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  • ▼山の軽口ばなし「奥武蔵入口・天覧山と能仁寺」

    【概略文】埼玉県奥武蔵入口に天覧山という標高197mばかりの山があります。天覧山から多峯主山(とうのす)、巾着田(きんちゃくだ)のコース。天覧山とは1883年(明治16)、明治天皇がこの山に立って陸軍の大演習を統轄監督したことによるといいます。この山はもともと愛宕(あたご)権現をまつってあり、古くは愛宕山と呼んでいたということです。江戸時代、五代将軍綱吉が病気になった時、生母である桂昌院が南ろくにある能仁寺に祈願したところ、綱吉の病気が全快したのです。桂昌院は、そのお礼に山中に十六羅漢像を献納したといいます。山頂近くには鏡岩・獅子岩など大岩が露呈していて、「天覧山の勝」として埼玉県の名勝に指定されているという。南麓の能仁寺は1868年(慶応4)の飯能戦争(彰義隊の系統である渋沢精一郎を首領とする振武隊と官...▼山の軽口ばなし「奥武蔵入口・天覧山と能仁寺」

  • 「奥武蔵・武甲山の松と藤(2)」

    【説明概略】その昔、武甲山には山姥が住んでいて、ふもとの子どもを食べていたといいます。ある時、山で女の子を遊ばせていた母親が、ほんの少し目を離したすきに、女の子の姿がフッと消えてしまいました。驚いた母親は、あちこち捜し回りましたが、どうしても見つかりません。母親はうろたえて泣くばかり。そこへ旅の僧が通りかかり、「山姥の仕業に違いない」と武甲山山頂に登り、17日間(27日間ともいう)一心に祈願をしました。山姥は法力に勝てず、たまらず魔術を失って姿をあらわしました。こうして子どもは母親のもとに戻りました。山姥は、松の木に藤づるで縛りつけられてしまいました。この僧こそ全国行脚中の行基菩薩だったのです。行基にさとされた山姥は、いままでの罪を悔い、2度と里人を襲わない証(あかし)として、自分の歯を抜いて僧に渡しまし...「奥武蔵・武甲山の松と藤(2)」

  • 「奥秩父・金峰山のライチョウ放鳥」

    【概略】かつて数を増やそうと、奥秩父の金峰山にライチョウを放鳥したことがあるといいます。これは1960年(昭和35)、富士山4合目の標高2400m付近にライチョウを放鳥したことからはじまります。富士山に放したのはオス1羽、メス2羽、ヒナ4羽の合計7羽でしたが翌年4月から9月にかけての調査のとき、6羽が確認されました。これにならって、1969年(昭和44)8月、南アルプスの北岳からライチョウを一つがいと、ひな3羽を金峰山に連れて行きました。それから12年後の1979年(昭和54)には目撃情報とフンなどが確認されていましす。しかしそれ以来、生息情報は途絶えたまま。いまでは放鳥は失敗だったろうと考えられています。これは外敵から身を隠せるハイマツ帯が少なく捕食されてしまったことや、エサになる高山植物が豊富でないこ...「奥秩父・金峰山のライチョウ放鳥」

  • 「奥武蔵・武甲山のマツとフジ(1)」

    【概略】武甲山の7合目から上にはマツとフジは育たないという伝説があります。それにはこのあたりの領主畠山重忠(鎌倉初期の武士)にからんでいます。武甲山には日本武尊が東征の時、戦勝を祈願して甲を埋めて建てたといわれる祠があります。かつて重忠と梶原景時(重忠を謀反の罪を着せようとした人物)が、山頂の祠がどっち向きかについて激論したことがありました。重忠は南向きだといい、景時は北向きだといい張ります。それではというので山頂に登ってみたところ、重忠がいうとおり南向きでした。負けた梶原景時はその罰として、生えていたマツの木にフジの蔓できつく縛られたという。くやしがった景時は「これからはこの山にマツとフジは生えるな!」と呪ったというのです。それからというもの武甲山にはマツとフジが生えなくなったといいます。ふもとの横瀬地...「奥武蔵・武甲山のマツとフジ(1)」

  • 「北ア立山・神のお使いライチョウを食っていた登山者」

    【概略文】山で人気者のライチョウは、普段はハイマツの中にいて、雷がなるような時や、霧がかかってきた時などに親子づれで出てきてイネ科の植物の実をついばんでいます。北アルプス立山ではライチョウを立山の神の眷属として大事にしていたそうです。加賀藩代々の藩主はとくにライチョウを大事にしていたという。江戸時代初期の1648年(慶安元)、加賀藩三代藩主前田利常は立山一帯の「来鳥花松硫黄」のなどを盗むものがないよう見回ることを命じています。十一代藩主の前田治脩も1788年(天明8)、絵師の梅田陳和斎久栄を立山に登らせライチョウを写生させています。「来鳥図会」(栗山文集)によれば、そのライチョウの絵につけた、漢学者の柴野栗山という人の解説文に、「僅カモ山ヲ離ルレバ、スナハチオツ」との記述があり、飼育が不可能のことを知って...「北ア立山・神のお使いライチョウを食っていた登山者」

  • 「この夏富士山に登って、お鉢めぐりで古銭を探そう」

    「この夏富士山に登って、お鉢めぐりで古銭を探そう」【説明概略文】富士山の火口は浅間神社の奥ノ院にあたります。かつて登山者は無事の登山を感謝し一族の幸せを願い火口に賽銭を投げるお散銭(さんせん)の習慣がありました。火口は巨大な賽銭箱だったわけです。その習慣は室町時代にはすでにあったといいます。賽銭を投げればそれを拾う人がいるはずです。遠藤秀男「富士山よもやま話」によれば、散銭の処務を富士山八合目以上の所有者である村山修験辻之坊が受け持っていたといいます。江戸時代になると浅間大社がその処務を受け持ち、一番拾いを浅間大社、二番拾いを須走浅間が行ったということです。しかし一番が拾ったあとでは賽銭の額が大違い。一番拾いの権利争いが相次ぎ、元禄時代には本宮と須走で4対6の配分に決まり、江戸末期までつづいたといいます。...「この夏富士山に登って、お鉢めぐりで古銭を探そう」

  • ▼山の軽口ばなし「奥秩父・金峰山には山男住んでいた?」

    「奥秩父・金峰山には山男住んでいた?」【概略文】金峰山頂にはが18mもある五丈岩があり遠くからでも目立ちます。金峰山は農耕の神の山として村人の信仰が厚く、かつては北麓長野県側にはお寺がたくさんあったといいます。この山に大きな山男が出るというのです。江戸後期の紀行本『遠山奇談』に、金峰山には山夫(やまおとこ)がいて、人間の3倍もの大きさで、乱れ髪が腰までのびているとのこと。若いのは髪の毛が赤黒く、白けて艶がないのは歳のとったものらしい。ある時他国から盗賊たちがここに来て隠れすんでいたが、山夫につかまり連れて行かれた。残った3人が麓に逃げてきて取り押さえられました。役人に引き渡されそのまま江戸へ送られたといいます。だから「必此山へは行べからずと、おしとゞめける故、やめけり」とあります。昔は得体の知れない何かい...▼山の軽口ばなし「奥秩父・金峰山には山男住んでいた?」

  • ▼山の軽口ばなし

    「秩父城峰山・将門とお猫さま」【概略】天慶の乱で平将門が城峰山に陣を張り城を築くと、秀郷はいまの吉田小学校辺りに陣を張り、将門軍とにらみあいがつづきます。ある日、秀郷が椋神社に参拝し将門の捕獲を祈願。すると城峰山にネズミの大群が発生、鎧など武具のひもを噛み切り使用不能に。将門は捕らえられます。ところが同じ姿形の影武者がぞろぞろ出現、どれが本物か分かりません。しかし将門の愛妾、桔梗の証言で正体が発覚。将門は「桔梗あれども花咲くな」と言い残し首をはねられたという。以来、城峰山ではキキョウの花は咲かないといいます。山頂直下城峰神社のこま犬は赤い口に金色の目。それより面白いのはお犬さまのうしろにある「お猫さま」。愛嬌のある表情でハイカーを迎えてくれます。お猫さまは十一面観音の眷属。十一面観音は平将門の守り本尊と聞...▼山の軽口ばなし

  • 「富士山:あのかぐや姫はウグイスの卵から 生まれたんだってよ!」

    「富士山:あのかぐや姫はウグイスの卵から生まれたんだってよ!」【概略文】富士山にはなぜいつも雲がかかっているのか。実はかぐや姫の物語に関係があるといいます。『古今和歌集』の序文に、「竹作りの翁が竹やぶに行くとウグイスの卵が沢山あった。その中に金色に光る卵がひとつ。翁は不思議に思い家に持って帰った。竹売りから帰ると、家の中が光り輝いている。中に美しい女がいた。その女が光っていた。『私はウグイスの卵です』という。そこで翁は女を養女にし、かぐや姫と名づけた。これが評判になり帝が呼んでみたら非常に美しいのでたちまち夢中になり、妃のようにこの姫を愛した。3年が過ぎ姫は『私は天女です』といって鏡を形見に残して消えてしまった。帝の恋焦がれる想いは炎となって鏡から立ち昇った。公卿たちはその鏡を富士山頂に置いた。その時から...「富士山:あのかぐや姫はウグイスの卵から生まれたんだってよ!」

  • ▼山の伝説・神話ばなし

    「奥多摩三頭山・鬼源こと目玉のたんじと玉川上水」【概略文】その昔、大岳山の麓・檜原村白岩に子宝に恵まれない夫婦がいました。夫婦は大岳神社にお百度をふみ願をかけた結果、元気な男の子が授かりました。大岳山の神の申し子の鬼源兵衛はすくすくと育ちました。大人になるころには五百貫近くもある大石を持ち上げるほどの怪力を持つようになったといいます。その怪力が恐れられ「鬼源」とも目玉のたんじとも呼ばれていました。さて、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟の手配する上水工事の羽村堰工事人足としてかり出された鬼源は、工事の最中、大きな石の下敷きになった同僚をなんなく助けたり、大石をひょいと持ち上げポンポン放り投げるようにして運びました。そのため、工事はみるみるうちに完成。その活躍に褒美として刀を賜ったという。その鬼源兵衛が持ち上げたと...▼山の伝説・神話ばなし

  • ▼山の軽口ばなし「富士山頂の火口はふたつあった?」

    「富士山頂の火口はふたつあった?」【概略】富士山に関する最初の文書は、平安時代の「富士山記」。それには「頂上に平地あり。広さ一里許り。其の頂の中央は窪み下りて状甑(こしき)の如し。甑の中に神池あり、池の中に大石あり、石体甚だ奇にして宛も虎の蹲(うずく)まれるが如し。亦其の甑の中には常に蒸し出づる気あり。其の色純青なり。其の甑の底をのぞけば湯の沸きのぼるが如く、其の遠くより之を望めば常に煙火を見る」とあります。富士山頂上の火口には神の池があるとしながら、また煙火が見えると、矛盾したことが書かれています。それは富士山には火口がふたつあったからだという。ひとつは大内院で、私たちにもおなじみのもの。もうひとつは小内院で、その北北西にあり、いまは埋もれてしまい窪地になっています。この片方は古い火口で水が貯まっていて...▼山の軽口ばなし「富士山頂の火口はふたつあった?」

  • 伝説と神話の百名山(12)「八幡平」

    「八幡平」【説明概略】八幡平は大火山高原で温泉があちこちにあります。ここの山の名は八幡平です。この「平=たい」は「岱(たい)」であるとよく説明されます。ところが、この岱という漢字はもとは代山(たいざん)で、転じて偉大な山という義なのだそうです。しかし、八幡平は岩手山や鳥海山のような高く大きな山には見えません。それよりも八幡は「やわた」で、「やわ」は柔らかい意味、「た」は場所のことといい、「柔らかいところ」となるとの説があります。なるほど、八幡平のような高原湿原は、柔らかい所だワナ。山頂から西側(鹿角市側)のふけの湯は子宝の湯として有名。また後生掛温泉には一人の男に後生を掛け、沸き上がる大噴湯に身を投げたふたりの女性の物語の「オナメ(愛人)・モトメ(本妻)伝説」や、鹿角市八幡平小豆沢には、トンボに教えられた...伝説と神話の百名山(12)「八幡平」

  • ▼山の軽口ばなし「奈良県大峰山・女人禁制の山に登った女性」

    「奈良県大峰山・女人禁制の山に登った女性」【概略】いまだに女人禁制のしきたりを守り続ける紀伊大峰山山上ヶ岳。時どき、解禁の時期について話題になります。しかし、「日本百名山」を完登した女性は多い。それもそのはず、以前から登っている女性はいるという。記録にあるだけでも、「昭和12年(1937)9月と11月の2回女性を伴い登山決行」などの記事が1951年(昭和26)の「山と渓谷」誌に掲載しています。牧田満政氏の記録によれば、それ以外にも相当数いるという。「今更登山の見地からならば、女性登山など問題じゃない…ただし、その入山は総て開山期以外、もしくは、行者路以外。開山期に無理に女性が押し入ろうとすれば、頑迷固陋(ころう)の地元民の性格を知らないで無理強いするのは無謀であり、傷害事件に発展する可能性もある」との現地...▼山の軽口ばなし「奈良県大峰山・女人禁制の山に登った女性」

  • ▼伝承と神話の百名山「青森県・八甲田山」

    ▼伝承と神話の百名山「青森県・八甲田山」【説明概略】青森県の八甲田山といえば、明治35年(1902)の凍死者197名、「雪中行軍」の悲劇が有名です。この事件を主題として、作家・新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を書きました。1977年(昭和52)にはこれが映画化されます。そのテレビコマーシャルの「天は我らを見放した」は流行語にもなりました。八甲田山は、十和田湖と青森市の中間にそびえる山塊の総称で、北八甲田連峰と南八甲田連峰に分かれますが、普通八甲田山といえば、北八甲田山群をさすという。8つの峰と、低地に発達する高層湿原、池塘を田とみなして「神の田」、「耕田」、「高田」から八甲田、甲(かぶと)などの説もあります。東岳と八甲田山が山争いで八甲田は東岳の首をはねました。首は西に飛んで行き、岩木山の肩のコブになった。...▼伝承と神話の百名山「青森県・八甲田山」

  • ▼伝承と神話の百名山「青森県・岩木山」

    「青森県・岩木山」【説明概略】岩木山は、その山の様子から「石(いわ)の城(き)」の字に「岩木」をあてたものといいます。山頂は中央部の岩木山、南の鳥海山、北の岩鬼山(ママ)からなる。中央部の岩木山山頂には岩木山神社(下居宮・おりいのみや)の奥宮本宮の建物が鎮座しています。弘前藩の鎮守のお山になっているそうです。ここにまつられているのは、森鴎外の小説『安寿と厨子王』で有名な安寿姫。この伝説から安寿姫を責め殺した山椒大夫の国丹後(京都)の人が岩木山の支配地に入っても神が怒るのだという。これを「丹後日和」というのだそうです。実際、山頂に登らせないという厳しい禁制がしかれていたということです。・青森県弘前市と鰺ヶ沢町の境▼【本文】をどうぞ。https://toki.moo.jp/mail-maga/100den/1...▼伝承と神話の百名山「青森県・岩木山」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「東北・鳥海山の鳥海湖と安倍宗任」

    「東北・鳥海山の鳥海湖と安倍宗任」【説明概略】東北の名山・鳥海山の名は、鳥海弥三郎に関係するという説もあります。鳥海弥三郎は安倍宗任。平安時代後期の陸奥の国の豪族。あの阿部貞任の弟で「前九年の役」では兄とならんで阿部軍の指揮をとり、源頼義軍を悩ましました。安倍氏の全盛時、宗任の所領がこの地方にあったらしい。宮城県の鳥海の浦とが宗任の生誕地といい、鳥海弥三郎の名の元だといいます。その後安倍氏の発展に従い北に移ります。岩手県磐井郡の鳥海、胆沢郡の鳥海の柵、出羽地方にも矢島方面には鳥海山、相庭館附近に鳥の海、酒田市の泉竜寺の徳尼公廟などは鳥海氏には関係深い遺跡です。このようなことから鳥海山は鳥海氏領内の山としてその名が生まれたのではないかということです。・山形県遊佐町。【説明本文】をどうぞ。https://to...▼山の楽しみもうひとつ「東北・鳥海山の鳥海湖と安倍宗任」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山の一、二、三ノ越」

    「北ア立山・雄山の一、二、三ノ越」【説明概略】ふつう山に登る時、まず一合目から二合目、三合目と登り、十合目で頂上につきます。ところが立山では一ノ越、二ノ越、三ノ越と登っていくのだそうです。山を仏さまの姿に見立て、膝が一ノ越で、腰が二ノ越、肩が三ノ越、首が四ノ越、頭が五ノ越なのだそうです。この呼び方は古く、平安末期の国語辞書の『伊呂波字類抄』(編者・橘忠兼)に「躰厳石之山、膝名一輿、腰号二輿、肩字三輿、頸名四輿、申頭烏瑟(うしつ)五輿」とあり、山頂を烏瑟の峰といっているそうです。かつて越中の男子は16歳になると雄山に参詣し、朱塗りの杯のお神酒を戴かないものは一人前として扱われなかったそうです。もし途中でへばり登れなかった時は前世悪業の報いとされ、帰宅してからも一生つまはじきにされたというから大変です。この習...▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山の一、二、三ノ越」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北陸・白山の御前峰」

    「北陸・白山の御前峰」【概略】白山は御前峰、大汝峰、剣ヶ峰の3峰の総称で、これらの峰から少し離れた南方に別山があります。この山は奈良時代、越ノ大徳とも呼ばれる泰澄上人が、弟子の臥(ふせり)行者と浄定(じょうじょう)行者を連れて開山したといいます。山頂に登った上人は白山妙理権現という神を感得し、その眷属配下といわれる禅師王子、児宮童子、一万眷属、十万金剛童子、五万八千采女、その他天狗などをまとめる身となりました。そして御前峰にとどまり、白峰大僧正という大天狗になって白山全体を守っていることになっています。(ただ平安時代末期の日本の仙人37人をピックアップした本『本朝神仙伝』には、泰澄は仙人として7番目に数えられています)また臥行者は奥ノ院に当たる大汝峰に止住するといいます。そして浄定行者は白山正法坊天狗とな...▼山の楽しみもうひとつ「北陸・白山の御前峰」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山のお花畑の由来」

    「北ア立山・雄山のお花畑の由来」【説明概略】立山の山頂付近の高山植物。ここにはもと千蛇ヶ池という池があり、恐ろしい大蛇がたくさんすんでいたという。大蛇は夜になると人里に降りてきては人を殺したり、家畜を盗んだりのし放題。見かねた立山権現は大蛇たちを神殿に集め「いまのようなことをしていると、この世には人間がいなくなってしまう。お前たちだって食べるものがなくなって困るだろう。ここにある草花の種をやるから池のほとりにまいて、芽が出るまで池に潜って待っておれ。そのうちに人間も増えるだろう」と諭しました。なるほど。大蛇たちは種をまいて池に潜りました。立山権現はそれを見すますと、池の上に毎日毎日大雪を降らせ雪の下に永久に封じ込めてしまいました。雪は大雪渓になり、やがて溶けはじめると大蛇たちがまいた高山植物の花が咲きはじ...▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山のお花畑の由来」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北ア針ノ木峠・松本の遊女ものがたり」

    「北ア針ノ木峠・松本の遊女ものがたり」【説明概略】針木岳の名は針ノ木峠からきており、後でつけた名だといます。この山を越中側では地蔵岳と呼んでいました。それは峠道にあった遊女を弔う地蔵尊にちなむといいます。昔、松本の地に雛菊という遊女がいました。そこへ越中の若者があらわれ、二人は恋に落ちました。しかし若者は病気になり「故郷の親に知らせてくれ」と言い残し息を引き取ります。遊女は大町の知り合いの若者の案内で越中へ行くため、峠へ向かいました。やがて雨が雪に変わり次第に深く積もりだします。二人は必死に歩き続けますがいつか道に迷い、若者は谷底に滑落。ひとり残った雛菊はなすすべもなくついに雪の峠に散ったといいます。それを知った村人は小さな地蔵を建てたという。ある夏、雪渓を登り針ノ木峠へ。無駄とは思いましたが地蔵を探しま...▼山の楽しみもうひとつ「北ア針ノ木峠・松本の遊女ものがたり」

  • 山の楽しみもうひとつ「奈良吉野義経隠れ堂と静御前」

    「奈良吉野義経隠れ堂と静御前」【説明概略】吉野・奥千本にある義経隠れ堂。義経に行かれてしまった静御前の名をつけたセンリョウ科の植物ヒトリシズカ。『和漢三才図会』に「静とは源義経の寵妾にして吉野山に於て歌舞の事あり」とあり、またフタリシズカも同書に、「静女の幽霊二人と為り同じく遊舞す」とあります。ある年の正月七日、吉野の勝手明神の神職が女性に若菜摘に行かせました。そこへ静御前の霊があらわれ「経を書いて回向をしてくれ」という。霊は女性に乗り移り自分は静御前だと名乗ります。神職は神社宝蔵の舞い衣装を着せると女性は舞いだしました。やがて亡霊も姿をあらわし二人になって舞いはじめました。「しづやしづ、賤(しず)の苧環(おだまき)繰り返し、昔を今になすよしもがな」。春に吉野で楽しく過ごした義経との昔語りをフタリシズカと...山の楽しみもうひとつ「奈良吉野義経隠れ堂と静御前」

  • ▼もっと山の楽しみ「北ア白馬岳・蓮華温泉のはじまり」

    「北ア白馬岳・蓮華温泉のはじまり」【説明概略】戦国時代、北アルプス白馬岳北麓中腹に武士がひとり。越後上杉謙信の家臣で金鉱探索の命を受け各地の山々を巡っていました。武士は村の子供から黄金色に光る石をもらい、金鉱脈がこのあたりにあると確信しました。報告を受けた謙信は早速発掘のため、大勢の人夫を山中に送り込みました。ある日、掘られた穴からお湯が噴き出しました。その後人々はこの温泉を「黄金湯」と呼ぶようになり、いまの蓮華温泉の元になったという。かなり以前、白馬大雪渓から朝日岳経由、五輪尾根を通りやっとたどり着いた蓮華温泉。日焼けの体に熱い温泉が痛くて入れない。息子と二人、洗い場の隅で恨めしく薄めたお湯を浴びるばかり。当時、平岩駅までの道路が工事中でバスに乗っていても腑が飛び出るようなゆれ方でした。・新潟県糸魚川市...▼もっと山の楽しみ「北ア白馬岳・蓮華温泉のはじまり」

  • もっと山の楽しみ「富士山と三猿」

    「富士山と三猿」【概略説明】見ざる言わざる聞かざるの三猿(さんざる、さんえん)の像は、日光陽明門や庚申塔にも刻まれています。これは古代インドから鎌倉時代以降に日本に伝来、絵画や彫刻の題材になったという。また天台の不見・不聞・不言の三諦を猿の形にしたとの説もあります。その三猿伝説が富士山にもあるのです。咲き誇るサクラの花のような木花開耶姫。その美しさのとりこになった男神たちは姫のもとへと通い詰めるのでした。姫はそれを誇りにしている自分に気づきました。花の美しさは散りゆく時。その一瞬のはかない美をこのまま地上で散らしてはならないと考えました。姫は白馬に乗り、富士山に向かいました。途中3匹の猿があらわれ案内したという。開耶姫は山頂に着くと猿たちに向かい「私がここにきたことを誰にもいってはならぬぞ」といい残し、天...もっと山の楽しみ「富士山と三猿」

  • ▼もっと山の楽しみ「箱根明神ヶ岳」

    「箱根明神ヶ岳」【概略】神奈川県箱根の大雄山最乗寺(さいじょうじ)は天狗で有名なお寺です。ここの天狗道了薩埵(どうりょうさった)は最乗寺守護のため、南方にそびえる明星ヶ岳(924m)に飛び去り、いまもすんでいると伝えます。その北西に明神ヶ岳(1169m)があります。明神とは明星ヶ岳と同じに、宵の明星にちなんだ山名だといいます。このあたりの森は昔から相模(神奈川県)の天狗たちのたまり場で、夜な夜な酒盛りをしていたという。その時の踊りの笛や太鼓の音がよく聞こえてきたと伝えています。昔ある夏の夜、山麓に住むご八という御仁が風呂上がりのまま、行方不明になってしまうという事件がありました。村をあげて山中を探しましたがどうしても見つかりませんでした。それから3年過ぎたある日、お寺から坊さんを呼んで法事の準備をしている...▼もっと山の楽しみ「箱根明神ヶ岳」

  • ▼もっと山の楽しみ「北アルプス白馬岳」

    「北アルプス白馬岳」【説明概略】かつて新潟側から白馬岳に登るには姫川温泉近くの山之坊集落から入り、途中蓮華温泉に一泊したという。この集落には恐ろしい山男の噂が絶えませんでした。ある猟師が怪物退治に出かけました。突如、食い合った杉の枝の間から大男が現れました。猟師の打った弾は怪物からそれ、続いて第2の弾を放ちました。山男はカラカラと笑い「お前の命は預かった」。猟師は家に帰る途中で息絶えてしまったという。猟師には息子がいました。ある日息子は父親の銃をもって白馬岳へ道を登っていきました。やがてあの杉の枝が食い合った場所にきました。枝がバサッと動きました。息子は素早く銃を構え現れた影にねらいをあわせ轟然一発。確かな手応え。全身毛に覆われた大男が倒れていました。それはたしかに白馬岳にすむ怪物らしい。しかし、その正体...▼もっと山の楽しみ「北アルプス白馬岳」

  • 「会津磐梯山」

    ▼もっと山の楽しみ「会津磐梯山」【説明概略文】磐梯山は大同2(807)年に弘法大師空海が開山、永久鎮護のため恵日寺を建てたとの伝説から山頂肩の弘法清水がありそばに大師像も建っています。この山も不思議な伝説や言い伝えが多い。地元の民俗研究家橋本武氏によれば、この山はその昔「鶏岳」といったという。そして古くからの禁忌があり「磐梯山に鶏の卵を持って登ると磐梯明神の怒りにふれ、山が荒れて災いに遭う」というそうです。磐梯山の山頂には磐梯明神がまつられています。この明神に捧げて埋めた鶏の霊が祟るとされ、年寄りたちが特別に注意するわけでもないのに、いまでも何となく気がとがめるため卵は持っていかないそうです。ただ私が登ったとき山頂にある祠のなかにまつってあったのは皇高天原命の碑で、磐梯明神の碑はその下に粗雑に置かれていま...「会津磐梯山」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「中ア恵那山・足もとのウリ坊」

    「中ア恵那山・足もとのウリ坊」【概略】恵那山には明治時代、ウエストンが登り、同地区にはウエストン公園もあります。西麓からの登山道「前宮ルート」はもっとも古いルートで、かつては修験者も歩いた登山道。山頂からの帰途、木から飛び降り逃げ去る熊の気配。ことしは熊が民家に出てくるニュースが多い。登山口の河原でテント。翌朝早くバス停に急ぎます。前宮本社近く、小さな生き物が林道のクルマのわだちに頭をつっこんでいます。ウリ坊のエサ探し。ためらいましたが、バスの時間も気にかかります。やっと気がついたウリ坊、大慌て…。そのかわいいこと。しかし、親イノシシが近くにいるに違いない、立ち去るにかぎります。かなり遠のいた時、遠くで田んぼ仕事をしていた農家の人が立ち上がって、こちらと「現場」方面を見比べています。母親が出てきたに違いあ...▼山の伝承・神話に遊ぶ「中ア恵那山・足もとのウリ坊」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「奈良県十津川村五百瀬・南北朝時代の遺跡腰抜田」

    「奈良県十津川村五百瀬・南北朝時代の遺跡腰抜田」【概略】2004年(平成16)に世界遺産に登録された熊野古道。その高野山から熊野本宮に続く小辺路・奈良県十津川村五百瀬地区に「腰抜田」という石碑があります。ここは南北朝時代、大塔宮護良親王が北朝方から逃れて、吉野へ落ちる時に通ったところ。その時、芋瀬の荘司に助けを頼みました、すでに幕府からの達しが届いていました。「本来なら親王を捕らえねばなりませぬが、それはあまりにも忍びない。戦って逃げられたということにしたい」。ついては証拠として錦の旗を置いて行くようにとのこと。親王は、旗を置いていきました。しばらくして家来の村上彦四郎義光がやってきました。義光は、荘司の館に錦の御旗があるのを見つけ、激しく怒り荘司の家来を田んぼの中に投げ飛ばします。家来はそのまま腰を抜か...▼山の伝承・神話に遊ぶ「奈良県十津川村五百瀬・南北朝時代の遺跡腰抜田」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「北ア・奥穂高岳の祠と物草太郎」

    「北ア・奥穂高岳の祠と物草太郎」【概略】奥穂高山頂にある祠の祭神は綿津見命とその子・穂高見命、瓊瓊杵尊となっています。しかし、ちまたではもっぱら物草太郎をまつっていることになっています。物草太郎が信濃の中将に出世して京から帰って1290歳まで生き、死後、物草太郎ははおたがの大明神に、妻はあさいの権現になってあらわれたと「御伽草子」という本に書かれています。「おたが」の明神とは、「愛宕」とか「御多賀」といわれてきましたが、普通は「穂高」の訛りだというのが一番広く使われているそうです。江戸時代の松本藩の総合書『信府統記』に、文徳天皇の世に信濃の国の信濃中将という人が穂高神社を造営した人で、これこそ物草太郎と称えた人。当社のうちに若宮大明神の宮がありこの中将をまつっている、とあります。いまでも穂高神社を俗に物ぐ...▼山の伝承・神話に遊ぶ「北ア・奥穂高岳の祠と物草太郎」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「東京・奥多摩のオオカミ伝説」

    「東京・奥多摩のオオカミ伝説」【概略】奥多摩各地にあるオオカミ伝説。御岳神社のお使いはオオカミだという。御岳神社の御師が信徒の家に行った時、御師のあとをついてきたオオカミが信徒の家の庭先にフンをしたという話が伝わっています。東京都檜原村で畑を荒らしたオオカミを鉄砲で撃ち殺したところ、子持ちのオオカミでまだ乳が出ました。それを飲んだので育ったのが禎次郎という人で、のちに百発百中の名人猟師になったそうです。当時では93歳まで生きたほどの長寿だったということです。昔から「赤ちゃんにオオカミの乳を飲ませると丈夫に育って長生きをする」という言い伝えがあるといいますが本当だったのでしょうか。また、常右衛門さんという猟師が鍾乳洞の日原山中で、滝に追い落とした鹿を食べている2匹のオオカミに出会い、「その鹿をおくんなせえ」...▼山の伝承・神話に遊ぶ「東京・奥多摩のオオカミ伝説」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「南ア赤石岳・南朝の親王を埋葬した?大聖寺平」

    「南ア赤石岳・南朝の親王を埋葬した?大聖寺平」【概略】南北朝時代の南朝後醍醐天皇の皇子・宗良親王は足利氏調伏を祈るため、赤石岳によく登ったといいます。大聖寺平は大小寺平とも書くそうです。『山の傳説』によれば「山でなくなられた良月親王の遺骨を足利勢に奪はれることを恐れた南朝の遺臣が遺骨をこゝまで背負ひあげて埋葬申し上げたと里人は云ってゐる」とあります。また「一説には親王の御守刀の大小(刀)を埋めたから大小寺平であるといふ人もある」とも書いてあります。吉野朝廷を開いた後醍醐天皇は、地方武士を掌握するため、その皇子たちを各地方に派遣しました。『日本史諸家系図人名辞典』では、天皇には皇子が8人いるとされますが8番目の記載してある後村上天皇も第7(または第8)皇子かはっきりしないような状態です。【説明本文】http...▼山の伝承・神話に遊ぶ「南ア赤石岳・南朝の親王を埋葬した?大聖寺平」

  • 山の伝承・神話に遊ぶ「ざる一杯の酒を下さらんか??・秩父武甲山の酒好き神」

    「ざる一杯の酒を下さらんか??・秩父武甲山の酒好き神」【説明概略】武甲山の名は、その昔日本武尊が山頂に武具や甲冑を神に奉納し祈ったというので「武甲」だとされ、江戸幕府も神がかり的な神聖な山としていました。武甲山は異名を蔵王山、妙見山などといい神秘な山との印象が深く、昔からいろいろな伝承に包まれています。そのひとつ、この山には酒好きな神がおわしたといいます。昔、武甲山の北麓横瀬の酒屋に見かけたことのない白く長いひげの老人があらわれました。「このざる一杯の酒をわけてくださらんか」???。……酒屋のオヤジが酒をついでみるとアラ不思議、一滴ももれずにざるのなかに溜まっていきます。ポカンとしているオヤジに代金を払うと老人は武甲山に帰っていきました。このことがあってから村人は武甲山の酒好き神とうわさしあったそうです。...山の伝承・神話に遊ぶ「ざる一杯の酒を下さらんか??・秩父武甲山の酒好き神」

  • ▼山の雑学ばなし「富士山はこうしてできたのだ??※#?」

    「富士山はこうしてできたのだ??※#?」【概略】古川柳に「孝霊五年あれをみろ、あれをみろ」というのがあります。これは孝霊天皇5年、江州(滋賀県)の地面がへこみ一夜のうちに駿河(静岡県)の国に富士山が盛り上がった。そしてへこんだ所に水が溜まり琵琶湖が出現したというのです。一方その昔、神々が駿河と甲斐(山梨県)の間に大きな山をつくろうと相談。山頂を神々の集合場所とし、四方の悪神ににらみを利かせようとしました。これを聞いた上野(群馬県)に住む天狗が山づくりの速さの競争を挑みました。しかし天狗と神との競争です。天狗が勝てるわけがありません。とうとう天狗は途中で逃げ出しました。こうして出来たのが富士山。神々たちはその土を近江から運び、あとにできた大きなくぼみは琵琶湖になったといいます。そして天狗がつくりかけた山はそ...▼山の雑学ばなし「富士山はこうしてできたのだ??※#?」

  • ▼山の雑学ばなし「熊野古道小辺路十津川村の巨杉」

    ★★★★★★★★★★★★★★★★★★■無料メールマガジン発行不定期■発行【とよだ時】★★★★★★★★★★★★★★★★★★みなさんこんにちは。また新しく読者登録して下さったみなさん、よろしくお願いします。「熊野古道小辺路十津川村の巨杉」【概略説明】熊野古道のなかほどの十津川村五百瀬は、『太平記』巻第五の「大塔宮熊野落ちの事」の舞台。いまでも護良親王の腰掛け岩や家来・村上義光にちなむ腰抜田などの伝承が残っています。4月の初め、高野山から入り伯母子岳に着くころは雨から雪に変わり積もり出すしまつ。それでも花の季節、五百瀬への下りは満開のヤマザクラが迎えてくれました。再び降り出す冷たい雨。三浦口バス停からまた山道に入ります。石畳の坂から植林のなかを登っていきます。突然、こりゃ何だ。曲がりくねった枝の巨杉が古道を横切...▼山の雑学ばなし「熊野古道小辺路十津川村の巨杉」

  • ▼雑学・山の伝承ばなし「白山・雷とハクサンコザクラと避難小屋」

    「白山・雷とハクサンコザクラと避難小屋」【概略説明】かつてはハクサンコザクラをナンキンコザクラと呼んでいたそうです。ところが、サクラソウの品種に同じ名のナンキンコザクラがあるというから具合が悪い。そこで区別するため、武田久吉博士がハクサンコザクラと命名したといいます。9月、白山御前ヶ峰で突然、土砂降りの雨とドカ~ンと雷鳴一発。あとはずぶ濡れのまま避難小屋に逃げ込みました。翌日も狂ったような雨と雷鳴。北陸一帯に大雨・雷・洪水警報とのラジオ放送。台風が前線を刺激しているとか。きょうは停滞と決め濡れたものを干し寝袋の中にもぐり込みます。篠突く雨と雷で人っ子ひとり通らないまる3日。こうして寝泊まりしていると、こんな避難小屋にも愛着が出てきます。それもそのはず、このあたり、シーズンはハクサンコザクラが群生する小桜平...▼雑学・山の伝承ばなし「白山・雷とハクサンコザクラと避難小屋」

  • ▼山の炉端ばなし「福井県荒島岳・仙人と鹿の角と災いの風」

    「福井県荒島岳・仙人と鹿の角と災いの風」【概略】荒島岳の標高は1523m。「百名山」では95番目、「日本二百名山」は166番目、「三百名山」では224番目の山です。山名は山麓の荒島神社からつけられたという説があります。この山には仙人が住んでいたという。江戸中期の本にこれは「常陸房が事なり」とあり、義経の家来常陸坊海尊だとしています。この山にも雪形が出てそれを見て九頭竜川ではアユ捕りをはじめたという。雪形はY字形をしていて地元の人は「鹿の角」と呼んだという。春、荒島岳から吹き下ろす乾燥した南東の風は大火をもたらす荒島おろしと恐れられ、また初夏に吹く風はウンカを運び、稲に被害をもたらすとされるから厄介です。9月、やはり「百名山」ブーム?、吹き出す汗のなか、20人近くの登山者に出会いました。ブナ林の登山道にハン...▼山の炉端ばなし「福井県荒島岳・仙人と鹿の角と災いの風」

  • ▼山の炉端ばなし「中ア恵那山・前宮ルートの枯れ大ヒノキ」

    「中ア恵那山・前宮ルートの枯れ大ヒノキ」【概略】前宮ルートは、登山口が川上集落の前宮本社近くにありバス停から歩ける距離。このルートは最も古い登山道でしたが、台風で被害を受けました。その後深田久弥が「百名山」で黒井沢ルートを紹介したたため廃道同然。しかし2001(平成13)年、川上にウエストン公園がオープン、それに合わせて地元の山岳会が整備、42年ぶりに蘇らせたといいます。ここは一合目から二十合目まであり、途中には樹齢数百年の枯れた大ヒノキも行程の目印になっています。8月初め、アブに追い回されながら登山開始。途中、古い石仏や役ノ行者像が迎えてくれ、修験者の山だったことが分かります。その夜は満月ひとり占めの満足感を味わえました。帰り、形がアオダイショウに似た黒い蛇がやたらに出没。枯れ大ヒノキの腐った幹の割れ目...▼山の炉端ばなし「中ア恵那山・前宮ルートの枯れ大ヒノキ」

  • ▼山の炉端ばなし「奥多摩・今熊山の行方不明探索神」

    「奥多摩・今熊山の行方不明探索神」【概略】昔、安閑天皇東行の時、妃の橘の仲皇女が行方不明になりました。ある夜、天皇の夢枕に「武蔵国今熊山に詣で、祈願せよ」との神のお告げがありました。早速勅使がやって来て山頂の社に祈願、妃の名前を大声で呼んだところ無事発見できたといいます。以来この山は「呼ばわり山」と呼ばれ、人捜し、行方不明者を見つけてくれる神として信仰を集めたといいます。江戸時代は時々、神隠しや人さらいでいなくなった子供の名前を呼ぶ母親の声が聞こえてきたそうです。この山はまた、子供を親元から「呼ばわって」連れてきてしまう山との意味もあるという。神が誘拐するとは、あな恐ろしや。山頂で大声で叫ぶのは誘拐犯に子供を帰せと迫っているわけです。山宮裏の石碑にある天狗の文字や里宮にうちわの紋章があるのは、その犯人を天...▼山の炉端ばなし「奥多摩・今熊山の行方不明探索神」

  • 「奈良県吉野・奥千本の西行庵」

    「奈良県吉野・奥千本の西行庵」【概略】あまりにも有名な吉野のサクラ。そのサクラに惹かれ、文人墨客がたくさん訪れています。西行法師もそのひとり。「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」。俗世間を離れて庵を結び3年間、歌をたくさん残しています。その西行庵が奥千本にあります。庵の屋根には雑草が生え、いかにも当時のたたずまいを彷彿とさせます。近くの「苔清水」はいまでも人の生活に十分な水量を保っています。「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなきすみかかな」(読み人知らず)と詠んだ人もいたそうです。余談ながら、この歌もかつては西行の歌と思われていたそうです。西行庵は平地の開かれた気持ちのいい場所にあります。前に整備された東屋も建っています。西行といえば妻子を捨てて出家したお人。かわいい娘を出家...「奈良県吉野・奥千本の西行庵」

  • 「秩父・宝登山(ほとさん)と巨人伝説」

    「秩父・宝登山(ほとさん)と巨人伝説」【概略文】宝登山は、497mと標高は低いが、山頂のロウバイ園は花の時期になると見事。宝登山は火止山(ほとさん)の意味でその昔、日本武尊(やまとたけるのみこと・『日本書紀』の表記)がこの山で火事にあったが山犬が現れ、火を消したという伝説に由来しているとか。宝登山神社奥社には山犬のこま犬が建っています。このあたりは伝説の巨人デエダン坊の活躍した地帯。ある日デエダン坊は、片方のもっこに宝登山を、もう片方に武甲山を入れて、尾田藤の長尾根をてんびん棒にして担いで歩いていたという。ところがあまりの重さのためもっこが破れ、両方の山とも地面に叩き落ちてしまいました。武甲山は固かったためそのまま残りました。しかし、宝登山を入れたもっこは落ちたとき割れて、宝登山と簑山に分かれてしまいまし...「秩父・宝登山(ほとさん)と巨人伝説」

  • 「富士山・一合二合三合と数えるわけ」

    「富士山・一合二合三合と数えるわけ」。【概略文】富士山など、山の高さを一合、二合と数えます。でもどうしてそう呼ぶのか不思議ですね。第6代孝安天皇92年というから、『日本書紀』の記述から西暦になおすと、紀元前301年にあたる6月のある日、富士山が突然現れたというのです。雲霞が飛び来たって聚(あつ)まり、穀物を盛ったような形にできあがったというのです。そのため富士山の異名を「穀聚山」というのだそうです。またその高さを計るのに穀物を計る単位を使い、富士山頂までを一斗と見なし、下から一合、二合、三合……と数えました。そしてそれぞれに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏と、仏教でいう「十界」というものをあてたのだそうです。さらに一合、二合は十佳の因果、三合、四合は十行の因果、五合、六合は十回向の...「富士山・一合二合三合と数えるわけ」

  • 「南ア・甲斐駒ヶ岳山頂の祠はなんだ?」

    「南ア・甲斐駒ヶ岳山頂の祠はなんだ?」【概略】甲斐駒ヶ岳は数ある全国の駒ヶ岳のなかでも最高峰。ドッシリ構えた雄姿は見事です。山頂には立派な祠があり、山梨側山麓・2個所の駒ヶ岳神社の奥宮です。祭る神は大国主命でおなじみの大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)という神さま。日本神話で出雲の国譲りの時、建御雷神(たけみかづちがみ)に追われた建御名方神(たけみなかたがみ)が長野県諏訪湖まで逃げてきて、甲斐駒ヶ岳を見てただ感動。のち、諏訪湖の神になり、あの崇高な山に、父親神である大己貴命(大国主命)を祭ったのがはじまりという。少彦名命があるのは、大・小(少)の対比からコンビとしてよく祭られているケースです。シーズンには登山者が、まるでアリが列をなすような状態で、人気の加減がうかがえます。・山...「南ア・甲斐駒ヶ岳山頂の祠はなんだ?」

  • 「奈良・高天彦神社近くに土蜘蛛住んでいた洞窟がある らしい」です。

    【概略文】『古事記』や『日本書紀』などの神話伝説に出てくる高天原はここだという所は各地にありますが、ここ奈良県御所市高天集落もそのひとつです。高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祭神とする高天彦神社もあります。昔、ここにクモのような部族・土蜘蛛が住んでいたという。土蜘蛛は鬼と同じように、古代、朝廷に従属しない先住の人々をよぶ蔑視語。伝説によれば、土蜘蛛はサルチ(猿伐)という所から矢で射殺され、蜘蛛塚に埋められたという。かなり前の4月、高天彦神社から土蜘蛛の住処だったという蜘蛛の窟を訪ねました。蜘蛛窟は杉林の中にあり、径2m位の場所がコンクリートで固められ石碑も建っています。そこから伸びる踏み跡一本。ザックをおろし、結構な距離歩いた歩いた。たどり着いてみれば枯れ葉で埋まった同じようなくぼ地がポツン。登山靴で切...「奈良・高天彦神社近くに土蜘蛛住んでいた洞窟があるらしい」です。

  • 「南アルプス農鳥岳・農業の鳥とタマゴ」

    「南アルプス農鳥岳・農業の鳥とタマゴ」【説明概略文】農鳥岳は本峰とその西側に西農鳥岳の2峰からなり、北方に間ノ岳がある。農鳥岳は農作業の目安の鳥の雪形・農鳥からきた山名だという。しかし江戸時代の「甲斐国志」や明治時代の『大日本地名辞書』には農鳥岳が間ノ岳と同じとあり、農鳥岳の雪形が、どこのどれなのかかなり混乱している。小島烏水の『日本アルプス第1巻』の「白根山脈の記」では、農鳥岳山頂直下に出るとあり、「農鳥」はニワトリのことだそうだが、雪形はそうは見えないとある。地元の人の話ではシャモのオンドリのようだともいっている。また雪形の農鳥というのは、農鳥岳山麓に近い沢の雪の消えたあとへ出る黒い岩で、タマゴを3つも持って現れるという言い伝えがあると書いている。・山梨県早川町と静岡県静岡市との境【説明本文】http...「南アルプス農鳥岳・農業の鳥とタマゴ」

  • 「北ア常念登山口炎天下の烏川林道」

    「北ア常念登山口炎天下の烏川林道」【説明概略文】常念岳と蝶ヶ岳の登山口三ツ股から間もなく舗装になり、ゲートをくぐると立派な駐車場があります。常念岳と蝶ヶ岳の間から流れ出し、やがて烏川にそそぐ本沢に沿った烏川林道の終点です。登山者ははマイカー以外でもタクシーを利用。林道は地形が急傾斜のため、何回も大きくピンカーブ。山頂までより林道は3倍の距離。真夏炎天下、この林道を歩いてみました。あまりの暑さに雨傘をさし、アスファルトの照り返しを我慢しながらテクテク。途中、山小屋から呼んだらしいタクシーのなかで居眠りしている人たちに追い抜かれます。あのまま駅に横付け、特急で帰宅。山の余韻もなく一家団欒……。くそッ!。今度登るときはヘリでも雇うがいい。暑さで水ぶくれになった腕をさすりながらひがみました。・長野県松本市と安曇野...「北ア常念登山口炎天下の烏川林道」

  • 「北アルプス常念岳の雪形常念坊と満願寺」

    【概略説明文】常念岳の雪形にもなっている怪僧常念坊。平安時代、坂上田村麻呂が八面大王を討伐した時、一の手下の常念坊という鬼が空を飛び、いまの常念岳に逃げ込んだ。この鬼はよく念仏を唱えていという。常念坊は毎年里で市が開かれると酒を買いにあらわれ、五合徳利を差し出し「五升入れてくれ」という。不思議なことにこの徳利に五升の酒が入ってしまうといいます。一説にこの常念坊は穂高町の満願寺の住職で常念岳を開山したとか、また長野県堀金村では正福院(明治維新に廃寺)の修験者だったともいいます。ある8月、下山したついでに満願寺へ寄って住職に聞きました。「さあ、聞いたことがない」知らないといわれればとりつくしまがない。『信州山岳百科1』など複数の信頼できる本に載っているんだがな?・長野県安曇野市【説明本文】https://to...「北アルプス常念岳の雪形常念坊と満願寺」

  • 信州・安曇野早春賦の歌碑

    【概略説明文】長野県中央部・松本盆地の北半分の上高地方面から流れ出す梓川の北側を安曇野と呼ぶそうです。ここに広がる水田地帯は信州第一の米作地。周辺に北アルプスを控え、大町市、穂高町などは山岳観光の基地。また大糸線穂高駅周辺の辻々にたたずむ道祖神群は有名です。ならんだ男女2神が穏やかな表情で手を握りあったり、肩を組んだりする仲睦まじい姿は、訪れる観光客の心をなごませてくれます。その人たちが必ず寄るのが穂高川土手に建つ早春賦の碑。♪春は名のみの風の寒さや……吉丸一昌作詞、中田章作曲、誰もが知っている「早春賦」一節です。この歌は遅い春を待ちわびる農民の心を詠んだものという。4月中旬、真っ盛りの桜の花の下で石碑が3つ。遠くに北アルプス山々が雪をいだいて輝いていました。・長野県安曇野市【説明本文】https://t...信州・安曇野早春賦の歌碑

  • 秩父・三峰山奥ノ院

    かつて三峰神社奥ノ院の妙法ヶ岳と白岩山、雲取山の3つの峰を三峰と呼んでいたということです。社伝によると、日本武尊が東征の途中、雁坂峠で道に迷った時、白いオオカミが現れ、いまの三峰神社付近まで案内されたといいます。これは神の導きに違いないと、ここに伊弉諾命、伊弉冉命をまつりました。そして武尊を案内したオオカミを神社のお使いにしたといいます。室町時代三峰神社を再建した道満のの後継者・滝栄のころ神社の眷属のオオカミが大口真神(おおぐちのまがみ)として崇められはじめ、いまでは火難・盗難除けのお札として民家の門口に張られています。三峰神社の奥ノ院は鉄ばしごを登った上の小平地。熊野三社山王21社を祭ったと伝える祠があり、やはりオオカミ像が並んでいます。・埼玉県秩父郡大滝村三峰【説明本文】https://toki.mo...秩父・三峰山奥ノ院

  • 雑学「山の伝承神話」東京・高尾山の天狗は女性だという説?!

    高尾山の天狗は、くちばしのあるカラス天狗でしかも女性の天狗だという説があります。そもそも1376(永和2)年、沙門俊源大徳が高尾山再興のおり、修行に疲れ仮眠の夢枕に神が出てきた。顔は人、鳶のようにくちばしがあり、法衣を着て背に火炎を出し、わきに翼を広げた飯縄権現の姿。余はアバラ(不動)明王である。長い間魔怪たちが世の中を乱しているので雷を落とし、降伏させるために現れた。これを飯縄の女神という。山に祀るように、といったというと「若稽旧記」(1750・寛延3年)に記載されています。それなら高尾山の天狗は女天狗ということになります。くちばしのある荼吉尼天姿の天狗が鼻高天狗として麓の駅に建てられてしまっているいま、これも永遠の謎になってしまうのでしょうか。・東京都八王子市【説明本文】https://toki.mo...雑学「山の伝承神話」東京・高尾山の天狗は女性だという説?!

  • 山の炉端ばなし「西丹沢切通沢でのビバーク・荒い鼻息がテントをぐるり!」

    西丹沢切通峠は山梨・神奈川の両県境の稜線にあり、山中湖と富士山を望む絶好地。かつては相模・甲斐・駿河の三国で入会権の争いがあった所。とくに山梨県側平野地区と神奈川県世附地区の争いは激しかったらしい。峠の東側・切通沢の源頭は小平地で、先年、仲間で野宿訓練したところ。乱舞するホタルが見事でした。数年後、一人で立ち寄りました。夜が更けるといろいろな動物が水を求めてやってきてテントのまわりを徘徊します。いつものことです。そのうち見慣れないものを見て興奮したか、ひときわ鼻息の荒い動物が近づいてきます。悪かったよ、一晩だけ頼むよ。しばらく様子を見ていたが無害だと思ったのか、やはり鼻息をたてながら去っていきました。たぶんイノシシだったみたい。・神奈川県山北町と山梨県山中湖村との境。【説明本文】https://toki....山の炉端ばなし「西丹沢切通沢でのビバーク・荒い鼻息がテントをぐるり!」

  • 山の炉端ばなし「東北・飯豊連峰の境界は奇妙だぞ」

    【説明概略】山形・福島・新潟県にまたがる飯豊連峰。ところが三国岳(1644m)から種蒔山(1805m)などは3県境なのに、その先の飯豊山周辺は福島県だけに属し、さらに先の御西岳(2013m)付近は新潟県がわずかにはずれて山形・福島県境。つまり稜線の登山道沿いに福島県山都町がと入り込んでいます。地図では描きようがなくイラストのように表しています。ここは古くからの飯豊神社信仰の山。民衆は昔から里宮のある福島県側から奥ノ院へ登っていたためこんな形になったのだという。奥ノ院のまわりは塀のように石が積まれています。その「塀」の間から中に入り、よく分からないまま参拝。御西岳周辺はニッコウキスゲやチングルマなどお花畑。地元の生徒たちの集団登山がにぎやかでした。・福島県喜多方市【説明本文】https://toki.moo...山の炉端ばなし「東北・飯豊連峰の境界は奇妙だぞ」

  • 山の炉端ばなし「八ヶ岳・阿弥陀岳と諏訪大社神木の御小屋山」

    「八ヶ岳・阿弥陀岳と諏訪大社神木の御小屋山」【説明概略】阿弥陀岳山頂には、二十数基の石仏がならんでいます。ここも山岳修行道場の一峰。前山といわれるのが御小屋山で、阿弥陀岳、赤岳は奥ノ院にあたり、とくに御小屋山は、御柱山ともいい、諏訪大社の御柱祭の神木の切り出す山。そのためか諏訪大社上社、御小屋山、阿弥陀岳、赤岳は一直線上にならんだ位置になっています。9月中旬、行者小屋前にテントを張りっぱなしにして阿弥陀岳から地図上の御小屋山、その先の神社と諏訪神社奥社を訪ねました。阿弥陀岳では所属する山岳会のパーティーとバッタリ。また途中の不動清水ではカモシカとにらめっこ。しかしその先の神社や諏訪奥社は地元の人に聞いても分からずじまい。詰めの甘さをしみじみ痛感。・長野県茅野市と原村との境。【説明本文】https://to...山の炉端ばなし「八ヶ岳・阿弥陀岳と諏訪大社神木の御小屋山」

  • 山の炉端ばなし「奥多摩・鷹ノ巣山の熊」

    「奥多摩・鷹ノ巣山の熊」【説明概略】鷹ノ巣山付近一帯は御巣鷹山といい、江戸時代、鷹の幼鳥を育成、保護。幕府に献上したという。ある年の9月、お月見山行をした時のこと。3時間近くも登りヒルメシグイノタワを過ぎるあたり、突然ボキッと木の折れる音がし、黒い固まりが落ちてきました。そしてクマザサの中でこちらの様子を伺っている気配。これは熊だ。相手も怖いに相違ない。様子を見ながら急坂を引き返しました。翌日、登ってみると大木の太い枝が折れてぶら下がっています。ここは春夏秋冬おなじみの道。こんなことは初めてです。地図を見ると東側に鷹ノ巣谷の支流が突き上げ、大滝もあって熊にとっても住みやすいに違いありません。奥多摩には50~60頭の熊がいるそうです(当時)。・東京都奥多摩町【説明本文】https://toki.moo.jp...山の炉端ばなし「奥多摩・鷹ノ巣山の熊」

  • 山の炉端ばなし「中央線沿線山梨県・滝子山と鎮西八郎為朝」

    「中央線沿線山梨県・滝子山と鎮西八郎為朝」【概略】小金沢連嶺の最南端・滝子山。この山は鎮西八郎為朝が住んだ所という。北側直下には、鎮西ヶ池もあります。鎮西とは鎮西八郎為朝のことだという。保元の乱で破れ、伊豆大島に流罪になった為朝が伊豆に上陸しここまでやってきたというのです。また、為朝がかつて九州に追われれていたときの妻・白縫姫とその子為若が為朝を慕って訪ねてきて、ここに住んでいたという説もあります。付近には生活物資を運んだという「米背負の辻」、「御馬冷やし場」、「菜畑」などの地名も残っています。東麓の恵能野(えのうの)に為朝の末裔と称する家があり、為朝大神の祠に白縫姫や為若を祭ってあるという。のち、鎮西ヶ池から白縫姫か、その侍女のものらしい古鏡が出てきて大騒ぎになりました。この鏡は干ばつの時、雨乞いをする...山の炉端ばなし「中央線沿線山梨県・滝子山と鎮西八郎為朝」

  • 山の伝承神話「中ア木曽駒麦草岳・馬形の岩と麦草」

    「中ア木曽駒麦草岳・馬形の岩と麦草」【概略】麦草岳は雪解けがすすむと、山の斜面に大蛇の雪形があらわれ、ふもとの上松町の風物詩になっています。山頂のハイマツの生えた傾斜地は、春になると緑が鮮やかさになるという。下界からみると、その緑がまるで麦草が生えているようなのでその名があるそうです。ある夏、木曽駒ヶ岳のとなり木曽前岳から山姥の奇岩を経て、麦草岳に向かいました。お花畑にはわずかな踏み跡がつづいています。はしごと岩峰を越えて間もなく、開けた山頂に飛び出しました。広々とした頂は、ひざくらいまでハイマツにおおわれ、山名の由来も納得です。赤い屋根の祠のわきに寝転がり、しばらく流れる雲を眺めました。訪れる人は全くありません。赤い屋根の祠のわきに寝転がり、汗を拭きながら、しばらく流れる雲を眺めてしまいました。ついでな...山の伝承神話「中ア木曽駒麦草岳・馬形の岩と麦草」

  • 山の伝承神話に遊ぶ「北ア徳本峠の旅人・笛の音が終わるとと同時に……」

    「北ア徳本峠の旅人・笛の音が終わるとと同時に……」【説明概略】徳本峠は奈良時代からあった上高地へ通行路。こんな古い峠ですから伝説もいろいろ残っています。昔、若い旅人が徳本峠をめざしていました。前を若い美しい娘が歩いています。娘は峠道の角で見えなくなりました。夕日が沈み、月が出てきました。突然笛の音が聞こえてきます。あの娘が草原で笛を吹いているのです。美しい音色に旅人は聞きほれます。娘が笛を吹き終わったとたんお婆さんになっていました。「キツネの仕業だ」。旅人はあわてて歩きはじめました。向こうからほかの旅人がやってきました。そしてすれ違いに旅人の顛を見て、心配そうに声をかけました。「おじいさん、そんなに急ぐと転びますよ」。旅人も老人の姿になっていたのでした。・長野県松本市安曇【説明本文】https://tok...山の伝承神話に遊ぶ「北ア徳本峠の旅人・笛の音が終わるとと同時に……」

  • 山の伝承神話に遊ぶ「ワッ、富士山が持ち上がった!」

    「ワッ、富士山が持ち上がった!」【説明概略】富士山五合目、佐藤小屋上には八角堂があってわきに日蓮上人のお経を持った像が建っています。日蓮は1269(文永6)年に富士山に登り「姥ヶ懐(ふところ)」の岩穴にこもって修行したといいます。そして自筆の経王を近くの経ヶ岳に埋めたと『日蓮大士眞実傳』や「甲斐国史」などに出ています。7月の半ば、富士吉田駅から歩き、五合目の日蓮が修行したお堂の前で食事。突然、グラリと大地が揺れました。富士山がなにかといわれる昨今、目の当たりに体験すると実感がわいて、あすは早めに下山しようと逃げ腰になります。それにしても地震は富士山をも持ち上げることをいまさら体験しました。・山梨県富士吉田市【説明本文】https://toki.moo.jp/mail-maga/gate-mail/gate...山の伝承神話に遊ぶ「ワッ、富士山が持ち上がった!」

  • 山の軽口ばなし「佐々成政黄金伝説・鍬崎山はマムシの巣だった」

    ▼「佐々成政黄金伝説・鍬崎山はマムシの巣だった」【説明概略】鍬崎山は埋蔵金の山。いまから四百年あまり前。富山城主、佐々成政が豊臣秀吉が攻めよせてくるという情報に、百万両の軍用金を阿部義行に鍬崎山に埋めるよう指示したという。穏してある場所は、鍬崎山のマムシが巣をくっている大木の下あたり……。埋蔵金は笹のしるしのある壷49個に純金がぎっしりつまっているという。鍬崎山はじめじめした登山道に伝説どおりマムシがウジャウジャ。やっと着いた山頂は360度の展望。目の前に薬師岳がはだかっています。おやつを食べ、お茶を飲んでいるうちに埋蔵金の話などすっかり忘れていました。でも、妙な満足感がありました。・富山県富山市【説明本文】https://toki.moo.jp/mail-maga/gate-mail/gate01.pd...山の軽口ばなし「佐々成政黄金伝説・鍬崎山はマムシの巣だった」

  • 山の軽口ばなし「奥武蔵子ノ権現・ネ、ネ、ネ、ネ」

    ▼「奥武蔵子ノ権現・ネ、ネ、ネ、ネ」【概略説明】子ノ権現というのは子ノ聖(ひじり)のことだそうです。「子(ね)ノ権現」の「子(ね)ノ聖(ひじり)」と続きます。これにはいわくがあるのだそうです。平安時代初期、紀伊の国というからいまの和歌山県に阿字長者という女性がいました。この人がある夜、神から剣を口の中に突き通された夢を見ました。すると処女でありながら懐妊したというのです。そして、十二支の子(ね)の年の、子(ね)の月の子(ね)の日、子(ね)の刻に出産。生まれたのが子(ね)ノ聖(ひじり)だという。子ノ権現の寺の「子(ね)づくし」縁起によると、子の聖はその後東北の羽黒山に遊行、聖地を求めて般若経を空に投げました。するとお経は、遠~く埼玉県奥武蔵のいまでいう「子の山」に落ちました。子の聖はお経が放つ光りを頼りにや...山の軽口ばなし「奥武蔵子ノ権現・ネ、ネ、ネ、ネ」

  • 山の軽口ばなし「富士山と姫と兵隊」

    ▼「富士山と姫と兵士」【概略文】かぐや姫は富士山にも関係があるという。かぐや姫の評判を聞いた帝は、妃のように愛したという。3年が過ぎたころ、姫は不死の薬や手紙を帝に残し天に昇ってしまいました。悲しんだ天皇は、預かった薬や手紙を、天に一番近い富士山頂で燃やしてしまうよう指示。勅使は大勢の兵士を連れて富士山に登りました。山は兵士でいっぱいになりました。そこで「士に富む山」というので「富士山」と名づけたと平安時代の『竹取物語』にあります。また、室町時代の「富士山縁起」には、帝からかぐや姫に贈る王冠を預かった使いが富士山で姫に渡し、姫は冠をつけたまま山頂に登って行ったとあります。さらに南北朝時代の『神道集』にも、かぐや姫を寵愛していた国司が頂上にある大きな池(噴火口?)の煙のなかにほのかな姫の姿を目撃しましたが、...山の軽口ばなし「富士山と姫と兵隊」

  • 山の軽口ばなし「ナマズ神と鹿島槍」

    ▼「ナマズ神と鹿島槍」【説明概略】山の名はその形からきているものが多い。槍の穂先のように尖っている槍ヶ岳。白馬三山の「鑓ヶ岳」も槍と同じ意味です。さらに後立山連峰にも槍ヶ岳があり鹿島槍ヶ岳と呼んでいます。この山は室町時代に大地震があり大崩落し、ふもとの集落が大きな被害を受けました。村人は、常陸の国(茨城県)の鹿島神宮から鹿島大明神を勧請して山に祭り、山の名を鹿島山、集落を鹿島集落と改めたという。江戸中期の『信府統記(しんぷとうき)』という本にも「鹿島山トナズケタルハ昔シ鹿島明神出現アリシトテ此所ニ祭リシヨリ今ニ此名アルナリ」と出ています。そういえば、鹿島神宮は地震の神。地下にいる大ナマズの首と尾が神宮の下で合わさっているとされ、それを鹿島明神が「要石」という石で貫き止めていると伝えます。・長野県大町市と富...山の軽口ばなし「ナマズ神と鹿島槍」

  • 山の軽口ばなし「振りあげたげんこつと甲武信」

    ▼「振りあげたげんこつと甲武信」【概略】山梨・埼玉・長野の3県にまたがる甲武甲斐、武蔵、信濃の三国にまたがるというので一字ずつをとり甲武信ヶ岳。三国にまたが信ヶ岳は、旧国名の甲斐、武蔵、信濃から一字ずつをとってつけた名前。埼玉県側では大空に「ゲンコツ」が持ち上がっているようなので、「拳(コブシ)」と呼んでいました。さらに遠く群馬県の西部では「三国山」、同県浜平では大三国(おおみくに)と呼んでいたそうです。このように各山麓から見てそれぞれの山名で呼んでいたわけです。しかし、いまの名は甲武信ヶ岳。しかし甲武信と書いて「こぶし」と読ませるには、やはり無理があります。知らない人が「こうぶしん」と読んでいるのも無理からぬこと。明治時代、農商務省が地図を作ったとき、3つの国名の一字ずつをとって「甲武信」としました。さ...山の軽口ばなし「振りあげたげんこつと甲武信」

  • 山の軽口ばなし「北アルプス・白馬鑓ヶ岳の硫黄取り」

    ▼「北アルプス・白馬鑓ヶ岳の硫黄取り」【説明概略】白馬岳から南下すると、白馬鑓ヶ岳の裏側、富山県側に草木も生えない山があります。硫黄の臭いが鼻をつき、野ウサギや小鳥の死がいが転がっているという。朱殿坊山で、硫黄がとれ村人は我も我もと採取に登り、一時は松本藩が税金まで課したという。村人たちはなるべく安全な春から夏かけて硫黄の採取をしましたが、やはり場所が場所。時々事故が起こり、その人たちの名が地名になって残っています。白馬大雪渓下方の猿倉から鑓温泉へ向かう途中の三次郎台地は、三次郎という人が硫黄を精製したところ。一方、鑓温泉直下の湯の入沢にある六左衛門滝。その昔、六左衛門が朱殿坊に硫黄をとりに行った時、鉱石と六左衛門を乗せた芝ぞりが雪渓を滑り、そのまま大滝の滝壺に落下。2日2晩頑張ったがついに滝壺のなかに沈...山の軽口ばなし「北アルプス・白馬鑓ヶ岳の硫黄取り」

  • 山の軽口ばなし「丹沢・大山阿夫利神社の納め太刀」

    ▼「丹沢・大山阿夫利神社の納め太刀」【説明概略】阿夫利神社境内のせまい通路の奥に進むと木刀のような太刀が壁に掛けてあります。かつて大山参りには、この納め太刀を奉納する習慣があったという。これは大山石尊の御神体が石剣であることから、自分の大事な刀を奉納したのがもとだという。このように、大山信仰はもと武士階級からはじまりましたが、庶民に普及するにつれ、木太刀に変わったものらしい。この納め太刀は小さいものは七~八寸、大きいものはおとなの身長の2倍以上もあり、「大願成就」、「大山石尊大権現」などと書いた太刀をかついできて、神社の神前に納め、かわりに他人が納めた木太刀を持ち帰りお守りにしたという。明治になり鉄道が走ってからは、大きな木太刀を車内に持ち込まれ、危なくてしょうがない。持ち込みは禁止になり、いつか納め太刀...山の軽口ばなし「丹沢・大山阿夫利神社の納め太刀」

  • 山の軽口ばなし「紀伊・金剛山の蛇谷」

    ▼「紀伊・金剛山の蛇谷」【概略】修験道の開祖・役ノ行者の修行の場だった金剛山。そこから東側の御所市へと流れる蛇谷は、飛鳥時代、葛城山と金峰山に渡す「岩橋造り」で、一言主の神が役ノ行者に逆らい、葛の蔓で七巻きも縛られ、置き去りにされた所という。呪縛された一言主神が、どんな手を尽くしても葛を解くことができず、その苦しいうなり叫ぶ声は幾年たってもまだ絶えていないと伝えています。なかには一言主神は長さ2丈半(1丈は約3.0303mだから7.57575mとはデカイ!)ばかりの黒ヘビにされ、いまでは行者を恨む気力もなくなってしまったという本さえあります。またその谷は吉野だという説もあります。何回か地元の方にお聞きしたのですが、この手の話はまず無理で、まだ確認できていません。・奈良県御所市【説明本文】https://t...山の軽口ばなし「紀伊・金剛山の蛇谷」

  • 中ア木曽駒ヶ岳・もし信長が本能寺で死んでいなかったら

    中ア木曽駒・もし本能寺の変がなかったら【概略】木曽駒ヶ岳には昔から神馬がすんでいるという噂があったという。江戸中期の『新著聞集』にも、尾州の役人たちが大きなあし毛の神馬を見たという話が載っています。時代は戦国時代、その話を伝え聞いた織田信長がこの神馬を探しに行くつもりだったという。木曽地方の地誌『吉蘇志略』に『三季物語』に載っている話として、織田右丞甲州を征伐し、軍を回すの日諸将に云って曰く、吾聞く信州駒嶽に四百年来神馬有り。……明年は諸国の卒徒を督し此の山を囲み之を猟得せん。源右幕下の富士の狩に倣うべきなり。其ノ年明智光秀のため弑に遭い其ノ事遂に止む、とあります。ちなみに信長は天正10(1582)年伊那谷に入り北進、3月に高遠城を滅ぼし、諏訪から甲州に進み武田を滅ぼしたのちの6月に「本能寺の変」に遭って...中ア木曽駒ヶ岳・もし信長が本能寺で死んでいなかったら

  • 山の民俗ばなし「丹沢・菰釣山のこも」

    ………………………★★★★★★★★★★★★★★★★★★■無料メールマガジン発行不定期■発行【とよだ時】★★★★★★★★★★★★★★★★★★みなさんこんにちは。また新しく読者登録して下さったみなさん、よろしくお願いします。さてきょうの山の民俗ばなしは▼「丹沢・菰釣山のこも」【概略】比較的静かな山歩きが楽しめる西丹沢の菰釣山。このあたりの山は良材ができ、かつては北条氏の命令で小田原まで運搬していたという。江戸時代は幕府の保護を受け、明治には御料林に指定。このような山なので、甲斐国と相模国との国境争いが絶えません。特に天保年間の争いでは、甲州・平野村の名主・長田勝之進が江戸幕府に告訴。菰を吊るして山頂にたてこもり生活したという。裁判の結果は平野側が敗訴、いまの県境が決定したという。また戦国期、武田信玄が小田原城...山の民俗ばなし「丹沢・菰釣山のこも」

  • 山の炉端ばなし「南アルプス・農鳥岳の雪形」

    ▼「南アルプス・農鳥岳の雪形」【概略】南アルプスの北部にある北岳、間ノ岳、農鳥岳は、合わせて白峰(しらね)三山と呼ばれています。標高が高いため、まわりの山々よりも遅くまで白く雪が残るので白い峰なのだそうです。農鳥岳の峰は、ふたつに分かれ東側のピークが単に農鳥岳と呼び、西にあるピークを西農鳥岳といっています。ここにも雪形があらわれ、農作業をはじめる目安になっています。農作業にちなむ鳥の形であるので農鳥岳の名の由来だといいます。農鳥岳の雪形は2種類あって、東峰の農鳥岳のアスナロ沢という沢の源頭に出るという。夏のはじめ、白鳥の雪形があらわれると、山梨県側の山ろくでは苗代(なわしろ)づくりの作業を、次に牛の雪形が出ると、ダイズやアズキをまく作業をはじめたといいます。また雪形は年2回あらわれることがあるそうです。秋...山の炉端ばなし「南アルプス・農鳥岳の雪形」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】1089号発行しました。「南アルプス光岳・光る岩と伝説」

    ▼「南アルプス光岳・光る岩と伝説」【概略文】光(てかり)岳は、三角点の西南にある乳白色の大きな岩が夕日を受けると「テカッ」と白く光り、山ろくや池口岳山頂などから見るとよく目立ちます。猟師たちは、その岩を光岩と呼んだのが山名の由来だといいます。光岳山ろく、いまの静岡市葵区井川地区田代集落に、手者万九(てしゃまんく)という力自慢の男がいました。この男が、静岡浅間神社の大鳥居工事の際、石の柱をひょいと組み立ててやりました。その時少し左に傾いて建ててしまいました。そのため、いまでも浅間神社の長谷通り側の鳥居は少し曲がっているのだそうです。同じ井川には、甲斐武田勢にも負けなかったという海野七郎太郎と、七郎三郎という兄弟の伝説があります。また南ろく川根本町寸又峡の「落ちない大石」は光岳の天狗にちなむもので、いまでは、...山旅通信【ひとり画っ展】1089号発行しました。「南アルプス光岳・光る岩と伝説」

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