HOME O&O INDEX ふたたび付き合いはじめてから季節はめぐり、ふたりとも三十歳になっていた。「いいかげん結婚の話も出てるのでは?」と親友の路子に問われても、陽子は答えあぐねてしまう。 CONTENTS COMING SOON...無断転載を禁じます。Copyright © 小田桐直 sunao odagiri All Rights Reserved. TOP O&O INDEX ...
オリジナル恋愛小説。O&O。H。となりに住んでるセンセイ。ワレワレはケッコンしません。など。
コツコツと執筆中。 北海道を舞台にしたものが多めです。
うつ伏せのままだった。テーブルの感触が、硬い。痛い。 テレビコマーシャルの音声が、背中にびりびりとぶつかってくる。そのコミカルなメロディが一転して、急迫してくるかのような曲調。 なのに奥村は能天気だった。「あ。土曜ワイド劇場」 これ、昔けっこう見てたんだよね。家族全員で。奥村家総動員で。って言っても四人しかいないけど。「え。奥村んちの愉快なご家族が? 見ちゃってたんだ、昔の素敵な土ワイを」「そう...
窓に雨がぶつかる音。テレビコマーシャルの音。アルコールのにおい。スナック菓子と燻製珍味の塩辛いにおい。それとは別に、誰かの甘い香り。 何だろうこの香り。いい香り。 顔も手足も、ほかほかと温まっていた。うつ伏せに覆っていたテーブルを硬く感じていたのに、今はそうでもなかった。ふわふわと、気持ちよくなっていた。 暗くなり明るくなり、そしてまた暗くなりを繰り返す視界。閉じたまぶたの裏が一瞬明るくなるのは...
・ 歩けば床が、ぎしりと鳴いた。 きれいなものというのは不思議で、目にしただけで幸せな気持ちになってしまう。あたり一面が、キラキラ光るガラスの世界。いまにも降りだしてきそうな外の空とは大違い。 慎重に歩かないと、ぶつかって商品を落としてしまいそうだ。通路は狭い。 店内の向こう。ガラス越しに、小さな工房も見えている。ここは函館硝子明治館。 細長いブルーのグラスを手にとってみれば、案外と重い。底...
「いやいや、かわいそうな陽子ちゃん。山本に遠慮してはっきり言えないでいるのだね? きみって意外と思いやりあるよね。そういうとこは偉いよね」 奥村の吐く台詞がすべて、薄っぺらく聞こえてしまう。 から威張りしているように思えてならない。「もういいから奥村は。たらたら喋ってないで早く注文決めろや」 呆れ返ってしまっている山本に、奥村がクッと苦笑い。言われたとおりに黙って、ぱらぱらりとメニューをめくり始め...
◇「奥村くん、ちょっと痩せた?」 向かいから、やわらかな声が聞こえてはっとする。 考えごとをしていた。ぼんやりしていた。「そうかあ? 痩せた?」 隣で、奥村が自分の顔を撫でていた。服が擦れあうほどそばにいるから、動くだけで肘もぶつかってしまう。「うん。痩せた。なんかね? 顔がこう、シャープになって素敵になった」 素敵になった。 なんて、恥ずかしくてなかなか言えない台詞を、照れもなく口にしてしまえる...
◇ あと一分で発車します、という車掌のアナウンス。窓の外に見えている札幌駅のホーム。車両の通路をせかせかと移動していく乗客たち。 指定席禁煙車はいつの間にか、大部分が埋まっていた。どこからともなく漂ってくる美味しそうなにおいは、朝食をとりはじめた各座席からだろう。 発車のベルが鳴り、ホームの自販機や売店がゆっくり離れていってしまっても、奥村は戻ってこなかった。 不安になって立ち上がった時、前方...
目の前は壁。 フックから吊り下げられた、シルバーグレイのジャケット。 どれくらい時間が経ったのだろう。ようやく入ってきた奥村の声は、知らない人のような違和感があった。かしこまったような低い声。「あの、小笠原?」 うん。 と返事をすれば、かすかな笑い声が携帯から伝わってくる。戸惑ったような、それでいて照れくさそうな笑い声が。 奥村はいま、どこにいるのだろう。電話の向こうが静かすぎる。会話が途切れて...
思いきり閉じてしまえば、分厚い背表紙が文字どおりの音をたてる。ぱたん。 見えなくなったいくつかの寄せ書き。見えなくなった「飯田詩織」。 着信音が聞こえた気がしたのは、卒業アルバムをケースカバーに入れていた時だった。 ああ電話。と小さくつぶやく。 誰からだろう。とぼんやり思う。 妙に遅鈍だった。耳からの情報が脳へ伝わるのも。それに繋がった考えを生み出すのも。 夜も更けている。こんな時間に電話をかけ...
乳白色の湯に浸かりながら、なぜか昔のことを振り返っていた。小学校時代のことを。 記憶にかすんでしまっている子供たち。浮かんでくる顔はのっぺらぼうばかりで、名前がもう出てこない。愛称は覚えていても、フルネームが出てこない。 そういえば「オガ」と呼ばれていた。ノッポのオガ。 あの頃好きだった山本学の顔はどんなだったか。あの時の自分の声はどんなだったか。 掘り起こしても掘り起こしても、思い出すことがで...
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連載中の小説last update2023.8.05再掲載中。6章・319完結しました。番外編・7「暗くも、渇いてもいないはず」最終話まで更新しました。最新はEpisode8から。思いがけず出会っていた二人は、はたして、ケッコンすることになるのか……?last update2022.3.17フォッグ続編的なお話。先生と生徒のお話になる予定。連載途中でお休み中です。(フォッグもアップ予定です)エブリスタさんにも作品を投稿しています→Twitterで更新報告して...
――あんたの人生なんだから好きなように進め。 さきほど。陽子とのことは格好よく進言してくれたのに、見事なまでの手のひら返し。 ははは。と笑ってしまったが何も突っ込まなかった。突っ込めなかった。 母は、以前よりもだいぶ肉々しさを失った手でもって、ショルダーバッグからあるものを取り出していた。 緑の使い捨てカメラ、写ルンです。 なぜにいま。 上のほうで音がした。 ログハウス造りの喫茶店。そのドアがあい...
犬が、おそろしい喜びようで腹を見せながら緑に背中を擦りつけている。 わしゃわしゃと撫でながら母は犬に囁いていた。 めんこいわあ、めんこいわあ。と。「――でも。また母さん、陽子さんに会いたいなあ」「ん?」「旅行来たついででいいから、またふたりで会いに来て。陽子さんがあんたのこと見て笑う可愛い顔を、目におさめときたいんだよ、母さん。だからまた、連れて来て。それまでちゃんと元気でいるから」 母の手から「...
・ 陽子とのドライブ旅行はもうすぐ終わる。明日、彼女を札幌の自宅へ送り届けたらそれでお終い。 ひとりで函館へ戻ったら、翌日にはまた仕事が待っている。 これから釧路へ移動して予約した宿に向かうつもりだ。まだ明るいうちに北見ここを発って、暗くならないうちに峠道を抜けてしまいたい。 だから「もう俺ら行くわ」と母に伝えていた。 煮込みハンバーグセットはとっくに食べ終えていたし、コーンポタージュスープが...
・ (要らないと言ったのに)気を使った陽子がわざわざ調達してきた「まりも羊羹」は、パーマおばさんの手に渡った。黒のショルダーバッグとともに母の隣席に置いてある。 北見市の小高い場所にあるログハウス造りの喫茶店は、(母が案内してくれたわりには)お洒落な雰囲気だった。雑貨も販売しているらしく、カトラリーや陶芸品が置かれてあったりして。 そして人気店らしい。通されたテーブルは空いていた最後の席だった。...
-- side : Takashi -- 交通整理の人間を置かなければならないほど、病院の駐車場は混んでいた。 左奥のほうなら空いてるから入れ。と係員にジェスチャーされたが首を横に振る。 すでにいたからだ。 駐車場へ入ってまっすぐに進んだ先。病院の出入り口前に、白い服を着たオバチャンが。「家族を迎えにきてて。拾ったらすぐに出るんで」 開け放った窓から係員へ伝え、少しだけ車を加速させる。何台も駐車された中を縫うように...
前回の「お知らせ」でO&O#6「319」以降の番外編は三部作になると記していましたが、間違いでした。もう一編追加がありました。⇒「暗くも、渇いてもいないはず」某ショートストーリーの翌朝からの話――ということで、タイトルは無理やり似せたものにしたという。10P程度になると思います。番外編がもうひとつあったことを、私ってばド忘れしていました(´・_・`)さらに、たった先ほど気づいたことがありまして……。各小説のトップペ...
自分でもどうしたらいいか分からないほど、奥村が好きだ。 この熱量をグラフで表せるとしたら、最高到達点に達しているのだと思う。いまは。 とかいいながらまだまだ最高到達点を超えてしまいそうな勢いがあるけれど。 札幌から函館まで毎週末通うことがまったく苦にならないし、合鍵で入った奥村の部屋が散らかっていても喜んで片付けてしまうし、下手くそながら料理を作って部屋の主が仕事から帰ってくるのを待つのも楽しい...
-- side : Yohko -- やはり診察が遅れているそうだ。 ――昼までに自宅へ戻るのは難しいから、病院まで直接迎えに来てほしい。 との連絡が奥村の母親から入ったのは、車が北見市に入る手前だった。 電話の着信を受けて停めた道路脇。あたりは鮮やかな緑の畑が広がっていて、培っているのが馬鈴薯なのか甜菜なのか何なのか、土から生え伸びた葉っぱだけで見当をつけるのは無理だった。 というか緑を楽しむ余裕なんて皆無だった。...
どれだけ喋っていたのだか。 この母親の、トンチンカンな話に応じるのはなかなかのエネルギーがいる。 目覚めの直後から渇きを感じていた喉が、ますます渇いてしまっていた。 掛け布団が目の前を舞って、下半身を覆うように落ちていく。 そういえば素っ裸だった。ずっと。 こんな姿のまま、胡座をかいて喋り続けていたのだ。 左を見れば、陽子はすでに浴衣姿だった。腰に紺色の帯をきゅっと締め、着こなす姿はなかなかいい...
-- side : Takashi --「あ、もしもし高志ぃ? いやー母さん、びっくりしちゃったさあ! あんたの電話にかけたつもりが、いきなり女のひと出るんだものぉ」 朝っぱらから。携帯電話の向こうから、やかましい声が耳を襲う。「……びっくりしちゃったさあ、って母ちゃん」 何なんだよこのババアは。 と心の中で悪態をついてクッと笑う。 電話を渡してきた陽子にも聞こえていそうな大きな声だ。 ――とりあえず、今日もこの母が元気...
また音が鳴りだして現実へ引き戻されていく。乱暴に。 しっかり目覚ましを解除しなければ、何分か後にまた騒がしくなるよう設定した。 ――そんなようなことを奥村が言っていたっけ。寝入りばな。 嫌々ながらも手をのばし、そこらに放置していた電話機をふたたび手にとっていく。 重くて片がわしかあけられない目。いまだにやかましい携帯。 画面に表示されていたのは、時刻を伝えるものではなく、着信を告げるものだった。 ...
――「暗く、乾いた部屋」からの-- side : Yohko-- 鳴っている。 枕もとから音がする。 目覚まし時計なのだろう。 ああ止めなきゃ。 と、思うのだけれど寝ていたい。 まあいいや鳴らしとけ。 と、目をあけもせず放っておいたら肩から腕を撫でられた。というより軽くゆすられた。裸の肌に感じる、大きな手のひらが心地いい。「陽子」 真後ろから奥村の声がする。頭に髪の毛に耳に、吐息がふれている。一緒にくるまっている掛...
無言でいればいいのか、処理をしている間は困る。 結局なにも言わないで素早く済ませ、横たわる彼女のもそっと処理してやる。 汚いというのではなく何だろう、見てはいけない物のようなぐしゃぐしゃの白い固まり。それを敷布団の脇に投げ置いて、しばらく忘れることにした。 疲れた。だるい。息もまだ荒い。 だがすでに頭は冷静で、残してきた仕事のことを考えてしまっている。明日、確認の電話を入れようなどと...
「……あー、分かった陽子ちゃん」 と、抱きついた先の人が、耳元でささやいてくる。「きみ、抱っこしてほしかったんだろ」 うん。 と返した声がかすれてしまった。 ちゃんと伝わらなかったかも。と憂いたのは一瞬だった。奥村がすぐに抱き返してくる。両手を背中に回してくる。やさしく。 この部屋の中も、耳にふれている奥村の顎か首すじあたりの肌も、あたたかい。 のに、手にふれているカーキ色のブルゾンはまだ、ひんやり...
「それじゃあ失礼いたします。あっ――はい、どうも。おやすみなさい」 エレベーターの箱の中。 母に別れを告げながら、奥村は6のボタンを押していく。 扉が閉まり、一階から上昇する際。箱全体がガタゴト揺れたものだから、バランスを崩してよろめいてしまう。 そこを、とっさに支えられていた。奥村に。 流しこんだアルコールはまだ分解できていないはず。でも醒めている。酔ってはいない。 からだ全部がふわふわしているの...
もうこちらがまともだと分かっているから、奥村は介抱なんてしてこない。誰かの携帯を耳にあてたまま、先に車から降りてしまった。 渡された革財布からわたわたと千円札を取り出して、渡して、釣りを受け取って。会話の一部始終を耳にしていただろうに素知らぬふりをしてくれる運転手に軽く礼を告げ。 ホテルの入口前で待っていてくれていた人のもとへ、駆けていく。 回転ドアの向こうから、やわらかな光がのびている。華やか...
覚醒してみれば、携帯の向こうが話す内容まで難なく聞こえてきてしまう。 はきはきと喋る母の声は大きい。タクシー運転手の耳にも届いていそうなほどに響いていた。一言一句、余すことなく。(うちの陽子、家の鍵忘れてってるのよ、家の鍵。あのね、玄関の靴箱のうえに、ポーンて、置いてあってね?)「家の、鍵ですか?」(そうそう。あのね? 小学校のお友達の集まりで遅くなるとは聞いてたんだけどね? あのー。私のほうはね...
・ よいしょ、とシートの奥へ抱えられるように押し込められた。もう遠慮することなく目をつぶる。 タクシーの中は幸せなくらいあたたかい。何も心配することなく羊水に浮かぶ、胎児にでもなったかのよう。 バタン、とドアが閉められていくのを、夢うつつで聞いていた。「すみません。近くで申し訳ないんですけど、大通のホテルAサッポロまで」「あっ、全然全然。ホテルAサッポロですね。分かりました」 奥村と優しそうなタ...
・ だんだんと空が白み、電灯が際立つこともなくなった住宅街。アパートや一戸建ての壁色が明らかになっていく。屋根にはこんもりと積もった雪。あちこちでぶら下がっているつらら。 車の中でたわいない話をし続け、ふと会話が途切れた時。 おもむろに、陽子が切り出してきた。 じゃあ。「そろそろあたし、行こうかな」「はい、うん」 彼女のマンション前に着いてから実のところ、気ぜわしくそわそわしていた。まさぐり続...
[Episode11.今日は結構です] −−−−−− はじめてここへ来たのは夏に向かう頃。 晴れ上がり、青が澄んだ日だった。 いまは道路脇にわんさかと雪が積もり夜明け前。人工の光に包まれた道のりは、あの日とまったく雰囲気が違う。 それでも、迷わずにたどり着くことができた。陽子の家に。何世帯も入っているであろうマンション前に。「着きましたよ小笠原さん」 小さく告げれば、助手席もささやかに返してくる。「ありがとう、ね...
だんだんと近づいてくる女に、いいように振り回されているとあらためて自覚してしまう。悔しいけれど笑みがこぼれてしまう。しょっちゅう拗ねてしまう女。よじれ合った雰囲気のところを構わないでと言わんばかり、黙りこんで目を閉じてしまう女。 そんな女だけれど、自分のもとへ寄ってこられるのが嬉しくて仕方ないのだ。 笑いかけてくるわけじゃない。ただこちらを見据えているだけ。けれど、まっすぐ歩み寄ってくる彼女に、...
「富浦」と記された上に大きな「P」。 用を足すためにいったん高速を離れ、滑り込んだパーキングエリアを灯す明かりは寂しかった。除雪車が来ていったのはいつだろう。路面は整備され、すがすがしいほど真っ平ら。けれどその、スケートリンクのような白が視界の助けだ。 裸の木々に囲まれた駐車場には驚いたことに、他の車が一台もなかった。端っこにわびしく、トイレと思われる白い建物。緑に発光した非常用電話ボックス。た...
・ 案内標識は緑。 室蘭インターチェンジへの降り口が左に現れた途端、すぐ過ぎ去ってしまう。 有珠山サービスエリアで一度休憩すれば良かった。そこを過ぎたあたりで用を足したくなってしまったからだ。次のパーキングエリアまであとどれくらいかかるだろう。 幾度も目にする交通情報には「凍結による速度規制 50km/h」。仰せのまま、手元のスピードメーターはずっと50だった。それ以上速く走るつもりもなかった。どこ...
「俺さ、なんて言ったら。どう、小笠原に伝えていいかあの時、分かんなかったんだわ」 母の病状がかなり悪いと聞かされていた、去年の秋。「こう俺がさ? 悩んでる事を全部言ってさ? 俺の家族のことだけどさ、母親のことを一緒にこう、なんだろ。不安を分かち合うって言うのも変だけど」 変じゃないよ、と陽子。「……考えたもの俺。実際小笠原に言おうとしたし。あの時は母親のこと聞かされて、やばいどうしようって結構落ち込ん...
・ 海岸線は現れない。 標識にはまだ「札幌」の文字もなく、繰り返される雪景色。ただ暗く、真っすぐに伸びている国道五号線。飽きて、ともすれば緊張が緩んでしまいそうな道のり。 けれどひたすらにハンドルを握り続けていた。結露で窓が曇っていたのにも気づかなかった時のように。 陽子が隣にいる。 纏っていたグレイのロングコートも、小さなハンドバッグも、後部席へ置かせていた。助手席はすでに、すらりとしたワン...
[Episode10.零下に二人] −−−−−− 窓が曇っている。 フロントガラスは気にならないが、サイドとバックは湯気で蒸されているかのよう。ミラー越しに周りを確認しようにも出来ない。エアコンの温度はそれほど、高くしていないはずなのに。 左手を伸ばして空調ボタンを押せば、吹き流れてくる風。へばりついていた白のもやが、ガラス窓からおもむろに消えていくのを横目で見る。一体、何に夢中になっていたのかと笑いそうになった...
ひとしきり喋ったら火照ってしょうがなかった。冷えたのにふたたび温まり、汗ばむ背中。 あつい。 陽子に了解をとらずに勝手にエアコンを切れば、送風がぴたり止む。「もう。頼むから」 どうにかしてくれ。 ずっと髪に触れていた手を、今度は顔へ持っていって覆う。熱い頬に、自分の手が冷たくて気持ちいい。 熟慮の言葉ではなかった。頭に浮かんだことをストレートに口にしただけ。とりあえず、気持ちは伝えた。「……でもち...
脱いで、後部席に置いたジャケットのことが気になった。汗で湿り、背中にはりついていたワイシャツが、今度は冷たく感じる。「どうやって小笠原は札幌に帰るつもり? 電車? バス?」 尋ねる口調も冷たくなってしまう。 休め。なんて言わなければよかった。 陽子は自らの左肩をさすっていた。うん。とうなずき、少し間をおいてから告げてくる。「電車」と。 淡々と。 助手席から視線をずらしていく。ガラス窓の向こう、白...
・ 左手にセブン-イレブンが見えてきた。その隣は回転寿司屋。 セブン-イレブンと寿司屋の共用となっているらしい駐車場。車も人もいないと思いきや、いた。 まだ夜食の時間と言われればそう。満員とはいかないまでも回転寿司屋は賑わっていた。積み重ねた皿を持って、店員が歩いているのがガラス越しに窺える。 オレンジ、緑、赤に白のライン看板。セブン-イレブンのほうは空いているようだ。アルバイト募集の紙が貼りつけ...
[Episode09.行くあてもない二人] −−−−−− 函館駅前に車を停めたままにしておくわけにもいかない。 陽子を助手席に乗せてふたたび走りだしていた。彼女のボストンバッグをうしろに積んで。 大手町では対向車が数えるほどしかなかった。 歩く人影もない。それでも真っ暗々で寂しい限りというわけではない。やわらかにライトアップされている建築物。人通りがなくとも煌々と照らされている並木道。薄気味悪さはひとつも感じなかっ...
ない。おかしい。 何歩か下がってさらに上部に掲示されている、発車時刻表を注視してみる。函館本線、旭川方面。夜七時台の札幌行きは一つだけだった。 特急スーパー北斗21号。 19:23発。 大急ぎで再度、腕時計に目を走らせる。デジタル文字は24。それが進んで、25になっていく。 午後7: 25。 カツカツと慌しい足音がし、ぎくりとする。 陽子だった。ボストンバッグを持ってこちらへ寄ってくる。うつむきながらも急いだ...
・ 駐車場に停めている余裕はさすがにない。 駅のまん前。実は茶色だった柵の脇にレガシィを横付けしたまま外に出る。 もとの地面が分からなかった。足元は、何人にも踏み潰されて汚れてしまったザラメ雪。 革靴の足を運べば嫌な感触。凍った地面がザラメの下に隠れている感触。いまの彼女には酷だろうと思いながら前を見る。 歩くたびにはためくグレイのロングコート。裾からのぞく足首に、華奢な靴。右の踵がもげてしまっ...
隣は何も言わなかった。 けれど横顔のまま少し、うなずいたようには見えた。わずかに揺れた髪の毛が耳にかけられていくと、小さな真珠のピアスが現れた。「……あのさ。俺自身もなんかずっとモヤッとしてて、気持ちの整理ついてないから上手く言えないけど。ガーッて言っちゃうけど」 咳払いしていったん姿勢を正せば、陽子がそっと目を向けてくる。 いったいこの人は何を言ってくるのだろう。隣の瞳はそんな戸惑いの色。「俺、...
・ 北洋銀行、ハーバービューホテルの横を通る。ホテル一階の角にある土産物屋はまだ営業しているようだ。 函館駅前にすうと車を滑らせた。 道路と歩道を隔てている黒の柵。そのまん前に車を停め、はあ、と訳もなく溜息をつく。 7時20分。 驚くほど早く着いてしまった。列車の時刻まであと十二分もある。 サイドブレーキを引いた。さらにエンジンも止めてしまうと、いっそう静寂に包まれてしまう車内。 シートベルト...
[Episode08.帰ってほしいの?] -------- 懸念していたほど路面状態は悪くなく、スムーズに進んだおかげで19:16。札幌行きの最終には充分間に合うだろう。 市電通りは空いていた。 ここからでも函館駅が見えている。海風に耐え続け、古色を帯びた駅舎が。消費者金融の赤い看板広告が、ライトアップされて目立っていた。 乗客を待つタクシーの群れで駅前が埋まっている。残りは発車を待つ二台の路線バス。有料駐車場に停めて...
・ 遅い。 詩織との話は軽い挨拶程度で終わるかと思いきや、意外と長びいている。先に車に乗り込んでからもう、二分は経過していた。 エンジンはじゅうぶんあたたまっていない。だがそんなことも言ってられない。最終列車に間に合わせなければ。と店の前まで車を出して待っているのに、陽子は来ない。いったい詩織と、何を話しこんでいるのだか。 真っ暗な車内で光る、緑のデジタル表示は19 : 04。 すぐにでも、走り出さな...
「え、陽子ちゃんあともう」 少ししか時間ないじゃない。とでも詩織は続けていたのだろうか。 それを遮って口を切っていた。6:58のデジタル表示を目にしたまま。「おい」「……はい」 陽子からは神妙な返事。「もう、駅に行ってなきゃやばいんでないのか。結構な時間だぞ」 そこまで告げて顔をあげてようやく、真向かいの女と視線が合った。いじけたように眉をひそめている女と。「なにお前、ちんたらダーツなんてやってんだよ。...
いまほど、人に、顔を見られたくない。 と、思ったことはない。 どうして別れたかのと聞かれても。 まだまだ大好きそうだと言われても。「……いろいろとなあ」 あったんだよ。 とこぼしながら髪を触って誤魔化し笑い。 落ちつきなく目線がさまよっているのを自覚していた。見つめる先にあるのは、アルミニウムテーブルであったり。並べられていた料理であったり。氷たっぷりのグラスであったり。 それらを眺めながら思い出...