私は1年生のころ、給食がほとんど食べられなかった。それに、あの脱脂粉乳。とても飲み下すことはできなかった。
先生はどこかさせるところはないかとあちこち探していたが、私は我慢しきれず、足元にジャーっと出してしまい、「でたー!」と叫んだことはよく覚えている。
幼稚園に行かなかった私は初めての集団生活であった。そのことを差し引いたとしても、少し変わった子だったかもしれない。先生は母を呼び、知能が遅れているのではないかと話したそうだが、母は「そんなことありませんよ」と一蹴したということだ。
「おとうちゃまは行かないの?」と事情が分からないままに東京駅(上野だっただろうか)から特急つばめに乗ってホームを離れた。そのころ特急つばめでも東京・大阪間は9時間かかった。
今でもウォーターシュートはあるのだろうか。豊島園ももうすぐ閉園すると聞いた。70年前の懐かしい光景が瞼にひろがる。
いよいよエスカレーターなるものに乗ることになった。約70年前の話だが、そのころ、エスカレーターの乗り口の横に女の人が座っていて、運転というか、動きをコントロールしていた。
当時は、「くずーい~、おはら~い」と言いながらくずやさんが道を歩いていたものだ。くずやさんが1件1件「おはらい物はありますか?」と聞いてまわったり、あるいは必要な人が掛け声を聞いて呼び止めたりした。
子どもが行くような場所ではないことを感じつつ、カウンターのようなところの椅子に座らされ、まことに居心地が悪かった。おばさんはしきりに私にお愛想を言い、いろいろ話しかけてきたが、不快感でいっぱいだった私は最低限度の返事しかしなかった、と思う。
とても面白くて、未知の体験をしているわくわく感でどこまでもついて行った。途中でずいぶん遠くへ来てしまったなという不安が頭をよぎったが、それでもみんな一緒だから大丈夫だろうみたいな気持ちで、どんどんついて歩いた。
すると私は必ず、玄関に座って応対する母の背中に後ろから覆いかぶさって、チューインガムを買ってとせがんだ。私は、この白い粒のチューインガムの味が大好きで、今でもあの味のガムがどうして日本にはないのかなあと思う。
私はその白い傷痍軍人さんにお金を入れてあげるのが自分の務めのように勝手に思い込んでいて、見かけると必ず母にせがんでお金をもらって入れに行った。
そのとき私の心にある考えが頭をもたげた。それはこうである。「こんなアメリカ人のおばさんにバカにされてたまるか!」
まだ4歳になる前だったと思う。父は「ほんとに行けるのか?」と心配したが、私は「ひとりで行けるもん」と自信満々だった。ふつうは母親が心配すると思うが、うちの場合は父の方が心配し、母は「大丈夫でしょ」と言った。
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