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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き http://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

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  • 七 将軍御進発、大渡・山崎の合戦の事 ~2~

    一方、足利将軍は八十万騎の軍勢を率いて、正月七日、近江国伊岐洲の神社に叡山の法師成願坊が三百余騎で立て籠もっていた城を一日一夜で攻め落として、八日に八幡の麓に陣を取る。 細川卿律師定禅が四国と中国の軍勢を率いて正月七日に播磨の大蔵谷に着いたところ、赤松

  • 七 将軍御進発、大渡・山崎の合戦の事 ~1~

    そうしているうちに年が改まったけれども、内裏では朝拝の儀式もなく、正月の各節会も行われない。京白河には家を壊して筏を作り家財を積んで運んでいる。これという情報もないままに、ただ騒然として見えるのだった。 こうしている時に尊氏が八十万騎で美濃、尾張へお着

  • 六 諸国の朝敵蜂起の事

    こうしている頃、十二月十日、讃岐から高松三郎頼重が早馬を立てて京都に、「足利の一族細川卿律師定禅が先月二十六日に当国鷺田庄において挙兵したところに、詫間、香西がこれに組して、そこで三百余騎に及びました。これによって私が時を移さず討伐するためにまず屋島の

  • 五 官軍箱根を引き退く事 ~3~

    この後は遮ろうとする敵も無かったので、負傷者を助け遅れる者たちを待ちながら、十二月十四日の夕暮れに、天竜川の東の宿にお着きなった。ちょうど川の水が岸に届くようだった。長旅に疲れた人馬なので、渡ることはできないだろうと、急いで民家を壊して浮橋を作って渡さ

  • 五 官軍箱根を引き退く事 ~2~

    この時、雑役僧が一人、西の方から来て、船田の前にかしこまって、「これは、どこへ行こうと思ってお通りでしょうか。昨日の夕方脇屋殿が竹下の戦いで負けてお逃げになった後、将軍の軍勢八十万騎が伊豆の国府にあふれるほどで、木の下、岩の陰は人のいないところがありま

  • 五 官軍箱根を引き退く事 ~1~

    正面の箱根路の戦いは、官軍が戦う度に勝ったので、かろうじて守りを固めている足利左馬頭を追い落として鎌倉へ攻め入ることは容易なことだと、寄せ手の皆が勇み立って、夜が明けるのを待ち遠しいと待っていたところに、搦め手から戦に敗れて寄せ手は皆追い散らされたと伝

  • 四 箱根・竹下合戦の事 ~5~

    先陣があまりに戦い疲れたので、新手を入れ替えて戦わせようとしたところに、大友左近将監と佐々木塩冶判官が千余騎で後ろに待機していたが、どう思ったか、一矢射て後、旗を巻いて将軍方に駆け加わり、逆に官軍に激しく射かけてきた。 中務卿の軍勢は、最初の合戦で多く

  • 四 箱根・竹下合戦の事 ~4~

    この時、脇屋右衛門佐の息子で式部太夫といってことし十三歳になる者が、敵味方が分かれた時に、どうして紛れ込んだのか、郎党三騎と一緒に敵の中に残っていた。この人はまだ年は若いといっても頭の回転の速い人で、笠印を引きちぎって投げ捨てて、頭を振り乱し顔に掛けて

  • 四 箱根・竹下合戦の事 ~3~

    このころ、竹下へ向かわれた中務卿の軍勢は各公卿の侍や御所警護の武士たち五百余騎が余計なことに、武士に先駆けを許すまいと思ったのか、錦の御旗を先に進めて竹下に押し寄せ、敵がまだ一矢も射ないうちに、「天下をお治めになる君に向かって弓を引き矢を放つ者は天罰を

  • 四 箱根・竹下合戦の事 ~2~

    その中で菊池肥後守武重は箱根の戦に先駆けをして敵の三千余騎を遠くの峰に追い上げ、坂の途中で楯を並べて一息ついて休んでいた。 これを見て千葉、宇都宮、川越、高坂、熱田の大宮司はそれぞれに陣を構えてえいやえいやと声を上げて次々に攻め上り、喚き叫んで戦った。

  • 四 箱根・竹下合戦の事 ~1~

    そこで、その年十二月十一日、二つの陣に手分けをされて、左馬頭直義は箱根路を固め、将軍は竹下へ向かおうとお決めになったのだった。今回の数度の合戦に敗れた兵達は、まだ気を取り直していないで元気が出ず、昨日、今日駆けつけた軍勢は大将の出馬を待ってぐずぐずして

  • 三 矢矧・鷺坂・手越河原戦いの事 ~3~

    その頃、足利左馬頭直義朝臣は鎌倉に帰って合戦の様子をお話ししようと、将軍のお館に参られると、四方の門を残念なことに閉じて人もいない。激しく門を叩いて、「誰かいないか」とお尋ねになると、須賀左衛門が出て迎えて、「将軍は矢矧の合戦のことをお聞きになりまし

  • 三 矢矧・鷺坂・手越河原戦いの事 ~2~

    日がすでに暮れたので合戦は明日になるだろうと、鎌倉勢は皆川から東に陣取っていたが、どう思ったのか、ここでは持ちこたえられないと思って、その夜矢矧を退き鷺坂に陣を取った。こうしているところに宇都宮、仁科、愛曾伊勢守、熱田摂津大宮司が遅れて三千余騎、義貞の

  • 三 矢矧・鷺坂・手越河原戦いの事 ~1~

    その頃、十一月二十五日の朝六時頃、新田左兵衛督義貞と脇屋右衛門佐義助が六万余騎で矢矧川に押し寄せて敵の陣を見渡すと、その軍勢は二、三十万騎もあるように思われて、川から東、橋の上下二十㎞ほどを埋めて、雲霞のようにいっぱいになっている。左兵衛督義貞は長浜六

  • 二 節度使下向の事 ~3~

    こうして一、二日を過ぎたところに討手の大将一宮を初めとし申して、新田の人々が三河、遠江まで来たと騒ぎになったので、上杉兵庫入道道勤、細川阿波守和氏、佐々木佐渡判官道誉が、左馬頭殿の所に参上して、「この事はどうしましょうか」と相談なさったところ、「将軍の

  • 二 節度使下向の事 ~2~

    討手の大軍がすでに京を出発したと鎌倉へ告げる人が多かったので、左馬頭直義、仁木、細川、高、上杉の面々が将軍の御前に参上して、「すでに足利ご一家を滅ぼすために、義貞を大将として、東海、東山の両道から攻め下っているそうです。敵に難所を越えられたならば、防ぎ

  • 二 節度使下向の事 ~1~

    こうして十一月八日、新田左兵衛督義貞朝臣は朝敵追討の宣旨を賜って兵を連れて参内なさる。馬や物の具がまことに颯爽として勇ましい出で立ちである。上下の公卿、各参議が紫宸殿の階段の前に陣を張って六位以上の人が集まる中儀の節会が行われて、節度使として刀を賜る。

  • 一 新田、足利確執奏状の事 ~4~

    すぐに諸卿が参集して、このことをどうすべきかと評議されたけれども、高官はわが身を大事にして口を閉じ、下級の者は人にどう思われるか知れないと思ってものを言わないでいるところに、坊門宰相清忠が進み出て、「今両方の奏上するところを聞いて、よくよく道理に一致す

  • 一 新田、足利確執奏状の事 ~3~

    この奏状はまだ摂政や関白が下見もしていなかったので、全く知る人もなかったのに、義貞朝臣がこれを伝え聞いて、同じように奏状を差し上げた。その言葉は、「従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞が心から恐れかしこまって申し上げます。 急いで尊氏朝臣、直義等誅罰し

  • 一 新田、足利確執奏状の事 ~2~

    その状に、「参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏、心から恐れかしこまって申し上げます。 急いで義貞朝臣の一族を誅罰して天下を太平に致そうと願い上げる書面。 右のことについて、謹んで歴代の聖君が天下に徳をお示しになっていることを考えますと、恩賞はその忠功を示し

  • 一 新田、足利確執奏状の事 ~1~

    こうして足利宰相尊氏卿は、相模二郎を滅ぼして関東はそのまま鎮まったので、帝との約定があった以上何の問題がろうかと、まだ宣旨も下されないのに、強引に足利征夷将軍と名乗られた。関東八ヶ国の管領の事は、勅許があった事だからと、今回の箱根、相模川の合戦の時に忠

  • 六 足利殿東国下向の事 付けたり時行滅亡の事 ~3~

    初め遠江の橋本から小夜の中山、江尻、高橋、箱根山、相模川、片瀬、腰越、十間坂など十七回の戦いに、平家二万余騎の兵達は、ある者は討たれある者は傷を受けて、今はわずか三百余騎になったので、諏訪三河守を初めとして主だった御家人四十三人は大御堂の中に走り入り、

  • 六 足利殿東国下向の事 付けたり時行滅亡の事 ~2~

    相模二郎はこれを聞いて、「源氏は大変な大軍だと言われるから、待っていて戦って敵に圧倒されては叶わない。先んずる時は、人を制するのに有利だ」というので、自分は鎌倉にいながら名越式部大輔を大将として東海、東山の両道を軍を進めて攻め上る。その勢三万余騎、八月

  • 六 足利殿東国下向の事 付けたり時行滅亡の事 ~1~

    直義朝臣は鎌倉を逃れて上洛されたが、その途中において駿河国入江庄は東海道第一の難所だった。相模二郎に加勢する者がひょっとして道を塞いでいるかも知れないと家来たちは皆心配した。そのためにそこの地頭入江左衛門尉春倫のところへ使いを遣られて味方になってほしい

  • 五 兵部卿薨御の事 付けたり干将莫耶が事~2~

    淵辺が宮の御首を取りながら、左馬頭殿にお見せ申さず、藪の脇に捨てたことについては、少し考えることがあった。 昔、周の末の時代に、楚王という王が武力で天下を取るために戦いを習いとし剣を好むことが長かった。ある時、楚王の夫人が鉄の柱に寄りかかって涼んでおら

  • 五 兵部卿薨御の事 ~1~

    左馬頭直義は山内を過ぎられる時、淵辺伊賀守を呼び寄せて、「味方が少数なので、いったん鎌倉を退くけれども、美濃、尾張、三河の軍勢を集めてすぐに鎌倉へ寄せるつもりだから、相模二郎時行を滅ぼすのは造作もないことだろう。それ以上に当家にとってずっと災いとなられ

  • 四 中先代蜂起の事

    今、天下の統一がなり、畿内は治まっているといっても、朝敵の残党がなお東国にいるようであるので、鎌倉に探題を一人置かなくては具合が悪いだろうということで、帝の第八の宮を征夷大将軍にお就けして、鎌倉に置き申し上げる。足利左馬頭直義が執権として東国を取り仕切

  • 三 北山殿謀反の事 ~5~

    それにしても故大納言殿がお亡くなりになる前兆があったことを、木工頭孝重があらかじめ聞いていたのは不思議なことである。 あのご謀反の初めに祈祷のために七日間北野に参籠して、毎夜琵琶の秘曲をお弾きになっていたが、七日目に当たるその夜はことさら北野天神の供養

  • 三 北山殿謀反の事 ~4~

    あれほど屋敷の内外に雲のように大勢いた侍や侍女たちは、どこに逃げたのか、一人も見えなくなって簾や几帳が引き落とされている。居間をご覧になると、月の夜や雪の朝、興に触れて詠み置かれた短冊がたくさんにここかしこに散らばっているのも、今は亡き人の形見となって

  • 三 北山殿謀反の事 ~3~

    大納言殿は貞平朝臣の屋敷で一畳四方の所を狭い牢のように作って押し込め申し上げる。文衡入道は結城判官にお預けになって、夜昼三日間厳しく拷問されたところ、残るところなく白状したので、すぐに六条河原へ引き出して首を刎ねられた。 公宗は伯耆守長年に仰せつけられ

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