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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

  • [Ⅳ234] 日本人とか日本社会とか(14) / 鑑三翁の気骨「不敬事件」  

    先述の君が代最高裁判決を読みながら、私は鑑三翁の不敬事件を思い起こしていた。鑑三翁は1891(明治24)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆(のはずはないのだが)に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって密告され批難された。この間マスコミは既に名の知られていた鑑三翁を指弾した論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。基督教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返した。いずれも全ては明治政府及びこれに連なる”お上”への恭順を示す迎合だった。こうしたこともあって鑑三翁の妻・かずは健康を崩し病いを得て同年死去した。この妻の死は、鑑三翁にとって人生最大ともいえる深刻な危機となった。このことは明治...[Ⅳ234]日本人とか日本社会とか(14)/鑑三翁の気骨「不敬事件」 

  • [Ⅳ233] 日本人とか日本社会とか(13) / ”愛国”を叫ぶ者たちの虚ろ

    新型コロナウイルス感染拡大中の20年3月、東京都立学校全ての卒業式で「君が代」が斉唱されていた。全国一斉休校となり飛沫感染を懸念する学校で、合唱歌や校歌も歌わず卒業証書を手渡す際にも生徒の名前を読み上げることもしない中で、何故「君が代」が歌われたのか。それは東京都教育委員会の指示によるものだった。誠に珍奇で居心地の悪い記憶として残っている。私はこの時に思い出した記事があった。『卒業式などで「君が代」の斉唱時に起立しなかったため、再雇用を拒まれた東京都立高校の元教職員が、都に賠償を求めた訴訟の上告審判決が(2018年7月)19日、最高裁第一小法廷であった。一、二審判決は都に約5千万円の賠償を命じたが、山口厚裁判長は「都教委が裁量権を乱用したとはいえない」としてこれを破棄し、原告側の請求をすべて棄却した。君が...[Ⅳ233]日本人とか日本社会とか(13)/”愛国”を叫ぶ者たちの虚ろ

  • [Ⅳ232] 日本人とか日本社会とか(12) / 畸形の司法社会

    ロシアがルハンスク及びドネツクにおいてジェノサイド行為が発生しているとの「虚偽」の主張を行いウクライナに対する軍事行動を行っているとして、2023年2月26日ウクライナ政府はロシアをICJ(国際司法裁判所)に提訴した。ウクライナの要請に基づき、ICJはロシアが2022年2月24日にウクライナの領域内で開始した軍事作戦を直ちに停止することを求める暫定措置命令を発出した。またウクライナで行われた戦争犯罪を捜査してきたICC(国際刑事裁判所)は3月17日、ロシアのプーチン大統領及び子どもの権利を担当する大統領全権代表に対して、戦争犯罪の疑いで逮捕状を発出した。ロシアが侵略したウクライナの地域からは多くの子どもたちがロシア側に拉致移送されているという確たる報告がある。聖書にも戦闘で敗走した国の子どもたちが占領国に...[Ⅳ232]日本人とか日本社会とか(12)/畸形の司法社会

  • [Ⅳ231] 日本人とか日本社会とか(11) / 偽善/忖度/不法に満ちた日本の司法

    ※プーチンロシア軍がウクライナへの侵略を始めてから1年が経過した。未だにプーチンロシア軍の侵略と暴虐が続いている。プーチン大統領は侵略当初にはウクライナ全土の占領は72時間で完了すると見ていたらしい。が、悪魔の奸計は失敗した。ウクライナゼレンスキー大統領及び政権幹部、何よりもウクライナ国民はプーチンロシアの侵略に反抗し抵抗を続けている。ウクライナの多くの女性や子ども、老者たちは隣国ポーランド等に避難したが街に残っている者も数多いる。女性兵士を含めたウクライナ兵士たちの士気は高い。プーチンロシア軍兵士の士気は低く未熟なためロシア兵の犠牲者は極端に多い。国連加盟国の大半はウクライナを支持している。EU及び米国等は多くの戦車や武器供与、支援物資の提供をウクライナに続けている。これに対しプーチンロシアは日々数百以...[Ⅳ231]日本人とか日本社会とか(11)/偽善/忖度/不法に満ちた日本の司法

  • [Ⅳ230] 日本人とか日本社会とか(10) / 薩長政治の残滓が今も

    鑑三翁が明治から昭和に至るまで、「聖書」を通して往時の人たちに語りかけた物事は、神に遣わされた預言者的資質を有した人間と称するにふさわしい鑑三翁の天賦の才を示す。それらは鑑三翁の心のメッセージであり精神性の深さと高さを示していて「真理」を突いている。まさに石牟礼道子氏の言う「心の寺」を常に見ていたのが鑑三翁だった。それは世俗社会に役立ち実利的で”実学”を重んじて世間を上手に渡り懐に財を成すことを重視した先述の福澤諭吉には、どう転んでも表現しえない世界観であった。今鑑三翁が生きていて今日日の日本の世情を見たとしたら、これをどのように認識し言論を展開しただろうか‥ということに私は強い関心を抱く。先述のように鑑三翁の「社会改良」の考え方は単純なものである。個人の「改良」があって初めて社会や国家の改良が果たせると...[Ⅳ230]日本人とか日本社会とか(10)/薩長政治の残滓が今も

  • [Ⅳ229] 日本人とか日本社会とか(9) / 精神滅びて亡国の民なり

    【国が滅びるということは、山が崩れるとか、川が乾上るとか、土地が落込むといったことではない。例え日本という国が滅びたところで、富士山は変わらず青空にそぴえ、利根川も木曽川も今の通りに流れ、田畑には変わらず米や麦が育つであろう。‥‥国というものは土地でもなければ官職でもない。国はその国民の精神である。この精神さえあれば、その土地が他人の手に渡ることがあっても、その国が滅びることはない。あたかも今日のユダヤ人が、土地はトルコ人の手にあるにもかかわらず、有力な国民であるように、又アメリカ人がその州知事又は市長として外国のドイツ人やアイルランド人が就任しているにもかかわらず、立派な独立した国民であるがごときである。国民の精神が失せた時にその国は既に滅びたのである。国民に相愛の心がなく、人々が互いに猜疑心を持ち、同...[Ⅳ229]日本人とか日本社会とか(9)/精神滅びて亡国の民なり

  • [Ⅳ228] 日本人とか日本社会とか(8) / 野暮天ばかり

    鑑三翁は薩長政府の中核をなす薩摩人(鹿児島)と長州人(山口)、これを支える肥後人(熊本)、福澤諭吉の佐賀人ら「九州人」を毛嫌いしている。一見これは鑑三翁の”差別意識”のようにも受け取れるが、そうではない。鑑三翁はごく普通の生活をしている九州の市井の人々を嫌ったのではない。悪政の限りを尽す明治政府とこれを取巻き利得をお互いに分かち合う権力側の政治家や経済人を嫌悪していたのである。そして鑑三翁は、オレは九州人は嫌いだと言って薩長政府を批難しながら、九州人からの反撃の言葉を誘導しているかのようだ。それも鑑三翁の狙いであった。反撃がくればそれに対して正面から堂々と反駁しながら、実は‥と言って真意を吐露するわけだ。これは言ってみれば弁論の技法の一であり、聴衆を驚かせたり反撃させたり大笑させたりすることで、弁士である...[Ⅳ228]日本人とか日本社会とか(8)/野暮天ばかり

  • [Ⅳ227] 日本人とか日本社会とか(7) / 田中正造翁の侠気やよし

    明治政府は欧米列強と肩を並べようとして、富国強兵のスローガンを掲げて様々な産業振興策を展開した。その一つに足尾銅山の開発がある。1877(明治10)年には、実業家・古河市兵衛が渋沢栄一の出資が後押しとなり足尾銅山の再開発に乗り出した。その結果足尾の産銅量は1893(明治26)年には年間5000tを超え全国一の銅山に成長した。銅は導電率に優れ世界の電気産業を牽引する必須の金属であった。ところが足尾銅山の開発と隆盛は、一方で深刻な環境被害を生み出した。木材需要の急増で周辺の山林は伐採され精錬所の煙害で酸性雨による立ち枯れを起こした。また銅の生産過程で生じる鉱滓から大量の鉱毒が発生し周辺の土壌や渡良瀬川に流出し、鉱毒による魚類の死滅や米・耕作物の立ち枯れが深刻となり、近隣住民の生活を脅かし続けたのである。これに...[Ⅳ227]日本人とか日本社会とか(7)/田中正造翁の侠気やよし

  • [Ⅳ226] 日本人とか日本社会とか(6) / 拝金宗宗祖・福澤諭吉

    明治維新直後の明治政府の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼り財政基盤はぜい弱であった。そこで維新政府は1873(明治6)年には地租改正に着手して税源を確保、引き続きそれ以外の税制改革に着手し、安定した国家財政基盤を確保するようになって行った。その際には各国の収税法等財政制度を紹介していた福澤諭吉の『西洋事情』(1866~70年にかけて刊行)が明治政府の基本資料の一つとして重用されたと言われている。福澤も財政制度改革に顧問格で関与した。福澤諭吉は今の我々日本人にとっては一万円札を飾ったりして馴染みのある人物だ。彼はどのような人物なのか。「福沢諭吉:〈1835-1901〉、幕末-明治時代の思想家。豊前中津藩(大分県)藩士。大坂の適塾で学び江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開く。英語を独学して幕...[Ⅳ226]日本人とか日本社会とか(6)/拝金宗宗祖・福澤諭吉

  • [Ⅳ225] 日本人とか日本社会とか(5) / 悪銭潔しとせず

    金銭は尊いものである。これが無ければ生活が成り立たない。それは人間・社会に恩恵を与えるものである。しかし金銭の使い方を間違えると、それは”魔物”となってしまう。鑑三翁の忠告である。「錢魔(ぜんま)を斥くるの辞(ことば)」として次のように記す。(ここでは現代語訳しない。)【錢魔よ、錢魔よ、汝に金銀あり、土地あり、家屋あり、銀行あり、政党あり、教会あり、宣教師あり、伝道会社あり、而してまた幸福なる家庭も、子女の教育も汝の手に存すると称す、‥然れども錢魔よ、爾は確かに悪魔の族なり、時には慈善の名を籍りて天使の形を装ふと雖も爾は爾の真性に於て純然たる地獄の子たるなり、‥願くは我が主イエスよ、爾の能(ちから)に由り我をして此『二十世紀の悪魔』に勝つを得しめ給へ、‥】(全集13、p.162)労せずして不当に得た金を「...[Ⅳ225]日本人とか日本社会とか(5)/悪銭潔しとせず

  • [Ⅳ224] 日本人とか日本社会とか(4) / 人の遺せる最大遺物とは

    薩長政府のいわば「金銭万能主義」に対する鑑三翁の言論による指弾は痛烈なものであった。しかし鑑三翁は「金銭の大切さ」を否定していたわけではない。むしろ「金銭」の重要性を鑑三翁は十分に認識していた。1891(明治24)年30歳の時に、病の床にありながらいわゆる「教育勅語奉読式の不敬事件」にて職を追われ、その直後に妻かずを喪った鑑三翁はその後困窮していった。その悲嘆と困窮の只中で執筆されたのが『基督信徒の慰め』、『求安録』(共に1893年刊行)である。これら著作は生活費捻出のために出版されたと考えられる。しかしキリスト教系の出版物には売り部数に限界があった。その当時は貸本屋から毎月借金をし、住居も貸本屋の離れを借りていた。『万朝報』で薩長政府に対する痛烈な批判を展開したのはその後のことである。鑑三翁はその後も『...[Ⅳ224]日本人とか日本社会とか(4)/人の遺せる最大遺物とは

  • [Ⅳ223] 日本人とか日本社会とか(3) / 薩長政府は非なり

    鑑三翁は幕末に生まれた高崎藩の武士の子である。これと関係があるのかどうかはともかくとして、鑑三翁はいわゆる”薩長人”を嫌っている。それはなぜか。明治政府の体制が薩摩及び長州の役人たちの専横的/独善的策謀により仕上がりつつあったからである。日本が江戸幕藩体制から明治新政府へと外国勢力の影響を強く意識して体制の変革を遂げていく過程では、価値観の変容と醸成の必要に迫られた。そのための政治的/経済的/社会的/教育的な混乱が必然であったとは言え、薩長政府の人事の独断と恣意性(猟官制)、及び政府が育成した産業経済界の傍若無人、強欲と破廉恥と腐敗と無能ぶりは目に余るものがあり、それが鑑三翁の言論人としての誇りに火をつけたのだろう。鑑三翁は薩長人を嫌ったのではなく薩長政府の要人及びこれに連なる者たちを批判/指弾したのだ。...[Ⅳ223]日本人とか日本社会とか(3)/薩長政府は非なり

  • [Ⅳ222] 日本人とか日本社会とか(2) / “心の寺”をみる者たち

    鑑三翁が1898(明治31)年に創刊した『東京独立雑誌』(注:『聖書之研究』の前身の月刊誌で1900(明治33)年に創刊され72号まで続いた)第15号に鑑三翁の論文「社会の征服」が掲載されている。この論文に触れて石牟礼道子氏は次のように記している(内村鑑三選集6、「内村鑑三を読む」、p.279)。『社会とは何かと問うて、「社会学者てふ冷的人間の定義を離れて常識的に其真相を究むれば、是れ『俗人の集合体なる俗世界』たるに外ならず」といい、「之に社会てふ学的名称を附すればこそ、何となく奥ゆかしく」見えるが、実は「頼むべき、敬すべき者」にあらずして、八頭八尾のやまたの大蛇のごときものであると鑑三はいう。』石牟礼氏は、詮ずるところ社会学者なる者の言う社会などというものは俗物の集まりにすぎない、これに”社会”などとい...[Ⅳ222]日本人とか日本社会とか(2)/“心の寺”をみる者たち

  • [Ⅳ221] 日本人とか日本社会とか(1) / ケネディ、鑑三翁を読む

    鑑三翁の著作に『代表的日本人』(鈴木範久訳、岩波文庫、1995)がある。これは鑑三翁が1908(明治42)年に刊行した英文書”RepresentativeMenofJapan”の翻訳書である。鑑三翁はアメリカ留学中には当然のことながら「日本人」を強烈に意識した3年間であった筈だ。これは『余は如何にして基督信徒となりし乎』にも強く表現されている。アメリカ留学は病気のため3年間で切り上げざるを得なかったのだが、この留学は鑑三翁の期待に添うものではなかった。先述のように当時経済的に世界をリードしつつあったアメリカは、キリスト教における清教徒的信仰精神は退行し、金銭万能主義が国の隅々まで浸透し享楽への価値観が世を覆っていた。キリスト教会世界もその影響は免れることはできなかった。このようないわば”荒野を喪失した”ア...[Ⅳ221] 日本人とか日本社会とか(1)/ケネディ、鑑三翁を読む

  • [Ⅳ220] 女が男を保護する事(20) / 私は保護されてきた

    私の妻若菜が短い闘病生活を経て天に召されてから40年以上が経過した。彼女は入院中に何度かの外泊をしている。二人の子どもたちとゆっくり時間を過ごし、私たちに食事をつくってあげるのだと大きな希望をもって外泊をした。その時の様子は、連載の[Ⅲ144]我がメメントモリ(11)/ワカナ幸せだった!(220523)に掲載した。その一部を再掲する。※『夕食後、ボクは敬一と静雄を風呂に入れ、母と好子叔母も風呂に入った。そして敬一と静雄を二階の寝室に寝かしつけた頃に、若菜は目覚めた。「‥若菜は気をとり直すかのように、小さくうなずいた。そして「お風呂に入りたい」と言った。母と好子叔母が口をそろえるかのように、お父さんに入れてもらいなさい、と言い、ボクもそうしてあげようと思い準備をし始めた。できるだけぬるいお湯がいい、と若菜が...[Ⅳ220]女が男を保護する事(20)/私は保護されてきた

  • [Ⅳ219] 女が男を保護する事(19) / 看護は女性性そのもの

    助産師たちは川嶋さんの話に引きずり込まれ、全員がハンケチを出して涙を拭うようにしながら聞き入っています。恐らくは彼女たちはこのように思っている‥『水道水も十分でない、電気も頻繁に停電をする、薬もなく医療機器もほとんどない、医師もほとんど常駐しない、そんな中で自分たちが毎日妊産婦や子どもたちに行うことのできるのは、声をかけて励ましたり、声掛けで安心させたり、分娩のさなかで産婦の隣りに座り手を握ってお産を促したり、胎児が産道から無事に出て来たら臍帯を処置したり沸かしておいたお湯で産湯を使ったり、そして赤ん坊がこの世で初めて泣き声を発した時には産婦と一緒にハグして喜びを分かち合う、赤ん坊が熱発で運び込まれたときには母親と共に赤ん坊の様子を十分に観察し、水で常に冷やすように母親に指導し、共に観察しながら母親を励ま...[Ⅳ219]女が男を保護する事(19)/看護は女性性そのもの

  • [Ⅳ218] 女が男を保護する事(18) / ”てあて”という看護

    この日の講師は川嶋みどりさん(注:日本の看護師、日本赤十字看護大学名誉教授、1931-。日本での専門職看護職の専門性を多くの著作によって開発・啓発した。フローレンス・ナイチンゲール記章受賞。『看護の力』〈岩波新書、2012〉など一般書もある。)。主題は『てあてTEATE』。聞き手は10人のアフリカ諸国の助産師たち。彼女たちはほとんどが最貧国と言われるアフリカ諸国1か国1名の割り当てで来日していた。日本で実地訓練を含めたより専門的な助産師トレーニングを6か月間行うプログラムのとある一日の研修。川嶋さんは通訳を介して助産師たちに語りかけた。「日本での研修では、高度先進医療機関で機器の整った病院での研修を期待して来日されたのだと思います。でも私は皆さんのお仕事に関して、そのような高度の機器の話をするつもりはあり...[Ⅳ218]女が男を保護する事(18)/”てあて”という看護

  • [Ⅳ217] 女が男を保護する事(17) / マリア出現/ルルド

    ユングの見解を続ける。ヤーヴェ(父神)は、義人ヨブが彼を追い越してしまったことをひそかに認め、人間の水準に追いつかなければならず、そのためには神は人間に生まれ変わらなければならないと考えた‥これがユングの独創である。そして神は自らの本質を変えようとするのだ。人間は前のように滅ぼされることになるのではなく《救われる》ことになる。この決断には人間を愛する《ソフィア》の影響が認められる。つまり造られるのは人間ではなく《人間を救うための》ただ一人の神人である。この目的のためには「創世記」と逆の手続きが使われる。男性である《第二のアダム〈キリスト〉》は最初の人間として直接創造主の手からもたらされるのでなく、《人間の女性〈マリア〉》から生まれる‥これがユングの結論だ。このたびの主導権は第二のイヴにある。こうして処女マ...[Ⅳ217]女が男を保護する事(17)/マリア出現/ルルド

  • [Ⅳ216] 女が男を保護する事(16) / 女の十全性/男の完全性    

    脇道が長くなって戻るべき道が見えなくなりそうなので元に戻る。「ヨブ記」に関してはもう一冊の名著がある。ユング『ヨブへの答え』(C.Gユング、林道義訳、みすず書房、1988初版)である。ユング(CarlGustavJung、1875-1961)は、スイス生まれの精神医学者。ユングは「ヨブ記」の書かれた時代を紀元前六百年から三百年の間、ソロモンの「箴言」から遠くない時期に成立したとする。ユングは「箴言」にはギリシアの影響の《印》が見られるが、それは《ソフィア》すなわち《神の知恵》、《完全に永遠なるもの》、創造に先立って存在せるもの、ほとんど実体化された女性的なプネウマ(注:霊のこと)であると記す。ここで《ソフィア》とは、「ヨハネによる福音書」のロゴス(注:1:1「はじめに言〈ことば〉があった」の〈言〉)と同じ...[Ⅳ216]女が男を保護する事(16)/女の十全性/男の完全性   

  • [Ⅳ215] 女が男を保護する事(15) / ユダヤ教指導者の寛容と思慮深さ

    鑑三翁「ヨブ記」解説の途中だが、少し脇道にそれる。「ヨブ記」のような異端とも思える著作を「聖書」の一巻として収載した編集当時のユダヤ人指導者たちの高い見識というか慧眼というか、寛容さについては驚くばかりである。私が一時期出来の悪い信徒として通っていたプロテスタント教会の指導者は、私が「ヨブ記」の事に関して質問をすると、返事はするものの本当にこの書の趣旨を深く学んでいるようには思えず、明らかにこの書を軽視している様子だった。彼は内村鑑三に関しては「無教会主義」の一言で無視し、鑑三翁をキリスト教背教の徒としてしか見ていなかった。さて聖書の中でもう一つ異彩を放つ書として「伝道の書」(共同訳聖書では「「コーヘレトの書」)がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさい...[Ⅳ215]女が男を保護する事(15)/ユダヤ教指導者の寛容と思慮深さ

  • [Ⅳ214] 女が男を保護する事(14) / ヨブの妻がいた!

    聖書には「ヨブ記」がある。ヨブという人は実在の人物とされている。『新聖書辞典』によれば、彼の生地はウズという地でアラビア半島北部の地。この記録を遺した記者はおそらくイスラエル人で広く外国を旅行し見聞を広めた国際人であるとされている。成立は前5~3世紀とされているが、いずれも諸説ある。鑑三翁には『ヨブ記講演』(岩波文庫、2014初版)がある。鑑三翁にとっての「ヨブ記」は自身の身近な経験に照らして強い共感を抱いていた。「ヨブ記」に関しては合計3回の講演を行っている。1920年には東京で行われた「内村聖書研究会」の「ヨブ記講演」がスタートした。これは鑑三翁の第三回目の講演である。東京の会場には毎回数百人の聴衆が集まり立ち見の人が出るほどであったと鑑三翁が記している。この連続講演会は畔上賢造氏によって筆記されて毎...[Ⅳ214]女が男を保護する事(14)/ヨブの妻がいた!

  • [Ⅳ213] 女が男を保護する事(13) / 女は「存在」/男は「現象」

    再び多田氏の『生命の意味論』の話に戻る。◎アポトーシスと性:アポトーシスは人間の性の決定にも関係しています。男性生殖器の輸精管の大もとになるウォルフ管は、男性ホルモンの影響で発達しますが、その時女性生殖器の輸卵管の大もとであるミューラー管がアポトーシスによって退縮してゆくという過程が絶対に必要です。つまりミューラー管の細胞が「死ぬ」という過程が起こらなければ男性生殖器が完成しないのです。それに対してミューラー管は、ウォルフ管が死ななくても自然に発生して輸卵管を作るので、ミューラー管にアポトーシスが起こらなければ、人間はみんな女あるいは両性具有者になってしまうことになります。ちなみに精巣から分泌される男性ホルモンであるアンドロゲンが働かないと男性器となるウォルフ管が退縮してしまって、自然に女性化してしまいま...[Ⅳ213]女が男を保護する事(13)/女は「存在」/男は「現象」

  • [Ⅳ212] 女が男を保護する事(12) / 死は”発見”された

    ◎アポトーシスとは:アポトーシス(apoptosis)とは、アポ(apo、下に、後に)とプトーシス(ptosis、垂れる、落ちる)というギリシャ語を合成した語で、もともとは医学の祖といわれるヒポクラテスが用いたとされています。病気というものを気象との関係でとらえたヒポクラテスは、秋の西風と病気の発生に強い因果関係を認めています。アポトーシスとは、もともとは秋とともに始まる「落葉」という現象をさしたものと言われています。落葉は風のような外力によって引き起こされるわけではなくて、季節のめぐりとともに植物の葉の付け根の細胞に起こる生理的な細胞死の結果生ずるものです。この細胞死は落葉植物に遺伝的にプログラムされています。言い方を変えれば死をプログラムしている遺伝子があるはずです。細胞というものは一定の時間と条件の...[Ⅳ212]女が男を保護する事(12)/死は”発見”された

  • [Ⅳ211] 女が男を保護する事(11) / 生命とは何か‥多田富雄さん

    今日自然科学の世界では鑑三翁の時代に比較すると想像もできないほどの長足の進歩を遂げ、膨大な知見が蓄積される時代となった。生命科学や生老病死に関する医学生物学的知識は目を見張るほど日々新しい知識が加わり続けている。人間の生命現象(研究)は現在どのような地点に立っているのか、私も強い関心を抱くがその全貌を把握することは到底不可能である。鑑三翁が私と同時代の人間であったとしたら、理学の人・内村鑑三は、この今の時代の「生命科学」の成果を十二分に読み込んで「聖書」及び神とキリスト・イエスと対話を重ねたことだろう。そして鑑三翁は現代の解明された「生命科学」の知見に〈神の存在をより鮮明に知覚し、神の造化の精緻を再確認し、鑑三翁の思想をより深化させていった〉と私は確信している。ここからは鑑三翁が今の時代を生きていたら覗い...[Ⅳ211]女が男を保護する事(11)/生命とは何か‥多田富雄さん

  • [Ⅳ210] 女が男を保護する事(10) / 鑑三翁と進化論

    鑑三翁の活動していた時代は、ルネサンス/宗教改革/産業革命を経験したヨーロッパでは、生物学や医学の知識が急速に増大し革新的で近代的な曙光を浴びつつあった時代である。鑑三翁も海外からの学問的な成果を理学の人として取り込み、反芻し、評価し原稿を執筆していたことは疑う余地はない。キリスト教の世界でもダーウィンの進化論をめぐって議論は沸騰していた(注:CharlesRobertDarwin、イギリスの地質学者/生物学者、1809-82、生物の種の形成理論を構築し進化生物学を発表。著書OntheOriginofSpecies(1859)『種の起源』を発表)。鑑三翁は進化論に関しては次のように記している。【私は始めから進化論はキリスト教の敵ではないことを認めた。いやむしろキリスト教はこの学理に準じて解釈されるべきもの...[Ⅳ210]女が男を保護する事(10)/鑑三翁と進化論

  • [Ⅳ209] 女が男を保護する事(9) / 理学の人鑑三翁

    鑑三翁は理学の人だった。1881(明治14)年に札幌農学校を卒業し農学士として札幌県御用係として就職、一度は病気を理由に退職するものの、1883(明治15)年には農商務省農務局水産課に就職し、日本産魚類目録の作成等に従事している。またこの頃には下記のような論文も執筆している(全集1に収載)。タイトルのみ掲げた。「千歳川魚減少の源因」「北海道鱈漁業の景況」「鰊魚人工孵化に関する試験の結果」「鱈ノ発生」「漁業ト気象学ノ関係」「鱈魚人工孵化法」「石狩川鮭魚減少ノ源因」「漁業ト鉄道ノ関係」「豚種改良論」等。鑑三翁が理学の人であったことを彷彿とさせる。石牟礼道子氏(注:小説家、詩文家、社会運動家、1927-2018、チッソによる水俣病の責任訴求に生涯を捧げた。『苦海浄土わが水俣病』『創作能不知火』など著書多数。全集...[Ⅳ209]女が男を保護する事(9)/理学の人鑑三翁

  • [Ⅳ208] 女が男を保護する事(8) / “台所”は小事にあらずして大事

    【世界の仕事を身に担われた主が、家庭の小事に懸命になっている賤しい婦人に心を止めることに何の意味があるのかと問うのが世の中の人の常である。しかしながら人類の救い主なるがゆえに、彼は彼女に能力を注がれたのである。そしてイエスのこの日この時にペテロの義母(注:原文は「岳母」)は最も重要な地位に立ったのである。「彼女はすぐに床から起きて彼らに仕えた」というのである。イエスとその弟子たちに食事を提供し休息を与えることのできる者は、彼女をおいて他にはいなかったのだ。伝道というものは単に思想豊かで弁舌の巧みな伝道師だけのものではない。彼らを養い、彼らに休息のできる住居を与える者もまた伝道の大きな役割を担うのである。イエスはこの日世界教化のための重要な役割を担う機関としての女性を支援する必要性を認めて、それを祝福するた...[Ⅳ208]女が男を保護する事(8)/“台所”は小事にあらずして大事

  • [Ⅳ207] 女が男を保護する事(7) / 家庭の人イエス

    【しかしながら神の子にして人類の主としてのイエスが為し給われた事であれば、これにははるかに深い意味がなくてはならない。その意味を探るのが我々の義務であり喜びなのである。〇私は思う。イエスは”家事を祝福する”ために、この奇蹟を行われたのである、と。あたかも結婚を祝福するためにカナにおいて水をぶどう酒に変えたという奇蹟が行われたのと同じである(注:ヨハネによる福音書1:2以後。イスラエルのガリラヤ地方のカナという村で開かれた結婚式に、イエスと母マリアと弟子が招かれた際に、宴会の途中でぶどう酒が底をついてしまったので、イエスは水をぶどう酒に変えるという奇蹟を起こした)。イエスはもともと家庭の人であった。彼のささやかなナザレの家庭は、彼の地上の天国だった。彼は家庭の力というものをご存じだった。家庭は国の基礎であり...[Ⅳ207]女が男を保護する事(7)/家庭の人イエス

  • [Ⅳ206] 女が男を保護する事(6) / 女性性に尊崇の念を

    さて本日は鑑三翁がキリスト・イエスの”女性性”に深く尊崇の念を抱いていたことを示す一文を紹介する。この一文に示された鑑三翁の視点は「全集」に収載された論稿の中でも珍しいものである。「女が男を保護する事」を考える上で重要な示唆を含んでいるので、少し長文だが引用して現代語訳した(全集27、キリスト伝研究、p.385-)。この論稿の要点は、「家事」を専らとする家庭の主婦の仕事は、狭義の家事の範疇を超えて家族全員の至福のためのはたらきであって、それは神の仕事を支える愛の所作であり女性性のなせる業であり、男性には到底手の届かない所作であるとする。そして人間の真の幸福は彼女たちの手から生まれ出て来ることを鑑三翁は感動の心と共に記している。「女が男を保護する」という視点から読んでみたい。少し長いがご寛恕のほどを。現代語...[Ⅳ206]女が男を保護する事(6)/女性性に尊崇の念を

  • [Ⅳ205] 女が男を保護する事(5) / 「義≠マリア/母/女性」なのかも

    武田清子氏は、内村鑑三の神観には武士道的な厳しい”父”的要素が強く、赦しのやさしさとしての”母”的要素が欠けていることを指摘している。そしてキリスト者としての信仰の宣べ伝え方についても、価値観の変革を強烈に迫る姿勢が強かった。これに比して内村と同門の新渡戸稲造(注:岩手県出身の教育家・思想家〈1862-1933〉。1877年札幌農学校入学、内村鑑三の同期生。国際連盟事務局次長、東京帝国大学教授歴任)は母のように温かい抱擁的で寛容の人だったと武田氏は記す。鑑三翁が生きていたら、武田氏の指摘をどのように聞いただろうか。そして武田氏は鑑三翁が「神の義」を極端に強調していることをあげている。それは以下の言葉からも明らかであると言う。武田氏が引用した鑑三翁の記述部分を「現代語訳」した。【どんな時に話をしても害がなく...[Ⅳ205]女が男を保護する事(5)/「義≠マリア/母/女性」なのかも

  • [Ⅳ204] 女が男を保護する事(4) / 神の母的特質が発見される

    先述の近代日本思想史の碩学武田清子氏(1917-2018、元国際基督教大学名誉教授)は、日本近代思想史研究において欠かせない人物の一人として内村鑑三を挙げている。武田氏の著書『峻烈なる洞察と寛容ー内村鑑三をめぐって』(教文館、1995)では、「“父なる神”のシンボリズムーフェミニズムの思想状況の中で」と題して、内村鑑三研究における興味深い視点を記している(注:初出は「内村鑑三全集」第25巻「月報」、1982)。武田氏はこの本の冒頭でエキュメニズム(注:Ecumenism。歴史的に分派を繰り返してきたキリスト教世界の教派統一のための運動。20世紀初頭に始まったプロテスタント諸教会、カトリック教会、東方正教会などによる教派統一のための運動を指す。世界教会運動、エキュメニカル運動と称される。)の運動の生みの親と...[Ⅳ204]女が男を保護する事(4)/神の母的特質が発見される

  • [Ⅳ203] 女が男を保護する事(3) / 保護/抱き/包む存在 

    私が長年馴染んできた口語訳聖書(1963)の旧約エレミヤ書(31:22)には次のような箇所がある。これが今回の連載「女が男を保護する事」の主題だ。「主は地の上に新しい事を創造されたのだ、女が男を保護する事である。」この部分は日本のキリスト教界(カトリック及びプロテスタント関係者等)の人たちが関わって翻訳した今日の新共同訳聖書(1987)では「主はこの地に新しいことを創造された。女が男を保護するであろう。」とある。基本的な違いはない。また英語版聖書の一つは次のように記されている。”FortheLordhascreatedanewthingintheearthーAwomanshallencompassaman.“(注:明治元訳聖書(1884)では「エホバ新しき事を地に創造らん女は男を抱くべし」とある。また英語...[Ⅳ203]女が男を保護する事(3)/保護/抱き/包む存在 

  • [Ⅳ202] 女が男を保護する事(2) / 何ゆえ神を”父”と呼んだのか?

    新約聖書/マタイによる福音書第5章以後には、キリスト・イエスが弟子たちに語った「山上の福音」と言われる重要な箇所がある。その中で神に祈る時にはこのように祈りなさいとしてイエスは弟子たちに語る。「だから、あなた方はこう祈りなさい。天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」(口語訳聖書。マタイによる福音書6:9)このゴシック文字の「父」の名詞は、明治訳聖書、大正訳聖書、新共同訳、日本正教会訳、フランシスコ会訳等でも全て「父」だ。ラテン語聖書では”Pater”、英語訳聖書では”Father”つまり”父(親)”。そもそも新約聖書の「主の祈り」は次のように示されている。教会で指導者と信徒が共に神に捧げる祈祷の言葉だ。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈り...[Ⅳ202]女が男を保護する事(2)/何ゆえ神を”父”と呼んだのか?

  • [Ⅳ201] 女が男を保護する事(1) / かんのんさまと皆が言う

    岡本喜八監督作品に『肉弾』という映画があった。調べてみると1968年の作品。そのころ映画狂いだった私は恐らく新宿のATG(アートシアターギルド)で見たのだろう。映画のあらすじを断片的な記憶でたどってみた。広島と長崎に原爆が落とされソ連が参戦した頃、幹部予備候補生の〈あいつ〉(寺田農)は特攻隊に編入された。いきなり神様扱いされた〈あいつ〉はつかの間の休みに街に出かける。街は米軍の空襲で焼野原。無性に活字が恋しくなった〈あいつ〉は一軒のバラックの古本屋に飛び込む。ろくな本も置いてなかった。そこには空襲で両手を失った店主のオジイサン(笠智衆)とその妻オバアサン(北林谷栄)がいた。両手の無いオジイサンが〈あいつ〉に下の世話を頼み小便の世話をしてあげる。オジイサンは彼に言う、「生きてりゃ小便をすることだって楽しいで...[Ⅳ201] 女が男を保護する事(1)/かんのんさまと皆が言う

  • [Ⅳ200] 心に荒野を持て(8) / 狂人に世界を委ねるなかれ!

    第一次世界大戦は日本も遅れて参戦した。鑑三翁も言論人として宗教家として、この戦争の悲劇性につき『聖書之研究』を中心に多くの論稿を執筆している。以下は欧州の戦乱(第一次世界大戦)とキリスト教の相関について触れたものである。【不信者は考えている‥キリスト教信者とは神の庇護のもとにある者たちで、彼らはどんな罪を犯しても、神は彼らを罰することはないのだ、と。しかしながらこれは大きな誤りである。キリスト教信者は神の愛する児であるがゆえに、神は彼が罪を犯した場合には、不信者を罰されるよりもはるかに厳しく、キリスト教信者を罰されるのである。私たちキリスト教信者が時に神から受ける刑罰というものは、不信者の予想を超えるものである。そのようにキリスト教国家は非キリスト教国家よりも遙かに厳しく酷く神に罰せられるのだ。‥国家はそ...[Ⅳ200]心に荒野を持て(8)/狂人に世界を委ねるなかれ!

  • [Ⅳ199] 心に荒野を持て(7) / エリオット”waste land(荒地)”  

    1914年から18年まで続いた第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリアを中心とした”同盟国”とイギリス・ロシア・フランスの三国協商との対立を背景に起こった、まさに人類史上初の”世界大戦”だった。往時の”同盟国”はドイツ帝国・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国、”連合国”はイギリス・フランス・ロシア帝国・日本・アメリカ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・中華民国・イタリア。各国入り乱れての戦争では、産業革命以後人間が手にした新しい革新的な諸技術と資金は、戦闘機や偵察機、潜水艦や戦車、化学兵器(毒ガス)や機関銃などの武器開発に投資された。このことによって、兵力以上に近代科学技術による戦力が増強され、国家総動員が戦争の勝利の要因と考えられて戦争の影響は一般国民にまで拡大していった。その結果もたらされた戦争の...[Ⅳ199]心に荒野を持て(7)/エリオット”wasteland(荒地)”  

  • [Ⅳ198] 心に荒野を持て(6) / 教会が破門された!

    野球場に人を集めて何十台ものスピーカーでカリスマ的伝道者の説教を聞かせるようなアメリカの教団の主宰する大規模集会や教団のイベントや学習会を開催すれば、神は多くの者たちが集まった場に必ず降りて下さるのだから、このような集会を頻回に開催しようではないか‥といった考え方では、信仰の真理を説明することはできない。毎週日曜日に集会に来れば神への信仰が確立し、洗礼を受ければその信仰はより堅くなり、キリスト者として成長していくというのは楽観的に過ぎると鑑三翁は警告する。信仰とは神と単独者との「直示」なのだ、そのために人間は常に”荒野”を抱かなければならない‥‥これが鑑三翁の確信である。【多くの浅薄な偽りのキリスト教に接すると、私は古い日本道徳に親しみを覚えるのだ。私は時に叫びたい‥‥Iwouldratherbeahea...[Ⅳ198]心に荒野を持て(6)/教会が破門された!

  • [Ⅳ197] 心に荒野を持て(5) / 交際と比較で喪う「荒野」

    「無教会」の確信に至る端緒がアメリカ留学にあったことは間違いがないが、その一方で鑑三自身の「信仰」そのものへの深い理解があったことを忘れてはならないだろう。次に鑑三翁の信仰観を荒野の世界観とともに考えてみたい。【信仰は人と人との交際の結果としてもたらされるものではない。人間は社交的動物であるよりも、むしろ”拝神的”動物である。ギリシャ語のantholoposは「上を仰ぐ者」の意味だという。周囲に人間がいないと思って、上を仰いで至上者(いと高き者)と交通する者が古人の見た人間であるという。ところが今日の人間は「世論」を作らなければ何事も為すことができないと考えている。‥しかしながら昔から今日に至るまで、「世論」が人類の進歩に寄与して成功した事柄はない。‥ゆえに「単独者」でもよい。いや「単独者」のほうがよい。...[Ⅳ197]心に荒野を持て(5)/交際と比較で喪う「荒野」

  • [Ⅳ196] 心に荒野を持て(4) / 荒野を喪失したアメリカ

    鑑三翁は1884(明治17)年にアメリカに渡った。アメリカでは一人の慈善家の援助でペンシルバニア州の障がい児施設で働いた。翌1885年にはマサチューセッツ州のアマースト大学に入学、翌年にはコネチカット州のハートフォード神学校に入学し本格的な神学の履修に入るも、病気のために退学し1888年には帰国した。大きな希望をもってアメリカに渡った鑑三翁のアメリカ留学体験は決してこれに応えるものではなかった。だがアメリカ滞在中に鑑三翁は多くの優れたキリスト教の指導者、神学研究者、事業家に出会い帰国後も交流を続けた者も数多いた。往時のアメリカは急速に経済発展を遂げ世界経済を牽引する役割も担うようになっていた。国家の宿命でもあった金銭万能主義が国の隅々まで浸透し享楽への価値観が世を覆っていた。教会世界もその影響は免れること...[Ⅳ196]心に荒野を持て(4)/荒野を喪失したアメリカ

  • [Ⅳ195] 心に荒野を持て(3) / 自ら荒野に赴いたパウロ

    鑑三翁は、キリストの使徒たちや記者の手になる「四福音書」もさることながら、それ以前に書かれたパウロの著作物を高く評価している。パウロの手になる「ガラテア人への手紙」に関しては、次のように記して絶賛している。「この書はルーテル(注:MartinLuther、1483-1546、ドイツの神学者・聖職者。ローマ・カトリックから分離してプロテスタントが誕生した「宗教改革」の中心人物)が彼の鉄壁の拠り所とした書であり、この書があったゆえに16世紀の宗教改革は成功したのである」(全集17、p.346)。そして「ガラテア人への手紙」の「また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビアに出て行った」(1:17)を引用して、鑑三翁が神の前に立ち神の声を耳にした経験を以下のように記す。パウロが出奔したこのアラビア...[Ⅳ195]心に荒野を持て(3)/自ら荒野に赴いたパウロ

  • [Ⅳ194] 心に荒野を持て(2) / 荒野でのイエスの実存

    「聖書」の荒野とは何か。鑑三翁は何ゆえ"荒野"に強い関心を抱いていたのか。最初にキリスト・イエスの荒野体験を記録した「聖書」の部分を掲げる。「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけ...[Ⅳ194]心に荒野を持て(2)/荒野でのイエスの実存

  • [Ⅳ193] 心に荒野を持て(1) / 荒野での不思議体験!

    今から何十年も前のことになるが私はサウジアラビアの首都リヤド郊外の渓谷の遺跡にいた。中東諸国の技術協力の可能性を調査する同僚と二人の旅で、土日の休暇を利用して遺跡を訪ねたのだった。リヤドのホテルをガイドと共に早朝に出発して渓谷に着いた。乾上った岩と砂礫だらけの地に立った。秋の朝の強い日差しが私をさした。一瞬私は今自分のいる場所がわからなくなった。それは私自身の肉体が空に溶けていき肉の実体が失せたような不思議な感覚だった。耳を塞がれた透明人間のようだった。ひどく孤独を感じ不安になった。私は小石を足で蹴った。小石は小さな音を立てその音はながーく尾を引くように乾上った岩と砂礫の空に消えていく。見上げると闇のような空が見えた。群青よりも濃い漆黒だ。私の背後には朝の太陽が孤独な星のように輝いていた。私は茫漠としたド...[Ⅳ193] 心に荒野を持て(1)/荒野での不思議体験!

  • [Ⅳ193] 心に荒野を持て(1) / 荒野での不思議体験!

    今から何十年も前のことになるが私はサウジアラビアの首都リヤド郊外の渓谷の遺跡にいた。中東諸国の技術協力の可能性を調査する同僚と二人の旅で、土日の休暇を利用して遺跡を訪ねたのだった。リヤドのホテルをガイドと共に早朝に出発して渓谷に着いた。乾上った岩と砂礫だらけの地に立った。秋の朝の強い日差しが私を照らした。一瞬私は今自分のいる場所がわからなくなった。それは私自身の肉体が空に溶けていき肉の実体が失せたような不思議な感覚だった。耳を塞がれた透明人間のようだった。ひどく孤独を感じ不安になった。私は小石を足で蹴った。小石は小さな音を立てその音はながーく尾を引くように乾上った岩と砂礫の空に消えていく。見上げると闇のような空が見えた。群青よりも濃い漆黒だ。私の背後には朝の太陽が孤独な星のように輝いていた。私は茫漠とした...[Ⅳ193] 心に荒野を持て(1)/荒野での不思議体験!

  • [Ⅳ192] 神の意思は「世論」に反する(7) / トランプ、プーチンがヒーローになる国

    アメリカには「ゴールドウォータールール」というものがあるという。クライエント/患者に直接面談することなく診断を下してはならないとするアメリカ精神医学会の規範というか倫理規定で、これには批判も多いらしい。このルールやタブーを越えて、アメリカの政治経済社会のみならず国際社会にトランプが「危険」を及ぼすことを防ぐために、編者らの声に呼応した全米の精神科医・心理学者らが27の論文を寄せたのがこの本である(日本語訳では25論文)。直近(2022年11月)でトランプがアメリカ中間選挙を機に再び姿を現し始めたので、今回あらためてバンディ・リー本を読み直していくつかの(論者に共通する)キーワードを拾ってみた。全米の優れた勇敢な精神医療関係者たちによればドナルド・トランプとはこのような人物だ。「他者への共感性の欠如」「自己...[Ⅳ192]神の意思は「世論」に反する(7)/トランプ、プーチンがヒーローになる国

  • [Ⅳ191] 神の意思は「世論」に反する(6) / アメリカの抱える宿痾

    【「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイによる福音書7:13)‥真理は常に狭く誤謬は常に広く見られるではないか。この世にあっては真理は僅かに少数者のみに歓迎され、誤謬は常に多数に喜ばれるではないか。迷信の勢力がいかに強力であるかを見なさい。‥物事の真偽を多数決によって決定することほど間違った方法はない。盗賊のバラバと神の子イエスのどちらかを赦さんとピラトが会衆に問うたところ、一同は声を合わせて言った。「バラバを赦せ、イエスを十字架につけよ」と。そして千九百年後の今日、文明が開化した日本でも、またいわゆるキリスト教国である英国やアメリカにおいても、同じことが行われているので...[Ⅳ191]神の意思は「世論」に反する(6)/アメリカの抱える宿痾

  • [Ⅳ190] 神の意思は「世論」に反する(5) / 新聞など要らない

    【昨日から職工たちのストライキによって東京中の新聞が揃って休刊した。こうして新聞紙にとっては初めての奇妙な景色が広がった。そして人々は言う「灯火が消えたようだ」と。しかしながら新聞のないことは大きな不幸でもない。日々の人間社会の罪悪の報道が為されないことで、人間の心が汚されずに済むという効果は大きなものだ。その意味で新聞の害悪は極めて大きなものだ。新聞紙がなくなって、私たちはかえって平穏に一生を送ることができる。願わくば新聞が永久に休刊されることを。だが私の注文通りにはいくまい。困ったものだ。】(全集33、p.140、日記1989年8月2日)現今日本には五大紙と言われる全国紙の新聞がある。主に首都圏に本社を置く新聞社が発行部数を競い、そのトップファイブをこう呼んでいる。トップの発行部数は公称六百万部とも言...[Ⅳ190]神の意思は「世論」に反する(5)/新聞など要らない

  • [Ⅳ189] 神の意思は「世論」に反する(4) / 多数の奴隷となるなかれ

    【人間は単独者であって、それが勢力なのだ。人間は直接神に接するという権能を有している。そしてこの権能が彼に存在する限りは、単独者として宇宙をも動かすことができるのである。‥ところが今のキリスト教信者は「多数」の奴隷となりつつあり、全能者の神の子としての権利を放棄して、羊の如く、雀の如く、鰊の如く、集団の集合力をもって物事を遂行しようとしている。】(全集15、p.389)鑑三翁のこの発言は1907(明治40)年のことだ。そしてこのような”真実の声”というものは時を超えて発現し引き継がれるものだ。「市民社会がその内側からファシズムを分泌するといふとき、共同幻想の「公共」が大きな役割を果たす。大河ドラマをみて定時のニュースを聴くことで、なにかが恙なく完成されてゆくだろう。公共の反対概念は、さしあたり「個」である...[Ⅳ189]神の意思は「世論」に反する(4)/多数の奴隷となるなかれ

  • [Ⅳ188] 神の意思は「世論」に反する(3) / 批判‥実は妬みと怨恨

    日本のキリスト教世界から、またアメリカの宣教師グループからの鑑三翁に対する批難は激しかった。鑑三翁は明治44年6月に記した一文で次のように記している(要旨)。‥‥世とは何か、世間で藩閥政治利権を身にまとったまま、まことしやかに行われている政治や政党であり、また世人に憐れみをもたらし救済をもたらすと喧伝する宗教組織であり宣教師集団であり教会や牧師である。戦争もしかり、商売もしかり、世間交際もしかり、慣例もしかりである。そして、これらは皆悪魔の制定したものであり、キリスト・イエスが世に現れたのは、こうした悪魔とその事業とを滅ぼそうとされたからであり、その際には必ず世間からの激烈な反対があるものだ‥‥、と(『聖書の研究』131号)。そして世の中というものは常に「進歩」していくということは幻想であって、むしろ”万...[Ⅳ188]神の意思は「世論」に反する(3)/批判‥実は妬みと怨恨

  • [Ⅳ187] 神の意思は「世論」に反する(2) / “善なる人”を疑え

    鑑三翁の時代(明治・大正・昭和)も同様だったのだろう。次のように鑑三翁は述懐している。【世間がその当時”善なる人”と見ている者は大抵は”悪しき人”であり、当時”悪しき人”と見ている者は大抵は”善なる人”である。神の意思に背いたこの世の「世論」は、大抵の場合神の真理と正反対と考えていい。我々は、このような考え方で人の批評を聞き、毎日の新聞を読むべきである。】(全集16、p.386)【聖書には「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(イザヤ書11:9)とはあるけれども、神の言葉が人の「世論」となるとはどこにも書かれてはいない。いやそれどころか聖書は随所にこれと全く反対のことを言っている。「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。...[Ⅳ187]神の意思は「世論」に反する(2)/“善なる人”を疑え

  • [Ⅳ186] 神の意思は「世論」に反する(1) / 多数が正しいとは限らない

    鑑三翁は、輿論(以下世論、publicopinion)に従うことを痛烈に批判する。そして多数の中にいることよりも、単独で居り思考することを私たちに勧めている。世論に従うことを何ゆえ鑑三翁は否定するのだろうか。それは「出エジプト記」にあるように、世論は往々にして神の意思に反するからだ。「あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。」(出エジプト記23)とある。この聖句の焦点は「多数」だ。多数に従って悪を行うな、正義を曲げるなと言っている。「多数」は世論を構成するものだ。だが「多数」は必ずしも正しいとは限らないと言っている。《注:鑑三翁の原文で用いられている「輿論」という言葉は「人々の議論あるいは議論に基づいた意見」を表してい...[Ⅳ186]神の意思は「世論」に反する(1)/多数が正しいとは限らない

  • [Ⅳ186] 神の意思は「世論」に反する(1) / 多数が正しいとは限らない

    鑑三翁は、輿論(以下世論、publicopinion)に従うことを痛烈に批判する。そして多数の中にいることよりも、単独で居り思考することを私たちに勧めている。世論に従うことを何ゆえ鑑三翁は否定するのだろうか。それは「出エジプト記」にあるように、世論は往々にして神の意思に反するからだ。「あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。」(出エジプト記23)とある。この聖句の焦点は「多数」だ。多数に従って悪を行うな、正義を曲げるなと言っている。「多数」は世論を構成するものだ。だが「多数」は必ずしも正しいとは限らないと言っている。《注:鑑三翁の原文で用いられている「輿論」という言葉は「人々の議論あるいは議論に基づいた意見」を表してい...[Ⅳ186]神の意思は「世論」に反する(1)/多数が正しいとは限らない

  • [Ⅳ185] ユー・レイズ・ミー・アップ

    「我がメメントモリ」も一区切りしたので、本日はひと息つくことにした。※ある日いつものようにパソコンで作業をしていた。すると突然YouTubeの映像が現れた。気づかないで何らかの誤操作をしたのだと思う。映像では初老のヒゲをはやした長身の男が、ヨーロッパと思われる夕暮れの街角で小雨のなか突如歌い出した。「♪Youraisemeup‥‥♪」声量は豊かでテノールだ。「あっ、この歌‥」と、何よりもそのフレーズ(‥主よ私を助け起こしてください‥)に遠い記憶があった。ボクは彼の歌に聞き入った。石畳の路が交差する古い街の町角で歌っている彼の前には白いカウボーイハットが置かれ、集まり始めた聴衆は投げ銭を時折入れに近寄る。彼は腰を折って会釈をする。真っ白なダウンジャケットを身につけた二人の幼い姉妹が、手をつなぎながらおずおず...[Ⅳ185]ユー・レイズ・ミー・アップ

  • [Ⅳ185] ユー・レイズ・ミー・アップ

    「我がメメントモリ」も一区切りしたので、本日はひと息つくことにした。※ある日いつものようにパソコンで作業をしていた。すると突然YouTubeの映像が現れた。気づかないで何らかの操作をしたのだと思う。映像では初老のヒゲをはやした長身の男が、ヨーロッパと思われる夕暮れの街角で小雨のなか突如歌い出した。「♪Youraisemeup‥‥♪」声量は豊かでテノールだ。「あっ、この歌‥」と、何よりもそのフレーズ(‥主よ私を助け起こしてください‥)に遠い記憶があった。ボクは彼の歌に聞き入った。石畳の路が交差する古い街の町角で歌っている彼の前には白いカウボーイハットが置かれ、集まり始めた聴衆は投げ銭を時折入れに近寄る。彼は腰を折って会釈をする。真っ白なダウンジャケットを身につけた二人の幼い姉妹が手をつなぎながらおずおずとカ...[Ⅳ185]ユー・レイズ・ミー・アップ

  • [Ⅲ184] 我がメメントモリ(51) / 現実を超えたもの  

    幼い敬一と静雄を連れて、山形の父が定年後短い間勤務していた山形県立博物館を訪れ、常設展示の縄文土器を見ていたときのことだ。たかが土くれのようなその土器が、なぜかこの時はボクの目をひきつけて離さなかった。実は、今言った人間の“原風景”という感覚は、この時に生まれた。これは不思議な感覚だった。ボク自身の中に、実は古代から生きてきた人間の原初的な感覚が刷り込まれていることを感じたのだ。縄文土器は、氷雪に閉じ込められた北国の厳しい生活の吐息も、赤子の誕生の喜びも、百花繚乱の春の訪れの安堵も、家族の腹を満たすことを約束する収穫の喜びも、争いと戦いの不毛さへの怒りも嘆きも、また愛する者の死の深い哀しみもあふれ出る涙も、全てボクに語りかけてきた。それは死者たちの魂の語りのようにボクには聞こえた。敬一そして静雄へ——。ボ...[Ⅲ184]我がメメントモリ(51)/現実を超えたもの  

  • [Ⅲ183] 我がメメントモリ(50) / 人間の原風景

    高見順は先に掲げた日記のなかで、詩とも覚書とも思えるこんな一文を記している。「屠殺場の牛の撲殺される直前のあのやさしいおだやかな静かな眼を思い出す。ヒンズー教徒が牛をあがめるわけが分る気がする。あの眼の意味が分れば、私にも死の意味が分るだろう。」死と四つに組んで対峙していた高見順には、この時死の意味が分かったのだろう。山形の蔵王山の麓にある家族のお墓や近くの神社のある低山に登ると山形市内の風景が一望できる。そこから望むと近年風景が大きく変わってきたことに気づく。市内にはかつて疎水が多く見られたが、最近ではこの疎水が消えた。母の家の近くのリンゴ園は伐採されて太陽光パネルに覆われた有料駐車場になった。近くの低山には高速道路が走り広い田んぼが商業団地になった。山形盆地に広がる田畑の真ん中を物凄いスピードで新幹線...[Ⅲ183]我がメメントモリ(50)/人間の原風景

  • [Ⅲ182] 我がメメントモリ(49) / 天国に在りて不在

    ユング心理学の研究者の河合隼雄さんが、『魂にメスはいらない』(講談社、1993)という谷川俊太郎さんとの対談集の中で、こんなことを話していた。「われわれ日本人の死生観の中にも、死というものが一種安心に通じているという感覚がどこかにあるような気がするんです。たとえば墓参りをするときも、ただ縁起が悪いとかいうんじゃなくて、どこか安心したいという感じがあって墓参りにいくということが、ぼくなんかの経験でははっきりあるんです。だから、そういう面から死というものをもういっぺん考えるべきじゃないのか。」こう語りながら河合さんは、ボクたちの世界観のなかに、死後の生命の存在というものを組み込んだ“曼荼羅”をつくる作業の大切さを述べている。死後の生命の存在、この言葉ほど今の日本人の生活感覚と程遠いものはないだろう。死は人間の...[Ⅲ182]我がメメントモリ(49)/天国に在りて不在

  • [Ⅲ181] 我がメメントモリ(48) / 墓前での恩寵

    ボクは次男だったので若菜の墓は東京にボクが造ろうと考えた。深く考えることもしなかった生活の中から出てきた考え方であり、極めて保守的だ。当初は遺骨をしばらく家に置いておこうかと考えた。しかしボクの周囲の者はことごとく反対した。昔なら一軒の家が建てられるくらいの資金も必要だった。ボクは彼女の遺骨を抱えてまごまごしていたが、父に言われるまま、東京の実家のボクの母の入っている墓に間借りをさせてもらうことにした。若菜の遺骨は実家の寺院の何とない決まりどおり四十九日の真夏の暑い盛りに納骨した。間借りとはいえ彼女の居場所が定まったことで少し安堵した。それからしばらくの間ボクは墓のことが頭から消えなかった。桜子と相談しながら都営の墓地の公募に応募したりもしたが、時間は経過していった。墓地と墓石を購入するだけの現金の余裕が...[Ⅲ181]我がメメントモリ(48)/墓前での恩寵

  • [Ⅲ180] 我がメメントモリ(47) / 墓-私はここにはおりません

    お墓というものはいつか必要になるものとは考えていても、それを若い人が準備しておくのも稀なことだろう。日本の場合には一般的に自分が男性長子の場合には墓の決まっている人も多いが、そうでない人は年齢とともに否応なく考えざるを得なくなってくる。沖縄地方の亀の形をしたお墓が大きいのは、家族単位で埋葬するからだそうだが、分家単位で墓を考えてきた本土の場合は、最近では永代使用料付の墓地も高額となってきて、ちまちまとせせこましい墓が多くなった。カード一枚で礼拝できる集合住宅スタイルのお墓も流行している。これなぞ苦肉の策というヤツだろう。無縁仏になってしまう墓も多いと聞く。日本の墓事情とはこんなところだろう。先日も友人からの相談を受けた。この友人はお嬢さんが二人いて、二人とも近々嫁ぐことになった。友人の父親の墓は長男が郷里...[Ⅲ180]我がメメントモリ(47)/墓-私はここにはおりません

  • [Ⅲ179] 我がメメントモリ(46) / 葬送儀礼の多様さ

    映画の好きな息子たち二人のお陰で、ボクは随分と多くの映画を見た。一時期は年間のほとんどの映画(ほとんどがアメリカのものだったが)を立て続けに見たものだった。印象に残る一本の映画がある。『ファミリー・ビジネス』という映画は、泥棒一家の楽しいアクション映画。この一家のボスの祖父(ショーン・コネリー)が死んで、彼が住んでいたニューヨークの下町のアパートの友人や住民が、彼を偲んで“ダニー・ボーイ”を共に歌い彼の死を見送るのだが、その際金属の器に入った彼の遺灰をアパートの屋上から町に撒くラストシーンがあった。日本では考えられないことなのでボクは驚くと同時に、きっと映画用の演出シーンだとばかり思っていた。しかし実はそうではなかったのだ。彼の出身地のスコットランドでは、遺骨を高温で焼き遺灰にして撒くというのが葬送の慣習...[Ⅲ179]我がメメントモリ(46)/葬送儀礼の多様さ

  • [Ⅲ178] 我がメメントモリ(45) / 死の実存mement morirが薄れていく

    死が死んでいる社会では、死はできるだけ遠くに置かれる。死は自らの消滅なのでただ恐ろしくて考えたくない‥死の場所は病院とお墓に押し込めておこう‥自分は生きるのに忙しいのだ、死は縁遠い‥死が死んでいる社会では、死はできるだけ遠くに置かれる。このように考える人間は死をどのように考えるだろうか。「死は生のほんの一部分であって復元可能なほつれにしか過ぎない」「子どもを自死へと追いやる結果となった教師には、自らがイジメの加担者であるという意識は惹起せずその行為の先に自死があるという想像力が働かない」「自死をした者は残された家族がどれほどの悲嘆に沈む人生や差別と闘う人生を送らなければならないかということに思いが届かない」「死は連続している映画フィルムの一コマであり、それは復元可能な一コマでしかない」等々‥。このように人...[Ⅲ178]我がメメントモリ(45)/死の実存mementmorirが薄れていく

  • [Ⅲ177] 我がメメントモリ(44) / 月の山プログラム

    死が死んでいる、死が生きる、とボクは今表現した。このように書くと、ボクたちの感覚は、なぜか語義矛盾のように反応してしまうものだ。その理由は“死”と“生”とが対立的な観念として考えられているからだ。これは日本人一般というより、現代の人間一般の反応と言っていいかもしれない。しかしボクには、若菜の死以来、そうは考えられなくなっている。死はボクの中に常に生きていて、死はボクの生の終わりに位置づけられていない。彼女の死もボクの死もボクの生の中に組み込まれていて、“死が生きている”感覚が強い。この感覚はずーっとボクの中に確実な場所を占め続けている。それは死の後に再び生が復元されるといった観念ともやや異なる感覚である。山形県には庄内平野から聳える出羽三山の山並がある。美しい山並だ。出羽三山は湯殿山、羽黒山、そして月山か...[Ⅲ177]我がメメントモリ(44)/月の山プログラム

  • [Ⅲ176] 我がメメントモリ(43) / 死が死んでいる社会

    一人の子どもへのいじめに複数の生徒学生や友人が加担し、教師たちもこれを軽視ないしは無視した結果、これに抗議して子どもが遺書を残して自死する、といった事案が後を絶たない。そのたびに胸が塞がれる思いがする。こうしたことが起こるたびに、社会のセーフティネットが機能していないこと、またいじめと自死の因果関係や背景が判然とせず一律に論じられない点があることなどが指摘される。このように自死といじめの関係性を探ることも意味のあることだが、ボクは違った角度からこうした物事をとらえる必要を感じている。ボクはこれらの事案をめぐっては、いじめに加担した子どもたちや教師たちのなかには“死が強烈に生きていなかった”のだと考えている。言い方を変えれば“死は生のほんの一部分”と考えられていて、あたかもゲームソフトのように死の後にも生は...[Ⅲ176]我がメメントモリ(43)/死が死んでいる社会

  • [Ⅲ176] 我がメメントモリ(43) / 死が死んでいる社会

    一人の子どもへのいじめに複数の生徒学生や友人が加担し、教師たちもこれを軽視ないしは無視した結果、これに抗議して子どもが遺書を残して自死する、といった事案が後を絶たない。そのたびに胸が塞がれる思いがする。こうしたことが起こるたびに、社会のセーフティネットが機能していないこと、またいじめと自死の因果関係や背景が判然とせず一律に論じられない点があることなどが指摘される。このように自死といじめの関係性を探ることも意味のあることだが、ボクは違った角度からこうした物事をとらえる必要を感じている。ボクはこれらの事案をめぐっては、いじめに加担した子どもたちや教師たちのなかには“死が強烈に生きていなかった”のだと考えている。言い方を変えれば“死は生のほんの一部分”と考えられていて、あたかもゲームソフトのように死の後にも生は...[Ⅲ176]我がメメントモリ(43)/死が死んでいる社会

  • [Ⅲ175] 我がメメントモリ(42) / 在宅ホスピス

    正岡子規『病牀六尺』『仰臥漫録』(共に岩波文庫)では、既に名の聞こえていた新しい俳句運動の指導者として作句を続けながら自宅で療養生活をしていた子規の世界が克明に記されている。明治三十年代中頃のことで、カリエスという当時では難治の疾患で療養生活を続けていた子規は、自分で寝返りもできなくなって苦しい日々を妹や母親の看病でしのいでいた。時には看病をしてくれる彼女らに理不尽な癇癪を起こしたりする様子の記録は、読んでいて胸が詰まる。しかし一方で彼の目は、病床で新しい俳句の境地を開拓し続けていた。これは病床にあった彼の気晴らしにもなったのであろう。ここに記された子規の在宅での療養生活の情景は、治療の方法や医療制度が大きく変わったとは言え、今日のものと基本的には変わらないものだろう。子規が家族と暮らしていた毎日の食膳の...[Ⅲ175]我がメメントモリ(42)/在宅ホスピス

  • [Ⅲ174] 我がメメントモリ(41) / 家で死にたい人は手を上げよう

    若菜は入院中の4か月間の間に4回の外泊をしている。結局僅かな回数で終わったが、彼女にとってこの外泊はとても期待と喜びとが大きなものだった。外泊が決まると彼女はボクによく話しかけていた、いつも母の料理じゃ飽きるでしょ、私が帰ったらお父さんの好きなこれとあれとを作ってあげたいの、子どもたちをお風呂に入れてあげたいし、家の片づけもしなければならないし、と。そして外泊に着て帰るスーツやセーターをボクに持ってくるように頼んだ。その表情は長い間楽しみにしていた旅行に出掛けるような浮き浮きした心を表していた。そして家に帰ると、すぐさま着替えをして、いつものように台所に立ち、家で留守を預かってくれていた母や叔母にあれこれと指図をするのだった。家は主婦という女がいて初めて格好がつくものなのだ。自分の家の壁のシミも階段のきし...[Ⅲ174]我がメメントモリ(41)/家で死にたい人は手を上げよう

  • [Ⅲ173] 我がメメントモリ(40) / 告知マニュアルの不実 

    ボクはこのような人間は必ずいると考えている。治癒が不可能な病気であることを何らかのメッセージで、ほとんど/あるいは完全に/認識していて、なお告知を望まない患者もいるだろう。また告知そのものにあまり重大な意義を認めていない患者もいるだろう。あるいは告知そのものを“放置される”とか“見捨てられる”と考えて絶望してしまい、そこから立ち直れなくなると予測される患者もいるだろう。これらの患者を不完全で未熟な人間なのだからと簡単に決めつけて、ひたすら告知をしようとする医療者がいるとすれば、それは医療者自身の未熟さと傲慢/不遜を証明するだけだ。だから「病名の告知」そのものだけを切り出して論じること自体、現実にはほとんど意味を為さないものだ。患者の内的な世界をどのように正鵠に判断できるかという問題も常に残る。医療者との人...[Ⅲ173]我がメメントモリ(40)/告知マニュアルの不実 

  • [Ⅲ172] 我がメメントモリ(39) / 病気を告げ知らされることの”ない”権利

    ある宗教法人の経営する病院の院長は、ここ数十年全ての癌患者に病名の告知をしていると得々と語っていた。ある医師は病名の告知をした患者とそうでない患者との比較を行い論文にしていた。最近では新聞のアンケート調査を見ても、この癌の告知は大方の医療機関での基本的な指針となっている。そして患者・家族の側でも癌の告知を望むという意見が一般的となってきた。アメリカ医師会の調べでは、1960年代にはアメリカのほとんどの医師は癌の病名を患者に知らせていなかったという。その後癌の治療成績が向上して早期発見・早期治療が通念となり、知る権利という価値観が医療現場にも持ち込まれたことと、知らせなかったがための訴訟を恐れるがために、ほとんどの患者に病名が告知されるようになったという経緯は確かだろう。しかしボクはこうした癌の告知を安易に...[Ⅲ172]我がメメントモリ(39)/病気を告げ知らされることの”ない”権利

  • [Ⅲ171] 我がメメントモリ(38) / 看護師Tさん

    彼女の闘病は4か月で終わってしまった。その間死を見つめ続けた若菜のことを思うと、今でも胸が痛んで苦しい。ボクは彼女に一体何をしてあげられたのかと思うと、言葉もない。一生懸命に看病して尽くしたと言い切ることは、今でもボクの神経を逆撫でする。世界と時間とを共有してきた愛する者の死とはこのようなものなのだろう。痛覚は残り続けている。病室で病気と共に闘っていた日々、病院の看護師の存在は大きなものだった。医師とは異なり看護師は患者の日々の生活の部分、つまり食事や排泄、運動、清潔、安楽、安全といった彼女の日常生活援助活動を担ってくれていた。看護師たちの活動は、癌の末期にあって衰弱し不快な症状に悩まされている患者にとって欠かせないものである。彼女たちの活動は24時間の体制で継続され、深夜も常に多くの患者に目が向けられて...[Ⅲ171]我がメメントモリ(38)/看護師Tさん

  • [Ⅲ170] 我がメメントモリ(37) / 医師の人間味  

    若菜がK医師を信頼していたのには十分な理由があった。それはK医師が人間の良質なものをもっていた、という月並みな表現しかできないのだが。このことは先の外泊をめぐってのカンファレンスの彼の言葉に表れていたといえる。医療の場で哲学の問題を持ち出すのは、おそらくとても勇気のいる事柄だったと思う。それを敢えて言える人間の資質をもっていたのがK医師だったろう。このK医師のことを思い出すたびに、ボクの敬愛する方波見康雄さん(2021年後藤新平賞を受賞された)の言葉が浮かぶ。北海道空知郡の診療所でホスピス医療を実践してきた方波見さんは次のように言っている。「医学は本来、人間学なのである。そして医学・医療の進歩のための努力はいつも哲学や宗教といった人類の精神的遺産の中に見いだされる深い知恵を反映したものでなければならない。...[Ⅲ170]我がメメントモリ(37)/医師の人間味  

  • [Ⅲ169] 我がメメントモリ(36) / 「哲学の問題なのです!」  

    病院とか学校には共通する面白い事柄がある。そこで医療及び教育を受ける患者や生徒・学生には、医師や看護師及び教師を選択できないという事実である。制度というかシステムがそうなっているから仕方ないが、良質な医師や教師に“当った”患者や生徒は幸せだが、“はずれた”不幸は持って行き場がない。しかし我慢も大事だと常日頃教えられているから、普通は我慢してしのぐ。だが患者を見れば刺身のように無性に切りたくなる医師もいれば、生徒を前にしただけで殴りたくなる教師や、生徒を性的対象としか見ることのできない教師がいることも事実だ。そうした医師や教師は脳の回路がそのように出来ているのだから御しがたい。彼らの脳の回路の修復に期待したりするのも無理な話だ。だから、医師や教師を忌避する、異議申し立てをする、担当や担任の変更を求める、抵抗...[Ⅲ169]我がメメントモリ(36)/「哲学の問題なのです!」 

  • [Ⅲ168] 我がメメントモリ(35) / 検査=スターリン

    佐多稲子さんの作品『夏の栞-中野重治をおくる』(新潮社、1983)という本の一節に次のような箇所がある。「処置のとき、スターリン主義というものを考えたね。精神力がたとえ強かったにしても肉体の限度というもの、あるからね。あれは非人間性、ということになるだろうね。」中野が入院していた病院で医療処置を受けた直後の感想を述べたものである。ここでは処置とあるが、おそらく検査だろう。この検査がよほど辛かったのだろう。豪気な中野が弱音を吐いている。その検査で痛みと苦しみをひたすら我慢させられることが、圧倒的な権力を背景に残忍な拷問にかけるスターリンを連想させ、強い精神力をも踏みしだくような非人間的なものを感じたのである。検査はその病気を直接治す薬や手術とは異なり、医学的判断を下すための一つの資料である。そのことを患者は...[Ⅲ168]我がメメントモリ(35)/検査=スターリン

  • [Ⅲ167] 我がメメントモリ(34) / とことん医療の愚かしさ   

    ところが彼女の場合、この問題が再び発生した。最後の日、彼女は気管に胃の嘔吐物が詰まって呼吸が止まったのだが、その後短い時間だが研修医によって蘇生のための人工呼吸や心マッサージ、強心剤の穿刺が行われたのだった。彼女は明らかに蘇生しないと思われたにもかかわらず、その一連の処置が行われたものと今でも考えている。ボクはこれらの処置が耐え難くなり主治医に止めることを依頼した。心電計の波はずーっとフラットのままだったのだ。彼女の死の顔は和んでいた。長い闘いから開放されて安堵の表情をしていた。最後の日に山形から見舞いに来た姉の桜子に看取られた安堵も表れていた。にもかかわらず教育目的のためとは言え、最後の瞬間があのようなものでよかったのか、未だに得心できないでいる。静かな最後の時がわずかでもボクたちからは奪われてしまった...[Ⅲ167]我がメメントモリ(34)/とことん医療の愚かしさ   

  • [Ⅲ166] 我がメメントモリ(33) / 患者は実験装置なのか

    スパゲッティ症候群という言葉がある。これは病院でモニターの監視装置や輸液等のために様々な管やコードにつながれて生命を保たれている患者が、その拘束感で種々の精神症状を来たすことを示す“病名”である。やや揶揄的な言葉だがその現象はよく理解できる。でも患者の一時的な救命のための処置であれば、これらの管やコードは必須の場合もある。問題となるのは、癌の末期の患者のように、長い間身体の痛みや不快な症状に苦しみ抜いたあげくの時期のこれらの医療処置である。ボクの経験からもう少しこの問題に踏み込んでみる。これらの管やコードや多くの処置には、一時的な救命のために必須とされる処置以外に、医学教育の一環として行われる場合があること、及びこれらの医療処置が医師の強迫観念によって行われ続けるという問題があることをボクは見た。彼女の場...[Ⅲ166]我がメメントモリ(33)/患者は実験装置なのか

  • [Ⅲ165] 我がメメントモリ(32) / うんこ・おしっこ・お化粧   

    毎日三度の食事もトイレでの排泄も、健康な人間にとっては当たり前の事柄である。しかし一旦病気になると、何気なく行っていたこれらの所作が、とてつもない“大仕事”となる。若菜の場合もそうだった。彼女にとっての“食”は格別の意味をもっていたし、排泄も同様だった。病気の侵襲が激しくなるに従って、消化管は閉塞し始め便も出にくくなった。それでも当初は歩いてトイレに行くことができたが、衰弱も次第に激しくなってくると、嫌がりながらもベッド上での排泄を受け入れるようになって行った。ベッド上でのトイレッティングについては、彼女はずいぶんと看護師と押し問答を繰り返していた。ボクも転倒のことが気になっていたし、その点では看護師と同意見だったが、彼女が看護師とやり取りするのを聞いていて、ボクの本心は彼女の拒否する姿勢を応援していた。...[Ⅲ165]我がメメントモリ(32)/うんこ・おしっこ・お化粧   

  • [Ⅲ164] 我がメメントモリ(31) / 尊厳とともに食する

    若菜が通過障害と嘔気・嘔吐を繰り返す姿は痛々しかった。食べたいと思ってボクに頼んだものが、いざ目の前に置かれても食欲は失せていたことが多かったし、食べたかったものを何とか口に運んでも、食後しばらくすると嘔吐してしまうこともしばしばだった。それでもなお彼女は、最後の日まで口からの食事を望んでいたし、それを命綱のように考えてもいた。高エネルギー輸液や経管栄養の話も医師から何度か提案されたが、彼女はそれを拒否し続けた。亡くなる1週間ほど前、ほとんど食事が口からできないような日が数日あったので、仕方なく輸液に頼った日もあったが、彼女はこれをとても嫌っていた。輸液や経管栄養による栄養補給はたしかにいい方法である。薬液を混入させることもできるし、手術直後や経口摂取できない患者には、この方法しかない場合もある。しかし彼...[Ⅲ164]我がメメントモリ(31)/尊厳とともに食する

  • [Ⅲ163] 我がメメントモリ(30) / もの食う人間としての自由

    ボクと生年も同じで大学でも同期の辺見庸の著作に『もの食う人びと』(共同通信、1997)がある。古今東西津々浦々人間は食わないでは生きていけないことを痛切に語って秀逸なドキュメントとなっている。まさしく哀しくも人間は食わないでは生きてはいけない、生きるために食うのか、食うために生きるのか、そんなことも考えさせる作品だ。同じように病者とて、ものを食いながら必死に生きている。アイスクリーム!/フルーツゼリー!/茶巾寿司!/カニちらし寿司!/グラタン/サラダサンドイッチ!/くずもち/卵サンドイッチ/江戸前寿司/海苔巻き!/リンゴ!/シャケおむすび!/いなり寿司!/お芋サラダ!/ラーメン/パイナップル/スパゲティ/納豆/サクマドロップ!/鰻蒲焼!/ギョウザ!/氷アイス!/ワンタン/茶碗蒸し!/カルピス!/冷し中華!...[Ⅲ163]我がメメントモリ(30)/もの食う人間としての自由

  • [Ⅲ162] 我がメメントモリ(29) / 死と”女性性”という世界観

    ここで高見順の日記を再び開いてみよう。“おもしろい(?)現象”という書き出しで彼が次のように書いているのが目にとまった。亡くなる4か月ほど前のある日の日記である。「この間うちのように身体が弱ると、ものを書くことも、ものを読むことも、ものを考えることもできない。そのうち、すこし体力気力が回復してくると、一、ものを考えることはできる。しかしものを書くこと、ものを読むことはできない。二、次に、ものを書くことができるようになっても、ものを読むことは不可能。ここがおもしろい(?)。書くことが稼業だったせいか、今こうして、日記を書いているところからすると、ずいぶん体力気力が回復したみたいだが、まだ、ベッドに寝たっきり。(中略)三、ものを読むことは、まだできぬ。新聞や雑誌をパラパラと見る程度のことはできるが、単行本を読...[Ⅲ162]我がメメントモリ(29)/死と”女性性”という世界観

  • [Ⅲ161] 我がメメントモリ(28) / 死―実存する身体  

    若菜がたった2日間の病床日記しか書かなかった、あるいは書けなかったのは、身体の不快な症状が続き、侵襲の大きな検査や治療が続いたこと、何よりも癌が急激に彼女の身体を蝕み始めて身体の力が失われていったことによるとボクは考えている。その衰弱の様子は、健康なボクたちには計り知れないほどの病の暴力を見せつけるものだった。ボクたちは自分の脳で知的活動を行っていることを知っている。物を考えたり、本を読んだり、物事を記録したりする作業はこの脳の働きによるものだ。ではこの脳さえ病気に侵されていなければ、これらの知的な活動はいつも続くものなのだろうか。ボクはノーだと思う。ボクらがひどい風邪を引いたときや、長く続く腹痛のときのことを考えてみればいい。そんなときのボクは何を考えるのも億劫で、普段の習慣としてやっている好きな作家の...[Ⅲ161]我がメメントモリ(28)/死―実存する身体  

  • [Ⅲ160] 我がメメントモリ(27) / 心の世界

    ボクと若菜とは深い共感でつながっていることは実感できていても、死に直面している彼女の心の動きの世界が、ボクにいつも測れていたわけではないことも確かなことである。目と目を合わせて二人で頷いたとしても、それは哀しくも完全な心の一致をみられることとは限らない。人間には目があり言葉があっても、同時に完璧な二人の世界に住むことはできない哀しさがある。ここは夢見る創作詩の世界ではない。死にゆく人間の心の世界を解き明かしたと言われるのが、エリザベス・キュブラー=ロス(1926-2004)というスイス生まれのアメリカの精神科医。代表的な著作『死ぬ瞬間-死にゆく人々との対話』(読売新聞社、1971。「新版」中公文庫、1998)がある。日本でもベストセラーになった。彼女の研究は1960年代にアメリカで始まった。その研究は、死...[Ⅲ160]我がメメントモリ(27)/ 心の世界

  • [Ⅲ159] 我がメメントモリ(26) / 最後のラブ・レター  

    若菜はとても筆まめな人間だった。ボクと結婚するまでの1年半ほどは毎日欠かさず“ラブ・レター”をくれた(それに比べてボクは1週間に1回ほどの割合でしか書けなかった。これら何百通もの彼女の手紙は今でも手もとに大切に保存してある。)。結婚してからも彼女は日記を丹念につけていた。その日記は、毎日の生活を共にしているボクや子どもたちへの優しいメッセージに満ちていた。若菜が最後に故郷の山形に行ったのは、静雄が生まれた年の夏、ボクのお盆の夏休みに合わせて家族4人で帰郷したのだった。静雄にとっては初めての山形だった。若菜と敬一、静雄を父母と姉のもとに託して一人東京の仕事場に戻ったボクにも、若菜は毎日モーニングコールをくれたし、手紙もくれた。これは何年ぶりかの若菜の“ラブ・レター”で、これが彼女からのボクへの最後の手紙だっ...[Ⅲ159]我がメメントモリ(26)/ 最後のラブ・レター  

  • [Ⅲ158] 我がメメントモリ(25) / 悲嘆からの回癒

    この悲嘆感情からの脱出について、もう一つの例がある。ボクの敬愛する内村鑑三の例である。内村は明治・大正・昭和を生きたキリスト者で、聖書中心主義による無教会活動を展開し多くの弟子を育てたことで知られる。内村鑑三は明治24年に妻・かずを喪っている。鑑三が31歳のときだった。このときの痛烈とも言える体験を『基督教徒の慰』に記している(「愛するものヽ失せし時」:ブログ「Ⅱ37愛する者を喪ったとき」以後参照)。深い信仰と優れた言論活動のゆえに、すでに指導的立場にあった鑑三にとっても、結婚して2年足らずの妻の死は信仰をぐらつかせるほどの衝撃の大きさだったのである。ボクは、彼がこのように記しているのを読んで深い共感を覚える。「…余は懐疑の悪魔に襲はれ、信仰の立つべき土台を失ひ、之を地に求めて得ず、之を空に探って当らず、...[Ⅲ158]我がメメントモリ(25)/ 悲嘆からの回癒

  • [Ⅲ157] 我がメメントモリ(24) / 喪の仕事

    精神科医の小此木啓吾さんの『対象喪失』(中公新書、1979)という本には、ボクのような症例や研究報告がたくさん出てくる。配偶者を喪った人が6か月以内に死亡する割合は、そうでない人に比べて40%も高いという研究や、近親者の死を経験した人の1年間の死亡率は対象群の7倍、配偶者のケースでは10倍にものぼるという報告もある。小此木さんの解説によれば、愛情や依存の対象を失うという事柄によってもたらされる心の反応には二つあるという。一つは対象を失ったことがストレスになって起こる急性の情緒反応であり、もう一つが持続的な悲哀の心理過程といわれるものである。この悲哀の心理過程とは、時間の経過のなかで失った対象との関わりを整理していくプロセスであって、この苦痛の過程をうまく通れない場合には、様々な精神の病が出現する場合がある...[Ⅲ157]我がメメントモリ(24)/ 喪の仕事

  • [Ⅲ156] 我がメメントモリ(23) / 死が痛む

    ただその日その日にボクは若菜とともに生きていたし、彼女の意識はボクの意識を毎日呼び覚ましていた。しかし、担当の医師がボクに、危険ですと告げた翌々日の夜中に、彼女は最後の一息を吐いて逝ってしまった。突然、死にとらわれてしまった。それは分水嶺のようだった。水は嶺のたった一線を境にして突如向こうの側に流れていった。もう一度でいいから若菜の声を聞きたかった。しかしその懐かしい声は分水嶺の向こうからは二度とボクの耳には届かなかった。ボクの手から重量が消えた。音が失せ時間が絶えた。死の瞬間とはこのようなものだった。※彼女の死の直後は、葬儀、挨拶回り、癌財団への寄付、会葬御礼の発送、様々の手続き等、忙しさで目の回るような日々が過ぎて行った。それから何よりも大切な大仕事として、6歳の敬一と1歳の静雄の二人を若菜の生まれ育...[Ⅲ156]我がメメントモリ(23)/死が痛む

  • [Ⅲ155] 我がメメントモリ(22) / 一日は千年だった !

    葬儀を終え一段落すると、新しい生活の段取りをつけなければならなかった。敬一と静雄は山形の父母のところに預けることにした。若菜とは不思議なくらい格別の深い愛情で結ばれていた姉の桜子もいる。二人の子どもたちも”ネエネエ”と呼んでなついている。この選択しかボクにはあり得なかった。幼稚園や役所の手続きを終えて、6月18日の日曜日、二人の子どもたちとともに山形に向かった。山形の駅が近づいたころ、雨の上がった空に大きな虹がかかっていた。その虹をくぐってボクたちは山形の町に入った。山形にはこんな形でくるとは想像もしていなかった。ボクは昨年の夏休みに、若菜と全員で訊ねて以来のことで、静雄にとっては初めての山形だった。この町には、空の色も何もかも、東京には決してないものがある。好きな町だった。若菜の育った町なのだ。ここで敬...[Ⅲ155]我がメメントモリ(22)/一日は千年だった!

  • [Ⅲ154] 我がメメントモリ(21) / それから‥  

    若菜はボクたちの前からいってしまった。涙はとうに涸れていた。ボクと父は、若菜のなきがらを前にして病院の霊安室にいた。ボクの身体がどこにあるのかわからなかった。そのボクをさがそうともしなかった。夜半から雨がしきりだった。夜が明けると父には先に家に帰ってもらった。ボクは若菜のなきがらと一緒に、見覚えのある医師や看護師に見送られて、車で病院を出た。激しい雨になっていた。白布にくるまれた若菜は、何も応えてくれない。氷のように冷たい身体だった。昨日の最後のあの淋しそうな大きな目だけが、ボクの中でボクをみつめていた。懐かしい家に若菜と一緒に入った。若菜を布団に横たえた。慟哭が来た。そのときである。敬一が突然ボクの体にむしゃぶりつくなり、ボクを何度も何度も両のこぶしで激しく打ちながら声をあげた。「泣いちゃだめだ!泣いち...[Ⅲ154]我がメメントモリ(21)/ それから‥  

  • [Ⅲ153] 我がメメントモリ(20) / 最後の別れ

    若菜の不穏な状態は数日続いた。しかしその後ふたたび生気を取り戻し、ボクや叔母のことを心配したり、食べたいものを話題にするようにもなった。敬一と静雄に会いたいとしきりに訴えた。ボクたちも希望を取り戻していた。ボクの日録では5月28日の日曜日に敬一と静雄を連れて、母と父、桜子、叔母とともにみんなで若菜のところに行っている。しかし、敬一と静雄にとって、これが母親との最後の抱擁になるとは、誰もが思っていなかった。何十年経っても、昨日のことのようにこの日々が思い起こされ、胸が痛むのだが、若菜の最後の数日も記しておくのが、敬一と静雄に対するボクの責務でもあると考えたので、日録を記すことにする。《5月28日》朝8時半起きる。広とマラソン。菓子パンで朝食。9時半出かける。11時20分病院。桜子と叔母、朝おかゆを食べたのよ...[Ⅲ153]我がメメントモリ(20)/ 最後の別れ

  • [Ⅲ152] 我がメメントモリ(19) / 衰弱が激しくなってきた

    お見舞いの人たちが若菜のもとには沢山来てくれた。何度も見舞ってくれた人たちも多い。女子大の国文科クラスや速記クラブ、山形の高校の友人や先輩・後輩、以前住んでいたさいたま市の人たちや練馬の近所の人たち、敬一の幼稚園の先生やお母さんたち、退院した前の病室の患者さんたち、ボクの友人や会社の人たち・・ありがたいことだった。しかし、5月も中頃になると、お見舞いの人たちが帰ると、若菜はぐったりしてしまうことが多くなった。ボクはその頃からお見舞いの人たちには事情を話して、ロビーでボクだけが会うことにしていた。5月下旬になって、若菜の衰弱がますます激しくなってきた。嘔吐も頻繁となり、拒否し続けていた点滴も受け入れざるを得なくなった。この頃の日々については、若菜が入院して以来手帳に書き続けていたボクの日録をそのまま記す。《...[Ⅲ152]我がメメントモリ(19)/ 衰弱が激しくなってきた

  • [Ⅲ151] 我がメメントモリ(18) / 生きたい!

    病院の夜はのろのろ明ける。病院で生活している患者の家族の足音や湯を沸かす音、看護師たちの足音や朝の挨拶を交わす声などが次第に大きくなっていって、朝を告げるのだった。今日も若菜は生きているのだ!癌の末期に彼女があることをボクは十分に認識しているし、若菜も知っている。だが若菜は今日も十分に生きているし、これからでも1日でも2日でも長く生きたいと願っている。二人の子どもも若菜の生きがいだ。若菜を愛する者たち全てが涙の海に溺れそうになりながら、今日の若菜の生を慈しんでいる。いったいこれほど輝かしく確かな生があるだろうか。死への過程にある人間も、治る見込みのなくなった病気を抱える人間も、特別の人間ではない。ただ深慮できない医療者が医学の無力を感じるといったことだけで、死にゆく人間を生の向こうに押しやっているだけなの...[Ⅲ151]我がメメントモリ(18)/ 生きたい!

  • [Ⅲ150] 我がメメントモリ(17) / 二人の子への想い

    夜はいつ明けてくれるのだろう。ベッドの側のソファで浅い眠りから覚めて、ボクはベッドの若菜の様子をまずうかがった。寝息が聞こえてこない!はっとして起き上がりベッドに寄った。夜通しつけたままにしておくことにしていた床頭台の電気スタンドの傘をぐっと若菜の方に向けると、仰向けに寝ていた彼女の顔に、ボクの顔を近づけた。体温が伝わってくる。かすかな寝息が伝わってくる。ああ、よかった!生きている!若菜とボクの間には、一本の緑色の毛糸がお互いの手と手につながれていて、用があったらそれを引っ張って、寝ているボクを起こすことになっていたのだが、その糸をボクは確認するとソファに戻ろうとした。おとうさん、と細い声がした。ぼんやりとした光の向こうに、こちらに顔を向けて毛糸をたぐっている若菜の白い顔があった。ボクと同じような浅い眠り...[Ⅲ150]我がメメントモリ(17)/ 二人の子への想い

  • [Ⅲ149] 我がメメントモリ(16) / きれいなお母さん!  

    二人の子どもたちの世話は母と好子叔母にすっかり任せきっていた。静雄はそんななかで1歳の誕生日を過ぎ日一日と成長していった。5歳半になっていた敬一は、何が起きているのかがおおよそわかっていた。母親の体力がどんどん落ちていっていることも、何か月も家に元通りに帰ってこられないことも、何とはなしに理解していた。しかし、母親がやがて死にとらわれてしまう病気であると考えることはできなかっただろう。ボクもそんな説明をすることはなかった。幼稚園には毎日行っていたが、母親参観日などのときには、どんな気持ちでいたかと思うと胸が詰まった。そんな敬一がある朝、マラソンをすると言って玄関を出ようとしている、と母が教えてくれた。ボクは彼のなかで何が起こっているかを察知した。そして一緒に走ってあげることにした。抑えがたい淋しさを、走る...[Ⅲ149]我がメメントモリ(16)/きれいなお母さん!  

  • [Ⅲ148] 我がメメントモリ(15) / お母さんがいなくてごめんね!

    個室に入ると面会が自由になったのが救いだった。休みの日には、家で敬一と静雄の世話をやいてくれていた母も、叔母やボクと一緒になって若菜のところに来ることができた。今までの病室のときに比べて時間帯も自由で気兼ねもいらなかった。姉の桜子は山形の銀行に勤めており、父も定年後の博物館の新しい仕事で忙しくしていたので、頻繁に上京することもできなかったが、それでも月に二度くらいは二人で若菜のところに来ていた。個室に移ってから初めて二人がやってきたときのことである。若菜の喜びようは大変なもので、はしゃいでいるようにも思えた。とくに幼いときから甘えることができ、格別の深い絆で結ばれていた姉の桜子との久しぶりの時間は、かけがえのないものだったのだろう。ボクにはそのことが痛いほど理解できた。ボクは桜子との二人だけのゆっくりした...[Ⅲ148]我がメメントモリ(15)/ お母さんがいなくてごめんね!

  • [Ⅲ147] 我がメメントモリ(14) / ワカナはスターなのだ!  

    個室のある病棟に移る日、3か月もの間馴れ親しんだ病棟を、若菜は車椅子で出発しなければならなかった。ボクは入院の日を思い起こし、この間に歩くことも覚束なくなってしまった若菜が痛ましかった。病室のみんなが病棟の廊下に一斉に見送りに出てくれた。看護師たちも仕事の手を休めて、ほとんど全員と思われる数の人たちが、並んで若菜を見送ってくれた。いつもの医師たちの顔も揃っていた。よほど親しい彼女の友人たちからしか聞くことのなかった「ワカナさーん!」という掛け声が、看護師たちからも一斉に発せられたのには、ボクが驚いた。若菜は手をひらひらと振り、看護師や同室の患者たちと握手を繰り返していた。涙を隠そうともしない看護師もいた。若菜の目にも涙があふれていた。病棟を通りすがりの看護師が、一体何が起こったのかと同僚の看護師に聞いてい...[Ⅲ147]我がメメントモリ(14)/ ワカナはスターなのだ!  

  • [Ⅲ146] 我がメメントモリ(13) / 個室のはなし

    同室の患者同士が交わす情報には独特のものがある。例えばそれは、ベッドの上で楽に食事をする仕方であったり、お見舞いの果物を長持ちさせる方法だったり、患者の家族構成や看護師に関する噂だったりした。健康に生活している者とはいささか話題が違うのだ。若菜もその点では情報魔(!)であり、聞きつけた事柄を早く話したくて、ボクの来るのを待っていたかのようにして話し始めることもしばしばだった。こうした関心を示すことは元気な証拠でもあり、他愛もないそんな話を聞くことはボクの楽しみでもあった。ところが家族にさえ決して話をしない患者同士だけの情報のあることをボクはある日知ることになった。若菜がいくら嫌がっていても病気の勢いには抗えず、次第にベッド上でのトイレッティングに馴染むようになってきていた。一旦そうなると諦めが先立ち慣れるのはき...[Ⅲ146]我がメメントモリ(13)/個室のはなし

  • [Ⅲ145] 我がメメントモリ(12) / トイレッティング

    この4月23日の帰宅は、結局最後の外泊になってしまった。この外泊から病院に戻ってからは、病状はさらに進行の度を加えていった。腹部はさらに固くなって、スキルス(硬癌)の激しい侵襲を示すようになっていた。若菜の希望で、ボクや好子叔母が母の作ったお惣菜やデザートを持っていくと、とても喜んで食べるのだが、しばしばそれらは激しい嘔吐で、未消化のまま吐き出されてしまうのだった。嘔吐の後の悲しげな若菜の表情は痛ましかった。だが若菜の場合、癌性疼痛の訴えが少なかったことがせめてもの救いだった。この癌は一般的には痛みが強いものであることを知っていたので、ボクは担当の医師に確かめたことがあった。若菜が痛みを我慢し続けているのではないか‥それをボクたちに訴えないようにしているのではないか‥と考えたからである。しかし、医師の答えは明快...[Ⅲ145]我がメメントモリ(12)/ トイレッティング

  • [Ⅲ144] 我がメメントモリ(11) / ワカナ幸せだった!

    夕食後、ボクは敬一と静雄を風呂に入れ、母と好子叔母も風呂に入った。そして敬一と静雄を二階の寝室に寝かしつけた頃に、若菜は目覚めた。「敬一と静雄はもう寝たの?私が一緒にお風呂に入れて一緒に寝てあげようと思ったけれど、この具合じゃ無理ね。かわいそうね、二人とも私のことで小さな心を痛めているのに、何もしてあげられなくて、悔しい。もう、私、疲れてしまって・・、駄目になりそうなの。病気に負けてしまいそう・・。」そんな若菜の言葉に、母と好子叔母は一緒に嗚咽をもらし始めた。ボクも涙をこらえることはしなかった。母が言った。「敬一も静雄も優毅さんも私たちも、皆が若菜のことを思っている。桜子も、どんなにかあなたのそばにいてあげたいと思っているか、わかるでしょ。おじいちゃんと一緒になって、懸命にワカナの病気が治るように祈っているのが...[Ⅲ144]我がメメントモリ(11)/ ワカナ幸せだった!

  • [Ⅲ143] 我がメメントモリ(10) / 私はこの家の主婦

    玄関を入ると、顔をくしゃくしゃにして上気した表情の敬一が飛ぶようにして出迎えた。彼は全身でこの瞬間を待っていたのだ。敬!と言って、玄関で靴をはいたまま若菜はしっかりと敬一を抱きしめた。すぐに好子叔母が静雄を抱いて母と一緒に出てきた。静!お母さんが帰ってきたのよ、と若菜は言い、玄関先に座って静雄を抱きかかえて、しばらく頬ずりをしていた。若菜のこのやわらかな母親の表情も久しぶりのものだった。毎日毎日涙に沈んでいたボクたちの家は、ふたたび光が差し込んだように明るくなった。若菜は部屋を懐かしそうに歩き回った。二階のベランダにもボクが支えて上った。若菜の歩いたあとは、光の粉が振りまかれたように輝いた。『ここは私の家。私の家具。この家の匂い。天井のしみ。あの襖絵。旅行で買ってきた人形たち。子どもたちの沢山のおもちゃも生きて...[Ⅲ143]我がメメントモリ(10)/ 私はこの家の主婦

  • [Ⅲ142] 我がメメントモリ(9) / 懐かしい町・私の家・私の家族

    練馬の家は、それまで住んでいたさいたま市の家が狭くて通勤に不便だったので、敬一が3歳になった頃に転居した。さいたま市の家の売却代金を頭金にして銀行からの借入れで賄うにしても、当時の安月給では限度があったのだが、日曜日毎に敬一を連れて若菜と建売住宅の物件を探し回って見つけた家だった。若菜は、この家の玄関を入ったすぐ左にダイニングキッチンのあるところが気に入ったと言い、ボクはその一言でこの家を買うことにしたのだった。相変わらずの小さな家だったが、東京にしては周囲に自然も緑も多く、すぐ近くには公園もあり、彼女はとても気に入っていた。若菜はそのわが家が近づくと、太い欅の並木道の途中で、車をとめて欲しい、ここから歩きたいの、と言った。この道は、毎日敬一の幼稚園のバスの送り迎えで通っている道だった。そこで車を降りて、ボクは...[Ⅲ142]我がメメントモリ(9)/ 懐かしい町・私の家・私の家族

  • [Ⅲ141] 我がメメントモリ(8) / 最後の外泊 

    ボクの日記によると、若菜は3月に二度、4月には静雄の1歳の誕生日の12日と23日に家に帰ってきている。そしてこの23日の外泊が最後の帰宅になってしまった。担当医のO医師と、若菜が特に信頼していたK医師は、ある日ボクを呼んで言った。・・身体はこれから衰弱していく一方である、外泊を望むならもう最後になるだろうから、今のうちに家に帰ったほうがいい。ボクは外科治療が無理だとわかってから、できるだけ外泊をさせてあげようと考え、二週間に一度くらいを目安に外泊を計画していた。もっと頻繁にさせてあければよかったという悔いは残っている。しかし外泊の際の若菜の疲労は、ボクの予想以上に大きいことが次第にわかってきていた。期待に胸を一杯にしてはいても、往復のタクシーは1時間以上はかかり嘔気で辛そうだったし、ベッドの生活で体力は著しく落...[Ⅲ141]我がメメントモリ(8)/ 最後の外泊 

  • [Ⅲ140] 我がメメントモリ(7) / パニック 

    桜の咲きそろった4月の日曜日のことだった。休みの日には必ず敬一と静雄を連れて、母と叔母とで若菜を訪ねていた。この日もその予定でいたのだが、ボクの兄からその前日に電話があり、母も疲れているだろうから少し休むつもりで車で花見に行かないか、という誘いがあった。ボクは迷ったが、若菜のところには午後遅くなってもいいからと考えて、公園に皆で出かけてしまった。ところがこんなときに限って何か起こるものだ。若菜は何か頼みたいことがあったらしく、ボクらが出かけた後、家に電話を入れたのだった。ところが誰も電話には出ない。携帯電話なぞない時代のことである。・・何度も何度も電話する、コールだけで誰も出ない、ふと敬一か静雄か誰かに何か起こったのではないか、いてもたってもいられない、しかもいつも来るお昼の時間にもやってこない、いったいどうし...[Ⅲ140]我がメメントモリ(7)/ パニック 

  • [Ⅲ139] 我がメメントモリ(6) / 一縷の望みは絶たれた

    その冬の寒さはことさら厳しかったのに、春の訪れは早かった。若菜の病状は日一日と勢いを増していった。内科の医師と外科の医師たちとが毎日のようにカンファレンスを繰り返していた。ボクも時にその場に呼ばれた。真摯なカンファレンスであることはボクにはすぐわかった。時には激論が闘わされていた。しかし結局のところは、癌細胞を完全に取り除くことはできないこと、仮に大きな病巣を摘出したとしても、その後の生命の延長を十分に保証するものではないこと、これが到達した結論であった。そしてその後の不自由を採っても手術に賭けるのか、このままの病状に任せ可能な限りの治療法を選択していくのか、というギリギリの選択のところに来ていたのである。一旦は「手術」が日程に上ったことがあったが、最終的には内科と外科の教授同士の話で取りやめになったのだった。...[Ⅲ139]我がメメントモリ(6)/一縷の望みは絶たれた

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