HOME O&O INDEX ふたたび付き合いはじめてから季節はめぐり、ふたりとも三十歳になっていた。「いいかげん結婚の話も出てるのでは?」と親友の路子に問われても、陽子は答えあぐねてしまう。 CONTENTS COMING SOON...無断転載を禁じます。Copyright © 小田桐直 sunao odagiri All Rights Reserved. TOP O&O INDEX ...
オリジナル恋愛小説。O&O。H。となりに住んでるセンセイ。ワレワレはケッコンしません。など。
コツコツと執筆中。 北海道を舞台にしたものが多めです。
だんだんと近づいてくる女に、いいように振り回されているとあらためて自覚してしまう。悔しいけれど笑みがこぼれてしまう。しょっちゅう拗ねてしまう女。よじれ合った雰囲気のところを構わないでと言わんばかり、黙りこんで目を閉じてしまう女。 そんな女だけれど、自分のもとへ寄ってこられるのが嬉しくて仕方ないのだ。 笑いかけてくるわけじゃない。ただこちらを見据えているだけ。けれど、まっすぐ歩み寄ってくる彼女に、...
「富浦」と記された上に大きな「P」。 用を足すためにいったん高速を離れ、滑り込んだパーキングエリアを灯す明かりは寂しかった。除雪車が来ていったのはいつだろう。路面は整備され、すがすがしいほど真っ平ら。けれどその、スケートリンクのような白が視界の助けだ。 裸の木々に囲まれた駐車場には驚いたことに、他の車が一台もなかった。端っこにわびしく、トイレと思われる白い建物。緑に発光した非常用電話ボックス。た...
・ 案内標識は緑。 室蘭インターチェンジへの降り口が左に現れた途端、すぐ過ぎ去ってしまう。 有珠山サービスエリアで一度休憩すれば良かった。そこを過ぎたあたりで用を足したくなってしまったからだ。次のパーキングエリアまであとどれくらいかかるだろう。 幾度も目にする交通情報には「凍結による速度規制 50km/h」。仰せのまま、手元のスピードメーターはずっと50だった。それ以上速く走るつもりもなかった。どこ...
「俺さ、なんて言ったら。どう、小笠原に伝えていいかあの時、分かんなかったんだわ」 母の病状がかなり悪いと聞かされていた、去年の秋。「こう俺がさ? 悩んでる事を全部言ってさ? 俺の家族のことだけどさ、母親のことを一緒にこう、なんだろ。不安を分かち合うって言うのも変だけど」 変じゃないよ、と陽子。「……考えたもの俺。実際小笠原に言おうとしたし。あの時は母親のこと聞かされて、やばいどうしようって結構落ち込ん...
・ 海岸線は現れない。 標識にはまだ「札幌」の文字もなく、繰り返される雪景色。ただ暗く、真っすぐに伸びている国道五号線。飽きて、ともすれば緊張が緩んでしまいそうな道のり。 けれどひたすらにハンドルを握り続けていた。結露で窓が曇っていたのにも気づかなかった時のように。 陽子が隣にいる。 纏っていたグレイのロングコートも、小さなハンドバッグも、後部席へ置かせていた。助手席はすでに、すらりとしたワン...
[Episode10.零下に二人] −−−−−− 窓が曇っている。 フロントガラスは気にならないが、サイドとバックは湯気で蒸されているかのよう。ミラー越しに周りを確認しようにも出来ない。エアコンの温度はそれほど、高くしていないはずなのに。 左手を伸ばして空調ボタンを押せば、吹き流れてくる風。へばりついていた白のもやが、ガラス窓からおもむろに消えていくのを横目で見る。一体、何に夢中になっていたのかと笑いそうになった...
ひとしきり喋ったら火照ってしょうがなかった。冷えたのにふたたび温まり、汗ばむ背中。 あつい。 陽子に了解をとらずに勝手にエアコンを切れば、送風がぴたり止む。「もう。頼むから」 どうにかしてくれ。 ずっと髪に触れていた手を、今度は顔へ持っていって覆う。熱い頬に、自分の手が冷たくて気持ちいい。 熟慮の言葉ではなかった。頭に浮かんだことをストレートに口にしただけ。とりあえず、気持ちは伝えた。「……でもち...
脱いで、後部席に置いたジャケットのことが気になった。汗で湿り、背中にはりついていたワイシャツが、今度は冷たく感じる。「どうやって小笠原は札幌に帰るつもり? 電車? バス?」 尋ねる口調も冷たくなってしまう。 休め。なんて言わなければよかった。 陽子は自らの左肩をさすっていた。うん。とうなずき、少し間をおいてから告げてくる。「電車」と。 淡々と。 助手席から視線をずらしていく。ガラス窓の向こう、白...
・ 左手にセブン-イレブンが見えてきた。その隣は回転寿司屋。 セブン-イレブンと寿司屋の共用となっているらしい駐車場。車も人もいないと思いきや、いた。 まだ夜食の時間と言われればそう。満員とはいかないまでも回転寿司屋は賑わっていた。積み重ねた皿を持って、店員が歩いているのがガラス越しに窺える。 オレンジ、緑、赤に白のライン看板。セブン-イレブンのほうは空いているようだ。アルバイト募集の紙が貼りつけ...
[Episode09.行くあてもない二人] −−−−−− 函館駅前に車を停めたままにしておくわけにもいかない。 陽子を助手席に乗せてふたたび走りだしていた。彼女のボストンバッグをうしろに積んで。 大手町では対向車が数えるほどしかなかった。 歩く人影もない。それでも真っ暗々で寂しい限りというわけではない。やわらかにライトアップされている建築物。人通りがなくとも煌々と照らされている並木道。薄気味悪さはひとつも感じなかっ...
ない。おかしい。 何歩か下がってさらに上部に掲示されている、発車時刻表を注視してみる。函館本線、旭川方面。夜七時台の札幌行きは一つだけだった。 特急スーパー北斗21号。 19:23発。 大急ぎで再度、腕時計に目を走らせる。デジタル文字は24。それが進んで、25になっていく。 午後7: 25。 カツカツと慌しい足音がし、ぎくりとする。 陽子だった。ボストンバッグを持ってこちらへ寄ってくる。うつむきながらも急いだ...
・ 駐車場に停めている余裕はさすがにない。 駅のまん前。実は茶色だった柵の脇にレガシィを横付けしたまま外に出る。 もとの地面が分からなかった。足元は、何人にも踏み潰されて汚れてしまったザラメ雪。 革靴の足を運べば嫌な感触。凍った地面がザラメの下に隠れている感触。いまの彼女には酷だろうと思いながら前を見る。 歩くたびにはためくグレイのロングコート。裾からのぞく足首に、華奢な靴。右の踵がもげてしまっ...
隣は何も言わなかった。 けれど横顔のまま少し、うなずいたようには見えた。わずかに揺れた髪の毛が耳にかけられていくと、小さな真珠のピアスが現れた。「……あのさ。俺自身もなんかずっとモヤッとしてて、気持ちの整理ついてないから上手く言えないけど。ガーッて言っちゃうけど」 咳払いしていったん姿勢を正せば、陽子がそっと目を向けてくる。 いったいこの人は何を言ってくるのだろう。隣の瞳はそんな戸惑いの色。「俺、...
・ 北洋銀行、ハーバービューホテルの横を通る。ホテル一階の角にある土産物屋はまだ営業しているようだ。 函館駅前にすうと車を滑らせた。 道路と歩道を隔てている黒の柵。そのまん前に車を停め、はあ、と訳もなく溜息をつく。 7時20分。 驚くほど早く着いてしまった。列車の時刻まであと十二分もある。 サイドブレーキを引いた。さらにエンジンも止めてしまうと、いっそう静寂に包まれてしまう車内。 シートベルト...
[Episode08.帰ってほしいの?] -------- 懸念していたほど路面状態は悪くなく、スムーズに進んだおかげで19:16。札幌行きの最終には充分間に合うだろう。 市電通りは空いていた。 ここからでも函館駅が見えている。海風に耐え続け、古色を帯びた駅舎が。消費者金融の赤い看板広告が、ライトアップされて目立っていた。 乗客を待つタクシーの群れで駅前が埋まっている。残りは発車を待つ二台の路線バス。有料駐車場に停めて...
・ 遅い。 詩織との話は軽い挨拶程度で終わるかと思いきや、意外と長びいている。先に車に乗り込んでからもう、二分は経過していた。 エンジンはじゅうぶんあたたまっていない。だがそんなことも言ってられない。最終列車に間に合わせなければ。と店の前まで車を出して待っているのに、陽子は来ない。いったい詩織と、何を話しこんでいるのだか。 真っ暗な車内で光る、緑のデジタル表示は19 : 04。 すぐにでも、走り出さな...
「え、陽子ちゃんあともう」 少ししか時間ないじゃない。とでも詩織は続けていたのだろうか。 それを遮って口を切っていた。6:58のデジタル表示を目にしたまま。「おい」「……はい」 陽子からは神妙な返事。「もう、駅に行ってなきゃやばいんでないのか。結構な時間だぞ」 そこまで告げて顔をあげてようやく、真向かいの女と視線が合った。いじけたように眉をひそめている女と。「なにお前、ちんたらダーツなんてやってんだよ。...
いまほど、人に、顔を見られたくない。 と、思ったことはない。 どうして別れたかのと聞かれても。 まだまだ大好きそうだと言われても。「……いろいろとなあ」 あったんだよ。 とこぼしながら髪を触って誤魔化し笑い。 落ちつきなく目線がさまよっているのを自覚していた。見つめる先にあるのは、アルミニウムテーブルであったり。並べられていた料理であったり。氷たっぷりのグラスであったり。 それらを眺めながら思い出...
(はーい、はい石崎は、13×2で26ポイント引きまーす。まだ214ポイントも残ってるからな? 次はだれ? あ? 次は小笠原さんかな?) ダーツ集団は相変わらず賑やかだった。 コンクリートの壁にかけられたダーツボード。そのまわりを囲む集団のすき間から、陽子が見えている。 きょとんとした横顔の。(え? あたし? ついさっき投げたばっかりなのに?) 一緒にダーツを楽しんでいる連中とは今日会ったばかりのはずだ。...
[Episode07.どうもすみません] −−−−−− 参列者席を二分するように伸びていた通路。その先で待ち構えていた外国人司祭。 祭壇には、キリストを表現しているらしいステンドグラス。赤や黄色、青、緑。パッチワークのようなガラスたち。 ドレスの裾を踏みつけて、つんのめってしまった詩織を思い出す。 白髪交じりの父親と腕を組んでいた彼女もあの時ばかりは―――バージンロードを進んでいく時ばかりは、緊張していたようだ。白...
「いや、あの」 やだ。とか言われても。 そんな風に顔を隠されても。「や、別に俺、変だとか言ってないからね? 似合ってないとも言ってないし。それにあれだ小笠原。ほら、あの。やだなんて言ったらダメでしょう。ちびまる子ちゃんに対して失礼でしょう」 何を取り繕っているのだか。 足を組み、肘掛けに肘をつき。その手で鼻の下をこすっていた。せわしなく。「でもちょっとあのね? あのー、何だ。あの、ほら。幼くなった気...
山本の母親はもう、受付にはいなかった。 さながら喫茶店のような休憩所がそこにある。先ほどより倍は増えている招待客。 見知った顔なんか多分いない。整然と並べられたテーブルセット。ボルドー色のソファ。席がたっぷりあるのに誰にも利用されず、空きが目についた。 ドリンクカウンター内で女性スタッフが働いている。白いブラウスに黒エプロン。何か飲み物でも作っているのだろうか。 黙りこくって気づまりになるよりも...
見つめられていた。 変わらずに大きな、アーモンドみたいな形の目で。 確かに陽子だ。ひと目で分かる。だが最後に会った時よりも髪が短くなっているものだから、面を食らった感がすごかった。 背中まで届いていた長い髪。強い風にばさばさと煽られていた長い髪。それがすっかり短い。顎の辺りまでばっさり、切られてしまっていた。 会っても動じないようにしよう。 そう決めていたのに結局思い通りにいかない。心の臓が勝手...
突き当たれば、左へと繋がる通路。 人間ふたりは並んで行けない狭い廊下を、山本の母親に教えられたとおり進んでいく。 バタークリーム色をした壁。ほのかにたゆたう花の香り。 良い式場だと思った。こぢんまりしていても、いつまでも留まって居たくなるようなあたたかさがある。あのステンドグラスの教会といい、陽でたっぷり温もりそうなガラス張りの休憩室といい。 控え室Aと札のある部屋のドアが、開け放たれていた。す...
[Episode06.どうもこんばんは] −−−−−− コンタクトレンズをつけているのも、それによって視界がクリアでいられるのも、中川美菜のおかげだ。正規の価格より三千円分安くなるカードをくれた彼女のおかげ。 洗面台の鏡と向き合ってレンズを入れる時。瞳に指をくっつけて取りはずす時。彼女のことがちりちりと頭をかすめる。 うす青色をしたソフトコンタクトレンズ。割引カードをしっかり利用してしまうあたりは抜け目ないだろう...
・ すでに入籍を済ましていても、式を挙げるとなると心もちが違うのか。 本番を明日に控えて落ちつかないのは理解できる。 だが喋りすぎている。 初めのうちこそぎこちなかった詩織は、休むことなしに話し続けていた。 山本が常に忙しく、式の打ち合わせ時間を確保するのが大変だったこと。新婚旅行先のハワイで写真を撮るため、フィルムをたくさん買いこんできたこと。親に頼み込まれ、ドレスではなく色打掛姿での記念写...
無言の状態でいるのがおかしかったのか、詩織がくすくすと笑いはじめた。 それにつられてまた、こちらも笑ってしまう。「あのね詩織さん。何をさっきから笑ってんのさ、きみは。俺もつられて笑っちゃうでしょうよ」「いや、だって。だってなんか、おかしいんだもん」 何がどうおかしいのか分からない。「……いや、まあいいけどさ。ところで、いよいよ明日でございますね、結婚式」「うん」「大丈夫? そっち、抜かりなし? 準備...
[Episode05.おしゃべりな彼女] −−−−−− コンタクトレンズを入れた目で見つめる、自分の部屋。 つけっ放しのテレビ画面。テーブル上の雑誌と携帯電話。青い遮光カーテンのその柄。床の板の目。 くっきりと見えている。しかも装着しながら違和感がない。中川美菜の言っていた通りだ。ソフトレンズというのはなかなかいい。すぐになじんでしまった。 山本と詩織の挙式を明日に控え、仕事から早く帰ってきた土曜の夜。ダークグレ...
・ 勾配ある道を、慎重にのぼってやってきた。 車道がもともと狭いのに、雪が積もっているからますます狭い。ハンドル操作を誤って轍からタイヤがずれると、ボールのように車体がバウンドしてしまう。 その度にうわーうわーと喚きつつ、なんとか中川のアパート前へと辿り着いた。 言われたとおりだった。彼女のアパートは、お世辞にも綺麗とは言えないところだった。洋風の新築一軒家とレンガ造りの四階建てマンションの間に...
感情表現が豊かだった。言葉に出さずとも不満や喜びをあっさり示す女だった。「ピンキリかなあ」「は?」「いや、ピンからキリまでいろんな子がいて。彼女」 中川の台詞の真似だった。ピンキリ。「なにそれ。ピンキリいたなんて、やな感じ。なんかむかつく。すんごい遊んでそう奥村」 吐き捨てられて、クッと苦笑い。「いや遊んでは、ないよ。うん。長く続かないってだけで。付き合ってもすぐ振られるの繰り返しだったし」「……...
細かな雪がビュウビュウと窓から入り込んでくる。 中川は長い髪を押さえたままだ。表情はやはり分からない。 風が顔にぶつかるので思わず目を細めてしまう。呼吸がまた、つらくなっていく。「なに歩いてんだよ! こんな中でよく……乗れよっ!」 叫ぶと、「えっ? あ。奥村? 」 と中川は悠長な声。切迫しているのが、こちらだけとは。「そう、奥村! お前……なーん……きょとんとした顔すなっ! 乗れ早くっ」「え、でも。いいの...
・ 目を細めながら自分の車に向かっていた。 吹きつけてくる強風で息が出来ない。雪は上から横から下から、あらゆる方向から、ぶつかってくる。ぴりぴりと顔が痛い。 耐えられずにジャケットについていたフードを被ると、少しだけ楽になった。 車はどこだろう。 視界が非常に悪く、どこにあるのかすぐ探し出せなかった。雪をざくざく踏みつけながら前へ進む。なんとか車を見つけ、鍵をあけて運転席に乗り込む。 ドアを閉...
・ 閉店する一時間前だったろうか。 あれだけ忙しかったのに吹雪きだしたとたん、店内はがらりと静まってしまった。ユーヴイホワイトを買い求めに来たあの客も、すぐいなくなってしまった。 男子更衣室のガラス窓がガタガタ揺れている。カーテンもない小さなすりガラス。強風に煽られて飛ばされてきた雪が、窓枠にびちりとくっ付いていた。「わや吹いてんな」 と、ぼそり。 最近、独り言の癖がついてしまった。更衣室には自...
・「店員さん!」 忙しそうなレジへ加勢に向かっていたら、背後から声をかけられた。振り返ればからし色のコート。例の、鎌倉の大仏頭の女性客だった。「あのさあ私ホワイトニング欲しいんだけど見づがんないんだわぁ」「はいっ?」 函館人は青森の津軽弁に近い訛りがある。よく聞き取れなかった。「すみません、お客さんいまなんて」 鎌倉の大仏頭は首をかしげて苦笑い。「ホワイトニングね。化粧品! 欲しいんだわ!」「……あ...
中川から傘をもらい受け、鼻を啜る。 ずい分重たい傘だな、と思いながらも彼女と並んで歩き出した。 積雪をかき分けていかなければならなかった。だから足元が重かった。怪我した傷もちくちく痛む。 それにしてもこの傘は大きい。大人ふたりの肩が無理なくおさまってしまう。 それほど背が高くない右隣に目をやれば、中川の頭の天辺。チョコレート色の髪の毛も見えていた。「……そっか」「うん?」「今日なーんか中川いねぇな...
[Episode03.最悪です] −−−−−−−−−−−− 結婚式には行く。 山本夫妻にあらかじめ伝えてあるのだから、この返信葉書は出さずともいいのだろう。 ご出席。 ご欠席。 どちらか○でお囲みください。(一月二十日までにご投函くださるようお願いします。) 出席を丸で囲み、他の字を二重線で消した葉書を、郵便ポスト前で眺めていた。ついでのように「おめでとう。当日を楽しみにしています」と足した字は右上がり。 とうとう、あ...
こういう雰囲気になるのを避けたくて言えなかったようにも思う。苦笑いしながら自分のうなじを撫でていた。「いやあのね、悪いね。なんか俺、変なこと言っちゃって」 そこで詩織が顔をあげる。向こうから何か言おうとしているところを遮って、続けていた。「や、あのさあ。ダメなんだべね。よく分かんないけどダメなんだわ。あのー、おたくらはさ? 何だかんだあっても結局は一緒になったでしょ? それだけさ、結びつきが強い...
ひとめ見て、この封筒が何なのか分かってしまったのだが。 受け取れないまま黙っていると、詩織が困ったように口を切る。 あの、これね?「二度目なんだけど、招待状。あの、結婚式の」 テレビをつけていないと部屋は静かだ。 山本と詩織の視線を感じながら、封筒を受け取っていた。「――おめでとう……ああ、やっとかあ。やっと結婚するんだ。いかったね。ホント、いかったわぁ」 いや。と山本がかぶりを振る。「もう入籍は...
・ ファンヒーターに、急いで灯油を足して出てきたはいいが。 その時指にこぼしてしまった匂いがずっと消えない。手を洗っても。詩織が出してくれたおしぼりで拭っても。「俺の手にさあ、灯油ついて臭くって。悪い。多分、おしぼりに変な匂いついちゃったわ」 「え? ううんいいよ? 別に気にしないで」 詩織が空のグラスを持ってきて、ことりとテーブルへ置いてくる。細長い透明グラスを。 ここは誰かのアパートの部屋と...
HOME O&O INDEX あの別れから三カ月近く過ぎ、今日はクリスマスイブ。奥村高志は異動先の函館にいた。暇な勤務先の店舗でつい目につくのは、同僚の中川美菜だ。彼女は、どことなく陽子に似ていた。 CONTENTS 01・函館 1 2 3 無断転載を禁じます。Copyright © 小田桐直 sunao odagiri All Rights Reserved. TOP O&O INDEX &nbs...
一人で店に残っていたのは、今夜の締め当番だったからだ。 事務所の窓、商品を保管している倉庫、いたるところの施錠を確認して電気を消す。シャッターを閉めていく。警備会社のセキュリティシステムをセットして外へ出た。 夜は怖い。この店は閉店してしまうと駐車場の照明を消してしまうので心もとない。それでも雪のある夜はそれだけで明るく感じられた。 いまは穏やかな空模様だが、昼間に降り落ちた雪がそのまま積もっ...
奥村。と呼び捨てするのは、この店では店長とこの中川ぐらいだ。年下ばかりの職場。アルバイトもほとんどが年下だ。みな律儀に「奥村さん」。 中川は販売営業部にずっと属していると言う。短大卒で、同い年の二十六歳。この新店舗が出来て、もともと函館にあった小さな店舗から移ってきたのだ。「あー、悪いんだけどセロテープ貸してくんない? そこのポップ、剥がれそうになってたんだわ」「あ、そうなんだ。いいよ」 中川が...
[Episode01.一年後のクリスマスイブ] ------------------------------- チョコレートみたいな色をしていた。 背中まで伸びていた。 泣いて泣いて、陽子はずっとうつむいていた。その顔を隠していたあの長い髪の毛ばかり覚えている。強風でばさばさと乱れていた髪の毛が今でも、強烈に残っている。 最後の陽子として。 ・ 検品はすべて終えてしまった。 ひと段落したところでぼんやりと中川を見ていた。化粧品ブースで...
・「奥村さんて玉子好きだんだね。玉子、四つも食べてったよ」「ああ」「風邪薬ってさ、車運転するなら飲まないほうがいいんだよね。大丈夫なのかな、あの人」「ああ」 適当に相槌をうつ。 満腹だった。 それでいながら土鍋に残った板こんにゃくをおたまで掬う。器に移したこんにゃくは、煮汁に染められて薄茶色。濁った色。ガブリとかじると歯型がついた。 おでんはつい、多めに作ってしまうらしい。我が家は二人だけ。食べ...
家はすぐそこだ。五階建てのマンションは。 頭を傾げてフロントガラスから夜空を覗き込めば、ぽつぽつぽつと瞬く星たち。明日も晴れるのだろう。 例年ならば道路には雪が積もっている。けれど今年はまだそれがない。外の世界を包んでいるのは、冷たい空気だけだった。 狭い路地の面にヘッドライトがますます眩しい。自宅マンション前にすうと車が走りこんでいき、慌てて声をあげた。「あ。俺んちここ。停めて」「え、ここです...
シートに預けたままの身体がぶるぶると小刻みに揺れている。 いままで気にならなかったのに、停止中のエンジン音がうるさい。 彼女がいるのかと尋ねたら、運転手が大人しくなってしまったのはなぜか。 焦ってしまって話題を変える。「こ、この車さあ。高かったんじゃないの? ねえ? 新車でしょ」 あー。と運転手は生返事。「いや、新車でなくて中古なんです。綺麗なんでみんなそうなのかって聞きますけど。前の人が、なんぼ...
結局、車の鍵は見つからなかった。 (薬屋店員でありながら)朝から咳をしている男に、何十分も徒労をさせてしまった。それなのに奴は、家まで車で送ってくれると言う。「あのー。奥村。ウチに寄ってってあれだ。メシ、食ってきな」 そう誘ったのは奴が不憫に思えたからだ。 独身の一人暮らし。 どうせ、適当なものばかり食べているのだろう。不規則な生活をしているだろうから体調も崩しやすい。風邪をひいている今は大人し...
このお話は番外編となります。語り手は、いつもの主人公二人ではありません。それでも、二人に関わることも記してありますし、これからのストーリーにも関係する話題が出てきます。六章を読む前に是非、読んでいただきたいと思います。・・・ ええっ? と携帯電話の向こうで、困惑声。 大きく言われたものだからギョッとしてしまった。 隣を、気にしてしまった。 思わず声をひそめてしまう。「なにが『ええっ?』よ。いいべや...
・ 垂れ落ちそうな鼻水をすする。 テレビ塔の方角に向かって歩いていた。うつむきながら。 風が強く曇り空であっても、この公園には常に人がいる。髪が長くてよかった。うつむいていると、うまい具合に表情を隠してくれる。 かかとの高い靴で踏み行く自分の足音が、うるさい。歩くたび、こめかみがズキズキと痛む。泣きすぎてしまった。 言ったとおり、そのとおり、奥村は追いかけてこない。 心臓がうるさい。動悸が激しい...
(もう、こういうのが嫌になった) そう告げても奥村は動じていない。こちらを真っすぐに見つめてくる。 どうしても直視できず、その人から顔をそむけてしまった。 この人の前から、いなくなってしまいたいと思った。「だから、別れるのか?」 奥村の声は落ちついていた。 諭すように、ゆっくりとした話し方。「……ウン」 小さくうなずく。自分でもびっくりするくらい子供みたいな声で、うなずく。「もう、嫌になっちゃったか...
「――あたし。そんなこと、言った?」 ぼろぼろとこぼれる涙を拭うこともせず、奥村の横顔を見つめていた。 土埃の匂い。風は、休みなく吹きつけてくる。自分の髪に触れるとごわごわした。「うん。言ったね」 言いながら、奥村がこちらをのぞき込んでくる。困ったような、呆れたような、笑っているような、そんな顔で。「なんて言ったらいいんだろう。あの時は。まあ情けないんだけど母親がね、そういう事になったって聞いて、グ...
「でも、あいつがさ。俺にそういう事頼んでくるくらいだから、よっぽど切羽つまってたんだろうなって思ったんだ? 見たとおりだけど、あいつ気ぃ強いでしょ? めったに弱いところなんて見せない奴だったから」 情はあるよ。 と、奥村。「もうとっくに別れたって言ってもさ。一時は好きだな、いいな、って思ってた女だから。やっぱり情はあるよ。少しは残ってるよ。かわいそうだから俺が助けてやりたいって気持ちは、やっぱり、あ...
ケージの中に二人きり。今度は本当に。 灰色の絨毯で囲まれた狭い箱の中に、二人きり。「なに、するの?」 やっと抗議が出来た。奥村に、手を握られたままであっても。「なにするの? あたし、これから外回り行かなきゃいけないんだけど」「あそう。だから何」 一回ぐらいサボれば? と、しれっと吐かれる。「なに、言ってるの? そんなこと、出来るわけないでしょう」「いいから」 言いながらまた、奥村が手を握り締めてく...
まわりから注目を浴びていたことを今になって知る。事務所に人間が少ないぶん目立っていたのだ。 そそくさとホワイトボードへ移る。自分の名字の横に赤いマグネットを貼り付ける。資料の入った茶封筒を抱えて事務所から出れば、来訪者は黙って後をついてきた。 昼休みにはまだ少し早い。ほかに誰も出てきていない廊下の壁には、社で大々的に宣伝している総合保険のポスター。社がマスコットにしてある有名なキャラクターのポス...
「陽子?」 母の呼ぶ声に動揺する。「誰だったの?」 水の流れる音がしていた。 母は台所でまだ食事の仕度を続けているのだろうか。そう思っても、振り返って確認することが出来ない。涙はこぼれていなくても、絶対に普通の顔をしていないから。「や、ただの間違い電話」 つとめて、明るく答えていた。「ふーん? まあいいや、陽子あんたお茶碗にご飯よそって? もうおかずも出来たから」「いやごめん。あたし髪、乾かさなきゃ...
「あ」 たった一音だけ。 あ。 電話の向こうから聞こえてきた声に、心臓がやかましくなった。ほんとうに一音だけ。それだけで、相手が誰なのかが分かってしまう。 不意打ちだった。 携帯ではなく、自宅にかけてくるなんて。 ここにかけてくるなんて、初めてではないだろうか。奴が家の電話番号を知っていたことが意外だった。ずっと携帯だけでやりとりをしていたから。 虚をつかれたあとにやってきたのは、何とも言えない気...
「ねえ。すごい匂いなんだけど。今日、魚?」 濡れた髪をバスタオルで拭きながら、台所に立つ母へ声をかける。換気扇が回っているのに居間は、焼き魚の匂いでいっぱいだった。台所と繋がっている居間は。 ソファに座って新聞を読んでいる父の髪は、すでに乾いていた。入浴を済ましていないのは、夜食の仕度をしている母だけだ。「今日ね、スーパーで特別、サンマ安かったんだわ。一匹五十円」「あー安いね」「もうサンマ安い時期...
バーバリーチェックの傘を、ぱんと広げる。 雨足は衰えていない。それどころか、前よりひどくなったかも知れない。 ひんやりした空気が頬にふれたとたん、鼻がつんとしてきた。涙がぶわりと溢れてきた。 ここは人も車も滅多に通らない、狭い脇道だ。それでも、傘で顔を隠して歩き出す。次々とこぼれていく涙を、鼻をすすりながら拭う。 ボトムパンツの裾がすでに冷たくて不愉快だ。雨水でびしゃびしゃに濡れた路面は容赦ない...
「でも。相手とは別れろって。そうしなきゃサインしないって高志には、言われたけど」 小野真知子の何度目かの「ごめん」を聞きながら、おしぼりをテーブルに落としていた。 ばさりと、わざと乱暴に。 拭ったはずの手は全然すっきりしていなかった。それどころかまた冷たく湿っていくから不快。 温かなおしぼりに触れていたはずなのに。「――よかったんじゃないですか? まあ、奥村は? 誰にでも優しいから? 頼まれると嫌と言...
自分のことではない。奥村とのことでもない。 けれど衝撃的だった。 視線が落ち着きなくさまよってしまう。向かいの唇を見たり。その下の手を見たり。テーブルに広げていた総合保険のパンフレットを見たり。隅に置かれた灰皿を見たり。「あたし。考えなし、だったからさ。妊娠したって分かった時はすぐ、いいや、だったら堕ろしてしまおうって、簡単に。そう、簡単に思ってたのね」 病院行って手術して。それで済むんだったら...
滴したたった傘が、陶器のレインラックへおさめられていった。二本続けざまに。 木製ドアを開ければ、コーヒーの香りが強く主張してくる。雨で少し濡れた肩先が、じわり温かくなっていく。 店に入るなり小野真知子が囁いてきた。「お客さん、誰もいないね」 ドアを閉めても聞こえてくる雨音。ここではバックミュージックなんてものを流していない。静かな店にいたのは彼女の言う通り、たった一人だけ。マスターだけだった。 ...
・ 体調の変化は予想通り。トイレの個室で確認しても驚かなかった。 鍵を外してドアを開ければ、同時に隣のドアも開く。「小野さん」も出てくる。それぞれの背後から、勢いある流水音。 目が、合ってしまった。 けれどどうしていいか分からず、とりあえずの会釈をするしかない。 「小野さん」は自分の耳たぶにふれていた。厚みのないそこには、小さなピアスがくっついていた。小さな白い、真珠のピアスが。 赤い唇をにゅ...
どうもおかしい。 と感じたのは大通付近を歩いていた時だ。 もしかしてそう。やっぱり生理になったのかもしれない。 馬鹿だ。先ほどトイレに入った時に、あらかじめ仕込んでおけばよかった。いつそうなっても構わないように。 目当てのビルはすぐそこだった。 早足にエントランスへ向かえば、地面で勢いよくはね上がる水がつめたい。ボトムパンツの裾も濡れて重い。これだから雨の日は。 ビルの自動ドア前で、バーバリーチ...
トイレに駆けこんだのは、下腹部に違和感があったからだ。 生理が近いと落ちつかない。身につける服にも気を使ってしまう。こんなものは早く過ぎ去ってもらってホッとしたい。気を使う日々から抜け出したい。 なぜ女にはこんなものがあるのだろう。 けれど他の人のように頭痛があるわけでもない。仕事をしていられないほどの腹痛があるわけでもない。でも気が重い。腰回りも重い。だるい。 結局、生理ではなかった。 個室に...
うつ伏せのままだった。テーブルの感触が、硬い。痛い。 テレビコマーシャルの音声が、背中にびりびりとぶつかってくる。そのコミカルなメロディが一転して、急迫してくるかのような曲調。 なのに奥村は能天気だった。「あ。土曜ワイド劇場」 これ、昔けっこう見てたんだよね。家族全員で。奥村家総動員で。って言っても四人しかいないけど。「え。奥村んちの愉快なご家族が? 見ちゃってたんだ、昔の素敵な土ワイを」「そう...
窓に雨がぶつかる音。テレビコマーシャルの音。アルコールのにおい。スナック菓子と燻製珍味の塩辛いにおい。それとは別に、誰かの甘い香り。 何だろうこの香り。いい香り。 顔も手足も、ほかほかと温まっていた。うつ伏せに覆っていたテーブルを硬く感じていたのに、今はそうでもなかった。ふわふわと、気持ちよくなっていた。 暗くなり明るくなり、そしてまた暗くなりを繰り返す視界。閉じたまぶたの裏が一瞬明るくなるのは...
・ 歩けば床が、ぎしりと鳴いた。 きれいなものというのは不思議で、目にしただけで幸せな気持ちになってしまう。あたり一面が、キラキラ光るガラスの世界。いまにも降りだしてきそうな外の空とは大違い。 慎重に歩かないと、ぶつかって商品を落としてしまいそうだ。通路は狭い。 店内の向こう。ガラス越しに、小さな工房も見えている。ここは函館硝子明治館。 細長いブルーのグラスを手にとってみれば、案外と重い。底...
「いやいや、かわいそうな陽子ちゃん。山本に遠慮してはっきり言えないでいるのだね? きみって意外と思いやりあるよね。そういうとこは偉いよね」 奥村の吐く台詞がすべて、薄っぺらく聞こえてしまう。 から威張りしているように思えてならない。「もういいから奥村は。たらたら喋ってないで早く注文決めろや」 呆れ返ってしまっている山本に、奥村がクッと苦笑い。言われたとおりに黙って、ぱらぱらりとメニューをめくり始め...
◇「奥村くん、ちょっと痩せた?」 向かいから、やわらかな声が聞こえてはっとする。 考えごとをしていた。ぼんやりしていた。「そうかあ? 痩せた?」 隣で、奥村が自分の顔を撫でていた。服が擦れあうほどそばにいるから、動くだけで肘もぶつかってしまう。「うん。痩せた。なんかね? 顔がこう、シャープになって素敵になった」 素敵になった。 なんて、恥ずかしくてなかなか言えない台詞を、照れもなく口にしてしまえる...
◇ あと一分で発車します、という車掌のアナウンス。窓の外に見えている札幌駅のホーム。車両の通路をせかせかと移動していく乗客たち。 指定席禁煙車はいつの間にか、大部分が埋まっていた。どこからともなく漂ってくる美味しそうなにおいは、朝食をとりはじめた各座席からだろう。 発車のベルが鳴り、ホームの自販機や売店がゆっくり離れていってしまっても、奥村は戻ってこなかった。 不安になって立ち上がった時、前方...
目の前は壁。 フックから吊り下げられた、シルバーグレイのジャケット。 どれくらい時間が経ったのだろう。ようやく入ってきた奥村の声は、知らない人のような違和感があった。かしこまったような低い声。「あの、小笠原?」 うん。 と返事をすれば、かすかな笑い声が携帯から伝わってくる。戸惑ったような、それでいて照れくさそうな笑い声が。 奥村はいま、どこにいるのだろう。電話の向こうが静かすぎる。会話が途切れて...
思いきり閉じてしまえば、分厚い背表紙が文字どおりの音をたてる。ぱたん。 見えなくなったいくつかの寄せ書き。見えなくなった「飯田詩織」。 着信音が聞こえた気がしたのは、卒業アルバムをケースカバーに入れていた時だった。 ああ電話。と小さくつぶやく。 誰からだろう。とぼんやり思う。 妙に遅鈍だった。耳からの情報が脳へ伝わるのも。それに繋がった考えを生み出すのも。 夜も更けている。こんな時間に電話をかけ...
乳白色の湯に浸かりながら、なぜか昔のことを振り返っていた。小学校時代のことを。 記憶にかすんでしまっている子供たち。浮かんでくる顔はのっぺらぼうばかりで、名前がもう出てこない。愛称は覚えていても、フルネームが出てこない。 そういえば「オガ」と呼ばれていた。ノッポのオガ。 あの頃好きだった山本学の顔はどんなだったか。あの時の自分の声はどんなだったか。 掘り起こしても掘り起こしても、思い出すことがで...
「だって俺、あれと仲良かったからね。大学出てからほとんど連絡とってなかったにしてもさ」 落合が左手の指で頬を掻いている。 そりゃあ。「……そりゃあ、びびったでしょうよ。昔付き合ってたのが、知り合いの彼女になってたら、さ」「うん。びびった」「あたしだってそうだよ。あんたと奥村が、仲よかったっていうの聞いて、同じぐらいに多分、びびったよ?」 足元で鳩が、相変わらずくぐもった鳴き声をあげている。 公園の真...
・「あのさあ。俺、びっくりしてんだけど」 陽子お前、オノマチと知り合いだったんだな。 と、かすれ声で落合が話しかけてくる。 異常なくらい早まっていた鼓動を落ち着かせようと、ゆっくり右隣へ目を向けてみる。 焼肉弁当の容器の中は、いつの間にか空っぽだ。 オノマチという人はもう、近くにはいない。 すみません立ち話しちゃって会社戻りましょうか。と、連れの男性と行ってしまったから。颯爽と、かかとの高い靴の...
オノマチ。 誰だろうと思って落合の視線を追えば、まん前の歩道。平べったい石畳のうえを、男女二人組が歩いているところだった。 そろって黒のスーツを着た二人組。距離を取っているからそれほど親しくはないのだろう。両者とも、手にはぷっくり膨らんで重そうなカバン。並んで歩いているのはおそらく仕事の関係上。 視線は自然と、同性に向かっていた。颯爽と歩く女性のほうに。 いさぎよく耳を出したベリーショートの髪型...
・ いらっしゃいませ。と呼びかけてくる売り子の前を抜けていく。 ここはお腹の空く匂いしかしなかった。地下の食料品売り場は明るかった。白っぽい床。白っぽい天井。ガラスケースの中の惣菜。並べられた弁当。 でもそれらなんて、ほとんど見ていなかった。「歩くの早いね」 感心したように背後から囁かれる。 久しぶりに聞くかすれ声がこそばゆく感じる。あんたから離れたいから早く歩いてるんだけど。とは告げず、黙々と...
茉奈と鉢合わせしたのは、JR札幌駅へ着いた時だった。乗っていた電車がホームへ入線し、ドアが開いたまさにその時。 男が彼女と一緒だった。四十代なのか五十代なのか六十代なのか。年齢不詳なうえ、線の細い男だった。 頬はこけ、顔色も決して良くない。頭髪は不自然なくらい豊かなのに、眉毛がない。その男の、色褪せた黒いダウンジャケットの腕を、茉奈が抱えこむように掴んでいた。 突如飛び込んできた光景を目にして絶句...
ところで、そろそろ生後1カ月となる男の子は『レン』と名付けたそうだ。どんな漢字をあてたのか聞けば、音楽家・滝レンタロウの『レン』だと言う。 はて。滝レンタロウ? たちまち『荒城の月』のメロディーが頭に奏で出したというのに、「レンタロウ」の漢字は出てこない。連タロウ。蓮タロウ。廉タロウ。一体どれだっていうのだ。まあ、あとで調べれば分かるだろう。 電話の向こうにはおそらく、近くに奥村さんがいるはずだ...
パタン、と自室のドアを閉めてひとりきりになってから受けた電話。「あ、もしもし愛? あたし。陽子だけど。メールどうもありがとね」 向こうの第一声はふだんから話し慣れた友達みたいなノリだった。 何年も口をきいていなかった相手から電話がかかってきたのだ。こんなあたしでもそれなりに緊張した。多分しょっぱなから気まずい流れになるだろうから、どう明るく持っていこうか。リビングから自室へ向かいながらそんなこ...
ママの携帯電話の中にいた陽子ちゃんは相変わらず綺麗だった。結わえた髪が少し乱れていようが、パジャマ風のダサい服を着ていようが、それでも綺麗。 陽子ちゃんと会わなくなってしまったのは、奥村さんとのことがあったからに他ならない。 あたしが奥村さんを好きで。 陽子ちゃんも明らかに好きで。 結局、奥村さんも陽子ちゃんのことを好きだと分かって、それで疎遠。それまでは従姉妹どうし、それなりに仲良くやってい...
・「俺、十月から函館に異動になったんだわ」 そう告げられても、すぐには受け入れられなかった。ぽかんとしたまま右隣を見つめていた。奥村の視線の先は、ほの暗い木々に覆われた大通公園。 ふふっと鼻で笑って、もう一度ぱちんと向こうの腕を叩いてやった。「やだな、何言ってるんですか奥村さんは」「いやいやいや」 えくぼを浮かべたのはほんの一瞬。奥村は唇を噛みしめていた。「あのー、きみね? そうやって冗談みたい...
入浴剤で乳白色になっていた湯は、青林檎の香り。 浴室をやわらかく満たしていたその香りは、髪にシャンプーを泡立てたらかすんでしまった。トリートメントをなじませたら、ほとんど分からなくなってしまった。 奥村の部屋でおかしな発見をしたことを、いまさら振り返ってみる。退院する数日前に頼まれて、衣類やら何やらをかわりに取りに行ってあげた時のことを。 何冊かの雑誌が置かれてあったテーブル。パッと目に付いてし...
「あれ。あんた、意外と早く帰ってきたんでしょ」 振り返るなり母が声をかけてくる。返事はせず、ただ小さくうなずいてみせた。 短く切り、パーマをかけたばかりの母の髪が濡れている。風呂に入ったのだろう。化粧水やら美容液やらを塗りたくったらしい顔も、つやつやと光っていた。 居間に父の姿はない。もしかして入浴中なのかもしれないが、どうなのだろう。最近、あのひとは帰りが遅い。この前は炭火焼き屋に行ったとかなん...
「はい?」 頭の中で疑問符が飛び交う。 まただ。またこの台詞。 あの頃に戻りたい。「……もう。あの、ちょっとさ。何なの奥村は。今日ほんっとに変なんですけど」 まだ酔いが抜けてないんじゃない? しっかり! ぱしんと右隣の腕を叩いてみれば、聞こえてきたのはハハハという空笑い。「あー」だの「うーん」だのいう意味不明な唸り声。 何度か咳払いもしていた。鼻の頭を指でこすったり、短い髪をくしゃくしゃにいじったり...
ずっと大人しかった。 もう少しだけ俺といて。とりあえずおいで。一緒に歩こう。 神妙な態度でそんなことを言ったきり、奥村は押し黙っていた。 乾いた地面を蹴りあげて、とんがった音を響かせるヒール。足元に目を落とせば、一緒に映った右の革靴。奥村の、黒い革靴。少し引きずっている足。けれど松葉杖を使っていた頃に比べれば、かなり早まった歩調。 靴音を奏でているのは自分たちだけではなかった。後ろから前から。何...
・ 奥村の目はずっと、涙をふくんだまま濡れていた。橙色の淡い光の下でも分かる酔いどれ顔。けれど正気だと言う。確かに酔ってはいるが正気だと言う。 おちゃらけていながらも、今夜は妙に優しい。不自然におだててくる。 優しくされるのは嬉しい。甘い言葉を囁かれるのも、照れくさいけれど本音は嬉しい。でも奥村からされると、何だか調子が狂うのだ。 これは何かある。この裏には何かある。 そう勘ぐっても奥村はその何...
ワン・ワン・ワン。11月1日(犬の日)に、陽子ちゃんが札幌の病院で男の子を出産していたとのこと。 陽子ちゃんが妊娠していたことは、ハトヤ長男氏と茉奈さんの結婚披露宴の時に知らされていた。奥村さんの口から。 当時の陽子ちゃんはつわりのせいで入院していたらしいけれど。 その後どうなったのか、気にかけてはいたのだ。 陽子ちゃんてば無事退院して住まいのある東京(千葉だっけ?)へ行けたのかな? とか。 赤ち...
ガチャン、バタンと玄関のほうから物音がする。 誰かが帰ってきた。パパとママのどちらかだ。「タキさぁん? もう七時だけどまだ居らっしゃるの? なにか作業してても途中のままでいいですからね? 早くあがってくださいね?」 のんびりした口調で分かった。ドアを開けてこのリビングへ入ってこようとしているのはママだと。 現れたのはやっぱりいつものコートだった。モヘア混の黒いロングコート。 零度を下回るようにな...
こうしてらんない! 次いかないと! ――なんて決意したところで、そう簡単にはいかないのだった。 惹かれる人はなかなかどうして現れない。 ・『範國さん。今日はどうもありがとうございました。範國さんがオススメしてくださったお店の食事もとても美味しかったです。でも、今日実際にお会いしてみて、範國さんに私はそぐわないように感じました。また会いたいと言っていただきましたが、これ以上の進展はないように思うの...
タクシー会社に迎車を頼んだら、近くを流している車があるとのこと。 一、二分で到着するからその場で待つように伝えられた。 この辺りにしては分かりやすい場所にいると思う。 すでに営業時間が終わっていても、三階建ての店舗だって紫色のポール看板だって目立っている。菓子屋「柳月」の前にいた。 片側二車線の道路をはさんだ向かいにあるのは歯科医院。その建物を見ながらわけもなく「寒さみいな」と口にしてしまっ...
・ もとから彼女は、歩くのなんて早くなかった。 身長は茉奈と同じくらいだから150センチあるかないか。そこまで低いのだから踏み込む一歩の大きさも知れている。それに加えて足首の捻挫(――とまではいかないが負傷したことには変わりない)。遅くたって仕方がないのだ。 いま、右足首には肌色の湿布が貼られてあって、一歩ずつ、こわごわと、地面を踏みしめていたりする。 そんな桜木愛に付き添って隣を歩いていた。ドラッ...
「……えーと桜木サン。どこか、体調が悪い、とかですかね?」「――悪くないよ」「だってそちら、いま、顔がやばいくらいに真っ赤っか――」 なんですけど。 と指摘すると、桜木愛は「ギャ~!」と奇声を発しながら両手で顔を隠してしまった。「そんなに? そんなに赤い? ギャ~~! ホント恥ずかしいマジで恥ずかしいもうこれ以上あたしの顔なんか見ないでくれっ! テロテロくんの記憶からすぐ消しといてくれっ!」 目が点にな...
・ 足首は腫れていなかった。歩くことも出来ているから程度は軽いはず。 だが急いでいた。 何十分か前に退勤したはずの職場へ駆け込んでいた。「あれ怜二くん?」 店舗入口の自動ドアが開いたところで、たまたま掛井店長と出くわした。軽く息を切らせて走りこんできた誰かの様子に不思議顔。「どうかした? なんか忘れ物でもした?」 との問いかけには答えず、会釈だけ。 掛井店長を尻目に店内に踏み込んだ。 とりあえ...
・「あー美味しかった」 ひやりとした宵の空間に、満足気な感想が放たれていく。 桜木愛からのものだった。 今までいたラーメン屋と同じだ。彼女は左隣を歩いていた。一本結びにしていた長い髪をほどいて。 さっさと解散してしまいたかった。ここから徒歩五分かからないところに自宅アパートだってある。だが、ラーメン屋がある住宅街このへんは似たような団地の建物ばかりが並ぶ。地下鉄の最寄り駅まで迷いそうだと桜木愛が...
iOS、 iPadOS(未確認ですがおそらくMacOSも)でうちのサイトに訪問して下さっている方向け。ココでも書きましたが、 一部ページにおきまして、本来ゴシック体で表示されるべき箇所が明朝体で表示されてあることが分かりました。 デザインに詳しい方ならお分かりだと思います。 私、小説本文のフォントをCSSで「メイリオ」と指定していたのです。ですからアップル系のデバイスでは表示されず、明朝体に変換されていたと言う。(...
「はい、お待ちどうさん!」 カウンターテーブルに、ラーメンのどんぶりがふたつ。つまりは二人前。ドカドカッと勢いよく置かれたものだから、スープがこぼれてしまった。 べたついた蜜柑色のテーブルに、白濁した液体が点々と。またしてもべたつくではないか。 店内は煮つめた豚骨スープの匂いで充満していた。「……おやっさん。スープこぼれたんですけど」「ほんのちょびっとでしょ? 大丈夫大丈夫、さあどうぞ!」「大丈夫大...
「その反応ってのはつまり、おたくが昨日俺のことを聞いてきた人ってことで、合ってると?」「あー、と。そういうことで、合ってます」「――何なんすか? 俺の職場に来るとか。聞きたいことあるなら電話してくれれば良かったのに。俺の連絡先知ってますよね? 茉奈がおたくに押しつけてたし」 茉奈。「……そうそうそう。その茉奈さんが押しつけてきた連絡先にトライしたんだけど、ことごとく違ってて」「はい?」「だからね? 番号...
しょうがない。ならばあやつの自宅へ直接行って渡してやろう――と地下鉄で向かったのは、あたしの勤務先のそば。 鳩屋怜二が勤めているドラッグストアが近くにあるならば、奴の住んでいるアパートも確か、その周辺にあったからだ。 が、分からなかった。 とっくに陽も暮れた六時過ぎの住宅街には、似たような建物ばかりが並ぶ。奴の家を出た今朝はタクシーでさっさと帰ったから、詳細な場所なんか覚えちゃいなかったのだ。突発...
エブリスタさんにて非公開にしていた、短編の「茶々」と「我がオトコ」をこのサイトにアップしています。 茶々夫の退院が決まった良日。娘から贈り物が届いた。 shizupika.fc2.net 我がオトコマザコン、ヒモ、浮気三昧、DV、モラハラ。世には色んなオトコがいるけれど?shizupika.fc2.net O&Oの第四章も今日からアップを開始しました。 O&Oはあまりにも長すぎるので、各章ごとにINDEXがあると読みたいシー...
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HOME O&O INDEX ふたたび付き合いはじめてから季節はめぐり、ふたりとも三十歳になっていた。「いいかげん結婚の話も出てるのでは?」と親友の路子に問われても、陽子は答えあぐねてしまう。 CONTENTS COMING SOON...無断転載を禁じます。Copyright © 小田桐直 sunao odagiri All Rights Reserved. TOP O&O INDEX ...
連載中の小説last update2023.8.05再掲載中。6章・319完結しました。番外編・7「暗くも、渇いてもいないはず」最終話まで更新しました。最新はEpisode8から。思いがけず出会っていた二人は、はたして、ケッコンすることになるのか……?last update2022.3.17フォッグ続編的なお話。先生と生徒のお話になる予定。連載途中でお休み中です。(フォッグもアップ予定です)エブリスタさんにも作品を投稿しています→Twitterで更新報告して...
――あんたの人生なんだから好きなように進め。 さきほど。陽子とのことは格好よく進言してくれたのに、見事なまでの手のひら返し。 ははは。と笑ってしまったが何も突っ込まなかった。突っ込めなかった。 母は、以前よりもだいぶ肉々しさを失った手でもって、ショルダーバッグからあるものを取り出していた。 緑の使い捨てカメラ、写ルンです。 なぜにいま。 上のほうで音がした。 ログハウス造りの喫茶店。そのドアがあい...
犬が、おそろしい喜びようで腹を見せながら緑に背中を擦りつけている。 わしゃわしゃと撫でながら母は犬に囁いていた。 めんこいわあ、めんこいわあ。と。「――でも。また母さん、陽子さんに会いたいなあ」「ん?」「旅行来たついででいいから、またふたりで会いに来て。陽子さんがあんたのこと見て笑う可愛い顔を、目におさめときたいんだよ、母さん。だからまた、連れて来て。それまでちゃんと元気でいるから」 母の手から「...
・ 陽子とのドライブ旅行はもうすぐ終わる。明日、彼女を札幌の自宅へ送り届けたらそれでお終い。 ひとりで函館へ戻ったら、翌日にはまた仕事が待っている。 これから釧路へ移動して予約した宿に向かうつもりだ。まだ明るいうちに北見ここを発って、暗くならないうちに峠道を抜けてしまいたい。 だから「もう俺ら行くわ」と母に伝えていた。 煮込みハンバーグセットはとっくに食べ終えていたし、コーンポタージュスープが...
・ (要らないと言ったのに)気を使った陽子がわざわざ調達してきた「まりも羊羹」は、パーマおばさんの手に渡った。黒のショルダーバッグとともに母の隣席に置いてある。 北見市の小高い場所にあるログハウス造りの喫茶店は、(母が案内してくれたわりには)お洒落な雰囲気だった。雑貨も販売しているらしく、カトラリーや陶芸品が置かれてあったりして。 そして人気店らしい。通されたテーブルは空いていた最後の席だった。...
-- side : Takashi -- 交通整理の人間を置かなければならないほど、病院の駐車場は混んでいた。 左奥のほうなら空いてるから入れ。と係員にジェスチャーされたが首を横に振る。 すでにいたからだ。 駐車場へ入ってまっすぐに進んだ先。病院の出入り口前に、白い服を着たオバチャンが。「家族を迎えにきてて。拾ったらすぐに出るんで」 開け放った窓から係員へ伝え、少しだけ車を加速させる。何台も駐車された中を縫うように...
前回の「お知らせ」でO&O#6「319」以降の番外編は三部作になると記していましたが、間違いでした。もう一編追加がありました。⇒「暗くも、渇いてもいないはず」某ショートストーリーの翌朝からの話――ということで、タイトルは無理やり似せたものにしたという。10P程度になると思います。番外編がもうひとつあったことを、私ってばド忘れしていました(´・_・`)さらに、たった先ほど気づいたことがありまして……。各小説のトップペ...
自分でもどうしたらいいか分からないほど、奥村が好きだ。 この熱量をグラフで表せるとしたら、最高到達点に達しているのだと思う。いまは。 とかいいながらまだまだ最高到達点を超えてしまいそうな勢いがあるけれど。 札幌から函館まで毎週末通うことがまったく苦にならないし、合鍵で入った奥村の部屋が散らかっていても喜んで片付けてしまうし、下手くそながら料理を作って部屋の主が仕事から帰ってくるのを待つのも楽しい...
-- side : Yohko -- やはり診察が遅れているそうだ。 ――昼までに自宅へ戻るのは難しいから、病院まで直接迎えに来てほしい。 との連絡が奥村の母親から入ったのは、車が北見市に入る手前だった。 電話の着信を受けて停めた道路脇。あたりは鮮やかな緑の畑が広がっていて、培っているのが馬鈴薯なのか甜菜なのか何なのか、土から生え伸びた葉っぱだけで見当をつけるのは無理だった。 というか緑を楽しむ余裕なんて皆無だった。...
どれだけ喋っていたのだか。 この母親の、トンチンカンな話に応じるのはなかなかのエネルギーがいる。 目覚めの直後から渇きを感じていた喉が、ますます渇いてしまっていた。 掛け布団が目の前を舞って、下半身を覆うように落ちていく。 そういえば素っ裸だった。ずっと。 こんな姿のまま、胡座をかいて喋り続けていたのだ。 左を見れば、陽子はすでに浴衣姿だった。腰に紺色の帯をきゅっと締め、着こなす姿はなかなかいい...
-- side : Takashi --「あ、もしもし高志ぃ? いやー母さん、びっくりしちゃったさあ! あんたの電話にかけたつもりが、いきなり女のひと出るんだものぉ」 朝っぱらから。携帯電話の向こうから、やかましい声が耳を襲う。「……びっくりしちゃったさあ、って母ちゃん」 何なんだよこのババアは。 と心の中で悪態をついてクッと笑う。 電話を渡してきた陽子にも聞こえていそうな大きな声だ。 ――とりあえず、今日もこの母が元気...
また音が鳴りだして現実へ引き戻されていく。乱暴に。 しっかり目覚ましを解除しなければ、何分か後にまた騒がしくなるよう設定した。 ――そんなようなことを奥村が言っていたっけ。寝入りばな。 嫌々ながらも手をのばし、そこらに放置していた電話機をふたたび手にとっていく。 重くて片がわしかあけられない目。いまだにやかましい携帯。 画面に表示されていたのは、時刻を伝えるものではなく、着信を告げるものだった。 ...
――「暗く、乾いた部屋」からの-- side : Yohko-- 鳴っている。 枕もとから音がする。 目覚まし時計なのだろう。 ああ止めなきゃ。 と、思うのだけれど寝ていたい。 まあいいや鳴らしとけ。 と、目をあけもせず放っておいたら肩から腕を撫でられた。というより軽くゆすられた。裸の肌に感じる、大きな手のひらが心地いい。「陽子」 真後ろから奥村の声がする。頭に髪の毛に耳に、吐息がふれている。一緒にくるまっている掛...
無言でいればいいのか、処理をしている間は困る。 結局なにも言わないで素早く済ませ、横たわる彼女のもそっと処理してやる。 汚いというのではなく何だろう、見てはいけない物のようなぐしゃぐしゃの白い固まり。それを敷布団の脇に投げ置いて、しばらく忘れることにした。 疲れた。だるい。息もまだ荒い。 だがすでに頭は冷静で、残してきた仕事のことを考えてしまっている。明日、確認の電話を入れようなどと...
「……あー、分かった陽子ちゃん」 と、抱きついた先の人が、耳元でささやいてくる。「きみ、抱っこしてほしかったんだろ」 うん。 と返した声がかすれてしまった。 ちゃんと伝わらなかったかも。と憂いたのは一瞬だった。奥村がすぐに抱き返してくる。両手を背中に回してくる。やさしく。 この部屋の中も、耳にふれている奥村の顎か首すじあたりの肌も、あたたかい。 のに、手にふれているカーキ色のブルゾンはまだ、ひんやり...
「それじゃあ失礼いたします。あっ――はい、どうも。おやすみなさい」 エレベーターの箱の中。 母に別れを告げながら、奥村は6のボタンを押していく。 扉が閉まり、一階から上昇する際。箱全体がガタゴト揺れたものだから、バランスを崩してよろめいてしまう。 そこを、とっさに支えられていた。奥村に。 流しこんだアルコールはまだ分解できていないはず。でも醒めている。酔ってはいない。 からだ全部がふわふわしているの...
もうこちらがまともだと分かっているから、奥村は介抱なんてしてこない。誰かの携帯を耳にあてたまま、先に車から降りてしまった。 渡された革財布からわたわたと千円札を取り出して、渡して、釣りを受け取って。会話の一部始終を耳にしていただろうに素知らぬふりをしてくれる運転手に軽く礼を告げ。 ホテルの入口前で待っていてくれていた人のもとへ、駆けていく。 回転ドアの向こうから、やわらかな光がのびている。華やか...
覚醒してみれば、携帯の向こうが話す内容まで難なく聞こえてきてしまう。 はきはきと喋る母の声は大きい。タクシー運転手の耳にも届いていそうなほどに響いていた。一言一句、余すことなく。(うちの陽子、家の鍵忘れてってるのよ、家の鍵。あのね、玄関の靴箱のうえに、ポーンて、置いてあってね?)「家の、鍵ですか?」(そうそう。あのね? 小学校のお友達の集まりで遅くなるとは聞いてたんだけどね? あのー。私のほうはね...
・ よいしょ、とシートの奥へ抱えられるように押し込められた。もう遠慮することなく目をつぶる。 タクシーの中は幸せなくらいあたたかい。何も心配することなく羊水に浮かぶ、胎児にでもなったかのよう。 バタン、とドアが閉められていくのを、夢うつつで聞いていた。「すみません。近くで申し訳ないんですけど、大通のホテルAサッポロまで」「あっ、全然全然。ホテルAサッポロですね。分かりました」 奥村と優しそうなタ...
だんだんと近づいてくる女に、いいように振り回されているとあらためて自覚してしまう。悔しいけれど笑みがこぼれてしまう。しょっちゅう拗ねてしまう女。よじれ合った雰囲気のところを構わないでと言わんばかり、黙りこんで目を閉じてしまう女。 そんな女だけれど、自分のもとへ寄ってこられるのが嬉しくて仕方ないのだ。 笑いかけてくるわけじゃない。ただこちらを見据えているだけ。けれど、まっすぐ歩み寄ってくる彼女に、...
「富浦」と記された上に大きな「P」。 用を足すためにいったん高速を離れ、滑り込んだパーキングエリアを灯す明かりは寂しかった。除雪車が来ていったのはいつだろう。路面は整備され、すがすがしいほど真っ平ら。けれどその、スケートリンクのような白が視界の助けだ。 裸の木々に囲まれた駐車場には驚いたことに、他の車が一台もなかった。端っこにわびしく、トイレと思われる白い建物。緑に発光した非常用電話ボックス。た...
・ 案内標識は緑。 室蘭インターチェンジへの降り口が左に現れた途端、すぐ過ぎ去ってしまう。 有珠山サービスエリアで一度休憩すれば良かった。そこを過ぎたあたりで用を足したくなってしまったからだ。次のパーキングエリアまであとどれくらいかかるだろう。 幾度も目にする交通情報には「凍結による速度規制 50km/h」。仰せのまま、手元のスピードメーターはずっと50だった。それ以上速く走るつもりもなかった。どこ...
「俺さ、なんて言ったら。どう、小笠原に伝えていいかあの時、分かんなかったんだわ」 母の病状がかなり悪いと聞かされていた、去年の秋。「こう俺がさ? 悩んでる事を全部言ってさ? 俺の家族のことだけどさ、母親のことを一緒にこう、なんだろ。不安を分かち合うって言うのも変だけど」 変じゃないよ、と陽子。「……考えたもの俺。実際小笠原に言おうとしたし。あの時は母親のこと聞かされて、やばいどうしようって結構落ち込ん...
・ 海岸線は現れない。 標識にはまだ「札幌」の文字もなく、繰り返される雪景色。ただ暗く、真っすぐに伸びている国道五号線。飽きて、ともすれば緊張が緩んでしまいそうな道のり。 けれどひたすらにハンドルを握り続けていた。結露で窓が曇っていたのにも気づかなかった時のように。 陽子が隣にいる。 纏っていたグレイのロングコートも、小さなハンドバッグも、後部席へ置かせていた。助手席はすでに、すらりとしたワン...
[Episode10.零下に二人] −−−−−− 窓が曇っている。 フロントガラスは気にならないが、サイドとバックは湯気で蒸されているかのよう。ミラー越しに周りを確認しようにも出来ない。エアコンの温度はそれほど、高くしていないはずなのに。 左手を伸ばして空調ボタンを押せば、吹き流れてくる風。へばりついていた白のもやが、ガラス窓からおもむろに消えていくのを横目で見る。一体、何に夢中になっていたのかと笑いそうになった...
ひとしきり喋ったら火照ってしょうがなかった。冷えたのにふたたび温まり、汗ばむ背中。 あつい。 陽子に了解をとらずに勝手にエアコンを切れば、送風がぴたり止む。「もう。頼むから」 どうにかしてくれ。 ずっと髪に触れていた手を、今度は顔へ持っていって覆う。熱い頬に、自分の手が冷たくて気持ちいい。 熟慮の言葉ではなかった。頭に浮かんだことをストレートに口にしただけ。とりあえず、気持ちは伝えた。「……でもち...
脱いで、後部席に置いたジャケットのことが気になった。汗で湿り、背中にはりついていたワイシャツが、今度は冷たく感じる。「どうやって小笠原は札幌に帰るつもり? 電車? バス?」 尋ねる口調も冷たくなってしまう。 休め。なんて言わなければよかった。 陽子は自らの左肩をさすっていた。うん。とうなずき、少し間をおいてから告げてくる。「電車」と。 淡々と。 助手席から視線をずらしていく。ガラス窓の向こう、白...
・ 左手にセブン-イレブンが見えてきた。その隣は回転寿司屋。 セブン-イレブンと寿司屋の共用となっているらしい駐車場。車も人もいないと思いきや、いた。 まだ夜食の時間と言われればそう。満員とはいかないまでも回転寿司屋は賑わっていた。積み重ねた皿を持って、店員が歩いているのがガラス越しに窺える。 オレンジ、緑、赤に白のライン看板。セブン-イレブンのほうは空いているようだ。アルバイト募集の紙が貼りつけ...
[Episode09.行くあてもない二人] −−−−−− 函館駅前に車を停めたままにしておくわけにもいかない。 陽子を助手席に乗せてふたたび走りだしていた。彼女のボストンバッグをうしろに積んで。 大手町では対向車が数えるほどしかなかった。 歩く人影もない。それでも真っ暗々で寂しい限りというわけではない。やわらかにライトアップされている建築物。人通りがなくとも煌々と照らされている並木道。薄気味悪さはひとつも感じなかっ...
ない。おかしい。 何歩か下がってさらに上部に掲示されている、発車時刻表を注視してみる。函館本線、旭川方面。夜七時台の札幌行きは一つだけだった。 特急スーパー北斗21号。 19:23発。 大急ぎで再度、腕時計に目を走らせる。デジタル文字は24。それが進んで、25になっていく。 午後7: 25。 カツカツと慌しい足音がし、ぎくりとする。 陽子だった。ボストンバッグを持ってこちらへ寄ってくる。うつむきながらも急いだ...
・ 駐車場に停めている余裕はさすがにない。 駅のまん前。実は茶色だった柵の脇にレガシィを横付けしたまま外に出る。 もとの地面が分からなかった。足元は、何人にも踏み潰されて汚れてしまったザラメ雪。 革靴の足を運べば嫌な感触。凍った地面がザラメの下に隠れている感触。いまの彼女には酷だろうと思いながら前を見る。 歩くたびにはためくグレイのロングコート。裾からのぞく足首に、華奢な靴。右の踵がもげてしまっ...
隣は何も言わなかった。 けれど横顔のまま少し、うなずいたようには見えた。わずかに揺れた髪の毛が耳にかけられていくと、小さな真珠のピアスが現れた。「……あのさ。俺自身もなんかずっとモヤッとしてて、気持ちの整理ついてないから上手く言えないけど。ガーッて言っちゃうけど」 咳払いしていったん姿勢を正せば、陽子がそっと目を向けてくる。 いったいこの人は何を言ってくるのだろう。隣の瞳はそんな戸惑いの色。「俺、...
・ 北洋銀行、ハーバービューホテルの横を通る。ホテル一階の角にある土産物屋はまだ営業しているようだ。 函館駅前にすうと車を滑らせた。 道路と歩道を隔てている黒の柵。そのまん前に車を停め、はあ、と訳もなく溜息をつく。 7時20分。 驚くほど早く着いてしまった。列車の時刻まであと十二分もある。 サイドブレーキを引いた。さらにエンジンも止めてしまうと、いっそう静寂に包まれてしまう車内。 シートベルト...
[Episode08.帰ってほしいの?] -------- 懸念していたほど路面状態は悪くなく、スムーズに進んだおかげで19:16。札幌行きの最終には充分間に合うだろう。 市電通りは空いていた。 ここからでも函館駅が見えている。海風に耐え続け、古色を帯びた駅舎が。消費者金融の赤い看板広告が、ライトアップされて目立っていた。 乗客を待つタクシーの群れで駅前が埋まっている。残りは発車を待つ二台の路線バス。有料駐車場に停めて...
・ 遅い。 詩織との話は軽い挨拶程度で終わるかと思いきや、意外と長びいている。先に車に乗り込んでからもう、二分は経過していた。 エンジンはじゅうぶんあたたまっていない。だがそんなことも言ってられない。最終列車に間に合わせなければ。と店の前まで車を出して待っているのに、陽子は来ない。いったい詩織と、何を話しこんでいるのだか。 真っ暗な車内で光る、緑のデジタル表示は19 : 04。 すぐにでも、走り出さな...
「え、陽子ちゃんあともう」 少ししか時間ないじゃない。とでも詩織は続けていたのだろうか。 それを遮って口を切っていた。6:58のデジタル表示を目にしたまま。「おい」「……はい」 陽子からは神妙な返事。「もう、駅に行ってなきゃやばいんでないのか。結構な時間だぞ」 そこまで告げて顔をあげてようやく、真向かいの女と視線が合った。いじけたように眉をひそめている女と。「なにお前、ちんたらダーツなんてやってんだよ。...
いまほど、人に、顔を見られたくない。 と、思ったことはない。 どうして別れたかのと聞かれても。 まだまだ大好きそうだと言われても。「……いろいろとなあ」 あったんだよ。 とこぼしながら髪を触って誤魔化し笑い。 落ちつきなく目線がさまよっているのを自覚していた。見つめる先にあるのは、アルミニウムテーブルであったり。並べられていた料理であったり。氷たっぷりのグラスであったり。 それらを眺めながら思い出...
(はーい、はい石崎は、13×2で26ポイント引きまーす。まだ214ポイントも残ってるからな? 次はだれ? あ? 次は小笠原さんかな?) ダーツ集団は相変わらず賑やかだった。 コンクリートの壁にかけられたダーツボード。そのまわりを囲む集団のすき間から、陽子が見えている。 きょとんとした横顔の。(え? あたし? ついさっき投げたばっかりなのに?) 一緒にダーツを楽しんでいる連中とは今日会ったばかりのはずだ。...
[Episode07.どうもすみません] −−−−−− 参列者席を二分するように伸びていた通路。その先で待ち構えていた外国人司祭。 祭壇には、キリストを表現しているらしいステンドグラス。赤や黄色、青、緑。パッチワークのようなガラスたち。 ドレスの裾を踏みつけて、つんのめってしまった詩織を思い出す。 白髪交じりの父親と腕を組んでいた彼女もあの時ばかりは―――バージンロードを進んでいく時ばかりは、緊張していたようだ。白...