searchカテゴリー選択
chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

カテゴリーのご意見・ご要望はこちら
cancel
鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

tsuguchan
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/12/12

1件〜100件

  • [Ⅲ143]  我がメメントモリ(10) / 私はこの家の主婦

    玄関を入ると、顔をくしゃくしゃにして上気した表情の敬一が飛ぶようにして出迎えた。彼は全身でこの瞬間を待っていたのだ。敬!と言って、玄関で靴をはいたまま若菜はしっかりと敬一を抱きしめた。すぐに好子叔母が静雄を抱いて母と一緒に出てきた。静!お母さんが帰ってきたのよ、と若菜は言い、玄関先に座って静雄を抱きかかえて、しばらく頬ずりをしていた。若菜のこのやわらかな母親の表情も久しぶりのものだった。毎日毎日涙に沈んでいたボクたちの家は、ふたたび光が差し込んだように明るくなった。若菜は部屋を懐かしそうに歩き回った。二階のベランダにもボクが支えて上った。若菜の歩いたあとは、光の粉が振りまかれたように輝いた。『ここは私の家。私の家具。この家の匂い。天井のしみ。あの襖絵。旅行で買ってきた人形たち。子どもたちの沢山のおもちゃも生きて...[Ⅲ143]我がメメントモリ(10)/ 私はこの家の主婦

  • [Ⅲ142]  我がメメントモリ(9) / 懐かしい町・私の家・私の家族

    練馬の家は、それまで住んでいたさいたま市の家が狭くて通勤に不便だったので、敬一が3歳になった頃に転居した。さいたま市の家の売却代金を頭金にして銀行からの借入れで賄うにしても、当時の安月給では限度があったのだが、日曜日毎に敬一を連れて若菜と建売住宅の物件を探し回って見つけた家だった。若菜は、この家の玄関を入ったすぐ左にダイニングキッチンのあるところが気に入ったと言い、ボクはその一言でこの家を買うことにしたのだった。相変わらずの小さな家だったが、東京にしては周囲に自然も緑も多く、すぐ近くには公園もあり、彼女はとても気に入っていた。若菜はそのわが家が近づくと、太い欅の並木道の途中で、車をとめて欲しい、ここから歩きたいの、と言った。この道は、毎日敬一の幼稚園のバスの送り迎えで通っている道だった。そこで車を降りて、ボクは...[Ⅲ142]我がメメントモリ(9)/ 懐かしい町・私の家・私の家族

  • [Ⅲ141]  我がメメントモリ(8) / 最後の外泊 

    ボクの日記によると、若菜は3月に二度、4月には静雄の1歳の誕生日の12日と23日に家に帰ってきている。そしてこの23日の外泊が最後の帰宅になってしまった。担当医のO医師と、若菜が特に信頼していたK医師は、ある日ボクを呼んで言った。・・身体はこれから衰弱していく一方である、外泊を望むならもう最後になるだろうから、今のうちに家に帰ったほうがいい。ボクは外科治療が無理だとわかってから、できるだけ外泊をさせてあげようと考え、二週間に一度くらいを目安に外泊を計画していた。もっと頻繁にさせてあければよかったという悔いは残っている。しかし外泊の際の若菜の疲労は、ボクの予想以上に大きいことが次第にわかってきていた。期待に胸を一杯にしてはいても、往復のタクシーは1時間以上はかかり嘔気で辛そうだったし、ベッドの生活で体力は著しく落...[Ⅲ141]我がメメントモリ(8)/ 最後の外泊 

  • [Ⅲ140]  我がメメントモリ(7) / パニック 

    桜の咲きそろった4月の日曜日のことだった。休みの日には必ず敬一と静雄を連れて、母と叔母とで若菜を訪ねていた。この日もその予定でいたのだが、ボクの兄からその前日に電話があり、母も疲れているだろうから少し休むつもりで車で花見に行かないか、という誘いがあった。ボクは迷ったが、若菜のところには午後遅くなってもいいからと考えて、公園に皆で出かけてしまった。ところがこんなときに限って何か起こるものだ。若菜は何か頼みたいことがあったらしく、ボクらが出かけた後、家に電話を入れたのだった。ところが誰も電話には出ない。携帯電話なぞない時代のことである。・・何度も何度も電話する、コールだけで誰も出ない、ふと敬一か静雄か誰かに何か起こったのではないか、いてもたってもいられない、しかもいつも来るお昼の時間にもやってこない、いったいどうし...[Ⅲ140]我がメメントモリ(7)/ パニック 

  • [Ⅲ139]  我がメメントモリ(6) / 一縷の望みは絶たれた

    その冬の寒さはことさら厳しかったのに、春の訪れは早かった。若菜の病状は日一日と勢いを増していった。内科の医師と外科の医師たちとが毎日のようにカンファレンスを繰り返していた。ボクも時にその場に呼ばれた。真摯なカンファレンスであることはボクにはすぐわかった。時には激論が闘わされていた。しかし結局のところは、癌細胞を完全に取り除くことはできないこと、仮に大きな病巣を摘出したとしても、その後の生命の延長を十分に保証するものではないこと、これが到達した結論であった。そしてその後の不自由を採っても手術に賭けるのか、このままの病状に任せ可能な限りの治療法を選択していくのか、というギリギリの選択のところに来ていたのである。一旦は「手術」が日程に上ったことがあったが、最終的には内科と外科の教授同士の話で取りやめになったのだった。...[Ⅲ139]我がメメントモリ(6)/一縷の望みは絶たれた

  • [Ⅲ138]  我がメメントモリ(5) / 父への告知

    若菜が癌であるという事実を、しばらくはボク一人で抱えていた。家で子どもたちと留守を預かってくれている若菜の母にも言わなかった。ベテランの保健婦として生きてきた母には、ボクの表情や雰囲気でわかっていたのだろうと思う、下手な役者のことだから。しかしボクはまず若菜の父に話すべきだと考え、定年退職後の新しい職場で忙しくしている父に、一度上京してくれるように頼んだ。2月4日、この日は敬一が4年前青梅の病院を退院した第二の誕生日だったが、父は上京することになった。父は上野に着くとその足で病院に来ることになった。打ち合わせた上でボクは病院のある駅の改札口に父を出迎えた。駅前の喫茶店に入り、ボクは父に全ての事実を話した。若菜が癌であること、外科治療についてのカンファレンスが医師の間で何度ももたれていること、しかし癌は腹膜に播種...[Ⅲ138]我がメメントモリ(5)/父への告知

  • [Ⅲ137]  我がメメントモリ(4) / 入 院

    大学病院のベッドは、仕事で関係していた人間味のある婦長さんたちのお陰もあって、空きベッドの手配ができたという連絡が数日後に入った。2月1日、山形の母と叔母、そして敬一とまだ歩くこともできなかった静雄とに見送られて、ボクと若菜はタクシーで病院に向かった。病院はボクが仕事で出入りするときの表情とは全く違っていた。外来者の姿に混じってパジャマにガウンを羽織ったり寝巻姿のままの患者が目についてしかたなかった。これが病院という器の現実的な表情なのだ。人間は入院するとすぐに患者として振舞うことを強要されてしまうものなのだ。わが家の寝室でしか見せなかった姿を、背広姿が行き交う外来者の前でさらけ出しても平気になってしまう。それが病院という社会である。ボクが入院手続きをしている間、混雑する外来の椅子にちょこんと座って待っている若...[Ⅲ137]我がメメントモリ(4)/入院

  • [Ⅲ136]  我がメメントモリ(2) / 宣 告 

    1月30日にボクは検査で入院していた若菜の病理検査の結果を聞きに、T病院のN先生のところに伺った。午後4時30分の約束だった。N先生はボクを椅子に座らせると、しばらく黙ったまま一枚の書類を何度も確かめるように見入っていた。そしておもむろにボクに向き直って言った。「あなたも仕事柄説明すればすぐ分かると思いますが、奥さんは胃癌です。しかもK大学のK教授の病理診断では、播種性の硬癌で最もタチのよくない奴です。残念です。」カッと頭が白くなった。これは夢の中のことだ、現実ではない、醜悪な癌がまさかあの若菜にとりつくなんて!夢を見ているんだ、早く目覚めろ、早く!どうしたらいいんだろう、何をしたらいいんだろう、なぜ目覚めないのだ!しばらくは痴呆のようだった、何も考えてはいなかった。そうだ、手術だ、手立てのないはずはない。ボク...[Ⅲ136]我がメメントモリ(2)/宣告 

  • [Ⅲ136]  我がメメントモリ(2) / 宣 告 

    1月30日にボクは検査で入院していた若菜の病理検査の結果を聞きに、T病院のN先生のところに伺った。午後4時30分の約束だった。N先生はボクを椅子に座らせると、しばらく黙ったまま一枚の書類を何度も確かめるように見入っていた。そしておもむろにボクに向き直って言った。「あなたも仕事柄説明すればすぐ分かると思いますが、奥さんは胃癌です。しかもK大学のK教授の病理診断では、播種性の硬癌で最もタチのよくない奴です。残念です。」カッと頭が白くなった。これは夢の中のことだ、現実ではない、醜悪な癌がまさかあの若菜にとりつくなんて!夢を見ているんだ、早く目覚めろ、早く!どうしたらいいんだろう、何をしたらいいんだろう、なぜ目覚めないのだ!しばらくは痴呆のようだった、何も考えてはいなかった。そうだ、手術だ、手立てのないはずはない。ボク...[Ⅲ136]我がメメントモリ(2)/宣告 

  • [Ⅲ135]  我がメメントモリ(1) / 受診は遅すぎた

    1月18日にはこの冬二度目の大雪が降った。この日は妻の若菜の32歳の誕生日だった。いつものように朝ボクは若菜に起こされたのだが、彼女がいつものような普段着姿でないのに気がついてボクはギクッとした。若菜は言った。「どうも胃の具合が悪いの。お父さんがご飯を食べたら、私M医院に行ってくる。遅くなるかもしれないので敬一を幼稚園のバス停まで送っていってちょうだい。お願いね。」眠気はすぐさま吹っ飛び、彼女の誕生日のことも忘れ、ボクはうろたえていた。何か異様な胸騒ぎとともに、昨夜彼女が激しく嘔吐したことを思い出していた。ボクは急いで朝食を食べ若菜を送り出す準備をした。「会社遅くなっちゃうけれど、ごめんね、できるだけ早く帰ってくるから。」そう言って若菜は赤いゴム長靴をはいて降りしきる雪の中を出て行った。彼女の肌の色がいつもより...[Ⅲ135]我がメメントモリ(1)/受診は遅すぎた

  • [Ⅲ134]  我がメメントモリ(1)  

    私は内村鑑三翁の著作の現代語訳を進めながら鑑三翁の生や死に関する思想を考察することとなり、それは又私を聖書解釈の深みに誘ってくれました。先述したように鑑三翁の著作の著しい特徴は、翁自身の実体験から誠実に絞り出された言葉が紡がれていることです。鑑三翁が死・生・生命・永遠・永生等に関して表現した言葉の底には、妻かずの死や娘ルツの死への思念が沈み込んでいるのです。鑑三翁と似通った体験をもつ私を、鑑三翁の文章は、時には鞭打つかのように時には恩寵で包むかのように私をある方角に導いてくれたのでした。そして私自身が鑑三翁から強く迫られていたような気がしていたのは《私自身のメメントモリ》でした。私は時間をかけて、往時のメモや手帳の記録を見直し、薄れつつあった記憶をたどりつつ"誠実に"私自身の実体験を記録しておこうと思い立ちまし...[Ⅲ134]我がメメントモリ(1) 

  • [Ⅱ133]  さらば、鑑三翁 (13)   

    国連安全保障理事会では22年4月5日、ウクライナの人道状況について話し合う緊急会合が開かれました。会合では、ウクライナのゼレンスキー大統領が初めてオンラインで演説し、前日にみずから訪れたウクライナのキーフ近郊の都市ブチャの状況について「第2次世界大戦後、最も恐ろしい戦争犯罪だ」と述べプーチンロシア軍を強く非難しました。また「国連のシステムは直ちに改革されなければならない」とも述べ、ロシアが常任理事国として拒否権を持つ安保理を改革する必要があると訴えました。そして国際刑事裁判所(ICC)による調査を含めて「真実を明かし、説明責任を果たすことに国連の全加盟国が関心を持つべきだ」と訴えました。議場では、ブチャなどで撮影された市民の遺体も映ったおよそ1分間の映像がスクリーンに映し出されました。理事国の多くがウクライナを...[Ⅱ133]さらば、鑑三翁(13)  

  • [Ⅱ132]  さらば、鑑三翁 (12) / 内村祐之(3)

    プーチンという人間について。①「エコノミスト」のベドース編集長とゼレンスキー大統領とのインタビュー記事。プーチンはロシア兵を汽車の火室に放り込む薪(まき)のように扱っている。そこまで残酷で非道な行動をとれる人間がいることが信じられないとゼレンスキー大統領は感じている(BBC220402)。②過日亡くなったアメリカの国務長官だったM.オルブライトさんは、プーチンに会ったときの印象を「小柄で、青白く、は虫類のように冷たい」「自国で起きたことに屈辱を感じ、その偉大さを再建することを決意している」と記した(220327東京「筆洗」コラム)。人生で一度も腹の底から笑ったことがなく”冷血”を印象づけるプーチンという一人の人間が、”欧米”に感じていた屈辱感(或いは劣等意識)が被害的妄想に繋がり、その妄想が極限まで膨張し暴発し...[Ⅱ132]さらば、鑑三翁(12)/内村祐之(3)

  • [Ⅱ131]  さらば、鑑三翁 (11) / 内村祐之(2)  

    プーチンロシアがウクライナに侵略を開始してから1か月が経過した(写真は東京新聞220402)。侵略直後のロシア調査機関の「世論調査」では、プーチン大統領を信任するとの回答が83%に上り侵略前より12ポイント上昇、「国の進む方向は正しい方向に進んでいる」との声が69%を占めたという(東京新聞220402)。それはそうだろう、ロシアの「言論の砦」と呼ばれたノーベル平和賞を受賞したムラトフ編集長の主宰する独立系新聞ノーバヤ・ガゼータでさえ、「軍事作戦」終了まで新聞発行と電子版記事掲載を中止するまで追い込まれた。プーチンの言論圧殺は暴力そのものであり、斯様な状況下での「世論調査」なのだ。内村鑑三翁は「世論」についてこう記す。「輿論は神の声なりと意(おも)ふは非なり、神の声は常に輿論に反対す、昔時の予言者は皆悉く輿論の反...[Ⅱ131]さらば、鑑三翁(11)/内村祐之(2) 

  • [Ⅱ130]  さらば、鑑三翁 (10) / 内村祐之(1)

    ウクライナ外務省は「マリウポリでは市民5000人が死亡、210人が子どもたち、街の90%が壊滅状態。市民1万5000人がロシアへ強制連行される危機にある」と発表。市民のパスポートや身分証は没収された上でロシアの都市に集められ、そこから電車で他の地域に連れて行かれる。人々の移住先として極東のサハリンなどを提示していると言う。ロシアは救世主だというフェイクで市民を人質にしている。これは第二次世界大戦中ユダヤ人を強制収容所に収容し600万人とも言われる人々を抹殺したナチスと同質の非道である。プーチンロシアの行為は「ジェノサイド(集団殺害)」以外の表現が見当たらない。写真は「28日ウクライナ南東部マリウポリで破壊された建物周辺を歩く少女」(東京新聞220329、写真はロイター)《父の臨終の記/内村祐之》本稿の著者・内村...[Ⅱ130]さらば、鑑三翁(10)/内村祐之(1)

  • [Ⅱ129]  さらば、鑑三翁 (9)/藤本武平二(4) 

    ☛ロシア正教会のキリル総主教がプーチンロシア軍のウクライナ侵略を是認した。プーチンはロシア国民の宗教的支柱を強化するためにロシア正教会の力を頼りキリル総主教がプーチンに跪拝したわけだ。このことで世界中の正教会は混迷を深めているという。オランダ、トルコ等多くの国の正教会はウクライナ東方正教会の自治を支持する表明を行った。キリル総主教のプーチン支持の姿勢はバチカンとの関係も悪化させている(ロイター220320)。なおウクライナ国民の信仰する宗教は多様性を帯びており、ロシア正教会とは距離をとってきた歴史がある(注:ウクライナ東方正教会の信者が70%、東方カトリック教会15%、プロテスタント等)。因みにロシア正教会発祥の地はウクライナの首都キエフとされる。〇1930〈昭和5〉年3月28日午前4時半に起きて先生のご容態を...[Ⅱ129]さらば、鑑三翁(9)/藤本武平二(4)

  • [Ⅱ128]  さらば、鑑三翁 (8)/藤本武平二(3)

    ☛ロシアがウクライナ南部クリミア半島を侵略し正当性もなく併合して8年目となる22年3月18日、プーチン大統領はモスクワの記念集会でクリミア併合とウクライナ侵略・軍事攻撃を正当化した。集会に動員されたのは10万人とも。プーチンがこの集会で喧伝したのが「ロシアへの愛国と忠誠」だった。しかし「愛国」は銭儲けしようとする輩のスローガンである。「愛国を叫ぶ者は自分の利益のためには常に国家を利用し、時には国家を欺(あざむ)きもする」と内村鑑三翁は断じている。〇3月24日早朝6時頃、先生は藤本重太郎兄に身体を抱かれながら、奥様と私とに『聖書之研究』と「内村聖書研究会」等の事について色々と希望をお話しされました。先生のご令息内村博士はご家族とともに24日午後3時頃帰京され、先生のお喜びは大変なものでした。下肢の浮腫は甚だしく、...[Ⅱ128]さらば、鑑三翁(8)/藤本武平二(3)

  • [Ⅱ127]  さらば、鑑三翁 (7) / 藤本武平二(2)

    ☛ウクライナが軍事侵攻したプーチンロシア軍に対し、国際司法裁判所は22年3月16日ロシアのウクライナ侵攻をめぐる審理を開き、ロシアに侵攻を即時停止させる仮保全措置を命令しました。これはウクライナの訴えが国際的な正当性を得たことを示します。仮保全措置命令には法的拘束力があります。プーチンロシアは非道にも審理を欠席しましたが、いくら汚いフェイク言動を続け虚言を吐き続けても、倫理的にも人道的立場からもウクライナへのプーチンロシア軍の侵略には正当性は皆無であり停戦・撤退を直ちに実行すべきです。〇(1930〈昭和5〉年)1月17日の午後のことでした。先生の心臓は鼓動が乱れ、尿量は減少し、浮腫も現れてきたときのことでした。「これは別の話だが、君がかつて石原君*を助けて日曜学校をやってくれた時のように、日曜の集会を何ぶんよろ...[Ⅱ127]さらば、鑑三翁(7)/藤本武平二(2)

  • [Ⅱ126]  さらば、鑑三翁 (6)/藤本武平二(1) 

    《先生の臨終に接して/藤本武平二》執筆者の藤本武平二氏(1885-1980)は、鑑三翁の主治医で牛込神楽坂藤本医院院長で内村聖書研究会会員でした。1930(昭和5)年3月30日に行われた鑑三翁の葬儀委員長も務めました。また藤本氏は、鑑三翁に師事した江原萬里氏(1890~1933)の個人伝道誌『聖書之真理』誌に毎号のように寄稿しており、著書に『生命の科学』(文化書房博文社、1971)などがあります。藤本医師は、東京基督教青年會性格教育研究委員会委員長を務めました。また鑑三翁の側にあって最期を看取った斎藤宗次郎氏が花巻で生活をしていた頃に、毎年農地で栽培していた苺の送り先として、鑑三翁とともに藤本氏の名前がしばしば登場しています(斎藤宗次郎:二荊自叙伝(上).p.139他、岩波書店、2005)。以下は鑑三翁の葬儀で...[Ⅱ126]さらば、鑑三翁(6)/藤本武平二(1)

  • [Ⅱ125]  さらば、鑑三翁 (5)/日記(4) 

    3月16日(日)晴集会(注:定例の聖書研究会のこと)相変わらず盛んなことを聞いて安心しました。〇藤本重太郎氏(注:聖書研究会会員の医師)の全力を尽した看護を受けつつあります。あるいはこれによって全てが解決されるのではないかと思います。いずれにしても難しい病気です。私も自分の感覚だけに依存してはならないと思います。3月17日(月)晴病床にある者の唯一の喜びは、自分が施療した治療の方法がはっきりとした効果を示したときです。このときには新しい希望がわき新天地が開けたような気がします。これは私一人の幸福のためではなく、これによって全世界の悩める人たちの苦痛を拭い去るための方法を示されたと思うからです。今日もまたその一つを示されたので、飛び立つほど嬉しかった。病気療養中の歓喜とはこのようなものです。3月18日(火)晴到る...[Ⅱ125]さらば、鑑三翁(5)/日記(4)

  • [Ⅱ125]  さらば、鑑三翁 (5)/日記(4) 

    3月16日(日)晴集会(注:聖書研究会のこと)が相変わらず盛んなことを聞いて安心しました。〇藤本重太郎氏(注:聖書研究会会員の医師)の全力を尽した看護を受けつつあります。あるいはこれによって全てが解決されるのではないかと思います。いずれにしても難しい病気です。私も自分の感覚だけに依存してはならないと思います。3月17日(月)晴病床にある者の唯一の喜びは、自分が施療した治療の方法がはっきりとした効果を示したときです。このときには新しい希望がわき新天地が開けたような気がします。これは私一人の幸福のためではなく、これによって全世界の悩める人たちの苦痛を拭い去るための方法を示されたと思うからです。今日もまたその一つを示されたので、飛び立つほど嬉しかった。病気療養中の歓喜とはこのようなものです。3月18日(火)晴到るべき...[Ⅱ125]さらば、鑑三翁(5)/日記(4)

  • [Ⅱ124]  さらば、鑑三翁 (4)/日記(3)

    3月13日(木)雨笹倉牧師の紹介で、氏の友人の横浜市真砂町田中病院長田中進氏の診察を受けました。実に常識に適う診察結果で、その治療法については別に薬を用いる必要はなく、ある一つの摂生法を実践すれば、全て遠からず快方に向かうでしょうとのことで大いに安心しました。いずれにしても生命に関わる病気ではないとの診断で、家族たちにも励ましをいただいた。信仰をもつ人の診断は全て希望的です。かつ簡単で徹底しています。このような病気の状況にあって、この医師の診察を得られたことは大いなる励ましと慰めとなりました。3月14日(金)晴発病以来絶対安静と言われて牢獄のような生活で、五十日以上二階に籠城していました。この間の不快さは例えようもなく、病気以上の苦痛を味わいました。思えば近世医学は病気を治療しようとするあまり、病気以上の苦痛を...[Ⅱ124]さらば、鑑三翁(4)/日記(3)

  • [Ⅱ123]  さらば、鑑三翁 (3)/日記(2)

    5月15日(水)曇今日も多くの病気を指摘されました。やむを得ないことですが決して気持ちの良いものではありません。「肉の事を思ふは死なり霊の事を思ふは生命なり」であって、病気のためとはいえ肉のことを考えるときには、私の霊は塵にまみれるのはやむを得ません。ソクラテスは霊魂の健全さを保つためには、快楽や名誉はもちろんのこと健康(肉体)のことも第一義の問題としてはならないと言っています。病気を無視してはなりませんが、病気に全ての注意を奪われてはなりません。私の国は天にあって、私の本分は私の霊魂になければなりません。5月16日(木)雨医者は心臓が極度に肥大していると言いますが、自分としては精神が極度に疲労しているように感じます。神経衰弱ではなく、精神の衰弱です。霊魂の疲労です。生意気なことに、私は純粋の基督教をわが国の人...[Ⅱ123]さらば、鑑三翁(3)/日記(2)

  • [Ⅱ122]  さらば、鑑三翁 (2)/日記(1)

    鑑三翁は昭和4(1929)年1月、静養のため逗子に滞在中に身体の違和感を覚えて医師の診察を受けたところ、心臓の肥大を指摘されます。同年4月に日本赤十字社病院で診察を受けた結果、心臓の大きな異常を告げられ、それからは静養生活に入りました。鑑三翁の病気は心臓疾患(心不全)でした。鑑三翁は日記を記すことを日課としていました。大正7(1918)年から亡くなる年の昭和5(1930)年3月までの日記は全集33巻~35巻に収載されています。この日記も鑑三翁らしく極めて信仰的であり、聖書に基づく日々の思いや感想に加えて日々の些細な出来事までも記しています。時には鑑三翁の鬱々たる不満や訴え、病気の苦しさから来る弱音や本音が記されていて、あぁ鑑三翁も私と同じ普通の人間だったのだなと私などは安堵します。日記は三月二十八日に亡くなる直...[Ⅱ122]さらば、鑑三翁(2)/日記(1)

  • [Ⅱ121]  さらば、鑑三翁 (1)

    「鑑三翁に学ぶ死への準備教育」連載における鑑三翁の論稿の「現代語訳」は最終段階です。今回から始める『さらば、鑑三翁』では、鑑三翁自身が迫り来る自身の「死」をどのように見つめ、これをどのように記したのか、そして鑑三翁の死を看取った人たちは、鑑三翁の言動をどのように記録したのかを読んでみたいと思います。鑑三翁は「書く人」でしたから生涯で厖大な著作を遺しました。現在私たちが容易に閲覧できる岩波書店版『内村鑑三全集・全40巻』は、鈴木範久氏らの編集によって、1981年~84年にかけて出版されました。この全集の総頁は21,332頁にのぼります。そしてこれを再編集したものが岩波書店版『内村鑑三選集・全8巻/別巻1』で、1990年に刊行されました。私の続けてきた連載は、これらの中から私自身が日本の「死への準備教育」(Deat...[Ⅱ121]さらば、鑑三翁(1)

  • [Ⅱ120]  『大なる友;内的生命』(5)

    さてここで誰もが胸の奥底にある大きな問題があります。それは「死の問題」です。死は人生の最大事件です。人間は誰も死を免れることはできません。そして死の恐ろしいところはその寂しさにおいてです。死に臨むと人間は誰でも絶対的に孤独を覚えます。死に臨めば、人間は国家もなく社会もなく家族もありません。私たちは各自ただ一人も知らない暗い大海へと独りで漕ぎ出さなければならないのです。その時に私には私に伴う友人はいないのでしょうか。その時に私の手をとって共に底のない河をわたってくれる同行者はいないのでしょうか。その時に真の宗教は「同行者は在る」と答えます。死は人間の外的生命の破壊です。そして同時に内的生命の発展です。そして死に臨んで永久の指導者がなければ、前途は暗黒の極みです。安心立命と言っても、主義に頼り真理に則って独り自から...[Ⅱ120]『大なる友;内的生命』(5)

  • [Ⅱ119]  『大なる友;内的生命』(4)

    そして独立とは、ただ単に他人と社会とに対してのみ必要なものではありません。自分自身に対しても必要です。人間が人間であるという価値は、その人間が他に頼ることなく独り足り得ることにあります。「心ぞ我の王国なれ」とある西洋の学者は言いました。もし外界の物を欲するならば、全世界をもってしても一人の人間をも満足させることはできません。もし俗世界の満足を人間に求め物に求めるならば、全国民から物を授かっても(注:原文は「輿望(あずかのぞみ)、授かること」)、私の望みを満足させるには足りません。満足を人に求め物に求めるので、人間には不平が絶えないのです。地球は一個ですから、これを欲する人間が多いので世界に戦争が絶えないのです。ですから世の中においては無欲に勝る幸福はありません。しかも人間は誰でもが何物をも得ることなく絶対的に無...[Ⅱ119]『大なる友;内的生命』(4)

  • [Ⅱ118]  『大なる友;内的生命』(3)

    宗教が脱離と言ってもこの世と関係を断つことではなく、観念と言っても内に省みて独り念ずることでもありません。宗教は永遠の実在者とともに内的生命を営むことです。内で彼と語ることです。内で彼に聴くことです。彼に順(したが)うことです。友として彼と交わり、救い主として彼に事(つか)え、神として彼を崇(あが)めることです。このようにして外の生命と相対し、国家的生命、社会的生命、家庭的生命などと言われている現世の生命と相対して、内なる深い聖い変わらない生命が営まれるのです。そしてこの生命を称して宗教と言うのです。そして人間には誰でもがこの生命が必要なのです。ですからこの意味において、宗教は誰にとっても必要なのです。人間に肉体のほかに霊魂がある以上は「私には宗教は必要ではない」と言える人は一人もいないはずです。世にあって「私...[Ⅱ118]『大なる友;内的生命』(3)

  • [Ⅱ117]  『大なる友;内的生命』(2)  

    ◇◇◇◇◇◇◇「宗教と其の必要」九月十九日山形県鶴岡町郡会議事堂に於ける演説の大意大正4年10月10日『聖書之研究』183号署名内村鑑三宗教とは政治家の見る宗教ではありません。また内務省宗教局の司る宗教でもありません。寺院でもありません。管長でもありません(注:明治政府は各宗派毎に宗派の取締りをさせる管長を置く命令を出した。また1951年には宗教法人法により宗務を行う責任役員として管長を置くことになっている)。儀式でもなく、経典でもなく、統計をとって勢力を量ることができるものでもありません。政治・経済(注:原文は「殖産」)・工業・宗教と並列して置いて、宗教をこの世の事柄として見る政治家や新聞記者等は、未だ宗教の何であるかを知らないのです。宗教は人間の内的生命です。これは眼で見ることはできません。統計として示すこ...[Ⅱ117]『大なる友;内的生命』(2) 

  • [Ⅱ116]  『大なる友;内的生命』(1)

    「国民の精神の失せた時に其国は既に亡びたのである。民に相愛の心なく、人々互に相猜疑し、同胞の成功を見て怒り、其失敗と堕落とを聞て喜び、我一人の幸福をのみ意(おも)ふて他人の安否を顧みず、富者は貧者を救はんとせず、官吏と商人とは相結託して‥斯の如き国民は既に亡国の民」(内村鑑三全集9、p.98)を引用して、故石牟礼道子氏は「まことに今日の時代をも射抜いてしまう言葉であって、躰にこたえる。いまやうつつにわたしたちの眼前において、山は崩れ川は乾上り、大地は落ち込みつつあるではないか。」と書きました(内村鑑三選集6(社会の変革)、内村鑑三を読む「言葉の種子」、p.279、岩波書店、1990)。鉱毒地に倒れている者たちへの意図的な放置と強制破壊が帝国政府と古河工業足尾銅山の結託によってなされ、これに抗議した田中正造翁は獄...[Ⅱ116]『大なる友;内的生命』(1)

  • [Ⅱ115]  『死ぬなかれ ! 』(3)

    人生には矛盾があります。苦悩が多いものです。このような現世にあって、私たちが時に墓に入りたいと考えたり死を願うことは、避けられないものです。生は望んでもその通りにはならず、死も避けようとして避けられるものではありません。私たちは時に人間の無情と世の中の冷酷さ、我が身の不幸を思って、ヨブの言葉をつぶやかざるを得ません。「なにゆえ、悩む者に光を賜い、心の苦しむ者に命を賜わったのか。このような人は死を望んでも来ない、これを求めることは隠れた宝を掘るよりも、はなはだしい。彼らは墓を見いだすとき、非常に喜び楽しむのだ。なにゆえ、その道の隠された人に、神が、まがきをめぐらされた人に、光を賜わるのか。」(ヨブ記3:20-23)と。死は時には慕うべきもので懐かしいものです。そしてこのような時には生を捨てて死を選択することは決し...[Ⅱ115]『死ぬなかれ!』(3)

  • [Ⅱ114]  『死ぬなかれ ! 』(2)  

    ◇◇◇◇◇「自殺の可否」大正元年10月10日『聖書之研究』147号署名内村鑑三聖書では自殺は禁じてはいません。ゆえにある場合には自殺を行うことも許されると言う者がいます。確かに聖書は自殺は禁じていません。「汝、殺すなかれ」とはありますが、「汝自ら殺すなかれ」とは書いてはありません。ただしイスカリオテのユダが自殺したことを伝えて、自殺が美しいものではないことを示しています(マタイによる福音書27:5、ならびに使徒行伝1:18参照)。聖書は自殺を禁じてはいません。同じように戦争も禁じていません。多妻も禁じていません。(このように)聖書が文字で禁じていないもので、今の我々が”悪しき事”とみなすものは決して少なくはありません。自殺にも幾つかの種類があります。人生を儚んでの自殺があります。死をもって生に勝る義務と見なして...[Ⅱ114]『死ぬなかれ!』(2) 

  • [Ⅱ113]  『死ぬなかれ ! 』(1)

    鑑三翁の厖大な論稿のなかで自死(自殺)に関するものは多くはありません。大正元(1912)年10月『聖書の研究』147号に掲載された「自殺の可否」(全集19巻収載、選集8収載)はその数少ないものの一つです。これは明治天皇が崩御してその葬儀の日に乃木希典夫妻が自死した後に執筆されたものです。乃木夫妻の自死の後に後追いで自死する者が続いたことに心を痛めた鑑三翁が執筆したものです。私は、本稿を初めとしてこれら何本かの論稿を現代語訳するに際してかなり躊躇しました。その理由の一つは、これらの論稿は鑑三翁の生きた時代背景を当然のことながら色濃く反映していて、今私たちの生活する時代とは「自死(自殺)」に関する見方・考え方がやや異なることがあげられます。ただし今回現代語訳した論稿は、鑑三翁の聖書観や死生観を強く反映しているもので...[Ⅱ113]『死ぬなかれ!』(1)

  • [Ⅱ112]  『聖書の語る死』(5)

    ◉死とは生命を喪失することです。生命を限りなく戴いて永生すなわち窮まりのない生命があります。神は生命の源であり、その無限の供給者です。ゆえに神に繋がれてこそ永生というものがあるのです。聖書の説くところは簡単明瞭です。電線が故障すると電球と発電所との繋がりが断たれ電球は消えます。故障が取り除かれればすぐに電球は点燈します。蓄電池というものがあり発電所に繋がれないで光を発するものもありますが、これは短時間だけ点燈するだけです。長くて24時間、蓄えられた電気が消えれば光は消えます。人間の生命もまたその通りです。神を離れてすぐに死に至らないのは、彼にわずかな生命の貯蓄があるからなのです。しかしながら長くて百年、蓄えられた生命が絶えれば死が臨みます。これに引き替え何らかの方法により生命の源である神との繋がりを永久に保つこ...[Ⅱ112]『聖書の語る死』(5)

  • [Ⅱ111]  『聖書の語る死』(4)  

    ◉そして聖書が、そうです聖書のみが人間の死の逆説(パラドックス)を説明できるのです。詩人テニソン(既出)は、聖書のこの教えを詩にしています。「私は知ります。私は死ぬために造られたのではないことを。」と。ここで神の目的に叶う人間の完全なる生涯とは何かについて考える必要があります。もしアダムとイブが神の戒めに背くことがなかったならば、一体どうなっただろうかという問題が起こります。そして聖書が示すところによれば、その場合には彼らは死を経験することなく限りなき生命に入ったであろうというのです。そのことは彼らが肉体を有したまま永久にエデンの園に住んだということではありません。死の恐ろしい苦痛を経ずして霊的生涯に入ったであろうということです。そして神はこのような生涯というものは、どのようなものであるかをエノクの生涯で示され...[Ⅱ111]『聖書の語る死』(4) 

  • [Ⅱ110]  『聖書の語る死』(3)  

    ◇◇◇◇◇◇◇「死に関する聖書の教示」昭和3年11月10日『聖書之研究』340号署名内村鑑三創世記三章、詩篇第十六篇等◉私は最近しばしば知人や友人の死に遭遇しますので、またまた「死」について深く考えさせられます。◉平清盛は死に臨んで次のように語ったそうです。「生者必ず死あり、我れ独り死なからざらんや(注:私だけが死なないということはない)」と。本当にそうなのでしょうか。その通りだと全ての人は言います。大方のキリスト信者も言います。聖書にもそのように書いてある所があります。「伝道の書」第三章(3:19-21)に次のようにあります。「人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だ...[Ⅱ110]『聖書の語る死』(3) 

  • [Ⅱ109]  『聖書の語る死』(2)  

    さて1959年にイエズス会の宣教神父として来日したアルフォンス・デーケン氏(1932-2020)は、その後上智大学で哲学教授として「生と死の哲学」を教える傍ら、一般市民を対象にした「生と死を考える会」「東京・生と死を考える会」を主宰してきました。「死への準備教育」の普及に貢献したとして1991年には「菊池寛賞」を受賞しています。惜しまれながら一昨年9月に天に召されました。デーケン氏は上智大学では「死哲のデーケン」として人気のある教師でもありました。デーケン氏は『聖書』(ここでは新約聖書)と「死」の問題をどのように考えていたのでしょうか。デーケン氏と私の共著から引用します(アルフォンス・デーケン、梅原優毅:死への準備教育のための120冊.p.30-31、吾妻書房、1993.)。「キリスト者は死を常に、イエス・キリ...[Ⅱ109]『聖書の語る死』(2)

  • [Ⅱ108]  『聖書の語る死』(1)     

    『聖書』に収録された物語や記録の中核主題は、いうまでもなく「神」と「キリスト・イエス」です。私は毎日『聖書』を読むのを習慣にしていますが、それは私の神とキリスト・イエスとの直接的対話でもあります。ではそもそもこの『聖書』とは何か。『聖書』は長い人間の歴史のなかから編纂されてきました。プロテスタント教会では、『聖書』の正典を、旧約聖書39巻・新約聖書27巻の66巻としていますが、カトリック教会では、旧約聖書に12巻の外伝を加えています。『新聖書辞典』(舟喜信他編集、いのちのことば社、1985)では、『聖書』について、プロテスタントの立場から次のように記しています(要点)。「聖書は人間の著作であるが、神の霊感によって書かれた、神のことばであり、新約聖書は聖書(旧約)の成就・実現である。」(p.685)『聖書』に関し...[Ⅱ108]『聖書の語る死』(1)    

  • [Ⅱ107]  『死後に生命はあるのか』(8) 《付2》

    「死後の生命の存在」に関して、このムーディ博士の研究に触発されて文献を渉猟し、多くの科学者にインタビューを重ね、それを自らの体験をも踏まえて検討を加えてきたのが立花隆氏(1940-2021)です。立花氏はこれらの成果を雑誌に連載し、『臨死体験・上/下』(文春文庫、2000)、『証言・臨死体験』(文春文庫、2001)としてまとめました。立花氏は、まず世界中の脳科学の研究者に直接取材し、「死ぬとき人間の心はどうなるのか」という問題に挑戦しました。前回のムーディ博士にも直接会って取材をしています(これは2014年、NHKドキュメンタリー番組でも放映されました)。そして立花氏は、ノーベル賞を受賞した脳・認知科学の利根川進博士をはじめとする多くの脳医科学の研究者たちは、”脳から独立した心(意識)の存在”を否定していること...[Ⅱ107]『死後に生命はあるのか』(8)《付2》

  • [Ⅱ106]  『死後に生命はあるのか』(7) 《付1》

    「死後の生命」に関する”科学的”な研究は、鑑三翁の時代以後も多くの医学者などによって行われてきました。その中から信頼のおける研究を紹介します。その一つはレイモンド・ムーディ氏(1944-)の研究です(レイモンド・ムーディ、中山善之訳:かいまみた死後の世界.評論社、1977)。この著書の概略を少し長くなりますが紹介します(アルフォンス・デーケン、梅原優毅:死への準備教育のための120冊.p.66-67、吾妻書房、1993.より引用)。「著者は、(アメリカの)バージニア大学で哲学を学び、その後医学博士号を取得した経歴の持ち主である。この本は、医師から臨床的に死んだと判断された人たちが、蘇生後にその瞬間に何を経験したのかを科学的な手法で調査・分析した結果の報告と考察からなっている。”死後の世界に踏み込む体験”をした人...[Ⅱ106]『死後に生命はあるのか』(7)《付1》

  • [Ⅱ105]  『死後に生命はあるのか』(6)  

    死後の生命もまたしかりです。これを宇宙の合理的存在と神の愛と自分の実験とから推測して、死の彼方に必ずある大陸の存在すべきことを信ずれば、たとえ何人の反対に遭遇しても、その信仰を動かすことなく歩を進めるべきです。もちろん来世の状態の委細については、今からこれを知ることはできません。コロンブスもまた何処にいかなる樹と草と鳥獣とがあるかは知りませんでした。しかしながら必ず人の住む大陸が存在すると信じ、彼は船を進めたのでした。来世は常に讃美歌を歌う所であるのか、金剛石と金銀とで飾られた所であるのか、私たちはこれを知りません。しかしただそこは私たちの永遠の住処(すみか)のあることを信じて疑わないのです。詩人テニソン*は、その晩年に次のように歌っています。「我れ一人にて大海に乗出すも彼処に水先案内ありて我船を導き遂に或る陸...[Ⅱ105]『死後に生命はあるのか』(6)

  • [Ⅱ104]  『死後に生命はあるのか』(5)   

    十年、二十年と努力して育てた子どもほど母親にとって貴いものはありません。しかしながら彼らを棄てて顧みてくれないとすれば、何が愛でしょうか。もし天然と人類との全ての努力が破壊に終わるものならば、人生は絶望であり、神は決して愛ではありません。私たちは来世の存在によってのみ、人生をこれらの大いなる不合理から救われることができるのです。神は愛なのです。ゆえに来世は必ずあります。ゆえにもし宇宙の合理的存在を信じ、また神の愛を信じるのであれば、来世の存在もまたこれを否定することができません。物事のすじみちや論理(注:原文では「道理」)に訴えてみて死後の生命を肯定することは、これを否定するよりも強い主張です。しかしながら理論はしばらく置くことにして、私たちは来世の存在を感じることができますか。死後の生命はどのようにしてこれを...[Ⅱ104]『死後に生命はあるのか』(5)  

  • [Ⅱ103]  『死後に生命はあるのか』(4)

    学者の学説によって人間を導こうと考える者はいないのでしょうか。明日があると信じるように来世があると信じた学者は決して少数ではないのです。宇宙の存在は合理的だと言います。そうです、物には皆それが存在する目的があります。ところがひとり人類の知的生命だけは、その目的をもたないように見えるのは何ゆえなのでしょうか。知識はそれが進化するに従ってますます知識欲も増えます。そして研究につぐ研究、知識に知識を加えていくのですが、ところがある所に至ると、人間は突如として葬り去られてしまいます。そうであるならば、人間の人生ほど不合理なるものはないではありませんか。心理学者ヴント*のように、90歳にしてなお若い研究者とともに研究を続けるようなことは結局無益とされるのでしょうか。いやそうではありません。その幕の彼方において、なお研究の...[Ⅱ103]『死後に生命はあるのか』(4)

  • [Ⅱ102]  『死後に生命はあるのか』(3)

    来世の存在は、これを科学的に実験することはできません。しかしながら純然たる科学者の立場からこれを弁護した者は少なくありません。オックスフォード大学の教授で世界的な医学者のウイリアム・オスラー*は、『科学と死後生命』**の中で次のように記しています。「医学の立場からすれば、死後の生命の存在を否定することは、これを肯定するより以上の根拠を有してはいません」と。*(注:WilliamOsler、1894-1919、カナダの医学者、内科医。聖職者を目指していたが、その後医学を志しトロント大学で医学を学び、カナダ、アメリカ、英国の医学の発展に貢献し医学教育にも力を注いだ。)**(注:著書については不詳。オスラーはハーバード大学で1904年に「科学と霊魂の不滅性」というタイトルで講演を行っている。その中で霊的な永遠性や不滅...[Ⅱ102]『死後に生命はあるのか』(3)

  • [Ⅱ101]  『死後に生命はあるのか』(2)

    しかしながら近代人はこの問題についてはとても冷淡です。彼らは言います、現世で正義を行い真理を信じることが許されている以上、人生は必ずしも未来を必要とせず、一日の生涯を高貴に過ごすことができればこれで満足だ、と。あるいは現世の生活を安楽に享受しようと願うのならば、その途は備わっている、と。だからどうして不確実な未来の幸福を願うのか、と。このようにして彼らの人生観は現世的であって、彼らの宗教は天ではなく地にあります。今日のキリスト教会の中で、明らかなる来世観を示している所はいくつあるでしょうか。彼らが講壇から説くところは、いわゆる倫理的福音ではなく社会問題や国際問題の類いです。実に現世的思想は「死」に深慮することもなく、これは現代を象徴する風潮です。来世は果たしてあるのか・ないのか。これに関して記憶すべきは、聖書が...[Ⅱ101]『死後に生命はあるのか』(2)

  • [Ⅱ100]  『死後に生命はあるのか』(1)

    ※本稿冒頭に「筆記」者として記されている藤井武(1888-1930)氏は、”弟子はとらない”と宣言していた鑑三翁にとっては、既述の斎藤宗次郎氏とともに数少ない”側近”とされてきた人物です。本文紹介の前に少し詳細にふれておきます。藤井は金沢市に生まれました。1904年に第一高等学校に入学、第一高等学校在学中に鑑三翁に出会い、キリスト教信者の学生の集まりとして「柏会」の会員となりました。「柏会」は、第一高等学校の校長新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成した学生たちで、東京柏木にいた内村鑑三の聖書研究会門下になることになり、鑑三翁によってこのグループは柏会と命名されました。明治末期には二十数名の会員がいました。藤井は第一高等学校卒業後東京帝国大学法科に入学しました。卒業後官吏となり京都府、その後山形県に勤務しました...[Ⅱ100]『死後に生命はあるのか』(1)

  • [Ⅱ99]  『平和なる死』(4)

    最後に最近亡くなられたニコライさん*の話をします。ニコライさんが日本に来たのは今から50年前、文久年間のことでした。*(注:聖ニコライ、1836-1912、ロシア帝国に生まれた。1861年に来日、日本に正教〈ギリシャ正教とも呼ばれ、ロシア正教会等を含む〉を伝道した。1884年には東京にニコライ堂を建設、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり日本で永眠した。谷中墓地に葬られている。)その時25歳のニコライは「私でもお役に立つのなら日本に行かせてください、但し今の私には婚約者(許婚)がいるので、日本に行くことになれば断ります。そうしたら日本を自分の妻として愛します。二人の妻をもつことはできませんから、どちらかに決めなくてはなりませんので早く決めてください。」と申し出ました。25歳の青年の言葉と...[Ⅱ99]『平和なる死』(4)

  • [Ⅱ98]  『平和なる死』(3)

    私は今夜は事実を話します。キリストを信じたために少しも死を恐れずに死んだ実例をお話しします。皆さんの中でキリストを信じることなく、死を喜んで感謝して一人で真っ暗な死の海に乗り出した人をご存じの方はおられますか。私はキリストを信じない人で死を喜んだ人を知りません。私は今夜は、いかにして死を喜ぶことができるのかという理屈を話すのではありません。信仰というものは理屈ではありません。実例の幾つかをお話しします。日本にキリストの教えが入ってからちょうど50年*ほどになりますが、私がキリスト教を信じ始めたのは明治6、7のことと思います。*(注:明治22(1889)年の大日本帝国憲法の発布によって「信教の自由」が認められ、キリスト教が解禁されたとすれば、明治45年当時の話なので23年ということになるが、鑑三翁は明治6年(18...[Ⅱ98]『平和なる死』(3)

  • [Ⅱ97]  『平和なる死』(2)     

    ◇◇◇◇◇◇◇明治45年4月13日『家庭と宗教如何にしたら平和に死ねるか』署名内村鑑三先生口述加納久朗筆記明治四十五年三月十七日の夜、一宮町浅野金五郎氏宅に於ける先生の説教なり私はキリスト教を信じてから三十五年になります。この宗教を信仰しましたために世間からたびたびいじめられました。また様々な苦労に遭遇しました。しかしながら私はこの信仰を捨てません。それは私が意地を張っているからではありません。キリスト教を信じないでは私は満足しきれなかったのです。農業を習得しようとする人はキリストのところに来る必要はありません。商業について学ぼうとするにもキリストのところに来る必要はありません。その他の生業について学ぼうとするにはキリストのところに行く必要はありません。また人に見られて「忠臣」だの「孝子」だと言われようとするた...[Ⅱ97]『平和なる死』(2)    

  • [Ⅱ96]  『平和なる死』(1)  

    ※鑑三翁はいわゆる「無教会」を基本的な考え方として活動してきましたので、国内外から「教会」を否定した人と国内外から曲解されていますが、鑑三翁は「教会」そのものの存在や活動を否定しているわけではありません。鑑三翁は「教会」の組織としてのあり方や宣教師の資質に大いなる問題があることを指摘していたのです。言い方を帰れば「教会」という組織そのものに懐胎する問題点であり、組織としての限界を鑑三翁は見抜いていたのです。それがひいては「無教会主義」という考え方や行動となっていったのでした。次の一文には鑑三翁の当時の「教会人」に対する鋭い批判が見られます(現代語訳)。「私の無教会主義の理由を知りたいのですか。それは私に聞くことではないでしょう。現今の教会の姿を見てください。その教師たちの嫉妬と反目と排斥を見てください。またその...[Ⅱ96]『平和なる死』(1) 

  • [Ⅱ95]  『希望の伴う死』(2)  

    繰り返すまでもなく、死は私たちにとって最大の苦痛です。我々はもちろん死を歓迎しません。しかしながら死は私たちに苦痛だけをもたらすものではありません。死は私たちにとっては真の暗黒だけではありません。その中に光明が混じっています。そして光明はやがて暗黒を駆逐し、比較的短期間の後に死の悲嘆的半面は失せて、希望的な歓喜の半面が残ります。死は私たちにとっては癒すことのできない傷ではありません。いやむしろ私たちにとっては死の悲嘆は癒されて、その傷の痕から甘い希望の露がしたたりおちて、私たちの渇きを癒してくれるのです。私たちの愛する者の死を思うと、私たちの涙は流れて止むことはありません。しかもこれは悲嘆と絶望と哀哭の涙ではありません。再会を楽しむ希望の涙なのです。私たちは希望を持たない者のようには泣きません。私たちが今流す涙...[Ⅱ95]『希望の伴う死』(2) 

  • [Ⅱ94]  『希望の伴う死』(1)  

    ※斉藤宗次郎氏は、明治10(1877)年に岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)で生まれました。この年は鑑三翁が札幌農学校第二期生として入学の許可がおりた年です。宗次郎氏の生家は曹洞宗の寺でした。彼は岩手師範学校を卒業して花巻の小学校の訓導(注:教諭)をしていました。その頃「新約聖書」や鑑三翁の文章に触れ、キリスト教に入信しました。しかし僧侶であった父や家族はこれに反対し、しかも宗次郎氏は当時鑑三翁が『万朝報』紙上で唱えていた日露戦争非戦論を生徒に教え、聖書の講義を行い、また鑑三翁の唱える納税拒否、徴兵忌避といった言動を行ったため、小学校訓導の辞職に追い込まれました。その後宗次郎氏は新聞配達をして清貧の暮らしを送ったと言われています。そして新聞配達や集金の折に病人を見舞い、住民の悩みや相談を聞き、子どもたちに菓子を...[Ⅱ94]『希望の伴う死』(1) 

  • [Ⅱ93]  『山岸壬五を送る』(5) 〈附〉

    ※鑑三翁と山岸壬五氏との深い信頼関係を表している文章は「全集」の至るところで見られますが、ここでは鑑三翁の日記に書かれた記述を引用します。警視庁から『聖書之研究』の記事に関して呼び出された際のやりとりですが、この事案に関しては山岸氏と鑑三翁の間では真剣な議論があったものと思料されます。”自分の思想をとるか、あるいは官憲の言い分を聞くのか”‥ここではおそらく山岸氏の提案に従って、金銭的解決を図ったものと思われます。時は1919(大正8)年のことでした。ところで鑑三翁はこの頃「ダニエル書の研究」〈全集25巻p.330〉において次のように記しています(現代語訳)。『日露戦争が勃発すると、ロシア公使館から後を頼まれたオーストリア大使館は、ニコライ(注:NicholasofJapan、1836-1912、日本に正教会の教...[Ⅱ93]『山岸壬五を送る』(5)〈附〉

  • [Ⅱ92]  『山岸壬五を送る』(4)  

    しかしながらこのたび彼の永眠に際して委細を伺って、私の心は和らぎました。彼は死の準備を為すために越後に帰ったのでした。彼は郷里に帰って聖化されました。彼は同情の人となり、祈りの人となって多くの患難の中にある人を慰めました。彼は至るところで彼独特の和光(注:「和光同塵〈どうじん〉」の略。光を和らげること)を放ちました。村の人たちは彼を「山岸のお父〈とっ〉つぁん」と呼んで、彼に一種異様の聖人(ひじり)を見ました。彼は仏教国の越後に生まれ、仏教国の間に生育して、明白にキリストの聖名を言い表して、キリストの忠実な僕(しもべ)として世を去りました。栃尾町禅宗寺の住職は彼の葬儀に列席して、彼に対して敬意を表しました。彼の死は最も平和なものでした。讃美歌第五十九番「朝日は昇りて」(注:この讃美歌は日本で作られた讃美歌で188...[Ⅱ92]『山岸壬五を送る』(4) 

  • [Ⅱ91]  『山岸壬五を送る』(3)  

    このようなわけで彼と私とは九年間もの長い間別れておりました。ところが明治三十三年の夏のことでした。彼は突然上京しました。そして東京に来れば私の家が当然彼の家でした。大金を携えての上京かと思いましたが、そうではありませんでした。彼は少し学費がたまったならば東京専修学校(注:現専修大学)夜間部に入り、経済学を研究したいとのことで、昼は働いて夜は通学したいとのことでした。時は『東京独立雑誌』を廃刊にして、『聖書之研究』を発行する時で、私の生涯で最も多難な時でした。(注:鑑三翁は明治31(1898)年に万朝報社を退社して6月に『東京独立雑誌』を創刊したものの、明治33(1900)年7月に72号をもって廃刊し東京独立雑誌社を解散した。同年9月には『聖書之研究』を創刊した。)私の同僚はこぞって私のもとを去り私に対して反対運...[Ⅱ91]『山岸壬五を送る』(3)

  • [Ⅱ90]  『山岸壬五を送る』(2)  

    明治二十一年以来四十年後の今日に至るまで、山岸壬五は私の生涯の全ての大事件(注:「大仕事」と言うべきか)に携わりました。彼と私は何度か離れましたが、また何度か会いました。そして私の生涯において何か事件があった時には、不思議と彼は私の側に必ず居るようになっていました。彼は新潟におけるアメリカの宣教師に対する苦戦と奮闘を目撃しました。(注:鑑三翁は1988年1月アメリカ留学から帰国し、同年6月に新潟県の北越学館に勤務したが、同校のアメリカ人宣教師や経営陣と衝突を繰り返し、12月には北越学館を退職し東京に帰っている。この際の新潟滞在中に山岸壬五と会っていた。)そしてその翌年、私が東京第一高等学校の教師となり、有名な不敬事件を起こして全国民の批難攻撃を受けた時に、彼は図らずも郷里を出て東京に来て、私の家に泊まっていまし...[Ⅱ90]『山岸壬五を送る』(2) 

  • [Ⅱ89]  『山岸壬五を送る』(1)

    ◇◇◇◇◇◇◇「山岸壬五を葬るの辞」(三月二十日柏木聖書講堂にて)昭和4年4月10日『聖書之研究』343号署名内村鑑三※この本文は「山岸壬五を葬るの辞(三月二十日柏木聖書講堂に於て)」として『聖書之研究』に掲載されたものです。「内村鑑三全集32巻」に収載されています。昭和4年に記された文章なので今の私たちでも比較的読みやすいため、旧仮名遣いや今では用いない表現などについては注釈したり現代語訳しましたが、大半は原文をそのまま掲載しました。前回掲載の「高橋ツサ子を送る」と同様、鑑三翁及び家族と深い親交のあった者の死を送るに際して深い情愛に満ちた惜別の”告辞”です。山岸氏と鑑三翁の交友は長きにわたり、ある意味で家族・友人・教友以上の仕事上の”同胞”ともいえる関係の深さがありました。※私どもの古き教友のひとり山岸壬五は...[Ⅱ89]『山岸壬五を送る』(1)

  • [Ⅱ88]  『高橋ツサ子を送る』(3)       

    そして彼女は田舎の小学校教師として一生を終わろうと決意しました。そして裁縫技術の研究のために去年(注:明治44年)3月には最後の上京を果たしたのでした。しかし時は既に遅すぎました。彼女の身体は病気にかかりやすい体質で(注:原文は「蒲柳の質」)、彼女の身体は既に病気に犯されつつあったのでした。重篤な心臓病は上京とともに症状を激しくしていきました。その三か月後に彼女は故郷花巻に帰りました。そして五か月もの間苦しい病の床にありました。そして私に関する彼女の最後の言葉はこれでした。「をら(注:方言で「わたし」)が死ねば先生はきっと(注:屹度)東京から来る」と。十一月三十日、クリスマス号の原稿がまとまった日に、花巻の友人より「ツサコメサル」との電報が届きました。これを読んだとき私の家には慟哭の声があがりました。私はその夜...[Ⅱ88]『高橋ツサ子を送る』(3)      

  • [Ⅱ87]  『高橋ツサ子を送る』(2)

    私と私の家族は喜んで彼女を受け入れました。そして私の家族の一員となったのです。家にいたのは一年半ほど、彼女は家のお手伝いさんとして甘んじて、讃美歌を口ずさみながら家の台所で働きました。彼女には気品があり厳粛な人柄で、お手伝いさんとしてはあまりに貴すぎる人間でした。しかしながら彼女は喜んでその立場に立ちました。そしてそのように働いていた台所から侵入しようとする悪魔を、私のために何度か退けてくれました。そのようなことで多事多端で忙しい私の家は、このような意味で最も安全なのでした。不良の者たちは彼女に近づくことはできませんでした。清潔な人間という女性がいるとすれば、彼女はその模範となる女性でした。彼女に接することはあたかも精霊に接するかのようでした。淫猥(注:下品でみだらなこと)といった言葉からは程遠い人間でした。ツ...[Ⅱ87]『高橋ツサ子を送る』(2)

  • [Ⅱ86]  『高橋ツサ子を送る』(1)

    ※この本文は『高橋ツサ子』と題して『聖書の研究』138号に掲載され、『内村鑑三全集19巻』に収載されたものです。ツサ子さんは鑑三翁の”お手伝い”さんとして1年半ほど家族同然の生活を鑑三宅で過ごしました。ツサ子さんは鑑三翁にとっては”お手伝いさん”をはるかに超える”聖女”のごとき存在だったのでした。ツサ子さんは実家本家の跡取りとして郷里に帰り、しばらくして病をえて天に召されました。鑑三翁も娘のルツや家族も家族同然の情愛を抱いていただけに、その死は鑑三翁に衝撃を与えました。鑑三翁は重篤な病の床にあったルツには彼女の死を伝えることができませんでした。◇◇◇◇◇◇◇「高橋ツサ子」明治45年1月15日『聖書之研究』138号署名内村鑑三私には私を愛してくれる多くの女性がいます。(私は最も清い意味においてこのように言っており...[Ⅱ86]『高橋ツサ子を送る』(1)

  • [Ⅱ85]  『終わりの日のよみがえりを待ちなさい』(2)    

    キリストは言われます。「しばらく悪魔に思うがままに暴威をふるわせておきなさい。愛する者を死とともに連れ去りなさい。しかしながら私たちの神への祈りは、聴かれないのではありません。神の力は失敗に帰するのではありません。待ちなさい。終りの日まで待ちなさい。その日には私は私を信ずる者たちをことごとく復活させて、その者をあなた方の手に渡しましょう。最後の成功は私にあるのです。」と。そうなのです。万物を己に服従させる力を有するイエスキリストが、このことを約束されているのです。彼にはこれを約束するだけの特権があります。この信じられないような約束も、彼の口から出たがゆえに空言(そらごと)ではなく、動かすことのできない真理であることを私たちは信ずるのです。かつてあるロシアの将軍が、トルコの兵士と戦ったときのことです。将軍は敵軍を...[Ⅱ85]『終わりの日のよみがえりを待ちなさい』(2)   

  • [Ⅱ84]  『終わりの日のよみがえりを待ちなさい』(1)      

    「末(をはり)の日を待て」大正7年3月10日『聖書之研究』212号署名内村鑑三述藤井武筆記一年間に二女一男を失ひし或る不幸なる寡婦を慰めんとて葬式の席上にて語りし所私は今日まで多くの葬式を司りました。しかしながら未だかつて今回ほどの難問題に遭遇したことはありませんでした。過去1年間に二女を喪い今また嗣子としての唯一の男の子を天に召されました。斯様な事柄は世間に絶無とは言いませんが、神に信頼を置いている者にとっては大いなる疑問を促さざるを得ません。主イエスは、かつてナインの町(注:ナザレの南東のモレ山の麓にあった町ネインとされる)の門外で寡婦のひとり子の葬儀に出会い、深い同情を寄せられて、近寄って柩に手をかけられて「若者よ、さあ、起きなさい」と言われたところ、死者が起き上がって物を言い出しました。そこでイエスは彼...[Ⅱ84]『終わりの日のよみがえりを待ちなさい』(1)     

  • [Ⅱ82] 『再会の慰め』(3) 

    復活の事実はイエスのこの言葉を精査してみて、よく理解できるのです。「わたしは」‥能力が充実したイエスキリスト、天の中・地の上の全ての権能を賜わったと言われた彼、世にある間に死者をよみがえらされる実験をされた彼、その他様々な不思議な行(わざ)を為された彼、また人類を向上させるに際して歴史上最大の力をふるわれた彼、また私たち彼を信ずる者の心(心霊)にあって、どんな人間も何物も為すことができなかった道徳的変化を成し遂げられた彼、神の子、人類の王、我らの救い主としての彼/主イエスキリストが死者をよみがえらされたとのことです。死者をよみがえらせる薬品があるというのではありません、その秘術が発見されたというのではありません、またペテロとか、パウロとか、ヨハネという人が、この奇跡を行うというのではありません。我は生命なり、復...[Ⅱ82]『再会の慰め』(3)

  • [Ⅱ81] 『再会の慰め』(2) 

    「子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」と言います。ただしただ一つだけ慰めを得る方法があります。もし何らかの方法によって愛する者が再び活きることが可能なのであれば、もし今は目を閉じて唇を閉じている者が、活きて再び私の前に立ち、私と共に語り、私の愛を受けまた私に愛を与えてくれるならば、これを一言で言うと”彼(彼女)がもし復活”するならば、そのとき私は本当の慰めを得て、私の悲嘆は完全に癒やされます。人は”復活”と聞いて笑いますが、しかしながら復活は死別の悲嘆に沈む人間にとっては誰でもが望み願う事柄です。永久の離別によってもたらされる苦しみは、私たちが耐えることのできないものです。復活の希望もなく再会の期待もない死は、慰めを得ることのできない苦痛なのです。復活への望みと願いがあるとしても、復活は確実...[Ⅱ81]『再会の慰め』(2)

  • [Ⅱ80] 『再会の慰め』(1) 

    ◇◇◇◇◇◇◇(或る若き婦人の葬式に臨み其親戚友人を慰めんと欲して語りし所)(大正3年4月10日『聖書之研究』165号/署名内村鑑三)「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。(マタイによる福音書2:18)「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである」。(ヨハネによる福音書6:39)「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。(同書6:40)「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは...[Ⅱ80]『再会の慰め』(1)

  • [Ⅱ79]  『幼な子の死』(2)  

    人間一般の人から見て一人の人間の死は大したことではありません。ましてや一人の幼い少女の死であれば、人からは一顧だにされない価値のないもののように思われます。ただ社会の中から一人が消えただけです。未だ何の仕事をすることもなく何の責任も負わない者がこの世から去っただけです。これは格別に注意すべきことではありません。しかしイエス・キリストの父なる神にとってはそうではないのです。神にとっては、この幼い少女の死は、偉大なる詩人や政治家や軍人が死んだのと同様の事件なのです。「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(ルカによる福音書12:6...[Ⅱ79]『幼な子の死』(2) 

  • [Ⅱ78]  『幼な子の死』(1)  

    ◇◇◇◇◇◇◇「嬰児の死」明治43年6月10日『聖書之研究』120号署名内村鑑三五月十一日、生後十ケ月の小女の葬儀に臨みて述べし所なり、時に暴風屋外に荒れ、内に集いし者、其両親を合せて僅かに十人なりき。「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。」(マタイによる福音書18:10)(注:鑑三翁はこの部分を「自訳」しています。鑑三翁は、当時の日本語訳聖書の翻訳に納得できない部分はしばしば「自訳」しています。私は口語訳〈1955改訳〉をそのまま掲出しました。)キリスト・イエスが子ども(注:原文「小児」)のことに関して述べられた言葉はいくつもありますが、ここに掲げた部分はその中で最も美...[Ⅱ78]『幼な子の死』(1) 

  • [Ⅱ77]  鑑三翁の告別の辞   

    ※鑑三翁は1907(明治40)年11月に住居を東京角筈から柏木(現新宿区北新宿)に移します。そして同年12月には、住居の敷地内に大阪の香料商・今井樟太郎氏の遺志に基づいた「今井館」が建設されました。その後1913(大正2)年10月には「今井館付属聖書講堂」も完成します。鑑三翁はここを拠点として角筈時代(1901年頃)に始まった「聖書研究会」の定時開催、「聖書之研究」(1900〈明治33〉年創刊)の発行などを通じて、終生聖書の真理を説き続けました。そして一方ではここでは研究会の会員や家族らの葬儀が行われました。「選集8」には、研究会員やその家族縁者の葬儀に際して話した告別の辞などがいくつか掲載されています。これらを読むと、鑑三翁が亡き者を天国に送る際の痛哭の心が表現されています。とかく儀式なるが故に形式的な告別の...[Ⅱ77]鑑三翁の告別の辞  

  • [Ⅱ76] 『死の恩寵』(5)     

    「死」は犠牲です。同時にまた贖罪でもあります。どんな人であれ自分ひとりのために生き自分ひとりのために死ぬ人はいません。人は死んで、いくらかでも世の罪を償い、その犠牲となって神の祭壇の上に捧げられるのです。これは実に感謝すべきものです。「死」の苦痛は決して無益なものではありません。これによって自分の罪が洗われるだけでなく、また世の罪がいくらかでも除かれるのです。そして言うまでもなく「死」の贖罪の力は、死者の品性によって増減するのです。義者の死は多くの罪を贖い、悪者の死は自分の罪のほかに贖うものはとても少ないのです。人は聖くあればあるほどその死によってこの世の罪を贖うことができるのです。あるいは家の罪、あるいは社会の罪、あるいは国家の罪、あるいは世界の罪を、人はその品性によって担い、贖うことができるのです。「死」は...[Ⅱ76]『死の恩寵』(5)     

  • [Ⅱ75] 『死の恩寵』(4)  

    肉の「死」は霊が力を発揮する(注:原文は「蕃殖」)ためには必要です。霊的事業というのはこれに従事する者の「死」によって始まるものです。ペンテコステ(注:ラテン語Pentecostes、キリストが復活し昇天後に聖霊が降りてきたという出来事を記念したキリスト教の祝日。)の精霊の降臨はイエスの在世中にはありませんでした。イエスは孔子や釈迦のように七十歳の長寿を保って、その業を成し遂げられたのではありませんでした。彼は三十歳の人生の盛りにその生命を捨て、その霊とともに世に臨み、その霊をご自分のものとされたのでした。このようなことはイエスに限りません。すべて永久に深くこの世を変化させたような人は、「死」をもって変化させたのです。殉教者の「死」によって興されない教会は全て偽りの教会です。教師の雄弁だけではキリストの教会を興...[Ⅱ75]『死の恩寵』(4) 

  • [Ⅱ74] 『死の恩寵』(3)

    肉体は一種の牢獄です。ここに住まうということは、一種の禁錮(注:室内に閉じ込めて外出させないこと)のようなものです。霊は軽いもので自由であるのに比し、肉体は重いもので不自由なものです。この軽いものがこの重苦しいものの中に住むために、大きな束縛が起こります。パウロは言います。「(わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、)わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」との苦悶の言葉は、自由の霊が束縛の肉に住まうがゆえに発せられた言葉です。この霊と肉との不均衡な結合があるが故に、人はすべて「困苦(なや)める人」なのです。そのようにしてこの困苦(なやみ)を感じる時には、どのような人間であれ、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」との叫びがでてくるのです(ロ...[Ⅱ74]『死の恩寵』(3)

  • [Ⅱ73] 『死は恩寵である』(2) 

    しかしながらキリスト者としての立場から見ると「死」は単なる凶事ではありません。これに実に多くの良きことが伴っています。そうなのです、キリスト者は「死」が何であるかを深く考え究めて、それが人生最大の良きことであることを悟るのです。キリスト者とそうでないこの世の人とは、「死」に関する観念や考え方が異なります。もちろんキリスト者にとっても「死」は苦痛の極みであると言えます。キリスト者と言えども「死」を喜んでいる者などいません。「死」を恐れ、「死」を避けようとするのは人間の自然の姿です。キリスト者も自ら進んで「死」を選ぼうとはしません。しかしながら神から「死」を命令されれば、彼は感謝してこれを受けます。キリスト者にとっては、「死」は苦痛の極みであると同時に、真実の自由に入る門だからです。「死」は苦痛の終わりです。罪の巣...[Ⅱ73]『死は恩寵である』(2)

  • [Ⅱ72] 『死は恩寵である』(1) 

    『祝すべき哉疾病(やまひ)』(私の前回までの連載では「病気は感謝すべきもの」)は、鑑三翁が創刊した『聖書之研究』139号に掲載されたもので、1912(明治45)年1月のルツの死の1か月後に発表されました。「全集19」(1982年発行)には、これに続けて『最後の一言』『生涯の決勝点』が掲載されています。またルツの死の翌年(1913年)には、鑑三翁の心情が吐露された『聴かれざる祈祷(一)(二)』が発表されています。さらにルツを墓に埋葬した際の心情を1915(大正4)年に公表(『愛女の墓に葬る』)していますので、これらをルツの死にまつわる一連の論稿として、前回までの連載(Ⅱ68~Ⅱ71)で現代語訳しました(1990年発行の「選集8」では『祝すべき哉疾病』のみが選定されています)。鑑三翁の生涯を貫いた生き方の姿勢・態度...[Ⅱ72]『死は恩寵である』(1)

  • [Ⅱ71] 『病気は感謝すべきもの』(5)  《付》  

    《聴かれざる祈祷(一)》(全集20/p.98-99)イエスは「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」(注:ヨハネの第一の手紙5:14)と神が述べられたのに対して、ここに聴かれなかった祈祷の顕著な例が三つあります。一つはモーセの祈祷が聴かれず(注:申命記3:24-27)、パウロも聴かれず(注:コリント人への第二の手紙12:8)、そしてイエスご自身もまた聴かれなかったのです(注:マルコによる福音書14:35、36)。これらのことから私は祈祷が聴かれなかったことが、必ずしも悪いことではないことを知りました。憐憫(あわれみ)があり恩恵(めぐみ)がある神は、時にはその忠実な愛する子の祈祷を退けられることがあるので、即ち祈祷が聴かれることが必ずしも神の恩恵とは限らないこと、祈求(ね...[Ⅱ71]『病気は感謝すべきもの』(5)《付》  

  • [Ⅱ70] 『病気は感謝すべきもの』(4)   《付》

    《愛女を墓に送る》大正4年1月10日/『聖書之研究』174号/署名彼女の父記す今からちょうど三年前、ルツ子の埋葬当時に書いたものです。これを読んである人は笑うでしょう。しかしある人は何か学ぶところがあると思います。私は嘲笑する人のことは考えず、私に心を寄せてくれる人のためにこれを掲出することにしました。◇◇◇私は私に残された全ての野心をルツ子の亡骸(なきがら)とともに、彼女の墓に葬りました。私はそれ以前に、既に大抵の野心を葬ったつもりでした。政治的野心、文学的野心、科学的野心、社交的野心は既にこれを葬ったつもりでした。しかし私にはまだ野心が残っていました。宗教的野心、聖書的野心、伝道的野心、善行的野心とでも言うべき野心が残っておりました。日本に使徒時代(注:新約聖書のキリストの使徒たちが生きた時代の純朴で熱情的...[Ⅱ70]『病気は感謝すべきもの』(4)  《付》

  • [Ⅱ69] 『病気は感謝すべきもの』(3)  

    《最後の一言》「モー往きます」とはルツ子の最後の一言でした。彼女はこの言葉を発して後十二分で息を引き取りました。「モー往きます」この言葉は簡単なようですが意味深い言葉です。「往きます」なのです。「死にます」ではありません。または「滅(き)えます」でもありません、彼女の生命は終止したのではありません、延長したのです。彼女の場合においては、霊魂の不滅は事実として証明されたのです。「モー往きます」と、何処へ?悪い所に往くのではないのは勿論です。彼女の死に顔が、その口元に微笑を留めているのを見て、善い所へ行ったことを知りました。そのとき彼女に先だったフサ子やイチ子(注:共に鑑三宅に住み込みで働いていた家事手伝いの女性。高橋ツサ子は岩手県花巻出身、鑑三翁の弟子斎藤宗次郎を介して突然上京したものの鑑三翁は一旦は送り返した。...[Ⅱ69]『病気は感謝すべきもの』(3) 

  • [Ⅱ68] 『病気は感謝すべきもの』(2) 

    ◇◇◇◇◇◇◇(明治45年2月10日『聖書之研究』139号/署名なし)ルツ子の病気の原因などは不明でした。医者は局所不明の結核と診断され、または細菌性の混合感染症の発熱と診断され、または慢性脚気に併発したものとされ、医者の診断は様々で確定診断はなされませんでした。ただ執拗な高熱が続いたため衰弱した結果亡くなったことは確かなことでした。病気が何であったのかは医学上の問題として残るでしょう。しかし彼女を死に至らしめた病気が、彼女の霊魂を完成するに際して偉大な効力を発揮したことは疑うことはできません。彼女の肉体を焼き尽くしつつあった病気は、同時に彼女の霊魂を完成させつつありました。無邪気だった彼女は六か月間の病気の苦しみを経てからというもの成熟した信仰をもつ女性へと変貌したのです。病気は彼女の肉体を滅ぼして彼女の霊を...[Ⅱ68]『病気は感謝すべきもの』(2) 

  • [Ⅱ67]  『病気は感謝すべきもの』(1) 

    鑑三翁は1891(明治24)年に妻・かずを喪います。鑑三翁はその悲嘆から這い上がり、そして蘇ろうとするかのように執筆活動に専念します。およそ2年が経過して1893(明治26)年2月に『基督信徒の慰』(この本の第1章「愛するものゝ失せし時」《私の連載「愛する者を喪ったとき」》、第6章「不治の病に罹りし時」《私の連載「不治の病気にかかったとき」》)、そして同年8月には『求安録』を出版しました。鑑三翁は1892(明治25)年、既述のように京都の判事岡田透の娘・しづと結婚します。1894(明治27)年には娘・ルツが生まれ、1897(明治30)年には長男・祐之(すけゆき)が生まれます。英文の『JapanandtheJapanese』(1894)及び『HowIbecomeaChristian』(1895)の出版、1896(...[Ⅱ67] 『病気は感謝すべきもの』(1)

  •  [Ⅱ66] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(8) 

    「たといわたしは『わが嘆きを忘れ、憂い顔をかえて元気よくなろう』と言っても、わたしはわがもろもろの苦しみを恐れる。あなたがわたしを罪なき者とされないことをわたしは知っているからだ。わたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。たといわたしは雪で身を洗い、灰汁で手を清めても、あなたはわたしを、みぞの中に投げ込まれるので、わたしの着物も、わたしをいとうようになる。」(ヨブ記9:27-31)私は私の罪を恥じて神から逃げようとしますが、神は私を逃がそうとはしません。私はエホバの的となり「あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。」(詩篇38:2)私は東に行ってもそこに神はおられ、私が西に行ってもまた私は神を見ます。神は裁き(裁判)の神であって、許し(宥恕)の神ではあり... [Ⅱ66]『求安録/内心の分離InternalSchism 』(8) 

  • [Ⅱ65] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(7)    

    キリスト教の教義によれば、自分だけを救おうとする者は滅びに至る人間とされています。怠惰は罪の中の罪です。何事も行わないのは悪事を行うことと同じです。時間を殺すこと(注:時間を無駄に費やすこと)は人を殺すことと同じ罪です。何もしない人間の一生は罪の一生と言えます。フランクリン(注:BenjaminFranklin,1706-90、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。)は、「時は金なり」(TimeisMoney)と言いました。キリスト教は言います。「時は永遠の一部分にして億万心霊安否を決するの機なり」と(hoKairos〈注:”時よ止まれ”の意味か、不詳〉、エペソ人への手紙5:16を参考「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」)。私の憎悪の感情を充たそうとして人を死に至らしめ...[Ⅱ65]『求安録/内心の分離InternalSchism 』(7)    

  • [Ⅱ64] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(6) 

    私がもし正しいと考える道に則って世間に対応しようとすると、世間は詐欺のように私に対処し、人が私に下着をくれと言うので私が上着を取らせようとすると、彼は私の靴も帽子もくれと求めます。彼が私に応対するに際し不正があるので私が不正をもって返そうとすると、彼は私がキリスト教徒なのだから正しく返すべきだと私を責めるのです。彼は信者ではないので不正でも正当なのだと言い、私は信者なので不正を為してはならないと考えているのです。私がキリストを信ずるのは、不信者の社会において私を活躍させるためであり、私の正直は彼らの道具となるためであり、私が良心の命令を尊ぶのは私を偽善者の格好の敵対者とするためでした。私がもし彼の不正を責めると、彼は君の愛の心をもって自分を許してほしいと言います。彼が私をだまして私に契約を結ばせ、キリスト者の義...[Ⅱ64]『求安録/内心の分離InternalSchism 』(6) 

  • [Ⅱ63] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(5)   

    私は偽善者でした。人を殺す者でした。姦淫を犯す者でした。盗人でした。そして聖書という灯りで私の心の中を探るとき、私は神を汚す者と言えるでしょう。人を欺く者と言えるでしょう。ああ聖書の言葉を誤りとしてください。私は到底この光に耐えることはできません。私は罪が罪であることを知る以前は、罪を犯してもそれほど苦痛を感じませんでしたが、罪というものは憎むべきものであること、罪は恐るべきものであること、罪というものを知ってから後には、罪を犯したときには、言い難い不快感を覚えるに至りました。そして罪の特性というものは、我々に恐怖を与えるとはいうものの、これを避ける力を与えることはなく、我々は罪を犯しては嘆き、嘆いては恐れ、恐れては失望し、失望してはまた同じ罪を犯すものなのです。アメリカに生息するガラガラヘビ(rattlesn...[Ⅱ63]『求安録/内心の分離InternalSchism 』(5)   

  • [Ⅱ62] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(4)    

    聖書は言います。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5:17)と。そしてここから判定した場合、成人以上の男性で、どれほどの人がこの姦淫罪から免れることができるでしょうか。「我より退け、汝姦淫を犯す者よ」とのエホバの宣告は誰が受けるべきなのでしょうか。他人の淫行を指摘することができるとは言え、自分自身の中に姦淫病の骨の疼きがあることをどうすればいいのでしょうか。人間は、他人の病気の重いのをみて自分の無病息災を信じようとつとめるものものです。見てみなさい、社会の風俗の乱れを糾弾する人間ほど背徳の生活をしているではないですか。私は税吏のように民衆を虐げたりはしていませんと言うパリサイ人の心は、ごく普通の人間の心なのです。他人に罪があると言う人が、彼には罪はな...[Ⅱ62]『求安録/内心の分離InternalSchism 』(4)    

  • [Ⅱ61] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(3)

    私はここを読むたびにノミ(鑿)で私の良心に穴を穿たれるような気がします。Speechissilvern,Silenceisgolden.(雄弁は銀なれば沈黙は金なり)、人間が二個の耳を持ち一個の口を持つ理由は、二度聞いて一度話せとの意味だと言われています。Thinktwice,speakonce.(二度考えて一度話せ)、多くの愚かな人々が好き勝手に物事を言ったところで一人の賢人が黙っていることにかないません。私が不完全で頑なで愚かなことは、私が口を開いてもこれを制御できないことで明らかです。私が多弁を制御できないのであれば、私のキリスト教に何の意味があるのでしょう。「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。」(ヤコブの手紙2:19)私は明白にキリス...[Ⅱ61]『求安録/内心の分離InternalSchism 』(3)

  • [Ⅱ60] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(2)  

    しかしながらこのような私の"作為的な"神聖さは長続きはしませんでした。たちまち私の言動や行動は後戻りし始めました。私の謹慎は友人たちはこれを嫌っており、しばらくの間私もこうした生活に精を出していたのですが、わずか数日で私は不自由さと苦痛を感じ始めたのです。少々の豪遊は信仰の妨げにはならないだろうと思い、沈黙はうつ病のような症状を招く恐れがあるので、私は石像のようにしていてはいけないと考えました。そして警戒心が少し破れると全部が破壊されてしまいました。わずか三か月もたたないうちに私は決心以前の状態に戻ってしまいました。そして私のキリスト教の信徒としての兆候は、冷淡な気持ちで日曜日ごとの集会に列席すると、嫌々ながら朝晩の頭を下げて、意味のない祈祷をするだけになったのでした。しかしながら永遠の生命をもつ聖霊は聖書の言...[Ⅱ60]『求安録/内心の分離InternalSchism 』(2)  

  • [Ⅱ59]  『求安録/内心の分離 Internal Schism』(1)

    《上の部》内心の分離私が初めてキリスト教に接したときに、私はその道徳的な高潔さと威厳に感服しました。私は自分の不浄さと不完全さを悟りました。私の行動や発言は、聖書の理想という点から裁判されたとしたら、汚れそのもので如何ともしがたいということを発見しました。私は泥の中に沈んでいたことを悟りました。私は故意に人をだましておきながら、私が罪ある人間であることを自覚しませんでした。私は虚言を吐いても平気でいたのでした。私は他人の失敗を見て喜び、人を押し倒してでも自分の成功を願っていました。私の人生の目的は名声と富を得ることにありました。私は国家を愛すると宣言して私の野望を満たそうとしていました。私は他人の薄情や卑屈を責めていながら、自分でも常に他人の不利益を望んでいました。私は君子のように振る舞っていながら、その実賤し...[Ⅱ59]  『求安録/内心の分離InternalSchism』(1)

  • [Ⅱ58]  『求安録/悲 嘆』(2)

    人生は快楽こそが一番大事だと言う者は誰ですか。私には一日とて何事もない平穏な日などはありませんでした。関ケ原の戦い(注:慶長5年(1600)関ヶ原で、石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。東軍が大勝した)や、ワーテルローの戦い(注:1815年ベルギーのワーテルローでイギリス・オランダをはじめとする連合軍・プロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍との連の戦闘。フランス軍が敗北した)などの戦闘は、私たちが毎日毎日”心の中で”目撃するところです。ジョン・バンヤン(注:JohnBunyan、1628-88、イギリスの教役者、文学者。『天路歴程』の著者)は、かつて犬や猫の境遇を見て羨ましくてしょうがなかったとたびたび話していたそうです。その理由は、犬や猫は人間のような戦争がないからだ、...[Ⅱ58]  『求安録/悲 嘆』(2)

  • [Ⅱ57]  『求安録/悲嘆』(1)

    鑑三翁は1891(明治24)年に妻・かずを喪い自らも重篤な病気に罹ります。その悲嘆の深さと痛哭な心情、及び魂の飢餓状態から脱出して強靭な深い信仰への恢復が伺えるのが前項の二つの論稿でした。鑑三翁は第一高等学校不敬事件と、それに続くかずの死とで大きな心の傷を負いました。そしてこれに続く時期には、経済的な生活の困窮を経験していきます。そんなさ中に熊本英語学校に職を得た当時に熊本にて執筆されたのが今回取り上げた『求安録』です。この書は1893(明治26)年8月に刊行されました。鑑三翁自身が記しているように、この書は「平安探求の記録(SearchafterPeace)」とも言うべき内容を含んでいます。またこの書について、鈴木俊郎氏は「如何に心の平安を探し求め、何に於てその平安を獲得し得た乎といふ著者の信仰的実験の記録で...[Ⅱ57]『求安録/悲嘆』(1)

  • [Ⅱ56]『不治の病気にかかったとき』(11)     

    「私は生涯の終わりに近づくに至って、他の世界の美しい音が益々明瞭になって私の耳に響くようになりました。その声は驚くようなもので単純なものです。雅歌のようであり歴史的事実のようでもあります。私は半世紀近く散文や詩、歴史学、哲学、戯曲、ざれ歌等に私の思想を発表しました。しかし今思うに、私は私の心の中にあるものの千分の一ほども言い尽くしてはいないことを知ります。私は墓に入るときに、私は一日の仕事が終わったと言うことはできても、私の一生が終わったと言うことはできないでしょう。私の仕事は明日の朝再び始まろうとしています。墓というものは、道路の行き詰まりではなく、他の世界に達する通り道なのです。暁の前の未明なのです。私はこの世に存在する限りは働きます。この世は私の本国だからです。私の事業は始まったばかりです。私の築こうとす...[Ⅱ56]『不治の病気にかかったとき』(11)     

  • [Ⅱ55]『不治の病気にかかったとき』(10) 

    来るべき「未来」の考え方が、あなたを慰めてくれるものかどうかはわかりません。今このことをあなたに話すことは、かえってあなたを傷つけるのではないかと恐れています。しかしながら世界の英雄や聖人の希望と慰めは、多くの者にとっては未来が存在することへの信仰にありました。ソクラテス(注:古代ギリシャの哲学者。BC469頃-BC399)は、霊魂の不滅について論究しながら亡くなりました。老牧師ロビンソン(注:JohnRobinson、1575-1625、イングランドの会衆派教会牧師で分離派の中心人物)は、医師から死の危機が迫っていることを聞いて友人に告げて言いました。「死というものはこんなにもたやすいものなのか」と。スヴェーデンボリ(注:EmanuelSwedenborg、1688-1772、スウェーデン王国の科学者・神学者...[Ⅱ55]『不治の病気にかかったとき』(10) 

  • [Ⅱ54]『不治の病気にかかったとき』(9)    

    動物としてのあなたは病気でいます。しかしながら天使としてのあなたは健全であり得るのです。あなたは動物としての楽しみを取り去って天使としての楽しみを取りなさい。また病気はあなた一人ではないことを知りなさい。人類は一秒間に一人ずつ息を引き取っていると考えることです。日本人は一年に80万人ずつ墓に入っていることを知りなさい。全国の四万人以上の医師が平均一日五人以上の患者を診療していることを考えてみなさい。それだけではありません。千人のうち全く病気と感じない者は一人もいないことを知りなさい。人類全体が病みつつあるのです。人類はアダムの罪によって死刑を宣告されたのです(これはどのような神学的な学説によって論争しても行きつくところは同じです)。そして第二のアダムによって霊の賜物をいただいた者だけが真の生命を持つのです。あな...[Ⅱ54]『不治の病気にかかったとき』(9)    

  • [Ⅱ53]『不治の病気にかかったとき』(8)

    あなたがもし普通の人のような感覚をもつのであれば、無限の楽しみがあなたにはあるのです。山野に遊び自然と交感して自分の神と交わることは、今のあなたには叶わないところです。淑女と巨人とが一堂に集まり(注:ダンテ『新曲』の女と巨人の交歓のことと思われる。)思うところを意見交換して仕事を企画するようなことは、今のあなたにはできないでしょう。しかしながらもしあなたが文字を理解するのであれば、『聖書』という世界文学の世界があなたと共にあります。これを読めば、あなたは励まされ涙が流れることでしょう。この書はあなたのために恋歌を提供し(ソロモンの「雅歌」)、あなたに軍談を語ってくれるでしょう(「ヨシュア記」「士師記」)。貞淑に関する美談があり(「ルツ記」)、憤慨の歌があります(「エレミヤ記」)。『聖書』はあなたの全ての感情に訴...[Ⅱ53]『不治の病気にかかったとき』(8)

  • [Ⅱ52]『不治の病気にかかったとき』(7)   

    あなたは手足を使えないから世の中には為すべきことがないと言うのですか。あなたは講壇に立って説教ができないから福音を他の人に伝えることができないと言うのですか。あなたは筆をとってあなたの意見を発表することができないから世の中を感化する力が持てないと言うのですか。あなたが病床にあるからあなたはこの世に無用な人間だと言うのですか。そうであれば、あなたは戦場に出ることのできない兵士は無用の者だと言うのと同じです。山奥に咲くランの花は無用だと言うのと同じです。海底に生い茂るサンゴは無用だと言うのと同じです。川の岩の間に咲くサクラソウは、人に見られないからといって赤い衣で装ってはいけないと言うのですか。毎年人に知られずして香を砂漠の風に乗せ、その色を無機物の岩石に見せる花は何と多いことでしょう。神は人の目の届かない病床の中...[Ⅱ52]『不治の病気にかかったとき』(7)   

  • [Ⅱ51]『不治の病気にかかったとき』(6)    

    【鑑三翁の論稿の現代語訳がなかなか進捗しなかったため、2021年6月9日(Ⅱ50「不治の病気にかかったとき⑸」以来、現代語訳の投稿をお休みしました。このお休みの間、私の妻との闘病の記録を掲載しました。本日から現代語訳を再開します。】事業(注:鑑三翁の言う「事業」とは広い意味での私たちの「仕事」を指しています)とは、私たちが神に捧げる感謝の捧げ物です。しかしながら、神は事業に勝る捧げ物を私たちに要求しています。すなわち、砕けた心、子どものような心、ありのままの心です。あなたは今は事業を神に捧げることはできません。したがってあなたの心を捧げなさい。神があなたに病を得させたのは多分このためだったのです。あなたはべタニアのマルタのような心でキリストに仕えようと願って、「マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし」(ルカ...[Ⅱ51]『不治の病気にかかったとき』(6)    

  • [Ⅱ50]『不治の病気にかかったとき』(5) 

    〈その二〉あなたは廃人になったのだからと言って絶望しようとしました。ああそれならばあなたの宗教も、数多のキリスト教信者や異教の信徒の宗教と同じく「事業教」ではありませんか。あなたも人類の大多数と共に”事業”をもって最大目的とするものではありませんか。事業は人間の最大の楽しみではあります。しかしながらこの楽しみを得られないからと言って落胆し失望するのは、あなたが事業に勝る楽しみがあることを知らないからなのです。キリストは、あなたが大事業家となるために十字架上であなたのために命を捨てたのではありません。キリストの目的は、あなたの心と霊を救おうとするところにあったのです。もし世の中の楽しみがあなたを神に帰らせるために障害となるのであれば、神はこの楽しみをあなたから取り去られるでしょう。神はあなたの身体と事業よりもあな...[Ⅱ50]『不治の病気にかかったとき』(5) 

  •  [Ⅱ49]『不治の病気にかかったとき』(4)  

    世の中には”信仰治療法”なるものがあります。すなわち医者にもかからず薬も使わずに、健康生活と祈祷によって病気を治そうとする方法です。ある信仰治療者の一派が言うような、医者は悪鬼の使者であって薬物は悪魔の提供する毒物であるといったようなことを私たちは言いません。しかしながら信仰というものは、難しい病気の治療法の一つとして大きな効果があることを疑わないのです。もちろん私たちがここで言う信仰による治療法というものは、偶像崇拝の者たちが医療や薬を軽視して神仏に祈願したり、あるいは霊水を飲用するといったようなものではありません。我々の言う信仰による治療法というものは、身体を自然の創造主と自然の法則とに委ね、穏やかに心を落ち着かせて宇宙に存在する霊によって、我々の身体を平常の身体に恢復させるところにあります。これは迷信では... [Ⅱ49]『不治の病気にかかったとき』(4)  

  • [Ⅱ48]『不治の病気にかかったとき』(3)  

    不治の病気にかかったときの”失望”の中身については二つの種類があります。一つは「自分は再び回復することは不可能だろう」と考えることと、二つ目は「私は今廃人になったのだから世の中に不用な存在なのだ」と考えることです。〈その一〉:あなたはどのようにして病気が不治であることを知ったのですか。名医があなたの病気が不治であることを宣告したから、あなたは”不治”であると心に決めたのですか。しかしながら、あなたは”不治”とされた病気が全快した例が多くあることを知らないのです。あなたは十九世紀の医学が人間という奇跡的な小さな天地を究めつくしたと考えていたのでしょうか。近代医学の進歩には驚くべきものがあります。しかし医者は創造主ではありません。時計師だけが時計の構造の全貌を知っているように、神だけがあなたの身体の全貌を知悉してい...[Ⅱ48]『不治の病気にかかったとき』(3)  

  •  [Ⅱ47]『不治の病気にかかったとき』(2)

    この楽しげな世界も病気の私にとっては何の用もありません。このように生きて存在していることだけでも苦痛の種であり、私の死を待つ墓堀人夫が夜を待っているようなものです。梅の花も香りを放っていますが私にとっては何の意味もありません。鶯が恋の歌を奏でても私には何の興もわきません。立身して仕事を行い私の名を後世に残す希望も今は全くなくなりました。心を尽くして国と人とを救済するといった楽しみも今は私とは何の関係もありません。詩人のゲーテは言いました。UnnützseinistTodtsein(不用にあるは死せるなり)〈注:不用になったものは死んだも同然だ〉と。私は今の世に不用であるのみならず、私の存在はかえって世を悩ますようなものです。私が他の人を救えないのならば、私は他人を煩わすこともないでしょう。ああ恵みの神よ、一日も... [Ⅱ47]『不治の病気にかかったとき』(2)

  • [Ⅱ46]『不治の病気にかかったとき』(1)  

    鑑三翁は1891(明治24)年4月に最愛の妻・かずを病気で喪った後に執筆したのが前回の「愛する者を喪ったとき」(原題『愛するものゝ失せし時』)でした。そして鑑三翁は妻・かずの死の直後に重篤な流行性感冒に罹り意識不明の状態を体験しました。今回現代語訳した「不治の病気にかかったとき」(原題『不治の病に罹りし時』)は、この病気で臥せていた鑑三翁本人の苦しくも痛ましい経験と、妻・かずへの哀惜の感情を重ね併せるという二つの視点から執筆されています。本稿は「選集8(生と死について)」に収載(p.24-36)されたものを現代語訳しました。以上の二つの論稿は、明治26(1893)年2月に刊行された『基督信徒の慰』に発表されました。共に鑑三翁の強烈な喪失感と激しい精神の葛藤が記され、その無限地獄からどのように脱出し信仰に戻ってき...[Ⅱ46]『不治の病気にかかったとき』(1)

  • [45]『愛する者を喪ったとき』(9) 

    ああそれはどのような声だったのでしょうか。かつてパマカスという人が、その妻のポーリナを喪って悲嘆に沈んでいたときに、聖ジェローム(注:ギリシャ語名ヒエロニムスEusebiusSophroniusHieronymus、英:Jerome、347頃-420頃、ラテン教会四大博士の一人。聖人)は、彼を慰めるために「一般的な夫は妻の墓にスミレやバラの花を飾るが、あなたパマカスは妻ポーリナの遺骨を”慈善”という香乳で潤しなさい」と書き送ったのは、私が私の愛する者の墓で心に聴いた声と同じことを言ったものなのでしょう。今日からは、私は前にも増して愛の心をもって世の中の憐れむべき人たちを助けます。私の愛すべき人は肉の身体において失われてしまったのではありません。私はなお彼女を看護して彼女に報いるべきです。この国のこの国民は、私の...[45]『愛する者を喪ったとき』(9) 

ブログリーダー」を活用して、tsuguchanさんをフォローしませんか?

ハンドル名
tsuguchanさん
ブログタイトル
鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]
フォロー
鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用