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2019/06/16

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  • ホムダワケの帰還

    神功皇后の自伝 21 「母上!ただいま戻りました!」 「おお、ホムダワケ・・・大きくなりましたね!こんなに立派になって・・・!」 そう、その日、我が皇子ホムダワケが角鹿(つぬが)から帰ってきたのである。稚児姿だったホムダワケは、それからも成長を重ね、今では立派な若者になっていた。 わたしは成長したわが皇子を祝い酒で出迎えた。 その祝いの席で、わたしは歌を詠んだのである。 酒の神の 祝い酒 常世の国に 鎮座なる 現世にては 磐座の スクナビコナの 祝い酒 さあいただこう 祝い酒 これにホムダワケにかわって建内宿祢が答えて歌を詠んだ 神が醸した この酒は 鼓を樽に 立てかけて 歌いながら 醸したる…

  • 名の交換

    神功皇后の自伝 20 オシクマの反乱も落ち着き、わたしは皇子のホムダワケ、建内宿祢(たけうちすくね)をはじめとする家臣らとともに大和に帰ってきた。 大和の民は、朝鮮を平定して帰ってきた我々を大歓迎で迎えてくれた。 そして十数年の時が経った。ホムダワケは立派な稚児に成長していた。 そんなある日、武内宿祢はホムダワケを連れて、近江・若狭を経て、高志の国の手前にある角鹿(つぬが)まで旅に出ていた。旅の目的は禊(みそぎ)である。 敵を欺くためとはいえ、ホムダワケは死者の喪船に乗せられた。なのでホムダワケには死者の穢れがまとわりついており、これを禊で清める必要があった。 ホムダワケが長旅に耐えられるだけ…

  • 反乱軍の最期

    神功皇后の自伝 19 港に停船していたわたしの元に、建内宿祢(たけうちのすくね)が戻ってきたのは、それからだいぶたってからのことだった。 武内宿祢は戦況をわたしに報告する。それによると・・ 建内宿祢は逃げるオシクマの軍を追って、山代まで追い詰めた。しかしそこで、急を聞いたオシクマ臣下のイサヒが、援軍を率いて駆けつけてきたのだ。 両軍は山代で向かい合って対峙したまま、膠着状態に陥った。 そのとき、建内宿祢は策略を用いることにした。 「オキナガタラシヒメさまは急に薨去された。こうなっては争っても仕方ないので講和したい」 と敵軍に申し入れたのだ。 オシクマとイサヒはこれに見事に騙された。兵たちが武装…

  • 襲ってきたオシクマ

    神功皇后の自伝 18 わたしはホムダワケが薨去したという偽りの情報を流し、喪船を大和に向けて筑紫から出港させた。 わたしとホムダワケは、その喪船に乗り込んでいたのである。 喪船は瀬戸内海を順調に航行し、難波の津に入った。そして桟橋に接岸した・・・そのときであった! ぴゅわ~あ~ん 甲高い鏑矢の飛ぶ音が響き渡った!同時に兵が刀を抜いて斬りこんできたのである。 「タケウチ、きましたね!」 「はい、あれは弟のオシクマが率いる兵と思われます。オキナガタラシヒメさま、反撃、行きますよ・・・ やれ!!」 建内宿祢(たけうちのすくね)の号令の元、喪船の中で待ち構えていた兵士から一斉に矢が放たれた! 至近距離…

  • 不穏なうわさ

    神功皇后の自伝 17 わたしは新羅から筑紫に帰還した後、そのまま詞志比宮に滞在して三韓の統治をおこなっていた。しかしその足固めもほぼ終わったので、大和に戻ることになった。 しかし大和に戻ろうとするときのことである。重臣の建内宿祢(たけうちすくね)がわたしの耳に入れておきたいことがある、と執務室を訪ねてきたのだ。 「タケウチ、何事ですか?」 「オキナガタラシヒメさま、実は、大和で不穏な動きがあるとのうわさがございます」 「うわさとは?・・・」 「はい、実は、カゴサカさまとオシクマさまの兄弟が、生まれたばかりのホムダワケを亡き者にして自分たちで天下を取ろうと画策しているそうでございます」 「え、カ…

  • いきなり鮎釣り

    神功皇后の自伝 16 わたしは三韓の征伐を終えて筑紫に帰り、皇子のホムダワケを出産した。 その後もしばらくわたしは筑紫に滞在していた。産後でもあり、大和への長旅はつらいものがあった。 それに、征服したばかりの三韓についての統治も行わなければならなかった。そのためには大和に帰るより、しばらく筑紫に滞在したほうが政務を行う上で都合がよかったのである。 そしてそのまま冬を越し、4月になった温かい日のことであった。 わたしは末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に巡行に来ていた。そこでもわたしは民の大歓迎を受けていた。 そんなおり、わたしは玉島川のほとりで昼食をとっていた。降り注ぐ春の日差…

  • 皇子が生まれる

    神功皇后の自伝 15 新羅をはじめ、高麗・百済の三国は朝廷の臣下となり、日本の属国となった。 そしてわが艦隊は、日本に帰っていった。 ところでわたしは、先にも申し上げた通り、この時すでに亡き夫の子を懐妊していたのだ。それを、丸い石を帯に巻いて腹にあてて、生まれそうになるのを鎮めていたのだ。 艦隊は玄界灘を再び渡り、筑紫の那の津に帰り着いた。そして筑紫の地で、帯をほどいて石を外し、その願を説いたのである。 そして筑紫の地で生まれたのである。皇子のホムダワケである。 ホムダワケが生まれた地は、その後宇美と呼ばれているようだ。 わたしの腹に巻いて皇子が生まれるのを鎮めていた石は、筑紫の伊斗村に祠を作…

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