っていた。理由は分からない。その親族の予想は大きく外れた。かみさんが亡くなって以来。俺の人生は悪
かみさんと俺は、仲の良い夫婦だったと思う。俺たち二人が思っていただけではない。かみさんの親族、かみさんや俺の友人・知人からも「仲の良い夫婦」と言われていた。かみさんが入院していた時も、看護師さんたちから「仲が良いですね」と言われていた。さらには、かみさん
かみさんが元気だった頃、俺は死ぬのが怖かった。とは言っても、人一倍、死を怖がっていたわけじゃない。誰もが死を恐れている、その程度に怖かっただけ、人並みに死が怖かっただけだ。四六時中、死について考えていたわけではないし、死に怯えていたわけでもない。いつかは
今年に入ってから調子が悪い。それまでも決して良くはなかったが、ますます悪くなっているようだ。先日の記事に書いた通り、ギックリ腰の影響もあるのかもしれない。仕事がうまくいかないというわけではない。大切な人間関係が壊れたというわけでもない。調子が悪いのは、俺
いちばんツラいのは、目が覚めた瞬間だ。最も不快で、最も破壊的な気分になるのは、目が覚めた瞬間だ。もう一度、意識を失いたくなる。意識を無くせば、何も考えずに済むし、何も感じなくて済むからだ。だが、十分に眠ってしまった後だ。もう一度、眠ろうとしても眠れたもん
心が重たい。情けなくて涙が出そうになる。身体がダルい。立っているのも辛いぐらいだ。たっぷり眠ったはずなのに、心身の疲れが取れていないのだ。寝床に就く直前。俺は時計を見る。すると「今日は6時間は眠れるな…」だとか、「今晩は7時間も眠れるのか…」と考える。眠
今日は令和5年4月26日だ。4月26日は、かみさんが癌だと診断された日だ。あの日以来、4月26日は俺にとって忘れることのできない日付になった。それはそうだろう。かみさんと俺が、地獄の井戸の底を覗いた日なのだ。毎年4月26日には、フラッシュバックに苦しめられる。かみさん
朝目覚める直前だった。いつものように、俺は悪夢を見ていた。仕事がクソ忙しいせいだ。毎朝見るのは仕事に追い詰められている夢なのだ。4月24日の月曜日。目覚めた後の気分は最悪だ。会社に行きたくないと思った。かみさんの仏壇の前に座り込み、朝から酒を飲んで現実逃避し
熟睡することができない。眠っている間は意識がないにも関わらず、心のどこかがザワザワしている。目覚めた直後の気分は、いつだって最悪だ。イヤな夢を見ていたようだが、どんな夢だったのかは思い出すことができない。かみさんが亡くなってから。俺は安心して眠ることがで
何度でも同じことを言う。俺は目が覚める瞬間が大嫌いだ。かみさんが亡くなってから最初の数年間。朝目覚めると、俺は周囲を見回してかみさんを探した。あれ? なんで容ちゃんがいないんだろう…疑問を抱いた次の瞬間だった。俺は気がついた。あぁ、そうだっけ…容ちゃんは死
昨晩は少しばかり早く帰宅できた。溜まった疲れを取るために、俺は早めに寝床に就いた。時間は夜の10時頃だった。朝までグッスリ眠れたら、少しは元気を取り戻すことができるだろう。だが、夜中に何度も目が覚めてしまった。睡眠導入剤を飲んだのに、2時間ほどで目覚めてし
ここ数日。ブログの記事が、愚痴ばかりになっている。仕事が忙しすぎて、ストレスが溜まっているせいだろう。身体には疲労が蓄積している。全身が重たい。呼吸が荒い。しかも、今朝からは胃が痛む。精神にも疲労が蓄積している。いつでも緊張感が抜けない。気が重い。数ヶ月
昨日の記事に書いたとおり、アフターコロナに入ったからだろうか。いくらなんでも、やらなきゃならないことが多すぎる。目の前に大きな山があり、それを越えなければならない。精神を磨り減らし、肉体を酷使して、ようやく大きな山を越えることができる。その後は少しばかり
3年間に渡るコロナ禍で、さまざまなモノが停滞していた。自粛だの、休止だの、時短だの、縮小だのという言葉を飽きるほど聞かされた。だが、今年に入って世間の空気が変わった。もはや第9波は来ないと思われている。コロナと共存していく日々が訪れたようだ。しかし、良い
生きていれば、さまざまな環境の変化を経験する。進学したり、クラス替えがあったり、卒業したりするだろう。社会人になって、異動を経験したり、転勤したりもするだろう。新しい友だちができたり、恋人ができたり、あるいは結婚したりもするだろう。これらの大きな変化だけ
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦には夢があった。目標もあったし、希望もあった。もちろん「今ここ」は幸せだった。だが、未来はもっと明るいと信じていた。明るく楽しい未来を実現するため、かみさんと俺は前向きに生きていた。明るい未来の中には、俺たち二人の「死」
現在4月15日の午前8時13分。いつもとは違い、自宅のリビングでウィスキーを飲みながら、ブログの記事を書いている。身体がダルくて仕方がない。おかげで気分も落ちている。そのうえ頭がボンヤリしている。老化のせいだろうか。それとも肝機能が低下しているせいだろうか。理
俺の部下の中に70歳前後の人が4人いる。いずれも正社員ではなく、非常勤の嘱託さんだ。そのうち3人のAさん、Bさん、Cさんは女性。あと1人は男性のXさんだ。先日、俺が会議で席を外していたときのこと。Xさんは仕事上の間違いをAさんから指摘された。AさんはXさん
何故だろう。ここ最近、いつでも緊張している。目が覚めても光を見るのがイヤで、ジッと目を閉じている。心がいつでもザワザワしている。情けない気持ちになって泣きたくなってしまう。ときおり死にたくなってしまう。何か悪いことが起きるんじゃないだろうか。何か辛い思い
俺はすっかり荒んでしまった。かみさんがいなくなり、“ひとりぼっち”の余生が長引くにつれて、俺はすっかり刺々しくなってしまった。普段は「明るく元気な課長さん」を演じているものの、心の中には疑心暗鬼や人間不信、憎悪や攻撃性が隠れている。それらは次第に密度が高
1日は24時間だ。これを3で割ってみる。すると8時間が3つできる。3つの8時間は、仕事をしている8時間、眠っている8時間、そして、自由に過ごすための8時間に分けられる。これは“おおざっぱ”な分類で、実際には8時間以上、仕事をしていたり、6時間しか眠れない
かみさんが元気だった頃。いちばん落ち着ける場所は自宅の中だった。かみさんが俺の隣にいて、かみさんのおしゃべりを聞き、かみさんが笑っているとき、俺は最も落ち着くことができた。なんの不安や脅威もなかった。とても穏やかで、とてもリラックスしていた。だが、今は違
グリーフワークだとか、グリーフプロセスという言葉がある。そこでは、伴侶やお子さんと死別してから、どのような心理的過程をたどり、どのように悲嘆から立ち直っていくかが示されている。だいたい3年から5年くらいで立ち直るのが「普通」であるとされている。そのせいか
それは確か、「あの日」からだったと記憶している。かみさんが癌だと診断された日だ。あの日から、俺たち夫婦は同じ想いを抱いていた。自分たち二人だけが、世間から「取り残されてしまった…」という感覚だ。空間と時間のいずれもが、かみさんと俺を置き去りにして遠のいて
年度始めの一週間が終わった。環境の変化に緊張しているらしく、疲労感が半端じゃない。まだ新しい部下たちにも慣れていない。だが、部下たちだって俺に慣れてはいないだろう。仕事に関わる報告や連絡、相談は頻繁にあるのだが、この一週間、雑談する機会は少なかった。自宅