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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

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  • [Ⅵ292] 安楽死/考 (15) / あなたは安楽死を望んだか‥

    私自身の体験である。ある日突然妻の若菜がスキルスの診断を受けた。若菜はおよそ4か月の闘病の末に5歳と1歳になったばかりの二人の子どもと私を残して天国に帰った。この間私は妻には病名を告げなかった。彼女との闘病の日々のことは既に書いた《連載[Ⅲ134-184]我がメメントモリ(1)-(51)》。私は若菜の苦悶を見ているのが耐えがたかった。しかし彼女には苦悶の時間が過ぎると平安の時間が訪れることがあった。この平安の時間の中で私は若菜とあらゆることを話した。病室のソファーで寝ている私の指と若菜の指とを緑の毛糸で結んでおいて、目覚めて尿意を感じたときなどは若菜がこれを引っ張って私を起こした。私は彼女の排泄のケアをして後便器を病棟の廊下の端にある洗浄機で洗浄して病室に戻る。すると束の間静かな時間が流れ二人で話し込んだ...[Ⅵ292]安楽死/考(15)/あなたは安楽死を望んだか‥

  • [Ⅵ291] 安楽死/考 (14) / 「安楽死」を弄ぶ者たち

    一人のALSの患者さんが主治医でもない二人の医師に”安楽死”を依頼して実行し亡くなった。2019年11月のことである。この患者さんはSNSで一人の医師Aと出遭い、この医師につながるもう一人の医師Bとタッグを組んで”安楽死”が実行された。二人の医師はその後逮捕・起訴され審理が続いてきたが、24年3月5日京都地裁でAには懲役18年の判決が出された。共謀に問われたB被告はこう話しているという(AERAdot.240307)。「Aは寝たきりの人や高齢者は医療費をむさぼり不要だと言い口癖のように”片づける”と言っていた」と。何とAは元厚労省医官である。Aの生命観には言葉を喪うしかない。この事案を主導した医師Aがかつてツイッターの投票機能を使って「安楽死」の”対価”を公募したところ、”三千件の応募”があり具体的には「...[Ⅵ291]安楽死/考(14)/「安楽死」を弄ぶ者たち

  • [Ⅵ290] 安楽死/考 (13) / すぐ手の届く所にある死の選択肢

    宗教思想家で音楽家の竹下節子さん(フランス在住)のブログを私はいつも読んでいる。ある日の投稿が目に止まった(230623)。ベルギーでの安楽死の事例だ。その一部を紹介させていただく。『「自殺幇助の先進国」のベルギーの例で、3人の子供を持つ49歳の男性が、事故で手足の機能をすべて失ったことを知った後、48時間後には「自殺」幇助を受けたというのがあるそうだ。はやい。素人目にもはやすぎる。もちろん今まで健康だった人が意識不明状態から目覚めて突然、両手両足を失くしたのと同じ状態を知って、これでは生きている意味もないし家族のためにもならないなどと考えることは、想像はできる。でも、同じ状態でもいろいろな過程を経て、新しい生き方や命の意味を自分も見つけて、周りの人にも伝えていく人の例も事欠かない。試練や希望について、体...[Ⅵ290]安楽死/考(13)/すぐ手の届く所にある死の選択肢

  • [Ⅵ289] 安楽死/考 (12) / 尊厳ある死を‥

    手許に新聞記事の切り抜きがある。音楽家の坂本龍一さんが2023年3月28日に亡くなったが、彼が亡くなる日までの日録等を編集して刊行される書籍の紹介記事だ(東京新聞230619)。坂本さんのある日の病床日記が紹介されている。《かつては、人が生まれると周りの人は笑い、人が死ぬと周りの人は泣いたものだ。未来にはますます命と存在が軽んじられるだろう。命はますます操作の対象となろう。そんな世界を見ずに死ぬのは幸せなことだ》(二〇二一年五月十二日)そして亡くなる数日前(二十五日)には自ら緩和ケアに移ることを決めた。そして医師には握手をして礼を述べ、《もうここまでにしていただきたいので、お願いします》と語ったと記されている。この記事で坂本さんが記し話した事柄は示唆的だ。日記では坂本さんは人間の生死の未来をこのように考え...[Ⅵ289]安楽死/考(12)/尊厳ある死を‥

  • [Ⅵ288] 安楽死/考 (11) / メルケルさんは法制化に慎重

    今まで「安楽死」については、森鴎外の『高瀬舟』論、鑑三翁の「安楽死」論、鑑三翁のターミナルステージの有り様について記し、そして「安楽死」法の論点整理をしてみた。私は何も法律の専門家でもないし、ここで大層な論文を執筆する意図などもない。ドイツの首相(在任2005-21)として活躍したアンゲラ・メルケル氏注)は熱心なキリスト者(ルター派プロテスタント)として知られている。国内政治/国際政治の場で、長きにわたりそのキリスト教的信念を保持しながら、妥協と力関係の支配する政治世界で活躍したことは我々も記憶に新しい。ここではメルケル氏の連邦議会での「安楽死」に関する発言を取り上げてみた。政治世界は言論格闘技の場でもあることもよくわかる。注):AngelaDorotheaMerkel、1954年ハンブルグ生まれ、生後間...[Ⅵ288]安楽死/考(11)/メルケルさんは法制化に慎重

  • [Ⅵ287] 安楽死/考 (10) / 法の論点整理  

    以上鑑三翁の論稿等を引き合いにして「安楽死」論を述べてきた。ここで私は法的な側面からの論点を整理する必要を痛感している。欧米諸国では近年急速に「安楽死」関連の法制化が行われるようになってきた。法律の名称や内容は、その国の宗教的/文化的な背景を踏まえていて様々のようだ。だが法制化した国々では、法律制定に至るまでには、専門家のみならず一般市民が参画して公開された議論が尽され、法制化後も慎重な運用が行われているのが一般的である。法制化へのプロセスでは浅薄な感情論や愚劣な政治的企図は排除されてきた印象も強い。ここで先述の『いのちの法と倫理[新版]』(葛生ら、法律文化社、2023)から論点を整理してみた。1.「任意的安楽死」とは法的に患者らを保護するためには患者らの同意がまず必要になる。本人の意思表示を前提として「...[Ⅵ287]安楽死/考(10)/法の論点整理 

  • [Ⅵ286] 安楽死/考 (9) / 鑑三翁は安らかな死を懇願した

    鑑三翁が天に召されるまでの最後の日々の様子は、鑑三翁が深く信頼していた主治医の藤本武平二の日録に記録されている。私の連載(Ⅱ126:さらば、鑑三翁(6)/藤本武平二氏)にも掲載した。その中でこのような場面がある。鑑三翁が亡くなる前日の藤本氏の記録である。これを再掲した。藤本氏は敬愛するキリスト者内村鑑三翁とのやりとりを、日々忘れないように克明に記録していた。※〇3月27日ご容態はよくありません。食欲は振るわず、浮腫が全身に及びました。午後8時半から私一人で枕頭にいました。次の間には高橋菊江姉(注:看護師)が控えていました。10時注射の時間となりましたが、先生は言われました。「じーっと堪えていたら悪魔が二度ほど通り過ぎた。無抵抗主義で勝った。注射なしでやってみよう。」「なかなか戦いがえらい(注:「大変だ」の...[Ⅵ286]安楽死/考(9)/鑑三翁は安らかな死を懇願した

  • [Ⅵ285] 安楽死/考 (8) / 死の「時」

    鑑三翁は人間の生命は神の造られた「像」なので尊ばなければならないとした。ではその人間が死を迎える時/神の腕に抱かれて天に召される「時」は何時なのか。鑑三翁はこれについては次のように記している(全集20、p.270)【「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり」(伝道の書3:1-2)と言う。そうであれば信仰をもつ者(原文「信者」)の死すべき時とはいかなる時であるか。信仰をもつ者はいたずらな長寿を保つべきではない。死は彼にとっては神の呪い(原文「呪詛」)ではない。彼には死すべき時がある。その時が来れば彼は感謝して死すべきである。信仰をもつ者は神の僕(しもべ)である。主人から特殊な要務(注:重要な用務のこと)を委ねられた者である。したがって彼はこの要務を果た...[Ⅵ285]安楽死/考(8)/死の「時」

  • [Ⅵ284] 安楽死/考 (7) / 人はみな神の宮殿  

    私が鑑三翁のこの一文で注目するのは「知的障がい者教育の必要性は経済的な打算で説明できるものではない、なぜならば彼らは神の子だからだ」という一点である。そして鑑三翁は続けて以下のように記す。【「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。」(コリント人への第一の手紙8:11)これが全ての弱き人、全ての苦しむ者、全ての貧しい者を救おうとする最高で最も深い動機である。路頭に迷う家のない子ども、警官に追い立てられる乞食(こつじき)の者、経済的には社会に何の価値も見出せない知的障がいの者、歩行障がいの者、目の見えない者、耳の聴こえない者、話せない者、四肢欠損の者、これらの者は皆「キリストが代わって死なれる弱い者たち」である。しかるがゆえに貴いのである。彼らでさえもし神の御心(原文「聖旨)にかなえば信仰によっ...[Ⅵ284]安楽死/考(7)/人はみな神の宮殿 

  • [Ⅵ283] 安楽死/考 (6) / 人間には神の性質が備わる  

    さて本題に戻る。鑑三翁の「必ず全治することが可能とみなし」の表現だが、「みなし」とは「実際にはそうでないものを,そうだと思って見る」ことを言うのだから、治癒困難/治癒不能の病気であることをほとんどの場合「告知」しなかった鑑三翁の時代ゆえの表現と言う事ができる。つまり医師は実際には治癒しないと診断し確信しているが、それをそのまま患者に言ってはならない、私(医師)は治癒することが可能だと思っていますよ、と伝えることで、医師も治療看護を(放棄せず)継続すべきである、と言っている。鑑三翁はそれが人間の生命の貴重さと尊さを尊重する人間の態度であると言うのだ。今の時代の通念から言えば、それは虚偽ではないのか、誠実な姿勢ではない、事実は事実としてそのまま言うべきだ‥ということになるのかもしれない。しかし考えてみれば数十...[Ⅵ283]安楽死/考(6)/人間には神の性質が備わる 

  • [Ⅵ282] 安楽死/考 (5) / その前に「告知」の周辺

    ここで「死ぬとわかっている病気」とは、医師の科学的な診断と判断に基づくもので(鑑三翁の時代にも私の生きている今の時代でも)、あらゆる治療手段を駆使しても治癒の可能性がない病気を指している。ここでの主役は診療を行う医師である。次に「必ず全治することが可能とみなして」とは、医師が患者本人及び家族に向けたメッセージである。ここでの主役は三者即ち医師・患者/家族である。医師は彼の知識(文献、知識と経験、複数の医師によるカンファレンス)によって治療の方法はなく治癒困難であると診断した。さてここで最初に問題となるのは、診療現場での病名の「告知」である。近年でこそ患者本人に病名告知することが一般的となっているが、これをそのまま「ロボット告知機械」のように(訴訟や面倒を恐れて、あるいはがん保険のこともある)そのまま患者に...[Ⅵ282]安楽死/考(5)/その前に「告知」の周辺

  • [Ⅵ281] 安楽死/考 (4) / 鑑三翁「安楽死」論‥試論   

    さて鑑三翁である。この森鴎外の小説等に関して鑑三翁が評論を加えた記録はないのだが、普段から購読していた雑誌の事なので鑑三翁がこれを読まなかったとは考えにくい。むしろしっかりと読み込んだことだろう。その時鑑三翁の胸に去来したものはどのような思いだっただろうか。鑑三翁のキリスト教信仰は深く厳しく柔和で慈愛に富むものである。鑑三翁のこのキリスト教的信仰の堅い岩盤から「安楽死」を考えたとき、どのような論稿を執筆しただろうか‥この事に私は強い関心を抱いている。鑑三翁のキリスト教信仰では、生と死は神の手に委ねられているので、死の瞬間も神の腕(かいな)が神の国に自分を誘ってくれるのだから、死の瞬間を「人」の手に委ねることはできない‥しかし森鴎外『高瀬舟』の場合には、死の瞬間を委ねたのは心を通い合わせてきた信頼する兄だ、...[Ⅵ281]安楽死/考(4)/鑑三翁「安楽死」論‥試論  

  • [Ⅵ280] 安楽死/考 (3) / 懇願‥らくに死なせてくれ

    鴎外がこの書で指摘している主題は「経済的な貧困」と「安楽死」である。貧しくとも懸命に兄弟が支え合って生きてきた。その愛する弟は重篤な病気になる。弟は考えた、この病気は苦しいばかりで恐らく治癒の可能性もないのだろう、その上経済的にも兄に大きな負担をかけている、と。その苦悶の末に弟は自殺を決行する。未だ死を果たせないまま苦しんでいる目の前の愛する弟は、彼に死を懇願している、その時兄の動揺困惑は止まり弟の苦しみを解放してあげようと考えてカミソリを抜いた。弟を死に至らしめた行為によって罪を負わされて島送りになる際に、役人から手渡されたのは生涯もったこともない大金。鴎外は医師として軍医として、軍属や一般人の病者の多くの死に立ち会ってきた。その中で自然死のように老衰や穏やかな心不全などで亡くなる患者は幸せである。しか...[Ⅵ280]安楽死/考(3)/懇願‥らくに死なせてくれ

  • [Ⅵ279] 安楽死/考 (2) / 鴎外の問題提起

    鑑三翁の「安楽死」観に立ち入る前に、森鴎外の『高瀬舟』について考えてみる。この小説は教科書にも掲載されてきた”問題作”であり、数多の人たちがこの作品が扱う「安楽死」の問題について論じている。映画化もされた(松山善三脚本、1988)。ここでは私なりの論を起こしてみる。小説『高瀬舟』のあらましである。《徳川時代には遠島を命ぜられた京都の罪人は高瀬舟で大阪へ護送されたものである。この話は彼らを護送する京都町奉行所の同心の話の一つである。‥‥兄弟殺しを犯した男が少しも悲しそうにしていなかったので、その理由を尋ねると、彼は遠島を言い渡された時にもらった銅銭二百文が持ったこともない大金であったと話した。そして子供の頃に両親を亡くした兄弟は二人で力を合わせて生きてきたが、弟は病気になり、兄は懸命に働いて弟の看病をしてき...[Ⅵ279]安楽死/考(2)/鴎外の問題提起

  • [Ⅵ278] 安楽死/考 (1) / 「安楽死」とはなにか

    私は「安楽死」の問題を積み残しにしていた。この連載では《Ⅳ236「日本人は浅い民である」(230503)》として問題を提起したままだった。「安楽死」の問題はとても深遠な問題を抱えていてとても難しい。私はこれに関して記すのをためらっていたが意を決して書くことにした。「安楽死」とはなにか。《「安楽死」を示す英語のeuthanasiaは、ギリシャ語のeu(良い・気高い)とthanatos(死)からできていて、「良き死」(gooddeath)という言語的意味をもっていた。しかし現在では一般に、それとは逆の状態、すなわち「苦痛に満ちた侮辱的な状態から解放されるための死」、「安楽になるための死」という意味で用いられる》(葛生栄二郎、河見誠、伊佐智子:いのちの法と倫理[新版].p.179、法律文化社、2023)。まず鑑...[Ⅵ278]安楽死/考(1)/「安楽死」とはなにか

  • [Ⅴ277] 泣きべそ聖書(37) / イエスの母の涙

    ◎さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリアとが、たたずんでいた。イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母に云われた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて...[Ⅴ277]泣きべそ聖書(37)/イエスの母の涙

  • [Ⅴ276] 泣きべそ聖書(36) / 人こひ初めしはじめ 涙 (3)

    若菜が歩行も難しくなり個室に入ると、ボクは仕事を終えると病院に帰り、ベッドの脇のソファで毎晩若菜の傍で一緒に寝た。若菜は部屋のトイレに歩いて行くこともままならなくなってきたので、それを知らせるために若菜とボクは緑色の毛糸をお互いの手の指に結んでから寝ることにした。ある夜のこと、若菜が毛糸を引いてボクを起こした。ボクはベッド上で若菜の下の世話をした。ボクはいつものように、この病棟の長い廊下の果てにあるトイレに行き、洗浄器で便器を洗って部屋に戻った。そのとき、なぜかこの部屋が妙に明るく感じた。若菜が笑顔でボクを迎えた。「どうしたの?何がおかしいの?」「だって思い出していたんだもの。ユウキ!」「なんだい、いきなり、何を思い出していたの?」「いつか、ずーっと前、まだ二人だけだったとき、ユウキがこんなこといつも言っ...[Ⅴ276]泣きべそ聖書(36)/人こひ初めしはじめ 涙(3)

  • [Ⅴ275] 泣きべそ聖書(35) / 人こひ初めしはじめ 涙 (2)    

    若菜とボクが初めて会ったのは、出版社の入社が決まって初めての顔合わせの日だった。その日はボクの母が乳癌の手術後、転移性肺癌を発症して入退院を繰り返した後亡くなり、葬儀の行われた翌々日のことだった。この日は新卒者が始めて会社に呼ばれた日だったが、母親の死は、当日の朝初めての出社を躊躇させるほど大きな事件だった。しかしボクはそんな思いを振り切って出社した。ふくよかで静かで愛くるしい若菜は、この日薄茶色の上下のスーツを着て会社の応接室で静かに座っていた。ボクたち男子社員は若干名の募集のところ多くの応募者から選抜されたのだったが、女性が一人いることに驚いたものだ。若菜は会社の役員の縁故で無試験で入社をしたことがあとでわかった。その3年後ボクたちは結婚した。伊良湖岬に出かけたのは結婚した年の秋だった。そしてそれから...[Ⅴ275]泣きべそ聖書(35)/人こひ初めしはじめ 涙(2)   

  • [Ⅴ274] 泣きべそ聖書(34) / 人こひ初めしはじめ 涙 (1)

    ◎イエスは涙を流された。(ヨハネによる福音書11:35)エルサレムの東オリーブ山南東ベタニヤの町にイエスの友人マルタとマリヤ、ラザロが住んでいた。イエスはラザロの家族と親しく、しばしば訪問していた。このマリアは自分の涙でイエスの足を濡らし自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して香油を塗った者で、イエスはこのマリアに「あなたの罪は許された。安心して行きなさい」と言われたことがある。イエスはラザロを愛していたが、ある時ラザロが病気になったので、姉妹は人をやってイエスにそのことを伝えた。しかイエスが到着する前にラザロは亡くなった。マリアはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、ラザロは死ななかったでしょう」と言った。イエスは彼女が泣き、彼女と一緒の者たちが泣いているのを見て、激しく...[Ⅴ274]泣きべそ聖書(34)/人こひ初めしはじめ 涙(1)

  • [Ⅴ273] 泣きべそ聖書(33) / ピアノトリビュートに涙‥母よ(2)  

    母は山形市の母子寮の寮長を最後に保健師としての仕事を終えて引退した。しばらくして父が亡くなり、その後は独居生活を続けていた。母が一人暮らしとなってからも、私と妻と二人の息子たちは今まで通りお正月と春休み、夏休みなどに母を訪ねた。母はいつも楽しげに台所に立ち、「芋煮」「もってのほか(菊)」「鯨汁」「アケビ煮」「山ひじき」などのご馳走を振舞ってくれた。息子たちも母の山形料理を気に入っていた。母とは東京で一緒に生活することも考えていたが、妻にははっきりと「東京暮らしは絶対に嫌だ」と話していた。東京での同居生活はあきらめざるを得なかった。母が90歳の誕生日を迎える頃に検診で肺がんがみつかり、幸い放射線治療が奏功して肺の固型がんは安定化した。しかしこの頃から母は心身の不調を訴えることが多くなり、隣町に住む母の妹も時...[Ⅴ273]泣きべそ聖書(33)/ピアノトリビュートに涙‥母よ(2) 

  • [Ⅴ272] 泣きべそ聖書(32) / ピアノトリビュートの涙‥母よ(1)

    ◎泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。(ルカによる福音書7:38)イエスは招かれてパリサイ人の家で食事をすることになった。するとそのとき、その町で罪の女と言われていた者が、イエスの事を聞いて、高価な香油が入った壺を持ってきて上記のように「まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」のである。これを見てイエスの第一番の弟子シモン・ペテロは不快に思った。なぜならばこの女は「醜業婦」と言われている不浄な罪の深い人間だ、なのにイエスはそのような女の為すがままにさせている、ここはこの女を咎めて追い出さなければならない、と。するとその心中を察したイエスはペテロに向かって次の...[Ⅴ272]泣きべそ聖書(32)/ピアノトリビュートの涙‥母よ(1)

  • [Ⅴ271] 泣きべそ聖書(31) / 涙は泣く人だけが理解する言葉

    ◎あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。(詩篇116:8)「ルカによる福音書24:44」にはキリスト・イエスの言葉として「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」と記録されているほど「詩篇」は重要な書である。「詩篇」はダビデの手になるもののほかにダビデ以前から彼の死後に至るまでの数百年の間の人間の信仰経験あるいは宗教体験を詩的表現として手を加えて詩人が編纂したものだ。原始キリスト教会では、キリスト・イエスの全体像を「詩篇」の中に見ていた。新約聖書中には「詩篇」を参照し引用した箇所が400以上にのぼる。詩篇は正典としての聖書66巻中でも極めて重要な位置を占めており、キリスト教信者の信仰と生活の規範ともされてい...[Ⅴ271]泣きべそ聖書(31)/涙は泣く人だけが理解する言葉

  • [Ⅴ270] 泣きべそ聖書(30) / さらば友よ愛する者たちよ!

    ◎イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。(列王紀下:20:4-6)南王国ユダの王ヒゼキヤはその敬虔のゆえに際立っており、また古い伝統と教えを愛した。ヒゼキヤは反アッシリアの立場を貫いた。アッシリアのユダ侵入の直前にヒゼキヤは重い病気になった。ヒゼキヤは預言者イザヤに預言を乞うた。イザヤは主は日影を十度進むか十度退くかの...[Ⅴ270]泣きべそ聖書(30)/さらば友よ愛する者たちよ!

  • [Ⅴ269] 泣きべそ聖書(29) / なみだの中になむあみだ佛(5)

    鑑三翁には心を通わせお互いに信頼関係を保ってきた仏教家たちがいた。数は少ない。彼らはキリスト教の数多の教会の牧師たちよりも、欧米から日本に派遣されていた数多の宣教師たちよりも、はるかに精神性や宗教的心性において優れている者も多かったと述懐している。そして宗教的心性の堅固さと精神性の高さにおいて、歴史的な仏教家を高く評価している。次の鑑三翁の一文などもその一つであろう。【疎石禅師の言に曰く「我身を忘れて衆生を利益する心を起せば、大悲内に薫し、仏心と冥合す、故に一身の為めとて修せずと雖も、無辺の善根自(おのずか)ら円満す、みづからの為めとて仏道を求めざれども、仏道速かに成就す」と、以て直に之を基督教に適用するを得べし。】(全集20、p.67)即ち夢窓疎石(注:1275-1351、鎌倉時代末から室町時代初期にか...[Ⅴ269]泣きべそ聖書(29)/なみだの中になむあみだ佛(5)

  • [Ⅴ268] 泣きべそ聖書(28) / なみだの中になむあみだ佛(4)

    柳は心に浮かんだ上人のとある一日を次のように”活写”している(p.56)。柳が上人の傍らに居り記録したかのようだ。故郷甲州丸畑村に一時立ち寄った時の”記録”である。【松材を以て小さな草庵を上人のために造ったのは、丸畑向(むかわ)にある本家、即ち彼の兄の家の裏手であったようである。今日は残っておらぬ。愈々この大業に着手したのは寛政十三(1801・84歳)年三月六日のことであった。遂に成就したのがその年の十一月晦日であるから、要した月日は九ヶ月弱である。この間に彼は八十八個の仏を刻んだ。平均すれば三日に一個の割合である。或ものは実に僅か一日の中に作られている。丈凡そ二尺二三寸の仏軀を彼はどうしてかくも迅速に作り得たか。彼は既に年老いて八十四歳である。然るに彼の努力彼の精力は驚くべきものであった。昼となく夜とな...[Ⅴ268]泣きべそ聖書(28)/なみだの中になむあみだ佛(4)

  • [Ⅴ267] 泣きべそ聖書(27) / なみだの中になむあみだ佛(3)

    【彼の大願の一つは千体仏の彫像であって、廻国の途次有縁の各地にその作を遺し又堂宇を建てた。齢九十を越え遂に満願となり、更に二千体の念願へと進んだ。彼の故郷甲州はもとより、北海道、信越、東海、近畿、山陰、山陽、四国、九州、何処にも彼の刀跡が遺る。今丹波に見出される十六羅漢を始め、釈迦、阿難、迦葉の三聖等、皆千体仏中の一部である。彼の留錫した個所で彼の仏像を有たない所とてはない。彼の長生きと彼の精勤とは、真に夥しい数を産んだ。どんな彫刻家も彼程多作ではあり得ないであろう。巡錫の途次彼は至る所で「加持を修し、衆生の病苦を救」うた。奇蹟の数々が行われたことは口碑や記録のあかしする所である。「遠くより風に趨(はし)る者或は三百或は五百‥‥當村往古より以来(このかた)、是の如き盛事未だ嘗(かつ)て傳へ聞かず」と仏海は...[Ⅴ267]泣きべそ聖書(27)/なみだの中になむあみだ佛(3)

  • [Ⅴ266] 泣きべそ聖書(26) / なみだの中になむあみだ佛(2)   

    「縁起」とは仏教用語で”他との関係が縁となって生起する”ことを意味する。柳が木喰上人の木仏との「縁起」はこのようなものだ‥‥柳は朝鮮の陶磁器を見るために甲州の旅に出かけた、ある日焼き物を拝見するために知人を訪ねる、焼き物を見るために二躰の仏像の前を通り過ぎた、この仏像は暗い庫の前に置かれてあった、その時彼の視線はこの仏像に触れ即座に心を奪われた、それは地蔵菩薩と無量寿如来、「その口許に漂う微笑は私を限りなく引きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻み得ないー私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした。」(前掲書、p.16)大正12(1923)年1月のことだった。柳は知人からこの内の一躰を贈られ、その日から柳はその仏と一緒に暮らすことになる。知人を通したやりとりの中で、この木...[Ⅴ266]泣きべそ聖書(26)/なみだの中になむあみだ佛(2)  

  • [Ⅴ265] 泣きべそ聖書(25) / なみだの中になむあみだ佛(1)

    ◎涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(詩篇125:5-6)ダビデの「都もうでの歌」の一節。ダビデはユダ族でベツレヘムに住むエッサイの子で羊飼いだった。ダビデは血色が良く目が美しく体格も良く、琴が上手で戦士であり勇士だった。初代イスラエル王国の王サウルはダビデを重用した。ある時イスラエルを侵略しようとしていたペリシテの巨人ゴリアテを石投げの一発で倒し、サウル軍の最高位の位階を得た。ところがサウル王は次第に評価の高まるダビデをねたむようになり、ダビデが王位を奪うのではないかと心配し始めた。ダビデはサウル軍に追われ一旦は荒野に逃げ放浪したが、サウル王の子ヨナタンはダビデを愛し彼を助けた。ダビデのもとには次第に兵士が集ま...[Ⅴ265]泣きべそ聖書(25)/なみだの中になむあみだ佛(1)

  • [Ⅴ264] 泣きべそ聖書(24) / 私の中のあなたへの涙

    ◎わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。(テモテヘの第二の手紙1:4)テモテは20歳頃からパウロの伝道旅行に同行し伝道に当たった。パウロが宣教の場を去った後にもその場に居残り宣教を続けたり、パウロの代理または使者としてマケドニアやその他各地に派遣され、重要な任務と役割を果たした人物である。またパウロの手紙のうち6つにおいてテモテは共同執筆者として名前が記されている。パウロからテモテに出された手紙には、彼がパウロの代理として小アジアの教会で責任ある働きをしていることに謝意が表されている。テモテは若かったのでそれを意識させながら成長するよう促している。パウロの殉教後もテモテは忠実に使命を果たし続け、エペソ教会の初代監督として選ばれた。ドミティアヌス帝の迫害で殉...[Ⅴ264]泣きべそ聖書(24)/私の中のあなたへの涙

  • [Ⅴ263] 泣きべそ聖書(23) / 認知症の妻がひとり流す涙

    ◎これは夜もすがらいたく泣き悲しみ、そのほおには涙が流れている。そのすべての愛する者のうちには、これを慰める者はひとりもなく、そのすべての友はこれにそむいて、その敵となった。(哀歌1:2)預言者エレミヤの嘆きはとまらない。かつての華やかな時を思い起こす。「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで坐し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった。」(哀歌1:1)エレミヤの書記はユダの捕囚は70年にわたると言うエレミヤの預言を記した。エレミヤは民から迫害され受け入れられないなかで、エルサレムの滅亡を神の言葉として語り続けた。だがエレミヤも一人の人間だ。預言者の職にあってなおユダの民の人間としての苦しみと悲しみに対する深...[Ⅴ263]泣きべそ聖書(23)/認知症の妻がひとり流す涙

  • [Ⅴ262] 泣きべそ聖書(22) /  彼女はそこにいる! そこに!   

    ◎このために、わたしは泣き悲しみ、わたしの目は涙であふれる。わたしを慰める者、わたしを勇気づける者がわたしから遠く離れたからである。(哀歌1:16)聖都エルサレムは神の都であったのに、イスラエルの民の不誠実と背信のために神の裁きによりバビロンのネブカドネザルによって破壊されてしまった。そして南王国ユダは滅亡し、その民は娘たちも子どもたちも捕囚としてバビロンに引かれて行った。これを嘆き預言者エレミヤは坐して泣き「哀歌」を編纂した。「哀歌」には涙の詩に満ちている。神はエレミヤの知る勇士たちを無視し、聖会でエレミヤを責め、若い者たちを打ち滅ぼし、酒舟を踏むようにユダの娘たちを踏みつけた。バビロンの者たちはイスラエルの財宝をことごとく奪い、異邦人が入る事を許されていない公会の聖所に侵入して勝手に振舞った。イスラエ...[Ⅴ262]泣きべそ聖書(22)/ 彼女はそこにいる!そこに!   

  • [Ⅴ261] 泣きべそ聖書(21) / とらねこの初めての涙  

    ◎御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。(ヨハネの黙示録7:17)黙示録の著者ヨハネは、世界の終わりの時の幻視を見た。「神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」(1:1)終わりの時は近づいている。その時に起こる事をヨハネは記した。「見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に」立った。神は言う‥彼らは大きな患難を通ってきた人たちで、その衣を小羊の血で洗い白くしたのだ、と。彼らはもはや飢えることもなく渇くこ...[Ⅴ261]泣きべそ聖書(21)/とらねこの初めての涙 

  • [Ⅴ260] 泣きべそ聖書(20) / 落涙のゆくえ‥  

    ◎人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。(エゼキエル書24:16)ユダヤ人の捕囚としてバビロンに連行されたエゼキエルは、バビロンで預言者として召された。多くの捕囚の者たちはエゼキエルのもとに集まり、神への信仰を捨てないようにエルサレムに帰還する希望を持つように、聖書中心の信仰生活の指導を受けていた。そんなさ中に神はエゼキエルの妻を天に召したのである。上記はその事を告げた神の言葉である。神の言葉はこう続いた(24章17節以後)。『「声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じ...[Ⅴ260]泣きべそ聖書(20)/落涙のゆくえ‥ 

  • [Ⅴ259] 泣きべそ聖書(19) / 梅花よ神よ、人間の愚を赦し給え

    ◎わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。(ピリピ人への手紙3:18)パウロは今は獄につながれている。熱心に布教したピリピの町は無事だろうか。パウロは第二次伝道の折にピリピに立ち寄った。この町はローマ人が多く住んでいてユダヤの民は少なかった。会堂はなかったのでパウロは安息日になると町の門を出て川岸に行き、そこで集まった女たちにキリストの話をした。ピリピの人たちは家族的で多くの女性たちによって福音活動が支えられていた。しかし一方ピリピでは、偽指導者たちがキリストへの信仰よりも知識/認識に重きを置いた教義を唱え、福音の本質から外れた教えを強調していた。それは十字架の福音に反するものだ。パウロは愛する...[Ⅴ259]泣きべそ聖書(19)/梅花よ神よ、人間の愚を赦し給え

  • [Ⅴ258] 泣きべそ聖書(18) / 爆死の子を埋む

    ◎わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに息も絶えようとしているからである。(哀歌、2:11)旧約聖書「哀歌」は文字通り人間の哀しみを歌っている。「哀歌」の元の名称はヘブル語で「エーカー」で、これは「どうしてなのか」という問いかけだ。著者は諸説あるらしいが”涙の預言者”エレミヤとされている。聖都エルサレムはダビデによって神の都として定められ、ソロモン王によって神殿が完成し聖都として栄えてきた。しかしユダの民の不誠実と背信のゆえに神の裁きを受け、エレミヤの預言どおりにバビロンのネブカデネザル王によってBC605年に第一回の捕囚が始まり、586年にはエルサレムが破壊された。「哀歌」は、南王国ユダが滅亡しその民が捕囚と...[Ⅴ258]泣きべそ聖書(18)/爆死の子を埋む

  • [Ⅴ257] 泣きべそ聖書(17) / 21世紀の今も捕囚の涙は流れる‥

    ◎われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。(詩篇137:1)旧約聖書「エゼキエル書」によれば、ユダの民の捕囚民の大部分はバビロニアのケバル川沿いに移住させられた。バビロン帝国のネブカドネザル王が荒廃した都を立て直すために労働力が足りず、ユダの民の捕囚は恰好の労働力だった。その労働は過酷で、捕囚となったユダの民は殺された多くの同胞や拉致された娘たちの事を思い起こし、労働の過酷さとあいまって、砂漠の向こうの二千キロ離れた故郷エルサレムを思い日々涙を流していた。シオンはイスラエルの象徴である。「われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。われらは外...[Ⅴ257]泣きべそ聖書(17)/21世紀の今も捕囚の涙は流れる‥

  • [Ⅴ256] 泣きべそ聖書(16) / エステルの涙‥

    ◎エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。(旧約聖書エステル記8:3)バビロンの捕囚から帰国したユダヤ人モルデカイは孤児となったエステルを養女として育てた。彼女はその美しさゆえペルシャ王クセルクセスの后に選ばれる。一方悪徳の奸臣ハマンはモルデカイに怨念を持っておりユダヤ人を皆殺しにする奸計をめぐらせていた。これを密告によって知ったエステルは、ユダヤ人を救うべく王に対して決死の嘆願行動に出て真実を伝えた。その思慮深い行動によってユダヤ人は救われ逆にハマンは死刑に処せられた。※戦争の理不尽は国家同士の利益収奪から始まる。市民同士の戦いは仮にあっても妥協が適時適正に行われ短期間で終了する。なぜならば相互...[Ⅴ256]泣きべそ聖書(16)/エステルの涙‥

  • [Ⅴ255] 泣きべそ聖書(15) / しえたげられる者の涙(5)   

    「涙」からいささか離れてしまった。鑑三翁も伝道者も世俗世界に真の救いはないことを繰り返し記す。呆れてモノが言えないのが世間というわけだ。であれば鑑三翁/伝道者はどうしたのか。【《官吏社会の愚(伝道の書9:11)》行政機関の官吏社会の生存競争においては、優れた者が必ずしも勝者とはならず、能力の劣った者が必ずしも敗者になるわけでもない。官吏社会にあっては、多くの場合学識はかえって昇進の妨げとなるもので、かえって無学が立身出世には好都合である。愚者が恩恵を受け、知者はかえって官位を避けて遠ざけられる(注:原文は「貶黜(へんちゅつ)」)のだ。実にこの社会というものは奇怪なものだ。知者が食物を得られるのではなく、賢者が財貨を得るわけでもなく、識者が恩恵を得られるのでもない。官吏の社会の真実を物語る言葉でこれほど(9...[Ⅴ255]泣きべそ聖書(15)/しえたげられる者の涙(5)  

  • [Ⅴ254] 泣きべそ聖書(14) / しえたげられる者の涙(4)   

    どこを見ても世間には腐敗が横行し、正しい事は行われず、頼みにしている司法世界も邪悪さに支配されている。当然のことながら政治世界はさらにひどい状況‥こう私は記しながら今の日本の政治状況を目の当たりにしている。東南アジアのある国の大統領は汚職撲滅にあらゆる手段を講じてきたが、一向に止まる気配もない有り様に「汚職は風土病だ」と歎じたという記事を読んだことがある。言い得て妙である。鑑三翁は明治政府の薩長政治に不正と邪悪を見ていたことは既に記した。鑑三翁の政治情勢への指弾は止まらない。続けて鑑三翁を読む。鑑三翁の政治観だ。【《政治は婬婦の如きもの》「貧しくて賢いわらべは、老いて愚かで、もはや、いさめを入れることを知らない王にまさる。たとい、その王が獄屋から出て、王位についた者であっても、また自分の国に貧しく生れて王...[Ⅴ254]泣きべそ聖書(14)/しえたげられる者の涙(4)  

  • [Ⅴ253] 泣きべそ聖書(13) / しえたげられる者の涙(3)

    鑑三翁も奈辺は十分に心得ていたことだろう。鑑三翁はキリスト教国がこぞって参戦した第一次世界大戦が、いかに反キリスト教的な戦いであるのかを下記のように記す。【《欧州の戦乱(※第一次世界大戦)と基督教》信仰を持たない人たちはこう考えるだろう、キリスト教信者は神の恩寵を受ける人たちであり、彼らはどんな罪を犯しても神は彼らを罰することはない、と。しかしこれは大きな誤りである。キリスト教の信者は神から愛される者であるがゆえに、神は信者が罪を犯す場合には、不信者を罰するよりも厳格に信者を罰せられるのだ。我ら信者が時に神から受ける刑罰は不信者が予想も出来ないほど厳しいものだ。そのようにキリスト教国家は非キリスト教国家よりもはるかに厳格に神に罰せられるのだ。‥国家が(国民の)全ての関心と注意を国威発揚と国力発展だけに奪わ...[Ⅴ253]泣きべそ聖書(13)/しえたげられる者の涙(3)

  • [Ⅴ252] 泣きべそ聖書(12) / しえたげられる者の涙(2)  

    この権力者による圧政について鑑三翁の記事がある。コーヘレスは圧政によって苦しめられる民衆に共感を示している。現代語訳した。【《圧制は今も》彼(コーヘレス、伝道者)は、本来自由に振る舞うべき者たちが、権力者の圧政によって苦しむのを見て泣いた。彼はあらゆる場所に行ったがいずれの場所でも行われている権力者による圧政を観察して言った。「わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はいない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。」(4:1)と。圧政は広く世に行われている。‥自分の安寧を保つためには、一つの階級は他の階級を圧力で支配していつまでもその圧政の手を緩めないのだ。そしてたまたま博愛の精神をもった人間が出て来て、誰にでも分け隔てなく...[Ⅴ252]泣きべそ聖書(12)/しえたげられる者の涙(2) 

  • [Ⅴ251] 泣きべそ聖書(11) / しえたげられる者の涙(1)

    ◎わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。(伝道の書、4:1)涙を流して虐げられる者を慰める者はおらず、彼らを虐げる者にも慰める者はない‥虐げられる者云々は理解できるが、虐げる者にも慰める者はいない、とは一体どのような事を示しているのか。※旧約聖書「伝道の書」(新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」)は、一読すると「聖書」全体の思想と相容れない言葉や表現に満ち、神の不在を嘆いているようにも、空海仏教に通底する思想(例えば空とか無)を表しているようにも見える。これは編纂された当時のギリシアのストア派の懐疑/厭世観、エピクロス派の快楽主義の影響を色濃く反映したものと考えられている。また伝...[Ⅴ251]泣きべそ聖書(11)/しえたげられる者の涙(1)

  • [Ⅴ250] 泣きべそ聖書(10) / ヨブの涙は神に向けて流される(2)

    ヨブは自分の死の近い事を覚悟した。友は全く相手にもならぬ。そしてここでヨブは神と対峙するが如く涙を流しながら必死に神に訴え頼むのだった。どうか〈彼〉が人間のために神と弁論して私と友との間を裁いてくれるように、と。ここで〈彼〉とは何者なのだろうか。ここは鑑三翁に聞く。原文のまま要点の部分のみ記す。【神に対して怨(うらみ)の語を放つは、勿論その人の魂の健全を語ることではない。しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。‥ヨブは死の近きを知り、かつその不当の死なることを一人も知るものなきを悲みて、わが血をしてわが無罪を証明せしめんとて地に後事を托して、綿々たる怨を抱いて世を去らんとするのである。これ絶望の悲声であって理性の叫ではない。‥ヨブの無罪を証を立つる、一種の証人を要求するのである。‥...[Ⅴ250]泣きべそ聖書(10)/ヨブの涙は神に向けて流される(2)

  • [Ⅴ249] 泣きべそ聖書(9) / ヨブの涙は神に向けて流される(1)   

    ◎わたしの友はわたしをあざける。しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。(ヨブ記16:20)神に対して敬虔であり義の人ヨブに何ゆえ深刻な災いがふりかかるのか。なぜ神は沈黙を続けているのか。その神に対してヨブは”とりなし”を願い神に向かって涙を注ぐのだ。※ヨブはウズという地の人で、生活は誠に正しく神を畏れることを知り、悪を遠ざける人だった。彼の子どもは男七人女三人の家庭で、羊七千駱駝三千牛五百メスの驢馬五百、僕も多く居り、富裕で神を敬い敬虔な生活を営んでいた。エホバ神は正しく神を畏れ悪を遠ざける点においてヨブほどの人間はいないと考えていた。そこでサタンはエホバに言う。「彼の財産や家族を撃てば彼は神を呪いますよ」とエホバをそそのかした。サタンはエホバの許しを得て、天の火によって家畜を全滅させカルデア人がラクダ...[Ⅴ249]泣きべそ聖書(9)/ヨブの涙は神に向けて流される(1)  

  • [Ⅴ248] 泣きべそ聖書(8) / 涙の泉をください‥    

    内村鑑三という人は、キリスト教にとってみれば異教の国日本に神の意思で配置された”預言者”だ‥私はそう考えている。がしかし鑑三翁には人生途上の困難が幾度も襲った。このことは私のこの連載で何回も記事にした。心身共にタフな鑑三翁にも心の疲労困憊が襲うことがあった。1912(明治45)年に記された日記風の記述にそれが表れている。執筆されたのは娘ルツの死の直後の事である。「某日某時」という記事の主題が鑑三翁の心の疲労困憊を物語っている。鑑三翁の神への祈りの言葉のようだ。鑑三翁の心が泣いていることが伝わる。「某日某時(その日その時)」とは鑑三翁が神の手によって「死」へと誘われる時のことである。【◎某日某時(その日その時)「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。...[Ⅴ248]泣きべそ聖書(8)/涙の泉をください‥   

  • [Ⅴ247] 泣きべそ聖書(7) / 涙をぬぐってくださる(2)

    鑑三翁はこれら黙示録の箇所を引用して、このような慰藉の言葉に満ちた箇所は聖書のどこにも見られない、神が彼らの涙をことごとく拭って下さるという箇所を読んで、我々の目には感謝の涙が浮かぶのである、と記す。【黙示録は戦争の最中に血をもって書かれた信仰の書である。その文体が著しく戦闘的であるのはこの為である。馬とかラッパとか神の怒りを盛った七つの金の御椀、またイエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおるのを見たと記す(20:4)。血が滴り落ちる(注:原文は「鮮血淋漓」)とはこの事である。黙示録は著述家が書斎で多くの参考書を参照しながら書いた書ではない。彼のペンを信徒たちが迫害されたときに流した血に浸して書いた書である。‥今やキリスト者に大迫害が起こり、墓は開いて彼らを吞み込もうとしていた...[Ⅴ247]泣きべそ聖書(7)/涙をぬぐってくださる(2)

  • [Ⅴ246] 泣きべそ聖書(6) / 涙をぬぐってくださる(1)    

    聖書「黙示録」は稀有な書だ。難解だ。「黙示録」は新約聖書の最後に位置して聖書の諸書を俯瞰しているかのようでもある。預言の書であることは理解するが、その示すところは難解だ。黙示録をどのように解釈するか、多くの人の説がある。古今東西数多の解説書がある。私は鑑三翁の読み方に耳を傾けてみたい。鑑三翁は「黙示録」を「慰藉(注:いしゃ、なぐさめいたわること)の書である。流るる涙を拭わんための書である」と記している(全集15、黙示録は如何なる書である乎、p.325)。鑑三翁は何ゆえ「涙を拭わんための書」と言ったのか。キリストの生誕から彼の十字架の死以後、信徒たちの裾野は広がり布教は拡大し成果をあげつつあった。しかしながらローマ皇帝が、皇帝自身を現人神の権威として崇拝することを国民に強いて国民的信仰統一を図るためには、も...[Ⅴ246]泣きべそ聖書(6)/涙をぬぐってくださる(1)   

  • [Ⅴ245] 泣きべそ聖書(5) / 天国にありて我を待つ  

    鑑三翁は1884(明治17)年、農商務省を辞職し船でアメリカに渡った。24歳だった。アメリカ到着後鑑三翁は一人のアメリカ人医師ケーリン氏(注:IsaacNewtonKerlin、アメリカの精神医学草創期の精神医学者、1834-93)との出会いにより、彼が院長をしていたペンシルバニア州エルウィンの知的障がい児養護院で看護人として働くことになった。鑑三翁には医学者への志もわずかながらあったからでもある。ここでは院長や院長夫人、婦長ら敬愛すべき人たちとの出会いがあった。しかし鑑三翁のキリスト教神学への強い希求のもとでは、養護院での勤務は満足をもたらさなかった。そして鑑三翁は当時アメリカに滞在していた新島襄注)と出会った。そして新島の勧めに従いアマースト大学(1821年創立)に入学する。この大学の総長がシーリー氏...[Ⅴ245]泣きべそ聖書(5)/天国にありて我を待つ 

  • [Ⅴ244] 泣きべそ聖書(4) / かりそめの涙にあらず  

    鑑三翁が言論人として、また教育者として、キリスト者として成熟し、旺盛な社会活動を展開していた頃の事だ。娘のルツの死という試練が待っていた。1912(明治45)年1月、鑑三翁が52歳(注:「選集」の年譜に従って数え年、以下同様)の時だった。女学校を出て間もない19歳のルツは、鑑三翁の経営する「聖書研究社」で事務の仕事を手伝っていた。ルツの死は鑑三翁に深刻な打撃を与え、鑑三翁の「来世観」にも大きな変化を与えた。親が子に先立たれることを日本では「逆縁」と言う。親がその子(特に幼い子ども)を喪うことは、人生における極めて大きな事件である。その心の打撃は計り知れず、人間としての”未来”を喪失するに等しい試練と言っていい。それは鑑三翁にとっては妻かずの死と同様の衝撃の大きさだった。鑑三翁が妻かずの死に遭遇したのは30...[Ⅴ244]泣きべそ聖書(4)/かりそめの涙にあらず 

  • [Ⅴ243] 泣きべそ聖書(3) / 快癒のきざし‥涙    

    鑑三翁の「不敬事件」では、鑑三翁が教壇に立っていた第一高等学校の生徒などが鑑三翁の自宅に連日のように押しかけ、罵声と共にゴミを投げ入れるなどの蛮行を行った。病の床にあった鑑三翁になり代わり、妻かずは外来者の矢面に立ち夫を防禦する日々だった。そしてこの事件の三か月後に鑑三翁はかずを喪うのである。鑑三翁30歳。かずも自身の病気と不敬事件の心労で病の床にあった。かずの死が心労の果てのものであったことが、鑑三翁により一層の深い悔恨をもたらした。『愛する者を喪ったとき』(原題『愛するものゝ失せし時』)は1893(明治26)年に発表された。ここには愛する妻を喪ったとても深い悲嘆の心情と、信仰を悔い祈りもやめて涙の日々に沈む日々、そしてそこから神の救いによって恢復の道をたどる鑑三翁の心の軌跡が記されている。妻かずの死は...[Ⅴ243]泣きべそ聖書(3)/快癒のきざし‥涙   

  • [Ⅴ242] 泣きべそ聖書(2) / 梅花に託した涙

    ここで「梅花」に鑑三翁が仮託しているのは神である。厳格な父なる神である。憐れみに満ちたキリスト・イエスである。そして慈母の如きマリアである。そして鑑三翁がこの時胸に抱いていたのは亡き妻かずの魂である。「君の心は涙の貯水池」こそ神、神には水源の貯水池に満々と湛えられた水の如く「涙」が湛えられている。神は憐れむべき人間に対しては「涙」を流される。人間であり神でもあるキリスト・イエスは(注:恐らく重い障がいを背負っていた身内の)ラザロの死に際して涙を流された。またご自身の死が迫ったことを知って弟子たちの前で泣かれた(涙を流された)。キリスト・イエスの母マリアは、人間の罪を一身に負って十字架に架けられ息を引き取った我が子の下で慟哭の涙を流したことだろう。また神が遣わされた預言者エレミヤは、神によって見捨てられ遠く...[Ⅴ242]泣きべそ聖書(2)/梅花に託した涙

  • [Ⅴ241] 泣きべそ聖書(1) / 鑑三翁 梅花に涙す

    鑑三翁は1901(明治34)年の『万朝報』3月10日号に署名入り記事として「梅花と別る」という一文を寄稿している。原文は硬調だが格調高く美しい。原文の方が鑑三翁の真意も伝わりやすいだろう。だが漢文調で漢字を多用していて理解しにくい部分もあるので敢えて現代語訳してみた、鑑三翁には叱られるだろうが‥。梅花に託した鑑三翁の「涙」とその心の奥底に分け入ってみたい。少し長文である。【春は未だ浅く氷が張っている頃なのだが、君が咲いてくれたおかげで、私は春が来つつあることを知ることができた。君は春ではない。春の預言者(注:原文は「予言者」。鑑三翁は「預言者」を使う事が多い)である。春は桜である。躑躅(ツツジ)である。藤である。しかし彼らが来るには未だ間があったので、天は君を送って、私たちに消えようとする春の希望を繋いで...[Ⅴ241] 泣きべそ聖書(1)/鑑三翁梅花に涙す

  • [Ⅳ240] 日本人とか日本社会とか(20) / 日本人の宗教的心性/仏教観  

    鑑三翁の「仏教観」については、キリスト者としての冷徹な見方も示している。珍しく次のような問答形式の一文を書いている。「仏教」に関するもので、問答形式で少し気楽に執筆しているのが特徴だ。《》内は質問者。【《世の中の人は一般的に世界の宗教の中で「仏教」は最も哲学的だとする考え方がありますが、あなた〈注:鑑三翁のこと〉もそのように考えていますか。》その通りです。もし「哲学的」という言葉が「形而上学的」という意味であれば、そのとおりだと考えます。私は仏教ほどその教義の中に逃げ道を備えた宗教はないと考えています。仏教は実に全ての宗教を総合した宗教のように考えられます。その中には何でもあるというのですが、それは何もないという事を証拠だてるのかもしれません。《しかしあなたは仏教というものがわが国にもたらした大きな貢献(...[Ⅳ240]日本人とか日本社会とか(20)/日本人の宗教的心性/仏教観 

  • [Ⅳ239] 日本人とか日本社会とか(19) / 尊い宗教的素養はどこへ

    鑑三翁は先述のように往時の日本人の宗教的信仰心の希薄さを指摘する一方で、下記のように実は日本人は数千年来古くから”宗教的素養”を有していたのだと記している。明治初めから”祭政一致”をスローガンとする政府の「神道国教化」政策が打ち出され、この神仏分離政策によって「仏教排斥運動」が全国各地で展開され、仏堂や仏像、経文などが毀壊された。その結果として日本人は”宗教的信仰心”への信頼を希薄化させてきたのだと鑑三翁は断言する。この歴史観は興味深いものだ。【私は多くの良き信仰をもった日本の仏教徒を友人に持っている。日本人は元々は宗教的な民族である。明治時代と大正時代の日本人からは日本人の深い宗教性を推し量ることはできない。日本人は元々はこのような宗教心のない敬虔な心を持たない民族ではなかった。宗教的には全く無関心の薩...[Ⅳ239]日本人とか日本社会とか(19)/尊い宗教的素養はどこへ

  • [Ⅳ238] 日本人とか日本社会とか(18) / 人情と世間風潮の傀儡児

    また鑑三翁は「情/理/義」の面から見た日本人の特徴的性向について次のように記している。【情は天然のものであり、理は学習で修得するものであり、義は信仰に由るものだ。情の人は生まれたままの人であり、理の人は修養を積む人であり、義の人は信仰をもつ人だ。歌人は情の人である。哲学者は理の人である。預言者は義の人である。情の民は日本人、理の民はギリシャ人、義の民はヘブライ人(ユダヤ人)に代表される。この三者の中で最も貴い民はいずれかは言うまでもない。日本人は特に情の民である。日本語は情を表すのに最も適している。日本人は義理と人情とを区別することができない。日本人の間では、不人情は不義である。忠孝道徳は情的道徳である。日本人は情に打ち勝つことがどれほど偉大な事かを知らない。多くの日本人は毎年情のために生命を捨てる。しか...[Ⅳ238]日本人とか日本社会とか(18)/人情と世間風潮の傀儡児

  • [Ⅳ237] 日本人とか日本社会とか(17) / 日本人の”癒し"と"慰め” 

    日本の「臓器移植法」の成立に関しては、人体の臓器を他人に移植すると言う現代医学の進展によってもたらされた革新的医学技術の採用の可否をめぐって、数年間にわたって議論が沸騰した。その結果1997年に法律は制定された。それ以後日本人の臓器提供者は欧米に比較すれば(移植する臓器にもよるが)、比較的少数で推移している。「臓器」の「移植」は日本人の「性分」にそぐわないのかもしれない。神から与えられた自分の身体の臓器を他の人の生命と福利のために提供することに抵抗感の比較的少ない欧米の人たちと比較すると、あるいは日本人の身体感覚は曖昧で盪(とろ)いのかもしれない。神との対峙で鍛錬されてきたキリスト教徒の国の人間との違いが「臓器移植」という医学技術の適用に如実に表れているのかもしれない。そして正月には神社に初詣、結婚式はキ...[Ⅳ237]日本人とか日本社会とか(17)/日本人の”癒し"と"慰め” 

  • [Ⅳ236] 日本人とか日本社会とか(16) / 日本人は浅い民である

    【日本人は浅い民である。日本人は喜ぶ際にも浅く喜ぶ、怒る際にも浅く怒る、日本人はただ己の我(が)を張る際に強いだけだ。いまいましいことは日本人が怒る時の主なる動機であって、日本人は深く静かに怒る事ができないのである。誠に日本人の中には、人間が永久に深遠に怒る事がいかに正しくて神らしい事であるかをさえ知らない者が多い。だから彼らの反対はこわくない。彼らが怒る時には怒らせたままにしておけばいいのである。電気鰻(うなぎ)が溜めておいた電気を放散すれば、その後は無害になってしまうように、日本人は怒るだけ怒れば、その後は平穏な人となってしまうのである。だからもし外国人が日本人のこの心裡を知ってしまえば、彼らは日本人を扱う方法を知ってしまい日本人を少しも恐れなくなるであろう。‥‥「淵々呼びこたえ」(詩篇42:7)(注...[Ⅳ236]日本人とか日本社会とか(16)/日本人は浅い民である

  • [Ⅳ235] 日本人とか日本社会とか(15) / 安っぽい”安楽死論”  

    人間の生死は自由な航海のようなものだ。停泊地は定まってはいない。にもかかわらず無理に停泊地を選択せよと強制するのが日本の「安楽死の法制化議論」だ。この議論は日本では数十年もの間極細に続いている。過去には臓器移植法議論の過程でもこの問題が出てきた。往時は国民の議論がかなり沸騰して健全な議論が展開されたと記憶している。ところが最近大阪に根拠地を持つ維新なる政治集団の幹部が、発言の前後の事情は不詳なれども「安楽死法の制定を進めよう、皆が気づいていながら議論を進めないのはおかしいではないか、何なら私が議論をリードしたい」と言明し、彼の一部の取巻きと諂者、国会の議連の一部の者が「法制化」を急ぐべきだとこれに同調した。この大阪の団体幹部の言い分は一見もっともらしい。あたかも白馬の騎士のようだ。しかし事は「安楽死」の法...[Ⅳ235]日本人とか日本社会とか(15)/安っぽい”安楽死論”  

  • [Ⅳ234] 日本人とか日本社会とか(14) / 鑑三翁の気骨「不敬事件」  

    先述の君が代最高裁判決を読みながら、私は鑑三翁の不敬事件を思い起こしていた。鑑三翁は1891(明治24)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆(のはずはないのだが)に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって密告され批難された。この間マスコミは既に名の知られていた鑑三翁を指弾した論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。基督教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返した。いずれも全ては明治政府及びこれに連なる”お上”への恭順を示す迎合だった。こうしたこともあって鑑三翁の妻・かずは健康を崩し病いを得て同年死去した。この妻の死は、鑑三翁にとって人生最大ともいえる深刻な危機となった。このことは明治...[Ⅳ234]日本人とか日本社会とか(14)/鑑三翁の気骨「不敬事件」 

  • [Ⅳ233] 日本人とか日本社会とか(13) / ”愛国”を叫ぶ者たちの虚ろ

    新型コロナウイルス感染拡大中の20年3月、東京都立学校全ての卒業式で「君が代」が斉唱されていた。全国一斉休校となり飛沫感染を懸念する学校で、合唱歌や校歌も歌わず卒業証書を手渡す際にも生徒の名前を読み上げることもしない中で、何故「君が代」が歌われたのか。それは東京都教育委員会の指示によるものだった。誠に珍奇で居心地の悪い記憶として残っている。私はこの時に思い出した記事があった。『卒業式などで「君が代」の斉唱時に起立しなかったため、再雇用を拒まれた東京都立高校の元教職員が、都に賠償を求めた訴訟の上告審判決が(2018年7月)19日、最高裁第一小法廷であった。一、二審判決は都に約5千万円の賠償を命じたが、山口厚裁判長は「都教委が裁量権を乱用したとはいえない」としてこれを破棄し、原告側の請求をすべて棄却した。君が...[Ⅳ233]日本人とか日本社会とか(13)/”愛国”を叫ぶ者たちの虚ろ

  • [Ⅳ232] 日本人とか日本社会とか(12) / 畸形の司法社会

    ロシアがルハンスク及びドネツクにおいてジェノサイド行為が発生しているとの「虚偽」の主張を行いウクライナに対する軍事行動を行っているとして、2023年2月26日ウクライナ政府はロシアをICJ(国際司法裁判所)に提訴した。ウクライナの要請に基づき、ICJはロシアが2022年2月24日にウクライナの領域内で開始した軍事作戦を直ちに停止することを求める暫定措置命令を発出した。またウクライナで行われた戦争犯罪を捜査してきたICC(国際刑事裁判所)は3月17日、ロシアのプーチン大統領及び子どもの権利を担当する大統領全権代表に対して、戦争犯罪の疑いで逮捕状を発出した。ロシアが侵略したウクライナの地域からは多くの子どもたちがロシア側に拉致移送されているという確たる報告がある。聖書にも戦闘で敗走した国の子どもたちが占領国に...[Ⅳ232]日本人とか日本社会とか(12)/畸形の司法社会

  • [Ⅳ231] 日本人とか日本社会とか(11) / 偽善/忖度/不法に満ちた日本の司法

    ※プーチンロシア軍がウクライナへの侵略を始めてから1年が経過した。未だにプーチンロシア軍の侵略と暴虐が続いている。プーチン大統領は侵略当初にはウクライナ全土の占領は72時間で完了すると見ていたらしい。が、悪魔の奸計は失敗した。ウクライナゼレンスキー大統領及び政権幹部、何よりもウクライナ国民はプーチンロシアの侵略に反抗し抵抗を続けている。ウクライナの多くの女性や子ども、老者たちは隣国ポーランド等に避難したが街に残っている者も数多いる。女性兵士を含めたウクライナ兵士たちの士気は高い。プーチンロシア軍兵士の士気は低く未熟なためロシア兵の犠牲者は極端に多い。国連加盟国の大半はウクライナを支持している。EU及び米国等は多くの戦車や武器供与、支援物資の提供をウクライナに続けている。これに対しプーチンロシアは日々数百以...[Ⅳ231]日本人とか日本社会とか(11)/偽善/忖度/不法に満ちた日本の司法

  • [Ⅳ230] 日本人とか日本社会とか(10) / 薩長政治の残滓が今も

    鑑三翁が明治から昭和に至るまで、「聖書」を通して往時の人たちに語りかけた物事は、神に遣わされた預言者的資質を有した人間と称するにふさわしい鑑三翁の天賦の才を示す。それらは鑑三翁の心のメッセージであり精神性の深さと高さを示していて「真理」を突いている。まさに石牟礼道子氏の言う「心の寺」を常に見ていたのが鑑三翁だった。それは世俗社会に役立ち実利的で”実学”を重んじて世間を上手に渡り懐に財を成すことを重視した先述の福澤諭吉には、どう転んでも表現しえない世界観であった。今鑑三翁が生きていて今日日の日本の世情を見たとしたら、これをどのように認識し言論を展開しただろうか‥ということに私は強い関心を抱く。先述のように鑑三翁の「社会改良」の考え方は単純なものである。個人の「改良」があって初めて社会や国家の改良が果たせると...[Ⅳ230]日本人とか日本社会とか(10)/薩長政治の残滓が今も

  • [Ⅳ229] 日本人とか日本社会とか(9) / 精神滅びて亡国の民なり

    【国が滅びるということは、山が崩れるとか、川が乾上るとか、土地が落込むといったことではない。例え日本という国が滅びたところで、富士山は変わらず青空にそぴえ、利根川も木曽川も今の通りに流れ、田畑には変わらず米や麦が育つであろう。‥‥国というものは土地でもなければ官職でもない。国はその国民の精神である。この精神さえあれば、その土地が他人の手に渡ることがあっても、その国が滅びることはない。あたかも今日のユダヤ人が、土地はトルコ人の手にあるにもかかわらず、有力な国民であるように、又アメリカ人がその州知事又は市長として外国のドイツ人やアイルランド人が就任しているにもかかわらず、立派な独立した国民であるがごときである。国民の精神が失せた時にその国は既に滅びたのである。国民に相愛の心がなく、人々が互いに猜疑心を持ち、同...[Ⅳ229]日本人とか日本社会とか(9)/精神滅びて亡国の民なり

  • [Ⅳ228] 日本人とか日本社会とか(8) / 野暮天ばかり

    鑑三翁は薩長政府の中核をなす薩摩人(鹿児島)と長州人(山口)、これを支える肥後人(熊本)、福澤諭吉の佐賀人ら「九州人」を毛嫌いしている。一見これは鑑三翁の”差別意識”のようにも受け取れるが、そうではない。鑑三翁はごく普通の生活をしている九州の市井の人々を嫌ったのではない。悪政の限りを尽す明治政府とこれを取巻き利得をお互いに分かち合う権力側の政治家や経済人を嫌悪していたのである。そして鑑三翁は、オレは九州人は嫌いだと言って薩長政府を批難しながら、九州人からの反撃の言葉を誘導しているかのようだ。それも鑑三翁の狙いであった。反撃がくればそれに対して正面から堂々と反駁しながら、実は‥と言って真意を吐露するわけだ。これは言ってみれば弁論の技法の一であり、聴衆を驚かせたり反撃させたり大笑させたりすることで、弁士である...[Ⅳ228]日本人とか日本社会とか(8)/野暮天ばかり

  • [Ⅳ227] 日本人とか日本社会とか(7) / 田中正造翁の侠気やよし

    明治政府は欧米列強と肩を並べようとして、富国強兵のスローガンを掲げて様々な産業振興策を展開した。その一つに足尾銅山の開発がある。1877(明治10)年には、実業家・古河市兵衛が渋沢栄一の出資が後押しとなり足尾銅山の再開発に乗り出した。その結果足尾の産銅量は1893(明治26)年には年間5000tを超え全国一の銅山に成長した。銅は導電率に優れ世界の電気産業を牽引する必須の金属であった。ところが足尾銅山の開発と隆盛は、一方で深刻な環境被害を生み出した。木材需要の急増で周辺の山林は伐採され精錬所の煙害で酸性雨による立ち枯れを起こした。また銅の生産過程で生じる鉱滓から大量の鉱毒が発生し周辺の土壌や渡良瀬川に流出し、鉱毒による魚類の死滅や米・耕作物の立ち枯れが深刻となり、近隣住民の生活を脅かし続けたのである。これに...[Ⅳ227]日本人とか日本社会とか(7)/田中正造翁の侠気やよし

  • [Ⅳ226] 日本人とか日本社会とか(6) / 拝金宗宗祖・福澤諭吉

    明治維新直後の明治政府の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼り財政基盤はぜい弱であった。そこで維新政府は1873(明治6)年には地租改正に着手して税源を確保、引き続きそれ以外の税制改革に着手し、安定した国家財政基盤を確保するようになって行った。その際には各国の収税法等財政制度を紹介していた福澤諭吉の『西洋事情』(1866~70年にかけて刊行)が明治政府の基本資料の一つとして重用されたと言われている。福澤も財政制度改革に顧問格で関与した。福澤諭吉は今の我々日本人にとっては一万円札を飾ったりして馴染みのある人物だ。彼はどのような人物なのか。「福沢諭吉:〈1835-1901〉、幕末-明治時代の思想家。豊前中津藩(大分県)藩士。大坂の適塾で学び江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開く。英語を独学して幕...[Ⅳ226]日本人とか日本社会とか(6)/拝金宗宗祖・福澤諭吉

  • [Ⅳ225] 日本人とか日本社会とか(5) / 悪銭潔しとせず

    金銭は尊いものである。これが無ければ生活が成り立たない。それは人間・社会に恩恵を与えるものである。しかし金銭の使い方を間違えると、それは”魔物”となってしまう。鑑三翁の忠告である。「錢魔(ぜんま)を斥くるの辞(ことば)」として次のように記す。(ここでは現代語訳しない。)【錢魔よ、錢魔よ、汝に金銀あり、土地あり、家屋あり、銀行あり、政党あり、教会あり、宣教師あり、伝道会社あり、而してまた幸福なる家庭も、子女の教育も汝の手に存すると称す、‥然れども錢魔よ、爾は確かに悪魔の族なり、時には慈善の名を籍りて天使の形を装ふと雖も爾は爾の真性に於て純然たる地獄の子たるなり、‥願くは我が主イエスよ、爾の能(ちから)に由り我をして此『二十世紀の悪魔』に勝つを得しめ給へ、‥】(全集13、p.162)労せずして不当に得た金を「...[Ⅳ225]日本人とか日本社会とか(5)/悪銭潔しとせず

  • [Ⅳ224] 日本人とか日本社会とか(4) / 人の遺せる最大遺物とは

    薩長政府のいわば「金銭万能主義」に対する鑑三翁の言論による指弾は痛烈なものであった。しかし鑑三翁は「金銭の大切さ」を否定していたわけではない。むしろ「金銭」の重要性を鑑三翁は十分に認識していた。1891(明治24)年30歳の時に、病の床にありながらいわゆる「教育勅語奉読式の不敬事件」にて職を追われ、その直後に妻かずを喪った鑑三翁はその後困窮していった。その悲嘆と困窮の只中で執筆されたのが『基督信徒の慰め』、『求安録』(共に1893年刊行)である。これら著作は生活費捻出のために出版されたと考えられる。しかしキリスト教系の出版物には売り部数に限界があった。その当時は貸本屋から毎月借金をし、住居も貸本屋の離れを借りていた。『万朝報』で薩長政府に対する痛烈な批判を展開したのはその後のことである。鑑三翁はその後も『...[Ⅳ224]日本人とか日本社会とか(4)/人の遺せる最大遺物とは

  • [Ⅳ223] 日本人とか日本社会とか(3) / 薩長政府は非なり

    鑑三翁は幕末に生まれた高崎藩の武士の子である。これと関係があるのかどうかはともかくとして、鑑三翁はいわゆる”薩長人”を嫌っている。それはなぜか。明治政府の体制が薩摩及び長州の役人たちの専横的/独善的策謀により仕上がりつつあったからである。日本が江戸幕藩体制から明治新政府へと外国勢力の影響を強く意識して体制の変革を遂げていく過程では、価値観の変容と醸成の必要に迫られた。そのための政治的/経済的/社会的/教育的な混乱が必然であったとは言え、薩長政府の人事の独断と恣意性(猟官制)、及び政府が育成した産業経済界の傍若無人、強欲と破廉恥と腐敗と無能ぶりは目に余るものがあり、それが鑑三翁の言論人としての誇りに火をつけたのだろう。鑑三翁は薩長人を嫌ったのではなく薩長政府の要人及びこれに連なる者たちを批判/指弾したのだ。...[Ⅳ223]日本人とか日本社会とか(3)/薩長政府は非なり

  • [Ⅳ222] 日本人とか日本社会とか(2) / “心の寺”をみる者たち

    鑑三翁が1898(明治31)年に創刊した『東京独立雑誌』(注:『聖書之研究』の前身の月刊誌で1900(明治33)年に創刊され72号まで続いた)第15号に鑑三翁の論文「社会の征服」が掲載されている。この論文に触れて石牟礼道子氏は次のように記している(内村鑑三選集6、「内村鑑三を読む」、p.279)。『社会とは何かと問うて、「社会学者てふ冷的人間の定義を離れて常識的に其真相を究むれば、是れ『俗人の集合体なる俗世界』たるに外ならず」といい、「之に社会てふ学的名称を附すればこそ、何となく奥ゆかしく」見えるが、実は「頼むべき、敬すべき者」にあらずして、八頭八尾のやまたの大蛇のごときものであると鑑三はいう。』石牟礼氏は、詮ずるところ社会学者なる者の言う社会などというものは俗物の集まりにすぎない、これに”社会”などとい...[Ⅳ222]日本人とか日本社会とか(2)/“心の寺”をみる者たち

  • [Ⅳ221] 日本人とか日本社会とか(1) / ケネディ、鑑三翁を読む

    鑑三翁の著作に『代表的日本人』(鈴木範久訳、岩波文庫、1995)がある。これは鑑三翁が1908(明治42)年に刊行した英文書”RepresentativeMenofJapan”の翻訳書である。鑑三翁はアメリカ留学中には当然のことながら「日本人」を強烈に意識した3年間であった筈だ。これは『余は如何にして基督信徒となりし乎』にも強く表現されている。アメリカ留学は病気のため3年間で切り上げざるを得なかったのだが、この留学は鑑三翁の期待に添うものではなかった。先述のように当時経済的に世界をリードしつつあったアメリカは、キリスト教における清教徒的信仰精神は退行し、金銭万能主義が国の隅々まで浸透し享楽への価値観が世を覆っていた。キリスト教会世界もその影響は免れることはできなかった。このようないわば”荒野を喪失した”ア...[Ⅳ221] 日本人とか日本社会とか(1)/ケネディ、鑑三翁を読む

  • [Ⅳ220] 女が男を保護する事(20) / 私は保護されてきた

    私の妻若菜が短い闘病生活を経て天に召されてから40年以上が経過した。彼女は入院中に何度かの外泊をしている。二人の子どもたちとゆっくり時間を過ごし、私たちに食事をつくってあげるのだと大きな希望をもって外泊をした。その時の様子は、連載の[Ⅲ144]我がメメントモリ(11)/ワカナ幸せだった!(220523)に掲載した。その一部を再掲する。※『夕食後、ボクは敬一と静雄を風呂に入れ、母と好子叔母も風呂に入った。そして敬一と静雄を二階の寝室に寝かしつけた頃に、若菜は目覚めた。「‥若菜は気をとり直すかのように、小さくうなずいた。そして「お風呂に入りたい」と言った。母と好子叔母が口をそろえるかのように、お父さんに入れてもらいなさい、と言い、ボクもそうしてあげようと思い準備をし始めた。できるだけぬるいお湯がいい、と若菜が...[Ⅳ220]女が男を保護する事(20)/私は保護されてきた

  • [Ⅳ219] 女が男を保護する事(19) / 看護は女性性そのもの

    助産師たちは川嶋さんの話に引きずり込まれ、全員がハンケチを出して涙を拭うようにしながら聞き入っています。恐らくは彼女たちはこのように思っている‥『水道水も十分でない、電気も頻繁に停電をする、薬もなく医療機器もほとんどない、医師もほとんど常駐しない、そんな中で自分たちが毎日妊産婦や子どもたちに行うことのできるのは、声をかけて励ましたり、声掛けで安心させたり、分娩のさなかで産婦の隣りに座り手を握ってお産を促したり、胎児が産道から無事に出て来たら臍帯を処置したり沸かしておいたお湯で産湯を使ったり、そして赤ん坊がこの世で初めて泣き声を発した時には産婦と一緒にハグして喜びを分かち合う、赤ん坊が熱発で運び込まれたときには母親と共に赤ん坊の様子を十分に観察し、水で常に冷やすように母親に指導し、共に観察しながら母親を励ま...[Ⅳ219]女が男を保護する事(19)/看護は女性性そのもの

  • [Ⅳ218] 女が男を保護する事(18) / ”てあて”という看護

    この日の講師は川嶋みどりさん(注:日本の看護師、日本赤十字看護大学名誉教授、1931-。日本での専門職看護職の専門性を多くの著作によって開発・啓発した。フローレンス・ナイチンゲール記章受賞。『看護の力』〈岩波新書、2012〉など一般書もある。)。主題は『てあてTEATE』。聞き手は10人のアフリカ諸国の助産師たち。彼女たちはほとんどが最貧国と言われるアフリカ諸国1か国1名の割り当てで来日していた。日本で実地訓練を含めたより専門的な助産師トレーニングを6か月間行うプログラムのとある一日の研修。川嶋さんは通訳を介して助産師たちに語りかけた。「日本での研修では、高度先進医療機関で機器の整った病院での研修を期待して来日されたのだと思います。でも私は皆さんのお仕事に関して、そのような高度の機器の話をするつもりはあり...[Ⅳ218]女が男を保護する事(18)/”てあて”という看護

  • [Ⅳ217] 女が男を保護する事(17) / マリア出現/ルルド

    ユングの見解を続ける。ヤーヴェ(父神)は、義人ヨブが彼を追い越してしまったことをひそかに認め、人間の水準に追いつかなければならず、そのためには神は人間に生まれ変わらなければならないと考えた‥これがユングの独創である。そして神は自らの本質を変えようとするのだ。人間は前のように滅ぼされることになるのではなく《救われる》ことになる。この決断には人間を愛する《ソフィア》の影響が認められる。つまり造られるのは人間ではなく《人間を救うための》ただ一人の神人である。この目的のためには「創世記」と逆の手続きが使われる。男性である《第二のアダム〈キリスト〉》は最初の人間として直接創造主の手からもたらされるのでなく、《人間の女性〈マリア〉》から生まれる‥これがユングの結論だ。このたびの主導権は第二のイヴにある。こうして処女マ...[Ⅳ217]女が男を保護する事(17)/マリア出現/ルルド

  • [Ⅳ216] 女が男を保護する事(16) / 女の十全性/男の完全性    

    脇道が長くなって戻るべき道が見えなくなりそうなので元に戻る。「ヨブ記」に関してはもう一冊の名著がある。ユング『ヨブへの答え』(C.Gユング、林道義訳、みすず書房、1988初版)である。ユング(CarlGustavJung、1875-1961)は、スイス生まれの精神医学者。ユングは「ヨブ記」の書かれた時代を紀元前六百年から三百年の間、ソロモンの「箴言」から遠くない時期に成立したとする。ユングは「箴言」にはギリシアの影響の《印》が見られるが、それは《ソフィア》すなわち《神の知恵》、《完全に永遠なるもの》、創造に先立って存在せるもの、ほとんど実体化された女性的なプネウマ(注:霊のこと)であると記す。ここで《ソフィア》とは、「ヨハネによる福音書」のロゴス(注:1:1「はじめに言〈ことば〉があった」の〈言〉)と同じ...[Ⅳ216]女が男を保護する事(16)/女の十全性/男の完全性   

  • [Ⅳ215] 女が男を保護する事(15) / ユダヤ教指導者の寛容と思慮深さ

    鑑三翁「ヨブ記」解説の途中だが、少し脇道にそれる。「ヨブ記」のような異端とも思える著作を「聖書」の一巻として収載した編集当時のユダヤ人指導者たちの高い見識というか慧眼というか、寛容さについては驚くばかりである。私が一時期出来の悪い信徒として通っていたプロテスタント教会の指導者は、私が「ヨブ記」の事に関して質問をすると、返事はするものの本当にこの書の趣旨を深く学んでいるようには思えず、明らかにこの書を軽視している様子だった。彼は内村鑑三に関しては「無教会主義」の一言で無視し、鑑三翁をキリスト教背教の徒としてしか見ていなかった。さて聖書の中でもう一つ異彩を放つ書として「伝道の書」(共同訳聖書では「「コーヘレトの書」)がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさい...[Ⅳ215]女が男を保護する事(15)/ユダヤ教指導者の寛容と思慮深さ

  • [Ⅳ214] 女が男を保護する事(14) / ヨブの妻がいた!

    聖書には「ヨブ記」がある。ヨブという人は実在の人物とされている。『新聖書辞典』によれば、彼の生地はウズという地でアラビア半島北部の地。この記録を遺した記者はおそらくイスラエル人で広く外国を旅行し見聞を広めた国際人であるとされている。成立は前5~3世紀とされているが、いずれも諸説ある。鑑三翁には『ヨブ記講演』(岩波文庫、2014初版)がある。鑑三翁にとっての「ヨブ記」は自身の身近な経験に照らして強い共感を抱いていた。「ヨブ記」に関しては合計3回の講演を行っている。1920年には東京で行われた「内村聖書研究会」の「ヨブ記講演」がスタートした。これは鑑三翁の第三回目の講演である。東京の会場には毎回数百人の聴衆が集まり立ち見の人が出るほどであったと鑑三翁が記している。この連続講演会は畔上賢造氏によって筆記されて毎...[Ⅳ214]女が男を保護する事(14)/ヨブの妻がいた!

  • [Ⅳ213] 女が男を保護する事(13) / 女は「存在」/男は「現象」

    再び多田氏の『生命の意味論』の話に戻る。◎アポトーシスと性:アポトーシスは人間の性の決定にも関係しています。男性生殖器の輸精管の大もとになるウォルフ管は、男性ホルモンの影響で発達しますが、その時女性生殖器の輸卵管の大もとであるミューラー管がアポトーシスによって退縮してゆくという過程が絶対に必要です。つまりミューラー管の細胞が「死ぬ」という過程が起こらなければ男性生殖器が完成しないのです。それに対してミューラー管は、ウォルフ管が死ななくても自然に発生して輸卵管を作るので、ミューラー管にアポトーシスが起こらなければ、人間はみんな女あるいは両性具有者になってしまうことになります。ちなみに精巣から分泌される男性ホルモンであるアンドロゲンが働かないと男性器となるウォルフ管が退縮してしまって、自然に女性化してしまいま...[Ⅳ213]女が男を保護する事(13)/女は「存在」/男は「現象」

  • [Ⅳ212] 女が男を保護する事(12) / 死は”発見”された

    ◎アポトーシスとは:アポトーシス(apoptosis)とは、アポ(apo、下に、後に)とプトーシス(ptosis、垂れる、落ちる)というギリシャ語を合成した語で、もともとは医学の祖といわれるヒポクラテスが用いたとされています。病気というものを気象との関係でとらえたヒポクラテスは、秋の西風と病気の発生に強い因果関係を認めています。アポトーシスとは、もともとは秋とともに始まる「落葉」という現象をさしたものと言われています。落葉は風のような外力によって引き起こされるわけではなくて、季節のめぐりとともに植物の葉の付け根の細胞に起こる生理的な細胞死の結果生ずるものです。この細胞死は落葉植物に遺伝的にプログラムされています。言い方を変えれば死をプログラムしている遺伝子があるはずです。細胞というものは一定の時間と条件の...[Ⅳ212]女が男を保護する事(12)/死は”発見”された

  • [Ⅳ211] 女が男を保護する事(11) / 生命とは何か‥多田富雄さん

    今日自然科学の世界では鑑三翁の時代に比較すると想像もできないほどの長足の進歩を遂げ、膨大な知見が蓄積される時代となった。生命科学や生老病死に関する医学生物学的知識は目を見張るほど日々新しい知識が加わり続けている。人間の生命現象(研究)は現在どのような地点に立っているのか、私も強い関心を抱くがその全貌を把握することは到底不可能である。鑑三翁が私と同時代の人間であったとしたら、理学の人・内村鑑三は、この今の時代の「生命科学」の成果を十二分に読み込んで「聖書」及び神とキリスト・イエスと対話を重ねたことだろう。そして鑑三翁は現代の解明された「生命科学」の知見に〈神の存在をより鮮明に知覚し、神の造化の精緻を再確認し、鑑三翁の思想をより深化させていった〉と私は確信している。ここからは鑑三翁が今の時代を生きていたら覗い...[Ⅳ211]女が男を保護する事(11)/生命とは何か‥多田富雄さん

  • [Ⅳ210] 女が男を保護する事(10) / 鑑三翁と進化論

    鑑三翁の活動していた時代は、ルネサンス/宗教改革/産業革命を経験したヨーロッパでは、生物学や医学の知識が急速に増大し革新的で近代的な曙光を浴びつつあった時代である。鑑三翁も海外からの学問的な成果を理学の人として取り込み、反芻し、評価し原稿を執筆していたことは疑う余地はない。キリスト教の世界でもダーウィンの進化論をめぐって議論は沸騰していた(注:CharlesRobertDarwin、イギリスの地質学者/生物学者、1809-82、生物の種の形成理論を構築し進化生物学を発表。著書OntheOriginofSpecies(1859)『種の起源』を発表)。鑑三翁は進化論に関しては次のように記している。【私は始めから進化論はキリスト教の敵ではないことを認めた。いやむしろキリスト教はこの学理に準じて解釈されるべきもの...[Ⅳ210]女が男を保護する事(10)/鑑三翁と進化論

  • [Ⅳ209] 女が男を保護する事(9) / 理学の人鑑三翁

    鑑三翁は理学の人だった。1881(明治14)年に札幌農学校を卒業し農学士として札幌県御用係として就職、一度は病気を理由に退職するものの、1883(明治15)年には農商務省農務局水産課に就職し、日本産魚類目録の作成等に従事している。またこの頃には下記のような論文も執筆している(全集1に収載)。タイトルのみ掲げた。「千歳川魚減少の源因」「北海道鱈漁業の景況」「鰊魚人工孵化に関する試験の結果」「鱈ノ発生」「漁業ト気象学ノ関係」「鱈魚人工孵化法」「石狩川鮭魚減少ノ源因」「漁業ト鉄道ノ関係」「豚種改良論」等。鑑三翁が理学の人であったことを彷彿とさせる。石牟礼道子氏(注:小説家、詩文家、社会運動家、1927-2018、チッソによる水俣病の責任訴求に生涯を捧げた。『苦海浄土わが水俣病』『創作能不知火』など著書多数。全集...[Ⅳ209]女が男を保護する事(9)/理学の人鑑三翁

  • [Ⅳ208] 女が男を保護する事(8) / “台所”は小事にあらずして大事

    【世界の仕事を身に担われた主が、家庭の小事に懸命になっている賤しい婦人に心を止めることに何の意味があるのかと問うのが世の中の人の常である。しかしながら人類の救い主なるがゆえに、彼は彼女に能力を注がれたのである。そしてイエスのこの日この時にペテロの義母(注:原文は「岳母」)は最も重要な地位に立ったのである。「彼女はすぐに床から起きて彼らに仕えた」というのである。イエスとその弟子たちに食事を提供し休息を与えることのできる者は、彼女をおいて他にはいなかったのだ。伝道というものは単に思想豊かで弁舌の巧みな伝道師だけのものではない。彼らを養い、彼らに休息のできる住居を与える者もまた伝道の大きな役割を担うのである。イエスはこの日世界教化のための重要な役割を担う機関としての女性を支援する必要性を認めて、それを祝福するた...[Ⅳ208]女が男を保護する事(8)/“台所”は小事にあらずして大事

  • [Ⅳ207] 女が男を保護する事(7) / 家庭の人イエス

    【しかしながら神の子にして人類の主としてのイエスが為し給われた事であれば、これにははるかに深い意味がなくてはならない。その意味を探るのが我々の義務であり喜びなのである。〇私は思う。イエスは”家事を祝福する”ために、この奇蹟を行われたのである、と。あたかも結婚を祝福するためにカナにおいて水をぶどう酒に変えたという奇蹟が行われたのと同じである(注:ヨハネによる福音書1:2以後。イスラエルのガリラヤ地方のカナという村で開かれた結婚式に、イエスと母マリアと弟子が招かれた際に、宴会の途中でぶどう酒が底をついてしまったので、イエスは水をぶどう酒に変えるという奇蹟を起こした)。イエスはもともと家庭の人であった。彼のささやかなナザレの家庭は、彼の地上の天国だった。彼は家庭の力というものをご存じだった。家庭は国の基礎であり...[Ⅳ207]女が男を保護する事(7)/家庭の人イエス

  • [Ⅳ206] 女が男を保護する事(6) / 女性性に尊崇の念を

    さて本日は鑑三翁がキリスト・イエスの”女性性”に深く尊崇の念を抱いていたことを示す一文を紹介する。この一文に示された鑑三翁の視点は「全集」に収載された論稿の中でも珍しいものである。「女が男を保護する事」を考える上で重要な示唆を含んでいるので、少し長文だが引用して現代語訳した(全集27、キリスト伝研究、p.385-)。この論稿の要点は、「家事」を専らとする家庭の主婦の仕事は、狭義の家事の範疇を超えて家族全員の至福のためのはたらきであって、それは神の仕事を支える愛の所作であり女性性のなせる業であり、男性には到底手の届かない所作であるとする。そして人間の真の幸福は彼女たちの手から生まれ出て来ることを鑑三翁は感動の心と共に記している。「女が男を保護する」という視点から読んでみたい。少し長いがご寛恕のほどを。現代語...[Ⅳ206]女が男を保護する事(6)/女性性に尊崇の念を

  • [Ⅳ205] 女が男を保護する事(5) / 「義≠マリア/母/女性」なのかも

    武田清子氏は、内村鑑三の神観には武士道的な厳しい”父”的要素が強く、赦しのやさしさとしての”母”的要素が欠けていることを指摘している。そしてキリスト者としての信仰の宣べ伝え方についても、価値観の変革を強烈に迫る姿勢が強かった。これに比して内村と同門の新渡戸稲造(注:岩手県出身の教育家・思想家〈1862-1933〉。1877年札幌農学校入学、内村鑑三の同期生。国際連盟事務局次長、東京帝国大学教授歴任)は母のように温かい抱擁的で寛容の人だったと武田氏は記す。鑑三翁が生きていたら、武田氏の指摘をどのように聞いただろうか。そして武田氏は鑑三翁が「神の義」を極端に強調していることをあげている。それは以下の言葉からも明らかであると言う。武田氏が引用した鑑三翁の記述部分を「現代語訳」した。【どんな時に話をしても害がなく...[Ⅳ205]女が男を保護する事(5)/「義≠マリア/母/女性」なのかも

  • [Ⅳ204] 女が男を保護する事(4) / 神の母的特質が発見される

    先述の近代日本思想史の碩学武田清子氏(1917-2018、元国際基督教大学名誉教授)は、日本近代思想史研究において欠かせない人物の一人として内村鑑三を挙げている。武田氏の著書『峻烈なる洞察と寛容ー内村鑑三をめぐって』(教文館、1995)では、「“父なる神”のシンボリズムーフェミニズムの思想状況の中で」と題して、内村鑑三研究における興味深い視点を記している(注:初出は「内村鑑三全集」第25巻「月報」、1982)。武田氏はこの本の冒頭でエキュメニズム(注:Ecumenism。歴史的に分派を繰り返してきたキリスト教世界の教派統一のための運動。20世紀初頭に始まったプロテスタント諸教会、カトリック教会、東方正教会などによる教派統一のための運動を指す。世界教会運動、エキュメニカル運動と称される。)の運動の生みの親と...[Ⅳ204]女が男を保護する事(4)/神の母的特質が発見される

  • [Ⅳ203] 女が男を保護する事(3) / 保護/抱き/包む存在 

    私が長年馴染んできた口語訳聖書(1963)の旧約エレミヤ書(31:22)には次のような箇所がある。これが今回の連載「女が男を保護する事」の主題だ。「主は地の上に新しい事を創造されたのだ、女が男を保護する事である。」この部分は日本のキリスト教界(カトリック及びプロテスタント関係者等)の人たちが関わって翻訳した今日の新共同訳聖書(1987)では「主はこの地に新しいことを創造された。女が男を保護するであろう。」とある。基本的な違いはない。また英語版聖書の一つは次のように記されている。”FortheLordhascreatedanewthingintheearthーAwomanshallencompassaman.“(注:明治元訳聖書(1884)では「エホバ新しき事を地に創造らん女は男を抱くべし」とある。また英語...[Ⅳ203]女が男を保護する事(3)/保護/抱き/包む存在 

  • [Ⅳ202] 女が男を保護する事(2) / 何ゆえ神を”父”と呼んだのか?

    新約聖書/マタイによる福音書第5章以後には、キリスト・イエスが弟子たちに語った「山上の福音」と言われる重要な箇所がある。その中で神に祈る時にはこのように祈りなさいとしてイエスは弟子たちに語る。「だから、あなた方はこう祈りなさい。天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」(口語訳聖書。マタイによる福音書6:9)このゴシック文字の「父」の名詞は、明治訳聖書、大正訳聖書、新共同訳、日本正教会訳、フランシスコ会訳等でも全て「父」だ。ラテン語聖書では”Pater”、英語訳聖書では”Father”つまり”父(親)”。そもそも新約聖書の「主の祈り」は次のように示されている。教会で指導者と信徒が共に神に捧げる祈祷の言葉だ。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈り...[Ⅳ202]女が男を保護する事(2)/何ゆえ神を”父”と呼んだのか?

  • [Ⅳ201] 女が男を保護する事(1) / かんのんさまと皆が言う

    岡本喜八監督作品に『肉弾』という映画があった。調べてみると1968年の作品。そのころ映画狂いだった私は恐らく新宿のATG(アートシアターギルド)で見たのだろう。映画のあらすじを断片的な記憶でたどってみた。広島と長崎に原爆が落とされソ連が参戦した頃、幹部予備候補生の〈あいつ〉(寺田農)は特攻隊に編入された。いきなり神様扱いされた〈あいつ〉はつかの間の休みに街に出かける。街は米軍の空襲で焼野原。無性に活字が恋しくなった〈あいつ〉は一軒のバラックの古本屋に飛び込む。ろくな本も置いてなかった。そこには空襲で両手を失った店主のオジイサン(笠智衆)とその妻オバアサン(北林谷栄)がいた。両手の無いオジイサンが〈あいつ〉に下の世話を頼み小便の世話をしてあげる。オジイサンは彼に言う、「生きてりゃ小便をすることだって楽しいで...[Ⅳ201] 女が男を保護する事(1)/かんのんさまと皆が言う

  • [Ⅳ200] 心に荒野を持て(8) / 狂人に世界を委ねるなかれ!

    第一次世界大戦は日本も遅れて参戦した。鑑三翁も言論人として宗教家として、この戦争の悲劇性につき『聖書之研究』を中心に多くの論稿を執筆している。以下は欧州の戦乱(第一次世界大戦)とキリスト教の相関について触れたものである。【不信者は考えている‥キリスト教信者とは神の庇護のもとにある者たちで、彼らはどんな罪を犯しても、神は彼らを罰することはないのだ、と。しかしながらこれは大きな誤りである。キリスト教信者は神の愛する児であるがゆえに、神は彼が罪を犯した場合には、不信者を罰されるよりもはるかに厳しく、キリスト教信者を罰されるのである。私たちキリスト教信者が時に神から受ける刑罰というものは、不信者の予想を超えるものである。そのようにキリスト教国家は非キリスト教国家よりも遙かに厳しく酷く神に罰せられるのだ。‥国家はそ...[Ⅳ200]心に荒野を持て(8)/狂人に世界を委ねるなかれ!

  • [Ⅳ199] 心に荒野を持て(7) / エリオット”waste land(荒地)”  

    1914年から18年まで続いた第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリアを中心とした”同盟国”とイギリス・ロシア・フランスの三国協商との対立を背景に起こった、まさに人類史上初の”世界大戦”だった。往時の”同盟国”はドイツ帝国・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国、”連合国”はイギリス・フランス・ロシア帝国・日本・アメリカ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・中華民国・イタリア。各国入り乱れての戦争では、産業革命以後人間が手にした新しい革新的な諸技術と資金は、戦闘機や偵察機、潜水艦や戦車、化学兵器(毒ガス)や機関銃などの武器開発に投資された。このことによって、兵力以上に近代科学技術による戦力が増強され、国家総動員が戦争の勝利の要因と考えられて戦争の影響は一般国民にまで拡大していった。その結果もたらされた戦争の...[Ⅳ199]心に荒野を持て(7)/エリオット”wasteland(荒地)”  

  • [Ⅳ198] 心に荒野を持て(6) / 教会が破門された!

    野球場に人を集めて何十台ものスピーカーでカリスマ的伝道者の説教を聞かせるようなアメリカの教団の主宰する大規模集会や教団のイベントや学習会を開催すれば、神は多くの者たちが集まった場に必ず降りて下さるのだから、このような集会を頻回に開催しようではないか‥といった考え方では、信仰の真理を説明することはできない。毎週日曜日に集会に来れば神への信仰が確立し、洗礼を受ければその信仰はより堅くなり、キリスト者として成長していくというのは楽観的に過ぎると鑑三翁は警告する。信仰とは神と単独者との「直示」なのだ、そのために人間は常に”荒野”を抱かなければならない‥‥これが鑑三翁の確信である。【多くの浅薄な偽りのキリスト教に接すると、私は古い日本道徳に親しみを覚えるのだ。私は時に叫びたい‥‥Iwouldratherbeahea...[Ⅳ198]心に荒野を持て(6)/教会が破門された!

  • [Ⅳ197] 心に荒野を持て(5) / 交際と比較で喪う「荒野」

    「無教会」の確信に至る端緒がアメリカ留学にあったことは間違いがないが、その一方で鑑三自身の「信仰」そのものへの深い理解があったことを忘れてはならないだろう。次に鑑三翁の信仰観を荒野の世界観とともに考えてみたい。【信仰は人と人との交際の結果としてもたらされるものではない。人間は社交的動物であるよりも、むしろ”拝神的”動物である。ギリシャ語のantholoposは「上を仰ぐ者」の意味だという。周囲に人間がいないと思って、上を仰いで至上者(いと高き者)と交通する者が古人の見た人間であるという。ところが今日の人間は「世論」を作らなければ何事も為すことができないと考えている。‥しかしながら昔から今日に至るまで、「世論」が人類の進歩に寄与して成功した事柄はない。‥ゆえに「単独者」でもよい。いや「単独者」のほうがよい。...[Ⅳ197]心に荒野を持て(5)/交際と比較で喪う「荒野」

  • [Ⅳ196] 心に荒野を持て(4) / 荒野を喪失したアメリカ

    鑑三翁は1884(明治17)年にアメリカに渡った。アメリカでは一人の慈善家の援助でペンシルバニア州の障がい児施設で働いた。翌1885年にはマサチューセッツ州のアマースト大学に入学、翌年にはコネチカット州のハートフォード神学校に入学し本格的な神学の履修に入るも、病気のために退学し1888年には帰国した。大きな希望をもってアメリカに渡った鑑三翁のアメリカ留学体験は決してこれに応えるものではなかった。だがアメリカ滞在中に鑑三翁は多くの優れたキリスト教の指導者、神学研究者、事業家に出会い帰国後も交流を続けた者も数多いた。往時のアメリカは急速に経済発展を遂げ世界経済を牽引する役割も担うようになっていた。国家の宿命でもあった金銭万能主義が国の隅々まで浸透し享楽への価値観が世を覆っていた。教会世界もその影響は免れること...[Ⅳ196]心に荒野を持て(4)/荒野を喪失したアメリカ

  • [Ⅳ195] 心に荒野を持て(3) / 自ら荒野に赴いたパウロ

    鑑三翁は、キリストの使徒たちや記者の手になる「四福音書」もさることながら、それ以前に書かれたパウロの著作物を高く評価している。パウロの手になる「ガラテア人への手紙」に関しては、次のように記して絶賛している。「この書はルーテル(注:MartinLuther、1483-1546、ドイツの神学者・聖職者。ローマ・カトリックから分離してプロテスタントが誕生した「宗教改革」の中心人物)が彼の鉄壁の拠り所とした書であり、この書があったゆえに16世紀の宗教改革は成功したのである」(全集17、p.346)。そして「ガラテア人への手紙」の「また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビアに出て行った」(1:17)を引用して、鑑三翁が神の前に立ち神の声を耳にした経験を以下のように記す。パウロが出奔したこのアラビア...[Ⅳ195]心に荒野を持て(3)/自ら荒野に赴いたパウロ

  • [Ⅳ194] 心に荒野を持て(2) / 荒野でのイエスの実存

    「聖書」の荒野とは何か。鑑三翁は何ゆえ"荒野"に強い関心を抱いていたのか。最初にキリスト・イエスの荒野体験を記録した「聖書」の部分を掲げる。「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけ...[Ⅳ194]心に荒野を持て(2)/荒野でのイエスの実存

  • [Ⅳ193] 心に荒野を持て(1) / 荒野での不思議体験!

    今から何十年も前のことになるが私はサウジアラビアの首都リヤド郊外の渓谷の遺跡にいた。中東諸国の技術協力の可能性を調査する同僚と二人の旅で、土日の休暇を利用して遺跡を訪ねたのだった。リヤドのホテルをガイドと共に早朝に出発して渓谷に着いた。乾上った岩と砂礫だらけの地に立った。秋の朝の強い日差しが私をさした。一瞬私は今自分のいる場所がわからなくなった。それは私自身の肉体が空に溶けていき肉の実体が失せたような不思議な感覚だった。耳を塞がれた透明人間のようだった。ひどく孤独を感じ不安になった。私は小石を足で蹴った。小石は小さな音を立てその音はながーく尾を引くように乾上った岩と砂礫の空に消えていく。見上げると闇のような空が見えた。群青よりも濃い漆黒だ。私の背後には朝の太陽が孤独な星のように輝いていた。私は茫漠としたド...[Ⅳ193] 心に荒野を持て(1)/荒野での不思議体験!

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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]
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