ブログみるアプリ
日本中の好きなブログをすばやく見られます
無料ダウンロード
ブログ村とはIDが異なります
メインカテゴリーを選択しなおす
フォロー
二十 正成が首故郷へ送る事
湊川で討たれた楠判官の首は、六条河原に懸けられた。去る一月にも違った首を懸けたので、これもまたそうだろうという者が多かった。 疑ひは人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が首と狂歌に書いて立てたのだった。 その後尊氏卿は楠の首を取り寄せられて、「公
2021/11/30 08:28
十九 日本朝敵の事
そもそも、日本の国が開けた初めを尋ねると、天と地が分かれ、天地人が現れて、人間の寿命が二万歳になった時に、伊弉諾、伊弉冉の二人の神が男神女神となって地上に下られ、一女三男をお産みになった。一女というのは天照大神、三男というのは月の神、蛭子、素戔嗚尊であ
2021/11/29 08:31
十八 持明院・本院東寺潜行の事
持明院法皇と本院、新院、春宮に至るまでことごとく皆叡山へおいでを仰ごうということを、太田判官全職が道中の責任者としてお供申し上げたが、本院はかねてから尊氏に院宣をお下しになっていたので、再びご執政になることがあるのではないかとお思いになって、北白河の辺
2021/11/28 09:05
十七 聖主また山門へ臨幸の事
官軍の総大将義貞朝臣がわずか六千余騎になるまで討たれて帰京なさったので、京中の人々誰もが顔色を変えて慌て騒ぐことこの上もない。官軍がもし戦いに敗れたならば、以前のように東坂本へ行幸なさるようにあらかじめ話し合われていたので、五月十九日、主上は三種の神器
2021/11/27 08:47
十六 小山田太郎高家青麦を刈る事
そもそも官軍の中に人の道を弁えてそれに命を惜しまないものが多いと言っても、危急の時に臨んで大将のために命を捨てようとする兵はなかったのだが、遙か遠くにいた小山田だけは馬を引き返して、義貞をお乗せして、おまけに自分は後に残って討ち死にしたその気持ちを探っ
2021/11/26 08:57
十五 新田殿湊川合戦の事 ~2~
官軍はもともと少数だったので、命を捨てて戦うと言っても、結局は大軍に敗れて、残る軍勢はわずかに五千余騎、生田の森の東から丹波路を指して逃げていった。数万の敵が勝った勢いでこれを厳しく追った。しかしいつもの習いで、義貞朝臣は味方の軍勢を逃げ延びさせるため
2021/11/25 08:32
十五 新田殿湊川合戦の事 ~1~
楠がすでに討たれたので、将軍と左馬頭と一緒になって新田左中将に討って懸かられる。義貞はこれを見て、「西宮から上がる敵は、旗の紋を見ると、取るに足りない朝敵だ。湊川から攻めかかる敵は尊氏と直義だと思われる。これこそ目指す敵である」と言って、西宮から引き返
2021/11/24 11:40
十四 正成兄弟討死の事
楠判官正成が弟帯刀正季に向かって、「敵は前後を遮って、我が軍は離ればなれになった。もはや逃れられないと思われる。さあ、まず前にいる敵を一戦蹴散らして、後ろの敵に向かおう」と言うと、正季は、「よろしいでしょう」と賛成して、七百余騎を前後に進ませて大軍の
2021/11/23 08:51
十三 経島合戦の事
遠矢を射損じて、敵味方に笑われ憎まれた者は恥を濯ごうと思ったのか、船一艘に二百余人で乗って、経島へ押し寄せ、一斉に磯へ飛び降りて敵の中へ討って懸かった。脇屋左衛門佐の兵達が五百余騎で中に取り囲み、左右から追い詰めて矢を射かけた。二百余騎の者たちは、気持
2021/11/22 08:08
十二 本間孫四郎遠矢の事
新田と足利が向かい合ってまだ戦いが始まらないでいるところに、本間孫四郎重氏が黄河原毛の大きくたくましい馬に紅裾濃の鎧を着て、ただ一騎和田岬の波打ち際に馬を寄せて沖にいる船に向かって大音声を挙げて、「将軍は九州から御上洛なさったのだから、おそらく鞆や尾道
2021/11/21 08:36
十一 兵庫海陸寄手の事
さて夜が明けると五月二十五日の朝八時、沖の霞の晴れ間からかすかに見える船があった。漁から帰る漁師の船か淡路の瀬戸を渡る船かと海辺の景色を眺めに渡すと、左右に楯を並べて船首と船尾に旗を立てた数万の軍船が順風に帆を揚げていた。遠く広がる海上の五十㎞を連なっ
2021/11/20 08:57
十 正成兵庫に下向の事 ~3~
正成が兵庫に着くと、新田左中将はすぐに対面なさって、帝のお考えをお尋ねになった。正成が改まって自分の考えと帝のお決めになったことを詳しく語り申し上げると、「まことに敗軍の小勢で調子づいた大軍と戦うのはできることではないけれども、去年関東の合戦で敗れて上
2021/11/19 08:58
十 正成兵庫に下向の事 ~2~
正成はこれを最後の合戦と思ったので、嫡子正行がことし十一歳で供をしていたのを、思うことがあると言って桜井の宿から河内へ返してやるというので、父としての教えを残して、「獅子は子を産んで三日経つ時に数千mの石壁からこれを投げる。その子が獅子の器量があれば教
2021/11/18 09:27
十 正成兵庫に下向の事 ~1~
尊氏卿と直義朝臣が大軍を率いて上洛して来るので、難所となる所で防ぎ戦うために、兵庫に後退してきたということを、義貞朝臣が早馬を送って内裏に報告なさったので、主上は大変にお慌てになって、楠判官正成をお呼びになって、「急ぎ兵庫へ下向して、義貞と力を合わせて
2021/11/15 08:31
九 新田殿兵庫を引かるる事
新田左中将義貞は、備前、美作の軍勢を待って合流するために、加古川の西にある岡に陣を取って、二日間留まられた。ちょうど、五月雨が降り続いて川の水が増えたので、「後から敵が攻めかかってくるといけません。まず総大将と主だった人々だけは船で向こう岸にお渡り下さ
2021/11/14 08:26
八 備中の福山合戦の事 ~3~
その頃、この道を落人が通ったと聞いて赤松入道が三百余騎を行かせて名波あたりで待たせていた。備後守がわずか八十三騎で街道へ出ようとしたところに、赤松の手勢がとある山陰で立ち塞がって、「落人と見えるが、誰か。命が惜しければ、弓の弦を外し武具を脱いで降伏しろ
2021/11/13 08:36
八 備中の福山合戦の事 ~2~
五月十八日夕方、脇屋右衛門佐が三石から使者を送って新田左中将のところに行かせ、福山の合戦の次第を詳しくお知らせになったところ、その使者がすぐに帰ってきて、「白旗、三石、菩提寺の城をまだ攻め落としていないところに、尊氏、直義が大軍で海路と陸路で上ってくる
2021/11/12 08:37
八 備中の福山合戦の事 ~1~
福山に立て籠もる官軍たちがこのことを聞いて、「この城はまだ完成していない。足利軍のことやこの城のことを考えると、大軍を迎え討つことはできそうにない」と申し上げるのを、大江田式部大輔はしばらく考えて、「合戦の習いとして勝負は時の運によるとは言うけれども
2021/11/11 09:44
七 将軍筑紫より御上洛の事 付けたり瑞夢の事
多々良浜の合戦の後、九州全域で誰一人として将軍に従わないものはいなかった。しかし中国地方に敵はいっぱいいて京への道を塞ぎ、東国が帝の徳に従っていくにつれて味方をするものが少なかったので、安易に京都へ攻め上ることはどうかと、この春の敗北に懲り恐れて、兵達
2021/11/10 08:38
六 児島三郎熊山に旗を挙ぐる事 付けたり船坂合戦の事 ~3~
一手には伊東大和守を案内者として頓見六郎、旗六郎左衛門が当国の目代少納言範猷、由良新左衛門、小寺六郎、三津沢山城権守以下、わざと小勢を選んで三百余騎を向けられる。その軍勢は皆轡の引き手を紙で巻いて馬が嘶かないように舌の根を結んだ。杉坂越えの北、三石に南
2021/11/09 08:53
六 児島三郎熊山に旗を挙ぐる事 付けたり船坂合戦の事 ~2~
夜に入った頃、寄せ手の中に石生彦三郎と言ってこの山中を知っている者がいて、思いも寄らぬ方向から入り込んで、本堂の後ろの峰で鬨の声を揚げた。高徳は四方の麓へ軍勢を皆分けて行かせていた。わずかに十四、五騎で本堂の庭に控えていたが、石生の二百騎の中に大声を上
2021/11/08 08:20
六 児島三郎熊山に旗を挙ぐる事 付けたり船坂合戦の事 ~1~
こうしている頃、備前国の住人児島三郎高徳は、去年の冬、細川卿律師が四国から攻め上った時、備前、備中での数回の合戦に負けて山林に身を隠し、会稽の恥を濯ごうと思って義貞朝臣の下向を待っていたのだったが、船坂山を官軍が越えかねていると聞いて、ひそかに使いを送
2021/11/07 08:44
五 新田左中将赤松を攻めらるる事
そして左中将義貞の病気がよくなったので、五万余騎の軍勢を率いて西国へお下りになる。後続の軍勢を待って合流するために、播磨国加古川で四、五日留まられたところに宇都宮治部大輔公綱、紀伊常陸守、菊池二郎武季が三千余騎で到着する。その他、摂津国、播磨、丹波、丹
2021/11/06 08:34
四 西国蜂起官軍進発の事
その頃、将軍が筑紫へお逃げになった時、四国や西国の朝敵たちは気勢を削がれ慌てふためいて、ある者は山林に隠れ、ある者は縁を求めて新田の御教書をいただかない者はいなかった。この時もし義貞がすぐに西へ下っておられたならば、一人も降参しないものはいなかったであ
2021/11/05 08:37
三 多々良浜合戦の事 付けたり香駿河守例を引く事 ~3~
いままで大敵だった松浦、神田の者たちは、将軍の小勢を大軍だと思って降参したと噂になったので、将軍は高と上杉の人々に向かって、「『言葉の下に骨を消し、笑いの中に刀を研ぐ』というのは、この頃の人の心だ。だから少弐の一族が、長年の恩顧があっても、その少弐を討
2021/11/04 08:16
三 多々良浜合戦の事 付けたり香駿河守例を引く事 ~2~
その頃、菊池は五千余騎を率いて浜の西から近づいて、まず開戦の鏑矢を射た。左馬頭の陣からは矢の一本も射ないで、鳴りを潜めて隙はあれば討って出ようと窺っていたところ、誰が射たとも分からない白羽の鏑矢が敵の上を音を立てて飛び、落ちたところも分からない。左馬頭
2021/11/03 09:12
三 多々良浜合戦の事 付けたり香駿河守例を引く事 ~1~
少弐の城がすでに攻め落とされて、一族若党百六十五人が一緒に討たれてしまったので、菊池はますます大軍となってすぐに多々良浜へ押し寄せた。将軍は香椎宮に上って、遠く菊池の軍勢をご覧になると四、五万騎もあろうか思われて、味方はわずかに三百騎に過ぎず、しかも半
2021/11/02 09:06
二 少弐、菊池と合戦の事 付けたり宗応蔵主が事
菊池掃部助武敏は元来宮方で肥後国にいたが、少弐が将軍方に行ったという事を聞いて、道中で討ってしまおうと、その軍勢三千余騎で水木の渡し場に駆け向かった。少弐太郎は夢にもこれを知らないで小船七艘に乗り込んで、まず自分が向かいの岸に着く。畦籠豊前守以下はまだ
2021/11/01 08:56
2021年11月 (1件〜100件)
「ブログリーダー」を活用して、いかるのうたさんをフォローしませんか?