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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

  • [Ⅷ301] 世の変革者(1) / 鑑三翁の「自由」の原点

    「今の世界はまことに混乱擾雑(じょうざつ)の海である。社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て満たされている。」ウクライナへの暴力的侵略と虐殺を止めないロシアプーチンの血まみれの手、パレスチナの女性や子供への殺戮を止めないイスラエルネタニヤフの非道、安倍政権に始まる裏金蓄財に関与した数多の自民党政治家たちの腐臭‥。上記の一文は斯様な現実を眼前にして今ここに居る私が記したものではない。鑑三翁が1920(大正9)年4月から12月にわたって東京で行った「ヨブ記講演」の一節である(内村鑑三:ヨブ記講演.p.165、岩波文庫、2014)。今から百年以上も前、鑑三翁が59歳の時に記したものだ。誠に天才という人間は時代をも未来をも貫通するような言葉をもって神の預言者の如くに簡明に本質を射貫くことのできる者だとつく...[Ⅷ301]世の変革者(1)/鑑三翁の「自由」の原点

  • [Ⅷ301] 世の変革者(1) / 鑑三翁の「自由」の原点

    「今の世界はまことに混乱擾雑(じょうざつ)の海である。社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て満たされている。」ウクライナへの暴力的侵略と虐殺を止めないロシアプーチンの血まみれの手、パレスチナの女性や子供への殺戮を止めないイスラエルネタニヤフの非道、安倍政権に始まる裏金蓄財に関与した数多の自民党政治家たちの腐臭‥。上記の一文は斯様な現実を眼前にして今ここに居る私が記したものではない。鑑三翁が1920(大正9)年4月から12月にわたって東京で行った「ヨブ記講演」の一節である(内村鑑三:ヨブ記講演.p.165、岩波文庫、2014)。今から百年以上も前、鑑三翁が59歳の時に記したものだ。誠に天才という人間は時代をも未来をも貫通するような言葉をもって神の預言者の如くに簡明に本質を射貫くことのできる者だとつく...[Ⅷ301]世の変革者(1)/鑑三翁の「自由」の原点

  • [Ⅶ300] 老いの意味論(8) / 老いを尊ぶか/嫌悪し嘲笑するか‥

    「われわれのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしよう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」この一文は『聖書』(1963)「詩編」第90篇(モーセの祈り)である。聖書の「詩編」は紀元前530年頃に編集されたという説が一般的である。とすると古のこの時代の人たちは意外と長寿であったことがわかる。70歳健やかでも80歳だから。ところが歴史が進むにつれて、戦争、交易による感染症の伝播、産業化に伴う自然環境の汚染、急激な工業化に伴う労働環境の悪化、食糧事情の変化や富栄養化、等々によって、文明はそれほど人間の寿命を長くしてきたとは言えないのだろう。そして今日、新しい自由主義経済とか称するエセ経済学者が、強欲と富の寡占と傲慢と差別と格差...[Ⅶ300]老いの意味論(8)/老いを尊ぶか/嫌悪し嘲笑するか‥

  • [Ⅶ299] 老いの意味論(7) / 鑑三翁「老い」を記す②

    鑑三翁はその後64歳の時に次のように記す。老年期を「老熟」と捉えている。前項の論稿から10年近くが経過して鑑三翁の考え方もやや深化していると言ってよいか。《老年の祝福》【老いとは老耄ではない。老熟である。そうあらねばならない。老いは長く神に導かれてきた人間の”実験”であると考えればよい。信仰をもつ者はこのような考え方で神に仕え人間にも仕えなければならない。これに勝る幸福はない。したがって老いはできるだけ長い期間でありたいものだ。老年の一年は壮年の十年、青年の二十年に相当する。「命長ければ恥多し」(注:中国の古典「荘子」に「寿ければ辱め多し」〈長生きすれば恥をかくことが多い〉とある)という言葉は、信仰無き者の言い分であり、信仰をもつ者が口にする言葉ではない。「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」(申命...[Ⅶ299]老いの意味論(7)/鑑三翁「老い」を記す②

  • [Ⅶ298] 老いの意味論(6) / 鑑三翁「老い」を記す①

    鑑三翁は69歳で亡くなった(1930〈昭和5〉年)。心臓の疾患だった。この頃の平均寿命は男性でおよそ50歳、女性でおよそ53歳(厚労省資料)。当時は乳児死亡率が高く(出生100件に対し12.4)、感染症の罹患率も高く医療も不十分な時代でもあり、統計の手法も現在とは異なるので単純比較はできないものの、鑑三翁は当時としては長寿であったといえるだろう。しかしこれはあくまで「平均寿命」であって、乳児死亡率の高さなどが平均寿命を引き下げていたこともあり、七十歳八十歳超の老人も数多いたことも確かなことである。鑑三翁は「老人」や「高齢者」といった事柄に関する論稿は少ない。そのうちの論稿の二つを現代語訳した。「老年の歓喜」「老年の祝福」と題する論稿。《老年の歓喜》【若いことを喜び老年を厭うことは普通の人情である。しかしな...[Ⅶ298]老いの意味論(6)/鑑三翁「老い」を記す①

  • [Ⅶ297] 老いの意味論(5) / 3千年前の”老者の慰藉”    

    先に聖書「伝道の書」について触れた。その箇所は「伝道の書(最終章)12:1-8」である。その部分を引く。『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩...[Ⅶ297]老いの意味論(5)/3千年前の”老者の慰藉”    

  • [Ⅶ296] 老いの意味論(4) / 老化の科学(2)  

    (5-4)細胞はエネルギー代謝をして活発に働けば働くほど、必然的に反応性に富んだフリーラジカル(遊離基)という反応基が生じる。これは活性酸素の類である。活性酸素は、タンパク質、核酸,脂質などの体の構成成分に強力に反応し、過酸化物を作り出す。このフリーラジカルの生成は、突然変異、DNAの障害、異常タンパク質の生成など、さまざまな老化現象に関与していると考えられている。先述のテロメアの短縮にも関与しているらしい。また脳神経系細胞のアポトーシスによる死にも関係しているかもしれないとされている。(5-5)胸腺は人間のあらゆる臓器の中で最も老化を鋭敏に映し出す臓器である。胸腺は臓器の構造は生まれる前にすでに完成している。十歳代までは胸腺は重量を増して最大三十五グラム程度に達するが、その後は年齢とともに縮小し、四十歳...[Ⅶ296]老いの意味論(4)/老化の科学(2) 

  • [Ⅶ295] 老いの意味論(3) / 老化の科学(1)  

    ところで人間にはなぜ老化が起こるのだろう。ここで免疫学の権威故多田富雄氏の著書『生命の意味論』(新潮社、1997)をのぞいてみた。以下記述内容は多田富雄氏のこの書籍からの部分的引用と要約で構成した原稿であることをお断りしておく。多田氏のこの書籍の執筆当時と比較すれば、老化に関する生命科学的知見は増大しているのだろうが、少なくとも「老化」に関する決め手となる知見は発見されてはいないと思う。※「老化がなぜおこるのか」に関する生命科学の定説は未だにないといっていい。ただし少なくとも幾つかの仮説がある。以下の五項目だ。(5-1)その一つが「老化のプログラム」説。老化はゲノムの中に遺伝的にプログラムされているはずだ。時間とともにそのプログラムが発現してゆくことで全ての細胞は老いて、個体は遺伝的にセットされた寿命内で...[Ⅶ295]老いの意味論(3)/老化の科学(1) 

  • [Ⅶ294] 老いの意味論(2) / 老いは哀しや‥

    駅や歩道橋の階段が恐ろしい。かつては一段おきにも登っていた駅の階段がアルプスの山のように思われ一段登るごとに息をつくようになった。でもまだ登りの階段はいい。下りの階段は手すりにすがりながら一段一段恐る恐る下る。一段踏み外したら奈落の地獄に転げ落ちることになることを知っている。数日前のこと。午後には日課となった周辺を散歩していた(妻はこれを徘徊と言っている)。私の数十メートル前を白い上下の運動着を身に着けた年配らしい男が歩いていた。歩きの歩幅は私の方がやや広いので、彼に追いつきそうになった。彼は街路樹の木陰の先を歩いていたのだが、突然視界から消えた。はてどこへ消えたのか‥と思っていたら彼は一段低くなった歩道の窪みにうつ伏せのまま倒れていた。彼が起きようともしないので異変を感じて声をかけた。返事もない。そこで...[Ⅶ294]老いの意味論(2)/老いは哀しや‥

  • [Ⅶ293] 老いの意味論(1) / 伸びたゴムが元に戻らない‥

    鑑三翁は1930(昭和5)年3月にこの世での仕事を終え帰天している。69歳。当時としては長寿である。私はその年齢をとっくに越したが、最近心身に「老化」の兆候が迫ってきてかなわない。目にも歯にもあそこにもどこにも不具合が来ている。ふと私を襲っている老化の兆候は鑑三翁も経験したのだろうかと思う時がある。鑑三翁は心臓の病を持っていたから、その不快な身体症状は耐え難かったのではないかとも推測できる。それらの日々については鑑三翁の日記に記されているが、それは病気の症状に関してのものであり「老い」の実感を殊更記しているのではない。しかし神から遣わされた天才預言者にも老いは確実に到来していたはずである。鑑三翁の「老い」に関する論稿は少ないが、これに関しては後日触れることにする。※妻と朝の軽食をとり寝室兼書斎でラジオ体操...[Ⅶ293]老いの意味論(1)/伸びたゴムが元に戻らない‥

  • [Ⅵ292] 安楽死/考 (15) / あなたは安楽死を望んだか‥

    私自身の体験である。ある日突然妻の若菜がスキルスの診断を受けた。若菜はおよそ4か月の闘病の末に5歳と1歳になったばかりの二人の子どもと私を残して天国に帰った。この間私は若菜には病名を告げなかった。彼女との闘病の日々のことは既に書いた《連載[Ⅲ134-184]我がメメントモリ(1)-(51)》。私は若菜の苦悶を見ているのが耐えがたかった。しかし彼女には苦悶の時間が過ぎると平安の時間が訪れることがあった。この平安の時間の中で私は若菜とあらゆることを話した。病室のソファーで寝ている私の指と若菜の指とを緑の毛糸で結んでおいて、目覚めて尿意を感じたときなどは若菜がこれを引っ張って私を起こした。私は彼女の排泄のケアをして後便器を病棟の廊下の端にある洗浄機で洗浄して病室に戻る。すると束の間静かな時間が流れ二人で話し込ん...[Ⅵ292]安楽死/考(15)/あなたは安楽死を望んだか‥

  • [Ⅵ291] 安楽死/考 (14) / 「安楽死」を弄ぶ者たち

    一人のALSの患者さんが主治医でもない二人の医師に”安楽死”を依頼して実行し亡くなった。2019年11月のことである。この患者さんはSNSで一人の医師Aと出遭い、この医師につながるもう一人の医師Bとタッグを組んで”安楽死”が実行された。二人の医師はその後逮捕・起訴され審理が続いてきたが、24年3月5日京都地裁でAには懲役18年の判決が出された。共謀に問われたB被告はこう話しているという(AERAdot.240307)。「Aは寝たきりの人や高齢者は医療費をむさぼり不要だと言い口癖のように”片づける”と言っていた」と。何とAは元厚労省医官である。Aの生命観には言葉を喪うしかない。この事案を主導した医師Aがかつてツイッターの投票機能を使って「安楽死」の”対価”を公募したところ、”三千件の応募”があり具体的には「...[Ⅵ291]安楽死/考(14)/「安楽死」を弄ぶ者たち

  • [Ⅵ290] 安楽死/考 (13) / すぐ手の届く所にある死の選択肢

    宗教思想家で音楽家の竹下節子さん(フランス在住)のブログを私はいつも読んでいる。ある日の投稿が目に止まった(230623)。ベルギーでの安楽死の事例だ。その一部を紹介させていただく。『「自殺幇助の先進国」のベルギーの例で、3人の子供を持つ49歳の男性が、事故で手足の機能をすべて失ったことを知った後、48時間後には「自殺」幇助を受けたというのがあるそうだ。はやい。素人目にもはやすぎる。もちろん今まで健康だった人が意識不明状態から目覚めて突然、両手両足を失くしたのと同じ状態を知って、これでは生きている意味もないし家族のためにもならないなどと考えることは、想像はできる。でも、同じ状態でもいろいろな過程を経て、新しい生き方や命の意味を自分も見つけて、周りの人にも伝えていく人の例も事欠かない。試練や希望について、体...[Ⅵ290]安楽死/考(13)/すぐ手の届く所にある死の選択肢

  • [Ⅵ289] 安楽死/考 (12) / 尊厳ある死を‥

    手許に新聞記事の切り抜きがある。音楽家の坂本龍一さんが2023年3月28日に亡くなったが、彼が亡くなる日までの日録等を編集して刊行される書籍の紹介記事だ(東京新聞230619)。坂本さんのある日の病床日記が紹介されている。《かつては、人が生まれると周りの人は笑い、人が死ぬと周りの人は泣いたものだ。未来にはますます命と存在が軽んじられるだろう。命はますます操作の対象となろう。そんな世界を見ずに死ぬのは幸せなことだ》(二〇二一年五月十二日)そして亡くなる数日前(二十五日)には自ら緩和ケアに移ることを決めた。そして医師には握手をして礼を述べ、《もうここまでにしていただきたいので、お願いします》と語ったと記されている。この記事で坂本さんが記し話した事柄は示唆的だ。日記では坂本さんは人間の生死の未来をこのように考え...[Ⅵ289]安楽死/考(12)/尊厳ある死を‥

  • [Ⅵ288] 安楽死/考 (11) / メルケルさんは法制化に慎重

    今まで「安楽死」については、森鴎外の『高瀬舟』論、鑑三翁の「安楽死」論、鑑三翁のターミナルステージの有り様について記し、そして「安楽死」法の論点整理をしてみた。私は何も法律の専門家でもないし、ここで大層な論文を執筆する意図などもない。ドイツの首相(在任2005-21)として活躍したアンゲラ・メルケル氏注)は熱心なキリスト者(ルター派プロテスタント)として知られている。国内政治/国際政治の場で、長きにわたりそのキリスト教的信念を保持しながら、妥協と力関係の支配する政治世界で活躍したことは我々も記憶に新しい。ここではメルケル氏の連邦議会での「安楽死」に関する発言を取り上げてみた。政治世界は言論格闘技の場でもあることもよくわかる。注):AngelaDorotheaMerkel、1954年ハンブルグ生まれ、生後間...[Ⅵ288]安楽死/考(11)/メルケルさんは法制化に慎重

  • [Ⅵ287] 安楽死/考 (10) / 法の論点整理  

    以上鑑三翁の論稿等を引き合いにして「安楽死」論を述べてきた。ここで私は法的な側面からの論点を整理する必要を痛感している。欧米諸国では近年急速に「安楽死」関連の法制化が行われるようになってきた。法律の名称や内容は、その国の宗教的/文化的な背景を踏まえていて様々のようだ。だが法制化した国々では、法律制定に至るまでには、専門家のみならず一般市民が参画して公開された議論が尽され、法制化後も慎重な運用が行われているのが一般的である。法制化へのプロセスでは浅薄な感情論や愚劣な政治的企図は排除されてきた印象も強い。ここで先述の『いのちの法と倫理[新版]』(葛生ら、法律文化社、2023)から論点を整理してみた。1.「任意的安楽死」とは法的に患者らを保護するためには患者らの同意がまず必要になる。本人の意思表示を前提として「...[Ⅵ287]安楽死/考(10)/法の論点整理 

  • [Ⅵ286] 安楽死/考 (9) / 鑑三翁は安らかな死を懇願した

    鑑三翁が天に召されるまでの最後の日々の様子は、鑑三翁が深く信頼していた主治医の藤本武平二の日録に記録されている。私の連載(Ⅱ126:さらば、鑑三翁(6)/藤本武平二氏)にも掲載した。その中でこのような場面がある。鑑三翁が亡くなる前日の藤本氏の記録である。これを再掲した。藤本氏は敬愛するキリスト者内村鑑三翁とのやりとりを、日々忘れないように克明に記録していた。※〇3月27日ご容態はよくありません。食欲は振るわず、浮腫が全身に及びました。午後8時半から私一人で枕頭にいました。次の間には高橋菊江姉(注:看護師)が控えていました。10時注射の時間となりましたが、先生は言われました。「じーっと堪えていたら悪魔が二度ほど通り過ぎた。無抵抗主義で勝った。注射なしでやってみよう。」「なかなか戦いがえらい(注:「大変だ」の...[Ⅵ286]安楽死/考(9)/鑑三翁は安らかな死を懇願した

  • [Ⅵ285] 安楽死/考 (8) / 死の「時」

    鑑三翁は人間の生命は神の造られた「像」なので尊ばなければならないとした。ではその人間が死を迎える時/神の腕に抱かれて天に召される「時」は何時なのか。鑑三翁はこれについては次のように記している(全集20、p.270)【「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり」(伝道の書3:1-2)と言う。そうであれば信仰をもつ者(原文「信者」)の死すべき時とはいかなる時であるか。信仰をもつ者はいたずらな長寿を保つべきではない。死は彼にとっては神の呪い(原文「呪詛」)ではない。彼には死すべき時がある。その時が来れば彼は感謝して死すべきである。信仰をもつ者は神の僕(しもべ)である。主人から特殊な要務(注:重要な用務のこと)を委ねられた者である。したがって彼はこの要務を果た...[Ⅵ285]安楽死/考(8)/死の「時」

  • [Ⅵ284] 安楽死/考 (7) / 人はみな神の宮殿  

    私が鑑三翁のこの一文で注目するのは「知的障がい者教育の必要性は経済的な打算で説明できるものではない、なぜならば彼らは神の子だからだ」という一点である。そして鑑三翁は続けて以下のように記す。【「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。」(コリント人への第一の手紙8:11)これが全ての弱き人、全ての苦しむ者、全ての貧しい者を救おうとする最高で最も深い動機である。路頭に迷う家のない子ども、警官に追い立てられる乞食(こつじき)の者、経済的には社会に何の価値も見出せない知的障がいの者、歩行障がいの者、目の見えない者、耳の聴こえない者、話せない者、四肢欠損の者、これらの者は皆「キリストが代わって死なれる弱い者たち」である。しかるがゆえに貴いのである。彼らでさえもし神の御心(原文「聖旨)にかなえば信仰によっ...[Ⅵ284]安楽死/考(7)/人はみな神の宮殿 

  • [Ⅵ283] 安楽死/考 (6) / 人間には神の性質が備わる  

    さて本題に戻る。鑑三翁の「必ず全治することが可能とみなし」の表現だが、「みなし」とは「実際にはそうでないものを,そうだと思って見る」ことを言うのだから、治癒困難/治癒不能の病気であることをほとんどの場合「告知」しなかった鑑三翁の時代ゆえの表現と言う事ができる。つまり医師は実際には治癒しないと診断し確信しているが、それをそのまま患者に言ってはならない、私(医師)は治癒することが可能だと思っていますよ、と伝えることで、医師も治療看護を(放棄せず)継続すべきである、と言っている。鑑三翁はそれが人間の生命の貴重さと尊さを尊重する人間の態度であると言うのだ。今の時代の通念から言えば、それは虚偽ではないのか、誠実な姿勢ではない、事実は事実としてそのまま言うべきだ‥ということになるのかもしれない。しかし考えてみれば数十...[Ⅵ283]安楽死/考(6)/人間には神の性質が備わる 

  • [Ⅵ282] 安楽死/考 (5) / その前に「告知」の周辺

    ここで「死ぬとわかっている病気」とは、医師の科学的な診断と判断に基づくもので(鑑三翁の時代にも私の生きている今の時代でも)、あらゆる治療手段を駆使しても治癒の可能性がない病気を指している。ここでの主役は診療を行う医師である。次に「必ず全治することが可能とみなして」とは、医師が患者本人及び家族に向けたメッセージである。ここでの主役は三者即ち医師・患者/家族である。医師は彼の知識(文献、知識と経験、複数の医師によるカンファレンス)によって治療の方法はなく治癒困難であると診断した。さてここで最初に問題となるのは、診療現場での病名の「告知」である。近年でこそ患者本人に病名告知することが一般的となっているが、これをそのまま「ロボット告知機械」のように(訴訟や面倒を恐れて、あるいはがん保険のこともある)そのまま患者に...[Ⅵ282]安楽死/考(5)/その前に「告知」の周辺

  • [Ⅵ281] 安楽死/考 (4) / 鑑三翁「安楽死」論‥試論   

    さて鑑三翁である。この森鴎外の小説等に関して鑑三翁が評論を加えた記録はないのだが、普段から購読していた雑誌の事なので鑑三翁がこれを読まなかったとは考えにくい。むしろしっかりと読み込んだことだろう。その時鑑三翁の胸に去来したものはどのような思いだっただろうか。鑑三翁のキリスト教信仰は深く厳しく柔和で慈愛に富むものである。鑑三翁のこのキリスト教的信仰の堅い岩盤から「安楽死」を考えたとき、どのような論稿を執筆しただろうか‥この事に私は強い関心を抱いている。鑑三翁のキリスト教信仰では、生と死は神の手に委ねられているので、死の瞬間も神の腕(かいな)が神の国に自分を誘ってくれるのだから、死の瞬間を「人」の手に委ねることはできない‥しかし森鴎外『高瀬舟』の場合には、死の瞬間を委ねたのは心を通い合わせてきた信頼する兄だ、...[Ⅵ281]安楽死/考(4)/鑑三翁「安楽死」論‥試論  

  • [Ⅵ280] 安楽死/考 (3) / 懇願‥らくに死なせてくれ

    鴎外がこの書で指摘している主題は「経済的な貧困」と「安楽死」である。貧しくとも懸命に兄弟が支え合って生きてきた。その愛する弟は重篤な病気になる。弟は考えた、この病気は苦しいばかりで恐らく治癒の可能性もないのだろう、その上経済的にも兄に大きな負担をかけている、と。その苦悶の末に弟は自殺を決行する。未だ死を果たせないまま苦しんでいる目の前の愛する弟は、彼に死を懇願している、その時兄の動揺困惑は止まり弟の苦しみを解放してあげようと考えてカミソリを抜いた。弟を死に至らしめた行為によって罪を負わされて島送りになる際に、役人から手渡されたのは生涯もったこともない大金。鴎外は医師として軍医として、軍属や一般人の病者の多くの死に立ち会ってきた。その中で自然死のように老衰や穏やかな心不全などで亡くなる患者は幸せである。しか...[Ⅵ280]安楽死/考(3)/懇願‥らくに死なせてくれ

  • [Ⅵ279] 安楽死/考 (2) / 鴎外の問題提起

    鑑三翁の「安楽死」観に立ち入る前に、森鴎外の『高瀬舟』について考えてみる。この小説は教科書にも掲載されてきた”問題作”であり、数多の人たちがこの作品が扱う「安楽死」の問題について論じている。映画化もされた(松山善三脚本、1988)。ここでは私なりの論を起こしてみる。小説『高瀬舟』のあらましである。《徳川時代には遠島を命ぜられた京都の罪人は高瀬舟で大阪へ護送されたものである。この話は彼らを護送する京都町奉行所の同心の話の一つである。‥‥兄弟殺しを犯した男が少しも悲しそうにしていなかったので、その理由を尋ねると、彼は遠島を言い渡された時にもらった銅銭二百文が持ったこともない大金であったと話した。そして子供の頃に両親を亡くした兄弟は二人で力を合わせて生きてきたが、弟は病気になり、兄は懸命に働いて弟の看病をしてき...[Ⅵ279]安楽死/考(2)/鴎外の問題提起

  • [Ⅵ278] 安楽死/考 (1) / 「安楽死」とはなにか

    私は「安楽死」の問題を積み残しにしていた。この連載では《Ⅳ236「日本人は浅い民である」(230503)》として問題を提起したままだった。「安楽死」の問題はとても深遠な問題を抱えていてとても難しい。私はこれに関して記すのをためらっていたが意を決して書くことにした。「安楽死」とはなにか。《「安楽死」を示す英語のeuthanasiaは、ギリシャ語のeu(良い・気高い)とthanatos(死)からできていて、「良き死」(gooddeath)という言語的意味をもっていた。しかし現在では一般に、それとは逆の状態、すなわち「苦痛に満ちた侮辱的な状態から解放されるための死」、「安楽になるための死」という意味で用いられる》(葛生栄二郎、河見誠、伊佐智子:いのちの法と倫理[新版].p.179、法律文化社、2023)。まず鑑...[Ⅵ278]安楽死/考(1)/「安楽死」とはなにか

  • [Ⅴ277] 泣きべそ聖書(37) / イエスの母の涙

    ◎さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリアとが、たたずんでいた。イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母に云われた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて...[Ⅴ277]泣きべそ聖書(37)/イエスの母の涙

  • [Ⅴ276] 泣きべそ聖書(36) / 人こひ初めしはじめ 涙 (3)

    若菜が歩行も難しくなり個室に入ると、ボクは仕事を終えると病院に帰り、ベッドの脇のソファで毎晩若菜の傍で一緒に寝た。若菜は部屋のトイレに歩いて行くこともままならなくなってきたので、それを知らせるために若菜とボクは緑色の毛糸をお互いの手の指に結んでから寝ることにした。ある夜のこと、若菜が毛糸を引いてボクを起こした。ボクはベッド上で若菜の下の世話をした。ボクはいつものように、この病棟の長い廊下の果てにあるトイレに行き、洗浄器で便器を洗って部屋に戻った。そのとき、なぜかこの部屋が妙に明るく感じた。若菜が笑顔でボクを迎えた。「どうしたの?何がおかしいの?」「だって思い出していたんだもの。ユウキ!」「なんだい、いきなり、何を思い出していたの?」「いつか、ずーっと前、まだ二人だけだったとき、ユウキがこんなこといつも言っ...[Ⅴ276]泣きべそ聖書(36)/人こひ初めしはじめ 涙(3)

  • [Ⅴ275] 泣きべそ聖書(35) / 人こひ初めしはじめ 涙 (2)    

    若菜とボクが初めて会ったのは、出版社の入社が決まって初めての顔合わせの日だった。その日はボクの母が乳癌の手術後、転移性肺癌を発症して入退院を繰り返した後亡くなり、葬儀の行われた翌々日のことだった。この日は新卒者が始めて会社に呼ばれた日だったが、母親の死は、当日の朝初めての出社を躊躇させるほど大きな事件だった。しかしボクはそんな思いを振り切って出社した。ふくよかで静かで愛くるしい若菜は、この日薄茶色の上下のスーツを着て会社の応接室で静かに座っていた。ボクたち男子社員は若干名の募集のところ多くの応募者から選抜されたのだったが、女性が一人いることに驚いたものだ。若菜は会社の役員の縁故で無試験で入社をしたことがあとでわかった。その3年後ボクたちは結婚した。伊良湖岬に出かけたのは結婚した年の秋だった。そしてそれから...[Ⅴ275]泣きべそ聖書(35)/人こひ初めしはじめ 涙(2)   

  • [Ⅴ274] 泣きべそ聖書(34) / 人こひ初めしはじめ 涙 (1)

    ◎イエスは涙を流された。(ヨハネによる福音書11:35)エルサレムの東オリーブ山南東ベタニヤの町にイエスの友人マルタとマリヤ、ラザロが住んでいた。イエスはラザロの家族と親しく、しばしば訪問していた。このマリアは自分の涙でイエスの足を濡らし自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して香油を塗った者で、イエスはこのマリアに「あなたの罪は許された。安心して行きなさい」と言われたことがある。イエスはラザロを愛していたが、ある時ラザロが病気になったので、姉妹は人をやってイエスにそのことを伝えた。しかイエスが到着する前にラザロは亡くなった。マリアはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、ラザロは死ななかったでしょう」と言った。イエスは彼女が泣き、彼女と一緒の者たちが泣いているのを見て、激しく...[Ⅴ274]泣きべそ聖書(34)/人こひ初めしはじめ 涙(1)

  • [Ⅴ273] 泣きべそ聖書(33) / ピアノトリビュートに涙‥母よ(2)  

    母は山形市の母子寮の寮長を最後に保健師としての仕事を終えて引退した。しばらくして父が亡くなり、その後は独居生活を続けていた。母が一人暮らしとなってからも、私と妻と二人の息子たちは今まで通りお正月と春休み、夏休みなどに母を訪ねた。母はいつも楽しげに台所に立ち、「芋煮」「もってのほか(菊)」「鯨汁」「アケビ煮」「山ひじき」などのご馳走を振舞ってくれた。息子たちも母の山形料理を気に入っていた。母とは東京で一緒に生活することも考えていたが、妻にははっきりと「東京暮らしは絶対に嫌だ」と話していた。東京での同居生活はあきらめざるを得なかった。母が90歳の誕生日を迎える頃に検診で肺がんがみつかり、幸い放射線治療が奏功して肺の固型がんは安定化した。しかしこの頃から母は心身の不調を訴えることが多くなり、隣町に住む母の妹も時...[Ⅴ273]泣きべそ聖書(33)/ピアノトリビュートに涙‥母よ(2) 

  • [Ⅴ272] 泣きべそ聖書(32) / ピアノトリビュートの涙‥母よ(1)

    ◎泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。(ルカによる福音書7:38)イエスは招かれてパリサイ人の家で食事をすることになった。するとそのとき、その町で罪の女と言われていた者が、イエスの事を聞いて、高価な香油が入った壺を持ってきて上記のように「まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」のである。これを見てイエスの第一番の弟子シモン・ペテロは不快に思った。なぜならばこの女は「醜業婦」と言われている不浄な罪の深い人間だ、なのにイエスはそのような女の為すがままにさせている、ここはこの女を咎めて追い出さなければならない、と。するとその心中を察したイエスはペテロに向かって次の...[Ⅴ272]泣きべそ聖書(32)/ピアノトリビュートの涙‥母よ(1)

  • [Ⅴ271] 泣きべそ聖書(31) / 涙は泣く人だけが理解する言葉

    ◎あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。(詩篇116:8)「ルカによる福音書24:44」にはキリスト・イエスの言葉として「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」と記録されているほど「詩篇」は重要な書である。「詩篇」はダビデの手になるもののほかにダビデ以前から彼の死後に至るまでの数百年の間の人間の信仰経験あるいは宗教体験を詩的表現として手を加えて詩人が編纂したものだ。原始キリスト教会では、キリスト・イエスの全体像を「詩篇」の中に見ていた。新約聖書中には「詩篇」を参照し引用した箇所が400以上にのぼる。詩篇は正典としての聖書66巻中でも極めて重要な位置を占めており、キリスト教信者の信仰と生活の規範ともされてい...[Ⅴ271]泣きべそ聖書(31)/涙は泣く人だけが理解する言葉

  • [Ⅴ270] 泣きべそ聖書(30) / さらば友よ愛する者たちよ!

    ◎イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。(列王紀下:20:4-6)南王国ユダの王ヒゼキヤはその敬虔のゆえに際立っており、また古い伝統と教えを愛した。ヒゼキヤは反アッシリアの立場を貫いた。アッシリアのユダ侵入の直前にヒゼキヤは重い病気になった。ヒゼキヤは預言者イザヤに預言を乞うた。イザヤは主は日影を十度進むか十度退くかの...[Ⅴ270]泣きべそ聖書(30)/さらば友よ愛する者たちよ!

  • [Ⅴ269] 泣きべそ聖書(29) / なみだの中になむあみだ佛(5)

    鑑三翁には心を通わせお互いに信頼関係を保ってきた仏教家たちがいた。数は少ない。彼らはキリスト教の数多の教会の牧師たちよりも、欧米から日本に派遣されていた数多の宣教師たちよりも、はるかに精神性や宗教的心性において優れている者も多かったと述懐している。そして宗教的心性の堅固さと精神性の高さにおいて、歴史的な仏教家を高く評価している。次の鑑三翁の一文などもその一つであろう。【疎石禅師の言に曰く「我身を忘れて衆生を利益する心を起せば、大悲内に薫し、仏心と冥合す、故に一身の為めとて修せずと雖も、無辺の善根自(おのずか)ら円満す、みづからの為めとて仏道を求めざれども、仏道速かに成就す」と、以て直に之を基督教に適用するを得べし。】(全集20、p.67)即ち夢窓疎石(注:1275-1351、鎌倉時代末から室町時代初期にか...[Ⅴ269]泣きべそ聖書(29)/なみだの中になむあみだ佛(5)

  • [Ⅴ268] 泣きべそ聖書(28) / なみだの中になむあみだ佛(4)

    柳は心に浮かんだ上人のとある一日を次のように”活写”している(p.56)。柳が上人の傍らに居り記録したかのようだ。故郷甲州丸畑村に一時立ち寄った時の”記録”である。【松材を以て小さな草庵を上人のために造ったのは、丸畑向(むかわ)にある本家、即ち彼の兄の家の裏手であったようである。今日は残っておらぬ。愈々この大業に着手したのは寛政十三(1801・84歳)年三月六日のことであった。遂に成就したのがその年の十一月晦日であるから、要した月日は九ヶ月弱である。この間に彼は八十八個の仏を刻んだ。平均すれば三日に一個の割合である。或ものは実に僅か一日の中に作られている。丈凡そ二尺二三寸の仏軀を彼はどうしてかくも迅速に作り得たか。彼は既に年老いて八十四歳である。然るに彼の努力彼の精力は驚くべきものであった。昼となく夜とな...[Ⅴ268]泣きべそ聖書(28)/なみだの中になむあみだ佛(4)

  • [Ⅴ267] 泣きべそ聖書(27) / なみだの中になむあみだ佛(3)

    【彼の大願の一つは千体仏の彫像であって、廻国の途次有縁の各地にその作を遺し又堂宇を建てた。齢九十を越え遂に満願となり、更に二千体の念願へと進んだ。彼の故郷甲州はもとより、北海道、信越、東海、近畿、山陰、山陽、四国、九州、何処にも彼の刀跡が遺る。今丹波に見出される十六羅漢を始め、釈迦、阿難、迦葉の三聖等、皆千体仏中の一部である。彼の留錫した個所で彼の仏像を有たない所とてはない。彼の長生きと彼の精勤とは、真に夥しい数を産んだ。どんな彫刻家も彼程多作ではあり得ないであろう。巡錫の途次彼は至る所で「加持を修し、衆生の病苦を救」うた。奇蹟の数々が行われたことは口碑や記録のあかしする所である。「遠くより風に趨(はし)る者或は三百或は五百‥‥當村往古より以来(このかた)、是の如き盛事未だ嘗(かつ)て傳へ聞かず」と仏海は...[Ⅴ267]泣きべそ聖書(27)/なみだの中になむあみだ佛(3)

  • [Ⅴ266] 泣きべそ聖書(26) / なみだの中になむあみだ佛(2)   

    「縁起」とは仏教用語で”他との関係が縁となって生起する”ことを意味する。柳が木喰上人の木仏との「縁起」はこのようなものだ‥‥柳は朝鮮の陶磁器を見るために甲州の旅に出かけた、ある日焼き物を拝見するために知人を訪ねる、焼き物を見るために二躰の仏像の前を通り過ぎた、この仏像は暗い庫の前に置かれてあった、その時彼の視線はこの仏像に触れ即座に心を奪われた、それは地蔵菩薩と無量寿如来、「その口許に漂う微笑は私を限りなく引きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻み得ないー私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした。」(前掲書、p.16)大正12(1923)年1月のことだった。柳は知人からこの内の一躰を贈られ、その日から柳はその仏と一緒に暮らすことになる。知人を通したやりとりの中で、この木...[Ⅴ266]泣きべそ聖書(26)/なみだの中になむあみだ佛(2)  

  • [Ⅴ265] 泣きべそ聖書(25) / なみだの中になむあみだ佛(1)

    ◎涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(詩篇125:5-6)ダビデの「都もうでの歌」の一節。ダビデはユダ族でベツレヘムに住むエッサイの子で羊飼いだった。ダビデは血色が良く目が美しく体格も良く、琴が上手で戦士であり勇士だった。初代イスラエル王国の王サウルはダビデを重用した。ある時イスラエルを侵略しようとしていたペリシテの巨人ゴリアテを石投げの一発で倒し、サウル軍の最高位の位階を得た。ところがサウル王は次第に評価の高まるダビデをねたむようになり、ダビデが王位を奪うのではないかと心配し始めた。ダビデはサウル軍に追われ一旦は荒野に逃げ放浪したが、サウル王の子ヨナタンはダビデを愛し彼を助けた。ダビデのもとには次第に兵士が集ま...[Ⅴ265]泣きべそ聖書(25)/なみだの中になむあみだ佛(1)

  • [Ⅴ264] 泣きべそ聖書(24) / 私の中のあなたへの涙

    ◎わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。(テモテヘの第二の手紙1:4)テモテは20歳頃からパウロの伝道旅行に同行し伝道に当たった。パウロが宣教の場を去った後にもその場に居残り宣教を続けたり、パウロの代理または使者としてマケドニアやその他各地に派遣され、重要な任務と役割を果たした人物である。またパウロの手紙のうち6つにおいてテモテは共同執筆者として名前が記されている。パウロからテモテに出された手紙には、彼がパウロの代理として小アジアの教会で責任ある働きをしていることに謝意が表されている。テモテは若かったのでそれを意識させながら成長するよう促している。パウロの殉教後もテモテは忠実に使命を果たし続け、エペソ教会の初代監督として選ばれた。ドミティアヌス帝の迫害で殉...[Ⅴ264]泣きべそ聖書(24)/私の中のあなたへの涙

  • [Ⅴ263] 泣きべそ聖書(23) / 認知症の妻がひとり流す涙

    ◎これは夜もすがらいたく泣き悲しみ、そのほおには涙が流れている。そのすべての愛する者のうちには、これを慰める者はひとりもなく、そのすべての友はこれにそむいて、その敵となった。(哀歌1:2)預言者エレミヤの嘆きはとまらない。かつての華やかな時を思い起こす。「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで坐し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった。」(哀歌1:1)エレミヤの書記はユダの捕囚は70年にわたると言うエレミヤの預言を記した。エレミヤは民から迫害され受け入れられないなかで、エルサレムの滅亡を神の言葉として語り続けた。だがエレミヤも一人の人間だ。預言者の職にあってなおユダの民の人間としての苦しみと悲しみに対する深...[Ⅴ263]泣きべそ聖書(23)/認知症の妻がひとり流す涙

  • [Ⅴ262] 泣きべそ聖書(22) /  彼女はそこにいる! そこに!   

    ◎このために、わたしは泣き悲しみ、わたしの目は涙であふれる。わたしを慰める者、わたしを勇気づける者がわたしから遠く離れたからである。(哀歌1:16)聖都エルサレムは神の都であったのに、イスラエルの民の不誠実と背信のために神の裁きによりバビロンのネブカドネザルによって破壊されてしまった。そして南王国ユダは滅亡し、その民は娘たちも子どもたちも捕囚としてバビロンに引かれて行った。これを嘆き預言者エレミヤは坐して泣き「哀歌」を編纂した。「哀歌」には涙の詩に満ちている。神はエレミヤの知る勇士たちを無視し、聖会でエレミヤを責め、若い者たちを打ち滅ぼし、酒舟を踏むようにユダの娘たちを踏みつけた。バビロンの者たちはイスラエルの財宝をことごとく奪い、異邦人が入る事を許されていない公会の聖所に侵入して勝手に振舞った。イスラエ...[Ⅴ262]泣きべそ聖書(22)/ 彼女はそこにいる!そこに!   

  • [Ⅴ261] 泣きべそ聖書(21) / とらねこの初めての涙  

    ◎御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。(ヨハネの黙示録7:17)黙示録の著者ヨハネは、世界の終わりの時の幻視を見た。「神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」(1:1)終わりの時は近づいている。その時に起こる事をヨハネは記した。「見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に」立った。神は言う‥彼らは大きな患難を通ってきた人たちで、その衣を小羊の血で洗い白くしたのだ、と。彼らはもはや飢えることもなく渇くこ...[Ⅴ261]泣きべそ聖書(21)/とらねこの初めての涙 

  • [Ⅴ260] 泣きべそ聖書(20) / 落涙のゆくえ‥  

    ◎人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。(エゼキエル書24:16)ユダヤ人の捕囚としてバビロンに連行されたエゼキエルは、バビロンで預言者として召された。多くの捕囚の者たちはエゼキエルのもとに集まり、神への信仰を捨てないようにエルサレムに帰還する希望を持つように、聖書中心の信仰生活の指導を受けていた。そんなさ中に神はエゼキエルの妻を天に召したのである。上記はその事を告げた神の言葉である。神の言葉はこう続いた(24章17節以後)。『「声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じ...[Ⅴ260]泣きべそ聖書(20)/落涙のゆくえ‥ 

  • [Ⅴ259] 泣きべそ聖書(19) / 梅花よ神よ、人間の愚を赦し給え

    ◎わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。(ピリピ人への手紙3:18)パウロは今は獄につながれている。熱心に布教したピリピの町は無事だろうか。パウロは第二次伝道の折にピリピに立ち寄った。この町はローマ人が多く住んでいてユダヤの民は少なかった。会堂はなかったのでパウロは安息日になると町の門を出て川岸に行き、そこで集まった女たちにキリストの話をした。ピリピの人たちは家族的で多くの女性たちによって福音活動が支えられていた。しかし一方ピリピでは、偽指導者たちがキリストへの信仰よりも知識/認識に重きを置いた教義を唱え、福音の本質から外れた教えを強調していた。それは十字架の福音に反するものだ。パウロは愛する...[Ⅴ259]泣きべそ聖書(19)/梅花よ神よ、人間の愚を赦し給え

  • [Ⅴ258] 泣きべそ聖書(18) / 爆死の子を埋む

    ◎わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに息も絶えようとしているからである。(哀歌、2:11)旧約聖書「哀歌」は文字通り人間の哀しみを歌っている。「哀歌」の元の名称はヘブル語で「エーカー」で、これは「どうしてなのか」という問いかけだ。著者は諸説あるらしいが”涙の預言者”エレミヤとされている。聖都エルサレムはダビデによって神の都として定められ、ソロモン王によって神殿が完成し聖都として栄えてきた。しかしユダの民の不誠実と背信のゆえに神の裁きを受け、エレミヤの預言どおりにバビロンのネブカデネザル王によってBC605年に第一回の捕囚が始まり、586年にはエルサレムが破壊された。「哀歌」は、南王国ユダが滅亡しその民が捕囚と...[Ⅴ258]泣きべそ聖書(18)/爆死の子を埋む

  • [Ⅴ257] 泣きべそ聖書(17) / 21世紀の今も捕囚の涙は流れる‥

    ◎われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。(詩篇137:1)旧約聖書「エゼキエル書」によれば、ユダの民の捕囚民の大部分はバビロニアのケバル川沿いに移住させられた。バビロン帝国のネブカドネザル王が荒廃した都を立て直すために労働力が足りず、ユダの民の捕囚は恰好の労働力だった。その労働は過酷で、捕囚となったユダの民は殺された多くの同胞や拉致された娘たちの事を思い起こし、労働の過酷さとあいまって、砂漠の向こうの二千キロ離れた故郷エルサレムを思い日々涙を流していた。シオンはイスラエルの象徴である。「われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。われらは外...[Ⅴ257]泣きべそ聖書(17)/21世紀の今も捕囚の涙は流れる‥

  • [Ⅴ256] 泣きべそ聖書(16) / エステルの涙‥

    ◎エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。(旧約聖書エステル記8:3)バビロンの捕囚から帰国したユダヤ人モルデカイは孤児となったエステルを養女として育てた。彼女はその美しさゆえペルシャ王クセルクセスの后に選ばれる。一方悪徳の奸臣ハマンはモルデカイに怨念を持っておりユダヤ人を皆殺しにする奸計をめぐらせていた。これを密告によって知ったエステルは、ユダヤ人を救うべく王に対して決死の嘆願行動に出て真実を伝えた。その思慮深い行動によってユダヤ人は救われ逆にハマンは死刑に処せられた。※戦争の理不尽は国家同士の利益収奪から始まる。市民同士の戦いは仮にあっても妥協が適時適正に行われ短期間で終了する。なぜならば相互...[Ⅴ256]泣きべそ聖書(16)/エステルの涙‥

  • [Ⅴ255] 泣きべそ聖書(15) / しえたげられる者の涙(5)   

    「涙」からいささか離れてしまった。鑑三翁も伝道者も世俗世界に真の救いはないことを繰り返し記す。呆れてモノが言えないのが世間というわけだ。であれば鑑三翁/伝道者はどうしたのか。【《官吏社会の愚(伝道の書9:11)》行政機関の官吏社会の生存競争においては、優れた者が必ずしも勝者とはならず、能力の劣った者が必ずしも敗者になるわけでもない。官吏社会にあっては、多くの場合学識はかえって昇進の妨げとなるもので、かえって無学が立身出世には好都合である。愚者が恩恵を受け、知者はかえって官位を避けて遠ざけられる(注:原文は「貶黜(へんちゅつ)」)のだ。実にこの社会というものは奇怪なものだ。知者が食物を得られるのではなく、賢者が財貨を得るわけでもなく、識者が恩恵を得られるのでもない。官吏の社会の真実を物語る言葉でこれほど(9...[Ⅴ255]泣きべそ聖書(15)/しえたげられる者の涙(5)  

  • [Ⅴ254] 泣きべそ聖書(14) / しえたげられる者の涙(4)   

    どこを見ても世間には腐敗が横行し、正しい事は行われず、頼みにしている司法世界も邪悪さに支配されている。当然のことながら政治世界はさらにひどい状況‥こう私は記しながら今の日本の政治状況を目の当たりにしている。東南アジアのある国の大統領は汚職撲滅にあらゆる手段を講じてきたが、一向に止まる気配もない有り様に「汚職は風土病だ」と歎じたという記事を読んだことがある。言い得て妙である。鑑三翁は明治政府の薩長政治に不正と邪悪を見ていたことは既に記した。鑑三翁の政治情勢への指弾は止まらない。続けて鑑三翁を読む。鑑三翁の政治観だ。【《政治は婬婦の如きもの》「貧しくて賢いわらべは、老いて愚かで、もはや、いさめを入れることを知らない王にまさる。たとい、その王が獄屋から出て、王位についた者であっても、また自分の国に貧しく生れて王...[Ⅴ254]泣きべそ聖書(14)/しえたげられる者の涙(4)  

  • [Ⅴ253] 泣きべそ聖書(13) / しえたげられる者の涙(3)

    鑑三翁も奈辺は十分に心得ていたことだろう。鑑三翁はキリスト教国がこぞって参戦した第一次世界大戦が、いかに反キリスト教的な戦いであるのかを下記のように記す。【《欧州の戦乱(※第一次世界大戦)と基督教》信仰を持たない人たちはこう考えるだろう、キリスト教信者は神の恩寵を受ける人たちであり、彼らはどんな罪を犯しても神は彼らを罰することはない、と。しかしこれは大きな誤りである。キリスト教の信者は神から愛される者であるがゆえに、神は信者が罪を犯す場合には、不信者を罰するよりも厳格に信者を罰せられるのだ。我ら信者が時に神から受ける刑罰は不信者が予想も出来ないほど厳しいものだ。そのようにキリスト教国家は非キリスト教国家よりもはるかに厳格に神に罰せられるのだ。‥国家が(国民の)全ての関心と注意を国威発揚と国力発展だけに奪わ...[Ⅴ253]泣きべそ聖書(13)/しえたげられる者の涙(3)

  • [Ⅴ252] 泣きべそ聖書(12) / しえたげられる者の涙(2)  

    この権力者による圧政について鑑三翁の記事がある。コーヘレスは圧政によって苦しめられる民衆に共感を示している。現代語訳した。【《圧制は今も》彼(コーヘレス、伝道者)は、本来自由に振る舞うべき者たちが、権力者の圧政によって苦しむのを見て泣いた。彼はあらゆる場所に行ったがいずれの場所でも行われている権力者による圧政を観察して言った。「わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はいない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。」(4:1)と。圧政は広く世に行われている。‥自分の安寧を保つためには、一つの階級は他の階級を圧力で支配していつまでもその圧政の手を緩めないのだ。そしてたまたま博愛の精神をもった人間が出て来て、誰にでも分け隔てなく...[Ⅴ252]泣きべそ聖書(12)/しえたげられる者の涙(2) 

  • [Ⅴ251] 泣きべそ聖書(11) / しえたげられる者の涙(1)

    ◎わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。(伝道の書、4:1)涙を流して虐げられる者を慰める者はおらず、彼らを虐げる者にも慰める者はない‥虐げられる者云々は理解できるが、虐げる者にも慰める者はいない、とは一体どのような事を示しているのか。※旧約聖書「伝道の書」(新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」)は、一読すると「聖書」全体の思想と相容れない言葉や表現に満ち、神の不在を嘆いているようにも、空海仏教に通底する思想(例えば空とか無)を表しているようにも見える。これは編纂された当時のギリシアのストア派の懐疑/厭世観、エピクロス派の快楽主義の影響を色濃く反映したものと考えられている。また伝...[Ⅴ251]泣きべそ聖書(11)/しえたげられる者の涙(1)

  • [Ⅴ250] 泣きべそ聖書(10) / ヨブの涙は神に向けて流される(2)

    ヨブは自分の死の近い事を覚悟した。友は全く相手にもならぬ。そしてここでヨブは神と対峙するが如く涙を流しながら必死に神に訴え頼むのだった。どうか〈彼〉が人間のために神と弁論して私と友との間を裁いてくれるように、と。ここで〈彼〉とは何者なのだろうか。ここは鑑三翁に聞く。原文のまま要点の部分のみ記す。【神に対して怨(うらみ)の語を放つは、勿論その人の魂の健全を語ることではない。しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。‥ヨブは死の近きを知り、かつその不当の死なることを一人も知るものなきを悲みて、わが血をしてわが無罪を証明せしめんとて地に後事を托して、綿々たる怨を抱いて世を去らんとするのである。これ絶望の悲声であって理性の叫ではない。‥ヨブの無罪を証を立つる、一種の証人を要求するのである。‥...[Ⅴ250]泣きべそ聖書(10)/ヨブの涙は神に向けて流される(2)

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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]
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