ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
今川駿河守は、この日の合戦を見て考えるに、「ここが本当に破られそうなところだから、城からここが勝負の場と出て来て戦うのだろう。陸から攻めたら、足場が悪くて容易に敵に追い払われた。船で一度攻めてみよ」というので、小船百余艘に乗って、昨日小笠原が攻めた浜際
杣山から引き返した十六騎の軍勢に騙されて、金崎の寄せ手が四方に逃げ散ったことが京都に伝わると、将軍は大変に怒って、すぐに大軍を下された。当国の守護尾張守高経は北陸道の軍勢五千余騎を率いて蕪木から向かわれる。仁木伊賀守頼章は丹波、美作の軍勢千余騎を率いて
そうして、百重千重に城を囲んでいた敵は一回の策略で敗れて、近辺にもはや敵という者は一人もいなくなったので、これはただ事ではないと城中の人の喜び合うことこの上ない。十月二十日の夜明けに海山の雪が晴れて漁船の苫屋根に月の光が輝き、陣幕が風にはためき、色の変
初めに浄慶との交渉が難航していたのを聞いて、金崎へ通り抜けることはできないだろうと思ったのか、それまで二百四十騎いた軍勢が、どこへともなく逃げていなくなり、わずか十六騎になってしまった。深山寺のあたりで出会った木樵に金崎の様子を尋ねると、「昨日の朝から
十二 瓜生判官心変はりの事 付けたり義鑑房義治をかくす事 ~3~
この頃、この国の住人今庄九郎入道浄慶が、この道を通って落人がたくさん下るということを聞いて、留めるために近辺の野武士を誘い集めて厳しく垣を作り険しい場所に逆木を並べて弓矢を揃えて待ち構えていた。義助朝臣はこれをご覧になって、「これはきっと今庄法眼久経と
十二 瓜生判官心変はりの事 付けたり義鑑房義治をかくす事 ~2~
この時、判官の弟に義鑑房という禅僧がいたが、鯖並の宿へ参上して、「兄の保は愚か者ですので、将軍から無理に申し受けて作られた綸旨を本物と思って、たちまちに背く気持ちを抱きました。私が弓矢を取る身でさえありましたら、刺し違えて共に死ぬところですが、僧体に恥
十二 瓜生判官心変はりの事 付けたり義鑑房義治をかくす事 ~1~
同月十四日、義助と義顕は三千余騎で敦賀の港を発って、まず杣山へ越えなさる。瓜生判官保と弟兵庫助重、弾正左衛門照の三兄弟が様々な酒肴を担がせて、鯖並の宿へ迎えに出迎える。この他、人夫五、六百人に兵糧を持たせて諸軍勢の所に行き、万事を大切に取り仕切る様子は
同じ月の十一日には、義貞朝臣は七千余騎で塩津、海津にお着きになる。三十㎞の山道を越前の守護尾張守高経が大軍で塞いでいると伝えられたので、ここから道を変えて木ノ芽峠をお越えになる。北国の常として十月初めから高い山々に雪が降って、麓の時雨は止む時がない。今
還幸の一行が法勝寺辺りまで近づくと、左馬守直義が五百余騎でお迎えし、まず三種の神器を今上帝の方へお渡しになるべきことを申されると、主上はあらかじめご用意になっていた偽物を内侍の方へお渡しになる。その後、主上を花山院へお入れ申し上げ、四方の門を閉じて警護
明ければ十月十日の午前十時、主上は輿に乗られて今路を西へ還幸なさり、春宮は立派な馬に乗られて戸津を北へ行啓なさる。 還幸のお供をして京都へ出たのは、吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、御子左中納言為定、侍従中納言公明、坊門宰相清忠、勧修寺中納言経顕、民
八 儲君を立てて義貞に着けらるる事 付けたり鬼切り日吉へ進ぜらるる事
しばらくして義貞朝臣が父子兄弟三人と兵三千余騎を連れて参内された。そのご様子は誰もが怒りを抱いておられると見えたが、それでも礼儀を乱さず、階下の庭先に袖を並べて並び坐る。主上はいつもよりも特別にお顔を和らげられて、義貞、義助を御前近くお召しになり、涙を
義貞朝臣は、こういうことがあるとはご存じでなく、従っている軍勢と対面して、何事もないようでいらっしゃったところへ、洞院左衛門督実世卿の所から、「ただ今、主上が京都へ還幸なさるということでお供の者をお呼びになっている。ご存知でしょうか」と知らされたので、
このような時に、将軍からひそかに使者を主上へ差し上げて、「一昨年の冬、近臣の讒言によって帝のお怒りを受けました時に、身を僧体にして死を無実のままに賜ろうと存じておりましたところに、義貞、義助等が逆鱗にかこつけて日頃の鬱憤を晴らそうと致しましたので、や
こうしているところに、佐々木佐渡判官入道道誉が、京からひそかに若狭路を回って東坂本へ降参して来て、「近江国は代々当家が守護を務める国ですが、小笠原が上洛の道を塞いで思いがけず二回の合戦をして、その手柄でそのまま我が領地としましたことは、私の不面目とする
京都の軍勢を中に囲んで四方から攻め寄せれば、今回こそはと楽しみに思われていたのだが、各方面の合図がうまくいかずに、寄せ手がまた負けたので、四条中納言も八幡から逃れて坂本に来られた。阿弥陀峰に陣を張っていた阿波、淡路の兵達も、細川卿律師に負けて坂本へ帰っ
そうしているところに、土岐弾正少弼頼遠が三百余騎で上賀茂に待機していたが、五条大宮に待機していた旗を見て取ったので、大将は皆公家の人々だと見て、後ろからどっと鬨の声を挙げ叫び声を上げて討って懸かった。「それ、後ろから取り囲んだぞ。河原へ退いて広いところ
義貞は、坂本を出る時に、まず皇居に参って、「天下の帰趨は帝のご運にお任せしますので、気にするところではありません。ぜひともこの度の戦では、尊氏が籠もっています東寺の中へ矢一本射込まないでは帰らないつもりです」と言っていたその言葉に違わず、敵を矢の届くと
一方の寄せ手が敗れたことも知らないで、合図の刻限になったと、本隊の大将新田義貞と脇屋義助が二万余騎を率いて、今路と西坂本から下って、三手に分かれて押し寄せた。一隊は義貞、義助、江田、大舘、千葉、宇都宮でその軍勢は一万余騎、大中黒、月に星、左巴、右巴、丹
京都の合戦は十三日の朝十時とあらかじめ諸方に伝えてあったので、東坂本から出発する軍勢が関山、今路の辺りに控えて時刻を待っていたところに、敵が偽って火を点けたのか、北白河に火の手が上がって、煙が青空に広がった。八幡から寄せようとする宮方の軍勢はそれを見て
今一度京都に攻め寄せて、勝負を決める合戦をしようと諸方の手はずが決まったので、兵達の士気を上げるために、畏れ多くも帝は紅の袴をお脱ぎになって、十㎝ずつに切って希望する兵士にお与えになった。 七月十三日、大将新田左中将義貞は、数度の戦いに生き残った一族四
書面を検討の後、南都の衆徒はすぐに叡山に協力を約して、返書を送った。その手紙は、「手紙を戴いた。 お伝えする。宗祖道昭は観行五品の上位に達するために、円頓戒を黄河と淮河の地で学ぶ。釈尊は仏に並ぶ悟りが開けると、真実の道義をインドで説いた。そこで隋の高
官軍は二度の合戦に敗れて、士気も衰え軍勢も少なくなったので、叡山や坂本に誰か寝返る者は出て、思いがけないことが起きるのではないかと、主上は玉座に安心していらっしゃれず、お心を悩まされたので、まず衆徒の心を励ますために日吉七社と叡山九院のそれぞれの仏閣へ
六月五日から二十日までの叡山の数日間の合戦で討たれた者、傷を受けた者は何千何万と数が知れない。結局寄せ手は、東西の坂から追い立てられて、引き退いた兵達は京の街にも足と留めず、ちりぢりになって逃げて行ったので、洛中は思いの外に人がいなくなって、どうしたも
山門では、西坂本で戦があったら本院の鐘を撞き、東坂本に合戦があったら生源寺の鐘を鳴らすとそれぞれに約束を決めていた。そこで、二十二日の早朝に早尾の神社の猿たちがたくさん群がって来て、生源寺の鐘を東西両塔に響くほど撞いたのだった。 各方面の官軍や全山の衆
その頃、越前の守護尾張守高経が北陸道の軍勢を率いて仰木から押し寄せて横川を攻めようとしていると伝えられたので、横川楞厳院の九つの谷の衆徒はあちらこちらの要所毎に城門を作り、逆木を置いて構えを厳重にした。そのころ、大師の御廟修造のために材木を多く山上に引
今のように矢戦ばかりで日を暮らし夜を明かしていたら、何年攻めても叡山が落ちるということはないと、多くが攻めあぐんで考えていたところに、山門の僧侶で金輪院の律師光澄の所から今木少納言隆賢という同じ宿坊の者を使いにして、高豊前守に、「新田殿の固めておられる
同じ月十六日、熊野の八庄司たちが五百余騎で上洛したが、新手なので一戦しようというので、そのまま西坂本へ向かった。黒糸の鎧兜に指の先まで鎖で被った籠手、脛当て、半頬、膝鎧を隙間なく完全に武装した点は、まったく世の一般の兵達の出で立ちとは異なって、役に立ち
その翌日、高豊前守が大津へ使いを立てて、「主だった敵は皆大嶽へ向かったとみえます。急いで正面の合戦を始められて、東坂本を攻め破り、神社仏閣、僧坊、民家に至るまで一棟も残さず焼き払って、敵を山上へ追い上げ、東西両塔の間に上がって煙を上げられれば、大嶽の敵
そこで、各院で早鐘を撞いて西坂本がすでに攻め破られたと本院の谷々に騒ぎ伝えると、歩行も困難な老僧は鳩の杖にすがって中堂、常行道などへ行って本尊と一緒に焼け死のうと悲しみ、修行修学をもっぱらにしている学僧などは経典を腹に押し当てて、逃げて行く僧兵の太刀、
六月六日、正面の大将の中から西坂本の寄せ手の中へ使者を立てて、「こちらの敵陣を見ますと、新田、宇都宮、千葉、河野を始めとして主だった武士たちは大部分が東坂本を守っていると思われます。西坂は場所が険しいことを頼りに、公家の人々、あるいは叡山の僧たちを向け
主上が再び叡山に臨幸されたので、三千の僧侶は先の春の勝ち戦にならって迷いなく帝をお護り申し上げ、北国や奥州の軍勢を待っていると伝えられると、将軍と左馬頭、高、上杉の人々は東寺に集まって合戦の協議をした。「事が遅れて、義貞に軍勢が付いたならば叶わなくなる
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下