ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下さい。
超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。 説いて聞かせようとして書かれたものである、 という一点を信じて、…。
『徒然草~人間喜劇つれづれ』http://ikaru811.blog.fc2.com 『源氏物語・おもしろ読み』http://ikaru-uta.blog.jp に続き、『正法眼蔵』に取り組んでいます。 どうぞよろしくお願い致します。
魔は是れ天竺の語、秦には能く命を奪ふ者と言ふ。死魔は実に能く命を奪ふと雖も、餘(ヨ)の者もまた能く奪命(ダツミョウ)の因縁を作(ナ)し、また智慧の命を奪ふ、是の故に殺者(セッシャ)と名づく。 問うて曰く、「一の五衆魔に三種の魔を摂す、何を以ての故に、別
魔に四種(シシュ)あり、一に煩悩魔、二に五衆魔(ゴジュマ)、三に死魔、四に天子魔なり。 煩悩魔とは、所謂百八煩悩等にして、分別すれば八万四千の諸煩悩なり。 五衆魔とは、是れ煩悩和合の因縁なり。 是の身は、四大(シダイ)及び四大の造色(ゾウシキ)、眼根(
あるいは天魔波旬等、行者をさまたげんがために、仏形(ブツギョウ)に化(ケ)し、父母(ブモ)師匠、乃至親族諸天等のかたちを現じて、きたりちかづきて、菩薩にむかひてこしらへすすめていはく、「仏道長遠(チョウオン)久受(クジュ)諸苦もともうれふべし。しかじ、まづ
菩薩の初心のとき、菩提心を退転すること、おほくは正師(ショウシ)にあはざるによる。 正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無(ハツム)し、解脱を撥無し、三宝(サンボウ)を撥無し、三世(サンゼ)等の諸法を撥無す。 いたづらに現在
仏の言(ノタマワ)はく、「云何(イカン)が菩薩は一事を守護せん。謂(イハ)く、菩提心なり。菩薩摩訶薩は、常に勤めて是の菩提心を守護すること、猶(ナオ)世人の一子を守護するが如し。亦(マタ)瞎者(カッシャ)の餘の一目(イチモク)を護るが如し。曠野を行くに
しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、楽にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。 衆生界は有辺(ウヘン)無辺にあらざれども先度一切衆生の心をおこすなり
禅苑清規(ゼンネンシンギ)一百二十問に云(イハ)く、「菩提心を発悟(ホツゴ)せりや否や。」 あきらかにしるべし、仏祖の学道、かならず菩提心を発悟するをさきとせりといふこと、これすなはち仏祖の常法なり。 発悟すといふは、暁了(ギョウリョウ)なり。これ大覚
われらが寿行生滅、刹那流転、捷疾なることかくのごとし。念々のあひだ、行者この道理をわするることなかれ。 この刹那生滅、流転捷疾にありながら、もし自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の寿量、たちまちに現在前するなり。 三世十方(サンゼジッポウ)の諸
衆生の寿行(ジュギョウ)、生滅(ショウメツ)してとどまらず、すみやかなること。 世尊在世に一比丘あり。仏の所に来詣(キタ)りて、双(フタ)つの足を頂礼(チョウライ)し、却って一面に住して、世尊に白(モウ)して言(モウ)さく。「衆生の寿行、云何(イカン)
もし如来の道力(ドウリキ)によるときは、衆生また三千界をみる。 おほよそ本有(ホンヌ)より中有(チュウウ)にいたり、中有より当本有(トウホンヌ)にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。 かくのごとくして、わがこころにあらず、業(ゴウ)にひかれて流転
もし如来の正法眼蔵涅槃妙心を、あきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。 いまわれら、如来の説教にあふたてまつりて、暁了(ギョウリョウ)するににたれども、わづかに恒刹那よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受するのみなり。 世尊所
おほよそ壮士の一弾指(イチダンジ)のあひだに、六十五の刹那ありて、五蘊(ゴウン)生滅すれども、凡夫かつて不覚不知なり。恒刹那(ゴウセツナ)の量よりは、凡夫もこれをしれり。 一日一夜をふるあひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。
おほよそ発心得道、みな刹那生滅(ショウメツ)するによるものなり。もし刹那生滅せずば、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪、いまださらざれば、後刹那の善、いま現生(ゲンショウ)すべからず。 この刹那の量は、ただ如来ひとり、あきらかにしらせたまふ。一刹那心
いまの質多慮知の心、ちかきにあらず、とほきにあらず、みづからにあらず、他にあらずといへども、この心をもて、自未得度先度他の道理にめぐらすこと不退転なれば、発菩提心なり。 しかあれば、いま一切衆生の我有(ガウ)と執せる草木瓦礫(ガリャク)、金銀(コンゴウ
衆生を利益すといふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。 自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。 たとひほとけになるべき功徳熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向(エコ
発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり。これを初発菩提心といふ。 この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法(モンポウ)し、さらに菩提心をおこす、雪上加霜なり。 いはゆる畢竟とは、仏果菩提なり。
おほよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業(サンゴウ)にいとなむなり。いたづらに世間の欲楽をあたふるを、利益衆生とするにはあらず。 この発心、この修証、はるかに迷悟の辺表を超越(チョウオツ)せり。三界
この発菩提心、おほくは南閻浮(ナンエンブ)の人身(ニンシン)に発心すべきなり。八難処等にも、すこしきはあり、おほからず。 菩提心をおこしてのち、三阿僧祇劫(サンアソウギコウ)、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひて、ほとけになる。 あるいは無量劫おこ
この心、もとよりあるにあらず、いまあらたに欻起(クッキ)するにあらず、一にあらず、多にあらず、自然(ジネン)にあらず、凝然(ギョウネン)にあらず、わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。 この心は、法界(ホッカイ)に周遍せるにあらず
このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音(オン)、ここには道(ドウ)といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。 この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知
「発菩提心」巻は、『全訳注』では第六巻にあります。 この巻のすぐ前に、同じ日付で示衆の場も同じ越前・吉峰寺となっている「発無上心」巻があります。 同書は、「開題」において、その「発無上心」が、新寺(後の永平寺)建立の関係する在家の人への説法であったのに
この四摂、おのおの四摂を具足せるがゆゑに、十六摂なるべし。 正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 仁治 癸卯(ミズノトウ)端午日 入宋伝法沙門道元記【現代語訳】 この布施、愛語、利行、同事の四摂法は、それぞれの中に四摂法を具えているので、十六摂法になります。
明主はあきらかなるがゆゑに人をいとはず、人かならず国をなし、明主をもとむるこころあれども、明主の明主たる道理をことごとくしることまれなるゆゑに、明主にいとはれずとのみよろこぶといへども、わが明主をいとはざるとしらず。 このゆゑに、明主にも暗人にも、同事
ひそかにしりぬ、海は海を辞せざるがゆゑに、海をなしおほきなることをなす。山は山を辞せざるがゆゑに、山をなしたかきことをなすなり。明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす。衆とは国なり。 いはゆる明主とは、帝王をいふなるべし。帝王は人をいとはざるなり。
たとへば、事(ジ)といふは、儀なり、威なり、態なり。 他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理あるべし。自他はときにしたがふて無窮なり。 管子に云(イワ)く、 海は水を辞せず、故に能く其の大なることを成(ナ)す。 山は土を辞せず、故に能く
同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。たとへば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。 人界(ニンガイ)に同ずるをもてしりぬ、同余界なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。 かの琴詩酒は、人をともとし、天をともとし、神をともとす。人は琴詩
むかしの人、ひとたび沐浴するに、みたびかみをゆひ、ひとたび飡食(サンジキ)するに、みたびはきいだせしは、ひとへに他を利せしこころなり。ひとのくにの民なれば、をしへざらんとにはあらざりき。 しかあれば、怨親ひとしく利すべし、自他おなじく利するなり。 もし
利行(リギョウ)といふは、貴賤の衆生におきて、利益(リヤク)の善巧(ゼンギョウ)をめぐらすなり。たとへば、遠近(オンゴン)の前途をまぼりて、利他の方便をいとなむ。 窮亀をあはれみ、病雀(ビョウジョク)をやしなふべし。窮亀をみ、病雀をみしとき、かれが報謝
怨敵を降伏(ゴウブク)し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。 むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。 むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。 しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子(シュウジ)と
愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語(ゴンゴ)をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。 世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。 慈念衆生、猶如赤子(ヨウニュシャクシ)のおもひをたくはへて言語する
転じがたきは衆生のこころなり。一財をきざして衆生の心地(シンチ)を転じはじむるより、得道にいたるまでも転ぜんとおもふなり。 そのはじめ、かならず布施をもてすべきなり。かるがゆゑに、六波羅蜜のはじめに、檀波羅蜜あるなり。 心の大小ははかるべからず、物の大
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下さい。
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
しばらくご無沙汰いたしました。 年が明けて、次の本をこれからまた、新しく読み始めていきたいと思います。 『徒然草』、『源氏物語』、『正法眼蔵』に続く第四弾は『太平記』にしました。 新しいブログ名は「『太平記』読み~その現実を探りながら~」です。 明日2
いよいよこのブログで読む最後の巻です。 ただ、この巻は、サイト「つらつら日暮らしwiki」によれば、「『正法眼蔵』の巻名の一。12巻本では11巻、他の編集形式には見えない。説示場所や時期は不明。なお、12巻本にしか収録されなかった巻であるため、12巻本が発見され
善男子、汝 既に三聚清浄戒(サンジュショウジョウカイ)を受けたり。応に十戒を受くべし。是れ乃ち諸仏菩薩清浄の大戒なり。第一、不殺生。 汝今身(コンジン)従(ヨ)り仏身に至るまで、此の戒能く持(タモ)つや否や。 答て云く、能く持つ。(三問三答)第二、不偸盗(
善男子(ゼンナンシ)、既に邪を捨て正(ショウ)に帰す、戒已に周円せり。応に三聚清浄戒(サンジュショウジョウカイ)を受くべし。 第一 摂律儀戒(ショウリツギカイ)。汝今身(コンジン)より仏身に至るまで、此の戒能く持(タモ)つや否や。 答て云く、能く持(たも
その儀は、かならず祖師を焼香礼拝し、応受菩薩戒を求請(グショウ)するなり。 すでに聴許せられて、沐浴清浄(ショウジョウ)にして、新浄の衣服(エブク)を著し、あるいは衣服を浣洗して、華を散じ、香をたき、礼拝恭敬(クギョウ)して、その身に著す。 あまねく形
西天東地(サイテントウチ)、仏祖正伝しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり。戒をうけざれば、いまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の児孫にあらざるなり。離過防非(リカボウヒ)を参禅問道とせるがゆゑなり。 戒律爲先(イセン)の言、すでにまさしく正法眼蔵なり
「受戒」巻は『全訳注』本の最後の巻です(後に「辨道話」が載っていますが、これは普通、『正法眼蔵』とは別の本とされています)。 前の数巻と同様に制作年代未詳の巻のようで、同書は「開題」においてさまざまに検討して、建長五年(一二五三年)(八月に禅師遷化の年で
いま世尊の金言(キンゴン)、それかくのごとし。東土愚闇の衆生、みだりに仏教に違背(イハイ)して、仏道とひとしきみちありといふことなかれ。すなはち謗仏(ボウブツ)謗法となるべきなり。 西天の鹿頭(ロクトウ)、ならびに論力(ロンリキ)、乃至(ナイシ)長爪(チ
是の時、仏義品(ギボン)の偈を説いて言(ノタマ)はく、「各各(オノオノ)究竟と謂ひて、而(シカ)も各(オノオノ)自ら愛著(アイジャク)し、各自らを是(ゼ)として他を非とす、是れ皆究竟に非ず。 是の人論衆(ロンジュ)に入りて、義理を辨明する時、各各相ひ是
如来在世に外道あり、論力(ロンリキ)と名づく。自ら謂(オモ)へり、論議与(トモ)に等しき者無く、其の力最大なりと。故に論力と云ふ。 五百梨昌(リショウ)の募(ボ)を受けて、五百の明難を撰し、来って世尊を難ぜんとして、仏所に来至(ライシ)し、仏に問いたて
伝燈録に云はく、 二祖毎(ツネ)に歎いて曰く、「孔老の教は、礼術風規なり、荘易(ソウエキ)の書は、未だ妙理を尽くさず。近く聞く、達磨大士、少林に住止(ジュウシ)せりと。至人(シジン)遠からず、当に玄境に造(イタ)るべし。」 いまのともがら、あきらかに信
むかしは老耼をもて世尊にひとしむる邪党あり、いまは孔老ともに世尊にひとしといふ愚侶(グリョ)あり、あはれまざらめやは。孔老なほ転輪聖王の十善をもて世間を化するにおよぶべからず。 三皇五帝、いかでか金銀(コンゴン)銅鉄諸輪王の七宝千子具足して、あるいは四
列伝に云はく、 喜、周の大夫と為り星象(セイショウ)を善くす。因みに異気を見て、東にして之を迎ふ。果たして老子を得たり。請うて書五千有言を著さしむ。喜、亦自ら書九篇を著し、関令子と名づく。化胡経(ケコキョウ)に準ず。 老、関西(カンセイ)に過(ユ)かん
振旦一国に、なほ小臣(ショウジン)にして帝位にのぼらず、三千大千世界に王たる如来に比すべからず。如来は梵天、帝釈、転輪聖王等、昼夜に恭敬侍衛(クギョウジエ)し、恆時(コウジ)に説法を請(ショウ)したてまつる。 孔老かくのごとくの徳なし、ただこれ流転の
孔子の書に生知者(ショウチシャ)あり、仏教には生知者なし。仏法には舎利の説あり、孔老、舎利の有無をしらず。ひとつにして混雑せんとおもふとも、広説の通塞つひに不得ならん。 論語に云はく、「生まれながらにして之を知るは上(ジョウ)なり、学んで之を知るは次な
古徳云はく、「今時(コンジ)多く還俗の者有り、王役(オウヤク)を畏憚(イタン)して、外道の中に入る。仏法の義を偸(ヌス)み、竊(ヒソ)かに荘老を解(ゲ)して、遂に混雑を成し、初心の孰(イヅ)れか正、孰れか邪なるを迷惑す。是を韋陀法(イダホウ)を発得する
真諦(シンタイ)三蔵云はく、「振旦に二福有り、一には羅刹(ラセツ)無く、二には外道無し。」 このことば、まことに西国の外道婆羅門の伝来せるなり。 得道の外道なしといふとも、外道の見(ケン)をおこすともがらなかるべきにあらず。 羅刹はいまだみえず、外道の
あるがいはく、「諸仏如来ひろく法界(ホッカイ)を証するゆゑに、微塵法界、みな諸仏の所証なり。しかあれば、依正(エショウ)二報ともに如来の所証となりぬるがゆゑに、山河(センガ)大地、日月星辰(ニチガツショウシン)、四倒三毒、みな如来の所証なり。山河をみる
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下さい。