自分を脅かすもの、脅威を感じるものに対しては人間は身を固くしガードします。この人間の基本原理をなじる人がいたとしますと、その人は人間の本質を知らないと言えるでしょう。独断と偏見だろうが、ガードする生身の人間を愛と許しで暖かく見守る修行をしていくと人は何故か幸福の機会を掴むようです。ひたすらガードばかりしていると幸せは何故か、逃げていくようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
一人になるのを恐れる人がいますが、これは生育史の関係でやむをえない現象です。しかし一人になるのは幸福感の前提条件なので修行して何とか一人が怖い、という現象を減らしていきましょう。森の中の散歩は友人と歩くのも楽しいのですが、ときどき一人で歩くと別な豊かさが湧いてきます。平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、生き甲斐を感じる孤独感はまずは健康な内向と言えます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
公式の柔道の大会で勝ったり、大学試験に合格したりした場合の勝利の快感は生涯の思い出ですが、喧嘩で勝利した快感はあまり楽しくなく、むしろ何となくじめじめした暗い感じです。この何となく暗い感情になる理由は<愛>の領域ではないからです。愛とは何かを思索する楽しみは人類永遠の課題ですので是非、皆様も考えてみてください。愛とは何か、人を大切にする、大事にする、愛するとは何かは答えが出ません。しかし深い研究課題です。勝利の快感は人類愛を離れたものからは絶対に感じられないものです。暗い快感は人をどんどんだめにしていきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
人間関係の中で何故、あんなにも過剰に内向してしまい自分を苦しめてしまったのか、過去の生育史を想うと沢山あります。周囲の全員が敵に見えてきたり、自分を愛している人が誰もいないように思えてきたり、色々です。人は何故、そのような精神状態になるのでしょうか?一番の原因は孤独感ですが、その孤独感に自分を追い込んでいく原因は大きく分けると二つあります。ひとつは挫折した場合、もう一つは自分の良心に何か恥ずべき事がある場合です。いくら友人が激励してくれても立ち直れません。この孤独感の原因はすべて自分にあります。自分の孤独感を癒してくれる確実なものは祈りの心境かもしれません。神仏に一人静かに祈りもとめる習慣は人生の宝物です。次は一人静かに心の中で<ありがとうございます>をすべてのものに向けてつぶやくこと、最後の最後に周囲の人を<...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
どんな場合でも相手を無意識に攻撃してしまうタイプもあれば、とかく病的にまで内向してしまうタイプもあります。ここでは良い、悪いの問題としてではなく、そうしないと心の平安が得られない人間のありようについて思索していきます。20歳を過ぎると<三つ子の魂、百までも>の諺ではありませんが、自分の性格を無理に修正する無駄な努力はやめたいものです。むしろその傾向を活かして自分と人の幸せを考えたいもの。攻撃的なタイプはそのエネルギーをどこに向けるか、自分で考えていく必要がありますが注意点はただ一つ<自己肯定、他者肯定>の攻撃をする事しかありません。例えば職場で、好きな人を虐める他者を一緒に反撃してあげるとか、好きな人が過剰に内向している場合は、寄り添って考えてあげるとか、いろいろあります。避けるべきは<自己肯定、他者否定>の攻...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
楽しい友人との出会いの場はまさに天国です。その場が天国だ、と言われても不満はありません。人は案外、<今、ここで>だけを見た場合、ここが天国だ、と解釈しても何の不満も無い世界だと断言するのを恐れているのかもしれません。この世は地獄だ、という場面も多いのですが平凡で普通の生活だと思っていた場面でも、解釈いかんでは天国と思える場面が沢山あります。解釈いかんでは天国に思える場面を先入観念からあえて無理に地獄だと解釈しているとすると実にもったいない気がします。素敵な友人と楽しんでいる時間をどう解釈するかは人間の自由なのですが森羅万象をどう解釈するかでこの世が天国ともなり地獄ともなるのは何故でしょう?考え方と解釈を変えると世界が変わります。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
<自分の良心への呵責>から人は神経をすり減らしていく傾向があります。私もあまり人の事は言えませんが人生のある時期、とても自分の良心に対して過剰に反応した為に生きるのが辛い時期がありました。人はこうして段々と器が大きくなるのはわかりますが辛いものは辛いのです。罪悪感は人類の大きな課題ですがこの解決は哲学では無理なようです。哲学は役には立ちますが私の場合は自分の死後の魂に深く関係している為にどうしても信仰を求めていかざるを得ません。この世とあの世の問題となると宗教の領域に入ります。自分の罪や良心の呵責、自分の足りない部分からの苦しみを解決する思想は万とありましたが単純明快な思想は<十字架の贖罪と復活の思想>でした。さらには<信じて見えてくるもの、見えなくなうもの>という比較宗教学との出会いが無ければ私は病院に入って...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
会った途端に恋をしていく男女は成育史の関係で人に言えない色々の事情を抱えていますので非難できません。人は誰でも愛の孤独感にさいなまれています。しかも人間の本質は<不安>なので少しでも苦しいことに遭遇すると共に助け合って生きていける異性を求めるようにできています。心と身体は永遠に何かを求め続けます。自分の持つ魂が神様の愛に触れるまでそうさせるようです。この傾向は人類の歴史を見るとすぐわかります。魂は完全な愛を求めているとカトリツク神学は主張していますが、それも人々がこの世でも幸せに生きていける為のノウハウでしょう。今度こそ間違いのない愛との出会いだと判断する前に心の中の不安感を恐れずに見つめてみましょう。すぐ愛してしまう自分の傾向には根の深い孤独感がありますが、その孤独感は非常に大事なもので、どうなればこの孤独感...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
会った途端に恋をしていく男女は成育史の関係で人に言えない色々の事情を抱えていますので非難できません。人は誰でも愛の孤独感にさいなまれています。しかも人間の本質は<不安>なので少しでも苦しいことに遭遇すると共に助け合って生きていける異性を求めるようにできています。心と身体は永遠に何かを求め続けます。自分の持つ魂が神様の愛に触れるまでそうさせるようです。この傾向は人類の歴史を見るとすぐわかります。魂は完全な愛を求めているとカトリツク神学は主張していますが、それも人々がこの世でも幸せに生きていける為のノウハウでしょう。今度こそ間違いのない愛との出会いだと判断する前に心の中の不安感を恐れずに見つめてみましょう。すぐ愛してしまう自分の傾向には根の深い孤独感がありますが、その孤独感は非常に大事なもので、どうなればこの孤独感...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
人間業の一番辛いところですが蓄積したストレス(不安、怒り、鬱)に気づいていないと思わぬところで大爆発が起きてしまい悔いを残す失敗をしでかします。ですからストレスが貯まってきたなあ、と理性レベルでも必要ですが、特に五感と体感で感じる訓練をする必要があります。五感と体感で分かる、と簡単に書きましたが感受性訓練を生涯してきても未だに掴めない事例があるのです。特に理想や夢に燃えている時とか、片思いの恋人が出来たとか、何かの慾に心が向いている時は、冷静な五感と体感が働かないのです。このところ、猛暑の連続、気付いた時は意識喪失、では遅すぎます。しばらく過剰反応について思索していきますが過剰反応をすると間違いなく人生が変な方向に流れますので、どうしたら事前に防げるか、自分の成育史を中心に考えていきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
人は非常に気が弱い動物で一見逞しそうでも内心は案外びくびくしています。人は魂を所持していてその魂は欧米の比較宗教学の定義を借りれば魂は愛そのものと言われています。戦争をしている国があっても心と身体は戦争をしているのですが魂は愛しあっているという定義があります。ですから戦争中はその関連国の人々は大きなストレスが蓄積しています、つまり魂は愛し合いたいのに心と身体が憎悪に渦巻いているので身体症状が重症化されていきます。<魂>と<心と身体>の戦いは人を破壊させていきます。愛し合う世界以外に人の心の平安感はあり得ません。もし反撃すべきものがあるとするとそれは正しい自己分析をしてみて魂と心と身体が分離していないかどうか検証しもし心と身体が人を攻撃してばかりいる傾向の自分に気づいたら自分の心と身体に反撃開始をして愛である魂を...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
神様の愛を信じている人は不思議な事に全知全能の神様に始終怒りをぶつけ爆発しているようです。つまり日常生活の文句を周囲の人に言わないで直接神様にぶつぶつ文句をいっているのです。その信仰者のイメージは自分の文句をにこやかにほほ笑んで聴いている神様のイメージがあるので何でも言えるようです。その代わり時々膝まづいて己の至らなさを胸を叩きながらお詫びしているようです。ですから案外、心にはストレスが貯まりません。下手に心の狭い恋人に文句を言って恐ろしい反撃にあうよりは、大好きな神様に安心してぶつぶつ言う習慣がついたのでしょう。そうすると平素、文句タラららの恋人が時に優しいまなざしや言葉を自分にかけてくれると涙が出るほど感動して大喜びします。信仰者の心は想像以上に平安感に満たされているようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
本当に深く愛し愛されていた男女が驚くべき憎しみに変身し悲劇が起きる事件は日常茶飯事です。愛と憎しみは紙一重ですので要注意の問題ですが、これとても不安感を賢く語り合い大爆発する前に愛の確認をしあいながら生きていく必要があります。他民族の欧米で毎日のように<愛している>と確認しあうのは日本人には信じがたい光景ですがこれが人間の本質をついた賢い習慣と言えるでしょう。人間の本質は不安だという真理を人は案外知りませんので日本人と言えども愛しているという意思確認は必要です。特に若い人々はこの愛の確認を毎日していく必要があるようです。あーめんどくさい、と言う人は、相手の心には大爆発が迫っているかもしれません。相手に気味悪いなんて言われない程度に愛の表示は上手になさいませ。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
平素嫌な人だなあと感じていた、まさにその人から人前で馬鹿にされたり明らかに辱めを受けたり嫌みをされた場合、平素、にこにこして平然と対応していたのに、その時ばかりは周囲を考えずに反撃した事があります。しかも徹底的にたたきのめした経験があります。人生に一つか二つですが私自身も信用を失い相手も再起不能でした。この苦々しい体験の後は、過剰反撃はしないことにしました。我慢に我慢の忍の一字の生活をしていると大爆発するのが人間です。蒸気を出す小さな穴がやかんにあいていますが、蒸気は少なく出し続けたほうが安全で平穏なようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
平素嫌な人だなあと感じていた、まさにその人から人前で馬鹿にされたり明らかに辱めを受けたり嫌みをされた場合、平素、にこにこして平然と対応していたのに、その時ばかりは周囲を考えずに反撃した事があります。しかも徹底的にたたきのめした経験があります。人生に一つか二つですが私自身も信用を失い相手も再起不能でした。この苦々しい体験の後は、過剰反撃はしないことにしました。我慢に我慢の忍の一字の生活をしていると大爆発するのが人間です。蒸気を出す小さな穴がやかんにあいていますが、蒸気は少なく出し続けたほうが安全で平穏なようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
フロイドやユングが14の防衛機制を発表してから沢山の神学者はこのテーマを考えました。約80億の人類が持つ劣等感の原因は全て違いますので、対応の方法もそれぞれ違います。劣等感は悪いものではなく必要なものですから解釈さえ間違えなければ人をより幸せにしてくれる大きなエネルギーとなります。この劣等感を解消する為には人さえ殺してしまう事例も沢山あるくらいです。さて自分に応用する秘訣は(1)自分は何の為に生きているのか(2)自分の生き甲斐は何か(3)自分は自分の魂、成育史(心)、身体を大事にしているか、この3つに関係する劣等感なら真剣に模索し、これ以外の劣等感は低次元のものなので無視しましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
仕事の上でも個人の生活での上でも、或人の公私の行動が全て、人類の平和構築と人々への幸せ構築へとつながったら、その人の人生は世界から賛美される事でしょう。例えばマザーテレサはその一人かもしれません。ひるがえって私の行動も、仕事でも個人生活でも自分の生き甲斐追及が周囲の人々の幸せづくりに役立ったら、何と幸せだろう、とも思いますし、そうありたい、と常日頃思います。今までの自分の人生でどれだけ人々に役立つ事をしてきたかを思うと反省しきりですが、これからは残された人生を具体的にどう行動したら地球の平和構築に役立つか真剣に考えてみたくなりました。どこまでやれるか、先ずは身近なところからやつてみよう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
昔<あーあ、ありがたや、ありがたや>と言う流行歌がありました。とても面白い曲でしたが、欧米の心理療法の世界でNarcissisticPersonalityDsiordersの患者さんに適応する治療方法の一つです。自己愛に病理がある場合、色々と難しい治療をするのですが、THANKSTHERAPYという手法は、患者さんになんでも有難い、有難いと言わせる治療です。ご飯をいただく時は食べられる事を感謝する、電車に乗り時は、電車を製造した人に感謝し車掌さん運転手さんにも感謝する、お気入りの音楽を聴く時は作曲家と演奏家に感謝する、とまあ、なんでもありがたや、ありがたや、と言わせる習慣をつけさせる治療をすると非常に効果が出る場合があります。劣等感や自己愛の病理が何故か自然に消滅していくのです。一度気楽に心の中で試みてみて下さ...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
傲慢な人間ほど人に嫌われます。劣等感は人を謙遜にしますが病的な劣等感だけは持ちたくありません。なんらかの病的な劣等感を持つと人は孤独になり周囲の人に対して親密性を感じなくなります。猛烈な孤独感を感じたり、人に対して親密感を感じない時は、その原因は自分の劣等感が原因だ、と判断して間違いないでしょう。そんな時の解決方法はます自分の周囲の人々(職場、家庭、人間関係、友達)を見直しながら、改めて周囲の人々を大事にしてみると案外簡単に劣等感がなくなり気にしなくなり暖かい雰囲気で日々を送れるようになります。愛と親密性と孤独感は三位一体の関係にあります。周囲の人々を大切にする人生観の確立が一番重要なようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
反動形成の代表的な現象の一つが<劣等感の強い人ほど威張る傾向がある>という統計です。人は自由に生きる権利がありますから大いに威張っていいのですが、世間が段々と狭められるのを覚悟する必要があります。健全な劣等感と病的な劣等感を識別する勉強をすると人はこの劣等感の世界から解放されて、のびのびと爽やかに明るく生きていくことが出来ます。学歴、能力、財産の有無、このあたりに固執してしまうと人生、とかくぎすぎすしていきます。こんな事はどうでもいい、と思えるようになると解放されていきます。自分は何の為に生きているのか、自分の生き甲斐は何か、自分は自分の魂、成育史(心)、身体を大事にしているか、この3つを考えだすと、劣等感がいかに馬鹿馬鹿しいものかが分かります。劣等感を上手に利用する方法を思索します。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
神様は何故、人間の心の仕組みの一つとして<反動形成>という営みを与えたのでしょうか?<泣き寝入り>をするのも人間の選択の一つですが、その内容によっては生涯、負け犬のような辛い思い出、心の傷になつています。それが原因で生涯、自分は駄目人間だ、と思いこんでしまう人がいるくらいです。猜疑心、挫折感、劣等感は人を駄目にしていきますが、その危険な状態を防ぐのがこの反動形成です。無意識の反動形成は危険ですが、意識して反動形成を行い、泣き寝入りは止めましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
<幸福を恐れる人々>という心理療法上の理論を見ると多くの人々が反論してきます。しかしこれは事実なのでやむをえない言葉です。14の防衛機制を何故、大学で勉強する必要があるか、といいますと<無意識の意識化>が最大の治療目標だ、という事を勉強させる為にです。人の現実は変わりませんが自分の<思考、感情、行動>の傾向を意識しただけで森羅万象の解釈が180度変換されてしまうのです。無意識に行動したり、無意識に同じ思考傾向になつていたりしている自分を意識化、知覚すると世界が変わるのです。誰でも幸福になりたいと願っていますが、自分から自分を不幸にすべくある種の言動を吐いている、そんな自分に気づきません。平和、幸福は共存共栄から生まれます。自分の<思考、感情、行動>が平和共存の範囲を逸脱している人々を心理学では<幸福を恐れる人々...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
素直に物事に対応出来ないひねくれ者も案外沢山います。人の言葉に必ずケチをつけ批判し素直に喜ばない人に出合うと哀しくなります。しかし成育史を聞いていくと、なるほどなあ、と思います。喜怒哀楽が素直ではいられない複雑な環境で生き抜いてきたからでしょうか、猜疑心、挫折感、劣等感、不安感の固まりのような精神状態なのです。しかし何かの契機で非常に明るく素直に人の言動を受け止め、のびのびと生きていけるようになる場合もあります。その最初の契機は愛との出会いが多いようです。複雑怪奇な人間が誠実な人の愛に触れると、その中から色々の気づきが生まれ変身していく姿は神秘的ですが、神仏の恩寵はどんな場合でも働くので当然かもしれません。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
成育史の関係で何となく幸福になりそうだとあえて自分を不幸にしそうな言動に無意識に動き出す人がいます。無意識の反動形成なのでその心の傾向を意識しないかぎり生涯、この不幸な言動をしてしまいます。幼い頃、幸せな日々を送っていたのに両親が突然交通事故で死亡してしまったような場合、残された幼い子供は幸せな雰囲気を無意識に恐れだす場合があるのです。それと同じように不幸な雰囲気をちらりとでも感じると問題を正面から見据えてその解決の為に戦う努力をしないうちに、いつも逃避ばかりする弱い人間になつていきます。このように幸福感、不幸感の取り扱いには十分気をつけて生きていきましょう。戦う時は堂々と戦い、幸福な時はじっくりと味わう事が重要。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
今日から防衛機制の<反動形成>に入ります。防衛機制は悪い働きではありません。人間が生きていくのに必要な作用ですが、今、自分は反動形成をしているなあ、と意識すれば人生を棒に振るような愚かな結果にはなりません。過剰反応の一つですのでこの深層での心の原理を意識するだけでいいでしょう。これから暫く、この反動形成について思索します。自分の心を安定させる為にaという刺激を受けると思わずbという反応を心ならずもしてしまう、反動しておかないと心が不安定になる、反動形成をしないで泣き寝入りすると生涯心の不満材料を貯めてしまうので反動形成を上手に応用しながら楽しく明るく元気に生きていきましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
人の誠実な愛情に気づかない人は悲劇的です。心理療法では先ずは自己愛パースナリテイ障害かどうかを調べます。その次に(1)ストレス曲線が正常かどうか(2)幸福曲線が正常かどうか(3)プロセススケールがどのあたりか(4)思考、感情、行動が正常か異常か(5)アイデンティティの統合に病的なゆらめきがないか(6)14の防衛機制が正常か(7)現実吟味力が正常か(8)何の為にいきているのか、生き甲斐は何か、自分の魂、成育史(心)、身体を大事にしているか、以上8つの領域を時間をかけてゆっくりと対処していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
久しぶりにDVD<嵐が丘>を見ました。だいぶ以前見たのですが歳月の流れが解釈を変化させ、かつ感受性も違っていました。社会の慣習や文化の違いもあるのでしょうが本当に愛し合っている男女の切なさがひしひしと私の魂をゆさぶりました。特に<私はこんなにあなたを愛しているのに、あなたは私を見てもくれない、ほんの少しでもいいから私を見て>という女性の叫びは本当に可哀そう、女性をもてあそぶ男の罪深さを感じました。愛の無い結婚、見せかけの友情や偽善、感情と理性の投影という現象を知らない悲劇、感情の転移、人間そのもののありようを問い続ける名作です。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
どんなに愛してもその愛に気づかない原因の一つに<劣等感>があります。自分は学歴がない、自分は嫌な人間で救いようがない駄目人間だ、などなど。かたや堂々としていてさぞかし輝かしい経歴の持ち主だろうなあ、と感じても経済的に貧しい環境に育ち学歴は無いけれども知識、経験、お人柄の素晴らしい人物もいます。この違いはただ一つ、こだわりの無い人生観を持ち、心の世界が自由で、意欲満々、好奇心旺盛、健康で明るい人です。<人は考えた通りの人間になる>という諺は真理。謙遜な人を観察すると<傲慢とか謙遜とかを思考の対象にしていない>人物が大半で礼儀正しい、人を大事にする、という簡単な人生観の持ち主です。傲慢と謙遜を考えた後、もう馬鹿馬鹿しくなり、自然にのびのびと明るく生きようと考えた人が社会からみると謙遜に見えるのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
<愛している>という言葉の情報なくして、その愛を信じるのは愚かなことのようです。特に<察する>ことを要求する文化圏はややこしくなります。察するという営みは文学の世界では優美、優雅につながりますが、こと人間関係、国際関係、政治関係、組織の中では<愛しています、大事にしています>という情報をこちらが発していないのに<愛、親切>を要求する人は大きな過ち、不親切、信頼を失います。欧米の文化には多種類の文化圏人間が混在しているので常に<愛しています>を発信し、私はあなたの敵ではないとスマイルを連発しないと和が保てません。愛を発信し続ける必要があります。また信仰を得る場合でも神様のほうが先に人類を愛していて、人間が神様を愛したから神様がそれに応じて人間を愛するののだ、と誤解していると永久に信仰は得られません。基礎知識の無い...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
投影現象で一番重要な問題は相手の愛を感じとれなくなる事例でしょう。極端なケースとしては自己愛パースナリテイ障害という心の病気がありますが難しいので、ここでは日常生活で散見出来る事例を思索していきます。A君は親、兄弟、友人の愛情に恵まれ、楽しい日々を送ってきたのに、高校時代に陰湿ないじめに遭い、以来、何となく人嫌いになり、大学に入ってもその心の傷から人の愛を感じなくなりました。ご縁があり洗礼を受け信仰生活に恵まれましたが何故か神仏の愛がわからない、と悩んでいます。神仏の愛ばかりでなくせっかく生まれた素敵な恋人の、ふとした折の優しい愛も感じない、と悩みだすA君です。暫くこの愛を感じられない悩みについて思索していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
自分の心の世界をいつも明るく爽やかに保持しておくと世界が輝いて見えてきますが、自分の心がいつも暗く憂鬱ですと世界も暗く憂鬱に見えてきます。暗い心を長らく保持しているといつのまにか<あいつは貧乏神だ>とあだ名がつき、人々が離れていきます。とかく世間は暗いので誰でも暗い人を嫌います。森羅万象をどう受け止めて生きていくか、どう解釈するかはその人の自由なので、出来れば森羅万象を明るく解釈出来るよう修行して生きていきましょう。そうすれば投影を恐れる必要はありません、何故ならいつ自分の心が投影されても明るいものしか投影していかないからです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
密かに好意を感じている相手がいます。その相手が自分に対して好意を軽く表現しただけなのに、こちらが勝手に過剰反応をしてしまい、何と熱い恋を自分にしているんだろう、と勘違いする事例が案外多いようです。微妙な心の世界なのですが、友情も愛情も、もともと少しずつ熟していく世界なので、その熱差が人生の喜劇、悲劇、誤解を生んでいきます。ここが人生での楽しい場面でもありますが、投影という防衛機制の作用が人間にはあります。<あれ何だか変だなあ>と思う現象に触れたら相手を非難する前にこの自分サイドの投影現象という事を少し意識すると正しい現実が見えてきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答
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自分を脅かすもの、脅威を感じるものに対しては人間は身を固くしガードします。この人間の基本原理をなじる人がいたとしますと、その人は人間の本質を知らないと言えるでしょう。独断と偏見だろうが、ガードする生身の人間を愛と許しで暖かく見守る修行をしていくと人は何故か幸福の機会を掴むようです。ひたすらガードばかりしていると幸せは何故か、逃げていくようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
心理的適応は自分の成育史上、五感と体感のレベルで気分の良い場合に生まれます。思考と感情のレベルで、とても受け入れられる森羅万象ならば、人は心理的適応現象の中で生きていけます。しかし人間社会の中では、だからといって幸せになれるとは限りません。心理的適応だけを追求していると人生が破綻する可能性もあります。不適応の体験を経ることで人間の器も大きくなり人格の成長し自己肯定他者肯定、という共存共栄の思想を身につけ自他ともに幸福になる哲学を身につけていくのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
本物の心理的不適応は、その人が五感と体感で受け入れたくないと思うもの(善悪に関係なく、その人の成育史上、受け入れ難く思う事)に遭遇した時、深層心理の世界で大きな緊張が生まれます。しかし教育、教え、経験があるので、ニコニコ笑いながら、緊張している事例が沢山あります。時間の問題で身体症状が出たり、爆発したりします。このような原理を意識化しておくと、セルフコントロールが上手になり、身体症状を出さなくても生きていくことも出来ます。この原理を意識化しないと抑えがたい感情に振り回され人生を棒に振る人もでてくるわけです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
自分に限り、こんな事はするはづがない、と。人はだれも、そう考えていますので、行動に踏み切った場合、すぐ忘れるか、意識化しないか、意識の上で逃避するか、とにかく自分がしたこととして認めない傾向があります。そのように人間は創られているようです。良心の呵責、罪の意識が強いと人間は案外ノイローゼになったり、身体症状が出る人もいるくらいです。持統天皇に限らず天皇は罪滅ぼしの為にお寺を建てたりしています。罪滅ぼしをする人間はやはり美しいなあ、と私は思います。生身の人間は互いに相手を激しく攻撃しあうことだけはやめたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
私たちは「しまった、本心でないことをしてしまった」と悔いを残す事をしながら生活しています。しかし、それもこれも案外、自己概念からは殆ど離れていない、と言われています。しまったと思う人は生涯、しまった、と思う人生をしているかもしれません。本音で生きるように努力していないと、益々、本音から離脱していくようです。悔いのないように本音を大事にして生きていきたいものです。持統天皇は藤原不比等にしてやられた、と書物に書かれてはいますが、本当にそうでしょうか?この女帝は鉄の女のようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
自分の身辺に色々の事がおきますと人は自己防衛の為に3つの無意識の営みをしているようです。例えば愛している人が意地悪を自分にした場合、自分を鍛えているんだ、と解釈したり、無視したり、あってはならない愛への意地悪なので、こんな人とはおさらば、と解釈したりするものです。持統天皇の権力への志向性と少々愚かな息子への溺愛が大津皇子事件などを生んでいきますが、それもこのパースナリティ理論の命題11の教科書通りの展開をしています。現代も古代もロジャースの性格形成論から見ていくと歴史から更に沢山のものが学べます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
人は直接、体験しなくても、あたかも体験したかのように、空想の中でも実体験として性格を形成していくようです。例えば両親が互いの悪口を子供の前で言いあうと、子供はどちらが正しいのか迷い、混乱して、育っていきます。不信感を大人に抱くようになります。持統天皇の生涯を見ると、気の毒なくらい気が休まる生活がありません。現実は楽しいこと、幸せな事も沢山あったでしょうが、お母さんや従姉妹達、周囲の高官達の讒言、どれが正しいのか誤報なのかを識別していく苦労は並大抵ではなかったようです。相当の知恵者、腹のすわった女性だったようです。現代に生きる私たちも、大脳の働きが、このように、あたかも自分が経験したかのように意識化する仕組みがあることを十分注意して生きていかないと、自分の人生を狂わせる事が多いようです。愛し愛される事が人を...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
三才くらいまでの性格の原型は生涯影響を与える、というエリクソンの原則を軽蔑しないで、そんなものかなあ、程度に理解しておくと、却って自分の人生を素敵に創造していくことが出来ます。下記の命題9は難解ですが、一度形成された性格は、それに上乗せされていく傾向があり、意識化しておくと、嫌な性格を修正出来たり、無視したり、これからの自分の人生で無駄なストレスを蓄積しないようにしつつ生き抜く事が出来ます。一度出来た小さな核を消す事は不可能なので、その傾向さえ意識化しておけば、いくらでも自分の好きな性格を形成していくことは可能なのです。自分の生活環境は避ける事が難しく、過去を否定することなく、将来に向けての夢を育てていく楽しみを真剣に営んでいれば、人生、沢山の道があります。生きる喜びを最優先しつつ、かつ、その生きる喜びが...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
人の性格はその生活環境の中で形成されていきます。自分を振り返っても、親友を見ても、間違いなく、生活環境が人格を形成するという説は正しいと確信するこの頃です。エリクソンと言う学者の「性格形成論:テキスト:生き甲斐の心理学139頁」は、その通りだと感動して、日々、仕事に使用しています。性格形成理論完成に生涯を費やしたエリクソンという大学者に敬意を表します。さて持統天皇の、周囲の人々への不信感は相当深く、さもありなん、と思います。自分の父親が母方の祖父を殺し、周囲の政敵を殺戮する姿を見れば、子供心に人を信じて裏切られる恐ろしさを感じないほうが可笑しいくらいの環境です。日本の歴史のなかでもこの持統天皇の時代の毒殺、暗殺等の権力闘争は凄まじいものがあり、驚きの連続ですが、古代史として勉強していく楽しみはあります。人...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
身近な人の中に奇妙な行動をするなあ、と不気味に思う事例はありませんか?さてここからが思索の対象なのですが、本当に奇妙なのでしょうか?他者に奇妙に見えても、その人の心の底(内部的照合枠)を偏見なく傾聴してみないと判断は出来ないものです。例えば思春期のまだ知識も経験もない子供たちは親の奇妙な行動は実は子供の将来を配慮した愛の場合が多いのです。ただ知識と経験のない子供には見えないだけの話。これと同じ事が大人の場合にも沢山あります。持統天皇の奇妙な行動を理解する為に、持統天皇の和歌や歴史の背景を理解したうえで、持統天皇の内部的照合枠を思索していくと、生き抜くための必殺の行動であることが見えてきます。逞しい女性です。奇妙な現象だけを見て軽率な判断をする側が大きな失敗をする事例が沢山ありますので、もし、これからしかる...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
人生での夢が、その人を逞しくする場合もあれば、ノイローゼとなりその人を破滅させていく場合もあります。現実吟味力の問題です。持統天皇は一時は相当参ったようですが、厳しい現実を的確に判断しつつ、その夢を現実化させます。周囲に相当、優秀なブレインが沢山いたようです。特に藤原氏(明治時代までその氏は逞しく生き延びていきます。近衛という氏にしたり、その時代に相応しく分裂させつつ藤原の血を拡げます)の祖・鎌足の子・不比等の現実吟味力は天才です。この知恵と生命力は島国の知恵でなく中国の大陸の知恵のようです。良い悪いは視点にしないで、生き延びる力という視点で見て欲しのですが、私たちもこの生き延びる生命力を学習したいものです。生き抜く生命力、生きる喜びのような情動の強さは、その夢を燃やす現実的な能力と正比例するようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
人の情動は、その場の雰囲気に支配されますが、そればかりでなく、成育史上の理想にも支配されていきます。その場に流されながらも成育史上の理想、こうありたい、という熱い想いが咄嗟にその場の情動に上乗せされていくものです。あ、しまった、大人げない感情に流されてしまったと思うのが普通の人の人生です。藤原不比等との力関係の中で、どうも持統天皇はその情動に振り回され晩年は藤原氏にしてやられていく自分の人生に悔しい想いをしているようです。してやられた、と想いながら自死を選んだのか、毒殺されたのか、誰も知りませんが、古代史は不思議な想像を私を駆り立てます。下記命題の引用はテキスト「生き甲斐の心理学:140頁参照下さい」:命題6:情動は、前述のような目標指向的な行動をともない、かつ、一般的には、このような目標指向的な行動を促...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
自分を含めて、人間の行動は、基本的には、知覚されたままの場において、自分が、感じたままの要求を満足させようとします。自分はどんなに理性的な人間だ、と思っていても、謙遜に反省すると、この営みをしている事に気付きます。持統天皇の人生を見ていると、まさに、教科書通りの生き方をしています。自分の行動をもし理性だけでしていると考えている人がいたとしますと、その人の意識は少々問題が潜在しているでしょう。必ずいつか神経症的な身体症状が出てきます。学者に多い神経症です。理想で人を裁く人にも、この傾向があり、おつきあいしても楽しくありません。この命題5をしっかりと理解したうえで自他を「愛と許し」で許容していく人生を送らないと愛の孤独感に苛まれだすこととなりそうです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
人の生命力は何処を見て判断するかと言いますと厳しい現実を明るく爽やかに元気に生き抜いていく力で識別します。私もそうですが、多少の厳しさは経験と知識で強化されますが、物凄いストレスの時は我を失い元気をなくします。生身の人間はそんなものですから心配は不要ですが持統天皇は4才の頃、母方のおじい様の塩漬けの生首を見ているようですので、その衝撃は大変なものだ、と推察出来ます、この事件でお母さんは錯乱していきます。こんな辛い現実を体験しても逞しく生きていく持統天皇を支えたものは何だったのでしょう?色々の恐ろしい事件に巻き込まれながら権力を握らないと生き延びられない環境に居直り逞しくなります。基本的に権力を大事にする傾向と渇望は生涯変わりませし、どんどん強化していく歴史が垣間見られます。この傾向を意識していたか、無意識...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
諦めて自死を選択する人生もありますが、持統天皇は、そう簡単に自死は選びませんでした。藤原不比等という人物はなかなかの逞しい男性ですが、相反する立場があるにもかかわらず、持統天皇はこの男を利用し、利用されるのを意識しつつ、生き延びていきます。そのかけひきは一つの体制化された歴史全体の流れの中で、生き延びる可能性に反応して生き延びていきます。自分の理想を断念しないこの女傑の生きざまを倫理道徳の規準で裁く前に、生命力という視点で観察してみて下さい。簡単に自死を選ぶのは神様からの恩寵を無視する事にもなりかねない思想です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
人はそれぞれの成育史の中で育まれた理想像を所持していますし、それが意識、無意識の内に人生を左右しているのも、何となく知っているようです。子供の頃、仲良く遊んでいても、大人になり結婚し、立場が違うようになると、その理想像は厳然として所持していても(甥は可愛いし、大事にすべきである、という理念は生身の人間ならば当然、所持しています)、厳しい人生と利害得失がからむ公私の生活の、それぞれの緊迫した場面ともなれば、その場で知覚されるままのものに、反応するものです。こうして持統天皇も姉の息子(大津皇子)を追い込み悲劇の歴史が展開していきます。人はその場、その場に反応し、その知覚がその人の実存(riality)として対処され生き延びていくようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
人は優しい性質がありますので、とかく遠慮して、ついつい相手を立ててしまい、あとで悔いを残して、歯ぎしりしています。これはこれでしかたがないと思いますがストレスを感じて身体症状を出すまで遠慮するのは健全とはいえません。挙句の果てに入院などしては、かえって周囲の人々に迷惑をかけることとなります。持統天皇の生き方を見ていますと、ある時期は遠慮しますが、なかなかの大人物で夫君である天武天皇とともに壬申の乱を共に闘いぬくような女傑です。私は私、という生き方はとても重要な生き方です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
自分が生まれた年の歴史はその人の生涯に大きな影響を与えます。私は台湾でうまれましたが、その影響は良い意味でも悪い意味でも私の人生に大きな影響を与えています。皆様はいかがですか?その年の世界史、日本史を一度思索すると、今後生きていく上で、無駄なエネルギーを消耗せずにすむことがあります。私が誕生した年に2.26事件(陸軍将校が首相官邸を襲撃)がありますが持統天皇の誕生の時に大化の改新がありました。しかも自分の父親が関わっています。皆様も一度、自分の誕生の年に世界と日本で、どんな事件と歴史があるかを、楽しみながら調べておいて下さい。この社会環境を調べておくと案外、この嫌な性格は自分の努力がないから、そうなったのでなく社会環境のせいだ、と理解出来、イライラしなくなります。社会環境に由来する嫌な性格なのか、自分の怠...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
私達の勉強会では持統天皇の話題がしばしば出てきます。とても面白い天皇で、かつ、刺激的です。持統天皇の存在は現代の日本人の生き甲斐を支援していく上で、どうしても必要な勉強なのです。日本人のアイデンティティを思索するときに、とても大事な天皇なのです。これから暫く持統天皇を現代の日本人が幸福に生きていく為に考察していきます。視点は歴史ではなく生き甲斐の心理学の視点です。もののあわれ、汚れと禊、恥の文化、甘えの構造、わびとさび、幽玄美、この6つを生き甲斐の心理学で分析しつつ、現代人の生き甲斐を明るく元気に爽やかにしたい一念で書いてみます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
大部前の話ですが、しみじみ感動した思い出があります。人生では大勢の人々に教えられますが京都での録画撮りでのテレビディレクターの知恵と親切さには心から感謝しました。今までテレビの視聴者の心などは考えた事のない私でしたが(もともとテレビ出演は単発で2回経験はしましたが撮影で頭が熱くなりわけがわからない感じなので反省どころではありませんでした)、京都スタジオに月1度訪問し2-3回分録画していく大仕事でした。ディレクターは長年の経験から視聴者の心境をそれなりに熟知されていて、その経験に照らし合わせつつ私の専門用語を修正していくわけですが、私の世界ではその基礎用語を他の言葉に置き換えるとかえって理解が得られないと確信している領域で多少心の中で互いに火花が散ります。しかし互いに誠意をつくしていると互いが成長していくの...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
サムシンググレートの愛を信じると日常のストレス曲線が苦痛でなくなる現象が信仰の力です。ストレスは嫌なものではなく幸福への試練と解釈するのが信仰の力。ですから信じる者は強いわけです。さらに驚く現象があります。自分の死は一時の通過儀礼であって、そのあとは二度と死ぬ必要のない世界で永遠に幸福に生きていける、というのが信仰の世界ですから、この世で、どんな試練があっても平然と明るく爽やかに生き抜けます。この世に生きている時から既に自分は永遠につながっているんだ、と思えたら怖いものなしです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
DNAの勉強を進めていくと、そこに必ず宇宙創造の話題とともに遺伝子の複雑な設計者は誰か、というテーマが出てきます。神と定義する事が嫌いな人はサムシンググレートと仮称して哲学を進めないと先にいけません。そのサムシンググレートを宇宙の遥か遠い所に住んでいると思わないで人の身体に住んでいる三位一体の聖霊と考える神学者もいます。その聖霊と心の中で自由に語りあう習慣をつけると面白い現象が生まれてきます。つまり神との対話と呼ばれるものです。偉大な哲学者もこの対話をしながらイメージを拡げたりそのイメージを言語化したり、さらには具体的な行動や実験や調査に踏み切りながら成果を出し始めます。この手法を3Vの法則と呼んでいます。ひとつのことをイメージする、言語化する、行動する、この3つです。この法則は心理療法ではしばしば治療に...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
基本的な信頼感の無い人はいつまでも疑い深い人生、つまりいつも周囲をキョロキョロみながら生活するような人になってしまいます。基本的な信頼感を持てる人には友達が増えてくるし明るい気分になれます。そのようにこれと思う人や神仏を一度信頼してみると思わぬものが見えてきます。比較宗教学を勉強していくと、どんな宗教でも信じると見えてくるものがあるのが分かります。信じると愛が見えてくるのです。神様の愛、仏様の慈悲、色々の表現がありますが、要は人間サイトが信じることで平安感が心を満たす経験をするのです。この信じて感じる平安感の醍醐味が忘れられず、自然な形で信仰の力が芽生えてくると益々安心立命が図れるようになります。これが信じて見えてくるものの美しさです。大きな生きる喜びの一つです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
暗い日曜日が恐ろしいと嘆いている若者がいます。何だかシャンソンの主題のようですが暗い日曜日は困りもので何か憂鬱な気がかりがあるのでしょう。素敵な恋人とデートをしたいのですが、中々そのような友達が居ないので日曜日が怖いそうです。憂鬱の反対が幸福感なのですがこの心理療法上の関係式を知ると人は元気になります。一番困るのが憂鬱な自分を認めない人。欝もその人の生育史上構築された理想と現実のギャップから生まれますが現実に感じている欝を解消する為には、その理想の実現しかありません。現実吟味力を発揮してその理想を点検したり現実の解釈を変えたりして対処しても、それでも解消されない場合、無理をしてでも身辺に感謝すべき沢山の事柄を探す事が欝の解消に繋がります。もう一つは幸福の条件と幸福感は違いますので、その違いを考えるのです。...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
私の青春時代は混乱の極みでした。私ばかりでなく青春時代は自律神経とかホルモンの関係でどの文化圏の、いつの時代も大変難しい時期です。大人になり当時の日記を読みかえしその混乱感、錯乱に近い自分を回想するのも嫌で燃やした記憶があるくらいです。しかし臨床心理学者に感謝したいのは、この錯乱感・混乱感と統御感が相関関係にある心の仕組みを発見してくれた事です。混乱感と統御感は表と裏の関係にあるのです。荒海のような青春を乗り越えて自分の人生の使命、役割を意識させた仕事との出会いから私の人生は実に明るく爽やかに統合されていきました。役割感と使命感を人間が持つと生き甲斐を感じます。:自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
しばしば政治の世界で「三位一体」という言葉が使用されていますが、この思想はローマン・カトリツクで重要な神の概念として使用されている言葉です。宇宙の創造者である父、その子であるイエズス・キリスト、その二つのものの愛からほとばしりでる聖霊、この三位一体を言います。この聖霊はどんな人々にも注がれている愛そのものの息吹ですが、私はこの聖霊を信じていないと生きていけない人間です。飛行機事故の時も、海外での色々の暴動や危険な事件に遭遇した時も、この聖霊の働きを信じて生き抜いてきたので本当に有難い存在です。この聖霊の働きについてはきちんと神学を学んでみて下さい。とても勇気の出る思想です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
気がかりな事柄をノートに書き出す習慣があると人生が安定します。今の自分は幾つぐらいの気がかりを所持しているのだろうか?この疑問をノートに書き出すのです。それだけでもモヤモヤ感は半減していきます。患者さんの不安を聞き出していくと、そのすぐ裏側に平安感が存在しているのが分かります。例えばあの人は本当に自分を愛しているのだろうか?と悩んでいる時、その不安感をノートに書き出します。不安感は理想と現実のギャップですので、どうありたいのか、現実はどうなのかを書き出すと理想の領域に身勝手な想いが存在しているのに気づいたり、解釈に嫉妬や期待過剰があるのが分かったりすることもあります。この不安感と平安感は人生で一番大事な感情なのできちんと誠実に対応して生きていきましょう。人が幸福になるのも不幸になるのも、先ずはこの不安感と...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
豊かな感情は芸術家に必要ですし人類の宝物でもありますがその扱い方を誤りますと変人・奇人扱いにされ生きていくのが辛くなります。子供の頃は漫画や好きな本で夢の中をさ迷ってもあまり支障がありませんが大人になると豊かな五感ゆえに生きにくくなります。忙しい時、うっとりするような小説、冒険小説を読むと仕事に手がつかなくなるように多忙な仕事の時は精神を集中して事に当たらないと上手く遂行出来ないことを経験で知るにつけ、その折々の豊かな感情を敢えて見ないようにする知恵が身についてくるからです。ウイークデイは仕事人間でも休日の折などは好きな音楽や小説、絵画を楽しみ豊かな感情や想像力を枯渇させないようにしたいものです。人生では次から次へと困難に遭遇しますが、その折の解決へのシュミレーション、答えの探し方はこの平素の豊かな感情が...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
セルフコントロールで厄介なのが「感情」ですが、この感情がなくなると生き抜いていくエネルギーが激減していきます。感情がなくなることはありえませんが入院患者さんの表情は殆ど変化しません。人間の表情はその折々の感情を正直に表しますがこの感情を上手に取り扱うと実にイキイキと楽しく元気に生きて行く事ができます。その取り扱いを思索する前提条件は「感情には意味がある」という学説を大事にする必要があります。この学説はフロイドを源にしたものですがカールロジャースはほぼ真理として取り扱っています。学説をみるまでもなく古来からこの人間の感情には実に深い意味が隠されている事実を意識した小説、音楽、絵画、哲学が沢山存在していますが、自分の日常生活で生起する色々の感情を抑圧することなく、その湧き出した自分の感情の意味を暫く思索してい...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
どんな年齢でも生きていく「希望」は必要でこの希望を或人は何故持てないのでしょうか?その理由は人を信用出来ない生育史が遠因だと言われています。信じる範囲や程度は勉強しないと知性の欠落したような信じ方をしてしまいます。神様を信じるような信じ方で人を信頼すると、だいたい失望していきます。盲信と知性的な信頼力は全く違います。エリクソンはそのような臨床現象を観察しながら原型論を確立し0才から2才のころの体験を重視しています。お腹がすくと気配りのある母親なら適時、お乳を飲ませてくれ、かつ、おしめが汚れれば交換してくれ快適な環境を赤ちゃんに与えていきます。そんな優しいお母さんを赤ちゃんは信頼していきます。このような環境に赤ちゃん時代恵まれていないとしても、この原理に気づくと成長した大人でも希望の力を何かを信じることで確...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
解決方法は子供から高齢者まで同じなのですが60才を超えると絶望感が増えてくるのが自然なようです。これは時代、人種に関係なく大脳の仕組みとか免疫、分泌にも関係しているようなのです。自分の人格が修行出来ていないからとか知識教養が無いからだと解釈するのは軽率なようです。この年齢で絶望というテーマを十分思索しなさいと語りかけているようです。知恵が要求される年代ですが所詮もう遅いこともあり今までの人生を上手に解釈しつつ自分は自分で良かったのだと解釈するように天が促しているのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
中年を過ぎると精神的に危険な心の状態になります。しかも無意識に危険を自分から迎えいれていきます。何となく停滞していて、意欲がありません。それを意識化している人には救いがありますが無意識に五感と体感で停滞感があると騙されたり思わぬ災難が飛び込んできます。心理療法の原理からするとこの時期を綺麗に健康に乗り越える方法として「人のお世話」を誠実に愛情をもつて当たる事と言われています。利害打算があると成功しません。お節介もダメ、そうなると平素の哲学、思索の効用が表出してきます。この事例は何が本当の世話なのか?親切なのか?この問題に遭遇する「人生の時」を迎えているのです。エリクソンはこの微妙な難しい年齢を上手に説明しています。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
あまり明確に言葉にすると失礼なので静かに観察する必要があります。相手と会話している時、暖かく優しい眼差しでこの人は何の為に生きているのだろう、と観察してみて下さい。とても参考になります。この視点で相手を見ながら自分の人生を同時に考えるのです。そのコツなのですが(1)相手がまだ模索中の時、(2)既に明確に意識化している場合、会話の楽しみ方は相当違ってきます。この二点を確認しながら素敵な会話を楽しむのです。「何の為に生きているのか?」、この会話のやりとりはとても充実していて楽しいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
身辺には好きな人もいれば苦手な人もいます。面と向かって嫌悪感を赤裸々に表出する人間は未成熟な人と言われるのは当然としても大人になればあまり赤裸々に相手の人間への好き嫌いを表出するのは社会を混乱させていきます。むしろ嫌いな人間と遭遇した時は、何故、自分は相手を嫌うのか、その理由を発見する楽しみを持つと余裕のある人生を送る事が出来ます。何故でしょうか?案外、自分の性格、しかも自分が嫌う自分の性格を相手に見出す時、人は案外、相手を嫌うものです。そこに感情の転移現象があるのを知らないで生きていくと、大きな不幸を招く事があります。その理由を楽しく思索していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
親友、恋人、親子、いづれも親密な関係があればあるほど幸福感を感じます。しかし或種の人は何故か、親密な関係を避ける人がいます。昔、多分、親密だっただけに恐ろしい経験をしたか、意に反する苦々しい体験をしたせいでしょう。どんなに誠実に愛し合っても、その愛を受け入れるのが怖いとか、無意識に避ける傾向がある場合は治療の対象になる場合もあります。何故、親密性を恐れるのか、そこには人に言えない過去の体験があるようです。親密になりたいと願いながら親密を恐れる事例は微妙な領域なので慎重に対処する必要があるようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
思い込みが強く現実や真実が見えない人がいます。例えば青春時代はとかく親を嫌いますが重たい病気になったとき、その献身的な母親の愛情に触れてお母さんが大好きになった話は沢山あります。青春は親からみればハラハラものですが、その母親の良かれと思う忠告が面倒くさい青春、愛情の解釈が変わったわけです。体験の解釈を変えると世界が変わります。ですから病的な思い込みが人にはあるので時々自分の信念、思い込みをチェックする必要がありチェックすると心が益々自由になっていきます。地獄だったこの世が天国だったという人もいます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
日本の大学生時代に「おおぼら大会」というのがありました。一度、壇上に上がり演説を開始しましたが私も余りにも小さなほらしか演説出来ないので嫌になりかけていたところ、ヤジが飛び、ひっこめ、ひっこめ、と言われたので有難うと言いながら退場しました。優勝した人は後日、国連に入り大活躍しましたが大学生時代の理想を実現したその友人はまじめな理想家だったのでしょう。さて「自己の伝達」という研究課題があります。自分の思考・感情・行動を相手にきちんと伝達出来る人と出来ない人の事例が心理療法の対象となります。心で考えていた事がいつのまにか相手に伝達する時、反対のことをいってしまう自分を悩み相談にくる人がいます。この場合は病識があるので治療ですぐ治りますが、この病識が無いと案外難しいのです。病識が生まれるように治療していくのです...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
先ず神経症と精神病の大きな違いは人の感情の動きがある程度理解出来るか、相手の感情に関心があるか、の違いでしょう。本格的な精神病は相手の感情に無関心だったり、理解しようともしませんし、判断出来ないようです。感情は人間の大事な心ですが、その湧き出す感情の取り扱いいかんで人は身体症状が出てくるくらい悩みます。湧き出す感情が激しい芸術家はとかく病人扱いにされがちですが感情に正直なだけです。その人が所属するコミュニティでのセルフコントロールのあり方で個性か病理か、周囲に人々は発言しています。役人の世界と芸術家の世界ではこの判断は全く違います。湧き出す感情が「怒り」なのに意識が「喜び」などと言う人は病理だと私は識別していきます。湧き出す内容と意識と言葉に異状なほどの乖離があると私は治療の対象にしていきますが、その意識...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
職場や仕事上、陰口ならまあまあ我慢出来ますが、面とむかって真剣に、かつ陰湿に「あなたは変人だ!」と言われたらどうしますか?周囲に人は居るし、ここで沈黙を守れば明らかに敗北と屈辱となる場合、どうしたらいいでしょうか?喧嘩をするのも大人げないし。この問題について暫く思索します。世間の人々は「個性の美」と「病理」の違いは殆ど理解していませんし、自分以外の人が驚きの対象となる性格だという理由も知りません。個性なのか病理なのか平和の為にも勉強しておきましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答