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2020/12/27

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  • トランプが断つゴルディアスの結び目#08

    トランプ関税が及ぼす貿易摩擦ばかりに目をとらえていると、実はなぜトランプ関税が必須なのか?このショックから世界はどちらへ大きくシフトチェンジしようとしているか?が見えなくなってしまい、メクラマシされてしまう・・ 大事なのは個々の要素(懸案の増加が経済危機を先取りパターンになる)です。もしかしてこれはフーヴァーがやった失政を繰り返すだけなのか?ばかりに、こころが捉えられてしまう。あるいは思考誘導されてしまう。 反トランプ・プロバガンダや派手なお騒がせ「狼がくるぞ}ニュースに振り回されず、大きな視点でトランプ関税とそれがもたらす近未来をしっかり見ていくことが大切です。 なによりもはっきりと

  • アジェのパリ#09/カンパーニュ=プルミェール通り

    嫁さんの友人夫婦が14区でやっているレストランがある。 ル・コルニッション(Le Cornichon)ってンだけど、僕らのお気に入りの店だ。訪巴の際は、必ず立ち寄ることにしている。料理もうまいし、何より居心地がいい。今回の旅でも、もちろん予約を入れてあった。でもその前に、ちょっと寄り道をすることにした。 行き先は、カンパーニュ=プルミェール通り。91番のバスに乗って "Campagne Première" 駅で降りればすぐだ。バス停のすぐ近くにはCave Des Grands Vinsというワイン屋があるから、ワイン好きにはそこもおすすめとしておこう。 「ちょいと寄り道するぜ」と僕が言

  • ウジェーヌ・アジェ#1-08/ヴァランティーヌの面影

    1900年代に入ると、アジェの写真は徐々に評価を得はじめ、1906年にはフランス国立図書館や建築学校が彼の写真を買い上げるようになった。近代化の中で失われゆく風景を追う彼の記録性が、文化的資料として注目されはじめたのである。 彼が追ったのは、建築の装飾や古びた扉、樹木、看板、彫像──誰もが見過ごす「時の痕跡」だった。そしてそのすべての活動を支えたのは、傍らにいたヴァランティーヌだった。 ふたりは一度も引っ越すことなく、カンパーニュ=プルミエール通りで人生を重ねていった。喧嘩もあった。病にも見舞われた。けれど、食卓を囲み、窓の外の空を見上げ、冗談を交わしながら、静かに日々を積み重ねた。

  • ウジェーヌ・アジェ#1-07/芸術家ではなく、職人として02

    1890年代の終わり、ヴァランティーヌは長く続いた巡業の舞台生活に終止符を打つ決意を固めた。 その背中を押したのは、アジェから頻繁に届く手紙だった。愛と孤独、そして迷走のにじむ言葉のひとつひとつが、彼女の心を静かに、しかし確かにパリへと引き戻していた。 「パリならば、自分の居場所がある。それに彼は、私がいないと無明に落ちてしまう」 彼女はそう思ったのだろう。そして、もう一度そこからやり直そうと決めた。 1899年10月、ふたりはモンパルナスのカンパーニュ=プルミエール通り17番地に越す。 当時のその通りはまだ舗装もされておらず、石畳の隙間から雑草がのび、馬車の音が遠くからかすかに聞こ

  • ウジェーヌ・アジェ#1-06/運命を変える二つの出会い

    この旅まわりの劇団で、アジェは一人の若い女優に出会った。 ヴァランティーヌ・ドラフィスである。パリ育ちの端正な顔立ち、朗々たる声、そして堂々たる舞台姿で、「パリのマドモワゼル」と呼ばれていた花形女優だ。人目を引くその存在感に、アジェの心は静かに、しかし確かに引き寄せられていった。 ふたりがいつ、どうやって惹かれ合ったのか――記録は残っていない。 だが、僕は想像する。旅の途上、誰もいない薄暗い劇場の袖。舞台の喧噪が消えたその静寂のなかで、アジェとヴァランティーヌは、ごく自然に、共に生きていくことを決めたのではなかったか。それは言葉にならぬ約束、あるいは運命の囁きだったのかもしれない。 し

  • ウジェーヌ・アジェ#1-05/辿り着けないという悪夢

    1857年2月12日、ジャン=ウジェーヌ・アジェはフランス南西部アキテーヌのリブルヌ(Libourne)で生まれた。リブルヌは、ガロンヌ川に流れ込むドルドーニュ川の下流にある小さな町であり、古くからワイン貿易で栄えた静かな商業都市でもある。 アジェの父は馬車職人だった。アジェがまだ幼いころ、父は事故で亡くなった。母も間もなく後を追うように逝ってしまった。アジェは祖父母に引き取られ、彼らのもとで育てられた。 アジェは決して秀才ではなかった。勤勉な子ではあったが、教科書よりも街角の光景や人々の表情に目を奪われる少年だったという。絵を描くことが好きで、独学でスケッチを始めた記録が残っている。

  • ウジェーヌ・アジェ#1-04/市井に充足する至福

    アジェの生涯を共にした伴侶は、市井の演劇人ヴァランティーヌ・ドラフィスという人だった。1926年6月20日、彼女は二人の暮らすアパートで息を引き取った。享年79歳。舞台に立ち続けてはいたが、名が広く知られることはなく、彼女の出演歴や所属劇団についての記録も乏しい。 アジェは彼女より10歳年下だった。彼もまた、生前に写真家として評価されることはなく、作品を資料として細々と売りながら生計を立てていた。ふたりが暮らしていたのは、パリ5区、ルクセンブルク公園東側のモンジュ通り近くにあるアパルトマンだった。家具は最小限、壁にはアジェの写真がいくつか掛けられており、部屋の一角には現像器具とガラス

  • ウジェーヌ・アジェ#1-03/クリストファー・ラウシェンバーグ02

    ラウシェンバーグがウジェーヌ・アジェの写真に出会ったのは、写真家としてのキャリアが深まりつつあった1980年代後半のことだったという。 ある日、ニューヨークのMoMAの書棚で、ふと手にした写真集に目が釘付けになった。パリの街角、誰もいない通り、静かな建物の壁面。そのモノクロ写真の一枚一枚が、まるで何かを囁くように語りかけてくる。 「この写真たちは、都市の外観を記録しているのではない。都市の記憶そのものを写している」 それが、彼の第一印象だったと彼は書く。 ラウシェンバーグは、次第に「もし自分が、アジェが立った場所に行き、同じ構図で撮ったら何が写るのか?」という問いに取り憑かれていく。

  • ウジェーヌ・アジェ#1-02/クリストファー・ラウシェンバーグ

    そのときに買ったアジェの写真集が、僕が持っている彼の唯一の写真集だった。それ以来、パリを歩くときはいつもこの本を携えていた。 僕はいつもパリに100年前のパリを見つめていた。今のパリも好きだ。でも僕のパリはベルエペックノのパリだ。・・それもあって僕が次第に思い始めたのは、アジェが実際にどこで写真を撮ったのか・・だった。 そう思うようになって、写真と街並みを見比べながらウロウロするようになるとに、どうやら彼はマレ(Le Marais)、モンマルトル(Montmartre)、それにノートルダム大聖堂のあるシテ島(Île de la Cité)とサン=ルイ島(Île Saint-Louis)

  • ウジェーヌ・アジェ#1-01/アジェの眼とパリの輪郭

    初めてウジェーヌ・アジェの写真に出会ったのは、今からおよそ四十年前、ニューヨークのICP(International Center of Photography)で開かれていた小さな特別展だったと思う。あの頃、僕はまだ若く、写真という表現手段に対して、どこか漠然とした憧れと距離感を持っていただけだった。 カメラは母にせがんで買ってもらったF1を持っていた。高校時代は写真部には入っていたが、それほど熱心な「写真家」ではなかった。それでも写真は好きだったし、とくにロバート・キャパには強く魅せられていた。それでICPなのだ。 ICPは、ロバート・キャパの5歳年下の弟コーネル・キャパが創設した

  • トランプの「The Art of the Deal」

    頓珍漢なトランプの意図が見えない解釈がメディアに羅列されているが、ヘッジファンドのマネージャーであるビル・アックマンがXに載せた記事は面白かった。 .@VDHanson makes a compelling case for the @realDonaldTrump tariff strategy, but gets one issue incorrect. He describes the Trump tariffs as reciprocal and proportional to those other nations have assessed on us. In ac

  • The Floating World Begins Here: in a Drawer She Forgot to Close (English Edition) Kindle版

    kindle版はこちらです。 思うところあってAmazon.comで出しました(^o^;; 少し英語話者が分かりやすいように弄りました。 The Floating World Begins Here: in a Drawer She Forgot to Close (English Edition) www.amazon.co.jp 441円 (2025年04月06日 11:09時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する A memory carried in ink and line. A po

  • 新日本画に酔う~おわり/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#16

    たしかに浮世絵の終焉した。しかしその「かたち」は「こころ」として残った。シャンパンの泡のように消滅し明治の半ばに商業の場から姿を消してしまうが、その技術と感性は、明治画壇に西洋画とは違う新しい潮流を産み出した。まさに異なる形で再生を遂げてたのである。 最後の浮世絵師たちは、その境目に立ち、筆を通して時代に抗い、未来へと橋をかけたのだ。 この「浮世絵の興亡史」を日本列島という枠から外れてみると、日本が手放したものを、西洋が拾い上げ、磨き上げた歴史が見えてくる。・・いつでも日本の美は外圧で再発見されるものだ。 始まりは19世紀半ば、万国博覧会や横浜開港を通じて、日本から陶器や漆器、扇子、

  • 新日本画に酔う/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#15

    江戸の町人文化の中で育まれ、線画と様式美を極限まで洗練させた浮世絵は、庶民の視覚芸術として爛熟の極みに達していた。輪郭線で形をとらえ、限られた色彩で情緒や物語性を表現するその技法は、写実よりも意匠と感性を重んじる美の体系であった。北斎の奔放な構図、広重の叙情的な風景、写楽の劇的な役者絵に代表されるように、浮世絵は「見立て」と「戯れ」の美学の中で自由に生きていた。 しかし、明治維新とともに西洋文明の奔流が押し寄せると、その風向きは一変する。 文明開化の合言葉のもとに輸入されたのは、遠近法と陰影に支えられた油彩画、つまり写実主義の絵画であった。これまで浮世絵が意図的に避けてきた立体感や質感

  • 様式美としての漫画について/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#14

    北斎が「漫画」という言葉を使ったのは"漫(そぞろ)に画(え)"、つまり“気ままに描いた絵”という意味で、「気楽な絵」といった心づもりだったと僕は思う。 まさにその気分で、北斎は思いつくままに絵を描き散らかし、それをまとめて版画集として出版した。それが北斎漫画だ。やがてこの作品は、若い作家たちにとって手習い本として重宝されていくようになった。 その第1編〜第15編は、1814年から1878年にかけて断続的に発表された。第1編は1814年(文化11年)に刊行され、大ヒットを記録する。続く第2編・第3編も翌1815年・1816年に出版され、評判を呼んだことで、第4編以降は上方(京都・大阪)

  • 〝小布施もの〟と呼ばれた作品群/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#13

    小布施の駅は、長野電鉄長野線にある。 叔母の死後、僕が初めてこの町を訪ねたのは、まだ新幹線のなかった時代のこと。東京からは、およそ四時間の旅だった。 着いたのは、秋の風がほのかに匂うころ。駅前の道はまっすぐに伸び、遠くには幾重にも山が重なっていた。空が広く、音が少なかった。 そのまま岩松院を訪ねた。そして、そこで僕は本堂の天井に描かれた巨大な鳳凰図に出会った。北斎、最晩年の作品。88歳から89歳にかけての筆である。依頼主は、小布施の豪商であり文化人の高井鴻山。彼がまだ30代のころだったという。 本堂に足を踏み入れ、靴を脱いで静かに畳を進む。 天井を仰いだ瞬間、息を呑んだ。そこに

  • トランプの断つゴルディアスの結び目#07

    以降の経済政策を見てみると、世界は毒食らわば皿までで、借金を増やし「虚」を膨らませることだけで現状の破綻を先延ばしにしてきた。そしてそれは"昔やったやり方"世界大戦ですべてをチャラにする・・という発想まで辿り着く勢いだった。 その間隙を縫って「もう一つの解決法」を目指したのが、ドナルド・トランプなのだ。 僕が彼をアンチ・ニクソンと呼ぶ理由はこれだ。 トランプは、リーマン・ショックによって喘いだ中西部白人労働者層(Rust Belt)の経済的困窮を背景に立ち上がってきた大統領候補だった。最初はイロモノだった。泡沫の候補でしか過ぎなかった。 しかし彼はアメリカ人の本質にある「反知性主義」

  • トランプの断つゴルディアスの結び目#06

    先に「トランプはアンチ・ニクソン」だと書いた。なので、では・・ニクソンとは何かについて話したいと思う。 1971年8月15日、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが突如として発表したドルと金との兌換停止、いわゆる「ニクソン・ショック」は、単なる金融政策の転換にとどまらず、20世紀後半の国際経済秩序を根底から変える決定的な転機だった。 この決断の背景には、冷戦構造下でのアメリカの戦略的地位の変化、国際収支の構造的赤字、そして戦後秩序を支えてきたブレトン・ウッズ体制の限界があったこの歴史的決断からもたらされる「実物経済から信用・金融への支配構造の転換」があった。 トランプの目指してい

  • トランプの断つゴルディアスの結び目#05

    トランプの税制改革は彼の言葉通り、一種の「解放記念日」とでも呼ぶべき出来事だったと僕は思う。彼は関税をはじめとする課税政策を、外交・通商・軍事と並ぶ"主権の手段"として行使した。その点に、彼の政治思想の核心がある。その話をしたい。 トランプは「税」を、従来の「財務省が予算を組むための道具として税を使う」という発想とは、まったく異なる姿勢でとらえた。トランプは、税を単なる経済調整の手段と見るのではなく、国際秩序における力の再配分を行う“主権のカード”として使った。ここに彼のユニークさがある。まさに視線の転換だ。 たとえばGILTI(Global Intangible Low-Taxed

  • トランプの断つゴルディアスの結び目#04

    ひとつ念頭に置いておくべきは、トランプ2.0が掲げる米国第一主義"米国的ポピュリズムAmerican Populism"が、単なる排外主義や反グローバリズムの延長線上にあるわけではない、という事実である。 確かに、彼は象徴的なキャラクターとして「米国式反知性主義」の外套を身にまとっている。しかし、その政策を丁寧に観察してみると、それが単なる一国自足主義やナショナリズムの発露ではないことが見えてくる。むしろトランプが目指しているのは、1970年代以降米国が築いてきた「金融主導・市場依存型経済」体制の巻き戻し・・すなわち、再構成ではないかと僕には見えるのだ。 今回の課税政策の再編成も、

  • 欄外描き散らかし/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#12

    浮世絵話の横に描いた書き散らかし・・なンだけどね。 月岡芳年や楊洲周延といった明治の浮世絵師の作品を見てたンだよ。ワイン飲みながらね。 彼らの特徴は「赤色」にある。彼らの赤は、元来使われていた和式の赤・・主に紅花から抽出された「紅」や、鉱物性の「朱丹」「弁柄」といった伝統的な顔料・赤ではなかった。 彼らがつかったのは、アリザリン・クリムソンやカーマイン、バーミリオンなどという海外から運ばれた合成赤色顔料だった。それが彼らの作品に、従来にない鮮烈な色彩表現をもたらした。 月岡芳年の『新形三十六怪撰』や『英名二十八衆句』に見られる戦慄的な場面における血飛沫や夕焼けの赤、周延が描く華やかな

  • トランプの断つゴルディアスの結び目#03

    フーヴァー政権下で1930年に制定されたスムート・ホーリー関税法は、約2万品目におよぶ輸入品に対して高率の関税を課すという、米国史上類を見ないほどの保護主義政策であった。目的は明確で、急激に悪化する経済状況のなか、外国産品から国内産業を保護し、内需を刺激して景気回復を図ろうとするものだった。 ・・この構図なンだけど、トランプの近年の関税政策と重なると思いませんか? たとえば、中国からの輸入品に対する一連の関税措置は、鉄鋼・アルミニウムを皮切りに、多くの製品に段階的な高関税を課し、米国国内の製造業の再興を謳っている。表向きは「貿易の公平性の回復」が理由とされたが、根底には国内労働者の保護

  • トランプの断つゴルディアスの結び目#02

    ハーバート・フーヴァーは、とことん不運な大統領だった。 1929年3月に第31代アメリカ大統領に就任した直後、米国は未曾有の経済危機に直面することになった。同年10月、ニューヨーク証券取引所で株価が暴落し、これを皮切りにアメリカ経済は急速に崩壊した。いわゆる「世界恐慌(Great Depression)」である。企業倒産、失業の急増、農村部の疲弊、銀行の連鎖的破綻が全国に広がる中で、フーヴァー政権は、政権成立後すぐさまその嵐の中に投げ込まれたのだ。 フーヴァーはもともと民間出身の技術者であり、人道支援の分野で世界的な名声を得ていた。政治家というよりは実務家としての性格が強く「政府はで

  • トランプの断つゴルディアスの結び目#01

    トランプは「さて、今日は非常に良いニュースがあります」とトランプ大統領は演説を始め、「今日は解放記念日です」と始めた。「解放記念日」は彼の造語だ。 「2025年4月2日は、アメリカの産業が復活した日、アメリカの運命が回復した日、そしてアメリカを再び豊かにし始めた日として永遠に記憶されるでしょう」と言った。 僕は歴史を換える二つの映像を見たな・・と思った。 ひとつは1971年のニクソンであり、いまこの瞬間のトランプの演説だ 彼は4月5日からすべての国に対して10%の基本関税率(コンセンサス15%を下回り、最悪の場合の20%を下回る)とパネルを手にしながら言った。 「何十年もの間、我が国

  • 国家の分断と形成・先例を鑑みる#20/二つのシナリオ

    アラスカ型の道を選ぶには、現地住民の意思尊重、国際的合意形成、そして文化・自治への明確な保障が不可欠である。これに対してハワイ型の道は、短期的な地政学的優位を得られる一方で、長期的には社会的対立や歴史的批判を背負うリスクを孕む。 ■ アラスカ型シナリオの場合(平和的・合意的な主権移転) このシナリオだと、グリーンランドはアメリカ合衆国とデンマーク王国の間で、外交交渉と財政的取引を通じて平和的に主権が移転されるだろう。デンマークは、経済的負担の大きいグリーンランドの維持に限界を感じ、地政学的・財政的な理由からアメリカとの譲渡交渉に応じる。アメリカ側は、北極圏における戦略拠点としての価値

  • 国家の分断と形成・先例を鑑みる#19/アラスカがアメリカの州に編入されるまでの経緯

    アラスカは18世紀末よりロシア帝国により「ロシア領アメリカ(Russian America)」として領有され、主にラッコの毛皮貿易を中心とした経済活動が行われていた。しかし、19世紀半ばには資源の枯渇と補給線の長さ、厳しい気候による運営困難が顕在化していた。さらに、1853年からのクリミア戦争における敗北とそれに伴う財政難は、ロシアにとってアラスカ維持の負担をいっそう重いものとした。 また、地政学的にもアラスカは脆弱であった。西隣にはイギリス領カナダがあり、英露間の対立が再燃すれば、孤立したアラスカを防衛することは不可能であると考えられていた。このような背景の下、ロシア政府内ではアラス

  • 国家の分断と形成・先例を鑑みる#18/ハワイがアメリカの州に編入されるまでの経緯

    19世紀初頭、ハワイ諸島はカメハメハ大王によって統一され、ハワイ王国としての体制が整えられた。当初、ハワイ王国は独立国家として欧米列強と外交関係を築き、アメリカとも条約を結んで友好関係を保っていた。しかし、次第にアメリカ人宣教師や商人、特に砂糖プランテーションの経営者たちが政治・経済の中枢に浸透し始め、王国の主権は徐々に脅かされていった。 1887年には、アメリカ系移民を中心とする白人勢力が武力を背景に「銃剣憲法(Bayonet Constitution)」を王に押しつけ、王権を大幅に制限し、白人による政治支配を強化した。この動きに対し、1891年に即位したリリウオカラニ女王は王権の

  • 国家の分断と形成・先例を鑑みる#17/グリーンランド編入シュミレーション

    最後にグリーンランドがアメリカ合衆国に編入されるというシミュレーションを考察するにあたり、その経緯や政治的プロセスを検討する上では、歴史的な前例として「アラスカ型」と「ハワイ型」の二つのモデルを参照したいと思う。 アラスカとハワイは、いずれも現在はアメリカの州となっているが、元々は本土から離れた独自の地政学的位置を占めていた。それが別々の理由で、米国へ併合された。その編入のプロセス、正当性、現地住民の主権意識、そして文化的・歴史的背景を見つめつつ、グリーンランド合併のシナリオのモデルとして「ハワイ型」と「アラスカ型」の枠組みを比較・参照したいと思う。・・かなり大胆な検証だ。 ①主権の

  • 国家の分断と形成・グリーンランド#16/米国のグリーンランド獲得構想の歴史

    「グリーンランドを買いたい」というトランプの発言は、実は彼が初めてではない。 米国は一世紀半以上にわたり、グリーンランドを自国の戦略的拠点にしようと画策してきた。その意図を正式に口にした最初の大統領は、1946年のトルーマンである。だが、それ以前にも布石はあった。アラスカを購入した国務長官ウィリアム・H・セワードである。彼がロシアからアラスカを購入したのは1867年、金額は720万ドルだった。 当時の記録によれば、セワードはアイスランドやグリーンランドの獲得にも関心を示していたという。彼の視線の先にあったのは、新たな商業航路の開拓と北大西洋における支配権の確保であった。しかし、当時

  • 国家の分断と形成・グリーンランド#15/自立と自尊のどこに線引きをするか?

    2009年6月、グリーンランドは新たな自治法「自己政府法(Self-Government Act)」を施行した。 これにより従来のホームルールを拡大し、司法・警察・天然資源の管理など広範な分野での主権的権限を獲得した。この法には、将来的に独立を問う住民投票を行う権利も明記されており、憲法上、デンマーク議会の承認を条件としつつも、合法的な独立の可能性が制度として初めて認められた点で画期的であった。 これ以降、グリーンランドでは独立を見据えた政治的・文化的動きが本格化する。特に2023年、グリーンランド政府は初の草案憲法を発表し、将来の「共和国」創設を視野に入れた国家の枠組みを提示した

  • 国家の分断と形成・グリーンランド#14/分断と空白が自立を促した

    米国がグリーンランドに本格的に関与しはじめたのは、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが北欧に侵攻した直後のことである。 1940年4月9日、ドイツは「ヴェーザー演習作戦(Unternehmen Weserübung)」を発動し、ノルウェーとともにデンマークに侵攻。デンマーク政府は軍事的抵抗をほとんど行わず、数時間のうちに無条件降伏を受け入れた。以後、デンマークは名目的な王制を維持しつつも、ナチス・ドイツの強い監督下に置かれることとなる。 この急激な政変は、デンマークの海外領土、特に北大西洋に浮かぶグリーンランドの地位に予期せぬ影響をもたらした。当時、グリーンランドはデンマーク本国から

  • 国家の分断と形成#13グリーンランド/白は、ブルー&ストライプに染まるのか

    トランプが口にした「グリーンランドをアメリカ合衆国の一部にする」という発言は、一見すると荒唐無稽な冗談のように聞こえるかもしれない。だが、この発言の背後には、きわめて高い視座から見たアメリカの戦略的構想が潜んでいる。これは単なる領土拡大の夢想ではない。資源、通貨、軍事、気候、そして主権といった21世紀の争点が交差する、地政学と経済秩序の再編を見据えた布石である。 Greenland’s new leader has a message for Trump: “We do not belong to anyone” CNN The prime minister of Gr

  • 力及ぶかぎり奉公仕候/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#11

    叔母が亡くなったとき、僕は南ベトナムの中部高原にあるプレイクPleikuのキャンプ・ハロウェイにいた。パリ協定直前の1973年頃だ。横田に戻ったのは9月の初めだった。いつもならそのまま神奈川の大根にある大学の近くに借りたアパートへ戻るのだが、何故かその時は勝鬨の母のところへ行った。母の店は勝鬨橋の麓にあった小さい小料理屋だった。 僕はいつものように上から下まで米軍管制品の着るもので、カーキ色のワンショルダーを担いでいた。 母の店の引き戸をあけて、暖簾越しに「おう」というと、母が言った。 「姉さんが亡くなったよ。先月」 「・・そうか」叔母が喉頭癌で入退院を繰り返していたことは知っていた。

  • 肉筆画を描いて売れる絵師は少なかった/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#10

    美を競う 肉筆浮世絵の世界 光ミュージアム所蔵 [図録] www.amazon.co.jp 900円 (2025年04月02日 01:39時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する こうした版画という複製できる文化のほかに、日本にも「一枚だけ」複製はない「肉筆画」というジャンルもあった。 肉筆画は、絵師が自ら筆をとって描いた一点限りの浮世絵のことである。肉筆画はまさに絵師の手による一点物であり、その芸術的価値は極めて高い。使用される素材も和紙や絹が中心で、絵師の筆致や墨の濃淡、顔料の艶などが直に味わえるの

  • 錦絵の登場/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#09

    浮世草子から派生した浮世絵は、当初「墨摺絵(すみずりえ)」と呼ばれる、墨一色で刷られた作品から始まった。これは筆で彩色を加える「手彩色」が主流であったが、色の再現性に乏しく、大量生産には向かなかった。 しかし18世紀中頃、この表現の限界を打ち破る革新が生まれる。それが、色鮮やかな多色刷り浮世絵――「錦絵(にしきえ)」の登場である。 錦絵とは、色ごとに異なる版木を用いて多色刷りを行う浮世絵の総称である。この技法の導入により、浮世絵は視覚的な魅力を飛躍的に高め、広く庶民に受け入れられるようになった。 墨摺絵から錦絵へと進化する中で、もっとも重要な技術革新は、色ごとに版木を分けて摺る「多版多

  • 一枚絵という形で芸術的に独立し始めた浮世絵/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#08

    浮世絵の成立は、浮世草子の文学的世界と地続きであった。どちらも士農工商の制度のなかで抑圧されつつも経済力を得ていった町人たちが、自らの「今」を肯定しようとする意志の表れであり、その中心地もまた上方であった。出版業者、絵師、彫師、摺師といった分業体制の整った文化的な環境が、大阪や京都にはすでに存在しており、町人たちの需要と表現の供給が密接に連動していた。 しかしながら、18世紀の初頭を迎えるころから、浮世草子と浮世絵は徐々に異なる道を歩み始めることとなった。 浮世草子は1682年に井原西鶴が『好色一代男』を刊行したことによって確立され、好色物、町人物、武家物など、さまざまな題材で読者の

  • 憂き世が浮き世に換わるとき/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#07

    「浮世草子→浮世絵の派生」という成立過程を考えるとき、単に文学的な形式の変化としてではなく、その背景にある社会構造と経済発展を視野に入れないと、その意味は正しく伝わらないだろうと思う。だから、少し遠回りにはなるが、徳川家康によって確立された幕府支配体制を再考するところから始めたい。 徳川幕府は、日本に長期の安定をもたらす強固な枠組みであった。その基盤となったのが、身分制度と経済制度の二本柱である。 まず第一に、士農工商という身分制度がある。この制度では、武士が社会の頂点に位置づけられ、土地を支配し、農民から年貢を徴収するという体制が築かれた。武士自身は直接生産に関与しないが、農民の労

  • 浮世絵と浮世草紙の分化/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#06

    浮世絵と浮世草子は、同じ製法で作られている。いずれも、木版による印刷技術を用いて制作されていた。まず、絵師や作者が下絵や本文を原稿として描き、それが版下絵となって彫師のもとへ渡る。彫師は、版木として主に桜の木を用い、これに文字や絵を裏返しに転写し、彫刻を施すやり方だ。 その工程の相似を見ると、浮世絵と浮世草子が実は同じ出自であることがよくわかる。 簡単にまとめてみよう。 まず絵師や作者が下絵や本文を描き、それが「版下絵(はんしたえ)」として彫師に渡される。彫師は、版木として主に桜の木を用いる。この版木に、文字や絵を裏返しに転写し、そこから彫刻を施していくのが基本的な手順である。・・この

  • 男気があって粋で潔くて小ざっぱりとした風情のことを「いなせ」と言った/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#05

    摺師だった叔母の話を、もう少し続けたい。 子どものころ、母に言いつけられて叔母の工房に用事で出かけると、そのままずるずると居付いてしまって、細々とした仕事を手伝ってた。すると決まって、帰り際に小遣いをくれるのだ。だから、あの頃の僕にとって叔母の工房は、かなり重要な収入源だった。 もっとも、手伝いといっても大したことじゃない。トンボで切ってある台木を順に並べたり、用紙をきっちり数えて叔母のそばに置いたり、絵具を水で溶いておくくらいのことだ。それでも叔母は気前よく、まるで“労働の対価”というよりは“いてくれてありがとう”というような調子で小銭を弾んでくれた。 きっと叔母は、独りで黙々と仕事

  • 笑顔でも 背中は今も 道を指す/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#04

    僕の母方の実家・製本屋が燃えたのは、東京大空襲、三月十日のことだった。その話は、たしか前にしたよね。 凍てつく夜、墨をこぼしたような空の下で、東京は家も人も思い出さえも、何もかもが燃えてなくなった。 あの夜のことを、僕は「炎の雹塊、雪積む帝都に落つ」という題で書いたことがある。 おはぐろ蜻蛉: 東京日和4つめ/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ www.amazon.co.jp 100円 (2025年04月01日 10:24時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 叔母は、その焼け跡から命からがら逃げの

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