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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き https://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

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  • 一 将軍筑紫へ御開きの事

    建武三年二月八日、尊氏卿が兵庫からお逃げになるまでは従う兵はわずか七千余騎いたけれども、備前の児島にお着きになった時、京都から討手が下ったならば三石辺りで防ぎ止めよということで、尾張左衛門佐氏頼を、田井、飽浦、松田、内藤につけて留められ、細川卿律師定禅

  • 九 賀茂の神主改補の事

    大きな災いからもとに返って天下の政治が一新されたので、嘆いたり喜んだりする人が多かった。中でも賀茂神社の神職は、神職中の重鎮として任命には決まった手続きがあることだから罪がなくては替わることはないのだが、この度尊氏卿は貞久を解任して基久を任命され、基久

  • 八 主上山門より還幸の事

    先月の終わりに反逆の者たちが都を去ったので、二月二日主上は叡山から還幸なさって、花山院を皇 居になさったのだった。同じ八日、義貞朝臣が豊島、打出の合戦に勝って、そのまま朝敵を遙かな海上に追い払い、同じく降伏した者への処罰を減じて、京都にお帰りになる。

  • 七 大樹摂津国豊島河原合戦の事 ~2~

    同じく七日の朝凪に遙かの沖を見渡すと、大船五百余艘が順風に帆を揚げて東を指して走っている。どちらに付くかとみていると、二百余艘は舵を回して兵庫の島へ漕ぎ入れる。三百余艘は帆を操って西宮に漕ぎ寄せた。これは大伴、厚東、大内介が将軍方へ付こうと上って来たも

  • 七 大樹摂津国豊島河原合戦の事 ~1~

    将軍が湊川にお着きになったので、戦意を失っていた軍勢がまた気力を取り戻して方々から馳せ参じたので、まもなくその数は二十万騎になった。この軍勢ですぐに攻め上られたならば、また官軍は京に留まれなかっただろうのに、湊川の宿で特に何ということもなく三日間も留ま

  • 六 将軍都落ちの事 付けたり薬師丸帰京の事 ~2~

    将軍はその日丹波の篠村を過ぎて曽地の内藤三郎左衛門入道道勝の館にお着きになると、四国や西国の軍勢は山崎を過ぎて芥川に着いた。親子、兄弟、その他の肉親、主従が互いに行方が分からず逃げて行ったので、討たれて死んだのだろうと悲しむ。しかし、「将軍は、何事もな

  • 六 将軍都落ちの事 付けたり薬師丸帰京の事 ~1~

    楠判官は延暦寺へ帰って、次の朝、二、三十人の僧を律宗の僧に仕立てて京に行かせ、あちこちの戦場で死骸を捜させた。足利勢が不思議に思って訳を訊ねると、この僧たちは悲しみの涙を抑えて、「昨日の合戦で、新田左兵衛督殿、北畠源中納言殿、楠判官殿以下、主な人七人も

  • 五 正月二十七日合戦の事 ~3~

    その頃、楠判官、結城入道、伯耆守は三千余騎で糺の森から攻め込んで、出雲路の辺りに火を掛けた。将軍はこれを見て、「これはきっと神楽岡の軍勢たちと思われる。叡山の僧徒なら騎馬での戦いは容易だ。急ぎ向かって蹴散らせ」と言って、上杉伊豆守、畠山修理大夫、足利尾

  • 五 正月二十七日合戦の事 ~2~

    いよいよその日になると、人馬を休めるために夕方から、楠、結城、伯耆は三千余騎で西坂を下って、下松に陣を取る。顕家卿は三万余騎で大津を通って山科に陣を取る。洞院左衛門督は二万余騎で赤山に陣を取る。叡山の僧徒は一万余騎で龍華越えを回って鹿ヶ谷に陣を取る。新

  • 五 正月二十七日合戦の事 ~1~

    こうしている頃、去年十二月に一宮が関東へお下りになった時、搦め手として東山道から鎌倉へお入りになった大智院宮と弾正尹宮は、竹下と箱根の合戦には連絡の手違いで間に合われなかったが、甲斐、信濃、上野、下野の軍勢が馳せ参じてきたので、軍勢は雲霞のようになって

  • 四 建武二年正月十六日合戦の事 ~4~

    官軍はますます勝ちに乗じて一気に攻め込んでいく。将軍はもはや逃れるところがないとお思いになったのか、梅津、桂川の辺りでは鎧の草摺りを畳みあげて腰の刀を抜こうとなさることが三度にも及んだ。しかし将軍のご運が強かったのか日がすでに暮れたのを見て追っ手が桂川

  • 四 建武二年正月十六日合戦の事 ~3~

    敵にこういう謀があるとは将軍も思いよらず、主だった侍たちに向かって、「新田はいつも平地での戦いを好むと聞いていたが、山を後ろにして、すぐにも駆け出てこないのは、きっと小勢だということを敵に見せまいと思っているのだろう。将軍塚の上に上がった敵を放っておい

  • 四 建武二年正月十六日合戦の事 ~2~

    将軍が三井寺で戦が始まったと知らせを受けて後、黒煙が天を被うように見えたので、「味方はきっと負け戦になったと思われる。急いで加勢をやれ」と言って、三条河原に出て軍勢を集められた。こうしているところに粟田口から馬の砂煙を上げてその数四、五万騎が引き上げて

  • 四 建武二年正月十六日合戦の事 ~1~

    三井寺の敵を問題なく攻め落としたので、長旅に疲れた人馬を一日二日英気を養ってから再び合戦にしようと思って、顕家卿は坂本に引き返されたので、その軍勢二万余騎はその考えに従った。新田左兵衛督も同じく坂本へ帰ろうとなさったところ、船田長門守経政が馬を引き留め

  • 三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~4~

    そもそも金堂の本尊は衆生済度の弥勒菩薩でいらっしゃったから、このままではいけないと、ある僧徒が御頭だけを取って藪の中に隠しておいたのだった、たくさん討たれた兵達の首の中に混じって、切り口に血が付いているのを見て延暦寺の僧がしたのか、大きな立て札を立てて

  • 三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~3~

    義助はこれを見て、「どうしようもない攻め方だ。わずか門一つに遮られてこれほどの小城を落とせないということがあるか。栗生、篠塚はいないのか。あの門を取って引きはらえ。畑、亘理はいないか、切って入れ」と命じられた。 栗生と篠塚はこれを聞いて馬から飛び降り

  • 三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~2~

    その頃、坂本に大軍が着いたという様子が舟の行き来に顕れて数がおびただしいので、三井寺の大将細川卿律師定禅が高大和守の所から京都に使いを走らせて、「東国の大軍が坂本に着いて、明日攻め寄せてくるだろうと知らせがあります」と、三回も申されたけれども、「関東

  • 三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~1~

    東国の軍勢がすでに坂本に着いたので、顕家卿と義貞朝臣その他主だった人々は聖女の彼岸所に集まって、合戦の会議を開いた。「ともかく一日二日は馬の足を休めてから京都を攻めよう」と顕家卿が仰ったのを、大舘左馬助が、「長旅に疲れた馬を一日も休ませましたら、かえっ

  • 二 奥州勢坂本に着く事

    去年十一月に義貞朝臣が討手の大将を承って関東へ下られる時に、奥州の国司北畠中納言顕家卿のところへ、約束の時を違えずに一緒に攻めるように綸旨を下されたのだったが、大軍を起こすことは容易ではなかったので、あれこれと先へ延びる。それだけでなく、道中の戦に日数

  • 一 園城寺戒壇の事 ~3~

    こうしてずいぶん時を経て後、白河院の御代に、江帥匡房の兄に三井寺の賴豪僧都と言って尊い人がいたのを召されて、皇子ご誕生の祈りをお命じになった。賴豪は勅命を承って精魂を込めて祈願したところ、陰徳がたちまち顕れて承保元年十二月十六日に皇子が誕生なさったのだ

  • 一 園城寺戒壇の事 ~2~

    「そもそも延暦寺が菩薩の大乗戒の戒壇を建て、南都は小乗戒の戒壇を建てている。園城寺はどうして真言の三摩耶戒の戒壇を建てないのか」ということで、後朱雀院の御代、長暦年間に三井寺の明尊僧正がしきりに勅許を受けようと奏上したが、延暦寺が固く反対し申し上げて、

  • 一 園城寺戒壇の事 ~1~

    延暦寺は二心なく後醍醐帝をお守りして、北国、奥州の軍勢を待っているということが伝わったので、義貞に軍勢が加わらないうちに東坂本を急いで攻めようと考えて、細川卿律師定禅と同じく刑部少輔陸奥守を大将として六万余騎を三井寺(園城寺)に差し向けられる。これはい

  • 十一 坂本御皇居ならびに御願書の事

    主上はすでに東坂本に行幸なさって、本宮のお堂にいらっしゃったけれども、まだ参上する僧が一人もない。さては僧たちの心も変わってしまったのかとお心を傷められているところに、藤本房英憲僧都が参上して、申し上げる言葉もなく涙を流して広縁の上にかしこまって控えて

  • 十 将軍入洛の事 付けたり親光討死の事

    明ければ正月十一日、将軍は八十万騎で都にお入りになる。以前は、合戦が無事に終わって都に入ったなら、持明院殿方の院や宮方の中で一人を帝にお即けして天下の政治を武家によって取り計らい申し上げようと話し合って決めておられたけれども、持明院方の法皇、親王、皇子

  • 九 長年帰洛の事 付けたり内裏炎上の事

    名和伯耆守長年は勢多を防衛していたが、山崎の陣が破られて主上がすでに東坂本へお逃げになったと知らされると、「これからすぐに坂本へ馳せ参ずることは簡単だが、今一度内裏へ参らないでそのまま逃げて行くのは、後の非難を受けるだろう」と思って、その軍勢三百余騎で

  • 八 主上都落ちの事 付けたり勅使河原自害の事

    山崎、大渡の陣が破られたと伝えられると、京中の人々は皆急に起こった出来事のように慌てふためき倒れ惑って、車馬が東西に行き交う。家財、財産を南北に持ち運ぶ。義貞と義助がまだ参内しない前に、主上は叡山へお逃げになろうとして三種の神器を持って鳳輦にお乗りにな

  • 七 将軍御進発、大渡・山崎の合戦の事 ~6~

    戦いの半ばに四国の大将細川卿律師定禅の六万余騎と赤松信濃守の二千余騎が、二手に分かれて押し寄せた。官軍は敵が大軍であるのを見て叶わないと思ったか、引き返して城の中に籠もる。寄せ手はいよいよ勢いに乗って堀に飛び込み、逆木を引き抜いて射られてもひるまず乗り

  • 七 将軍御進発、大渡・山崎の合戦の事 ~5~

    これから後は橋桁も繋がっておらず、筏も使えない。このままいつまでも向かい合っていることはできないと、攻めあぐんでいるところに、いかにも小賢しげな僧形の召使いが正式に封をした手紙を持って、「赤松筑前殿の御陣はどこでしょうか」と尋ねながら走り出てきた。筑前

  • 七 将軍御進発、大渡・山崎の合戦の事 ~4~

    またこの戦が終わって後、橋の上にある櫓から武者の一人が狭間の板を押し開いて、「治承の戦の高倉宮の御合戦の時、宇治橋を三間引き落として橋桁だけが残っていたのをさえ、筒井浄妙と矢切の但馬などは一条、二条の大路よりも広いかのように走り渡って合戦したそうだ。ま

  • 七 将軍御進発、大渡・山崎の合戦の事 ~3~

    明けて正月九日の朝、尊氏は八十万騎の軍勢で大渡の西の橋詰めまで攻め寄せ、橋桁を渡ろうか川を渡ろうかとご覧になると、橋の上も川の中も敵の備えが厳しいので、どうしようかと思案して、二時間ほども動かずにいた。 その時官軍の中から勇み立った兵が百騎ほど川端に進

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