ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
建武三年二月八日、尊氏卿が兵庫からお逃げになるまでは従う兵はわずか七千余騎いたけれども、備前の児島にお着きになった時、京都から討手が下ったならば三石辺りで防ぎ止めよということで、尾張左衛門佐氏頼を、田井、飽浦、松田、内藤につけて留められ、細川卿律師定禅
大きな災いからもとに返って天下の政治が一新されたので、嘆いたり喜んだりする人が多かった。中でも賀茂神社の神職は、神職中の重鎮として任命には決まった手続きがあることだから罪がなくては替わることはないのだが、この度尊氏卿は貞久を解任して基久を任命され、基久
先月の終わりに反逆の者たちが都を去ったので、二月二日主上は叡山から還幸なさって、花山院を皇 居になさったのだった。同じ八日、義貞朝臣が豊島、打出の合戦に勝って、そのまま朝敵を遙かな海上に追い払い、同じく降伏した者への処罰を減じて、京都にお帰りになる。
同じく七日の朝凪に遙かの沖を見渡すと、大船五百余艘が順風に帆を揚げて東を指して走っている。どちらに付くかとみていると、二百余艘は舵を回して兵庫の島へ漕ぎ入れる。三百余艘は帆を操って西宮に漕ぎ寄せた。これは大伴、厚東、大内介が将軍方へ付こうと上って来たも
将軍が湊川にお着きになったので、戦意を失っていた軍勢がまた気力を取り戻して方々から馳せ参じたので、まもなくその数は二十万騎になった。この軍勢ですぐに攻め上られたならば、また官軍は京に留まれなかっただろうのに、湊川の宿で特に何ということもなく三日間も留ま
将軍はその日丹波の篠村を過ぎて曽地の内藤三郎左衛門入道道勝の館にお着きになると、四国や西国の軍勢は山崎を過ぎて芥川に着いた。親子、兄弟、その他の肉親、主従が互いに行方が分からず逃げて行ったので、討たれて死んだのだろうと悲しむ。しかし、「将軍は、何事もな
楠判官は延暦寺へ帰って、次の朝、二、三十人の僧を律宗の僧に仕立てて京に行かせ、あちこちの戦場で死骸を捜させた。足利勢が不思議に思って訳を訊ねると、この僧たちは悲しみの涙を抑えて、「昨日の合戦で、新田左兵衛督殿、北畠源中納言殿、楠判官殿以下、主な人七人も
その頃、楠判官、結城入道、伯耆守は三千余騎で糺の森から攻め込んで、出雲路の辺りに火を掛けた。将軍はこれを見て、「これはきっと神楽岡の軍勢たちと思われる。叡山の僧徒なら騎馬での戦いは容易だ。急ぎ向かって蹴散らせ」と言って、上杉伊豆守、畠山修理大夫、足利尾
いよいよその日になると、人馬を休めるために夕方から、楠、結城、伯耆は三千余騎で西坂を下って、下松に陣を取る。顕家卿は三万余騎で大津を通って山科に陣を取る。洞院左衛門督は二万余騎で赤山に陣を取る。叡山の僧徒は一万余騎で龍華越えを回って鹿ヶ谷に陣を取る。新
こうしている頃、去年十二月に一宮が関東へお下りになった時、搦め手として東山道から鎌倉へお入りになった大智院宮と弾正尹宮は、竹下と箱根の合戦には連絡の手違いで間に合われなかったが、甲斐、信濃、上野、下野の軍勢が馳せ参じてきたので、軍勢は雲霞のようになって
官軍はますます勝ちに乗じて一気に攻め込んでいく。将軍はもはや逃れるところがないとお思いになったのか、梅津、桂川の辺りでは鎧の草摺りを畳みあげて腰の刀を抜こうとなさることが三度にも及んだ。しかし将軍のご運が強かったのか日がすでに暮れたのを見て追っ手が桂川
敵にこういう謀があるとは将軍も思いよらず、主だった侍たちに向かって、「新田はいつも平地での戦いを好むと聞いていたが、山を後ろにして、すぐにも駆け出てこないのは、きっと小勢だということを敵に見せまいと思っているのだろう。将軍塚の上に上がった敵を放っておい
将軍が三井寺で戦が始まったと知らせを受けて後、黒煙が天を被うように見えたので、「味方はきっと負け戦になったと思われる。急いで加勢をやれ」と言って、三条河原に出て軍勢を集められた。こうしているところに粟田口から馬の砂煙を上げてその数四、五万騎が引き上げて
三井寺の敵を問題なく攻め落としたので、長旅に疲れた人馬を一日二日英気を養ってから再び合戦にしようと思って、顕家卿は坂本に引き返されたので、その軍勢二万余騎はその考えに従った。新田左兵衛督も同じく坂本へ帰ろうとなさったところ、船田長門守経政が馬を引き留め
三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~4~
そもそも金堂の本尊は衆生済度の弥勒菩薩でいらっしゃったから、このままではいけないと、ある僧徒が御頭だけを取って藪の中に隠しておいたのだった、たくさん討たれた兵達の首の中に混じって、切り口に血が付いているのを見て延暦寺の僧がしたのか、大きな立て札を立てて
三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~3~
義助はこれを見て、「どうしようもない攻め方だ。わずか門一つに遮られてこれほどの小城を落とせないということがあるか。栗生、篠塚はいないのか。あの門を取って引きはらえ。畑、亘理はいないか、切って入れ」と命じられた。 栗生と篠塚はこれを聞いて馬から飛び降り
三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~2~
その頃、坂本に大軍が着いたという様子が舟の行き来に顕れて数がおびただしいので、三井寺の大将細川卿律師定禅が高大和守の所から京都に使いを走らせて、「東国の大軍が坂本に着いて、明日攻め寄せてくるだろうと知らせがあります」と、三回も申されたけれども、「関東
三 三井寺合戦ならびに当寺撞鐘の事 付けたり俵藤太が事 ~1~
東国の軍勢がすでに坂本に着いたので、顕家卿と義貞朝臣その他主だった人々は聖女の彼岸所に集まって、合戦の会議を開いた。「ともかく一日二日は馬の足を休めてから京都を攻めよう」と顕家卿が仰ったのを、大舘左馬助が、「長旅に疲れた馬を一日も休ませましたら、かえっ
去年十一月に義貞朝臣が討手の大将を承って関東へ下られる時に、奥州の国司北畠中納言顕家卿のところへ、約束の時を違えずに一緒に攻めるように綸旨を下されたのだったが、大軍を起こすことは容易ではなかったので、あれこれと先へ延びる。それだけでなく、道中の戦に日数
こうしてずいぶん時を経て後、白河院の御代に、江帥匡房の兄に三井寺の賴豪僧都と言って尊い人がいたのを召されて、皇子ご誕生の祈りをお命じになった。賴豪は勅命を承って精魂を込めて祈願したところ、陰徳がたちまち顕れて承保元年十二月十六日に皇子が誕生なさったのだ
「そもそも延暦寺が菩薩の大乗戒の戒壇を建て、南都は小乗戒の戒壇を建てている。園城寺はどうして真言の三摩耶戒の戒壇を建てないのか」ということで、後朱雀院の御代、長暦年間に三井寺の明尊僧正がしきりに勅許を受けようと奏上したが、延暦寺が固く反対し申し上げて、
延暦寺は二心なく後醍醐帝をお守りして、北国、奥州の軍勢を待っているということが伝わったので、義貞に軍勢が加わらないうちに東坂本を急いで攻めようと考えて、細川卿律師定禅と同じく刑部少輔陸奥守を大将として六万余騎を三井寺(園城寺)に差し向けられる。これはい
主上はすでに東坂本に行幸なさって、本宮のお堂にいらっしゃったけれども、まだ参上する僧が一人もない。さては僧たちの心も変わってしまったのかとお心を傷められているところに、藤本房英憲僧都が参上して、申し上げる言葉もなく涙を流して広縁の上にかしこまって控えて
明ければ正月十一日、将軍は八十万騎で都にお入りになる。以前は、合戦が無事に終わって都に入ったなら、持明院殿方の院や宮方の中で一人を帝にお即けして天下の政治を武家によって取り計らい申し上げようと話し合って決めておられたけれども、持明院方の法皇、親王、皇子
名和伯耆守長年は勢多を防衛していたが、山崎の陣が破られて主上がすでに東坂本へお逃げになったと知らされると、「これからすぐに坂本へ馳せ参ずることは簡単だが、今一度内裏へ参らないでそのまま逃げて行くのは、後の非難を受けるだろう」と思って、その軍勢三百余騎で
山崎、大渡の陣が破られたと伝えられると、京中の人々は皆急に起こった出来事のように慌てふためき倒れ惑って、車馬が東西に行き交う。家財、財産を南北に持ち運ぶ。義貞と義助がまだ参内しない前に、主上は叡山へお逃げになろうとして三種の神器を持って鳳輦にお乗りにな
戦いの半ばに四国の大将細川卿律師定禅の六万余騎と赤松信濃守の二千余騎が、二手に分かれて押し寄せた。官軍は敵が大軍であるのを見て叶わないと思ったか、引き返して城の中に籠もる。寄せ手はいよいよ勢いに乗って堀に飛び込み、逆木を引き抜いて射られてもひるまず乗り
これから後は橋桁も繋がっておらず、筏も使えない。このままいつまでも向かい合っていることはできないと、攻めあぐんでいるところに、いかにも小賢しげな僧形の召使いが正式に封をした手紙を持って、「赤松筑前殿の御陣はどこでしょうか」と尋ねながら走り出てきた。筑前
またこの戦が終わって後、橋の上にある櫓から武者の一人が狭間の板を押し開いて、「治承の戦の高倉宮の御合戦の時、宇治橋を三間引き落として橋桁だけが残っていたのをさえ、筒井浄妙と矢切の但馬などは一条、二条の大路よりも広いかのように走り渡って合戦したそうだ。ま
明けて正月九日の朝、尊氏は八十万騎の軍勢で大渡の西の橋詰めまで攻め寄せ、橋桁を渡ろうか川を渡ろうかとご覧になると、橋の上も川の中も敵の備えが厳しいので、どうしようかと思案して、二時間ほども動かずにいた。 その時官軍の中から勇み立った兵が百騎ほど川端に進
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下