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2021/05/06

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  • 2022/11/06

    体調悪いので、ブログ訪問しばらくお休みします。2022/11/06

  • そいつは突然やってくる。

    前々回、美容院へ行き髪を短くし、後日、その髪型に似合うイヤリングを購入し、生きてます!と言う、ポジティブな感じのブログを書いたのだけど。。。その、美容院での出来事。白髪を染めてもらうべく、カラー剤を塗布してラップを巻いてしばらく放置の時でした。お客は私一人店主(男性)アシスタント(女性)の計3人。行き慣れたお店です。おふたりにも慣れています。奴が来たのです。突然、激しい動悸が始まり手足の先が冷たくなりお腹がキューと痛くなり血の気が引き息の仕方を忘れる様な感覚巷でいう、パニック発作と言うやつだと思います。病院で診察を受けたり、診断された訳では無いけど見聞きしたものと照らし合わせたら、合点がいきます。腹式呼吸、深呼吸、息して!巻かれたケープの上からでも心臓が波打ってるんじゃ無かろうか、、、意識を別の所へ!!!...そいつは突然やってくる。

  • 世のお母様たちへ

    自分を責めたり苦しまないでね子どもが、辛い、苦しいって声に出して言う外に出たくない家に居たいあれはしたくないこれはしたいって訴える…これって凄い事じゃ無いですか子どもの拠り所があるんだもの親の前で、平気を装い苦しさ辛さを表に出せず一人で抱え込んでしまっているもし、それに気付かず何年も経って知った時その方が自分を責めてしまうかも知れない私はどれだけ学校で辛くても家の方が数百倍辛かった家の形はしているけれど私の家庭家族では無かった自分の子ども達には安心して暮らせるようなそんな家にしたいと思っただけど、なかなか難しくて色々口出ししてくる周りの保護者に振り回されて息子の話もロクに聞かず叱ってばかりいたご立派な意見を私の子育てに押し付けて右往左往する私を見て愉しかったのね今、息子にごめんなさいって謝りたい自分を責め...世のお母様たちへ

  • 起きて食べて働いて家事して髪切って買い物して

    生きてるー!って感じです昨日、楽天のお買い物マラソンでポチポチしたものが、早速、今日の夕方には次々と届くという20年前の私には考えられなかったシステム。クレンジングオイルやDANTONのインナーベストを購入。⇐奮発。この秋冬、春まで100回は着よう♪~(´ε`)今朝は久しぶりに晴れたので洗濯を2回して掃除をした後。仕事が休みだったので街まで出て、友達とLunch。それから、shopping。髪を短くしたので、ゆれるイヤリングを購入。2つで、60000円(↑写真の)モトイ、2つで600円❤️5時半頃帰宅して、洗濯物取込み、たたみ、ご飯を炊いてキャベツとワカメねぎの味噌汁を作り、クロネコヤマト、佐川急便ゆうパックの荷物を受け取りささ身にお酒をふりかけレンチン。きゅうりと大葉を刻んでささ身とマヨネーズ、ごま、醤...起きて食べて働いて家事して髪切って買い物して

  • 続いていることと、続かないことを分析してみた

    私が長年続いていること…それは、ずばり【家計簿】です。100均の家計簿に、日々の細かい買い物を記入している、いわゆる「家計簿」と月単位で、やり繰りする項目を大学ノートに記入している、「出納帳」この二冊を駆使して家計をやり繰りしています。私の《偉い》(*´∀`*)ところは、人参100円納豆88円トイレットペーパー298円とか、一つ一つ品物と値段を記入しているところ。何食べて生きてきたか良く分かるわ~。異常に外食しまくっていた時期とか。家計簿はほとんど趣味のような物です。🍎🍎🍎🍎そして、全く続かないこと。それは…【ほぼ日手帳】です。もう、4冊目?5冊目?少し記入して、すぐに引き出しの奥へ(¯―¯٥)そのまま放置。色んな種類があるけど私が買っている...続いていることと、続かないことを分析してみた

  • 「これおかあさん?」

    小さい頃の私は優しそうな女性を見かけると指差して「これおかあさん?」と、おばあちゃんに聞いていたそうです。おばあちゃんの耳は私が3歳頃まで聞こえていてその後、突発性難聴で全く聴こえなくなりました。幼児の発達において、不可欠な親の愛情。無償の愛。充分に受けることなく機能不全家庭で育った。改めて考えると、恐ろしい。今幼児期に戻って、同じ人生を歩めと言われたらあぁ恐ろしい。今の私?おかあさん、どれかな?って探してた私より怖いもの無いよ!不安無いよ!強いよ!って、事で病院の定期検査へ行ってまいります💪「これおかあさん?」

  • エントウシカタ

    漢字で書くと、『塩糖脂過多』となります。最近の私の食生活です。朝はプレーンヨーグルトとブラックコーヒー。昼は有り合せを詰めたお弁当。夜、問題は夜なんですよね仕事から帰ったら、作る気力体力が残っていない。そんなおり、職場の近くに凄く良いお店を見つけてしまった✨夕方5時オープンのビュッフェのお店。店内で食べることも、もちろん出来るけど自分で、渡された容器に好きな物を好きなだけ入れて1g=1円で、美味しいお惣菜が買えるんです。仕事終わりに寄ると、まだ他のお客さんもほとんど居なくて並んだばかりの料理を一番にチョイス出来るんです。職場の人達と、主婦の味方よね~と週3で通ってたら、、、いささか体調に変化が。口内炎が出来、睡眠の質が悪くなった。ビュッフェのお店は悪くない。私のチョイスが良くなかった。疲れた夕方にコッテリ...エントウシカタ

  • 2022/08/25

    一年前の今日、手術しました。午後8時、ちょうど今時分。術後初めての水分&トイレ。〜〜〜〜〜手術室の扉が閉まったとたん、怖くて泣き出してしまいました。手術室担当の看護師さんが、手を握り、背中をさすってくれました。夕方4時頃目が覚めてほっとしました。この一年間長かった。自分が何人もいるようなそんな感覚の一年間でした。2022/08/25

  • 2022/08/09

    2021年8月9日の私へ。怖かったでしょう。ご飯も食べられず、眠れず全ての景色が色を無くし季節も分からないくらいでした。一年後、元気に生きていますよ。又怖くて怖くて不安になっても未来の私が、元気だよと教えてくれますよ。良かったね、私。2022/08/09

  • 私はそのゲームには参加しません。

    この10日間気分が悪い。鬱々としている。先日のブログのコメントで、エナジーバンパイアと言う言葉を教えて貰った。検索すると、義母がまさしくコレ。エナジーバンパイアを寄せ付けないおまじないがあるという。人差し指に中指をかけて、クロスにし、「私はそのゲームには参加しません」と言うそうだ。ずっと唱えていた。金曜夜、すっかり元気になった義母から電話があった。私は、すぐに指をクロスした。電話の内容は救急病院から電話があり、精算に不備があったから、いつでも良いから来てほしい。と言う内容だった。義母は、どのように、誰が、どんな理由で間違えたのか納得いくように説明しなさい。と随分なじったと言う。私は心の中で「私はこのゲームには、参加しません」と唱え続けた。すると、いつもの私なら、「今忙しいから」とはぐらかして電話を切るのに...私はそのゲームには参加しません。

  • 姑のせいでイライラが止まらない。

    愚痴です。嫌な方は、ここまででお願いします。〜〜〜〜〜〜〜先日ブログを、怒りの三連投した後、少しはスッキリするかと思った矢先に義母から又電話がかかってきた。しんどい演技をするのも忘れて、保健所に対する愚痴や非難を言っている。療養型ホテルへ行こうと思っていたのに、簡単なショートメールが来ただけ。こちらから保健所へ電話をした。簡単にあしらわれたと感じたらしい。当たり前だ💢それで、いつまで自粛をしたら良いか聞いたらしい。イヤ、病院で渡された紙に書いてあるやろ💢届けは病院で診断された31日になっていて、実際は29日に発熱したから、どちらを基準にしたら良いかしつこく聞いたらしい。保健所大変なの、ニュース見たことないんか💢働いてもない、学校へも行っていない、自由気ままな...姑のせいでイライラが止まらない。

  • やっぱり無理、姑義母が大嫌い。私の心から抹消したい。❸

    数時間寝て、日曜日の昼頃。今後に付いて義母に電話連絡を入れた。宅配弁当の手配をしましょうか?(何かを作って届ける気はサラサラない)「保健所から電話があったら、療養型ホテルへ行こうと思う」との返答。勝手にすればいい。コロナの多い地域。保健所もパンク状態。ししまるちゃんの時も、封書が来ただけ。基礎疾患があり、中等症で、それでも入院出来ない人もいる。〜〜〜〜今私を苦しめる記憶が蘇っている。ししまるちゃんが赤ちゃんだった時肺炎になった。サムが長期出張で、3歳のピングーを一人に出来ず、何度頼んでも、スーパーのパートを優先させた義母。肺炎のししまるちゃんを通院点滴で悪化させてしまった。ししまるちゃんの顔が土気色になり苦しそうで、今思い出しても涙がでる。それでも救急車を呼ぶなんてしなかった。とうとう入院になった時、18...やっぱり無理、姑義母が大嫌い。私の心から抹消したい。❸

  • 超大嫌い姑義母が大嫌い。私の心から抹消したい。➋

    食糧を届けた9時間後。日付が土曜日から日曜日に変わった未明の2時半頃。ブルブルとサムの携帯が鳴った。サムは深い眠りの中。表示を見ると義母。もしもし、と私が出た。「息が苦しくて。ハァハァ‥」「救急車を呼んだの。ハァハァ‥」私は緊張で震えた。電話が救急隊員に代わった。「今、受入の病院2〜3件断られています。病院決まったらかけます。電話取れる状態にしておいて下さい。」怒鳴るような話し方の人だと思った。しばらくして、再度、義母からの電話。「○○病院、、ハァハァ」詳しく聞きたいから救急隊員さんに代わって貰った。「○○病院へ迎えに来てください。入院はできません。気をつけて来てください」それだけだった。又怒っているような話し方だった。その病院は、うちから車で15分の所だった。サムは、私は来なくて良いと言ったが、女手があ...超大嫌い姑義母が大嫌い。私の心から抹消したい。➋

  • 姑義母が大嫌い。私の心から抹消したい。❶

    私の苦しい気持ちを吐き出すだけの日記です。悪口を読みたくない方はここまでで、お願いします。〜〜〜〜〜〜〜車で30分の距離のマンションに、一人で暮らす義母がコロナにかかった。先週金曜日、私の携帯に義母から電話があった。喉の痛み、鼻水があり、総合病院の耳鼻咽喉科へ行き、鼻水止め、痰とかし、うがい薬、トローチ、ロキソニンが28日分出た。家に帰ってから、38℃の熱が出た。と言う、報告。とりあえず処方された薬を全て飲んで、様子を見るように言った。(今その時の通話記録を見ると、1時間半話している)私がトイレに行きたいから切らせてくれと言って、やっと解放された。土曜日。翌朝再度の電話。解熱剤を飲んで一旦下がるが切れた頃に又38℃出たと言う。6時間あけて飲み続けるように伝えた。その時の電話も1時間。ご飯を炊いて、おかずを...姑義母が大嫌い。私の心から抹消したい。❶

  • はたらく

    一年ぶりに働き出しました。新しい仕事。9時〜17時、週3日。事務仕事。仕事内容は難しくなく同僚の方たちも円満自転車で往復8キロ🚲信号に引っかかりながら、片道30分程かかります。汗をドバーっとかきます。職場に着いて、汗を拭き1時間程すると、今度は体が冷えてきて強烈な眠気に襲われます。帰りは、家に着き又々汗がドバーっと出ます。そのままシャワーを浴びたら良いのですが急いで、夕食の支度をします。何やかんや家事をして、お風呂に入って、22時頃睡魔が襲って来てくれます。朝までぐっすり。私の心と身体は今、現実を生きています。生い立ちに、苦しめらる隙がないほど自転車の往復一時間と事務仕事の書類たちは私を現実の世界に引き戻してくれます。不安や恐怖が無いわけじゃ無いけど心と、体良くここまで元気になれたな。と全...はたらく

  • 人を呪わば

    安倍元首相のご冥福を心よりお祈り申しあげます。「現実を生きよう」とブログに記した矢先又、私を虚実混交に陥れるニュースが繰り返し流れた。私と同じ様にショックを受けた方が多いと思う。昨日から私の頭の中や心の中がざわついて、とても疲れる。どんな事情があっても、暴力は許されない。人生上手く行かないとき誰かのせいにしたくなる。生きていたら、理不尽な事が山程ある。人間は平等ではない。でも、それが人生なんです。それらを受け止めて生きることが、人生そのものなんです。対話が通用しない時はそこまでの関係だったと距離を置くのです。人を呪わば穴二つでは済まない何十人、何百人が不幸になることを肝に銘じるのです。人を呪わば

  • 虚実混交

    引きこもりの自覚があり、このままではいけないと、4月から5月、積極的に友人に連絡をとった。手術、通院治療していることは誰にもナイショ。本当は連絡取るつもりは無かったんだけど、4月初旬、和菓子屋さんの同僚だったWさんに、以前にエコバッグを貸していたらしく、私はすっかり忘れていたのだけど、「返したいからランチしませんか」とLINEが来た。昨年夏、バタバタと入院が決まった為、職場に挨拶もせず突然辞めてしまった。健康上の問題とは一切言わず、主人の母が倒れたと嘘を付いて閉店ギリギリの時間に、皆さんに宜しくお伝え下さい。と菓子折りを経営者に預けて辞めた。そこから、友人誰とも連絡を断った。コロナ禍だったから、不自然では無かった。Wさんとも会いたくなく、「エコバッグ捨てて下さい」と言ったけど、会ってみようと思った。その頃...虚実混交

  • お守り

    術後一週間目に、このテープを用意するように言われた。手術の後に貼られていた血の滲んだテープを剥がして、これから自分で貼る。私の傷口を看護師さんが測り、25センチなのでLL。売店で1800円。LLは4枚しか入っていない。アマゾンや楽天で300円程安く買える。1週間毎に貼り替える。4ヶ月間続ける。私は半年経っても貼り続けた。鏡を見て、「ワーッ」と叫びそうになるから。お守りに貼っていた。まだ買い置きあるけど、4月に貼るのを辞めてみた。傷口を直視出来た。自分で自分を抱き締めて、肩をさすった。良い子良い子。頑張り屋さん。涙がたくさん出た。お守り

  • ミッション完了!

    食堂パート、5年前の話の続きです。もう、辞めよう。あと少し、頑張ろう。の繰り返しの毎日だった。そうこうしているうちに、ご飯や汁物、おかずの入ったバッカンをいつの間にか一人で持ち上げられるようになっていた。意地悪おばさん三人組が、「あー腰痛い、肩痛い」と三人がかりで持ち上げている間に、私は一人で体幹を意識しながらひょいと持ち上げた。お汁を一人一人、手渡しするときに「お疲れ様です」といい食事が終わるタイミングで、洗い場に移り、下膳の時に「お疲れ様です」と再び言う。声も出すし、汗も流す。良い運動になり、毎日良く眠れた。辞めよう辞めようと思いながら結局、2年近く働いた。その間にピングー(息子)は、第一志望の大学に合格した。朝は私が先に出るので、お弁当だけ作り、それを持って何時に予備校に行っているか知らなかった。心...ミッション完了!

  • 教えて下さい

    ブログを始めた時に、わけもわからぬまま、ブログ村に登録しました。ランキングを外すことは出来たのですが、記事自体、反映させなくしたい。ブログ村を退会したいのです。○ブログ削除○アカウント削除の2項目あり、○ブログ削除は、ブログ村の中のみブログが表示されず、gooブログは残る。○アカウント削除は、全部消えてしまう。この認識で良いでしょうか。ブログ削除をして、ブログごと消えてしまったら、、と思い、実行できません。どなたか、詳しい方教えて下さい🙏教えて下さい

  • 大丈夫を積み重ねる

    今日は電車で病院へ行きました。かかりつけになり、3回目の病院。看護師さんが優しい。採血のとき、手元は真剣に、でも、私には適度に話しかけてくれます。2箇所の病院で採血するから、ほぼ毎月針をさす事になる。緊張するし、苦痛。今日の病院の看護師さんは、自然に話しかけてくれて、いつの間にか終わってる。ここの病院自体が緊張しなくなった。ドクターの診察も、今の所心配なし。気持ちがスッと楽になりました。🚃🚃🚃🚃🚃🚃🚃行きの電車を待つホームで、ベビーカーに乗せた新生児位の赤ちゃんを、一生懸命お世話をしている若いママが居た。とても小柄な新米ママといった感じ。電車が来て乗り込む時、後ろからそっと見守っていた。降りる駅...大丈夫を積み重ねる

  • 何とかやれていた日々を思いだす

    月曜から金曜の5日間を勤め上げた時、あーこれはもう無理だ。と思った。しんど過ぎる。汁物や、ご飯の入ったジャーを持ち上げたり、バッカンを運んだり、隊員さんが、やってはくれるが、たまたま近くにいない時にわざわざ呼びには行けない。2週間経ったくらいの時、無理して一人で持ち上げて、みそ汁60人前を床にぶち撒けてしまった。それを見た、柄の悪い三人組は、「あ〜あ〜」とお祭り騒ぎだった。急いで調理場に降りて、事情を話して謝った。「かまへんかまへん、すぐ作れる」と言って、調理責任者のKさんは作り直してくれた。床の味噌汁を流し、具材を拾いながらもう、私の心は完全に折れてしまい、1ヶ月後に辞めよう。と決意した。その日の喫食時間に、「糧食班班長の○○です。来て貰って助かってます」と一人の隊員さんが話しかけてきた。その人は、その...何とかやれていた日々を思いだす

  • 誰がこんな話、興味あるねん=3と言う話をダラダラ書く理由

    ひとことで言うと、認知行動療法。今の不甲斐無い自分をどうにかしたくて、あの時、頑張れていたよーという記憶を思いだす作業。思考の整理をするのです。🥢🥢🥢🥢🥢9時から糧食班の隊員1人(日替わり監督官)と、責任者Kさん、三人組と私で軽くミィーティングをする。その日の喫食数、メニュー、盛り付け方等。幹部食堂の方はVIPさんと呼ばれる、司令と○○隊長○○副隊長たちがいて、その方たちの配膳打ち合わせは特にしっかりとした。VIPさん達は陶器の食器で、箸置きとおしぼりも用意する。VIPさんには、若いお付の隊員さんがいて、ピングーと同じ歳位かと思われた。9時から2時間でテーブルの用意、トレー食器の数を数え用意し、調理されたものがエレベーターで上...誰がこんな話、興味あるねん=3と言う話をダラダラ書く理由

  • 返しそびれているきみへ

    たった4630万円のハシタカネなんてとっとと返しな名前も顔も晒されたってすぐに海千山千が現れてあなたの事なんて忘れるよ手取り15万円の仕事について10万円でミニマムに暮らし一年間毎月5万円を貯金し60万円貯まったら半分貯金して半分投資してそれを何年か繰り返して自分で稼いだお金を堂々と通帳にいれなさいあなたは若い何でも出来るフロッピーのオッサンどもよ最初にこの若者に会いに行った時菓子折持って、きちんと詫びたのか?遠い銀行まで連れ出した日、この若者に仕事を休ませたんじゃ無いか?若しくは、貴重な休みを奪ったんじゃ無いか?組戻しに必死で、迷惑をかけたという意識が無かったんじゃ無いか?一般企業じゃ有り得ない。役場の対応。フロッピーたちよ💢💴💴💴&#12...返しそびれているきみへ

  • たまごから産まれたわけでは無い

    一昨日は母の日でしたね。7日土曜日に、夫サムの母親のマンションへ、和菓子と美容クリームを持って行きました。緊急事態宣言が出ていて過去2年はスルーしていました。人間的に義母は苦手です。私の運命を変えてくれた人、を産んで下さった人。この事実だけで付きあっています。サムは30分くらいで、もう帰ろう~と何度も言います。そう言うわけにもいかず、私は義母の長い話を聞きます。サムは諦めて一人で長い散歩に行きました。義母の悪口、噂話が始まります。マンションの総会に出て、(役員以外出席者は二人。義母は役員ではない。)報告書の字が小さいわ、書記の方もっと分かりやすく作り直して下さる?管理人の勤務時間を減らしたら、管理費を減らせますよねぇ?言ってやったのよ~┐( ̄ヘ ̄)┌私は家に帰ってから、大袈裟では無く、本当に体調が悪くなりました...たまごから産まれたわけでは無い

  • なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう

    ゴールデンウィークの総括。4月から働き出した息子が2泊3日帰って来た(^O^)野菜を沢山食べさせました🥦一日だけバイトが休みの娘と、小籠包の食べ放題に行きました(๑´ڡ`๑)夫は大好きな釣りへ行きました。リフレッシュ出来たかな?🐟掃除、洗濯、炊事、平日と変化なし。体調も変化なし。来客もなし。人との交流もなし。つい、昨年はまだ働いていて連休のシフトで揉めていたわ。。とか考えてしまう。今は充電。それで良いのです!なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せなるべくいっぱい集めよう

  • エントウシ

    あ〜もう6時…のそりのそりと、必要に迫られて作っていた夕食。超!買いだめしてから、献立を考えるのが楽しくなり、バランスを考えたメニューを、これまた楽しみながら作るようになりました。野菜5〜6種類肉or魚海藻きのこ↑これらは必ず、献立に加える切り方とか上手くないけど、それなりに彩りは良いのです。。が、しかし、美味しくないんです。家族は黙って食べますが。絶対、美味しく無い。分かっているのです。エントウシ塩、糖、脂が足りない。これはわざとなんです。レシピ通りにしたら、きっと美味しいと思うけど、指示された量の2/3〜半分しか使わない。うっすい、薄〜い味です。昔、お産で入院したとき、カレーの匂いがして、「あっ、今日はカレー」とスプーンを手に待っていたら、運ばれて来たのは薄味の野菜の煮物でした。他の産婦さんは皆カレー&#1...エントウシ

  • Cookpadさまさま

    来ましたよ~宅配。この他に、冷凍の魚や肉や大量に。来週の月曜はゴールデンウィークで、宅配おやすみなので、多めに注文どうぞと言われ2万円分の食料品購入。❢❢❢❢3週間もたせられないかなぁゲーム感覚でやってみよう!赤魚の煮付けに添えて、大葉。人参1本、きんぴら。白菜と豚肉のミルフィーユで白菜3枚。無限キャベツ、キャベツ1/4。長芋1/2&オクラ、ねばねば丼コックさん疲れた~Cookpadさまさま

  • 明日はコックさんですよ〜

    長芋半分、キャベツ×1/3白菜1/4、ピーマン3個、オクラしいたけ1袋、大根1/5トマト5個、青ネギ10本大葉5枚、ジャガイモ4個人参4本、しょうが、ニンニク小松菜1袋、きゅうり3本↑↑これが福箱を買う前から冷蔵庫にあった野菜たち。🍅🥒🥬そして、一週間前の私は福箱の存在を知らずキャベツ、ブロッコリー、豆苗トマト、玉ねぎ、じゃがいも人参、ベビーリーフ、まいたけスプラウト、しめじ、きくらげ↑↑を25日に届くように、注文したのでした。冷蔵室は比較的空いていますが、野菜室は満杯〜💦明日は、宅配が来る前に『作り置きおかず』がんばろう!明日はコックさんですよ〜

  • ふくばこ

    一ヶ月に一度くらいの頻度で行く大型スーパーに、車で連れて行って貰いました。昨年秋に改装してから、野菜売場が広くなり、野菜がきれいで新鮮で安くなりました。リンゴやトマト、きゅうりやじゃがいも、玉ねぎなどが大袋に入って、安く売られている目玉コーナーに、今日は大きなダンボールが積まれていました。福箱と書かれたポップには、12種類の野菜が1000円!と。買いました。どんなかなぁ~家に帰って((o(´∀`)o))ワクワク開けてみるとー白菜×1玉大根×1本キャベツ×1玉ミニトマト×1パックさつまいも×1本白ねぎ×2本椎茸×1袋ピーマン×1袋小松菜×1袋なす×4本レタス×1玉しめじ×1パック↑↑これだけの物が入っていました!!どれも新鮮でキレイ。普通に売り場に並べられた物よりも、人の手に触られて無いだけあって、大根のヒゲもつ...ふくばこ

  • あな番、助かったよ~

    あなたの番です。というドラマ原田知世さんと田中圭さん、他にも多数の俳優さんが出ていて、半年間放送された。もう3年前くらいかな?私は、当時は見ていなくて、昨年の秋、週2〜3回午前中に再放送されているものを見ていた。一棟のマンションで次々と殺人事件がおこる。昔よく読んでいた赤川次郎の推理小説の様なテンポのドラマ。私にはおもしろかった。家に籠もっていた私の楽しみになった。〜〜〜〜〜ずっと籠もっていた私だが、12月に、どうしても一人で2時間かけて、出かけなくてはならなくなった。電車を3回乗り換える。そのうち、一回は30分乗りっぱなしの新快速。停まるのは15分後に一駅だけ。電車が怖い。もっとたくさん停車する、快速で行こうかと思ったが、苦痛な時間が増えるだけ。新快速に乗る前、駅のトイレで呼吸を落ち着けた。よし、行くぞ!と思...あな番、助かったよ~

  • 嗚呼、たかぽんさん…。

    もう、飛んでいきたいです。下手な私の料理でも、持って行きたいです。お大事になさって下さい(´;ω;`)ウッ…嗚呼、たかぽんさん…。

  • ダメです、ダメなんです

    一つ前のブログのコメントお返事したいのですが泣いてしまいます。週末は家族が居るので月曜、一人の時間にお返事させて下さい。ダメです、ダメなんです

  • 根無し草 完

    昨年、令和3年の4月上旬叔母さんから父親が入院したと連絡が入った。1〜2週間位で退院出来ると。自営でまだ仕事も現役でしていたし、入院する前日まで自分で運転して色々出かけていたそうだ。弟に何年かぶりに電話をした。「電話したら喜ぶよ」と言われ父親にショートメールでメッセージを送った。「良くなることを祈っています」「ありがとう」と返信が来た。子ども達にそれぞれメッセージを送るように伝えた。何て送って、何て返信が来たかは聞いていないがちゃんとしてくれただろう。翌日「体調どうですか?」と送っても返信は来なかった。最近の子ども達の写真を送ろうとしてもショートメッセージに貼り付ける事が出来なかった。入院から8日目の朝、弟からお父さん今朝亡くなりました。とLINEが入った。私は酷い後悔の念と喪失感に襲われた。憎しみの対象、、、...根無し草完

  • 根無し草 regret

    私が父親と暮らしたのはのべ10年くらい。家を出てから会ったのは全部で5回くらいかなぁ。①家を出てすぐの21歳頃に、私を可愛がってくれた大きいばあちゃんの10年の法事があり、叔母さんから連絡を貰って会場まで行ったら追い返された。その時に数分会った。②次に大きいばあちゃんの、亡くなって20年の法事。その時は追い返されなかった。私が31歳の時。お互い話をすることもなく、父親は遠くからまだ小さな子ども達をチラッと見ていた。➂私が41歳になるまで長生きしてくれた、耳の不自由なおばあちゃんのお通夜とお葬式。おばあちゃん、今までありがとう。私が生きてこれたのはおばあちゃんのおかげです。凄く泣いた。一緒にししまるちゃんも凄く泣いていた。中2になったピングーは、大人に混じっておばあちゃんの棺を抱えてくれた。ひ孫たち、お陰様で無事...根無し草regret

  • 444 turn over a new leaf

    まず始めに。。。皆さまブログを通して仲良くして下さり、ありがとうございます!R3.4.4、昨年の今日は土砂降りの雨でした。私にとって、あまり良い一年ではありませんでした…というより、辛い試練の一年でした。自分が壊れてしまいそうでブログを始めました。何百回も自問自答をくり返し、自分の軌跡を見つめ直し、、生きると言うことは修行なんだと言うことがわかりました。(人生は苦難を乗り越えること)では無く、『人生は与えられた事を成就すること』だそうです。先日ブログで紹介した、加藤諦三先生によると苦労の人生を生きる人は『苦悩能力』と言う凄い能力を持っているそうです。これは生きるにあたり、最高の能力だそうです。私はこれを知ったから、これからの修行も楽しみになりました。R4年4月4日月曜日快晴私の誕生日。命を与えて頂きありがとうご...444turnoveranewleaf

  • 積年のうらみ〜

    ししまるちゃんの初めての入院は1歳のとき、18日間に及んだ。ピングーは幼稚園の延長保育で預かって貰い、サムには出張せず対処して貰った。私は24時間ずっと付き添いだった。入院から一週間程経った時、着替えや私の食料を取りに一度自宅に戻る必要があり仕方なくお義母さんに2時間程、ししまるちゃんの付き添いを頼んだ。大急ぎでタクシーで帰り、洗濯機をまわしシャワーを浴び、洗濯物を干し荷物を詰めて、病院へ戻った。お義母さんにお礼を言って、帰って貰った。ほんの2時間離れただけなのに、ししまるちゃんの顔の雰囲気が変わった感じがした。-----変わってる、、、隣のベッドの付き添いのママさんが、恐る恐る声をかけてきた。「あのー、てのさんが病室を出た後、お姑さんにハサミ持って無いか聞かれて、(6人部屋)の5人とも誰も持って無くて、、、そ...積年のうらみ〜

  • はじめまして、ししまるちゃん ようこそ!わが家へ

    ピングーが3歳のとき私は女の子を出産した。(しし座の生まれで、ちくわが大好きだから、ここでは『ししまるちゃん』と呼ぼう。)ししまるちゃんを出産した時、その時はやはり目の前の幸せに気づく事が出来ず、悲観的な毎日を送っていた。出産して何日かめに、病院のベッドで授乳中、急に不安が押し寄せてきてはらはらと泣いてしまった。見回りに来た助産師さんが驚いて背中をさすってくれた。「てのさん、がんばりやさん」と言ってくれて又涙が流れた。ししまるちゃんは、とにかく体の弱い子だった。幼稚園に入園するまでに肺炎で3回も入院した。入院に至るまでの通院も大変だった。気管支ぜんそくから肺炎になりやすく、近所の小児科から大きな病院へ紹介するから入院するように言われたが、入院中ピングーを見てもらえる人が居なくて、ピングーが幼稚園に行っている間に...はじめまして、ししまるちゃんようこそ!わが家へ

  • ピングーよ、いつ寝るのよ

    ピングーを出産し、退院してからお義母さんの所で10日程お世話になった。が、お義母さんの思いやりの無さにサムが怒って私をマンションに連れ帰った。「もう、おかんの電話にも出んでいいから」と。……サムは又長期の出張に行ってしまい、孤独で不安な育児が始まった。ほんと自分の置かれた環境を恨んだ。それでも何とか何とか毎日死なさないよう一人でお世話した。一ヶ月検診でピングーは普通に順調に成長してくれた。私は1ヶ月で12kgも痩せてしまい、医師に心配された。〜〜〜〜〜〜〜〜〜まあ、育てにくい赤ちゃん。疳の虫が強い子でオムツ一つ変えるのにギャンギャン泣く。とにかく夜泣きが酷かった。ひやきおーがんの銀の粒を飲ませたけど全然効かずお高い方の、金の粒でも全然効かず。つまようじを束にして輪ゴムで留めて、つむじのツボを刺激したら良い。と言...ピングーよ、いつ寝るのよ

  • self-awareness 3 人生はひらけます!

    『テレフォン人生相談』と言うラジオ番組があり、そのパーソナリティの一人に加藤諦三先生と言う人がいる。社会学者で早稲田大学の名誉教授の方。ここ数年地上波はほとんど見てなくて、YouTubeを垂れ流している。いつからかその『テレフォン人生相談』がくり返しくり返し流れるようになった。相談はさまざまで、不倫問題、職場の人間関係、借金、とかが多い。一見関係なさそうな相談に、相談者の年齢、家族の構成、家族の年齢まで聞く。お金の相談なんかで、弁護士が回答者で、法律により白黒はっきり出来る時はスバっと回答するが人間関係の相談は、ああしたらとかこうしたらとか、決して言わない。ひたすら相談者に話させて、パーソナリティはちょこっとヒントを出す感じ。相談者は話すことによって自分で相談内容を整理でき、答えを導き出す。その中であまり恵まれ...self-awareness3人生はひらけます!

  • self-awareness 2

    以前の私は実に僻みっぽい。人を妬む、羨む。自分を卑下する、自己肯定感が低い、本当に低い心理学的にNGな事ばかりしていた。人一倍暖かな家庭に憧れて、誰にも邪魔されずに幸せになれているはずなのに子どもが熱を出したり、自分の体調が悪くて家事もままならず、サムは長期の出張でしんどい時が続いたりしたらすぐに実家に帰ったり、すぐに母親が助けに来たりする、そんなママ友さんを見て僻んでいた。今は全くそんな事が無くなった。人と比べる事が無くなった。7ヶ月前に手術が必要な大病が見つかり大切な事に気づいた。目の前にある小さな幸せに気づいた。凄く怖い思いをしてパニックになったけど、自分ががんばって手に入れた幸せがそこにあることを確認出来た。私は家族が欲しかった。術後5分しか出来ない面会で、「良かった、本当に良かった」と泣いてくれた夫。...self-awareness2

  • 初めまして、ピングー ようこそ!わが家へ

    翌年、私はお母さんになりました。以前に手術をした産科で産みました。(初めて動物園に連れて行った時、ペンギンに強い興味を示したので、赤ちゃんをここではピングーと呼ぼう。)ピングーは男の子で産まれた時から繊細で、ちょっとの物音でもすぐにビクッと泣き出し、夜泣きも酷く育て難い赤ちゃんでした。もちろん可愛かったし、大切に大切に育てたつもり。実家が無く、産前産後助けて貰えない。サムは週末以外はずっと出張。義母はクセの強い性格で、手助けなんか望め無い。色々条件が悪い中、想像以上に子育ては大変だった。私は難病で過労は禁物だったから、産科の先生が「お母さんの身内の方が来たら退院後の注意を伝えますから呼んで下さい」と言ったそうだ。入院中耳の不自由なおばあちゃん、父親の妹である叔母さん、お義母さん、がお見舞いに来てくれた。とてもじ...初めまして、ピングーようこそ!わが家へ

  • self-awareness 1

    今日から自分のブログの中のカテゴリーを新しく作った。self-awareness自己認識。私の人生を肯定出来るように。〜~~~~~~~~~~~26歳私はパートを辞めて、妊婦さんになり、のんびり過ごした。相変わらずサムは週の中日は出張でいなかった。仮設住宅に住んでいたおばあちゃんは元のマンションの改修工事が済んで、戻ることが出来た。弟は工業高校を卒業して就職をし、おばあちゃんの家でほとんど過ごしていた。休みの日、サムは車でおばあちゃんの家に連れて行ってくれた。私の体調は大分安定していた。以前の私では考えられないほど幸せだった。辛かった子ども時代を、振り返ることも、思い出すことも、苦しむことも無かった。2021年4月フラッシュバックしちゃった。self-awareness1

  • 根無し草 60

    カテゴリー『根無し草』で過去日記を書いている。ふと昨日あたりから違和感がある。なんだろう??あぁそうだ!私あっちフラフラ、こっちフラフラの、根無し草じゃ無くなったんだ!結婚して名字が変わって、人生に礎が出来たんだ。大切な伴侶ができ、もれなく義母との付き合いが始まり。。。子供の頃の苦しみ悲しみでは無く、一人前の人間として生きて行けるようになっていた。以前は思い出すのも苦しく、辛く、心が苦しくなり、泣きながらブログを書いていた。昨日はあぁ、あの時義母め〜と軽い苛立ちで済んだ。これは、やはりブログに書くと言うことがセラピーになってるんだ。〰〰〰〰〰〰〰ということで昨日の続きです。お義母さんの性格はサムが良く知っていて、私に嫌なら付き合わなくてもいいし、パートも辞めや〜とは言ってくれていた。でも、悪く言うわけにいかない...根無し草60

  • 根無し草 59

    そのマンションの部屋が安かった理由。単刀直入に言うと、下の部屋に見るからに『ヤ●ザ』の様な夫婦と中学生くらいの娘が住んでいた。最初引越の挨拶に行った時に、真夏だったのでキャミソールの様な格好で出てきた奥さんの、急いで羽織った布で隠しきれない背中の入れ墨を見た時に確信した。そこの家ではしょっちゅう怒号が聞こえていた。救急車やパトカーも頻繁に来た。夫婦喧嘩や娘の躾と称して、奥さんが110番や119番を呼ぶらしい。それでも2年間くらいはうちには関係無く、あ〜又騒がしいなぁ、くらいで終わっていた。結果10年後、もうたまらんとなって引越す事になった。この家族の話は又後日。〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰引越しが落ち着いた頃、お義母さんから仕事を手伝うように言われた。9時から5時までの簡単な事務作業。どうせパートを探すつもりだ...根無し草59

  • 根無し草 58

    仕事を辞めて毎日家でボーッとしていた。今とおんなじ。私達は26歳になった。誰にも赤ちゃんの事は話さなかった。サムと私だけの悲しい出来事だった。仕事を辞めた事だけはお義母さんに伝えた。暫くしたらパートでも探すつもりだった。一ヶ月くらい経った頃お義母さんが中古マンションを買わないかと言ってきた。買ってあげる、では無く買いなさいと。駅前で築20年。他の部屋より何割か安い掘り出し物らしい。お義母さんは、友達と小さな会社をしていて、銀行やら不動産屋から色々勧められるのだろう。相手が商売でおべんちゃらを言ってきても、素直に受け取りノセられてベラベラ貯金の話しとかしてしまうのだろう。貯金と言っても、もしもに備えた程度なのだが。。。投資物件として勧められて、エエかっこして、息子に買わすわとでも言ったのだろう。渋る私に、早く手付...根無し草58

  • 根無し草 57

    私は被災後新しく病院を探し、ある大学病院に通院していた。普通なら紹介状が無ければすぐには診て貰えない病院だが、被災者と言う事で診て貰えた。その病院に結果8年お世話になった。前の病院と同じ薬かと思ったが、血液検査の結果ステロイドに加えエンドキサンという免疫抑制剤が処方されていた。その薬が、赤ちゃんに良くなかった‥処方された時にきちんと説明されたか今となっては思い出せないがその薬は胎児に催奇形性をもたらすという事だった。内科から産科に連絡が行き、診察してもらい、説明を受けた。初診では医師の説明が全然理解出来なかった。2回目の受診の時に、手術日を具体的に決めるよう言われた。妊婦さんで混雑する待ち合いに出た時に、私は全身の力が抜けて長椅子に倒れ込むように座りしばらく立ち上がれなかった。私は仕事を辞めた。何日間か休まなく...根無し草57

  • 根無し草 56

    震災から3ヶ月たち、私達は見知らぬ土地で新しい生活をスタートさせた。私達は24歳になった。私は転勤先でも人に恵まれすぐ馴染むことが出来た。伯母さんの家に避難していたおばあちゃんは仮設住宅の抽選に当たり、又一人暮らしに戻った。サムは職種が変わり月に半分近く出張に行くようになった。出張の期間はおばあちゃんの仮設住宅に泊まりに行き、そこから出社するようにした。仮設住宅は電車のもより駅からバスを乗り継いで、バス停からも相当歩かなければならない辺鄙な所にあった。そこから出社もだんだんと無理が出てきて、サムが出張の時は逆におばあちゃんがはるばるやって来て泊まって行くようになった。私は仕事帰りに美味しい物を買っておばあちゃんと一緒に食べたりした。教習所に通い、車の免許も取った。全く知らない土地で誰にも邪魔されない生活を送る事...根無し草56

  • 根無し草 55

    4月になり私達は再び二人の生活をスタートさせた。普通なら1時間前後で行ける距離を、半日かけて引越屋さんが荷物を運んでくれた。阪神高速が倒壊した。絶対に壊れるはずの無いものがこわれた。未知のエネルギーの恐ろしさをまざまざと感じた。私の通院していた病院も被災し、入院患者の方が亡くなられた。近隣の方が大怪我で運び込まれたり、もうすでに亡くなられた人を、助けてくださいと家族が担ぎ込んだりしたそうだ…ニュースに映し出されたその病院は野戦病院のようだった。私の病気を診断してくれた病院。毎週から2週間に一度、2週間から一ヶ月に一度と通院間隔が開き出してこうやって病気と付き合って行くんだなと教えてくれた。こうやってブログに書くまで、今まで思い出したこと無かったけど、どれだけの人達が関わっていたか…何か、ウクライナと重なる。辛い...根無し草55

  • 根無し草 54

    お義母さんは私達の為に新しい布団と毛布を買ってくれていた。一人で大変だったでしょう、有り難かった。仕事の方はと言うと私の会社は被災してしばらく誰も出社出来なかった。サムの会社はお義母さんのマンションから通える場所にあり、被災もしていなかったので、一週間後くらいから働き始めた。私は会社の計らいでそこから通える支店に転勤させて貰えた。私達のマンションは簡単に片付けただけでそのままだった。戻ろうにも電車も動いていないし、道路も繋がっていない。そのうち、いつもは観光客のカップルや家族連れを乗せる遊覧船が、200円で2時間かけて、被災地の港から被災していない街の港まで運んでくれるようになった。その遊覧船でマンションに戻り必要な物をリュックに詰めて、何回か行き来した。一人しか出入り出来ない決まりでもあったのか、、よく思い出...根無し草54

  • THE CRO-MAGNONS ハル

    奇跡のように笑うあなたに会えるならそこにあると決めた僕の探しものは海に沈む夕陽遠くまで届けば誰かを気づかせる一番星になるお星様お星様逃げません僕はもうトケテヒロガルイマハルいつか咲くと言った白い花をつけて僕はもう見つけたあなたの白い花お星様お星様負けません僕はもうミドリヒロガルイマハルザ・クロマニヨンズの『ACEROCKER』というアルバムに収録された「ハル」という曲です。これは東日本大震災の翌年に発売されました。私はこの曲に強いメッセージを受けました。この時期になると何度も何度も聞きたくなります。そして黙祷を捧げました。THECRO-MAGNONSハル

  • 根無し草 53

    おばあちゃんは父親の姉の方の伯母さんの家に引き取られた。伯母さんはおばあちゃんのマンションよりも北に住んでいたので震災の被害はあまり無かった。伯母さんは私が産まれた時にはもう結婚していて私はあまり交流が無かった。私達が半年前に結婚式を挙げ、一つ一つ集めた食器も一瞬にして割れてしまった。いや、食器なんてどうでも良い。6000人以上の方が犠牲になった。私達が住んでいた賃貸マンションは頑丈だったので『一部損壊』の緑の紙が貼られた。その他私の親類の家は『半壊』の黄色い紙が貼られた。私達は2日後にサムのお義母さんのマンションに避難させて貰う事にした。何十キロも歩いて電車が通っている駅まで行きやっと着いたその駅でも人が溢れかえりホームに入るまでも何時間もかかった。電車から見た街は電車が通っているだけあって、被害はマシに見え...根無し草53

  • 根無し草 52

    活断層は東西にのびていた。私達が新生活を始めた場所も弟が家族と住んでいる家もおばあちゃんが一人で住んでいるマンションも叔母さんが住んでいる家も産みの母親の家も活断層付近にあったため私の親戚ほとんどが被災者となった。私がかつてお世話になっていたRさんの実家は無事だった。良かった。1995年1月17日経験したことのない揺れが襲った。最初、うちの周りの狭い範囲に地盤沈下が起こったのかと思った。夜が明けだして範囲が広い事を知り私とサムはおばあちゃんのマンションに歩いて向った。マンションのドアは潰れて開かなかった。ドアをドンドン叩いたが中の様子はわからなかった。赤ちゃんを連れた若いご夫婦が、どこからか歩いて来て「ここ耳の聞こえないおばあさんが一人で住んでるんですわ」とご主人の方が言った。おばあちゃんの隣に住むご家族だった...根無し草52

  • 根無し草 51

    新しい生活は雑貨や食器を買うところからスタートした。冷蔵庫や洗濯機テレビは、サムのお義母さんが買って下さった。二人の給料合わせてやっと大卒初任給くらいだった。私は成人して自分で稼ぎ伴侶を得て自分の人生を歩き始めた。自分で切り開いた人生幸せしか無いはず…なのにいつも心の奥の方にモヤモヤとしたものがあり、隠れてコソコソ生きているような感覚に陥った。この感覚はこのあとしばらく何年も続いた。おばあちゃんに新居に遊びに来てもらった。弟も遊びに来た。サムが小遣いをあげたもんだから、毎週遊びに来るようになった。反抗期だったけど、親の存在がしんどい時に息抜きできる場所になって良かった。そんな平和な生活が一変した。私達が住んでいたのは阪神淡路大震災の被災地になった場所だった。根無し草51

  • 根無し草 ㊿

    1994年の真夏のとても暑い日に山の上にあるホテルのチャペルで私達は結婚式を挙げた。挙式、衣装、宿泊がセットになって50000円のプランだった。おばあちゃんが参列してくれた。それほど大きく無いチャペルがだだっ広く見えて違和感のある挙式だった。炎天下おばあちゃんが山から無事帰れるかとても心配だった。昔団地で一緒に暮らしていた叔母さんに、おばあちゃんが無事帰り着いたかFAXで確かめて貰う為に公衆電話から電話をかけた。すると叔母さんの方に、おばあちゃんから挙式が無事行われたとFAXで報告してくれた後だった。「私も参列してあげたら良かった」と叔母さんは言ってくれた。〜〜〜〜私の夫になってくれた彼の事ををハンサムなので(容姿ではない)ブログではサムと呼ぼう。〜〜〜〜サムと私、23歳の夏。新しい生活が始まった。根無し草㊿

  • 根無し草 ㊾

    結局話し合いにはなら無かった。父親は、産みの母親を探して養子縁組みしろ、家を出て籍を抜け!!と怒鳴り散らした。私は家を出た。彼の部屋で一緒に住まわせて貰い、そこから仕事に通った。父親は会社に電話してきて家を出た事を言ったようだった。普通の言い方では無かっただろう。彼のお母さんに何度かお会いした。お義母さんは、お義父さんとは5年ほど前に離婚して、彼が家を出た後、一人で新築マンションで悠々自適に暮らしていた。友達と小さな事業をされていて、それに夢中でいい意味で息子には無関心だった。私達はお互い23歳になり正式に籍を入れた。押しかけ女房ですね。真夏の暑い日に教会で結婚式を挙げた。二人きりで挙式のつもりだったが、彼のお母さんと私のおばあちゃんだけには列席してもらおうと思っていた。お義母さんは仕事があるからとの理由で、来...根無し草㊾

  • 根無し草 ㊽

    中1の夏休み最後の日家を出た時とそっくりだと思った。あの時、あの後、うちに一歩も戻る事は無かった。今回も戻る事は無いだろう。終電ギリギリの時間。携帯なんて無い時代。私は迷わず彼の所へ向かった。彼は起きていて、驚いて、迎え入れてくれた。翌日、私を連れて彼は家に話をしに行ってくれた。私に対して普通に接していない両親が、彼に対しても常識的に話をすることは無かった。家にはあげず、近くの中華料理屋で話をした。途中父親が大声を出したり、机を叩いたりして店の看板犬が怖がって、店主の後ろに隠れていた。それをおじさんが優しく撫でていた。申し訳無かった。私に席を外させて、父親とRさんと彼の3人で話をした。彼に随分失礼な態度を取ったようだった。こうやって書いていても気分が悪い。免疫が下がるわ。根無し草㊽

  • 根無し草 ㊼

    今振り返ってみても何がきっかけで季節がいつでとか、全然思い出せない。ある日の夕食後、家の廊下で、弟に向かって私は叫んでいた。わぁーーわぁーーと言葉になら無い言葉を叫んでいた。きっとちょっとした弟の反抗的な態度がきっかけとなって私の心のバランスがグラグラと崩れたんだと思う。私はその日、家事をせず。布団に入った。家族が寝静まった夜中、家を出た。根無し草㊼

  • THE BLUE HEARTS 1985

    1985国籍不明の1985飛行機が飛んだ風を砕くのは銀色のボディー謎のイニシャルは誰かの名前僕たちがまだ生まれてなかった40年前戦争に負けたそしてこの島は歴史に残った放射能に汚染された島1985求めちゃいけない1985甘い口づけは黒い雨が降る死にかけた街で何をかけようかジュークボックスで1985今、この空は神様も住めないそして海まで山分けにするのか誰がつくった物でもないのに1985クリスマスまでにサンタクロースのおじさんの命が危ない1985選挙ポスターも1985あてにならないプーチンよ恥を知りなさいTHEBLUEHEARTS1985

  • 根無し草 ㊻

    入社前、健康診断を受けて提出した。血液検査も私の病気の項目はチェック対象で無かった為、バレなかった。病気の事は面接でも言わないし、入社してからも一切言わなかった。本当は駄目なんだろう。でも、私は稼ぐチャンスを無くしたく無かった。働き出して、私は楽しかった。同期も沢山いて一ヶ月研修を受けながら仲良くなった。配属された場所で、パソコンを教えてくれた先輩はとても優しかった。変色して腫れた指を見て一瞬驚いた顔をしたけど、何も気づかないフリをして入力の仕方を教えてくれた。家では相変わらず家事労働が待っていた。両親は家にお金を入れるように言ってきた。妹は年長さんになり、弟は中学生になって反抗期に入った。新入社員だから残業することは無かったけど、家に帰りたく無かったから、タイムカードを押した後で毎日ダラダラと会社に残った。あ...根無し草㊻

  • 私、引きこもりなんです。

    昨年の夏までは一日6時間働いて、買い物や銀行やその他諸々用事も平気にこなしていた。人間ドックで大病が見つかり私の心のバランスが崩れた。手術までは毎日これは悪い夢じゃないかと寝ていてもガバッと起き上がり現実だと分かるとおいおい泣いた。主治医に眠れない食べられないと伝えたが、メンタルの部分は専門外だった。仕事は手術前に辞めた。そこの職場は、口さがない人の集まりだったので絶対に理由は言わなかった。近所の人達と生協の共同購入をしていたけどそれも辞めた。別の仕事を見つけたから、共同購入の時間に間に合わないと嘘をついた。今は共同購入の時間はうちの中で息を潜めている。美容院は入院の3日前に行った。いつもはお任せしてるけど、その日はもっと短くもっと短くとかなり短くして貰った。それから行ってない。通院する以外ほとんど外に出ていな...私、引きこもりなんです。

  • 根無し草 ㊺

    体調の方は薬のおかげで血液検査の結果が悪化することは無かった。が、劇的に良くなる事も無かった。関節炎もおこってしまい、顔も相変わらずパンパンに浮腫んでいた。将来を悲観して毎晩泣いた。夜眠れなくなってきた。睡眠導入剤を処方してもらい、それを飲むと朝までぐっすり眠れるが、時間を考えて飲まないと朝起きられなかった。そんなとき、彼が色々色々調べて浮腫に効くという漢方薬を探してきてくれた。本当に効いて一ヶ月くらいすると久しぶりに顔がスッキリとした。両頬に出来た痣のような皮膚炎は治らなかった。私はファンデーションを厚く塗り就職活動をした。「うちの会社は厚化粧はいない。」と、今ではNGな事を言ってきた失礼な面接官もいた。夜一人で泣いた。失礼な面接官の会社に受かった。短大を卒業して、春から働き出すことになった。アルバイトをした...根無し草㊺

  • 根無し草 ㊹

    成人式の当日。気付けをして写真を撮っておばあちゃんに見せに行った。一人暮らしをしながら働いている彼が、私の身体を心配して電車を乗り継いで、成人式の会場に連れて行ってくれた。彼も成人式なのに地元に帰らず私に付き添ってくれた。小中高時代と何の縁も無い、今の居住地から届いた招待状。全く知らない人ばかりの輪があちこちで出来ていて男女ともキャッキャと楽しそうだった。女の子達は親に車で送迎してもらっていた。私は何度も駅の階段を昇り降りして、随分着物も気崩れていた。草履も痛かった。団体毎に記念写真を撮っていた。式典が始まってもあちこちでお喋りは止まなかった。私は途中で会場を出た。彼が居なかったら、惨めさに拍車がかかっていただろう。成人式、惨めな思い出しかなかった。今年になるまでは。2022年、久しぶりに写真を見た。この写真捨...根無し草㊹

  • 根無し草 ㊸

    私が20歳を迎えた時耳の聞こえないおばあちゃんが、成人式の心配をしてくれた。もちろん両親は無関心だった。おばあちゃんは叔母さん(父親の妹)の振り袖を手配してくれた。草履とバッグとショールの新品を買ってくれた。自分の行きつけの美容院に、ヘアーセットと着付けの予約をしてくれた。私の為に奔走してくれた事が本当に嬉しかった。そんな様子を見てRさんは、首をかしげながら「成人式、成人式ってそんなに必死にするものかな?私はこの子にはしない」と4歳の娘の前で言ってしまった。自分は国立大学に通っていて成人式なんかより、有意義な事があった。自分の娘にもそういう大学生活をおくらせる。という意味だったかも知れない。あのねRさん、4歳の女の子はそういう言葉しっかりと心と記憶に残るんだよ。その日から妹は私に凄く反抗してきたり、生意気さがま...根無し草㊸

  • 根無し草 ㊷

    その時の家族父親、Rさん(敢えて両親と呼ぼう)12歳になった弟。4歳になった妹。その4人は普通の家族に見えた。4人で普通に暮らしたら良いのに。父親は気に入らないことがあると恫喝したり、物を投げてきた。私だけに。今でも大きな物音を聞くと、心臓がバクバクして息苦しくなる。Rさんも情け深い人では無かったから、低レベルな短大に大金つぎ込んで貰ってるんだから、家の手伝いくらい当たり前。というスタンスだった。19歳や20歳って、色々冒険したりして親を超えようとする大切な時間じゃないの?私の時間、いや人生そのものを搾取して、、、もう、開放してよ。生きるのしんどいわ。根無し草㊷

  • 根無し草 ㊶

    すぐに大量のステロイドの経口投与が始まった。日光に当たらない。過労にならないよう、安静に休養する。医者から言われたけどそういうわけにはいかなかった。親たちはあまり心配していなかった。難病は特定疾患で、保健所に届け出て受給者証を受け取る。当時は私の病気は全額公費負担だった。医療費が全くかかっていないからか、病気の重大さを全然わかって貰えなかった。布団で安静になんて出来なかった。ステロイドの副作用で顔がパンパンに浮腫んだ。髪の毛も沢山抜けた。彼氏に会った時、私と一緒に泣いてくれた。私のために白い可愛い折り畳みの日傘をプレゼントしてくれた。当時は若い子が日傘を指したり、夏に長袖を着て日除けをするような文化が無かったから、日光に当たらないのは難しいと思っていたけどその可愛い日傘のおかげで外を歩けた。ありがとう体調は全然...根無し草㊶

  • 根無し草 ㊵

    何度皮膚科へ通っても良くならなかった。身体のダルさは益々増して行った。皮膚科から大きな病院へ紹介された。その病院で診察と検査を受け、私の症状の原因が分かった。やっぱり怠けてるわけじゃ無かったんだ。ホッとした。と同時にとんでも無い恐怖に襲われた。その病の名前は全身性エリテマトーデス(通称SLE)初めて聞く病名だった。自分で自分の免疫を攻撃する、原因不明の難病だった。一生治らない。インターネットで検索何てできない時代。図書館で調べた。怖いことが沢山書いてあった。怖くて怖くて食欲も無くなり、夜も眠れなくなった。根無し草㊵

  • 根無し草 ㊴

    家事労働がしんどい。夕方になると特にしんどい。言いようのないダルさ。つばを呑み込むと喉が痛い。今の生活になって2ヶ月ほど経った時、毎日そんな症状に襲われた。小学校高学年になった弟は私の事を心配してくれた。保育所に通う妹はRさんによく似て頭がよく、私の事を下に見ていた。とにかくしんどいのだけれど、熱が出たり咳が出たりするわけでは無いから病院にも行かなかった。親からは怠け病のように言われた。5月の強い紫外線に当たり私の顔は真っ赤に腫れた。冬でもないに、指の関節が霜焼けのように赤くプクプクと腫れた。父親が気持ち悪いから病院へ行け、と言ってやっと病院へ行くことが出来た。皮膚科へ行って塗り薬を処方された。2週間経っても良くならなかった。それどころか悪化した。根無し草㊴

  • 根無し草 ㊳

    短大に通いながら私は家事労働をした。家事手伝い、では無く本当に家事労働。父親とRさんは共働きだった為、妹の保育所の迎え、掃除、洗濯、買い物、夕食準備短大に通いながらキツかった。もちろんアルバイトする時間もなく、友達と遊ぶ時間もない。幸いというか彼氏は1年間他県に研修だったので、おばあちゃんの家を利用して手紙を送って貰ってやりとりしていた。手紙が私の心の支えだった。私は、毎日過労とストレスでおかしくなりそうだった。いや、本当に病んでしまった。根無し草㊳

  • 根無し草 ㊲

    私は何度か遊んだグループの中の一人の男の子とよく話すようになり付き合うことになった。友達の中でも慕われてるようで、控え目で優しく良く気が付く人だった。引き寄せの法則とでも言うのか、私程では無いが彼も家庭運が無い人だった。私は父が再婚してその相手の人の実家に居候しているから、あまり自由が無いことを詫びていた。高校卒業までの2ヶ月間、時間をやり繰りして水族館や動物園や空港に飛行機を見に行ったりした。彼は高校を卒業してから就職をした。私は卒業してから居候のうちを出て、父親とRさん、弟、妹の暮らす家から短大に通うことになった。耳の不自由なおばあちゃんは父親の近くの1dkのマンションに住むことになった。それだけは安心だった。私は、居候していたM市の方が短大は通いやすいのだが、又勝手に私の行き場所が変わった。それが地獄の始...根無し草㊲

  • 根無し草 ㊱

    高3の秋。おそらくこのまま皆勤であるだろうと言う事。偏差値の低い中で成績が上位だった事。それにより私は付属の短大の推薦入試を受けることになった。小論文と面接のみの入試。もちろん合格した。父親はお金の事をネチネチ言った。年が明けて卒業までの3ヶ月少し時間に余裕が出来た。クラスの友達と遊びに行く事があった。行き先とメンバーを必ず伝え(メンバーは本当の事は言わなかった)6時を過ぎて帰ることは無かった。クラスの子たちはだいたいどこかの短大や専門学校に進路が決まりフワフワしていた。私もフワフワしていた。一人の友達に彼氏が出来た。その彼氏が友達を何人か連れて来るから、こっちも何人かで遊ぼうと誘われた。運命の始まりだった。根無し草㊱

  • 根無し草 ㉟

    私は時間を作って母に会いに行った。もちろん誰にも内緒で。母には今の状況を簡単に説明して、当分会うことが出来ないことを伝えた。困った事があったらいつでも連絡しておいでと言って、別れ際に一万円を貰った。帰ってからその一万円札をレターセットの封筒に入れ引き出しの奥にしまった。前々から私の荷物が触られているのを分かっていたから、すぐ見つかるのは分かっていた。やはり暫くして、何か隠し事は無いかと聞かれる事が何度かあった。私は、ありません。と言い切っていた。それで良い。それから何年も母に連絡することは無かった。居候の身では、家というのはやすらぎの場所では無かった。外で嫌なことがあっても家に帰ったらくつろげる。普通はそうなんじゃないかな。小さい頃から行き来のあった実のおじいちゃんおばあちゃんならまだしも、初めて会って3年も経...根無し草㉟

  • 根無し草 ㉞

    ある日、私は職員室に呼び出された。非常に規律の厳しい生徒と先生の距離の遠〜い学校だった為、生徒が職員室に呼び出されるなんてめったに無いことだった。クラスはざわざわした。担任の先生が、「お母さんから電話がかかってるの」と言った。お母さん??おばあさんのこと??Rさんの事??私が職員室の電話に出ると、それは、久しぶりに聞く母親の声だった。中3の2学期突然連絡が出来なくなって2年近く経っていた。絵が入賞して、新聞に学校名と氏名が小さく載ったようでそれを偶然見つけて居ても立っても居られず、連絡してきたと。私はそんなもの載っている事すら知らなかった。私は又かけ直すと言って電話を切った。担任の先生には保護者にも言わないで欲しいとお願いした。卒業まで守ってくれた。聞き耳をたてている先生たちの真ん中で私はボロボロ泣いてしまった...根無し草㉞

  • 根無し草 ㉝

    一ヶ月程して里帰りしていたRさんと赤ちゃんは自分の家族の元に帰って行った。変な表現だけど、弟に妹ができ4人家族になった。幸せになりますように。一方で、私は毎日打ち込むものもなくアルバイトも禁止され家と学校の往復だった。美術の授業をわざと居残って丁寧に仕上げたり掃除も頼まれてもいないのに人の担当までやって下校を遅らせた。たまに放課後、友達からハンバーガーやドーナツ食べに行こうと誘われたが中学の時のパスタの事があり断り続けた。付き合いが悪いやつには、そのうち声がかからなくなった。月3000円の小遣いは出納帳に記入して報告することになっていた。自由に服を買ったり映画を見たりするには足りなかった。私は貯金をしてCDラジカセとブルーハーツのCDを買った。テレビを自由に見ることが出来なかったから、CDで音楽を聞く事が楽しみ...根無し草㉝

  • 根無し草 ㉜

    勉強の遅れていた私も何とか受験勉強の甲斐あって、無事に高校入試に合格した。偏差値38の私立の女子高。やたら校則が厳しく、地元でも敬遠されていた。倍率も低く専願で落ちる人などいるのだろうか。私の中学からは受験者数1名。受験勉強の甲斐あってハイ、合格した。中学の友達は皆ちゃんと志望校に合格した。地元では公立高校3校が人気で、あとは偏差値60くらいの私立に専願。皆ちゃんと合格した。模試の後のパスタ、楽しかったよ。ありがとう。半年だったけど仲良くしてくれてありがとう。🌸🌸🌸厳しいつまらない高校生活が始まった。当たり前だけど同じ位の偏差値の集まりだった。中学の友達とは違う雰囲気だった。勉強よりも服装チェックや持ち物検査に力を入れている高校だった。元々青春なんて求めていない。...根無し草㉜

  • 根無し草 ㉛

    私はその頃には意見を求められたりすると自分の考えや感じたことを素直に口に出す事が出来なくなっていた。相手が何を求めているか、何と応えたら正解か、喜ばれるか、自分をよく見せられるか、そんなことばかり考えて会話するから、やたら口数が多くなり、相手を褒め称えながら言葉を選ぶ。居候の自分はそんなふうになっていた。毎日布団に入るとどっと疲れた。新しい中学では受験シーズンに入った為、クラブ活動や放課後遊んだりすることもなく淡々と日々が過ぎていった。秋になり休日に電車で隣町の高校へ、模試を受けに行った。クラスの女子6〜7人のグループに入れてもらい、模試に出かけた。模試が終わり、彼女たちは会場から家とは反対方面の駅まで行きパスタを食べよう、と誘ってくれた。模試の帰りはいつもそうしているようだった。電車代プラスα持たせて貰ってい...根無し草㉛

  • 根無し草 ㉚

    転校先の中学校ではあれやこれや、家庭の事情を聞いてくる子はあまり居なかった。三つの中学校に通った私が感じたことは最初のニュータウンのある、E市のT町は、街開きして数年だったため、中学校も創立が浅く、若い世帯が多く地域の重鎮の様な人が居ないため先生達がのびのびしていて、生徒も素直で勉強の質も高かった。次に通ったS市の中学校は、私が住んでいたような団地が、何十棟も立ち並ぶ町にあり、(もちろん一軒家やマンションの子も居たが)荒れていた。そして、初めて訪れたM市にある中学校は、閑静な町並みにあり文教地区といった感じだった。三つの中学校では、制服はもちろん教科書や副読本も全く違った。E市からS市に移った時はそれ程困らなかった。M市では困った。私は元々勉強が遅れていたのに、教科書も、副読本も難しい。公立中学なのに、採用して...根無し草㉚

  • 根無し草 ㉙

    またまた随分間が開いてしまった。子ども時代を思い出すと息苦しく、気分悪くなります。でも自分の思考を整理するために続けます。中三の二学期、転校するところから。私がおばあちゃんと離れて暮らすことになった場所は、父親の再婚相手のRさんの実家だった。2、3回しか会った事のない50代の人達を、おじいさん、おばあさんと呼んで、お世話になることになった。突然の事で、私もおばあちゃんも何の相談もされず引き離された。大好きな団地の5階からの夜景は二度と見ることは無かった。友達に別れの挨拶も出来ず月に一度会っていた母親とも連絡が取れなくなった。携帯など無い時代。おばあちゃんの家にあった黒電話で母と連絡をとっていた。母と会っていた事はおばあちゃん以外誰も知らない。おばあちゃんは耳が聞こえないから電話に出られない。突然連絡が取れなくな...根無し草㉙

  • 2022/01/17

    その日の朝ゴゴゴゴーと地鳴りがして突き上げる様な衝撃がありトランポリンの様な揺れの中ガチャンガチャンと食器が割れる音を聞きながら布団で頭を守っていた揺れがおさまり窓から見た町の景色はいつもより建物たちが低くなりあちこちからジリジリジリと鳴る非常ベルと立体駐車場から落ちた車たちのクラクションが鳴り続けて尋常では無い世界だった他県ナンバーの消防車があちらこちらに現れたが消火栓からは水が出ず為す術もないようだった救援物資と書かれた幕を張ったトラックが運んできたのは水や食糧、毛布などそして棺桶‥皆で被災された方々を偲び祈りましょう2022/01/17

  • 根無し草 ㉘

    15歳になった私は、生きている意味が見いだせない毎日を送っていた。団地の5階のベランダからの夜景はとても綺麗だった。小さい頃に眠れなくて泣いていたら、おばあちゃんが私を抱っこして、遠くの団地かマンションを指差して、「きれいやね、お城みたいやね」と話してくれた。中学生になっても、その景色を見るのは大好きだった。大げさではなく、何時間でも見ていられた。夜中の2時でも3時でもずっと起きて見ていた。夜更しをしてだらし無い生活を送っていた。その頃には勉強が全く出来なくなっていた。分からないのでは無く、分かろうとしなかった。何に対しても無気力だった。周りの子たちが進路希望を出す中、何の希望も無かった。そもそもどんな高校がどこにあり、それを希望する?全く意味が分からなかった。中3の夏休みが終わる頃、私は又転校した。突然の事だ根無し草㉘

  • 根無し草 ㉗

    父親の再婚相手の方はRさんと言った。Rさんは父親よりも10歳年下で、頭の良い女性だった。国立大学を出ていて、はきはきと話し、仕事が出来そうな人だった。Rさんの父親は高校の校長先生をしていて、母親は家事を完璧にこなす専業主婦だった。初婚だったRさんと父親は大きな結婚式をあげた。かつて一緒に住んでいた叔母さん達、私、弟、おばあちゃんも出席しあちらの親族と顔を合わせた。弟はRさんと何度か会っていたようだった。すでに懐いていて、Rさんの事を「おかあさん」と呼んでいた。そう、私がかつて弟を産んだおかあさんの事を躊躇無く「おかあさん」と呼んだように。8歳で、初めて「おかあさん」と口にした。良かったね可愛がってもらうんだよ。私は、、私はもう、その新しい家族の一員にはなれなかった。なりたくも無かった。完全に父親を憎しみの対象と...根無し草㉗

  • ノートに書きなぐるように始めたブログです

    泥濘んだ道で派手にコケて剥き出しの膝を打って擦りむいた泥やゴミが傷口に沢山ついていて水洗いもせずそのまま絆創膏で塞いだ何年も何十年も放置して傷口はバイ菌で膿んでしまい酷い痛みを伴った滲出液で何十年も貼り付いた絆創膏それがあるきっかけで剥がれ始めいくら押さえても粘着力は失われていてもう全部剥がしてしまわなければならなかった傷口と一体化した絆創膏ゆっくりゆっくり痛みに耐えながら剥がす傷口は膿んで腐りかけていた➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖2021年は今まで放置していた傷口が露呈したそんな年だった2022年は傷口を綺麗に洗い薬も塗ろうノートに書きなぐるように始めたブログです

  • 根無し草 ㉖

    弟があのニュータウンの家に帰って行く日。本当に辛かった。その頃の私は絶望の中にいた。希望が無いのでは無く自分の人生に絶望していた。それから何ヶ月か経ち、私達の生活が大きく変わる事になる。かつて、父親、おかあさん、私、弟の4人で、幸せに暮らしていた、あの家。知らないオヤコ4人に乗っ取られたあの家。山を切り拓いてつくられたニュータウンのあの家。それを処分して、父親が仕事で知り合った人と再婚する事になった。中一の夏休み最後の日に飛び出して、とうとう戻ることが無かった。幸せな日もあった。あのお家にサヨナラもありがとうも言えなかった。これからどうなるのだろう‥弟が幸せになってくれたらそれで良い。私はこの団地でおばあちゃんと一緒に住んでいく。そう思っていた。根無し草㉖

  • 根無し草 ㉕

    弟に会いたい…その願いが叶う時が来た。春休みの間、おばあちゃんの所で弟を預かる事になった。私はとても嬉しくて早く来ないかなと、その日を待った。待ち焦がれていた、久しぶりに見る弟は…ガリガリに痩せていて、眼つきや言葉遣いが酷く悪くなっていた。それでもかわいい弟だった。近くの公園やスーパーに手を繋いで連れて行った。夜はおばあちゃんと私と弟の3人で一つの部屋で寝た。夜中寝静まった頃、突然弟がむくりと起き出して、床をドンドンと蹴ったり壁を叩いたりした。私はびっくりして、「どうしたん?!」と何度も声をかけたが、弟はやめなかった。弟の目はしっかりと閉じられていた。翌朝、弟は全くその事を覚えていなかった。それは毎晩続いた。何日か経った日に、下の階の人が見慣れないバスタオルを持って訪ねてきた。ベランダに落ちてたんだけど、おたく...根無し草㉕

  • 根無し草 ㉔

    母親と月に一度買い物に行ける生活になり、随分心が軽くなった。修学旅行の準備も難無くクリアできた。自分でも不思議だったのが、甘えたいとか、一緒にくらしたいだとかそんな感情は全く無かった。ただ、あのニュータウンに置いてきた幼い弟の事が気がかりだった。もう小学生になっているはずだった。母親と会ったその後は、虚しさとともに弟に対する申し訳無い気持ちがこみ上げた。会いたいなぁ。自分にはどうする事も出来ない無力よなぁ。根無し草㉔

  • 辛い時こそ笑えよ〜😂

    先日よしもとの漫才劇場に初めて行った。元々テレビで漫才を見るのは好き。今年はしんどかったから、思い切り笑おう。いつも何かしらの不安が、頭の中で浮かんでは心臓の動きを早くしたり腸を絞り上げる。自分の力では、どうする事も出来ない。プロの力を借りよう!面白かった~泣くほど笑った~途中、いつもの癖でもう一人の自分が「どうしようどうしよう」と頭の中で話しかけてきた。集中集中!笑う事に集中!敢えて誰が出演するか、調べずに行った。まだテレビに出ていない芸人さんから、M1チャンピオンのミルクボーイ、銀シャリ!からし蓮根、おいでやすこがも面白かったこの先ずっと身体の不安はつきまとう。これからは、検査の後のご褒美に漫才を見よう!辛い検査→漫才劇場→大笑いこれを条件反射になるまで訓練しよう。パブロフの犬U^ェ^U辛い時こそ笑えよ〜😂

  • 根無し草 ㉓

    先行き不安な毎日を過ごしながら、中学生の私と耳の不自由なおばあちゃんはなんとか生きていた。おばあちゃんは私の生みの母親の連絡先を知っており、私に連絡するように言った。母親と話をするのは5年ぶりだった。それから毎月いちにちだけ日曜日に会うことになった。それは、私の住んでいる団地では無く母親の家でも無く、百貨店や商店街のある、繁華街で待ち合わせるのだった。私は変な服装をしていた。小学生の時からずっと着続けている服や、叔母さんが昔着ていた服を着て一人で電車に乗って待ち合わせの街に行くものだから、同じ車両に乗り合わせた、私と同い年くらいの親娘にじっと見られヒソヒソ笑われていた。母親に毎月服を買ってもらいそれを次に会う時に着ていった。家庭科で翌年も生地を用意しなければならなかった。母親は生地問屋街に連れて行ってくれた。生...根無し草㉓

  • 根無し草 ㉒

    中1の二学期団地で、耳の不自由なおばあちゃんと暮らし始めたところから。物を取られたり、暴力を振るわれたり、そんな心配は無くなった。しかし困ったことはたくさんあった。必要な物を準備出来ない。耳の聞こえないおばあちゃんには用意出来ない。お金もない。家庭科の授業で、パジャマを作るため好きな生地を自分で用意しなければならなかった。家庭科のその日に準備出来なかった。次の週も用意が出来ず、外部から講師で来ていた家庭科の先生は、ヒステリックに怒鳴った。いつになったら持って来るの💢いつまでも、持って来れないよ。一生持って来れないよ~だ。岸田総理へ18歳以下への10万円、とりあえず学校へ預けてよ。身体ひとつで安心して学校へ行けるようにしてあげてよ。クラブ活動もしたかったよ。ユニフォームや、遠征費もいるし。お金も無...根無し草㉒

  • 近況報告です(。・_・。)

    随分更新出来ていません。家族以外の誰にも言えなかった事。これからも言うつもりは無いですが。私のブログを読んで下さってる方にだけ、少しお伝えします。3ヶ月前、たまたまの検診で大病が見つかり、辛い検査を重ねて、あれよあれよと言う間に手術しました。身体には25センチの大きな傷が残りました。創部の周りは歯医者の麻酔の後の様な感覚で、今も感覚が麻痺しています。病気について詳しくはまたいつか…。診断された日から、毎日泣きました。入院中も泣いていました。元々不安を強く感じる性格です。食欲も無くなり、睡眠もますます浅くなりました。4月から自分の生い立ちを振り返り、苦しくて泣いてばかりいたので、免疫力が落ちたのでしょうか。死、が頭をよぎりました。というか、頭も心もその事しかありませんでした。退院して2ヶ月、やっと気持ちが落ち着い...近況報告です(。・_・。)

  • 根無し草 ㉑

    時は遡り、父親とおかあさんが離婚協議していたあの頃。私8歳。私は生みの母親と2週間程過ごした事がある。狭いアパートの2階、お風呂も無く銭湯に通った。私は写真しか見たことが無かったが、写真そのままの人で優しい声の母だった。母と夜に遊園地に行った母の友達数人もいた。母はまだ20代で、おそらくその友達はまだ独身だと思われた。私は流行っていたドラえもんの話を機関銃のようにしゃべりまくった。母はベンチの端で泣いていた。母の友達が私のハイテンションの相手をしてくれた。私は母の涙に気づかないフリをしてはしゃぎまくった。父親とおかあさんが離婚するので私を引き取れないかと、打診したようだった。母は、「私の事はもう死んだと思ってくれ」と言った、とおばあちゃんから聞いた。実際どこまで本当か分からないけどね。後に、その話を永遠と聞かさ...根無し草㉑

  • 根無し草 ⑳

    中1の夏休み、私は耳の聞こえないおばあちゃんが一人で住む団地で過ごすことになった。そう物心ついた時に居たあの部屋。一番古い記憶のあの生活。10年前と違うのは、二人の叔母は結婚して出て行き、いつも着物を着ていた私に甘かったおっきばあちゃんが亡くなって神棚になっていた。耳の聞こえないおばあちゃんが、この団地の5階に一人で住むのは大変だろうと子供ながらに心が痛んだ。おばあちゃんは大変喜んでくれて、中学生になった私にお風呂上がりのバスタオルの上にヤクルトをそっと置いてくれた。普段見ないテレビを思い存分見た。松田聖子のピンクのモーツァルトチェッカーズの星屑のステージ小泉今日子の渚のはいから人魚懐かしい。あの家に自分の居場所はない。ここにずっと居たい。そう思った。夏休み最後の日、私は団地から家に戻らなければならなかった。お...根無し草⑳

  • 根無し草 ⑲

    私は中学生になった。3つの小学校が集まり、新しい友達がたくさん出来た。ほみみ、というあだ名のほんわかした雰囲気の友達ができた。ほみみのお弁当はいつも可愛らしく、愛情いっぱいといった感じだった。初めて一緒にお弁当を食べた時にそのお弁当を見て「かわいい、美味しそう💞」と心からそう言った。それから毎日ほみみはお弁当を見せてくれた。席替えをしてお弁当を一緒に食べなくなっても、遠くの席からお弁当を見せに来てくれた。そのたびに「ほみみのお母さん上手だねぇ」等と私は絶賛し、満足そうにほみみは席に戻る。ある日、お弁当が終わる頃にほみみが「てのちゃん見てー」と自分の席から叫んできた。フルーツにホイップクリームがのせてあるデザートが、別容器に入っていた。「こんなに食べられないー」とほみみは苦笑いしていた。私はチラッ...根無し草⑲

  • 根無し草 ⑱

    小学6年の時の担任の先生は30代の既婚者男性だった。凄く贔屓をする先生で、お兄ちゃんがいる女子児童3人を特に贔屓していた。3人はスポーツが得意で勉強も出来、家庭環境も申し分無かった。世の中不公平だ。あまり好きでなかったその担任から、死ぬなよと言われた。わけわからない。あの頃の自分は、置かれた環境に必死で順応しようとしていた。早く大人になって、大人の自分が、助けに来ないかなぁと考えていた。今助けに行ってあげようか。根無し草⑱

  • 根無し草 ⑰

    ほとんど友達と遊ぶ事がなかった小学生時代。かつて通っていた保育所で、夏の夜夕涼み会が催された。私は幼い弟の手をひいて、その小さな園庭に所狭しとひらかれた出店に目を輝かせた。最初にチケットを渡されて、順番に店をまわった。懐かしい先生の顔があった。すっかり家庭環境が変わった私。皆知らないだろうなぁ。いや、狭い街だから噂になってるかなぁ。ごった返した保育所の中で、たくさんの大人がいたから、安心していた。弟に好きな所まわって良いよと一人で行かせた。時折弟の居場所を目で確認していた。そこにいるはずの弟が居ない。心臓が止まりそうだった。急いで大人たちに伝え、一斉に探してもらった。保育所の出入口は一応チェックされていたが、誰も一人で出て行く幼い弟の事を見ていなかった。保育所から家までの1キロの道程を、弟は一人で暗い中歩いて帰...根無し草⑰

  • 2021/08/09

    困った事になりました。怖いです。不安です。絶対に生きる。今まで乗り越えて来た私。今回も絶対に大丈夫。大切な家族が守ってくれます。頑張れ私。そして今辛い人全てに頑張れー!2021/08/09

  • 根無し草 ⑯

    今の自分を否定したく無いから苦しかった事も思い出しながら書きます。寄生虫との地獄の生活は続いた。もうその頃の私と父親は普通の親子ではなくなっていた。私は父親に敬語で話し、気に入らない事があると物や手が飛んできた。5年生頃の夏休み、父親が寄生虫たちとの旅行を企画した。海の近くの民宿。私の立場で楽しい訳がない。幸い小さな弟の事は父親は可愛がっていた。人がいっぱいの海で、3人の寄生虫に私はまかれてしまい、似たような民宿を彷徨い、夕食の時間に間に合わなくて、ご飯を食べられなかった。次の日海でくらげに刺されて、うでが真っ赤に腫れた。痛がる私を無視する家族に、民宿の人は不思議がった。その年の10月ひいおばあちゃんが私を一番可愛がってくれたおっきばあちゃんが亡くなった。病院の付き添いの人の話では、「ての、ての」とずっと私を心...根無し草⑯

  • パート めんどくさい人

    ブログを書こうと思うのに、頭の中が職場のトラブルでいっぱい。愚痴らせてもらいます。ゴタゴタに巻き込まれるのである。の予感が当たった。本当に巻き込まれた。パートリーダーのSさんと、正社員のNさんは同じ年。Nさんはシングルマザーで小学校高学年の女の子がいる。Sさんは夫婦ふたり暮らしでお子さんは居ない。表面上は仲良くしているが、Sさんがとにかく陰口ばかり言う。子飼いのAさんBさん以外の全員の陰口を言う。その場に居ない人の陰口。もちろん私も言われている。そのSさんが荒れている。いちいち人の行動を陰で避難してAさんBさんが同意する。私はスルーしていたがそれが気に入らないらしくどんどん攻撃される。店頭に、子どもさん向けにサービスで渡す、色がみが置いてあり、私が手渡そうとすると「その子、行儀悪いからあげないで」と耳打ちしてき...パートめんどくさい人

  • 人間関係に疲れた方へ、どうぞ

    私は、私のことをする。あなたは、あなたのことをする。私は、あなたの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。あなたは、私の期待に応えるために、この世に生きているわけではない。あなたはあなた、私は私。偶然ふたりが出会えば、それは素晴らしいこと。出合わなければ、仕方のないこと。フレデリック・パールズ[フリッツ・パールズ](ドイツ出身の米国の精神科医、ゲシュタルト療法の創始者、1893~1970)ゲシュタルトの祈り人間関係に疲れた方へ、どうぞ

  • パート 給料ドロボー

    面倒くさいことに巻き込まれた。Bさんがお子さんの体調不良で早退することになり、やりかけの事務を私が引き継いだ。1〜500枚、番号通りに並べておいてください。そう言ってぐちゃぐちゃのシワシワの伝票の束を渡された。シワを伸ばして向きを揃えて順番に並べるだけだからすぐに終わるはずだった。ところが、ところどころ抜けている。書き損じて破棄したのかと思って、Bさんと仲良しのAさんに、破棄することもあるのか聞いた。1〜500枚、まい、マイと指示してたから500枚あるんちゃいますか〜とアホっぽい言い方で返された。何度数えても11枚足りない。どこ探しても無い。足りないまま束ねておいて、Bさんが出てきた時に困ってはいけないと思い、探した。リーダーにも聞いてみたが、連番なので抜けるはずは無いとのこと。伝票入力の〆もあるので、自分の仕...パート給料ドロボー

  • 根無し草 ⑮

    前の記事から随分たってしまいました。昭和56年10歳からまさしく地獄の日々が始まる。父親、曾祖母、祖母、私、弟の5人暮らし。家事の不得意な大人たちによって散らかった家の中。その時代はまだ知られていなかった《機能不全家庭》そういう言葉を知ったのは最近。そんな家族でも曾祖母も祖母も父親も、私と弟を可愛がってくれて、家が地獄と言う事は無かった。それが一変地獄になった。4人の寄生虫がうちに来た。父親より10歳年上の女S12歳小6の女A10歳私と同じ小4の男M9歳小3の男T寄生虫たちのせいで二人のおばあちゃんたちは団地に帰って行った。私をすごく可愛がってくれた、心の拠り所だったおっきばあちゃんは私のことをもの凄く心配していた。寄生虫たちは住むアパートが取り壊しになる為、家賃を払ってうちに住むことになったようだ。ニュータウ...根無し草⑮

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