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2019/07/09

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  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    一人になるのを恐れる人がいますが、これは生育史の関係でやむをえない現象です。しかし一人になるのは幸福感の前提条件なので修行して何とか一人が怖い、という現象を減らしていきましょう。森の中の散歩は友人と歩くのも楽しいのですが、ときどき一人で歩くと別な豊かさが湧いてきます。平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、生き甲斐を感じる孤独感はまずは健康な内向と言えます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    公式の柔道の大会で勝ったり、大学試験に合格したりした場合の勝利の快感は生涯の思い出ですが、喧嘩で勝利した快感はあまり楽しくなく、むしろ何となくじめじめした暗い感じです。この何となく暗い感情になる理由は<愛>の領域ではないからです。愛とは何かを思索する楽しみは人類永遠の課題ですので是非、皆様も考えてみてください。愛とは何か、人を大切にする、大事にする、愛するとは何かは答えが出ません。しかし深い研究課題です。勝利の快感は人類愛を離れたものからは絶対に感じられないものです。暗い快感は人をどんどんだめにしていきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    人間関係の中で何故、あんなにも過剰に内向してしまい自分を苦しめてしまったのか、過去の生育史を想うと沢山あります。周囲の全員が敵に見えてきたり、自分を愛している人が誰もいないように思えてきたり、色々です。人は何故、そのような精神状態になるのでしょうか?一番の原因は孤独感ですが、その孤独感に自分を追い込んでいく原因は大きく分けると二つあります。ひとつは挫折した場合、もう一つは自分の良心に何か恥ずべき事がある場合です。いくら友人が激励してくれても立ち直れません。この孤独感の原因はすべて自分にあります。自分の孤独感を癒してくれる確実なものは祈りの心境かもしれません。神仏に一人静かに祈りもとめる習慣は人生の宝物です。次は一人静かに心の中で<ありがとうございます>をすべてのものに向けてつぶやくこと、最後の最後に周囲の人を<...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    どんな場合でも相手を無意識に攻撃してしまうタイプもあれば、とかく病的にまで内向してしまうタイプもあります。ここでは良い、悪いの問題としてではなく、そうしないと心の平安が得られない人間のありようについて思索していきます。20歳を過ぎると<三つ子の魂、百までも>の諺ではありませんが、自分の性格を無理に修正する無駄な努力はやめたいものです。むしろその傾向を活かして自分と人の幸せを考えたいもの。攻撃的なタイプはそのエネルギーをどこに向けるか、自分で考えていく必要がありますが注意点はただ一つ<自己肯定、他者肯定>の攻撃をする事しかありません。例えば職場で、好きな人を虐める他者を一緒に反撃してあげるとか、好きな人が過剰に内向している場合は、寄り添って考えてあげるとか、いろいろあります。避けるべきは<自己肯定、他者否定>の攻...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    楽しい友人との出会いの場はまさに天国です。その場が天国だ、と言われても不満はありません。人は案外、<今、ここで>だけを見た場合、ここが天国だ、と解釈しても何の不満も無い世界だと断言するのを恐れているのかもしれません。この世は地獄だ、という場面も多いのですが平凡で普通の生活だと思っていた場面でも、解釈いかんでは天国と思える場面が沢山あります。解釈いかんでは天国に思える場面を先入観念からあえて無理に地獄だと解釈しているとすると実にもったいない気がします。素敵な友人と楽しんでいる時間をどう解釈するかは人間の自由なのですが森羅万象をどう解釈するかでこの世が天国ともなり地獄ともなるのは何故でしょう?考え方と解釈を変えると世界が変わります。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    <自分の良心への呵責>から人は神経をすり減らしていく傾向があります。私もあまり人の事は言えませんが人生のある時期、とても自分の良心に対して過剰に反応した為に生きるのが辛い時期がありました。人はこうして段々と器が大きくなるのはわかりますが辛いものは辛いのです。罪悪感は人類の大きな課題ですがこの解決は哲学では無理なようです。哲学は役には立ちますが私の場合は自分の死後の魂に深く関係している為にどうしても信仰を求めていかざるを得ません。この世とあの世の問題となると宗教の領域に入ります。自分の罪や良心の呵責、自分の足りない部分からの苦しみを解決する思想は万とありましたが単純明快な思想は<十字架の贖罪と復活の思想>でした。さらには<信じて見えてくるもの、見えなくなうもの>という比較宗教学との出会いが無ければ私は病院に入って...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    会った途端に恋をしていく男女は成育史の関係で人に言えない色々の事情を抱えていますので非難できません。人は誰でも愛の孤独感にさいなまれています。しかも人間の本質は<不安>なので少しでも苦しいことに遭遇すると共に助け合って生きていける異性を求めるようにできています。心と身体は永遠に何かを求め続けます。自分の持つ魂が神様の愛に触れるまでそうさせるようです。この傾向は人類の歴史を見るとすぐわかります。魂は完全な愛を求めているとカトリツク神学は主張していますが、それも人々がこの世でも幸せに生きていける為のノウハウでしょう。今度こそ間違いのない愛との出会いだと判断する前に心の中の不安感を恐れずに見つめてみましょう。すぐ愛してしまう自分の傾向には根の深い孤独感がありますが、その孤独感は非常に大事なもので、どうなればこの孤独感...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    会った途端に恋をしていく男女は成育史の関係で人に言えない色々の事情を抱えていますので非難できません。人は誰でも愛の孤独感にさいなまれています。しかも人間の本質は<不安>なので少しでも苦しいことに遭遇すると共に助け合って生きていける異性を求めるようにできています。心と身体は永遠に何かを求め続けます。自分の持つ魂が神様の愛に触れるまでそうさせるようです。この傾向は人類の歴史を見るとすぐわかります。魂は完全な愛を求めているとカトリツク神学は主張していますが、それも人々がこの世でも幸せに生きていける為のノウハウでしょう。今度こそ間違いのない愛との出会いだと判断する前に心の中の不安感を恐れずに見つめてみましょう。すぐ愛してしまう自分の傾向には根の深い孤独感がありますが、その孤独感は非常に大事なもので、どうなればこの孤独感...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    人間業の一番辛いところですが蓄積したストレス(不安、怒り、鬱)に気づいていないと思わぬところで大爆発が起きてしまい悔いを残す失敗をしでかします。ですからストレスが貯まってきたなあ、と理性レベルでも必要ですが、特に五感と体感で感じる訓練をする必要があります。五感と体感で分かる、と簡単に書きましたが感受性訓練を生涯してきても未だに掴めない事例があるのです。特に理想や夢に燃えている時とか、片思いの恋人が出来たとか、何かの慾に心が向いている時は、冷静な五感と体感が働かないのです。このところ、猛暑の連続、気付いた時は意識喪失、では遅すぎます。しばらく過剰反応について思索していきますが過剰反応をすると間違いなく人生が変な方向に流れますので、どうしたら事前に防げるか、自分の成育史を中心に考えていきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    人は非常に気が弱い動物で一見逞しそうでも内心は案外びくびくしています。人は魂を所持していてその魂は欧米の比較宗教学の定義を借りれば魂は愛そのものと言われています。戦争をしている国があっても心と身体は戦争をしているのですが魂は愛しあっているという定義があります。ですから戦争中はその関連国の人々は大きなストレスが蓄積しています、つまり魂は愛し合いたいのに心と身体が憎悪に渦巻いているので身体症状が重症化されていきます。<魂>と<心と身体>の戦いは人を破壊させていきます。愛し合う世界以外に人の心の平安感はあり得ません。もし反撃すべきものがあるとするとそれは正しい自己分析をしてみて魂と心と身体が分離していないかどうか検証しもし心と身体が人を攻撃してばかりいる傾向の自分に気づいたら自分の心と身体に反撃開始をして愛である魂を...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    神様の愛を信じている人は不思議な事に全知全能の神様に始終怒りをぶつけ爆発しているようです。つまり日常生活の文句を周囲の人に言わないで直接神様にぶつぶつ文句をいっているのです。その信仰者のイメージは自分の文句をにこやかにほほ笑んで聴いている神様のイメージがあるので何でも言えるようです。その代わり時々膝まづいて己の至らなさを胸を叩きながらお詫びしているようです。ですから案外、心にはストレスが貯まりません。下手に心の狭い恋人に文句を言って恐ろしい反撃にあうよりは、大好きな神様に安心してぶつぶつ言う習慣がついたのでしょう。そうすると平素、文句タラららの恋人が時に優しいまなざしや言葉を自分にかけてくれると涙が出るほど感動して大喜びします。信仰者の心は想像以上に平安感に満たされているようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    本当に深く愛し愛されていた男女が驚くべき憎しみに変身し悲劇が起きる事件は日常茶飯事です。愛と憎しみは紙一重ですので要注意の問題ですが、これとても不安感を賢く語り合い大爆発する前に愛の確認をしあいながら生きていく必要があります。他民族の欧米で毎日のように<愛している>と確認しあうのは日本人には信じがたい光景ですがこれが人間の本質をついた賢い習慣と言えるでしょう。人間の本質は不安だという真理を人は案外知りませんので日本人と言えども愛しているという意思確認は必要です。特に若い人々はこの愛の確認を毎日していく必要があるようです。あーめんどくさい、と言う人は、相手の心には大爆発が迫っているかもしれません。相手に気味悪いなんて言われない程度に愛の表示は上手になさいませ。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    平素嫌な人だなあと感じていた、まさにその人から人前で馬鹿にされたり明らかに辱めを受けたり嫌みをされた場合、平素、にこにこして平然と対応していたのに、その時ばかりは周囲を考えずに反撃した事があります。しかも徹底的にたたきのめした経験があります。人生に一つか二つですが私自身も信用を失い相手も再起不能でした。この苦々しい体験の後は、過剰反撃はしないことにしました。我慢に我慢の忍の一字の生活をしていると大爆発するのが人間です。蒸気を出す小さな穴がやかんにあいていますが、蒸気は少なく出し続けたほうが安全で平穏なようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    平素嫌な人だなあと感じていた、まさにその人から人前で馬鹿にされたり明らかに辱めを受けたり嫌みをされた場合、平素、にこにこして平然と対応していたのに、その時ばかりは周囲を考えずに反撃した事があります。しかも徹底的にたたきのめした経験があります。人生に一つか二つですが私自身も信用を失い相手も再起不能でした。この苦々しい体験の後は、過剰反撃はしないことにしました。我慢に我慢の忍の一字の生活をしていると大爆発するのが人間です。蒸気を出す小さな穴がやかんにあいていますが、蒸気は少なく出し続けたほうが安全で平穏なようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    フロイドやユングが14の防衛機制を発表してから沢山の神学者はこのテーマを考えました。約80億の人類が持つ劣等感の原因は全て違いますので、対応の方法もそれぞれ違います。劣等感は悪いものではなく必要なものですから解釈さえ間違えなければ人をより幸せにしてくれる大きなエネルギーとなります。この劣等感を解消する為には人さえ殺してしまう事例も沢山あるくらいです。さて自分に応用する秘訣は(1)自分は何の為に生きているのか(2)自分の生き甲斐は何か(3)自分は自分の魂、成育史(心)、身体を大事にしているか、この3つに関係する劣等感なら真剣に模索し、これ以外の劣等感は低次元のものなので無視しましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    仕事の上でも個人の生活での上でも、或人の公私の行動が全て、人類の平和構築と人々への幸せ構築へとつながったら、その人の人生は世界から賛美される事でしょう。例えばマザーテレサはその一人かもしれません。ひるがえって私の行動も、仕事でも個人生活でも自分の生き甲斐追及が周囲の人々の幸せづくりに役立ったら、何と幸せだろう、とも思いますし、そうありたい、と常日頃思います。今までの自分の人生でどれだけ人々に役立つ事をしてきたかを思うと反省しきりですが、これからは残された人生を具体的にどう行動したら地球の平和構築に役立つか真剣に考えてみたくなりました。どこまでやれるか、先ずは身近なところからやつてみよう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    昔<あーあ、ありがたや、ありがたや>と言う流行歌がありました。とても面白い曲でしたが、欧米の心理療法の世界でNarcissisticPersonalityDsiordersの患者さんに適応する治療方法の一つです。自己愛に病理がある場合、色々と難しい治療をするのですが、THANKSTHERAPYという手法は、患者さんになんでも有難い、有難いと言わせる治療です。ご飯をいただく時は食べられる事を感謝する、電車に乗り時は、電車を製造した人に感謝し車掌さん運転手さんにも感謝する、お気入りの音楽を聴く時は作曲家と演奏家に感謝する、とまあ、なんでもありがたや、ありがたや、と言わせる習慣をつけさせる治療をすると非常に効果が出る場合があります。劣等感や自己愛の病理が何故か自然に消滅していくのです。一度気楽に心の中で試みてみて下さ...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    傲慢な人間ほど人に嫌われます。劣等感は人を謙遜にしますが病的な劣等感だけは持ちたくありません。なんらかの病的な劣等感を持つと人は孤独になり周囲の人に対して親密性を感じなくなります。猛烈な孤独感を感じたり、人に対して親密感を感じない時は、その原因は自分の劣等感が原因だ、と判断して間違いないでしょう。そんな時の解決方法はます自分の周囲の人々(職場、家庭、人間関係、友達)を見直しながら、改めて周囲の人々を大事にしてみると案外簡単に劣等感がなくなり気にしなくなり暖かい雰囲気で日々を送れるようになります。愛と親密性と孤独感は三位一体の関係にあります。周囲の人々を大切にする人生観の確立が一番重要なようです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    反動形成の代表的な現象の一つが<劣等感の強い人ほど威張る傾向がある>という統計です。人は自由に生きる権利がありますから大いに威張っていいのですが、世間が段々と狭められるのを覚悟する必要があります。健全な劣等感と病的な劣等感を識別する勉強をすると人はこの劣等感の世界から解放されて、のびのびと爽やかに明るく生きていくことが出来ます。学歴、能力、財産の有無、このあたりに固執してしまうと人生、とかくぎすぎすしていきます。こんな事はどうでもいい、と思えるようになると解放されていきます。自分は何の為に生きているのか、自分の生き甲斐は何か、自分は自分の魂、成育史(心)、身体を大事にしているか、この3つを考えだすと、劣等感がいかに馬鹿馬鹿しいものかが分かります。劣等感を上手に利用する方法を思索します。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    神様は何故、人間の心の仕組みの一つとして<反動形成>という営みを与えたのでしょうか?<泣き寝入り>をするのも人間の選択の一つですが、その内容によっては生涯、負け犬のような辛い思い出、心の傷になつています。それが原因で生涯、自分は駄目人間だ、と思いこんでしまう人がいるくらいです。猜疑心、挫折感、劣等感は人を駄目にしていきますが、その危険な状態を防ぐのがこの反動形成です。無意識の反動形成は危険ですが、意識して反動形成を行い、泣き寝入りは止めましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    <幸福を恐れる人々>という心理療法上の理論を見ると多くの人々が反論してきます。しかしこれは事実なのでやむをえない言葉です。14の防衛機制を何故、大学で勉強する必要があるか、といいますと<無意識の意識化>が最大の治療目標だ、という事を勉強させる為にです。人の現実は変わりませんが自分の<思考、感情、行動>の傾向を意識しただけで森羅万象の解釈が180度変換されてしまうのです。無意識に行動したり、無意識に同じ思考傾向になつていたりしている自分を意識化、知覚すると世界が変わるのです。誰でも幸福になりたいと願っていますが、自分から自分を不幸にすべくある種の言動を吐いている、そんな自分に気づきません。平和、幸福は共存共栄から生まれます。自分の<思考、感情、行動>が平和共存の範囲を逸脱している人々を心理学では<幸福を恐れる人々...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    素直に物事に対応出来ないひねくれ者も案外沢山います。人の言葉に必ずケチをつけ批判し素直に喜ばない人に出合うと哀しくなります。しかし成育史を聞いていくと、なるほどなあ、と思います。喜怒哀楽が素直ではいられない複雑な環境で生き抜いてきたからでしょうか、猜疑心、挫折感、劣等感、不安感の固まりのような精神状態なのです。しかし何かの契機で非常に明るく素直に人の言動を受け止め、のびのびと生きていけるようになる場合もあります。その最初の契機は愛との出会いが多いようです。複雑怪奇な人間が誠実な人の愛に触れると、その中から色々の気づきが生まれ変身していく姿は神秘的ですが、神仏の恩寵はどんな場合でも働くので当然かもしれません。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    成育史の関係で何となく幸福になりそうだとあえて自分を不幸にしそうな言動に無意識に動き出す人がいます。無意識の反動形成なのでその心の傾向を意識しないかぎり生涯、この不幸な言動をしてしまいます。幼い頃、幸せな日々を送っていたのに両親が突然交通事故で死亡してしまったような場合、残された幼い子供は幸せな雰囲気を無意識に恐れだす場合があるのです。それと同じように不幸な雰囲気をちらりとでも感じると問題を正面から見据えてその解決の為に戦う努力をしないうちに、いつも逃避ばかりする弱い人間になつていきます。このように幸福感、不幸感の取り扱いには十分気をつけて生きていきましょう。戦う時は堂々と戦い、幸福な時はじっくりと味わう事が重要。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    今日から防衛機制の<反動形成>に入ります。防衛機制は悪い働きではありません。人間が生きていくのに必要な作用ですが、今、自分は反動形成をしているなあ、と意識すれば人生を棒に振るような愚かな結果にはなりません。過剰反応の一つですのでこの深層での心の原理を意識するだけでいいでしょう。これから暫く、この反動形成について思索します。自分の心を安定させる為にaという刺激を受けると思わずbという反応を心ならずもしてしまう、反動しておかないと心が不安定になる、反動形成をしないで泣き寝入りすると生涯心の不満材料を貯めてしまうので反動形成を上手に応用しながら楽しく明るく元気に生きていきましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    人の誠実な愛情に気づかない人は悲劇的です。心理療法では先ずは自己愛パースナリテイ障害かどうかを調べます。その次に(1)ストレス曲線が正常かどうか(2)幸福曲線が正常かどうか(3)プロセススケールがどのあたりか(4)思考、感情、行動が正常か異常か(5)アイデンティティの統合に病的なゆらめきがないか(6)14の防衛機制が正常か(7)現実吟味力が正常か(8)何の為にいきているのか、生き甲斐は何か、自分の魂、成育史(心)、身体を大事にしているか、以上8つの領域を時間をかけてゆっくりと対処していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    久しぶりにDVD<嵐が丘>を見ました。だいぶ以前見たのですが歳月の流れが解釈を変化させ、かつ感受性も違っていました。社会の慣習や文化の違いもあるのでしょうが本当に愛し合っている男女の切なさがひしひしと私の魂をゆさぶりました。特に<私はこんなにあなたを愛しているのに、あなたは私を見てもくれない、ほんの少しでもいいから私を見て>という女性の叫びは本当に可哀そう、女性をもてあそぶ男の罪深さを感じました。愛の無い結婚、見せかけの友情や偽善、感情と理性の投影という現象を知らない悲劇、感情の転移、人間そのもののありようを問い続ける名作です。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    どんなに愛してもその愛に気づかない原因の一つに<劣等感>があります。自分は学歴がない、自分は嫌な人間で救いようがない駄目人間だ、などなど。かたや堂々としていてさぞかし輝かしい経歴の持ち主だろうなあ、と感じても経済的に貧しい環境に育ち学歴は無いけれども知識、経験、お人柄の素晴らしい人物もいます。この違いはただ一つ、こだわりの無い人生観を持ち、心の世界が自由で、意欲満々、好奇心旺盛、健康で明るい人です。<人は考えた通りの人間になる>という諺は真理。謙遜な人を観察すると<傲慢とか謙遜とかを思考の対象にしていない>人物が大半で礼儀正しい、人を大事にする、という簡単な人生観の持ち主です。傲慢と謙遜を考えた後、もう馬鹿馬鹿しくなり、自然にのびのびと明るく生きようと考えた人が社会からみると謙遜に見えるのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    <愛している>という言葉の情報なくして、その愛を信じるのは愚かなことのようです。特に<察する>ことを要求する文化圏はややこしくなります。察するという営みは文学の世界では優美、優雅につながりますが、こと人間関係、国際関係、政治関係、組織の中では<愛しています、大事にしています>という情報をこちらが発していないのに<愛、親切>を要求する人は大きな過ち、不親切、信頼を失います。欧米の文化には多種類の文化圏人間が混在しているので常に<愛しています>を発信し、私はあなたの敵ではないとスマイルを連発しないと和が保てません。愛を発信し続ける必要があります。また信仰を得る場合でも神様のほうが先に人類を愛していて、人間が神様を愛したから神様がそれに応じて人間を愛するののだ、と誤解していると永久に信仰は得られません。基礎知識の無い...自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    投影現象で一番重要な問題は相手の愛を感じとれなくなる事例でしょう。極端なケースとしては自己愛パースナリテイ障害という心の病気がありますが難しいので、ここでは日常生活で散見出来る事例を思索していきます。A君は親、兄弟、友人の愛情に恵まれ、楽しい日々を送ってきたのに、高校時代に陰湿ないじめに遭い、以来、何となく人嫌いになり、大学に入ってもその心の傷から人の愛を感じなくなりました。ご縁があり洗礼を受け信仰生活に恵まれましたが何故か神仏の愛がわからない、と悩んでいます。神仏の愛ばかりでなくせっかく生まれた素敵な恋人の、ふとした折の優しい愛も感じない、と悩みだすA君です。暫くこの愛を感じられない悩みについて思索していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    自分の心の世界をいつも明るく爽やかに保持しておくと世界が輝いて見えてきますが、自分の心がいつも暗く憂鬱ですと世界も暗く憂鬱に見えてきます。暗い心を長らく保持しているといつのまにか<あいつは貧乏神だ>とあだ名がつき、人々が離れていきます。とかく世間は暗いので誰でも暗い人を嫌います。森羅万象をどう受け止めて生きていくか、どう解釈するかはその人の自由なので、出来れば森羅万象を明るく解釈出来るよう修行して生きていきましょう。そうすれば投影を恐れる必要はありません、何故ならいつ自分の心が投影されても明るいものしか投影していかないからです。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

    密かに好意を感じている相手がいます。その相手が自分に対して好意を軽く表現しただけなのに、こちらが勝手に過剰反応をしてしまい、何と熱い恋を自分にしているんだろう、と勘違いする事例が案外多いようです。微妙な心の世界なのですが、友情も愛情も、もともと少しずつ熟していく世界なので、その熱差が人生の喜劇、悲劇、誤解を生んでいきます。ここが人生での楽しい場面でもありますが、投影という防衛機制の作用が人間にはあります。<あれ何だか変だなあ>と思う現象に触れたら相手を非難する前にこの自分サイドの投影現象という事を少し意識すると正しい現実が見えてきます。自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

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