先日は、精神科で面白いことを学んだ。 それは、速い思考と遅い思考。 たしかに、思考には二種類ありそうだ。 5+8はいくつ? と聞かれたときに、何も考えることなく13が出てくる。 りんごは何色? と聞かれたら、間髪入れずに赤と答えられる。 速い思考というのは、こんな感じで直感的な対処ができて速い。 単純明快で、脳のエネルギーも対して使わないから省エネだ。 一方で、遅い思考というのは、難しい文章題であったり、人間関係の問題だったりを解決するときに用いる。 ケンカした後の仲直りとかは、その典型例だろう。 遅い思考は、複雑な処理ができるものの、エネルギーを要する。 さて
「病気になったことに本人の責任はなく、病気を治す努力をすることが、責任をとっていることになる」 という意見を見聞きした。 当事者としては、擁護してもらっている感じがしてありがたいと思う。 とくに、「病気になってしまうことに、本人の責任はない」という言葉には救われる。 一方で、この意見は、あまりにも依存症当事者に優しすぎるメッセージとも感じる。 確かに、依存症当事者としては、治療を受けることが責任だとは思う。 しかし、治療を受けることは責任を取ることの「必要条件」であり、「十分条件」ではないと思っている。 治療を受けているから他のことはしなくてもいいんだ、ではないと思う。
「自分とは何か」という命題があったときに、人は悩むことになる。 もちろん、自分についての純粋な情報量から言えば、自分以上に自分のことを語ることができる人間はいない。 しかし、「自分は○○な人間なんですよ」という発言は往々にして間違っていることが多い。 それは、語り手としての自分が主観的であり、客観的に自分というものをとらえられないからだと思う。 つまり、自分では自分のことが分からないのだ。 そうすると、人は他者との接点において、「自分とは何か」を探ろうとする。 誰かと比べてみたり、誰かと一緒にいる自分を観察してみたり。 その最たるものが、最も深い部分でつながるセックスだと
外国人に、善意で片言の日本語で話しかけた時、その背景には「相手が流暢に日本語を話せないのではないか」という差別があるのだそうだ。 良かれと思ってやっていることにも、実は差別が隠れていることが多い。 重いものを持ってあげようという配慮も、相手は重いものが持てないのだろうという差別がある。 電車の座席を老人に譲る時も、相手は立っていたら疲れてしまうだろうという差別が隠れている。 こんなふうに、自分の行動の背景にある認知は自分では気が付きにくい。 依存症治療において、厄介なのが、いろいろな場面で「自分の行動は、自分でコントールできる」という認知が隠れていることだろう。 自分の行動
治療について考えた。 普通、治療というと、体の一部が悪くなっている病気に対して、アプローチする。医者も患者も、悪いところが悪いとわかっていて治療に取り組む。 一方で、精神科の病気は、「精神=私」だから、体の一部が悪いということではなくて、体の全て(私自身)に欠陥があるということになる。つまり、精神疾患というのは、自己否定から入らなければならない。だから否認というものが存在し、「俺はそんな病気じゃない」という反発が生まれるのだろう。 他にも、治療が主体的かどうかという違いも大きい。 体の一部が悪くなる病気では、「治してもらう」というスタンスでも治ってしまう。「手術してもらう」「薬
ちょっと過激なタイトルをつけましたが、今日はちょっと辛口なブログです。 約束とか決心って意味がないですよね、という内容です。 さて、皆さん。 「もう、問題行動しないようにしようね」 という約束は意味があると思いますか? 私は、依存症治療において、約束は意味がないと思っています。 そもそも、依存症というのはコントロール障害になってしまっている面があるので(やめようと思ってやめられるのであれば、それは依存症ではない)、「問題行動に対して無力である」という認識が正しいと思います。 約束したって無駄だから、別の方法を考えるのがいいでしょう。 特定の場所に行かないとか仕事の行き帰りに、家族と電話
自由とは何か。 それは、自分のやりたいことが実現できることだと思います。 ある人が、鉄球につなぎ留められているとしたら、自由ではありません。 一方で、その鉄球を外せば、彼は自由の身と言えるでしょう。 鉄球は、時には差別であったり、境遇であったり、貧困であったりします。 ところで、やりたいことが悪であったら。 やりたいことが、邪悪なものであったら。 本人が自由であることによって、残念な結果が生じるでしょう。 自由と言うのは、実現したいことが善であるときにのみ、有益とされる概念だと思います。 やりたいことが、邪悪なものである場合は、邪悪から自分を遠ざけてくれるもの、つまり
ミーティングは私は話すのも聞くのも好きです。 ミーティングの内容は、このブログでは一切書くことはできませんが、 今日は、色々な皆さんの性依存症に関する努力を聞くことで、 「自分も頑張ろう」 という気持ちがより一層強くなりました。 特に、私が感銘を受けたのは、自分と嗜癖が異なる人の努力です。 たとえばの話ですが(本当に、完全な作り話です)、 「どうしても、切手を集めるのがやめられないので、郵便局・金券ショップがある道は通らないようにしています。自宅の郵便受けにもガムテープを張り、郵便物が届かないように配慮しています。仕事も切手を見ることがないように、建築関係にしました。コン
罪を償う、という言葉がありますが、当事者の皆さんはどう考えますか? 罪を償うって、とても難しいと思います。 刑事罰を受ければいいのか、 改心して生きていけばいいのか、 治療を受ければいいのか、 社会的制裁などに苦しめばいいのか、 社会貢献活動にいそしめばいいのか、 色々な生き方があると思いますが、どれが正解なんか決められるはずがありません。 少なくとも、「私なんか、私なんて」と被害者ポジションに入るのは違うと思います。 一方で、治療に取り組み、前向きに生きていけばいいのだ、というのもあまりに乱暴です。 自分なりに、「償いとは何なのか」と探求して生きていかなければいけ
性依存症の家族はとても辛い。 当事者との関係でものすごく悩むはずだ。 当事者を支えていくことが大切だ、などと固定した考え方にとらわれてしまうと辛い。 性依存症の問題行動は「取り返しのつかない」ことの一つであるから、 無理に関係を再構築するのではなく、離別するのも一つの方法だと思う。 関係を絶つことで、お互いが幸せになることだってあるはずだ。 一方で、本当に「取り返しのつかない」ことなのか、という議論もある。 当事者は、治療に取り組んで、罪と向き合い生きていく道もある。 ご家族は、その生き様をみて、許すというのも一つの選択肢ではあるはずだ。 性依存症当事者を支えていくの
アルコール依存症の治療は、「飲まない」が目標となります。 一方で過食症の場合は、「食べない」が目標ではありません。 食べなければ死んでしまいます。 では、性依存症(セックス依存症、性犯罪)についてはどうでしょうか? 私は性的な活動はまったくゼロにすればいいわけではないと思うのです。 明確な線引きは、各自で考える必要があると思いますが、 女性に関心があること マスターベーション 夫婦・交際相手とのセックス は認めるのがいいんじゃないかと思います。 一方で、 性犯罪 過度なマスターベーション 不特定多数とのセックス はもちろん控え
アディクトの最初の一杯は、「探索を始める」「計画をする」「準備をする」などの行動です。 これらの行動を「画策」と言います。この「画策」が始まると、報酬系のスイッチが入り、渇望現象で止まらなくなります。 われわれ、性依存症のような行動嗜癖は最初の一歩が「画策」なのです。 この、「画策」をしてしまいそうになる段階で、「画策」をやめることができれば、性依存症と向き合うことができると思うのです。 逆に、「画策」をしてしまうと、報酬系のスイッチが入り、ドキドキ・ワクワクが止まらなくなり、渇望現象で止まらなくなってしまいます。
性依存症も、共依存も、パーソナリティー障害も回復できる人とできない人がいます。 なにが、根本的に違うのでしょうか。 結構難しい問題だと思いますが、私の答えは以下のようになります。 「我流を貫いてしまうか、他人の意見に耳を傾けられるか」 学生の頃に、勉強ができてすごいなと尊敬する人が何人かいました。 彼らに共通するのが、「素直」「順応能力が高い」「他人の意見に耳を傾ける」ということでした。 一方で、効果が出ていないのにノートの取り方とか勉強の仕方で我流を貫くひとは、勉強が苦手だった印象があります。 「こうしてみたら?」という友人の助言を疎ましく思っていた人は成績が伸びず、他
ホッとできる時間 心地よい時間 みなさんにはありますか? そういう時間のことを、グッドタイムというらしいです。 私は、お風呂上りに自分の書斎でパソコンをいじっている時間と、寝る直前にベッドに横になりスマホをいじっている時間がグッドタイムです。トイレにこもっているときも、割と好きなのでグッドタイムかもしれません。 人生、いろいろとストレスがかかります。 そんな時に、あれこれ難しく考え込んで、物事が余計に複雑化してしまうことってありませんか? 自信をもつということとは何か?と考えてみたり、 自己肯定感とはなにか?と思案したり、 ポジティブシンキングしてみようと思ったり、
手を伸ばせば伸ばすほど遠ざかるものってありますよね。 冷蔵庫の下に落ちたものを取るときとか。 それは、対象をつかんでいないから遠ざかるのだそうです。 つかもうとして、実は押し込んでしまっている。 一つの面だけアプローチしてもダメなんだそうです。 しっかりつかまないと。 自分一人ではつかみきれない? そうであれば、助けを呼べばいいんですよね。 一人で無理をするから、事態はややこしく複雑化してしまうのです。 物理的な話だけではなくて、抽象的な問題も同様です。 人間関係の問題など。 自分から見た側面だけとらえて取り組んでも、解決しません。 多面的に取り組まないと。
【まとめ】性依存症(性犯罪、セックス依存症)に効く本 23選
性依存症に効く本を集めてみました。 ”効く”と書きましたが、私が読者の皆様に推薦したい図書となります。 前半が直接的に性依存症に関係する本です。 性依存症のことについて、詳しく知ることができます。 後半は、間接的に性依存症に関わってくる本を紹介します。 依存症は、”人生の優先順位が狂ってしまう病気”であり、また”続けられなくなった習慣”とも言えます。 他にも、”依存症の問題行動で何かを解決しようとしていた”ともいえるのではないでしょうか? その解決しようとしていた何か(心に空いた穴のようなもの)はどのようにして形成されたのか、どのようにして解決・克服してけばいいのか、 そ
性犯罪のニュースは、コンスタントに常にあるイメージです。 そんな性犯罪のニュースを見たときに、皆さんはどのような感想を持ちますか? 私は、最近では、「この人は性依存なんだな、かわいそうだな」と同情的にみます。 昔(高校生くらいまで)は、「世の中には変な奴がいるもんだ。怖いな。」と思っていました(全く別世界のことだと思っていました)。 このブログの読者の方はいかがでしょうか?もしかしたら性犯罪のニュースをみて「許せない」と怒りの感情があふれてくる人もいるかもしれません。 性犯罪のニュースひとつをとっても、皆さんの反応は様々だと思います。 あと、忘れてはいけないのが、「大切な人
数か月前、私は精神科で「錨(いかり)の綱」というのを習いました。 錨というのは、船が流されないようにするための道具です。鎖やロープを付けて海底や湖底、川底へ沈めて使います。 爪などが底質に刺さることで抵抗力を生んだり、それ自身の重さによって抵抗力を生んだりします。 依存症の問題行動をしない状態を維持するためには、錨の綱のような何か(趣味や習慣)を複数持って大切にするべきという内容でした。 たとえば、運動や芸術、人間関係などです。 それがしっかりしていると、問題行動の再発(スリップ)をしにくくなるのです。 私にとっての錨の綱は家族です。 家族と仲良く安定した生活を送ることが、
スパイラル のめり込むものというのは、大体○○スパイラルという風に表現されます。 今回、依存症スパイラルが分かりやすく図になっているものを見つけましたので、紹介したいと思います。 引用元https://style.nikkei.com/article/DGXKZO68599690Y1A120C2W10600/ この図の面白い点は、 「問題行動をすると一時的にドーパミンが大量に出る」 「ドーパミンが薄れるとストレスが生じる」 「ストレスがたまると問題行動をする」 というのが分かりやすく表現されている点です。 以上をまとめると、次のようになります。 「
以前勤めていた会社のHPや、高校の同窓会の連絡をみると、私は劣等感を抱きます。 周囲の皆さんの活躍が実に華々しく映るのです。 こちらは、精神科で治療を続けている身。 惨めであったり、自分への怒りのようなものが出てくるときがあります。 恥ずかしいという感情も湧いてきます。 これは、上方比較というようです。 自分より上にあると思うものと自分を比較して劣等感を感じる現象です。 この上方比較、とても恐ろしいです。 実際は周囲の皆さんも苦労があるはずなのですが、私からはきらびやかな部分しか見えてきません。 隣の芝生は青く見える状態です。 物事を客観的に見ることができず、上方比
「ずるいな」という感情を抱いたことがある人は多いと思う。 自分にはないものを相手が持っていたり、 不公平に関じるときに、「ずるいな」と思うだろう。 わたしは、この「ずるいな」という感情を抱かないで済むようにしたいと思っている。 最近で言えば、上級国民という言葉が嫌われていた。 飯塚幸三さんが凄惨な交通事故を起こしたときに、逮捕されなかったから、国民が非難した。 県議会議員が議会中に寝ているというニュースもあった。高い給料をもらっておきながら、寝ているなんてけしからん、というコメントが多かった。 池袋交通事故に関しては、私が事故の被害者関係者ではないので、少なくとも実害は受
自分が今手に入れているものは価値を感じにくいです。 当たり前の生活は、当たり前となります。 ”目が肥える”という言い方もありますね。 簡単に言えば、慣れてしまうということです。 これって、不幸だと思うのです。 当たり前を楽しむことができれば、すごく生きやすいのに、私たちはそれができません。 逆に、何かを失うとそればかりが気になってしまったりします(損失回避)。 これらの罠に引っかからないためには、今自分が手に入れているもののありがたさを考える訓練が大切だと思うのです。 私は、この話を考えているときに、ワンピースのあるシーンを思い出しました。 「尾田栄一郎「ワンピー
依存症の行動化までの流れ 当事者の方に質問です。 性依存症の問題行動の発端(最初の最初)は何だと思いますか? 私は、”脳内のささやき”が発端だと思います。 妄想のあとに、脳内でのシュミレーションといった感じで、具体的な計画を練り始めてしまうでしょう。 その次が行動化だと思うのです。 【依存症】行動化までの流れ ①脳内のささやき「ふと、やりたいな、と思う」※ドーパミンが少し出る ②脳内でのシュミレーション(画策)「具体的にどうやるか手順を考える」※ドーパミンが出る ③行動化「実際にできる状況になるように動き始める」※ドーパミンが多く出る ①や②のあたりを欲望、②と③の
次のような質問があって考えさせられました。 「余命を知らされたいか、突然死したいか?」 私は、余命を知った方が、遺言を書いたりなど残される人へ準備できるからいいと思いました。 他の人はどうなのかというと、ある人は、突然死の方が死への恐怖や不安がないので楽なのではないかという意見でした。 どちらも、納得できる考え方ですね。 また、次のような質問もありました。 「”余命を知った方が準備できていい”と考える人は、普段は準備をしていないということですか?いつか死ぬというのは分かり切っているのにどうして日ごろから準備しないのですか?」 うーん。 非常に考えさせられます。 普段か
精神科でアートプログラムという取り組みがあります。 今回は、『こころ』というお題で自由に書くという内容でした。 自分は、 自分のこころをうかがい知ることは難しい 自分のこころのなかには邪悪な部分もある と感じています。 そのあたりを、階段があって到達しにくい様子や、扉の向こうには紫色の闇が広がっている様子として表現(?)しました。 自分の絵が、深層心理を表しているのかもしれないと思うと、とても興味深いです。 また、絵を描くという行為はとても久しぶりで、集中して取り組むのがとても楽しかったです。
性依存症当事者の家族の方で、当事者との関係を修復された方が、次のようなことをおっしゃっていました。 「嘘・裏切り・辻褄合わせ・取り繕いは性依存症の”症状”である」と。 私は、この言葉に深く考えさせられました。 問題行動をしていたことを隠す(嘘) 大切な人を大切にできない(裏切り) 嘘を上手につくために工夫する(辻褄合わせ) 嘘が露呈したときに正直に打ち明けられず保身に走る(取り繕い) これらを、”病気の症状”ととるか、”不誠実”ととるか。 もちろん割り切れないでしょう。 病気の症状でもあるし、不誠実でもあるのは事実です。 しかし、実際は病気の症状
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