ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
一方、足利将軍は八十万騎の軍勢を率いて、正月七日、近江国伊岐洲の神社に叡山の法師成願坊が三百余騎で立て籠もっていた城を一日一夜で攻め落として、八日に八幡の麓に陣を取る。 細川卿律師定禅が四国と中国の軍勢を率いて正月七日に播磨の大蔵谷に着いたところ、赤松
そうしているうちに年が改まったけれども、内裏では朝拝の儀式もなく、正月の各節会も行われない。京白河には家を壊して筏を作り家財を積んで運んでいる。これという情報もないままに、ただ騒然として見えるのだった。 こうしている時に尊氏が八十万騎で美濃、尾張へお着
こうしている頃、十二月十日、讃岐から高松三郎頼重が早馬を立てて京都に、「足利の一族細川卿律師定禅が先月二十六日に当国鷺田庄において挙兵したところに、詫間、香西がこれに組して、そこで三百余騎に及びました。これによって私が時を移さず討伐するためにまず屋島の
この後は遮ろうとする敵も無かったので、負傷者を助け遅れる者たちを待ちながら、十二月十四日の夕暮れに、天竜川の東の宿にお着きなった。ちょうど川の水が岸に届くようだった。長旅に疲れた人馬なので、渡ることはできないだろうと、急いで民家を壊して浮橋を作って渡さ
この時、雑役僧が一人、西の方から来て、船田の前にかしこまって、「これは、どこへ行こうと思ってお通りでしょうか。昨日の夕方脇屋殿が竹下の戦いで負けてお逃げになった後、将軍の軍勢八十万騎が伊豆の国府にあふれるほどで、木の下、岩の陰は人のいないところがありま
正面の箱根路の戦いは、官軍が戦う度に勝ったので、かろうじて守りを固めている足利左馬頭を追い落として鎌倉へ攻め入ることは容易なことだと、寄せ手の皆が勇み立って、夜が明けるのを待ち遠しいと待っていたところに、搦め手から戦に敗れて寄せ手は皆追い散らされたと伝
先陣があまりに戦い疲れたので、新手を入れ替えて戦わせようとしたところに、大友左近将監と佐々木塩冶判官が千余騎で後ろに待機していたが、どう思ったか、一矢射て後、旗を巻いて将軍方に駆け加わり、逆に官軍に激しく射かけてきた。 中務卿の軍勢は、最初の合戦で多く
この時、脇屋右衛門佐の息子で式部太夫といってことし十三歳になる者が、敵味方が分かれた時に、どうして紛れ込んだのか、郎党三騎と一緒に敵の中に残っていた。この人はまだ年は若いといっても頭の回転の速い人で、笠印を引きちぎって投げ捨てて、頭を振り乱し顔に掛けて
このころ、竹下へ向かわれた中務卿の軍勢は各公卿の侍や御所警護の武士たち五百余騎が余計なことに、武士に先駆けを許すまいと思ったのか、錦の御旗を先に進めて竹下に押し寄せ、敵がまだ一矢も射ないうちに、「天下をお治めになる君に向かって弓を引き矢を放つ者は天罰を
その中で菊池肥後守武重は箱根の戦に先駆けをして敵の三千余騎を遠くの峰に追い上げ、坂の途中で楯を並べて一息ついて休んでいた。 これを見て千葉、宇都宮、川越、高坂、熱田の大宮司はそれぞれに陣を構えてえいやえいやと声を上げて次々に攻め上り、喚き叫んで戦った。
そこで、その年十二月十一日、二つの陣に手分けをされて、左馬頭直義は箱根路を固め、将軍は竹下へ向かおうとお決めになったのだった。今回の数度の合戦に敗れた兵達は、まだ気を取り直していないで元気が出ず、昨日、今日駆けつけた軍勢は大将の出馬を待ってぐずぐずして
その頃、足利左馬頭直義朝臣は鎌倉に帰って合戦の様子をお話ししようと、将軍のお館に参られると、四方の門を残念なことに閉じて人もいない。激しく門を叩いて、「誰かいないか」とお尋ねになると、須賀左衛門が出て迎えて、「将軍は矢矧の合戦のことをお聞きになりまし
日がすでに暮れたので合戦は明日になるだろうと、鎌倉勢は皆川から東に陣取っていたが、どう思ったのか、ここでは持ちこたえられないと思って、その夜矢矧を退き鷺坂に陣を取った。こうしているところに宇都宮、仁科、愛曾伊勢守、熱田摂津大宮司が遅れて三千余騎、義貞の
その頃、十一月二十五日の朝六時頃、新田左兵衛督義貞と脇屋右衛門佐義助が六万余騎で矢矧川に押し寄せて敵の陣を見渡すと、その軍勢は二、三十万騎もあるように思われて、川から東、橋の上下二十㎞ほどを埋めて、雲霞のようにいっぱいになっている。左兵衛督義貞は長浜六
こうして一、二日を過ぎたところに討手の大将一宮を初めとし申して、新田の人々が三河、遠江まで来たと騒ぎになったので、上杉兵庫入道道勤、細川阿波守和氏、佐々木佐渡判官道誉が、左馬頭殿の所に参上して、「この事はどうしましょうか」と相談なさったところ、「将軍の
討手の大軍がすでに京を出発したと鎌倉へ告げる人が多かったので、左馬頭直義、仁木、細川、高、上杉の面々が将軍の御前に参上して、「すでに足利ご一家を滅ぼすために、義貞を大将として、東海、東山の両道から攻め下っているそうです。敵に難所を越えられたならば、防ぎ
こうして十一月八日、新田左兵衛督義貞朝臣は朝敵追討の宣旨を賜って兵を連れて参内なさる。馬や物の具がまことに颯爽として勇ましい出で立ちである。上下の公卿、各参議が紫宸殿の階段の前に陣を張って六位以上の人が集まる中儀の節会が行われて、節度使として刀を賜る。
すぐに諸卿が参集して、このことをどうすべきかと評議されたけれども、高官はわが身を大事にして口を閉じ、下級の者は人にどう思われるか知れないと思ってものを言わないでいるところに、坊門宰相清忠が進み出て、「今両方の奏上するところを聞いて、よくよく道理に一致す
この奏状はまだ摂政や関白が下見もしていなかったので、全く知る人もなかったのに、義貞朝臣がこれを伝え聞いて、同じように奏状を差し上げた。その言葉は、「従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞が心から恐れかしこまって申し上げます。 急いで尊氏朝臣、直義等誅罰し
その状に、「参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏、心から恐れかしこまって申し上げます。 急いで義貞朝臣の一族を誅罰して天下を太平に致そうと願い上げる書面。 右のことについて、謹んで歴代の聖君が天下に徳をお示しになっていることを考えますと、恩賞はその忠功を示し
こうして足利宰相尊氏卿は、相模二郎を滅ぼして関東はそのまま鎮まったので、帝との約定があった以上何の問題がろうかと、まだ宣旨も下されないのに、強引に足利征夷将軍と名乗られた。関東八ヶ国の管領の事は、勅許があった事だからと、今回の箱根、相模川の合戦の時に忠
初め遠江の橋本から小夜の中山、江尻、高橋、箱根山、相模川、片瀬、腰越、十間坂など十七回の戦いに、平家二万余騎の兵達は、ある者は討たれある者は傷を受けて、今はわずか三百余騎になったので、諏訪三河守を初めとして主だった御家人四十三人は大御堂の中に走り入り、
相模二郎はこれを聞いて、「源氏は大変な大軍だと言われるから、待っていて戦って敵に圧倒されては叶わない。先んずる時は、人を制するのに有利だ」というので、自分は鎌倉にいながら名越式部大輔を大将として東海、東山の両道を軍を進めて攻め上る。その勢三万余騎、八月
直義朝臣は鎌倉を逃れて上洛されたが、その途中において駿河国入江庄は東海道第一の難所だった。相模二郎に加勢する者がひょっとして道を塞いでいるかも知れないと家来たちは皆心配した。そのためにそこの地頭入江左衛門尉春倫のところへ使いを遣られて味方になってほしい
淵辺が宮の御首を取りながら、左馬頭殿にお見せ申さず、藪の脇に捨てたことについては、少し考えることがあった。 昔、周の末の時代に、楚王という王が武力で天下を取るために戦いを習いとし剣を好むことが長かった。ある時、楚王の夫人が鉄の柱に寄りかかって涼んでおら
左馬頭直義は山内を過ぎられる時、淵辺伊賀守を呼び寄せて、「味方が少数なので、いったん鎌倉を退くけれども、美濃、尾張、三河の軍勢を集めてすぐに鎌倉へ寄せるつもりだから、相模二郎時行を滅ぼすのは造作もないことだろう。それ以上に当家にとってずっと災いとなられ
今、天下の統一がなり、畿内は治まっているといっても、朝敵の残党がなお東国にいるようであるので、鎌倉に探題を一人置かなくては具合が悪いだろうということで、帝の第八の宮を征夷大将軍にお就けして、鎌倉に置き申し上げる。足利左馬頭直義が執権として東国を取り仕切
それにしても故大納言殿がお亡くなりになる前兆があったことを、木工頭孝重があらかじめ聞いていたのは不思議なことである。 あのご謀反の初めに祈祷のために七日間北野に参籠して、毎夜琵琶の秘曲をお弾きになっていたが、七日目に当たるその夜はことさら北野天神の供養
あれほど屋敷の内外に雲のように大勢いた侍や侍女たちは、どこに逃げたのか、一人も見えなくなって簾や几帳が引き落とされている。居間をご覧になると、月の夜や雪の朝、興に触れて詠み置かれた短冊がたくさんにここかしこに散らばっているのも、今は亡き人の形見となって
大納言殿は貞平朝臣の屋敷で一畳四方の所を狭い牢のように作って押し込め申し上げる。文衡入道は結城判官にお預けになって、夜昼三日間厳しく拷問されたところ、残るところなく白状したので、すぐに六条河原へ引き出して首を刎ねられた。 公宗は伯耆守長年に仰せつけられ
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
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そうしているところに、将軍の屋敷の庭の花が紅紫の色を交えて、その美しさは類いがなかったので、道朝が種々の酒肴を用意して貞治五年三月四日を定めて将軍の御所で花の下での遊宴を行おうと計画された。とくに道誉に誘いを掛けた。道誉は、初めは参るだろうと承諾してい