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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き https://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

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  • 十五 金崎の城攻むる事 付けたり野中八郎が事 ~2~

    今川駿河守は、この日の合戦を見て考えるに、「ここが本当に破られそうなところだから、城からここが勝負の場と出て来て戦うのだろう。陸から攻めたら、足場が悪くて容易に敵に追い払われた。船で一度攻めてみよ」というので、小船百余艘に乗って、昨日小笠原が攻めた浜際

  • 十五 金崎の城攻むる事 付けたり野中八郎が事 ~1~

    杣山から引き返した十六騎の軍勢に騙されて、金崎の寄せ手が四方に逃げ散ったことが京都に伝わると、将軍は大変に怒って、すぐに大軍を下された。当国の守護尾張守高経は北陸道の軍勢五千余騎を率いて蕪木から向かわれる。仁木伊賀守頼章は丹波、美作の軍勢千余騎を率いて

  • 十四 金崎船遊びの事 付けたり白魚船に入る事

    そうして、百重千重に城を囲んでいた敵は一回の策略で敗れて、近辺にもはや敵という者は一人もいなくなったので、これはただ事ではないと城中の人の喜び合うことこの上ない。十月二十日の夜明けに海山の雪が晴れて漁船の苫屋根に月の光が輝き、陣幕が風にはためき、色の変

  • 十三 十六騎の勢金崎に入る事

    初めに浄慶との交渉が難航していたのを聞いて、金崎へ通り抜けることはできないだろうと思ったのか、それまで二百四十騎いた軍勢が、どこへともなく逃げていなくなり、わずか十六騎になってしまった。深山寺のあたりで出会った木樵に金崎の様子を尋ねると、「昨日の朝から

  • 十二 瓜生判官心変はりの事 付けたり義鑑房義治をかくす事 ~3~

    この頃、この国の住人今庄九郎入道浄慶が、この道を通って落人がたくさん下るということを聞いて、留めるために近辺の野武士を誘い集めて厳しく垣を作り険しい場所に逆木を並べて弓矢を揃えて待ち構えていた。義助朝臣はこれをご覧になって、「これはきっと今庄法眼久経と

  • 十二 瓜生判官心変はりの事 付けたり義鑑房義治をかくす事 ~2~

    この時、判官の弟に義鑑房という禅僧がいたが、鯖並の宿へ参上して、「兄の保は愚か者ですので、将軍から無理に申し受けて作られた綸旨を本物と思って、たちまちに背く気持ちを抱きました。私が弓矢を取る身でさえありましたら、刺し違えて共に死ぬところですが、僧体に恥

  • 十二 瓜生判官心変はりの事 付けたり義鑑房義治をかくす事 ~1~

    同月十四日、義助と義顕は三千余騎で敦賀の港を発って、まず杣山へ越えなさる。瓜生判官保と弟兵庫助重、弾正左衛門照の三兄弟が様々な酒肴を担がせて、鯖並の宿へ迎えに出迎える。この他、人夫五、六百人に兵糧を持たせて諸軍勢の所に行き、万事を大切に取り仕切る様子は

  • 十一 北国下向勢凍え死の事

    同じ月の十一日には、義貞朝臣は七千余騎で塩津、海津にお着きになる。三十㎞の山道を越前の守護尾張守高経が大軍で塞いでいると伝えられたので、ここから道を変えて木ノ芽峠をお越えになる。北国の常として十月初めから高い山々に雪が降って、麓の時雨は止む時がない。今

  • 十 還幸供奉の人々禁殺せらるる事

    還幸の一行が法勝寺辺りまで近づくと、左馬守直義が五百余騎でお迎えし、まず三種の神器を今上帝の方へお渡しになるべきことを申されると、主上はあらかじめご用意になっていた偽物を内侍の方へお渡しになる。その後、主上を花山院へお入れ申し上げ、四方の門を閉じて警護

  • 九 義貞北国落ちの事

    明ければ十月十日の午前十時、主上は輿に乗られて今路を西へ還幸なさり、春宮は立派な馬に乗られて戸津を北へ行啓なさる。 還幸のお供をして京都へ出たのは、吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、御子左中納言為定、侍従中納言公明、坊門宰相清忠、勧修寺中納言経顕、民

  • 八 儲君を立てて義貞に着けらるる事 付けたり鬼切り日吉へ進ぜらるる事

    しばらくして義貞朝臣が父子兄弟三人と兵三千余騎を連れて参内された。そのご様子は誰もが怒りを抱いておられると見えたが、それでも礼儀を乱さず、階下の庭先に袖を並べて並び坐る。主上はいつもよりも特別にお顔を和らげられて、義貞、義助を御前近くお召しになり、涙を

  • 七 山門より還幸の事 ~2~

    義貞朝臣は、こういうことがあるとはご存じでなく、従っている軍勢と対面して、何事もないようでいらっしゃったところへ、洞院左衛門督実世卿の所から、「ただ今、主上が京都へ還幸なさるということでお供の者をお呼びになっている。ご存知でしょうか」と知らされたので、

  • 七 山門より還幸の事 ~1~

    このような時に、将軍からひそかに使者を主上へ差し上げて、「一昨年の冬、近臣の讒言によって帝のお怒りを受けました時に、身を僧体にして死を無実のままに賜ろうと存じておりましたところに、義貞、義助等が逆鱗にかこつけて日頃の鬱憤を晴らそうと致しましたので、や

  • 六 江州軍の事 ~2~

    こうしているところに、佐々木佐渡判官入道道誉が、京からひそかに若狭路を回って東坂本へ降参して来て、「近江国は代々当家が守護を務める国ですが、小笠原が上洛の道を塞いで思いがけず二回の合戦をして、その手柄でそのまま我が領地としましたことは、私の不面目とする

  • 六 江州軍の事 ~1~

    京都の軍勢を中に囲んで四方から攻め寄せれば、今回こそはと楽しみに思われていたのだが、各方面の合図がうまくいかずに、寄せ手がまた負けたので、四条中納言も八幡から逃れて坂本に来られた。阿弥陀峰に陣を張っていた阿波、淡路の兵達も、細川卿律師に負けて坂本へ帰っ

  • 五 義貞軍の事 付けたり長年討死の事 ~3~

    そうしているところに、土岐弾正少弼頼遠が三百余騎で上賀茂に待機していたが、五条大宮に待機していた旗を見て取ったので、大将は皆公家の人々だと見て、後ろからどっと鬨の声を挙げ叫び声を上げて討って懸かった。「それ、後ろから取り囲んだぞ。河原へ退いて広いところ

  • 五 義貞軍の事 付けたり長年討死の事 ~2~

    義貞は、坂本を出る時に、まず皇居に参って、「天下の帰趨は帝のご運にお任せしますので、気にするところではありません。ぜひともこの度の戦では、尊氏が籠もっています東寺の中へ矢一本射込まないでは帰らないつもりです」と言っていたその言葉に違わず、敵を矢の届くと

  • 五 義貞軍の事 付けたり長年討死の事 ~1~

    一方の寄せ手が敗れたことも知らないで、合図の刻限になったと、本隊の大将新田義貞と脇屋義助が二万余騎を率いて、今路と西坂本から下って、三手に分かれて押し寄せた。一隊は義貞、義助、江田、大舘、千葉、宇都宮でその軍勢は一万余騎、大中黒、月に星、左巴、右巴、丹

  • 四 隆資卿八幡より寄せらるる事

    京都の合戦は十三日の朝十時とあらかじめ諸方に伝えてあったので、東坂本から出発する軍勢が関山、今路の辺りに控えて時刻を待っていたところに、敵が偽って火を点けたのか、北白河に火の手が上がって、煙が青空に広がった。八幡から寄せようとする宮方の軍勢はそれを見て

  • 三 山門の牒南都に送る事 ~3~

    今一度京都に攻め寄せて、勝負を決める合戦をしようと諸方の手はずが決まったので、兵達の士気を上げるために、畏れ多くも帝は紅の袴をお脱ぎになって、十㎝ずつに切って希望する兵士にお与えになった。 七月十三日、大将新田左中将義貞は、数度の戦いに生き残った一族四

  • 三 山門の牒南都に送る事 ~2~

    書面を検討の後、南都の衆徒はすぐに叡山に協力を約して、返書を送った。その手紙は、「手紙を戴いた。 お伝えする。宗祖道昭は観行五品の上位に達するために、円頓戒を黄河と淮河の地で学ぶ。釈尊は仏に並ぶ悟りが開けると、真実の道義をインドで説いた。そこで隋の高

  • 三 山門の牒南都に送る事 ~1~

    官軍は二度の合戦に敗れて、士気も衰え軍勢も少なくなったので、叡山や坂本に誰か寝返る者は出て、思いがけないことが起きるのではないかと、主上は玉座に安心していらっしゃれず、お心を悩まされたので、まず衆徒の心を励ますために日吉七社と叡山九院のそれぞれの仏閣へ

  • 2 京都両度の軍

    六月五日から二十日までの叡山の数日間の合戦で討たれた者、傷を受けた者は何千何万と数が知れない。結局寄せ手は、東西の坂から追い立てられて、引き退いた兵達は京の街にも足と留めず、ちりぢりになって逃げて行ったので、洛中は思いの外に人がいなくなって、どうしたも

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~8~

    山門では、西坂本で戦があったら本院の鐘を撞き、東坂本に合戦があったら生源寺の鐘を鳴らすとそれぞれに約束を決めていた。そこで、二十二日の早朝に早尾の神社の猿たちがたくさん群がって来て、生源寺の鐘を東西両塔に響くほど撞いたのだった。 各方面の官軍や全山の衆

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~7~

    その頃、越前の守護尾張守高経が北陸道の軍勢を率いて仰木から押し寄せて横川を攻めようとしていると伝えられたので、横川楞厳院の九つの谷の衆徒はあちらこちらの要所毎に城門を作り、逆木を置いて構えを厳重にした。そのころ、大師の御廟修造のために材木を多く山上に引

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~6~

    今のように矢戦ばかりで日を暮らし夜を明かしていたら、何年攻めても叡山が落ちるということはないと、多くが攻めあぐんで考えていたところに、山門の僧侶で金輪院の律師光澄の所から今木少納言隆賢という同じ宿坊の者を使いにして、高豊前守に、「新田殿の固めておられる

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~5~

    同じ月十六日、熊野の八庄司たちが五百余騎で上洛したが、新手なので一戦しようというので、そのまま西坂本へ向かった。黒糸の鎧兜に指の先まで鎖で被った籠手、脛当て、半頬、膝鎧を隙間なく完全に武装した点は、まったく世の一般の兵達の出で立ちとは異なって、役に立ち

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~4~

    その翌日、高豊前守が大津へ使いを立てて、「主だった敵は皆大嶽へ向かったとみえます。急いで正面の合戦を始められて、東坂本を攻め破り、神社仏閣、僧坊、民家に至るまで一棟も残さず焼き払って、敵を山上へ追い上げ、東西両塔の間に上がって煙を上げられれば、大嶽の敵

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~3~

    そこで、各院で早鐘を撞いて西坂本がすでに攻め破られたと本院の谷々に騒ぎ伝えると、歩行も困難な老僧は鳩の杖にすがって中堂、常行道などへ行って本尊と一緒に焼け死のうと悲しみ、修行修学をもっぱらにしている学僧などは経典を腹に押し当てて、逃げて行く僧兵の太刀、

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~2~

    六月六日、正面の大将の中から西坂本の寄せ手の中へ使者を立てて、「こちらの敵陣を見ますと、新田、宇都宮、千葉、河野を始めとして主だった武士たちは大部分が東坂本を守っていると思われます。西坂は場所が険しいことを頼りに、公家の人々、あるいは叡山の僧たちを向け

  • 一 山攻めの事 付けたり日吉神託の事 ~1~

    主上が再び叡山に臨幸されたので、三千の僧侶は先の春の勝ち戦にならって迷いなく帝をお護り申し上げ、北国や奥州の軍勢を待っていると伝えられると、将軍と左馬頭、高、上杉の人々は東寺に集まって合戦の協議をした。「事が遅れて、義貞に軍勢が付いたならば叶わなくなる

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