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  • 「奥武蔵・武甲山の松と藤(2)」

    【説明概略】その昔、武甲山には山姥が住んでいて、ふもとの子どもを食べていたといいます。ある時、山で女の子を遊ばせていた母親が、ほんの少し目を離したすきに、女の子の姿がフッと消えてしまいました。驚いた母親は、あちこち捜し回りましたが、どうしても見つかりません。母親はうろたえて泣くばかり。そこへ旅の僧が通りかかり、「山姥の仕業に違いない」と武甲山山頂に登り、17日間(27日間ともいう)一心に祈願をしました。山姥は法力に勝てず、たまらず魔術を失って姿をあらわしました。こうして子どもは母親のもとに戻りました。山姥は、松の木に藤づるで縛りつけられてしまいました。この僧こそ全国行脚中の行基菩薩だったのです。行基にさとされた山姥は、いままでの罪を悔い、2度と里人を襲わない証(あかし)として、自分の歯を抜いて僧に渡しまし...「奥武蔵・武甲山の松と藤(2)」

  • 「奥秩父・金峰山のライチョウ放鳥」

    【概略】かつて数を増やそうと、奥秩父の金峰山にライチョウを放鳥したことがあるといいます。これは1960年(昭和35)、富士山4合目の標高2400m付近にライチョウを放鳥したことからはじまります。富士山に放したのはオス1羽、メス2羽、ヒナ4羽の合計7羽でしたが翌年4月から9月にかけての調査のとき、6羽が確認されました。これにならって、1969年(昭和44)8月、南アルプスの北岳からライチョウを一つがいと、ひな3羽を金峰山に連れて行きました。それから12年後の1979年(昭和54)には目撃情報とフンなどが確認されていましす。しかしそれ以来、生息情報は途絶えたまま。いまでは放鳥は失敗だったろうと考えられています。これは外敵から身を隠せるハイマツ帯が少なく捕食されてしまったことや、エサになる高山植物が豊富でないこ...「奥秩父・金峰山のライチョウ放鳥」

  • 「奥武蔵・武甲山のマツとフジ(1)」

    【概略】武甲山の7合目から上にはマツとフジは育たないという伝説があります。それにはこのあたりの領主畠山重忠(鎌倉初期の武士)にからんでいます。武甲山には日本武尊が東征の時、戦勝を祈願して甲を埋めて建てたといわれる祠があります。かつて重忠と梶原景時(重忠を謀反の罪を着せようとした人物)が、山頂の祠がどっち向きかについて激論したことがありました。重忠は南向きだといい、景時は北向きだといい張ります。それではというので山頂に登ってみたところ、重忠がいうとおり南向きでした。負けた梶原景時はその罰として、生えていたマツの木にフジの蔓できつく縛られたという。くやしがった景時は「これからはこの山にマツとフジは生えるな!」と呪ったというのです。それからというもの武甲山にはマツとフジが生えなくなったといいます。ふもとの横瀬地...「奥武蔵・武甲山のマツとフジ(1)」

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